15 y ago
name
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船内の廊下を、nameは足取り重く歩いていた。深く沈んだような紫のカーペットには、昨日と同じ、いやそれ以上に倦んだ気配が滲んでいた。磨かれた金属の壁には己の姿がぼんやりと映り、整えた髪の乱れも、着衣の皺も、どこかどうでもいいような気がした。
「……また“おしごと”か。最近、多すぎじゃない?」
誰に聞かせるでもなく、吐き出すような独り言。けれど、その声に宿るのは本気の不満というより、乾いた慣れと、どこかしら諦めに近い感情だった。
扉の前で、深く息を吐く。吸って、止めて――また吐く。その一連の動きのなかに、心を切り替える儀式のようなものがあった。ノックはせずに開かれる。それが、この部屋のルール。中に入れば、そこには既に空気を支配している男がいた。
「やっと来たか、“お気に入り”」
ドフラミンゴの声は、笑っているようでいて、笑ってはいなかった。陽気を装ったその口調の奥に、焦りと苛立ちが潜んでいることを、nameはもう知っている。部屋の奥には地図と書類が散乱し、いくつもの電伝虫が、まだ休むことなく忙しなく音を立てていた。机の縁に腰をかけたドフラミンゴは、目元だけを細め、扉を閉めたnameをじっと見ている。
「わかってんだろ。今、俺たちは“動いてる最中”だ。……だからお前にも、“特別な役目”が回ってくる」
「……ん。わかってるよ」
nameはわずかに目を伏せ、肩をすくめる。声の調子は普段と変わらず、軽く、冗談めいたもの。けれどその目の奥には、複雑に折り重なる色があった。自分にしかできないことがある。他の誰にも務まらない“役割”。それを理解している。だからこそ、逃げ場もない。
「でもさ、ドフィ。こういうのばっかじゃ、俺、潰れちゃうかもよ?」
そう言って小さく笑ったnameに、ドフラミンゴは唇を吊り上げた。
「潰れねぇよ。……お前は、潰れても“使える”奴だ。だから俺は、お前を選んだんだ」
その言葉は残酷にすら聞こえた。けれど、事実だった。nameは小さく息を吸い、視線を上げる。そこにはもう、迷いも愚痴もなかった。
「……はぁ…今日も、俺が行けばいいんでしょ?“期待されてる役”を、ちゃんとこなすからさ」
静かに微笑んだnameの横顔を見て、ドフラミンゴは満足げに片眉を上げた。それでいい、という無言の承認。nameは背筋を伸ばし、いつものように、作られた笑顔を纏う。自分の価値、自分の仕事、自分の武器。
それをよく知っている男の、仮面の裏にある本音は、誰にも見せることはない。ただ、扉の向こうに待つ“任務”へと、足を踏み出すだけだった。
肩をすくめるようにして、nameはコートの襟を立てた。
白く滑らかな布地が、肌を撫でる夜気にわずかに揺れ、擦れる音が耳の奥に小さく残る。月は雲に隠れ、灯りのない路地は暗く、風は背を押すように冷たかった。目指す店までは、もうすぐだ。けれど足は重く、頭の奥で、繰り返し何かが鳴っていた。
(ロシーには、黙ったままだ……)
それは今日が初めてじゃない。けれど、今日もまた――という事実に、罪悪感は確かに存在していた。
(……バディ、なのにな)
低く漏らした声は、夜の闇にすぐ溶けた。黙って出てきた理由を、ロシナンテは察しているかもしれない。けれど咎めることはない。ただ、いつもみたいに苦笑して、「またお前、そういう顔してるな」って笑うんだ。
それが優しさだと知ってるからこそ、余計に、刺さる。
「ふたりで動くほうが、マシだったりすんのになー……」
冗談めかして呟いて、肩を落とす。ひとりだと、効率はいい。無駄な動きも、手間も減る。けれど、心は重くなる。面倒な仕事ほど、重く。
(でも……俺がやんなきゃ、ロシー、巻き込むことになるかもしんないし)
胸の奥で、ゆっくりと何かが沈んでいく。“バディ”であるはずの存在と、“守りたい”存在と、“対等”ではいられないと、どこかでわかっている。自分が動いて、前に出て、泥をかぶって。そうしなければ――そばに居続ける資格なんて、無い。
