15 y ago
name
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夕暮れの赤が濃く染まり始めた時間帯、指定された会合の場へと二人は足を踏み入れた。通されたのは、豪奢さと粗雑さが入り混じったような応接間。金の装飾で彩られた壁紙と、使い古された皮張りのソファ。整っているようで、どこか雑然とした空気。その違和感を嗅ぎ取るように、グラディウスは一歩、先に出る。
「……予定通りの人数じゃねぇな。増えてる」
低く呟かれた言葉は相手方には届かないように押さえられていたが、その視線の鋭さには威圧が含まれていた。向かいの長椅子に座るのは、中年の男が一人。その背後には、明らかに“交渉役”ではない筋肉質の護衛が二人。場慣れしているはずのグラディウスですら、わずかに鼻を鳴らす。
だが──。
「ごきげんよう、諸君。今日は正式な話で来てくれたんだろう?」
間延びした挨拶の言葉に、グラディウスは即答しない。ただ、静かに席へと歩を進める。そして無言のまま椅子に腰を下ろした。そのすぐ後ろに、白い影がふわりと揺れて続いた。
nameだ。白いコートの存在感は、この場において際立っていた。やわらかく波打つその裾が揺れるたび、どこか異質な空気が部屋に流れ込む。無表情とまではいかないが、柔和さや愛想の欠片すらも見せないその立ち姿は、ただ“そこにいるだけ”で、抑圧的な気配を振りまいていた。
グラディウスが静かに話を切り出す。条件、価格、取引場所。次々に言葉が交わされる中、相手方は慎重に──だが明らかに、どこかで躊躇いの色を見せた。
「……だが、そちらの言う数字ではこちらの利益が……」
声が濁った瞬間だった。白い影がわずかに動く。
「利益って言葉、好きです。効率的で、結果がはっきりしてて」
場に不似合いなほど軽やかに、しかし滑らかに、nameが口を開いた。
細い指が、持っていた黒革の手帳の角をゆっくりと撫でる。その動きすら、奇妙な威圧感を孕んでいる。
「でも、“こちら”が求めてるのは利益じゃなくて、“秩序”なんです。ほら、混乱とか、争いとか、ドフ──っていうか、うちのボス、そういうの、好きじゃないんで」
微笑みすら浮かべぬまま、口元だけがわずかに動く。まるで“次に口を滑らせたらどうなるか”、それを想像させるために存在する言葉だった。相手の背後の護衛が、わずかに姿勢を正す。無言の圧。喉が鳴る音すら聞こえそうな沈黙が、数秒の間を支配した。
「……ふむ。なるほど。それなら、我々も歩み寄らないといけませんな」
「嬉しいな、それ。ね、グラちゃん」
「……余計なこと言うな」
グラディウスは目を細め、わずかに溜息を漏らしたが、口調はどこか緩んでいた。さっきまでソファに寝転がって「やだやだ」と喚いていた姿など、ここには欠片もない。“白い悪魔”。確かに、名は体を表すのかもしれない。だがそれは、ただの噂や誤解ではない──この場に立ち会えば、誰もが認めざるを得ない実在する圧だ。
「……交渉、続けるぞ。細かい詰め、まだ終わってねぇ」
「はーい。つづき、がんばってね、グラちゃん」
ヒラリと揺れる白のコートが再び背後に下がり、nameは無言で立ち位置を戻す。その動作ひとつが、再び部屋の空気を張り詰めさせる。
──“成している”。確かに、その言葉通りだった。ここでの“name”は、間違いなくその名の通りの存在だった。
そして、だからこそグラディウスは隣に座らせている。その交渉は、まだ終わりではなかった。だが、勝負の趨勢はすでに半ば以上──傾き始めていた。
先方の男が一度言葉を切ったあと、卓の上に置いたグラスの水をゆっくりと回す。くるくると回る氷の音が、しんとした空気をかき乱すように響いた。
