15 y ago
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
厚手のコートの裾が風に揺れ、背の高い男の歩幅に、小柄な相棒が少しずつ合わせている。舗装の荒れた石畳が、時折足元で音を立てるが――その音さえ、今の彼らの周囲には響かない。ロシナンテが歩きながら、ふわりとナギナギの能力を展開した。
空気が密やかに変わる。
周囲のざわめきや喧騒が吸い取られるように消え、世界がひとつ、静かに閉じていく。その“静寂”の中でだけ、彼の声が零れた。
「……ほんとに、やる気ない顔してるな、お前」
「だってほんとにやる気ないもん。ねぇロシー、なんで俺がわざわざあんな無愛想な奴のご機嫌取りしなきゃいけないの……?」
nameは溜息まじりにそう言って、ロシナンテの横で気怠そうに肩をすくめる。長い睫毛の下で目を細め、足元を見つめながら指先をくるくると弄んでいた。
「しかもほら、今日は余所行きの格好でしょ?こう、ちゃんと清潔感も演出してんの。俺にしては頑張ってる方だよ……」
「清潔感が“演出”な時点でだいぶ終わってる」
「暴言ッ!」
ロシナンテの苦笑混じりの声に、nameは振り向いて小さく抗議の声をあげる。しかし、その顔には本気の怒りはなく、むしろどこか甘えた笑みが滲んでいた。
「でもさぁ……ドフィが“ご褒美”って言ってたじゃん?なにがいいかな……」
「金?」
「うーん、嬉しいけど重たいし……あとでこっそり換金するのも面倒くさいし……やっぱ“えっち”なのがいいかもね?」
「……ドフィに言えんのか、そんなこと」
「言うのはタダでしょ?」
さらっと言って、にやりと笑うnameの横顔に、ロシナンテは少しだけ眉を上げる。いつもなら呆れたようにため息でもつくだろう。けれど今はナギナギの内側――“何を話しても、誰にも届かない”空間の中。そのせいか、少しだけ口元が緩んだ。
「じゃあ言ってみろよ。『ドフィ~えっちなご褒美ちょうだ〜い』って」
「それ絶対ロシー笑いこらえながら見てるでしょ……こわ……」
「笑いはしない。ただ引く」
「引かないで!?」
小さなやりとりが、ふたりだけの空間の中にふわりと浮かんでは、消えていく。そのたびに、ふたりの距離は自然と近づき、足取りもぴたりと揃っていった。
ロシナンテの肩は、nameの頭よりもずっと高い。その並びで歩くと、nameはどうしても見上げる形になる。けれど、それを気にする様子もなく、むしろその“大きさ”に自然と凭れかかるような空気をまとうのが、nameという男だった。
「……ねぇ、ロシーは?ご褒美もらえるならなにがいい?」
不意にそう問いかけると、ロシナンテは少しだけ沈黙して、そして――
「……何もいらない」
そう、静かに返した。その声はどこか、ふと沈んでいて、けれど確かだった。
「……お前が隣でぐだぐだ言ってるだけで、もう充分うるさくて面倒くさい」
「それ褒めてる?褒めてない?」
「少なくとも慰めてはない」
「やっぱ暴言ッ!」
またひとつ、笑いが漏れる。そしてその空気に紛れるようにして、nameはロシナンテの腕に指先を軽く引っかけた。
「……ロシー、そういうとこ甘いよね」
「何がだよ」
「俺みたいなの、ちゃんと隣にいさせてくれるとこ」
ふにゃり、と。微笑みは一瞬で、また歩調に戻る。その言葉の意味を深く探るようなことはしない。ロシナンテは、ふと視線を落とし、小さな背を一瞥してから、肩を竦める。
静寂の中、ふたりの足音だけが確かに響く。けだるげな軽口と、繋がる沈黙。
そして、それでも確実に進む“仕事”の匂いが、やがて街の奥から静かに迫っていた。
