15 y ago
name
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夜風が街路の隙間をすり抜けるようにして吹き抜ける頃。夕方の喧騒を少しだけ引きずったまま、コートの裾が薄暗い舗道をかすめる。重たく沈んだ空には、星のいくつかが顔を覗かせていた。
「……はぁー、まったくさぁ。なんで俺があの帳簿の数字までチェックさせられなきゃいけないわけ〜?しかもあのジジイさ、絶対途中から俺のことメイドかなんかと勘違いしてたでしょ?ほら、お茶は?とか、言ってたもん……!あ〜〜もう、つっかれたーっ」
nameの声は通りの石畳を転がるように響き、肩をぐるぐる回しながら一歩一歩に文句を乗せて歩く。その隣を歩くロシナンテはというと、長身を少しだけ傾けてnameの愚痴を聞き流し、どこか呆れと微笑みの中間のような顔をしていた。煙草を咥えているわけでも、笑っているわけでもないが、それでもその横顔には“甘さ”の成分がたっぷりと滲んでいる。
やがて、街灯の明かりがほとんど届かない小さな裏通りに足を踏み入れる。
そこは、あまり品のいい連中が集うような雰囲気ではなかったが、なぜか灯りだけはあたたかかった。
「……あ、ここ。入ろっか。ちょっとうるさそうだけど、ロシー、平気?」
nameが指差した先には、鉄枠のガラス窓からぼんやりと明かりが漏れる一軒の酒場。扉の上にかかった木製の看板は半ば朽ちており、酒の名前すら読み取れない。けれど中からは、楽しげな笑い声とグラスがぶつかる音、焼けた脂の匂いが漂っていた。ロシナンテは一瞬だけ考えた素振りを見せると、懐からノートを取り出し、数文字書きつける。
【平気。だけど隣から離れるな】
「はいはーい、わかってまーす、ロシーパパ〜」
舌をぺろりと出してnameが先に扉を押し開ける。開いた瞬間、室内から熱気と騒がしさが雪崩のように吹き出してきた。数人の酔っ払いがカードに夢中になっており、奥の方では船乗り風の男たちが喧嘩寸前の声で盛り上がっている。それでも、空いていたテーブル席にふたり並んで腰掛けると、不思議と馴染んでしまうのがこのふたりの距離感だった。
「……俺、もう今日はなんか脂っこい肉とかじゃなくていいや。温かいスープと……あ、でも魚のフライも食べたい。あと、酒……っていう顔してるけど、ロシー、またビールだけにしとくでしょ?」
ロシナンテはすかさずメモを開き、
【酒は一杯だけ。明日も仕事】
と書いて見せる。nameは思いっきりむくれた顔をして、頬を膨らませながらもその紙を奪い、そこに勝手に書き足す。
【でも今日は特別。俺、めちゃくちゃ頑張ったもん】
ロシナンテがそれを読んで、無言で視線を向ける。その目つきには、“分かってるが、甘やかすなよ”というような、年長者特有の苦笑いが滲んでいた。
料理が届くまでのあいだ、ふたりは紙の上で交わされる会話と、静かに混じる騒音のなかで、どこか不思議な安堵のようなものを共有していた。目まぐるしい任務のあとにだけ許される、この“普通”な時間。ありふれていながら、簡単には得られない数十分。nameの指先は時折テーブルの端を撫でながら、ふとロシナンテのグラスに目をやる。
「……ロシーさ、ほんとは今日は帰って休みたかった?」
ロシナンテは一瞬だけ視線を動かし、答えるかわりに紙を破り、新しいページにだけ文字を書いた。
【お前が一緒なら、どこでも休まる】
その一文に、nameは思わず目を丸くして、それから――
「……なにそれ、ずっるー」
と、照れ隠しに酒を一口、グラスを傾けた。笑い声に溶けるようにして、夜がゆっくりと更けていく。
グラスの内側に残る薄い泡が、時間の経過をぼんやりと知らせていた。脂の香りが少し落ち着きはじめた店内では、誰かの笑い声が弾け、安っぽい弦楽器が遠くで即興の音を鳴らしている。
nameは椅子にだらりと腰を預け、食べ終えた皿の縁に指を滑らせながら、ようやく一息ついたといった表情でロシナンテの方へ視線を送る。ロシナンテは黙々とグラスの底を見つめていた。普段より少しだけ顔が赤く、頬に落ちた髪が揺れるたび、その隙間から見える目元が静かに揺れている。
「……なーんかさ、こうやってさ、のんびり酒飲んでるとさ……明日も仕事だってのが信じらんないよねー……」
気の抜けた声でぼやきながら、nameは空になった皿の端を指で弾いた。
ふっと笑ったその直後だった。
「ちょっとぉ〜?そこのお兄さんたち、暇そうねぇ?」