そして何気ない風を装って──その視線が、ちらりとnameへ向けられた。
一瞬のことだった。だが、それだけで充分だった。
「……なるほど。そちらの提示に歩み寄るのであれば、我々にも何か、誠意を見せていただく必要がありますな」
低く落とされたその声には、どこか芝居がかった気配があった。この場にいる者すべてが、言葉の“裏”に気づいていた。誰もが。──とりわけ、当事者であるnameは、その意図にいち早く気づいていた。
白いコートの裾がふわりと揺れる。nameは何も言わずに、ただ一歩前へ出た。それだけで、男の顔にはうっすらとした笑みが浮かぶ。言葉は、不要だった。
(……ああ、そういうこと、なんだね)
頭の中で納得の声が響く。ドフラミンゴに「グラディウスについていけ」と言われたとき。ただの気まぐれかと思っていた。あるいは、嫌がらせか、構ってくれてるだけかと。けれど──違った。きっと、最初からこうなることを“読んでいた”。
(……ドフラミンゴ、ほんと、いやらしいな……)
舌打ちすらせず、nameはただ微かに息をつく。躊躇はない。こういう交渉の“役割”は、自分の仕事。若干の屈辱や嫌悪を飲み込むことはあっても、それは感情の問題でしかなかった。相手を飲ませるための“鍵”が自分だとしたら、それを使うのは仕事のうちでしかない。
「──で、それが取引条件に“なる”ってことでいいのかな?」
静かに、柔らかく、nameが口を開いた。その声音には棘も甘さもなかった。ただ、“確かめ”の意図だけが込められていた。
「ええ。もちろん、お嫌でなければ」
「嫌だったら、ここにいないよ」
短く笑って、ふわりと肩をすくめた。相手の男はますます笑みを深くし、手元の契約書類にサインの用意を始める。グラディウスが小さく唇を噛んだのが、nameの視界の端でわかった。ほんの一瞬、グラディウスの目がこちらに向けられる。その奥にある、なんとも言えない感情──苛立ちとも、無力感ともつかない、若者らしい未熟な正義感の揺らぎがあった。
だが、nameはそれに何も言わなかった。言う意味も、必要もなかった。
(……優しいね、グラちゃん。けど、慣れてるんだよ、こういうの)
言葉には出さず、ただいつものように微笑を貼り付けて。彼は、再び交渉の“駒”としての役割に収まった。──仕事だった。それ以上でも、それ以下でもない。ドフラミンゴの命令で、ここに来て。思惑を“通すため”に、ただ動いているだけ。白いコートがまた揺れる。光を弾くその柔らかさと裏腹に、その奥には──確かに、冷たく固く、重たい“役目”が潜んでいた。
「……じゃあ、待っててね。長引いたらごめんね、グラちゃん」
いつも通りの軽口を残して、nameは男たちとともに奥の部屋へと消えていった。その背中を、グラディウスは何も言えずに、ただ見送るしかなかった。
重々しい扉が内側から静かに開いたのは、それからおよそ一時間後のことだった。部屋の奥から姿を現したnameは、先ほどとはまるで別人のような気配を纏っていた。とはいえ衣服は整い表向きには乱れはなく、髪型も崩れていない。いつもの白いコートも皺ひとつないまま、肩に綺麗に落ちていた。──それでも、彼の目元と肩口には、否応なく滲んだ“疲れ”があった。ふ、とグラディウスの視線が向けられる。nameはそれに気づいて、ほんのわずかに口元を上げてみせた。
「交渉、まとまった?」
「ああ……無事、まとまった」
グラディウスは短く頷きながら、相変わらず表情は渋かった。契約書類の控えをまとめ、鞄へと仕舞い込む。事務的な所作のひとつひとつに、まだわずかな苛立ちが混じっていた。nameはそれを横目に、肩をひとつすくめる。