夕陽が地平にかかり始める頃、ふたりは街の裏手――表通りからは見えないよう、巧妙に選ばれた建物の一角へと辿り着いた。古びた石造りの外壁に、埃をかぶったランプ。
装飾のない重たい扉は、見た目にはただの倉庫にしか見えないが、ここが“取引”の場であることは、足を踏み入れる前から空気に沁み込んでいた。ロシナンテはそこでふっと足を止め、ナギナギの能力を解く。その瞬間、空間に再び外の音が戻ってくる。遠くを走る荷車の軋み、猫の鳴き声、軒先の誰かが風鈴を揺らす音――小さな生活音が、じわりと五感を包み込むように滲んできた。
静かに頷き合うと、ロシナンテは手帳を胸元に戻し、再び“口の利けない男”へと戻る。
代わりに、nameが一歩前へ出た。
「……さて、ロシー。おしごとモード、スイッチ入りました」
口元にはまだ笑みの名残がある。けれどその目には、確かな鋭さが宿っていた。大きな扉に手をかけ、金属の重みを感じながら押し開ける。軋む音が低く響き、中に篭った空気がふたりを包み込んだ。
乾いた木材の匂いと、そこに紛れた異質な香――
香水と葉巻と、皮革の擦れる音。
部屋の中には、すでに三人の男たちが座っていた。古びたソファに、使い込まれた木のテーブル。その中央に置かれた分厚い封筒と、濁ったウイスキーのボトル。空気の重さが、交渉が始まることを告げていた。
nameは一歩、踏み出す。すでにその肩からは、さっきまでの気怠げな雰囲気は消えていた。
声色も、立ち姿も、なにひとつ変えていないのに――周囲の空気が彼を“そういう男”として認識し始める。
まるで魔法のように。
「……お待たせ。ドン・キホーテファミリーから。代理で来てんの、俺とこっち」
そう言って軽く顎でロシナンテを示す。ロシナンテは言葉を発さず、ただ静かに首を下げ、いつものように手帳を胸元に掲げる。
「今からやる話は、耳も口も目も、それなりに信用できるやつにしか通してない。……安心してよ。うち、ちゃんと“沈めるべきところ”は沈める主義だから」
にこりと笑うその表情は、どこか穏やかですらある。けれど、その口元の温度とは裏腹に、彼の目はまるでガラスのように冷ややかだった。相手のひとりが、思わず小さく喉を鳴らす。それを、nameは見逃さない。
「……取引内容の確認。ドフ……うちの“若”からは、書類ひとつと、金額の再交渉の話が来てる。そっちは?」
ゆっくりと、テーブルの端に手をかけ、椅子には座らずそのまま立って相手の顔を順に見つめていく。
それぞれの仕草、視線の揺れ、指の動き、座る位置――
どんなに飄々としていても、nameは一度視線を交わせばすべてを見抜いていく。
「本音」と「建前」、「恐れ」と「見せかけの強がり」。そして、それが交渉においてどれだけの“取れる価値”を持つかを瞬時に見極める。ロシナンテはそんな彼の隣に立ち、静かにページをめくる。筆談で短く、必要な情報だけを記して、nameの横に差し出す。
【契約書の原案は提示済み。内容に変更なし。ただし署名は後日。】
nameはちらりと視線を落とし、手帳を受け取ると「ありがと、ロシー」とだけ小さく呟いた。
「……じゃあ、まずこっちの提示から。短く済ませたいしね、俺、飽きっぽいから」
その言葉と共に、ふたりの“仕事”は静かに、けれど確実に動き出した。軽薄さに潜む鋭さと、沈黙に宿る意思。それがこの男たちの“交渉”のやり方だった。嘘と真実の狭間で笑うように、今日もまた、闇の一部が組み替えられていく。交渉は序盤こそ順調に進んでいた。
