短編
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ジュー、というフライパンの調理音が聞こえてくると同時に、香ばしい匂いが部屋の中に広がる。
そのまま、何かを炒める音が聞こえて、しばらくすると、洗い流す水音、そして律動的に刻まれる軽やかな音が響く。
刻んだり炒めたり、一人で調理しているのかと思うほど、同時並行で奏られる音に、隠神はソファで寝そべりながら、ちらりと様子を伺った。
柔らかな曲線を描いた小さな背中は、鼻歌を口ずさみながら、楽しそうに調理を続けている。
その両手は、背中越しでも忙しなく動いているのがわかって、隠神はその姿に暫く見惚れていた。
やわらかで平凡で得難く、かけがえのない日常。
それを象徴するような彼女の姿が、隠神は好きだった。
そういうと彼女は、はにかんだような笑顔で、恥ずかしいのであまり見ないでください、と照れるけれど。
それでも、そんな彼女の後ろ姿はどれだけ見ても飽きることはなかった。
「今日は洋食にしてみました。」
いつの間にか時間が経ったのだろうか、名前は湯気の上がる皿を運びながら、彼にそう言って笑いかける。
品数が少ないかもしれませんけれど、と彼女は少し申し訳なさそうだ。
いやいや、作ってくれてありがとう、と彼は慌てたように腰を上げて席を立った。
ミートパスタと野菜のサラダとかぼちゃスープ。
テーブルの上に並んだ料理を覗くと、どれも美味しそうな匂いが立ち込めていて、隠神は思わず唾を飲み込んだ。
今日も美味しそうだな、という何気ない感嘆が漏れる。
「隠神さんがいらっしゃると事前にわかったら、もう少し用意できたんですが」
お口に合わなかったら言ってくださいね、と尚も心配そうに見つめる名前に隠神は、大袈裟さなくらいに手を振った。
「いやいや、すごく美味しそうだよ、」
食べていい?と彼女を見ると、名前は、はい、と無邪気に笑う。
その柔らかな笑顔に、胸が詰まるほどの幸福感を覚えて、隠神は照れたように頬をかいて目を逸らした。
名前の料理は、期待通り、というか、いつもと変わらず美味しかった。
外食やコンビニでは決して再現できない、ほかほかと温かくて心休まるような優しい味。
パスタの食感も味も良くて、具材がぎっしり入っているのが、健康的というか食べ応えがあるというか。
思わず、箸を休めることなく食べ続けていると、ふと、優しげに微笑む彼女と目が合う。
「ゆっくり、食べてくださいね、」
彼と視線を合わせると、名前は、なお一層嬉しそうに顔を綻ばせた。
彼女の笑顔を直視して、隠神はその一瞬、動悸が速くなるのを感じる。
慌てて視線をすらりと逸らして、湯呑みを持つ。
それから、気持ちを落ち着けるようにゆっくりと、緑茶を口に含んで飲み込んだ。
名前とともにいると必ず付随する、どうしようもない胸の疼き。
自身の気質のこともあってか、異性と接する経験は、それなりに多い方かと自覚はしているけれど、それでも、こういう感情を抱くことはあまりなかった。
否、ほとんど皆無と言ってもいい。
いつもなら、平常心を保ったままに、その時の気分でゆらりとかわせていた筈の事が、彼女と一緒にいるだけで、やけに酷く胸が揺さぶられるような、甘い疼きを覚えてしまう。
相手のことなどほとんど気にかけたことなどなかったというのに、彼女のことになると、些細なことでも頭を掠めて不安になる。
相手の眼差しに、こんなにも一喜一憂することなんてなかった筈なのに。
どうして彼女はこんなにも。
料理をすっかり食べてしまうと、名前は安心したように笑って、お口にあったのならよかったです、と呟いた。
それから、すっと席を立って片付けようとするので、隠神は慌てて声を掛ける。
「いいよ、洗い物は俺がやるから、」
普段ならそんな殊勝なことは言わないけれど、名前に対してはそういう言葉がすんなりと出た。
名前がいつも忙しなく動いているからかもしれない、少しは休んでもいいのに、と内心不安ではあったのだ。
「え、そんな、申し訳ないですよ。」
せっかく隠神さんにきていただいているのに、と名前は遠慮がちに呟く。
「いや、こっちこそ、毎回押しかけてるんだし、そのくらいのことはさせてもらわないと。」