「だろうねー。……あんだけ“手間”かけて、無理だったら泣いちゃうよ」
苦笑混じりの声は、いつもの調子に戻りつつあった。それでも、どこかくぐもっているのは疲弊のせいだろう。先方の男たちが礼を述べてくる。営業的な、それでいて下卑た本音を押し隠したような、妙に甘ったるい声で。nameはそれにも、笑みを崩さず応じた。なめらかに、穏やかに、プロフェッショナルな顔を貼りつけたまま、まるで“何もなかった”かのように──。
「こちらこそ、お世話になりましたぁ。また、よろしくお願いしますね?」
挨拶を交わし、ドアを開け、グラディウスと共に屋敷を後にする。
外の空気は、思いのほか涼しく、冷たい。その冷気が肌を撫でた瞬間、nameの肩がわずかに弾かれたように揺れた。そして次の瞬間、白いコートの襟を片手で雑に立てながら、nameは大きく溜息をついた。
「──っつっかれたぁ……あーもう……最悪、マジで……っ」
一気に崩れた。張りつめていた表情も、背筋も、声色も。ドアをひとつ挟んだだけで、“白い悪魔”はどこかへと消えていた。
「なんでこんな目に……もー……今日絶対、甘いもん食べる、バケツサイズで」
ぐちぐちと文句を零しながら、肩をすくめ、歩幅もやや小さくなったname。その姿を、隣のグラディウスはちらりと横目で見る。しばらく何も言わず、ただ無言で歩く。やがて、小さくひとつ、ため息のように漏れる声。
「……お前さ、やっぱ、おかしいよな」
「え?なにが?」
「“仕事”にしちゃ、やけに慣れすぎてんだよ、全部」
そう言ったあと、グラディウスはもう何も言わなかった。nameも、それ以上は問い返さなかった。ただ、わずかに唇の端を上げ──どこか空虚な笑みを浮かべた。二人の足音だけが、薄暗い路地に静かに響いていた。
静かに開かれた扉の向こうには、先ほどと変わらぬ空気が漂っていた。ドフラミンゴの部屋は、どこか湿り気を帯びた甘い煙の残り香と、落ち着いた照明の下で沈黙を保っていた。ソファに凭れたまま、書類に視線を落としていたドフラミンゴは、戻ってきた二人にちらりとだけ目を向ける。その視線は鋭くも緩やかで、どこか楽しげなものすら滲ませていた。
「戻ったか。……問題はなかったか?」
投げかけられた問いに、先に口を開いたのはグラディウスだった。
「ええ、若様。条件面はすべて合意に達しました。滞りはありませんでした」
ドフラミンゴの視線がわずかに逸れて、隣のnameへと滑る。その時にはもう、nameは大きく息を吐き出しながら部屋の中へとズカズカと入り込んでいた。
「ったくもう、最悪……ほんとマジで、あんな奴らに媚び売るのどんだけ面倒だと思ってんのドフィ……!」
ぐちぐちと文句をこぼしながら、nameは白いコートの裾を乱暴に脱ぎ捨てるようにソファの背に引っ掛ける。その態度も言葉も、出発前とは比べ物にならないほどのラフさだ。
「“問題なかった”って、あのねえ……俺がどんだけ頑張ったか知らないでしょ?!絶対わかってて俺を付き添わせたよね、ドフィ!完全に確信犯!!」
ソファの背をバンと叩いて、nameは詰め寄る。唇を尖らせた表情には怒りと疲労と、どこか子供っぽい甘えが混じっていた。ドフラミンゴはわずかに笑う。薄く、喉の奥で転がすようなその笑みは、すべてを予測していたことを如実に物語っていた。
「……で?」
その一言に、nameはさらに頬を膨らませるように顔をしかめた。
「“で?”じゃないよっ!この扱いほんとに割に合わない!俺は“白い悪魔”で、使い勝手いいのは自覚してるけどさぁ……せめてキスのひとつでもくれなきゃ、やってらんないってば!」