nameの柔らかな口調と、ロシナンテの無言の重み。その“静と動”が心地よく拮抗し、相手方も表向きは礼節を保ちながら、手元の資料を静かに読み進めていた。
けれど――僅かなきっかけで、空気が変わった。
「……こちらとしては、この取り分はやや心許ない。前回と同等、もしくはそれ以上が妥当では?」
静かに主張してきたのは、相手側の中でも年長と思しき男。一見穏やかで理性的な語り口だったが、声の奥には警戒と、わずかな敵意がにじむ。交渉の席でよくある、“足をかけてくる”試み。
nameは眉ひとつ動かさずに、すっと表情を静めた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目の奥に冷たい光が灯る。ロシナンテはその横顔を、静かに見ていた。ああ、また始まる、と――わかっていた。
「……そう来ると思ったんだよねぇ」
ふっと笑みを浮かべたnameは、手元の資料をそっと閉じてテーブルに置いた。
そしてゆっくりと、足を組み替える。姿勢を崩さずに、けれど自然な流れで、指先がシャツの襟元へ。上まできちんと閉じられていたボタンを、音もなく、ひとつ外す。
「うちの若はさ、“無理なら切れ”って言ってたけど。……俺、できればそういうの、避けたいんだよね」
首筋がのぞく。滑らかな鎖骨のライン、きらりと覗くピアスの光。甘い声に、視線がゆらぐ。
「ほら、俺ってさ……こう見えて、“お話”するの、得意なんだよ?」
そう言って、nameはまるでくすぐるように相手の目を覗き込んだ。睫毛の影が長く伸びる。軽やかに、無防備に、けれど致命的なほどに狙いすました目線。身体をほんの少し前に傾けて、膝がテーブルの縁に触れるか触れないかの距離にある。吐息が混じる距離で、声を落とす。
「……これでも、もうちょっと寄って話したら、ちゃんと話聞いてくれる?」
揶揄とも甘えともつかないその声に、相手のひとりが思わず喉を鳴らした。
わかりやすい。けれど、仕留めるにはそれで十分だった。
「俺ね、嘘つかれるのは嫌いだけど……本音が見えない交渉は、もっと嫌い」
声が低く、肌を撫でるように響く。
「でも――欲しいなら、あげるよ。交渉の場でも、それ以外でも」
笑っている。穏やかに、淫靡に。自らを“毒”と知っていて、あえて甘い香りで誘うような顔で。nameはこの手の懐柔において、一切のためらいがなかった。
どこまでが演技で、どこまでが本音か。それを見破るには、誰もが深みに足を取られすぎていた。ロシナンテは、そんな様子をただ静かに見ていた。驚かない。止めもしない。
ただ――“これだ”と、思っていた。
(……そういうとこなんだよ、お前は)
人の懐にするりと入って、見せたい顔だけを見せる。誘うように、嘲るように、媚びるように。
でもそのすべてが“真実”ではないと、ロシナンテは知っている。それを“知られても平気”だと思っているあたりが、nameという男の恐ろしさだった。相手の肩が緩むのが、はっきりわかった。声が穏やかに落ち着き、条件の変更も撤回される。表面上は、“理性的な話し合いの結果”に見えるだろう。
けれど、それを導いたのは明確に――nameの色と毒だった。
やがて、交渉は再び穏やかに進み出す。nameは何事もなかったかのように襟を戻し、資料を広げ直して微笑んだ。
「……よかった。話がわかる人で。俺、無駄なトラブル嫌いなんだ」
甘く、軽く、そして抜け目なく。静かに笑うその背を、ロシナンテは肩越しに見ながら、ページをめくる。ペン先がさらりと動き、短く記す。
【あんまり脱ぐな。目が滑る。】
nameはそのメモに目を落とし、ふふっと笑った。
「……ロシー、やきもち?」