明るく甘ったるい声が、酒と煙の混ざる空気をかき分けて飛んできた。見ると、派手なスカートと胸元を強調した服装の女たちが3人。香水と酒の匂いが混ざったような甘ったるい空気をまとって、ふたりのテーブルに滑り込んでくる。
「あら、アンタ若いじゃない。こんなとこで何してんの?」
「女の子と待ち合わせ?ってわけでもなさそうよねぇ」
艶っぽい笑みと、指先がnameの肩に触れる。nameは瞬き一つ分だけの間を置き、それから肩をすくめてふっと笑った。
「えー?俺?今日はもうジジイの相手してきたばっかで、マジくったくたー。これ以上相手してたら倒れるってー」
からかうような調子でそう言いながらも、その声色の下にあるのは、確かな“慣れ”。この手の誘いは、何度も経験している。その場を壊さず、無難に受け流す術を、身に染みて知っている者の空気。
「ジジイって、どのくらい〜?あたしたちより上?下?」
「えー……どうだろ。年は上だけど、こっちのが断然手が早いよ?……あーあ、今日くらい誰かに甘えられる方が嬉しいのにな〜」
そう言って、nameはテーブルの向こうに目をやった。ロシナンテのグラスの向こう。――けれど、彼の姿は、その女たちの肩と背中の影に埋もれていた。
「こっちのお兄さんの方が優しそうだし、ねぇ?」
「しゃべんないの?ねえねえ、つまんないのぉ」
「こっち向いてよぉ〜」
色めいた声が、いくつも重なりながらロシナンテの席を囲んでいく。肩に手を置かれ、腕をなぞられ、香り立つような笑みが至近距離でぶつけられても、ロシナンテは無言のまま微動だにしない。ただ、紙とペンには指を伸ばさず、煙草も咥えず、まるで嵐が過ぎるのをじっと待っているような顔をしていた。
その様子に、nameの唇がわずかに歪む。軽口を叩いていたはずの声も止まり、グラスの縁を指先で弾きながら、その視線だけがロシナンテの背後へと張りついている。その瞬間、笑い声がひとつ大きく弾け――ロシナンテの肩へ、唇を近づけるような影が落ちる。ロシナンテの肩に手を滑らせた女が、挑発的に首を傾けた。その笑みは艶めいていたが、同時に見透かすような冷たさも孕んでいる。彼の無言を“許し”と解釈したのだろう、もう一人の女がその腿に触れようと身を乗り出した――その瞬間。
「……ねぇ、ロシー」
低く抑えたnameの声が、酒場のざわめきに溶けきらずに届く。わざとらしくグラスを揺らして立ち上がり、そのままロシナンテの椅子の背後へと回り込んだ。女たちの香水の層を裂くように、その身体が滑り込んでいく。
「そんなに人気者だったっけ?……ああ、そっか、最近色気ついてきたもんね、ロシーってば」
わざとだ。誰の目にも明らかだった。nameはそのまま、ロシナンテの肩へ片腕をかけ、顔を近づける。睫毛が触れるか触れないかの距離で、横顔を覗き込んだ。
「ねぇ、俺のこと、忘れちゃった?」
冗談めかした声。けれど、その目は笑っていない。軽さの奥に見えるのは、微かな苛立ちと焦り、そして…独占欲。周囲の空気が微かに変わる。女たちのうち一人が眉をひそめ、もう一人は興味を失ったように手を引いた。
nameの“男”としての存在感――それが今、この場に明確に現れた瞬間だった。ロシナンテは、nameの肩越しに女たちを見やった。その瞳に感情の色は薄い。けれど唇の端にわずかに浮かぶ笑みは、明らかに愉しんでいるものだった。紙もペンも使わず、ロシナンテはただ片手を伸ばした。
その手が、nameの腰を掴み――ぐいと、力強く引き寄せる。
「……っ」
一瞬、身体が浮きかけた。けれどすぐに、ロシナンテの膝の上に落ちるようにして座らされる。そのまま動きを封じるように、太ももに片腕を回され、肩へと顎を預けられた。
女たちがざわめく。店内の騒がしさの中、彼らの一角だけが奇妙に静まり返る。ロシナンテの頬が触れるほど近くで、nameはわずかに震えていた。
怒っている、というより、やられたなという気持ち。けれど、その震えの理由は、半分以上が――熱のせいだった。
「……ったく……」
nameは小さく舌打ちした。けれど、逃れようとはしなかった。ロシナンテの腕の中で、わずかに体重を預けるようにしながら、自分が今、“選ばれた”側であることを、意識せずにはいられなかった。
女たちは気まずげな視線を交わしつつ、肩をすくめ、グラスを片手に別の男たちのもとへと流れていった。その艶やかさも、香水の残り香も、まるで見せ物が終わった舞台のように虚ろな余韻を残して消えていく。騒がしい店内に再び日常の喧騒が戻る中、彼らの席だけは妙に熱を持った静けさがあった。