わざとらしく肩を落とし、ぐったりとドフラミンゴの膝元に凭れかかるように寄る。その口調は拗ねた子供そのものだ。そして──ドフラミンゴは、構わず笑った。隣に立つグラディウスがいることも、空間の空気も、何もかも気にする素振りはなかった。ぐいと顎を取り、引き寄せたその唇に、躊躇なく自分のそれを落とす。
深く、舌を絡ませるように。まるで「報酬」のように、あるいは「躾」のように。唇の温度に、nameの身体がぴくりと震える。つい数時間前、他人に与えた身体のぬくもりとは別物だ。──欲しいのは、結局この熱だと、そう言っているようだった。
「っ……ふ、ん……」
甘く掠れた息が漏れる。名残惜しそうにドフラミンゴの手が顎を離すと、ようやくその場に沈黙が戻った。
「……ほんと、図々しいな。お前は」
すぐ傍で、グラディウスがぼやくように呆れた声を漏らす。けれど、どこか仕方ないという色が滲んでいた。nameは唇を拭いもせず、満足げに息を吐くと、ソファに沈み込んでまた脚を投げ出す。
「ふふーん。そーゆーの、言われ慣れてるんで」
その姿は、もうすっかり“いつものname”だった。甘ったるい煙の残り香が、再び部屋を満たしていく。
廊下の向こうから、重たい足音が二度、三度。扉の前で一拍、ためらうような間があってから、控えめにノックの音が響いた。ドフラミンゴが手元の書類から視線を外すよりも早く、nameはぴくりと肩を動かす。その反応はまるで耳が先に察知していたかのようで、すぐに、表情が柔らかく緩んだ。
「……ロシーだ」
呟きと同時にドアが静かに開き、現れたのは、コートを脱ぎかけたロシナンテだった。肩にかかる金髪がわずかに乱れていて、長い外回りを終えたあとの疲労感が全身に滲んでいる。けれどその視線がnameに向いた瞬間、ほんのわずかだが頬が緩むのが見えた。
「おつかれさま、ロシー。あのね、俺、今日すごい頑張ったんだよ?もうヘトヘト。褒めて、甘やかして〜……」
ソファの背にもたれたまま、nameは上目遣いに手をひらひらと振る。その声にわざとらしい力がないのも、疲れた演技をしているのでもなく、ほんとうに“気が抜けた”者だけが見せられる、素の甘え方だった。ロシナンテは黙って、ジャケットのポケットから紙とペンを取り出し、数文字を書いてnameへと差し出す。
【よく頑張ったな。偉い】
そのたった一文に、nameは照れたように唇を尖らせる。
「……わかってんじゃん、ロシー。さすが俺のロシーだよ〜」
身体をねじってロシナンテのそばまで行き、少しだけ腕に自分の額を預けるように寄りかかる。ロシナンテはそれを拒むこともなく、どこか当たり前のようにその距離を受け入れていた。
グラディウスはそれを斜めから見ていたが、何も言わなかった。ただ、口を引き結んだまま、眉間のしわがほんの少しだけ深くなる。──nameがロシナンテには特別に懐いているのは、知っている。その甘え方が、他の誰に向けるものとも違うのも。
だが、それでも。黙っていられるのは、グラディウスが理性の男だからだ。
思考と感情の狭間で、それ以上を言葉にすることはなかった。
【報告】
ロシナンテはようやくドフラミンゴの方へ向き直り、手短に今日の任務の内容を筆談でまとめ始める。ドフラミンゴは適当に頷きながら、最後に短く笑った。
「フッフッフ……まぁ、今日も上々ってとこだな」
それを合図のように、ロシナンテは何のためらいもなくnameの手首を取り、「じゃあ行くぞ」とも言わずにそのまま部屋を出ていこうとした。nameもまた、何の躊躇いも見せなかった。握られた手を嬉しそうに小さく握り返しながら、まるで当然のように隣を歩く。その後ろ姿には、言葉のやりとり以上に確かなものがあった。