返事はない。だが、ロシナンテの片眉がわずかに跳ねたのを、nameは見逃さなかった。
またひとつ、からかう材料が増えた――そんな風に、口元を緩めながら。
ふたりは、静かに交渉の終わりへと向かっていった。
空気が密やかに変わる。
周囲のざわめきや喧騒が吸い取られるように消え、世界がひとつ、静かに閉じていく。その“静寂”の中でだけ、彼の声が零れた。
「……ほんとに、やる気ない顔してるな、お前」
「だってほんとにやる気ないもん。ねぇロシー、なんで俺がわざわざあんな無愛想な奴のご機嫌取りしなきゃいけないの……?」
nameは溜息まじりにそう言って、ロシナンテの横で気怠そうに肩をすくめる。長い睫毛の下で目を細め、足元を見つめながら指先をくるくると弄んでいた。
「しかもほら、今日は余所行きの格好でしょ?こう、ちゃんと清潔感も演出してんの。俺にしては頑張ってる方だよ……」
「清潔感が“演出”な時点でだいぶ終わってる」
「暴言ッ!」
ロシナンテの苦笑混じりの声に、nameは振り向いて小さく抗議の声をあげる。しかし、その顔には本気の怒りはなく、むしろどこか甘えた笑みが滲んでいた。
「でもさぁ……ドフィが“ご褒美”って言ってたじゃん?なにがいいかな……」
「金?」
「うーん、嬉しいけど重たいし……あとでこっそり換金するのも面倒くさいし……やっぱ“えっち”なのがいいかもね?」
「……ドフィに言えんのか、そんなこと」
「言うのはタダでしょ?」
さらっと言って、にやりと笑うnameの横顔に、ロシナンテは少しだけ眉を上げる。いつもなら呆れたようにため息でもつくだろう。けれど今はナギナギの内側――“何を話しても、誰にも届かない”空間の中。そのせいか、少しだけ口元が緩んだ。
「じゃあ言ってみろよ。『ドフィ~えっちなご褒美ちょうだ〜い』って」
「それ絶対ロシー笑いこらえながら見てるでしょ……こわ……」
「笑いはしない。ただ引く」
「引かないで!?」
小さなやりとりが、ふたりだけの空間の中にふわりと浮かんでは、消えていく。そのたびに、ふたりの距離は自然と近づき、足取りもぴたりと揃っていった。
ロシナンテの肩は、nameの頭よりもずっと高い。その並びで歩くと、nameはどうしても見上げる形になる。けれど、それを気にする様子もなく、むしろその“大きさ”に自然と凭れかかるような空気をまとうのが、nameという男だった。
「……ねぇ、ロシーは?ご褒美もらえるならなにがいい?」
不意にそう問いかけると、ロシナンテは少しだけ沈黙して、そして――
「……何もいらない」
そう、静かに返した。その声はどこか、ふと沈んでいて、けれど確かだった。
「……お前が隣でぐだぐだ言ってるだけで、もう充分うるさくて面倒くさい」
「それ褒めてる?褒めてない?」
「少なくとも慰めてはない」
「やっぱ暴言ッ!」
またひとつ、笑いが漏れる。そしてその空気に紛れるようにして、nameはロシナンテの腕に指先を軽く引っかけた。
「……ロシー、そういうとこ甘いよね」
「何がだよ」
「俺みたいなの、ちゃんと隣にいさせてくれるとこ」
ふにゃり、と。微笑みは一瞬で、また歩調に戻る。その言葉の意味を深く探るようなことはしない。ロシナンテは、ふと視線を落とし、小さな背を一瞥してから、肩を竦める。
静寂の中、ふたりの足音だけが確かに響く。けだるげな軽口と、繋がる沈黙。
そして、それでも確実に進む“仕事”の匂いが、やがて街の奥から静かに迫っていた。
夕陽が地平にかかり始める頃、ふたりは街の裏手――表通りからは見えないよう、巧妙に選ばれた建物の一角へと辿り着いた。古びた石造りの外壁に、埃をかぶったランプ。
