15 y ago
name
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薄曇りの空の下、東の地平がゆっくりと白み始めていた。夜明け前の街は、まだ静寂に沈んでいるというのに、空気にはすでに熱の予感があった。湿り気を帯びた風が頬を撫で、遠くで鳴く鳥の声だけが、朝が迫っていることを告げている。
石畳を踏みしめる革靴の音が二重に響く。道の端をふらつくように歩いていたnameは、よろよろとロシナンテの肩によりかかるように身体を預けた。
「……ねえ……まじでもう、無理……あんなヤバい街、聞いてないし……あいつら、交渉ってより、“交尾”目的じゃん……なんで“俺”指名されんの……てか、俺、今日何回キスした?わかんない……ほんと……うぇ……」
ぼやくような声は擦れていて、明らかに眠気と疲労の極致にあった。睫毛は湿り気を含み、足取りは重く、肩をすくめる仕草にも力がない。そして隣を歩くロシナンテもまた、無言だった。その表情からは、彼自身も決して余裕などないことが見て取れる。薄く開いた唇から洩れる吐息。火の落ちた煙草を咥えたまま、黒いマントの襟元に深く顔を埋めている。その手には、いつものメモ。ぱら、と風に捲られる紙の音。
【…生きて帰ってきただけ、上出来】
ぺらりとこちらに向けられたメモには、丸く乱れた筆跡でそう記されていた。nameはそれを斜めに流し見て、乾いた笑いを漏らす。
「ほんっと、それ……まじ……死ぬかと思った……俺の舌、もう味覚なくなってるかもしんない……ほら、ロシーも……顔色やばい。なんか青い。しぬの?しなないでね?」
冗談ともつかぬ軽口に、ロシナンテは肩をすくめるだけだった。だがその肩の動きもぎこちない。歩みを止めたその足元に、影が長く伸びている。ふたりの影が寄り添うようにして、路地の端に滲んでいた。
「ねぇ、ドフラミンゴまだ寝てるかな……寝ててほしい……お願い……これでまた“評価”とかされたら俺、まじで泣く……ロシー、先に入って、俺のこと……なんかこう、“ちゃんとやってたよ”ってアピって……ダメ?あー、だよね、ロシーも疲れてるよね、わかる、ごめん……」
言葉の端々がとろけている。疲労と眠気と、それ以上に積み重なったストレスが、nameの感情をゆるくしていた。歩きながら小さくしゃがみこんでしまいそうな勢いで、彼はロシナンテの袖を掴んだ。その動きに、ロシナンテは立ち止まり、またメモを開いて書き込む。
【寝かせろって言っとく。でも、多分寝てない】
「うわぁ……さすが……さすがドフラミンゴ……寝ろよ……俺よりタフじゃん……クソ……」
ぼやく声すら、もはや夢の中のように遠い。階段をのぼる脚は重く、ようやくたどり着いた屋敷の裏口の扉に、nameは額をこつんとぶつけた。
「あー……帰ってきた……ただいま……」
呟いたその声に、返事はない。ロシナンテは先に扉を開けると、薄暗い廊下を確認してから、nameの背中を軽く押した。その手つきには、いつものような柔らかさがなかった。彼も限界だったのだ。それでも、最後まで手を抜かない。nameがつまづかないように支えながら、部屋へと導いていく。その背にあてがわれた手のひらが、体温を通して言葉以上のものを伝えていた。
“もう少し、頑張れ”
“ちゃんと、今日を終えたんだ”
そしてふたりは、誰も起きていない屋敷のなか、ゆっくりと自室へと戻っていく。乾いた唇と、重たいまぶたと、まだ肌に残る他人の匂いを纏ったまま。それでも“終わった”ことに、わずかな安堵が滲む夜明けだった。
扉が閉まる音が、ゆっくりと夜の余韻を切り取った。
重く湿った空気に包まれたまま、ふたりは薄明かりの部屋へと踏み入れる。
外から連れ帰った熱と湿気をそのまま引きずるようにして、靴も脱がず、壁にもたれるようにしてnameはへたり込んだ。