尚も、そう言って食い下がると、名前は驚いたように顔を上げて、そんなこと、と呟いた。
「押しかけるだなんて、そんなこと、いえ、あの、」
思いの外大きな声が出てしまったのか、名前は少し恥ずかしそうに手で口を覆う。
それから、俯きかけていた頭を、意を決したように上げて、隠神の瞳を、控えめに見つめた。
怪訝そうにした隠神に、一瞬たじろいだように目線を揺らした後、ええと、と呟く。
…来ていただけて、いつも、とても、嬉しいんです。
だから、ゆっくりしていただきたいんです。
名前は小さな声で呟くと、そのまま困ったように、はにかんだ。
どこか赤面したような彼女の様子に、隠神は、こっちも恥ずかしくなるような気がして、慌てて大きく咳払いをする。
「いや、だからこそ、だよ。」
いいか、とでき得る限り平生さを装って、名前の瞳を覗き込む。
「だからこそ、気兼ねなくまた来れるように、手伝わせて。」
ね、と念押しするように笑いかけると、彼女は驚いたように目を見開く。
それから、数歩だけ後ろに下がると、恥ずかしそうに唇をかんでから、じゃあ、と遠慮がちに呟いた。
「ありがとうございます。」
助かります、と名前は申し訳なさそうに頭を下げて、ようやく席に戻った。
よし、と満足げに呟く隠神の様子を目で追いながら、名前はそのまま両手を頬にあてて惚けたように嘆息する。
それから、やっぱり冷たいお茶にします。と冷蔵庫を開けて氷を持ち出していた。
仕事を取り上げてもなお、落ち着かないように動き回る彼女の姿は、少し滑稽で隠神は微笑ましく思う。
「あ、そういえば、」
忘れていました、と彼女は何かを思い出すように席を立つ。
突然聞こえた彼女の声を不思議に思って振り返ると、彼女は椅子にかけていた何かの赤い布を手にとったところだった。
「これ、使ってください。」
はい。と、彼女は大胆にも、おもむろに彼の腰に手を回して、後ろにしゃがむ。
突然の至近距離の彼女の行動に、隠神は困惑して、驚いたように息を呑んだ。
彼女の行動はとても思慮深いわりに、時に酷く大胆だ。
けれど、全く嫌な気はしなくて、むしろ、心のどこかで嬉しさも感じてしまうからタチが悪い。
胸の奥底が掴まれるような甘い感情に酔いしれてしまっては本末転倒だというのに。
「…エプロン?」
「はい、面倒だと思って使っていなかったんですけど、使ってみると意外に機能的で。」
是非試してみてください、と、名前は自慢げに笑う。
赤地に白い水玉模様の可愛らしいデザインで、隠神はほんの少しだけ怪訝に思う。
「買ったの?」
「いいえ、貰ったんです。使ってみると案外いいよって。」
「へえ、」
そうなんだ、と彼は何気なく呟いて、けれど、内心やっぱりな、と苦笑した。
柄が名前の趣味に合わないのではという憶測が当たって、優越感に浸りたいだけの表れに過ぎないのだろう。
それから、かすかに、ほんの微かに、鼻を掠める独特の匂いを訝しく思う。
「ねえ、これ、いつ貰ったの?」
「え?、ええと、昨日? いや、一昨日かもしれません」
でも最近もらったものですよ、と彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうか、しましたか?」
「いや、」
なんでもない、と不思議そうにする彼女に笑いかけながら、隠神は、ほんの少し、眉をひそめた。
ある一つの予感がよぎって、けれどそんな訳はないだろうと偶然で否定しようと心に決める。
自分はおそらく心配しすぎなのだろう。
「でも、なんだか不思議な人でした。」
とにかく眼光が鋭くて、カタギの人じゃないみたいな雰囲気を漂わせているんですけど、とても親切で。言葉遣いは特徴的でしたけど、強面ながら底知れないミステリアスな雰囲気が結構人気があったみたいです。料理とか家事とかのお話が弾んで、とても楽しい人でした。
思い出すように、ふふっと彼女は笑みを滲ませる。
「そういえば、色々頂き物をしたのでお返しをお送りしなきゃと思っているんですけど、思いつかなくて。」
「そう…なんだ。」
ふーん、と出来うる限り平常心を取り繕って相槌を返すけれど、突然の彼女の告白に疑問と困惑ばかりが頭に浮かんでくる。どこで出会って、どんなやつで、何をされたのか、そもそも、そいつの種族と性別はなんなのか。信用のおけるやつなのか。どうしてそんなに楽しそうに笑うのか。