装飾のない重たい扉は、見た目にはただの倉庫にしか見えないが、ここが“取引”の場であることは、足を踏み入れる前から空気に沁み込んでいた。ロシナンテはそこでふっと足を止め、ナギナギの能力を解く。その瞬間、空間に再び外の音が戻ってくる。遠くを走る荷車の軋み、猫の鳴き声、軒先の誰かが風鈴を揺らす音――小さな生活音が、じわりと五感を包み込むように滲んできた。
静かに頷き合うと、ロシナンテは手帳を胸元に戻し、再び“口の利けない男”へと戻る。
代わりに、nameが一歩前へ出た。
「……さて、ロシー。おしごとモード、スイッチ入りました」
口元にはまだ笑みの名残がある。けれどその目には、確かな鋭さが宿っていた。大きな扉に手をかけ、金属の重みを感じながら押し開ける。軋む音が低く響き、中に篭った空気がふたりを包み込んだ。
乾いた木材の匂いと、そこに紛れた異質な香――
香水と葉巻と、皮革の擦れる音。
部屋の中には、すでに三人の男たちが座っていた。古びたソファに、使い込まれた木のテーブル。その中央に置かれた分厚い封筒と、濁ったウイスキーのボトル。空気の重さが、交渉が始まることを告げていた。
nameは一歩、踏み出す。すでにその肩からは、さっきまでの気怠げな雰囲気は消えていた。
声色も、立ち姿も、なにひとつ変えていないのに――周囲の空気が彼を“そういう男”として認識し始める。
まるで魔法のように。
「……お待たせ。ドン・キホーテファミリーから。代理で来てんの、俺とこっち」
そう言って軽く顎でロシナンテを示す。ロシナンテは言葉を発さず、ただ静かに首を下げ、いつものように手帳を胸元に掲げる。
「今からやる話は、耳も口も目も、それなりに信用できるやつにしか通してない。……安心してよ。うち、ちゃんと“沈めるべきところ”は沈める主義だから」
にこりと笑うその表情は、どこか穏やかですらある。けれど、その口元の温度とは裏腹に、彼の目はまるでガラスのように冷ややかだった。相手のひとりが、思わず小さく喉を鳴らす。それを、nameは見逃さない。
「……取引内容の確認。ドフ……うちの“若”からは、書類ひとつと、金額の再交渉の話が来てる。そっちは?」
ゆっくりと、テーブルの端に手をかけ、椅子には座らずそのまま立って相手の顔を順に見つめていく。
それぞれの仕草、視線の揺れ、指の動き、座る位置――
どんなに飄々としていても、nameは一度視線を交わせばすべてを見抜いていく。
「本音」と「建前」、「恐れ」と「見せかけの強がり」。そして、それが交渉においてどれだけの“取れる価値”を持つかを瞬時に見極める。ロシナンテはそんな彼の隣に立ち、静かにページをめくる。筆談で短く、必要な情報だけを記して、nameの横に差し出す。
【契約書の原案は提示済み。内容に変更なし。ただし署名は後日。】
nameはちらりと視線を落とし、手帳を受け取ると「ありがと、ロシー」とだけ小さく呟いた。
「……じゃあ、まずこっちの提示から。短く済ませたいしね、俺、飽きっぽいから」
その言葉と共に、ふたりの“仕事”は静かに、けれど確実に動き出した。軽薄さに潜む鋭さと、沈黙に宿る意思。それがこの男たちの“交渉”のやり方だった。嘘と真実の狭間で笑うように、今日もまた、闇の一部が組み替えられていく。交渉は序盤こそ順調に進んでいた。
nameの柔らかな口調と、ロシナンテの無言の重み。その“静と動”が心地よく拮抗し、相手方も表向きは礼節を保ちながら、手元の資料を静かに読み進めていた。
けれど――僅かなきっかけで、空気が変わった。
「……こちらとしては、この取り分はやや心許ない。前回と同等、もしくはそれ以上が妥当では?」
