短編
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真っ暗な夜道を歩いていると太鼓と祭囃子のなる音がどこからか聞こえてくる。
歩みを進めると徐々に仄かな灯火が増えていき、開けた先にはいくつもの屋台が所狭しと並んでいた。
毎年この時期になると、よく見知ったはずの参道が、別世界のように美しく華やかになる。
あちこちで聞こえる射的の乾いた音や、水風船の弾ける律動的な水音がこの浮世離れしたお祭りを際立たせる。
小さな子供たちだけでなく、歳を重ねた大人までもが屋台を彩る様々な品物に目を輝かせているこの情景は、一種の文化といえるであろう。
じっとりと汗ばむ浴衣を扇子で仰ぎながら、名前はつい笑みを漏らした。
けれど、一人きりで歩いているこの状況を思い返して、慌てて扇子で口元を覆った。
彼から連絡が来たの、と嬉しそうに踵を返す友人の背中を見送ったのは、つい先程のことだ。
それは浴衣を着て友人と二人で夏祭りを楽しもうとした矢先のことで、私も、友人自身も驚いてはいた。
それでも、しばらく会えていないという恋人からの連絡に、友人が心底喜んでいるのは見て明らかだった。
このお祭りを楽しみにしていたのは間違いないけれど、恋人との逢瀬はそれ以上に心躍るものであるだろう。
暫く会えていないのなら、尚のこと優先順位が彼に傾くのは仕方がない。
だから、自分を気遣う彼女に、気にしないで会いに行っておいで、と勧めることに抵抗は全くなかったのだ。
自分の歩幅に合わせてカランコロンと鳴る下駄をゆっくりと進ませながら、名前はぼんやりと参道を歩く。
参道にはいつの間にか人の数が増えており、賑やかな活気に溢れていた。
周りを見渡すと、口の周りにいっぱい綿飴をつけた子供連れや、かき氷を2人で分け合う男女など多くの人がひしめき合っていた。
恋人、と考えて頭をよぎったのは、恋人でもなんでもない彼のことだった。
彼とはほとんど会えていないけれど、最近はなぜだか悲しげな笑顔ばかりが思い出されて、だから名前は困惑をせざるを得なかったのだ。
だってそれは、どこか朧げで現実感のない記憶で。
何か必死に叫んだような、けれど霞んで届かなくて。
夢なら覚めなければよかったのに、とほんの少しの罪悪感と幸福感を感じることがとても恥ずかしかった。
ざわめく胸を誤魔化して、名前は仄かに明るい周りの屋台に目を移す。
輪投げ、射的、わたあめ、たこ焼き…、どれも捨てがたく、考えただけで心躍りそうになる。
一人取り残されようとも、お祭りに来たからには何か屋台で買い物を、と考えていた名前にとっては目移りしてしまうことばかりだった。
価格が少し高いのには目をつぶるとして、どれを買うのが良いだろうか。
輪投げや射的は当たった時の高揚感は得難いけれど、運頼みのような気がするし、たこ焼きはどこか空いたスペースでゆっくりと食べたい気がするし…。
立ち並んだ屋台をゆっくり見ながら歩いていると、いつの間にか一通り見回ってしまったようだった。
それでもまだ決めかねていると、参道の一番奥、こじんまりとしたスペースに、大きく「りんご飴」と書かれた看板にふと目が止まる。
確かにりんご飴なら、綺麗な上に、家に持ち帰っても、帰り道でも、目も口もゆっくり味わえるじゃないか。
考えるよりも先にいつの間にか、名前はふらりとその店に立ち寄っていた。
艶やかな真っ赤な美しい曲線が潔く並んでいる。
他の店と比べると、やや大きさが小さいようにも思えるが、その分価格は低くて、理にかなっている気がする。
ただ、林檎のつややかさは、素人目でもわかるほどに群を抜いて美しい。
鮮やかな絵の具を塗ったように綺麗な熟れた赤色。
よく考えると小さく思えたその大きさも、食べやすさを考えると一番最適なのだろう。