大人気ないことは分かっているし、だからこそ、一時の感情に任せてこんなことを問いただすのは酷く利己的だ。
彼女には彼女の付き合いがあって、それを優先するのは当然の尊重である。
それなのに。
彼女への感情を持て余しているだからだろうか、胸の奥から、言葉にできないようなドス黒いものが脇立つような気がして、驚愕と困惑で、タガが外れてしまいそうだった。
「なんとなく、隠神さんに似ていた気がします。」
押し黙ってしまった隠神の様子に、気づくことなく、彼女は呟くように続けた。
「なぜだか酷く儚げで、どこか寂しそうな表情をなさるんです。それも脈絡なく。」
お腹が痛かったんですかね、と不思議そうに首を傾げて嘆息する彼女を横目に、隠神は、強く目を瞑って悟られないように嘆息した。
「ん?待て、じゃあ、玄関に飾ってあったあの鮮やかな花も…?」
記憶を辿るように訝しむと、名前は嬉しそうに笑って、お気づきになりましたか?と弾んだ声で答えた。
「オニユリです、今の季節にぴったりで、素敵だなあと思ったんです。」
花瓶はなかったのでちょっとチグハグかも知れませんけど。
「ふうん。それで、お返し?」
「はい。」
そうなんだ、と隠神は、先程と変わらないように努めて相槌を打つ。
先程よぎった一つの憶測が的中してしまったことに酷く焦燥感を覚えながら。
「一応聞くけど相手は男性?」
「そうです、お肉料理が大好物らしいです、やっぱり食べ物系?」
無難すぎますか、と首を傾げる彼女に、隠神はいやあ、と言葉を濁す。
おそらくそのお肉は簡単に入手できないものであるだろうから、と口には出さずに苦笑する。
「そうだなあ、ちょっと良いミニタオルとかハンカチは?」
できれば白地のものを、と隠神は笑って誤魔化す。
「タオル?」
そうそう、結構使うよね、とうなずきながら、素知らぬ顔で隠神は続けた。
「なんなら花だってつけていい。黄色のさ、ほら、小柄なやつ。」
薔薇の小柄なやつとか、結構可愛らしくていいんじゃない?
我ながら、図々しくて白々しくて厚かましい。
いけしゃあしゃあと、余計な意見ばかりを言っている自覚はあった。
けれどそうでもしないと、この胸の中に何重にも重なるうごめくような嫌な感情に翻弄されて表情を吐露してしまいそうだった。
彼女に無駄な気遣いをさせてしまうことだけは、したくなかった。
「なるほど、タオルとお花ですか。」
結構良いかもしれません。と彼女は考えこむように眉を寄せる。
彼の僭越な思惑を、どう捉えたのかはわからないが、少なくとも彼女は納得したように頷く。
それから、無邪気にこちらを振り返ると、流石隠神さんです。と破顔した。
その警戒心の薄い笑顔に、隠神はなんともいえない奥底の感情を持て余して、苦笑する。
彼女の無邪気なその笑顔が、多くの人に振り撒かれていることは知っていた。
それは間違いなく彼女の長所で、彼女たらしめる大切な部分には変わりないけれど、その警戒心のなさは、隠神の不安要素の一つでもある。
引く手数多なのは、何も人間の男性に限られることはないのだから。
「ちなみに、隠神さんは贈り物なら何が欲しいですか?」
洗い物を終えた隠神に、ありがとうございました、と笑顔でタオルを渡してから、彼女が何気なくそう尋ねる。
多かったでしょう、とっても助かります。と柔らかく微笑む彼女の瞳に、溜飲が下がる心地を味わいながら。
「贈り物かあ、なんでも嬉しいけどな。」
意外な質問に、考えあぐねるように言葉を濁してから、ちらりとさりげなく名前をみる。
氷の入ったコップを両手で隠すように覆いながら、俯いてはいるものの、彼女が注意して聞いているのは見てわかった。
だからこそ、ほんの少しの悪戯心が揺さぶられたのかもしれない。
「俺は案外、」
含みを持たせるように、一息吐いて、にやけそうになる頬を努めて我慢する。
それから、ゆっくりと息を吸って、囁くように彼女に伝える。
「名前とのこういう時間が嫌いじゃないよ。」
驚いたようにこちらを振りむく彼女の瞳に、隠神がしたり顔で微笑むと、彼女は酷く動揺したように瞳を揺らした。
赤面しながら俯く彼女に、どうしようもない幸福感と甘い切なさが込み上げて、彼は顔を綻ばせて笑う。
言葉にならない呟きを、胸の奥底に仕舞い込んだまま。