「……死んだ……俺、今日で寿命、五年は縮んだ……」
額を抱えるようにしてしゃがみこみ、息を吐き出す。その肩が、震えているのは怒りでも涙でもなく、ただただ限界の疲労だった。ロシナンテは黙ってその前にしゃがみ込み、脱がせたコートを床に滑らせる。汗を含んだシャツの襟をそっと開き、nameの首筋を見やると、すでにうっすらと赤みが浮かんでいた。
「……お前、ほんとによく頑張ったよ。ひとりでやらせたの、悪かったな」
その声は、思ったよりも低くて、掠れていた。ロシナンテ自身も、余裕のある言葉を選べる状態ではなかったのだろう。
「だけど……あの街で、“売り物”にされなかっただけでも奇跡だ。お前、あの手の男が好きそうな顔してるしな……舐められやすいし……色気出すし……」
冗談めかした口調で笑いかけながらも、その目はどこか刺すような鋭さを帯びていた。nameは少しだけ眉を寄せたが、やがて口を尖らせるようにして返した。
「……色気は天然です。俺のせいじゃないもん……勝手に唇噛まれて、触られて……あー……気持ち悪……」
顔をしかめながらも、声に力はない。体の芯から絞り取られるような疲れが、言葉すらぼやかしていた。ロシナンテは立ち上がり、冷蔵庫の水をグラスに注ぐと、それをnameの前に差し出す。受け取ったグラスを両手で持ちながら、nameは一口だけ口に含んだ。
「……ねぇ、ロシー……一個だけお願いしていい……?」
「ん」
「抱いて……じゃなくて……その、……ギュってして。……何もしないから……まじで。ほんと、ちょっと、安心したいだけ」
その言葉に、ロシナンテは無言でnameの肩を抱き寄せた。ごつごつした手が、静かに背中へ回る。nameは、そこに顔をうずめ、ぴたりと動かなくなった。
「……ロシー……好きだわ、やっぱ……」
「はいはい。知ってる」
軽く笑うように言って、ロシナンテはnameの頭を撫でた。手のひらに伝わる汗と熱、微かに震える肩。それでもその中には、まだ“壊れてない心”が確かに残っていると、彼はわかっていた。
「寝ろ。今日はもう、何も考えるな。俺も寝る」
「……うん……じゃあ一緒のベッド……」
「ベッドじゃなくてソファな。俺もお前も今どこまで汚れてるかわからんし……シャワー、明日な。今は……もういい」
そうして、明るくなりかけた空を背に、ふたりはソファに沈み込む。水の入ったグラスが半分、テーブルの端で揺れていた。ロシナンテの指が、眠りに落ちる直前のnameの髪を、やわらかく撫で続ける。その呼吸が深くなり、ようやく訪れた静寂が、ふたりをそっと包み込んだ。
昼前の陽射しがカーテン越しに差し込み、部屋の空気をじんわりと温めていた。ソファにだらしなく横たわっていたnameは、肩を揺さぶられる感覚で目を覚ます。瞼を重たげに上げると、目の前にいたのはすでにシャワーを終えて髪を湿らせたロシナンテだった。シャツの袖をまくった腕に滴が光り、さっぱりとした匂いが漂っている。
「……ふぁぁ……あー、寝た寝た……」
伸びをする拍子に背骨がごきりと鳴り、nameは顔をしかめた。
「うわ……体バッキバキ……やっぱソファで寝るのって無理あるんだって」
ぶつぶつ言いながらも、頭の芯はまだぼんやりしている。隣に立つロシナンテの香りに気づくと、ようやく脳が現実に追いついた。
「……って、ロシー、先にシャワー浴びたの?え、ずる……!」
大げさに口を尖らせ、nameはソファから身を起こす。
「俺も一緒に入りたかったのにー……なんで起こしてくれないかなぁ」
ロシナンテは肩を竦めただけで、気にも留めていない。
「お前、起こしたら機嫌悪いだろ。放っておいた方がマシだと思ったんだよ」
「……うーん、それは正解かも。でも俺だって湯気の中でロシーと一緒に……って思ったのに」