──ロシナンテと、name。
主従でもなく、兄弟でもなく。けれど確かに、そのあたたかなつながりは、nameにとっても“帰る場所”だった。
「……予定通りの人数じゃねぇな。増えてる」
低く呟かれた言葉は相手方には届かないように押さえられていたが、その視線の鋭さには威圧が含まれていた。向かいの長椅子に座るのは、中年の男が一人。その背後には、明らかに“交渉役”ではない筋肉質の護衛が二人。場慣れしているはずのグラディウスですら、わずかに鼻を鳴らす。
だが──。
「ごきげんよう、諸君。今日は正式な話で来てくれたんだろう?」
間延びした挨拶の言葉に、グラディウスは即答しない。ただ、静かに席へと歩を進める。そして無言のまま椅子に腰を下ろした。そのすぐ後ろに、白い影がふわりと揺れて続いた。
nameだ。白いコートの存在感は、この場において際立っていた。やわらかく波打つその裾が揺れるたび、どこか異質な空気が部屋に流れ込む。無表情とまではいかないが、柔和さや愛想の欠片すらも見せないその立ち姿は、ただ“そこにいるだけ”で、抑圧的な気配を振りまいていた。
グラディウスが静かに話を切り出す。条件、価格、取引場所。次々に言葉が交わされる中、相手方は慎重に──だが明らかに、どこかで躊躇いの色を見せた。
「……だが、そちらの言う数字ではこちらの利益が……」
声が濁った瞬間だった。白い影がわずかに動く。
「利益って言葉、好きです。効率的で、結果がはっきりしてて」
場に不似合いなほど軽やかに、しかし滑らかに、nameが口を開いた。
細い指が、持っていた黒革の手帳の角をゆっくりと撫でる。その動きすら、奇妙な威圧感を孕んでいる。
「でも、“こちら”が求めてるのは利益じゃなくて、“秩序”なんです。ほら、混乱とか、争いとか、ドフ──っていうか、うちのボス、そういうの、好きじゃないんで」
微笑みすら浮かべぬまま、口元だけがわずかに動く。まるで“次に口を滑らせたらどうなるか”、それを想像させるために存在する言葉だった。相手の背後の護衛が、わずかに姿勢を正す。無言の圧。喉が鳴る音すら聞こえそうな沈黙が、数秒の間を支配した。
「……ふむ。なるほど。それなら、我々も歩み寄らないといけませんな」
「嬉しいな、それ。ね、グラちゃん」
「……余計なこと言うな」
グラディウスは目を細め、わずかに溜息を漏らしたが、口調はどこか緩んでいた。さっきまでソファに寝転がって「やだやだ」と喚いていた姿など、ここには欠片もない。“白い悪魔”。確かに、名は体を表すのかもしれない。だがそれは、ただの噂や誤解ではない──この場に立ち会えば、誰もが認めざるを得ない実在する圧だ。
「……交渉、続けるぞ。細かい詰め、まだ終わってねぇ」
「はーい。つづき、がんばってね、グラちゃん」
ヒラリと揺れる白のコートが再び背後に下がり、nameは無言で立ち位置を戻す。その動作ひとつが、再び部屋の空気を張り詰めさせる。
──“成している”。確かに、その言葉通りだった。ここでの“name”は、間違いなくその名の通りの存在だった。
そして、だからこそグラディウスは隣に座らせている。その交渉は、まだ終わりではなかった。だが、勝負の趨勢はすでに半ば以上──傾き始めていた。
先方の男が一度言葉を切ったあと、卓の上に置いたグラスの水をゆっくりと回す。くるくると回る氷の音が、しんとした空気をかき乱すように響いた。
そして何気ない風を装って──その視線が、ちらりとnameへ向けられた。
一瞬のことだった。だが、それだけで充分だった。