店主は大きな声で客びきもせず、なんなら屋台に立ち寄ったはずの私にさえ見向きもしない。
それよか必死に誰かと話し込んでいて、その消極性に逆に好感度が湧くほどだった。
「あの、」
思い切って出した声は、自分でもわかるほどに聞き取りづらくて、周りの音にかき消されてしまう。
店主も、相変わらず必死に話し込んだままで、名前は、もっと大きな声を張り上げなければならなかった。
「すみません!」
でき得る限りの大きな声は店主を振り向かせるにはやはり遠く、けれど、名前に背を向けて店主と話し込んでいた誰かには届いた様だった。
「うん?」
怪訝そうに後ろを振り返る彼の声に、名前は聞き覚えがある気がして疑問に思う。
それと同時に、胸がざわつくような焦燥感に襲われた。
どこかで聞いたことがあるような、酷く優しい低音。
「ああ、すみませんね、話し込んじゃっ…て、」
何気なくこちらを見た彼は、けれど、驚いたように目を見開いて固まった。
その一瞬、息ができないような胸の軋みに襲われる。
その数秒が、名前には何分にも、何時間にも思われた。
脳裏に焼き付く黄色の瞳は、
名前が忘れるはずもない、その人だった。
店でばったりと出会った彼は、一瞬瞠目して、けれどすぐにいつもの様子で、奇遇だね?、と笑った。
二の句が継げない名前を置いてけぼりに、店主は、おや、隠神さんのお知り合いですか、と愛想良く笑う。
名前が慌てて会釈をすると、隠神さんには大変お世話になっているんですよ、男は照れたように頭をかいた。
「4丁目の裏道でケモノの被害が拡大してるでしょう?だから今回の祭りの出店はどうするかって。中止寸前だったんですよ。でも隠神さんが解決してくださって。今日も無事に店を開けてなんとお礼を言ったらいいかと、我々一同思ってるんですよ。時節柄とは言いますけどねえ、」
困りますよねえ、と男は不満げに笑って名前を見た。
混乱と知らない言葉に理解が追いつかないけれど、とりあえず同意を求められたのだろう。
名前が曖昧に頷くと、男はほんの少し怪訝な顔をした。
そしてその一瞬、隠神さんが何気なく店主の肩に手を置いて、二言三言話しかける。
すると男は驚いたように隠神さんを見、名前を見て、目を瞬かせた後、焦ったように早口になった。
「いえ、あの、なんです、うわさ、ですよ、うわさ。気になさらないで、」
男は挙動不審に手を振りながらそう言うと、りんご飴をご所望ですかこちらの価格になりますどうぞ、と早口で捲し立てた。
その一連の動作に、名前はなんともいえない排他的なものを感じて、長居してはいけないような居心地の悪さに駆られる。
「ええと、じゃあ、私はこれで。」
慌ててりんご飴を受け取って、そのまま踵を返すと、思いの外、上擦ったような声が出た。
けれどそれさえ恥ずかしくて、早足で、今来た道を引き返す。
背後で店主が何か言ってるのを無視して、兎に角、人の波に逆ってずんずん歩く。
道ゆく人はやはり多くて、前は殆ど見えない。
だが、だからこそ紛れるのに好都合でもあるからと、名前は足早に歩みを進めた。
人混みが途切れる、見慣れた道までたどり着いて、安心したように溜息をつく。
先程の賑やかさとは違って、周囲は静けさで覆われており、どうやら無事にいつもの道まで戻れたみたいだ。
遠くに聞こえる祭囃子の音が聞こえて、下駄にも関わらず転ぶことなくここまで辿り着けたことを賞賛したい気分だった。
カランコロンとアスファルトに響く下駄の音を聴きながら、再びゆっくりと足を進める。
参道の鮮やかで幻想的な灯りとは異なり、規則的に並ぶ電柱の灯。
先程の喧騒が嘘のように静かな路地で、正直なんだか落ち着かない。
じっとりと肌に張り付く浴衣が、何故か嫌気がさしそうになる気がした。