(……捨てられたくないだけ、なのかも)
脳裏をかすめるのは、あの倉庫の暗がり。湿った段ボールの臭い。踏みつけられたガラス片と、遠くで笑う声。ただそこにいることさえ許されなかった日々。
今、nameは“居場所”がある。ドフラミンゴに名前を呼ばれ、命じられ、求められる。それが偽物でも、支配でも、見せかけでも――自分の“価値”として提示されることに、意味があった。
(だから俺は、断らない)
ドフラミンゴからの“お願い”。それは絶対で、逆らえないもの……ではない。けれど、逆らえば、失うものがある。ファミリーの一員としての立場。ロシナンテと肩を並べられる“仕事仲間”という仮面。命令をこなすことで得ている、“存在していい”という感覚。
(戻りたくない、ゴミだめなんかに)
擦り切れた足元の舗石を踏みながら、nameは拳をぎゅっと握った。コートの裾が風に揺れ、すぐに静かになった。今日も、まだその白は汚れていない。けれどそれは、明日も続く保証ではない。
「……いこ。ちゃっちゃと終わらせて、ロシーにばれないうちに戻んないと」
どこか強がるように笑ってみせて、nameは足を速めた。夜の街のなかに、白い影がすべるように消えていった。
煌びやかな灯が、路地の奥から静かに滲んでいた。それはまるで、夜に咲く毒花のように艶やかで、胡乱だった。重く閉ざされた二枚扉の向こうには、静謐を装った喧騒が確かにある。nameは、足を止めて小さく息を吐いた。
「……まじか」
目の前の建物は、想像していた以上に“重い”。白を基調に金と赤をあしらった外壁、手入れの行き届いた石畳、ふかふかの絨毯のような階段に、ちりひとつない真鍮の手すり。見張りの男たちは礼儀正しい笑みを浮かべていたが、手元の懐に添えられた指には一切の油断がない。
(こんな場所にひとりで、って……)
「ねえ、ほんとに俺、ひとりでよかったの?」
もちろん、誰に届くわけでもない声。思わず口に出てしまうあたり、気が緩んでいたのかもしれない。いつもなら冗談混じりで軽く言えるのに、今夜は――背中に湿った汗がにじむほどに、空気が違った。
(やばいな、これ。ロシーとか、せめて誰か、ひとりくらい……連れてきとけば)
後悔はすぐに喉奥で消えた。いや、連れてこれないことくらい、わかってた。これはname“だけ”に任された仕事。ドフラミンゴが「お前じゃなきゃ」と言った以上、それはもう、誰にも触れさせちゃいけない案件だ。
「……切り替えよ」
くるり、と瞬き一つで顔つきを変える。癖のある前髪をかきあげ、口角を持ち上げた。視線は真っ直ぐに、気配は柔らかく、けれど芯のある“それ”へと変貌していく。誰にも悟らせない“スイッチ”――それが、今のnameにとっての武器だった。革手袋を抜いてポケットにしまう。
露出の多い服装ではないが、手首や鎖骨のラインはわざとらしく見せるように調整してある。コートの下に隠された薄いシャツ、その下にある体温も、今夜は“道具”だ。ドアの前に立ち、礼儀正しくインターフォンに手をかけた。中から応対の気配。低い声。確認の手順。nameは、柔らかく、品のある笑みで応じた。
「お約束の時間に参りました。お通しいただけますか?」
完璧な声色。媚びすぎず、けれどどこか艶を含む。相手が何を求めているか、どう見られるべきか――それは、痛いほどに心得ていた。
応答の後、扉が音もなく開く。中からあふれ出る、濃密な香。それは甘く、華やかで、同時にどこかに腐った果実の匂いも含んでいるような、不穏な香気。
(あーあ、やだなぁ)
そんな気持ちを胸の奥に隠しながら、nameは一歩、足を踏み入れた。
コートの裾が揺れ、背後の扉が音もなく閉じられる。
今夜もまた、“仕事”が始まる。ひとりきりで、汚れ役を演じる時間が。
静かに閉じられた扉の向こうは、まるで異国の劇場のようだった。仄暗く落とされた照明、煌びやかなシャンデリアの陰影に照らされた大理石の床。甘い花の香りと混ざり合うのは、汗、香水、アルコール、そして欲望の匂い。