「……なるほど。そちらの提示に歩み寄るのであれば、我々にも何か、誠意を見せていただく必要がありますな」
低く落とされたその声には、どこか芝居がかった気配があった。この場にいる者すべてが、言葉の“裏”に気づいていた。誰もが。──とりわけ、当事者であるnameは、その意図にいち早く気づいていた。
白いコートの裾がふわりと揺れる。nameは何も言わずに、ただ一歩前へ出た。それだけで、男の顔にはうっすらとした笑みが浮かぶ。言葉は、不要だった。
(……ああ、そういうこと、なんだね)
頭の中で納得の声が響く。ドフラミンゴに「グラディウスについていけ」と言われたとき。ただの気まぐれかと思っていた。あるいは、嫌がらせか、構ってくれてるだけかと。けれど──違った。きっと、最初からこうなることを“読んでいた”。
(……ドフラミンゴ、ほんと、いやらしいな……)
舌打ちすらせず、nameはただ微かに息をつく。躊躇はない。こういう交渉の“役割”は、自分の仕事。若干の屈辱や嫌悪を飲み込むことはあっても、それは感情の問題でしかなかった。相手を飲ませるための“鍵”が自分だとしたら、それを使うのは仕事のうちでしかない。
「──で、それが取引条件に“なる”ってことでいいのかな?」
静かに、柔らかく、nameが口を開いた。その声音には棘も甘さもなかった。ただ、“確かめ”の意図だけが込められていた。
「ええ。もちろん、お嫌でなければ」
「嫌だったら、ここにいないよ」
短く笑って、ふわりと肩をすくめた。相手の男はますます笑みを深くし、手元の契約書類にサインの用意を始める。グラディウスが小さく唇を噛んだのが、nameの視界の端でわかった。ほんの一瞬、グラディウスの目がこちらに向けられる。その奥にある、なんとも言えない感情──苛立ちとも、無力感ともつかない、若者らしい未熟な正義感の揺らぎがあった。
だが、nameはそれに何も言わなかった。言う意味も、必要もなかった。
(……優しいね、グラちゃん。けど、慣れてるんだよ、こういうの)
言葉には出さず、ただいつものように微笑を貼り付けて。彼は、再び交渉の“駒”としての役割に収まった。──仕事だった。それ以上でも、それ以下でもない。ドフラミンゴの命令で、ここに来て。思惑を“通すため”に、ただ動いているだけ。白いコートがまた揺れる。光を弾くその柔らかさと裏腹に、その奥には──確かに、冷たく固く、重たい“役目”が潜んでいた。
「……じゃあ、待っててね。長引いたらごめんね、グラちゃん」
いつも通りの軽口を残して、nameは男たちとともに奥の部屋へと消えていった。その背中を、グラディウスは何も言えずに、ただ見送るしかなかった。
重々しい扉が内側から静かに開いたのは、それからおよそ一時間後のことだった。部屋の奥から姿を現したnameは、先ほどとはまるで別人のような気配を纏っていた。とはいえ衣服は整い表向きには乱れはなく、髪型も崩れていない。いつもの白いコートも皺ひとつないまま、肩に綺麗に落ちていた。──それでも、彼の目元と肩口には、否応なく滲んだ“疲れ”があった。ふ、とグラディウスの視線が向けられる。nameはそれに気づいて、ほんのわずかに口元を上げてみせた。
「交渉、まとまった?」
「ああ……無事、まとまった」
グラディウスは短く頷きながら、相変わらず表情は渋かった。契約書類の控えをまとめ、鞄へと仕舞い込む。事務的な所作のひとつひとつに、まだわずかな苛立ちが混じっていた。nameはそれを横目に、肩をひとつすくめる。
「だろうねー。……あんだけ“手間”かけて、無理だったら泣いちゃうよ」