見知った道でさえ他人のような奇妙さに襲われて、名前はほんの少しだけ怖くなる。
それと同時に、先程のことを思い出して、羞恥と後悔で、酷く寂しい気分に襲われた。
そうして、自分の弱さが招き入れた結果ながら、後から後から、後悔ばかりが浮かんでくる。
会えるだなんて思いもよらなかったのに。
会えたことが心底嬉しかったのに。
もっとお話ししたかったのに。
…せっかく隠神さんと会えたのに。
自分がその場に不釣り合いな気がしてつい、逃げるような形でその場を後にしてしまったけれど。
彼の何か言いたげな優しい瞳に、気づかないふりをしたけれど。
これが独りよがりの感情だとしても、もっと優先すればよかったんだ。
相手に届かない想いだとしても、それで諦められるならその程度の想いなんだ。
…彼に会えたことを純粋に喜べば良かったんだ。
夢で起きた朧げな記憶が、喉に詰まるように思い出されて仕方がない。
単なる夢に過ぎないのに、翻弄されている自分自身に名前は心底呆れかえって、自嘲するように苦笑する。
そうして、胸の奥底で軋んだ、詰まるような感触に、けれど気づかないふりをして、早く帰ろうと足を踏み出した時だった。
「名前っ、」
聞きたくてやまないその声に、胸が掴まれた思いがして、瞬間、名前の足が止まる。
なんで、とか、どうして、とか、混乱した言葉しか浮かんでこなくて、同時に激しい高揚感に襲われる。
ひりつくような息苦しさと、奥底から響くような甘い痺れに、名前は立ち止まることしかできなかった。
背後から、彼が近づいてくる足音だけが、静かな路地に響いている。
コツコツ、とした高らかな音が、ゆっくりと名前の耳に届くと、やがて止んだ。
自身の背後に立ち止まったその人の気配に、名前はどうしたらいいかわからなくて、動機のやまない胸を押さえるように手を抱える。
あの人であってほしいと願う胸の轟に、苦しくて息が続かない。
意を決して、ゆっくりと、
息を整えて、ゆっくりと、
確認するように後ろを振り返る。
そこには、肩で息を整え頬を高揚させて、怒ったように眉を寄せる彼が、佇んでいた。
「探したよ、」
息も絶え絶えな彼は、開口一番、疲れたようにそう呟いた。
名前に向き直ると、周りをチラリと見回して、ゆっくりと息を吐く。
「…まさかと思うが、一人で帰るつもりなの?」
いつもより随分冷めたような、低音。
普段は優しい彼からは想像のつかない声色で、名前が言葉を返せないでいると、彼は再び大きく嘆息する。
それから、やっぱりな…、と呆れたように呟いた。
「なんで、」
一人で帰ろうと思ったの、と彼は静かな声で名前に問いかけた。
教え諭すような冷静な声に、名前は訝しく思いながらも、少し言いあぐねるように答える。
「…なんで、ですか…、、」
「うん。」
「ええと、よく知ってる道ですし…」
「知ってるから?」
「はい、ええと…」
「いつもの道だから、近いから、ってことか?」
彼の普段とは異なる気迫に圧されるように、はい、と頷くと、彼は、切れ長の瞳をさらに細くして眉を寄せた。
「…そう。」と冷めたように呟く。
「連れは?いないの?」
「いえ、居たんですけど…」
「けど?」
「ええと、急用で帰ってしまって…」
急用?と彼は、眉間のシワをさらに深くする。
「あの、本当に大切な急用で…。それに、残りたいと言ったのは私なんです。」
弁明するように顔を上げて彼を見ると、彼は何も言わずに腕を組んだ。
「お祭りなんて、久々で。浮き足立ってたのは認めます。でも、私だっていい大人ですし、一人で帰れるかなと思ったんです。携帯だってあるし、いざとなったら…」
「いざとなったら?」
気迫はそのままに、彼は片方の眉を訝しむように寄せる。
「それだと手遅れになったら?」
「え、?」