nameは未だ膝上にある自分の位置に意識を向けていた。熱っぽい体温と、がっしりとした腕の感触。頭ではそろそろ降りないと――と判断していても、身体は微妙に迷っていた。
とはいえ、このままでは自分の沽券に関わる。
「……はいはい、もう十分でしょ。降りるから。降りまーす」
言いながら軽くロシナンテの腕を叩いたが、その腕はぴくりとも動かない。
むしろわずかに、きゅっと抱き寄せられる力が増す。それに気づいて、nameの顔がほんのり赤くなった。
「……ロシー?」
ロシナンテは、無言のまま上半身を少し起こし、ジャケットの内ポケットから小さなメモを取り出す。ゆっくりとした筆致で、数文字を書きつけた。その動作が妙に堂に入っているのもまた、くすぐったい。そして差し出された紙片には、こう記されていた。
【嫉妬、した?】
nameの眉がぴくりと動く。唇を尖らせたまま、紙を奪い取るようにして読み、ちらとロシナンテの横顔を見る。その表情には、明らかに“確信犯”の色が滲んでいた。
「……何それ。やっぱりわざと黙ってたの?無抵抗でモテまくって、俺の反応見るつもりだったの?」
ロシナンテは肩をすくめるようにして、またペンを走らせる。
【必死だったな】
「っ……!」
一瞬、言葉が詰まった。顔が熱いのは酒のせいだけじゃない。けれど、ここで黙るわけにもいかない。
「はいはい、必死でしたー。でもねぇ、こっちは一日ジジイとやりとりしてきたの。癒しが欲しかったの。で、やっと会えたと思ったらモテモテモード全開とか、普通にムカつくから」
目をそらすでもなく、真っ直ぐにロシナンテを見つめながら、わざとらしく拗ねた口調を織り交ぜる。その態度が、より一層“甘えてる”ように見えることに、当人は気づいているのかいないのか。ロシナンテは口元にわずかな笑みを浮かべながら、新たな言葉を記す。
【癒しなら、俺がいるだろ】
その一文を目にして、nameは思わず吹き出した。小さく笑いながら、けれどもほんのりと、胸の内側が熱を帯びてくる。
「……ずるいんだよ、そういうとこ」
そうぼやいてみせたものの、降りる意志はすっかりどこかへ消えていた。ロシナンテの膝の上で、ぴたりと身体を預け直す。その仕草は、まるで最初から“ここ”が指定席だったかのように自然で――周囲のざわめきの中、ふたりの静かな世界は、何も言わず、ゆっくりとその輪郭を深めていった。
「ん〜〜、もういっそこのまま抱っこして帰ってくれていいよ。俺、今日は歩くのもしゃべるのもしたくない気分」
グラスを空にしたタイミングで、nameはとろけたような声を漏らした。ロシナンテの膝の上に収まったまま、身体の重さをわざと預けるようにしてぐにゃりと身を傾ける。肩口に頭をこすりつける仕草は、甘えとも媚びともつかない、けれど極めて自然なものだった。肌に触れる布の感触と、ほのかに香る煙草の残り香。それらが酒と混じって、心地よい緩さを生んでいた。
「ねぇ、ロシー。あの、アレ……今日の報告。アレもさぁ、もういいよね?明日でも良くない?ってかロシーがやってよ、代わりに」
ロシナンテは半眼でnameを見下ろす。無言のまま、ゆっくりとメモ帳を取り出し、さらさらと走り書く。少しして差し出された文字列には、こうあった。
【甘えすぎ】
「うっ……」
一撃だった。痛いところを突かれたnameは、顔をしかめて上目遣いにロシナンテを見る。
「えー……じゃあちょっとくらいさ……これまでのご褒美的な感じでさ……」
言い訳めいた甘え声を続けるが、ロシナンテは応じない。代わりに、がしっと脇に腕を回すと、少し勢いをつけてnameを膝の上から降ろした。
「わっ、ちょ、ちょい乱暴!」
ふらついた足元を立て直しながら、nameはぶつくさと不満を口にする。
頬はふくれ、腕組みまでして見せるが、それがなおさら子どもじみた仕草に見えて――ロシナンテは肩を揺らし、声にならない笑いを零した。
「……なに笑ってんの」
nameが拗ねたように言えば、ロシナンテはまたメモを取り出して一言。
【いつも通り】
「……なっ」
言いかけて、口を閉じた。その一言が、なぜか心の奥にすとんと落ちた気がした。騒がしい酒場のざわめきの中で、ふたりの間に流れる空気は、さっきまでの甘ったるさよりも、少しだけあたたかくて、少しだけ落ち着いていた。nameは観念したようにため息を吐き、くしゃっと髪をかき乱す。
「はいはい、わかってる。ちゃんと歩いて帰りますよ。報告もします。ええ、やりますとも」
そうぼやきながらも、背筋を伸ばして隣に立つロシナンテの歩調に合わせる。彼の肩越しに見える明かりが、夜の終わりを告げるように、ゆらりと揺れていた。