口先だけの拗ね方に、ロシナンテは呆れたように息を吐いた。濡れた髪を指で梳かしながら、nameはそのまま彼に寄りかかる。背中に預けた重さは、甘えとも怠惰ともつかない中途半端な重力だった。
「やっぱさぁ、俺ってロシーに甘やかされてる気がするんだよねぇ」
「気のせい」
「いやいや、気のせいじゃないって。だって、俺、こんなに好き放題できてるもん」
ロシナンテは手元のタオルで自分の髪を拭きながら、チラリと視線だけでnameを見る。どこか熱の残る目元、寝起きで赤みを帯びた頬。昨日までの疲労がまだ抜け切れていないのは明白で、それでも軽口を叩く余裕は戻ってきていた。
「……シャワー行け。汗も寝汗もまだ残ってんだろ」
「はーい……でもその前に、背中押してー。俺まだ夢の中みたいにふわふわしてるから」
わざとらしく腕を伸ばすnameに、ロシナンテは深くため息をつく。けれど結局は、その背中を軽く叩いて立たせる。nameは「えへへ」と笑いながら、その勢いのまま浴室へと消えていった。静まり返った部屋に、ロシナンテはふっと小さな笑みを残す。彼の呆れと甘さが、空気の中に滲んでいた。
シャワーの湯気を纏ったまま、nameはバスタオルを肩にかけて部屋へ戻ってきた。髪は滴を残したまま、首筋を伝う水滴が鎖骨に落ちていく。拭くのもそこそこに椅子へ腰を落とすと、すぐ後ろから大きな影が覆った。
「おい、まだびしょびしょじゃねぇか」
ロシナンテの声が落ちると同時に、厚手のタオルが頭にかけられる。大きな掌が包むように髪をくしゃりと掴み、指先が頭皮を優しく擦っていく。
「……んー……気持ちいー……ロシーにやってもらうと、なんか寝そう」
椅子に深く座り直し、ぐったりと背を預けるname。閉じた目の奥で、温かなリズムが心地よく響いていた。数拍の静けさののち、nameの口がふいに動く。
「昨日の仕事さー……マジでしんどかった。海兵に睨まれるし、交渉相手は裏で値踏みしてるし。……俺、なんか使い潰されてんのかなーって」
ぼやき混じりの声には、いつもの軽口の奥に小さな翳りが滲んでいる。タオルでくしゃくしゃと乾かす手は緩まず、ただ黙って聞いているロシナンテの気配が後ろにある。
「……でも、こうしてると、まぁいいかって思っちゃうんだけどさ。……俺、この先どうなるんだろなー。ずっとこんな感じ?」
冗談めかして笑おうとしたが、その笑みは思いのほか弱々しかった。ロシナンテの手がふと止まり、タオル越しにnameの頭をぽんと軽く叩く。
「お前はまだ若い。考えすぎるな」
低い声は不器用ながらも確かな重みを持っていた。nameは目を細め、へにゃりと笑って応える。
「……ん。考えすぎるのは似合わないかもね、俺」
またタオルが動き出し、温かな摩擦が耳の後ろを優しく撫でていく。髪を乾かされながら、nameは半ば眠たげに瞬きを落とした。その小さな不安も、ロシナンテの掌に包まれるうち、いつの間にか空気に溶けていくようだった。濡れた髪を乾かし終えたタオルを肩に置き、ロシナンテは自然な仕草でそのままnameの頬へ手を添えた。指先は熱を確かめるようにそっと触れて、下がりきらない微かな体温の残滓を感じとる。
「……ロシー」
呼ばれた名前は、気怠げで、でもどこか真剣だった。
「ロシーはさ……俺のバディでいてよね」
笑いを混ぜるように言ったつもりだった。けれど、その響きの裏に、薄い膜のように張りつく情緒が透けているのを自分でも気づいていた。軽口で覆っても隠しきれない、不安の滲む色。昨日の夜に見た夢や、先の見えない仕事の不透明さ――それら全部を飲み込んで、吐き出すように出てきた言葉だった。