「いざとなったら、だと遅いよ。そもそも、そんな格好で、一人でこんな暗い夜道を歩くなんて、狙ってくれと云ってるようなものだ。今日はただでさえお祭りで、世間が浮き足立ってるのに。そんな日は特に危ないものが寄ってくるだろ。そしたら取り返しがつかない。一人で帰るしかないんだったら、誰か呼ぶとか、方法はいくらでもあるよ、それこそ電話とか、、」
深く眉間にシワをうき立たせて、彼は怒ったように続けた。
彼のそんな焦ったような言い方は聞いたことがなくて、名前は曖昧に眉を寄せる。
「いえ、あの、」
「…いや。」
すると名前が困惑しているのがわかったからだろうか、彼はふと名前から目を逸らした。
それから、徐に硬く目をつぶって何かを省みるように、いや、と再び呟く。
「いや、違うんだ。…子供扱いしてるわけじゃない。」
絞り出したように彼の声は掠れていた。
「でも、だから、…心配、なんだ。」
先程の怒ったような切れ目の瞳孔が、今は悲しそうに細められて、何かに耐えるように口を歪めた。
それから、ふと息を吐くと、気を取り直したように名前に向き直る。
「とにかく、」
彼にしては明るい声だった。
「とにかく、送るよ。」
行くぞ、と彼は彼女をすり抜けて前に出る。
思っても見ない彼からの申し出に、名前は慌てて、ありがとうございます、と上擦った声を出す。
けれど彼の背中はいつもより、少し悲しそうに見えて、名前は酷く胸が軋む気がした。
規則的にアスファルトを叩く高音が、薄暗い路地に響いている。
名前の前には、幾分か先を歩く見慣れない背中があって、それはゆっくりと歩みを進めている。
時々不規則に立ち止まるのは、慣れない浴衣と下駄の為に歩幅が遅くなっている自分を、待っているのかもしれない。
しかし決して、隣に並ぼうとしない歩調だったので、名前はほんの少しだけ寂しい気がした。
それでも彼を後ろから眺めるなんてしたことがなくて、名前はつい、これ幸いと彼の背中を観察する。
シャツ越しでもはっきりと確認できる逞しい筋肉と広い背中。
胸囲の大きさにそぐわない、するりと引き締まったくびれ。
片手で肩に引っ掛けた背広が、時節ひらひらとはためいている。
ぼんやりと見つめながら、色気のある男の人だ、と名前は再び動機を早くさせた。
けれど、その背中はいつもとは異なるような、どこか儚げで朧げな気がして、だから少し不安に思う。
せっかく彼と会えたのだから、もっと話したいという単純な欲望もあったのだろう。
思い立ったように名前は下駄を鳴らして、徐に小走りで追いかけた。
待っていたら決して縮まらない、その一歩先に近づいて、どうにか横から彼の顔を覗き込む。
それから、隠神さん、と、動機のやまない胸を押さえつけて、普段と変わらないように声を掛けた。
「…隠神さん、」
何か考え事をしていたのだろうか、ふと横目で見て名前が隣にいるのを確認すると、彼はほんの少し驚いたように瞠目した。
「うん、?」
「ええと、怒って、ますか?」
顔色を伺うように、彼の方を見上げる。
「いや、」
すると彼は意外にも、断言するように呟くと、名前からすらりと目を逸らした。
それから、何か思案するように、そのまま押し黙ってしまう。
彼の不自然な対応に、名前は少なからず不安になった。
いつもなら安心するはずの沈黙が、今日は酷く心許ない。
なんだか重い雰囲気に、名前は耐えられなくなりそうだ。
「あの、」
不安を払拭するように、努めて明るい声を出すと、うん?と彼は気怠げに名前の方を振り向いた。
名前は何か話を作らなければと焦燥感に駆られて、思いつくままに質問してみる。
「隠神さんは、お仕事、だったんですか?」
「え?、ああ、仕事、うん、一応、仕事、かな。」
彼はそういうと、少し肩をすくめるように苦笑する。大した用事じゃないんだけどね、と彼は笑った。