苦笑混じりの声は、いつもの調子に戻りつつあった。それでも、どこかくぐもっているのは疲弊のせいだろう。先方の男たちが礼を述べてくる。営業的な、それでいて下卑た本音を押し隠したような、妙に甘ったるい声で。nameはそれにも、笑みを崩さず応じた。なめらかに、穏やかに、プロフェッショナルな顔を貼りつけたまま、まるで“何もなかった”かのように──。
「こちらこそ、お世話になりましたぁ。また、よろしくお願いしますね?」
挨拶を交わし、ドアを開け、グラディウスと共に屋敷を後にする。
外の空気は、思いのほか涼しく、冷たい。その冷気が肌を撫でた瞬間、nameの肩がわずかに弾かれたように揺れた。そして次の瞬間、白いコートの襟を片手で雑に立てながら、nameは大きく溜息をついた。
「──っつっかれたぁ……あーもう……最悪、マジで……っ」
一気に崩れた。張りつめていた表情も、背筋も、声色も。ドアをひとつ挟んだだけで、“白い悪魔”はどこかへと消えていた。
「なんでこんな目に……もー……今日絶対、甘いもん食べる、バケツサイズで」
ぐちぐちと文句を零しながら、肩をすくめ、歩幅もやや小さくなったname。その姿を、隣のグラディウスはちらりと横目で見る。しばらく何も言わず、ただ無言で歩く。やがて、小さくひとつ、ため息のように漏れる声。
「……お前さ、やっぱ、おかしいよな」
「え?なにが?」
「“仕事”にしちゃ、やけに慣れすぎてんだよ、全部」
そう言ったあと、グラディウスはもう何も言わなかった。nameも、それ以上は問い返さなかった。ただ、わずかに唇の端を上げ──どこか空虚な笑みを浮かべた。二人の足音だけが、薄暗い路地に静かに響いていた。
静かに開かれた扉の向こうには、先ほどと変わらぬ空気が漂っていた。ドフラミンゴの部屋は、どこか湿り気を帯びた甘い煙の残り香と、落ち着いた照明の下で沈黙を保っていた。ソファに凭れたまま、書類に視線を落としていたドフラミンゴは、戻ってきた二人にちらりとだけ目を向ける。その視線は鋭くも緩やかで、どこか楽しげなものすら滲ませていた。
「戻ったか。……問題はなかったか?」
投げかけられた問いに、先に口を開いたのはグラディウスだった。
「ええ、若様。条件面はすべて合意に達しました。滞りはありませんでした」
ドフラミンゴの視線がわずかに逸れて、隣のnameへと滑る。その時にはもう、nameは大きく息を吐き出しながら部屋の中へとズカズカと入り込んでいた。
「ったくもう、最悪……ほんとマジで、あんな奴らに媚び売るのどんだけ面倒だと思ってんのドフィ……!」
ぐちぐちと文句をこぼしながら、nameは白いコートの裾を乱暴に脱ぎ捨てるようにソファの背に引っ掛ける。その態度も言葉も、出発前とは比べ物にならないほどのラフさだ。
「“問題なかった”って、あのねえ……俺がどんだけ頑張ったか知らないでしょ?!絶対わかってて俺を付き添わせたよね、ドフィ!完全に確信犯!!」
ソファの背をバンと叩いて、nameは詰め寄る。唇を尖らせた表情には怒りと疲労と、どこか子供っぽい甘えが混じっていた。ドフラミンゴはわずかに笑う。薄く、喉の奥で転がすようなその笑みは、すべてを予測していたことを如実に物語っていた。
「……で?」
その一言に、nameはさらに頬を膨らませるように顔をしかめた。
「“で?”じゃないよっ!この扱いほんとに割に合わない!俺は“白い悪魔”で、使い勝手いいのは自覚してるけどさぁ……せめてキスのひとつでもくれなきゃ、やってらんないってば!」
わざとらしく肩を落とし、ぐったりとドフラミンゴの膝元に凭れかかるように寄る。その口調は拗ねた子供そのものだ。そして──ドフラミンゴは、構わず笑った。隣に立つグラディウスがいることも、空間の空気も、何もかも気にする素振りはなかった。ぐいと顎を取り、引き寄せたその唇に、躊躇なく自分のそれを落とす。