ロシナンテはしばし目を伏せた。自分が抱える立場を思い出さずにはいられない。海軍の人間であり、この場所にいるべき存在ではないこと。スパイである以上、いつかは線を引かざるを得ないこと。それでも。目の前で自分を頼るように見上げてくる青年の存在が、その理屈を簡単に溶かしてしまう。
「……俺はもう、お前に付き合わされっぱなしだ」
声に混じるのは、呆れと諦め、そしてどうしても隠しきれない甘さ。大きな手が顎にかかり、軽く持ち上げられる。視線が交わった瞬間、nameは一瞬怯えたように瞬きをしたが、次にはへにゃりと笑ってしまう。
「……ロシー」
その名を呼ぶ声が、柔らかく空気に溶ける。
ロシナンテは応えるように顔を傾け、唇を重ねた。最初は短い触れ合い。けれどnameが小さく息を吸い、目を細めた瞬間、その口づけは深みに変わった。ぐいと喉元に添えられた手が逃げ場を塞ぐ。熱が流し込まれ、咥内を蹂躙するように舌が絡め取られていく。
「……ん、ぁ……」
溶けるような声が零れる。瞼が震え、赤く染まった頬が熱に浮かされている。頭がふわりと真っ白になり、全身がキスの感触だけで満たされていく。
「……ロシー……もっと、してよ」
息を繋いだまま、ふらふらとした声で強請る。頬を擦り寄せ、誘うように笑う。だが、ロシナンテはふっと鼻で笑って唇を離した。
「……ダメだ」
一瞬にして冷水を浴びせられたような拒絶。nameは目を瞬かせた。
「……はぁ!? なにそれ、ずっるーい!」
子供みたいに肩をすくめ、頬をぷくりと膨らませる。濡れた瞳の端に怒りと甘えが同居して、ぷんぷんと揺れている。ロシナンテはその様子にさらに苦笑を深め、伸ばした手でぽん、と頭を叩いた。
「……調子に乗るな」
その言葉の裏に含まれる優しさを、nameはちゃんと感じている。
「……もう、ほんっとどっちなのさ。子供扱いするくせに、こういう時だけ大人みたいな顔しちゃってさ」
むぐむぐと軽口をこぼす声は、どこか安心している響きだった。
二人の間に落ちた沈黙は、重くも冷たくもなく、熱の残滓がゆるやかに溶け合うようなものだった。nameの口から漏れた「バディでいてよね」という願いは、呆れと笑いに包まれて、その夜の空気にひっそりと沈んでいった。
石畳を踏みしめる革靴の音が二重に響く。道の端をふらつくように歩いていたnameは、よろよろとロシナンテの肩によりかかるように身体を預けた。
「……ねえ……まじでもう、無理……あんなヤバい街、聞いてないし……あいつら、交渉ってより、“交尾”目的じゃん……なんで“俺”指名されんの……てか、俺、今日何回キスした?わかんない……ほんと……うぇ……」
ぼやくような声は擦れていて、明らかに眠気と疲労の極致にあった。睫毛は湿り気を含み、足取りは重く、肩をすくめる仕草にも力がない。そして隣を歩くロシナンテもまた、無言だった。その表情からは、彼自身も決して余裕などないことが見て取れる。薄く開いた唇から洩れる吐息。火の落ちた煙草を咥えたまま、黒いマントの襟元に深く顔を埋めている。その手には、いつものメモ。ぱら、と風に捲られる紙の音。
【…生きて帰ってきただけ、上出来】
ぺらりとこちらに向けられたメモには、丸く乱れた筆跡でそう記されていた。nameはそれを斜めに流し見て、乾いた笑いを漏らす。
「ほんっと、それ……まじ……死ぬかと思った……俺の舌、もう味覚なくなってるかもしんない……ほら、ロシーも……顔色やばい。なんか青い。しぬの?しなないでね?」
冗談ともつかぬ軽口に、ロシナンテは肩をすくめるだけだった。だがその肩の動きもぎこちない。歩みを止めたその足元に、影が長く伸びている。ふたりの影が寄り添うようにして、路地の端に滲んでいた。
「ねぇ、ドフラミンゴまだ寝てるかな……寝ててほしい……お願い……これでまた“評価”とかされたら俺、まじで泣く……ロシー、先に入って、俺のこと……なんかこう、“ちゃんとやってたよ”ってアピって……ダメ?あー、だよね、ロシーも疲れてるよね、わかる、ごめん……」