「そうなんですか?、夜遅くまで、大変ですね。」
名前が些細なねぎらいの言葉をかけると、彼は、ああ、とどこか曖昧に頷いた。
それから先程と同様にふっと目を逸らされる。
彼の話が聞けるかと思った名前の目論見は空振りに終わったようだった。
再び流れた沈黙の時間に、けれど名前も反省するように俯いた。
話題を間違えたのかもしれない…
「あの、」
再び努めて明るい声を出すと、うん?、と彼は再び曖昧に返答をしてくれる。
けれど今度は名前の方を横目で確認しただけだった。
なんとなくそっけないような態度に、胸の奥底が傷つけられたような感触を味わいながら、名前は彼の横顔を仰ぎながら笑って呟く。
「お元気でしたか?」
なかなか、お会いできていませんでしたね、と名前が笑って尋ねると、彼は、ああ、と再び曖昧に頷いた。
「そうだなあ、まあ…、元気、だったよ。」
一応ね、と彼は苦笑した。
「…本当ですか?」
「うん、体調は一応崩してないしね、元気。」
「…ちゃんと、食べてますか?」
「あ、いや、うん食べてるよ。」
一応。と彼が考えるように呟くので、名前が訝しむように見つめると、彼は焦ったように眉をひそめた。
「確かに、内容は貧相なものかもしれないけどね、男所帯だから、これでもよくなった方なんだぞ。」
だから、ちゃんと食べてるよ、と口を尖らせて拗ねたように呟くので、名前は思わず吹き出してしまう。
確かにそうですね、言い過ぎました、と笑って、彼の方をちらりと見ると、驚いたように目を瞬く彼がこちらを見つめていた。
慌てて、すみません笑いすぎましたね、と彼を仰ぎ見ると、そのまま目を逸らされる。
意図的に目を逸らされているとしか思えない不自然さに、名前は不安に思った。
…知らない間に、彼の気に触るような事を言ってしまったのだろうか。
「…また、いらしてくださいね。」
落ち込みそうになる胸の奥底を、どうにか奮い立たせて、名前はそっと呟いた。
静かな路地に、それは響いて、そのまま溶けていくように沈黙が広がる。
ご飯くらいなら作れますから、と呟いて俯くと、やや時間が立ってから、ありがとな、と小さく彼が笑ったような声がした。
「…名前こそ、」
再び沈黙になりかけたところで、今度は彼が、思いついたように呟いた。
「名前こそ、元気、だったのか?」
探るような、静かな声で、彼は名前に囁くように尋ねる。
「え、?ええと、」
彼の意外にも不安そうな声に、名前は戸惑いつつも、あえて元気づけるような明るい声で笑った。
「元気です。とても。」
隠すように笑うと、彼は、けれど、眉を寄せて名前を見る。
「…本当か、、?」
「ええ、」
心配なさらないでください、と名前は再び彼を仰ぐ。
すると、彼はどこか、落胆したような、酷く寂しそうな瞳を揺らして、そうか、と小さな声で嘆息した。
それから、再び名前から目を逸らして、彼は空を仰ぐように、囁くように続ける。
「…電話、返せなくてごめんな、」
空に囁くように、ゆっくりと吐いた言葉に、名前は、吃驚したように彼を見た。
突然の話題を、しかも、忘れられたと思っていた話題をふられて、名前は顔が真っ赤になるのを感じる。
「い、いえ!全然!構いません!むしろ、突然お電話してすみませんでした、なんというか、あの電話に関しては事故みたいなものでして。その、気になさらないでくださると助かるかなあというか。あの、本当に他意は、なくて、ですね…」
ええと、と、必死で言葉を続ける名前を彼は訝しそうに見つめた。
「…事故?」
「いえ、はい、あの、事故、というか、ええと、たまたま身体を壊してしまって、最近の急な温度変化が来たんだと思います。寝ぼけ眼で、その…」
言いづらいんですが、と名前は恥ずかしそうに下唇を噛んだ。