静かに主張してきたのは、相手側の中でも年長と思しき男。一見穏やかで理性的な語り口だったが、声の奥には警戒と、わずかな敵意がにじむ。交渉の席でよくある、“足をかけてくる”試み。
nameは眉ひとつ動かさずに、すっと表情を静めた。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目の奥に冷たい光が灯る。ロシナンテはその横顔を、静かに見ていた。ああ、また始まる、と――わかっていた。
「……そう来ると思ったんだよねぇ」
ふっと笑みを浮かべたnameは、手元の資料をそっと閉じてテーブルに置いた。
そしてゆっくりと、足を組み替える。姿勢を崩さずに、けれど自然な流れで、指先がシャツの襟元へ。上まできちんと閉じられていたボタンを、音もなく、ひとつ外す。
「うちの若はさ、“無理なら切れ”って言ってたけど。……俺、できればそういうの、避けたいんだよね」
首筋がのぞく。滑らかな鎖骨のライン、きらりと覗くピアスの光。甘い声に、視線がゆらぐ。
「ほら、俺ってさ……こう見えて、“お話”するの、得意なんだよ?」
そう言って、nameはまるでくすぐるように相手の目を覗き込んだ。睫毛の影が長く伸びる。軽やかに、無防備に、けれど致命的なほどに狙いすました目線。身体をほんの少し前に傾けて、膝がテーブルの縁に触れるか触れないかの距離にある。吐息が混じる距離で、声を落とす。
「……これでも、もうちょっと寄って話したら、ちゃんと話聞いてくれる?」
揶揄とも甘えともつかないその声に、相手のひとりが思わず喉を鳴らした。
わかりやすい。けれど、仕留めるにはそれで十分だった。
「俺ね、嘘つかれるのは嫌いだけど……本音が見えない交渉は、もっと嫌い」
声が低く、肌を撫でるように響く。
「でも――欲しいなら、あげるよ。交渉の場でも、それ以外でも」
笑っている。穏やかに、淫靡に。自らを“毒”と知っていて、あえて甘い香りで誘うような顔で。nameはこの手の懐柔において、一切のためらいがなかった。
どこまでが演技で、どこまでが本音か。それを見破るには、誰もが深みに足を取られすぎていた。ロシナンテは、そんな様子をただ静かに見ていた。驚かない。止めもしない。
ただ――“これだ”と、思っていた。
(……そういうとこなんだよ、お前は)
人の懐にするりと入って、見せたい顔だけを見せる。誘うように、嘲るように、媚びるように。
でもそのすべてが“真実”ではないと、ロシナンテは知っている。それを“知られても平気”だと思っているあたりが、nameという男の恐ろしさだった。相手の肩が緩むのが、はっきりわかった。声が穏やかに落ち着き、条件の変更も撤回される。表面上は、“理性的な話し合いの結果”に見えるだろう。
けれど、それを導いたのは明確に――nameの色と毒だった。
やがて、交渉は再び穏やかに進み出す。nameは何事もなかったかのように襟を戻し、資料を広げ直して微笑んだ。
「……よかった。話がわかる人で。俺、無駄なトラブル嫌いなんだ」
甘く、軽く、そして抜け目なく。静かに笑うその背を、ロシナンテは肩越しに見ながら、ページをめくる。ペン先がさらりと動き、短く記す。
【あんまり脱ぐな。目が滑る。】
nameはそのメモに目を落とし、ふふっと笑った。
「……ロシー、やきもち?」
返事はない。だが、ロシナンテの片眉がわずかに跳ねたのを、nameは見逃さなかった。
またひとつ、からかう材料が増えた――そんな風に、口元を緩めながら。
ふたりは、静かに交渉の終わりへと向かっていった。