言葉の端々がとろけている。疲労と眠気と、それ以上に積み重なったストレスが、nameの感情をゆるくしていた。歩きながら小さくしゃがみこんでしまいそうな勢いで、彼はロシナンテの袖を掴んだ。その動きに、ロシナンテは立ち止まり、またメモを開いて書き込む。
【寝かせろって言っとく。でも、多分寝てない】
「うわぁ……さすが……さすがドフラミンゴ……寝ろよ……俺よりタフじゃん……クソ……」
ぼやく声すら、もはや夢の中のように遠い。階段をのぼる脚は重く、ようやくたどり着いた屋敷の裏口の扉に、nameは額をこつんとぶつけた。
「あー……帰ってきた……ただいま……」
呟いたその声に、返事はない。ロシナンテは先に扉を開けると、薄暗い廊下を確認してから、nameの背中を軽く押した。その手つきには、いつものような柔らかさがなかった。彼も限界だったのだ。それでも、最後まで手を抜かない。nameがつまづかないように支えながら、部屋へと導いていく。その背にあてがわれた手のひらが、体温を通して言葉以上のものを伝えていた。
“もう少し、頑張れ”
“ちゃんと、今日を終えたんだ”
そしてふたりは、誰も起きていない屋敷のなか、ゆっくりと自室へと戻っていく。乾いた唇と、重たいまぶたと、まだ肌に残る他人の匂いを纏ったまま。それでも“終わった”ことに、わずかな安堵が滲む夜明けだった。
扉が閉まる音が、ゆっくりと夜の余韻を切り取った。
重く湿った空気に包まれたまま、ふたりは薄明かりの部屋へと踏み入れる。
外から連れ帰った熱と湿気をそのまま引きずるようにして、靴も脱がず、壁にもたれるようにしてnameはへたり込んだ。
「……死んだ……俺、今日で寿命、五年は縮んだ……」
額を抱えるようにしてしゃがみこみ、息を吐き出す。その肩が、震えているのは怒りでも涙でもなく、ただただ限界の疲労だった。ロシナンテは黙ってその前にしゃがみ込み、脱がせたコートを床に滑らせる。汗を含んだシャツの襟をそっと開き、nameの首筋を見やると、すでにうっすらと赤みが浮かんでいた。
「……お前、ほんとによく頑張ったよ。ひとりでやらせたの、悪かったな」
その声は、思ったよりも低くて、掠れていた。ロシナンテ自身も、余裕のある言葉を選べる状態ではなかったのだろう。
「だけど……あの街で、“売り物”にされなかっただけでも奇跡だ。お前、あの手の男が好きそうな顔してるしな……舐められやすいし……色気出すし……」
冗談めかした口調で笑いかけながらも、その目はどこか刺すような鋭さを帯びていた。nameは少しだけ眉を寄せたが、やがて口を尖らせるようにして返した。
「……色気は天然です。俺のせいじゃないもん……勝手に唇噛まれて、触られて……あー……気持ち悪……」
顔をしかめながらも、声に力はない。体の芯から絞り取られるような疲れが、言葉すらぼやかしていた。ロシナンテは立ち上がり、冷蔵庫の水をグラスに注ぐと、それをnameの前に差し出す。受け取ったグラスを両手で持ちながら、nameは一口だけ口に含んだ。
「……ねぇ、ロシー……一個だけお願いしていい……?」
「ん」
「抱いて……じゃなくて……その、……ギュってして。……何もしないから……まじで。ほんと、ちょっと、安心したいだけ」
その言葉に、ロシナンテは無言でnameの肩を抱き寄せた。ごつごつした手が、静かに背中へ回る。nameは、そこに顔をうずめ、ぴたりと動かなくなった。
「……ロシー……好きだわ、やっぱ……」
「はいはい。知ってる」
軽く笑うように言って、ロシナンテはnameの頭を撫でた。手のひらに伝わる汗と熱、微かに震える肩。それでもその中には、まだ“壊れてない心”が確かに残っていると、彼はわかっていた。