深く、舌を絡ませるように。まるで「報酬」のように、あるいは「躾」のように。唇の温度に、nameの身体がぴくりと震える。つい数時間前、他人に与えた身体のぬくもりとは別物だ。──欲しいのは、結局この熱だと、そう言っているようだった。
「っ……ふ、ん……」
甘く掠れた息が漏れる。名残惜しそうにドフラミンゴの手が顎を離すと、ようやくその場に沈黙が戻った。
「……ほんと、図々しいな。お前は」
すぐ傍で、グラディウスがぼやくように呆れた声を漏らす。けれど、どこか仕方ないという色が滲んでいた。nameは唇を拭いもせず、満足げに息を吐くと、ソファに沈み込んでまた脚を投げ出す。
「ふふーん。そーゆーの、言われ慣れてるんで」
その姿は、もうすっかり“いつものname”だった。甘ったるい煙の残り香が、再び部屋を満たしていく。
廊下の向こうから、重たい足音が二度、三度。扉の前で一拍、ためらうような間があってから、控えめにノックの音が響いた。ドフラミンゴが手元の書類から視線を外すよりも早く、nameはぴくりと肩を動かす。その反応はまるで耳が先に察知していたかのようで、すぐに、表情が柔らかく緩んだ。
「……ロシーだ」
呟きと同時にドアが静かに開き、現れたのは、コートを脱ぎかけたロシナンテだった。肩にかかる金髪がわずかに乱れていて、長い外回りを終えたあとの疲労感が全身に滲んでいる。けれどその視線がnameに向いた瞬間、ほんのわずかだが頬が緩むのが見えた。
「おつかれさま、ロシー。あのね、俺、今日すごい頑張ったんだよ?もうヘトヘト。褒めて、甘やかして〜……」
ソファの背にもたれたまま、nameは上目遣いに手をひらひらと振る。その声にわざとらしい力がないのも、疲れた演技をしているのでもなく、ほんとうに“気が抜けた”者だけが見せられる、素の甘え方だった。ロシナンテは黙って、ジャケットのポケットから紙とペンを取り出し、数文字を書いてnameへと差し出す。
【よく頑張ったな。偉い】
そのたった一文に、nameは照れたように唇を尖らせる。
「……わかってんじゃん、ロシー。さすが俺のロシーだよ〜」
身体をねじってロシナンテのそばまで行き、少しだけ腕に自分の額を預けるように寄りかかる。ロシナンテはそれを拒むこともなく、どこか当たり前のようにその距離を受け入れていた。
グラディウスはそれを斜めから見ていたが、何も言わなかった。ただ、口を引き結んだまま、眉間のしわがほんの少しだけ深くなる。──nameがロシナンテには特別に懐いているのは、知っている。その甘え方が、他の誰に向けるものとも違うのも。
だが、それでも。黙っていられるのは、グラディウスが理性の男だからだ。
思考と感情の狭間で、それ以上を言葉にすることはなかった。
【報告】
ロシナンテはようやくドフラミンゴの方へ向き直り、手短に今日の任務の内容を筆談でまとめ始める。ドフラミンゴは適当に頷きながら、最後に短く笑った。
「フッフッフ……まぁ、今日も上々ってとこだな」
それを合図のように、ロシナンテは何のためらいもなくnameの手首を取り、「じゃあ行くぞ」とも言わずにそのまま部屋を出ていこうとした。nameもまた、何の躊躇いも見せなかった。握られた手を嬉しそうに小さく握り返しながら、まるで当然のように隣を歩く。その後ろ姿には、言葉のやりとり以上に確かなものがあった。
──ロシナンテと、name。
主従でもなく、兄弟でもなく。けれど確かに、そのあたたかなつながりは、nameにとっても“帰る場所”だった。