うん、と彼は優しい声で、彼女を落ち着かせるように相槌をうつ。
さっきまでそっけなかったくせにどうしてそんな優しい瞳をするのだろう。
恥ずかしさと少し悔しさで、動悸が激しい胸を抑えながら、名前は彼から目を逸らして呟く。
「…気づいたら。」
息を吐くのも苦しくて、息継ぎができないような胸の痛みに襲われて、けれど、もう止められなくて。
囁くような、息を切らしたような声が漏れる。
「…電話してた、みたいです。」
恥ずかしくて、下を向いたまま、小さく呟くと、彼が息を呑むのがわかった。
それから、じっとりとした沈黙が名前と彼との間を通り抜ける。
言ってしまった、言わなければよかった。
恥ずかしくて、どうしようもなくて、見放されるんじゃないかと、愛想をつかされるんじゃないかと、胸の動悸が鳴り止まない。
羞恥と後悔でいっぱいになりそうで、どうしても彼の顔を見れなくて、名前は俯いたまま、彼の続きを待った。
しばらくすると、気を取り直すように、微かな咳払いが聞こえて、名前は耳を側立てる。
「…そうか、」
彼の、掠れた声が、静かな路地に反響した。
いつもの悠然とした、余裕のあるような声ではなくて、だから、名前は驚いたように彼を振り向く。
すると、彼は慌てたように、名前の方から顔を背けて、片手で隠すように顔を覆った。
彼はそのまま空を仰ぐ。
「あのさ、」
彼はそのままゆっくりと、息を吐いたように思う。
「でんわ、してくれて、いいよ。」
一つ一つ言葉を選ぶような、静かな声色だった。
「用事なんて、考えなくていいから。」
彼は、何か、考えるように硬く目を瞑ると、今度は息をゆっくり吸った。
「名前。」
吹っ切ったような、明瞭な声で、名前を呼ばれる。
胸の奥底から、激しい鼓動が聞こえてきて、名前は慌てて彼を見つめた。
「だから、頼むから、」
怒るような悲しむような願うような響きだった。
「何かあったら、呼んで欲しい。」
一人で夜道を歩かなきゃいけない時も。
身体を壊して動けない日でも。
どこか寂しくて、苦しい時も。
今日みたいな日でも。
「すぐには、電話を取れないかもしれないけれど。」
それでも。
彼の、酷く優しげな、黄金色の双眸が、名前をゆるやかに見つめた。
その瞳から目が逸らせなくて、名前は胸の鼓動がやけに大きく響くのを感じる。
それと同時に、胸の奥底が甘い痺れをもたらして、呼吸の仕方を忘れたように息ができない。
彼のそんな切なそうな瞳を見たことがなくて。
彼のどこか嘆願するような深い瞳を見たことがなくて。
下半身から疼くような切なさから、逃れられない。
「…ずるい、人ですね。」
決定的なことは言わないのに、想い人のような優しさを、振りまいて。
いつだってそんな、心配と慈愛を振りかざして。
私の膨れ上がった気持ちには、どうやったって気づかないふりをする。
この喉の渇きも、胸の疼きも、酔いしれる程の幸福感も。
気のせいだって、親心であって愛情な訳がないのだって。
…そうやって嘘をつくのだろうな。
「部屋に寄ってきますか?」
真っ赤な林檎を齧りながら、努めて気にした素振りを見せないようにそう、名前は言ってのけると、彼は案の定呆れたように嘆息した。
「おい、そういうところだぞ。」
冗談でも、そんなこと言うんじゃない、と比較的語尾を強めて怒られる。
諌めるように名前に目を向ける彼の瞳から、名前は拗ねるように目を逸らして、別に冗談のつもりはないんですよ、と小さな声で呟いた。
あのなあ、と再び呆れる彼を横目に、名前は林檎飴を一口かじって苦笑する。
彼は再び嘆息すると、でもまあ、と思い耽るように徐に言い淀んだ。
「今日は、やめとくよ。」
その姿を直視できそうにないからな、と彼は呟くようにそう言って、名前を見つめてニヤリと笑う。
その好戦的な彼の瞳に、名前は再び赤面した。