「寝ろ。今日はもう、何も考えるな。俺も寝る」
「……うん……じゃあ一緒のベッド……」
「ベッドじゃなくてソファな。俺もお前も今どこまで汚れてるかわからんし……シャワー、明日な。今は……もういい」
そうして、明るくなりかけた空を背に、ふたりはソファに沈み込む。水の入ったグラスが半分、テーブルの端で揺れていた。ロシナンテの指が、眠りに落ちる直前のnameの髪を、やわらかく撫で続ける。その呼吸が深くなり、ようやく訪れた静寂が、ふたりをそっと包み込んだ。
昼前の陽射しがカーテン越しに差し込み、部屋の空気をじんわりと温めていた。ソファにだらしなく横たわっていたnameは、肩を揺さぶられる感覚で目を覚ます。瞼を重たげに上げると、目の前にいたのはすでにシャワーを終えて髪を湿らせたロシナンテだった。シャツの袖をまくった腕に滴が光り、さっぱりとした匂いが漂っている。
「……ふぁぁ……あー、寝た寝た……」
伸びをする拍子に背骨がごきりと鳴り、nameは顔をしかめた。
「うわ……体バッキバキ……やっぱソファで寝るのって無理あるんだって」
ぶつぶつ言いながらも、頭の芯はまだぼんやりしている。隣に立つロシナンテの香りに気づくと、ようやく脳が現実に追いついた。
「……って、ロシー、先にシャワー浴びたの?え、ずる……!」
大げさに口を尖らせ、nameはソファから身を起こす。
「俺も一緒に入りたかったのにー……なんで起こしてくれないかなぁ」
ロシナンテは肩を竦めただけで、気にも留めていない。
「お前、起こしたら機嫌悪いだろ。放っておいた方がマシだと思ったんだよ」
「……うーん、それは正解かも。でも俺だって湯気の中でロシーと一緒に……って思ったのに」
口先だけの拗ね方に、ロシナンテは呆れたように息を吐いた。濡れた髪を指で梳かしながら、nameはそのまま彼に寄りかかる。背中に預けた重さは、甘えとも怠惰ともつかない中途半端な重力だった。
「やっぱさぁ、俺ってロシーに甘やかされてる気がするんだよねぇ」
「気のせい」
「いやいや、気のせいじゃないって。だって、俺、こんなに好き放題できてるもん」
ロシナンテは手元のタオルで自分の髪を拭きながら、チラリと視線だけでnameを見る。どこか熱の残る目元、寝起きで赤みを帯びた頬。昨日までの疲労がまだ抜け切れていないのは明白で、それでも軽口を叩く余裕は戻ってきていた。
「……シャワー行け。汗も寝汗もまだ残ってんだろ」
「はーい……でもその前に、背中押してー。俺まだ夢の中みたいにふわふわしてるから」
わざとらしく腕を伸ばすnameに、ロシナンテは深くため息をつく。けれど結局は、その背中を軽く叩いて立たせる。nameは「えへへ」と笑いながら、その勢いのまま浴室へと消えていった。静まり返った部屋に、ロシナンテはふっと小さな笑みを残す。彼の呆れと甘さが、空気の中に滲んでいた。
シャワーの湯気を纏ったまま、nameはバスタオルを肩にかけて部屋へ戻ってきた。髪は滴を残したまま、首筋を伝う水滴が鎖骨に落ちていく。拭くのもそこそこに椅子へ腰を落とすと、すぐ後ろから大きな影が覆った。
「おい、まだびしょびしょじゃねぇか」
ロシナンテの声が落ちると同時に、厚手のタオルが頭にかけられる。大きな掌が包むように髪をくしゃりと掴み、指先が頭皮を優しく擦っていく。
「……んー……気持ちいー……ロシーにやってもらうと、なんか寝そう」
椅子に深く座り直し、ぐったりと背を預けるname。閉じた目の奥で、温かなリズムが心地よく響いていた。数拍の静けさののち、nameの口がふいに動く。
「昨日の仕事さー……マジでしんどかった。海兵に睨まれるし、交渉相手は裏で値踏みしてるし。……俺、なんか使い潰されてんのかなーって」
ぼやき混じりの声には、いつもの軽口の奥に小さな翳りが滲んでいる。タオルでくしゃくしゃと乾かす手は緩まず、ただ黙って聞いているロシナンテの気配が後ろにある。
「……でも、こうしてると、まぁいいかって思っちゃうんだけどさ。……俺、この先どうなるんだろなー。ずっとこんな感じ?」
冗談めかして笑おうとしたが、その笑みは思いのほか弱々しかった。ロシナンテの手がふと止まり、タオル越しにnameの頭をぽんと軽く叩く。
「お前はまだ若い。考えすぎるな」
低い声は不器用ながらも確かな重みを持っていた。nameは目を細め、へにゃりと笑って応える。
「……ん。考えすぎるのは似合わないかもね、俺」
またタオルが動き出し、温かな摩擦が耳の後ろを優しく撫でていく。髪を乾かされながら、nameは半ば眠たげに瞬きを落とした。その小さな不安も、ロシナンテの掌に包まれるうち、いつの間にか空気に溶けていくようだった。濡れた髪を乾かし終えたタオルを肩に置き、ロシナンテは自然な仕草でそのままnameの頬へ手を添えた。指先は熱を確かめるようにそっと触れて、下がりきらない微かな体温の残滓を感じとる。
「……ロシー」
呼ばれた名前は、気怠げで、でもどこか真剣だった。
「ロシーはさ……俺のバディでいてよね」
笑いを混ぜるように言ったつもりだった。けれど、その響きの裏に、薄い膜のように張りつく情緒が透けているのを自分でも気づいていた。軽口で覆っても隠しきれない、不安の滲む色。昨日の夜に見た夢や、先の見えない仕事の不透明さ――それら全部を飲み込んで、吐き出すように出てきた言葉だった。
ロシナンテはしばし目を伏せた。自分が抱える立場を思い出さずにはいられない。海軍の人間であり、この場所にいるべき存在ではないこと。スパイである以上、いつかは線を引かざるを得ないこと。それでも。目の前で自分を頼るように見上げてくる青年の存在が、その理屈を簡単に溶かしてしまう。
「……俺はもう、お前に付き合わされっぱなしだ」
声に混じるのは、呆れと諦め、そしてどうしても隠しきれない甘さ。大きな手が顎にかかり、軽く持ち上げられる。視線が交わった瞬間、nameは一瞬怯えたように瞬きをしたが、次にはへにゃりと笑ってしまう。
「……ロシー」
その名を呼ぶ声が、柔らかく空気に溶ける。
ロシナンテは応えるように顔を傾け、唇を重ねた。最初は短い触れ合い。けれどnameが小さく息を吸い、目を細めた瞬間、その口づけは深みに変わった。ぐいと喉元に添えられた手が逃げ場を塞ぐ。熱が流し込まれ、咥内を蹂躙するように舌が絡め取られていく。
「……ん、ぁ……」
溶けるような声が零れる。瞼が震え、赤く染まった頬が熱に浮かされている。頭がふわりと真っ白になり、全身がキスの感触だけで満たされていく。
「……ロシー……もっと、してよ」
息を繋いだまま、ふらふらとした声で強請る。頬を擦り寄せ、誘うように笑う。だが、ロシナンテはふっと鼻で笑って唇を離した。
「……ダメだ」
一瞬にして冷水を浴びせられたような拒絶。nameは目を瞬かせた。
「……はぁ!? なにそれ、ずっるーい!」
子供みたいに肩をすくめ、頬をぷくりと膨らませる。濡れた瞳の端に怒りと甘えが同居して、ぷんぷんと揺れている。ロシナンテはその様子にさらに苦笑を深め、伸ばした手でぽん、と頭を叩いた。
「……調子に乗るな」
その言葉の裏に含まれる優しさを、nameはちゃんと感じている。
「……もう、ほんっとどっちなのさ。子供扱いするくせに、こういう時だけ大人みたいな顔しちゃってさ」
むぐむぐと軽口をこぼす声は、どこか安心している響きだった。
二人の間に落ちた沈黙は、重くも冷たくもなく、熱の残滓がゆるやかに溶け合うようなものだった。nameの口から漏れた「バディでいてよね」という願いは、呆れと笑いに包まれて、その夜の空気にひっそりと沈んでいった。