その空間の中心にいたのは、男たちだった。ソファに腰掛ける者、壁際に腕を組む者、手に酒を持って笑う者――総勢七、八名はいただろうか。いずれも上等な仕立ての服を纏い、品格と傲慢を同居させた空気を纏っていた。
(……うわ、やっば。数、聞いてないんだけど)
一瞬だけ眉がわずかに動きそうになったのを、nameは寸前で押しとどめた。どんなに数がいようと、自分はドン・キホーテファミリーの名を背負ってここに来ている。その“名前”が意味する重さと、怖さを、nameは嫌というほど知っていた。
「おや、あんたが……“name”かい」
部屋の中央に鎮座していた一人の男が、ゆるく笑う。年齢は四十を越えていそうな、太った体格の中年男。金の指輪を両手にいくつも光らせ、口元にはいやらしい形に歪んだ笑み。取り巻きが同時に視線を向ける。好奇、警戒、品定め――あらゆる視線が、nameを正面から貫いた。
「……はい。お初にお目にかかります。ドン・キホーテファミリーより、今回は“特使”として」
静かに、けれど一語一語を明瞭に。声色は柔らかいが、媚びてなどいない。胸元をやや張り、白いコートの襟を軽く整える仕草だけで、自分の立ち位置を相手に思い出させる。
(下手に出たら、舐められるだけ。ここは“交渉”じゃない。力と看板の“示威”だ)
笑ってはいるが、男たちのどこかに――殺気にも似た油断のない気配がある。この場で何かを間違えれば、笑いのかわりに銃声が響くような、そんな沈んだ緊張が空気の底にある。
「ずいぶんと若ぇじゃねェか。こんな子どもが“交渉”を取り仕切るとはなァ?」
「恐縮です。でも、どうやら“子ども”だからこそ、俺がここに呼ばれたようですね?」
少しだけ口元をゆるめて、nameは挑発とも取れる一言を返す。男たちのひとりがくつくつと笑った。
「はっ、口の利き方は大人だなァ?」
「ええ、仕事ですから」
ドフラミンゴがよく使う“線”の張り方を、nameは見習っている。張り詰めすぎず、でも確かに舐められない“芯”を通す。それが、彼の教えだった。テーブルの上に置かれた書類に視線を落としつつ、nameは手袋を外して片手で丁寧に捲る。指先はわずかに震えているのに、表情は静かに整っていた。
(……やっぱ、ロシーがいた方がやりやすかったかも……)
そんな甘えが喉元に浮かんでも、もう遅い。これが“俺の役割”だ。背負うことでしか、ここにはいられない。“あの人”の隣に、いられない。
「取引の条件、いくつかこちらで修正させていただいております。ご確認を」
指先で軽く示す。そこからは、もはや“劇”の時間。
呼吸の間、眼差しの角度、語尾の響きまで、すべてが計算された言葉のやり取り。男たちの中には、不快を露わにする者もいた。
だが、それでいい。nameが欲しいのは好かれることじゃない。“ファミリーの看板”として、畏れさせ、納得させることだ。部屋の奥にかかった分厚いカーテンが、微かに揺れた。外の風ではない。この場所にも、目に見えない“動き”がある。だからこそ、気は抜けない。
(ねえ、ドフィ……やっぱ、俺さ)
ひとりでやるには、ちょっと荷が重いよ。けど、任されたからには――ちゃんとやる。
誰よりも、白いコートを汚さずに、誰よりも、ファミリーの看板を守るように。
「……また“おしごと”か。最近、多すぎじゃない?」
誰に聞かせるでもなく、吐き出すような独り言。けれど、その声に宿るのは本気の不満というより、乾いた慣れと、どこかしら諦めに近い感情だった。
扉の前で、深く息を吐く。吸って、止めて――また吐く。その一連の動きのなかに、心を切り替える儀式のようなものがあった。ノックはせずに開かれる。それが、この部屋のルール。中に入れば、そこには既に空気を支配している男がいた。
「やっと来たか、“お気に入り”」
ドフラミンゴの声は、笑っているようでいて、笑ってはいなかった。陽気を装ったその口調の奥に、焦りと苛立ちが潜んでいることを、nameはもう知っている。部屋の奥には地図と書類が散乱し、いくつもの電伝虫が、まだ休むことなく忙しなく音を立てていた。机の縁に腰をかけたドフラミンゴは、目元だけを細め、扉を閉めたnameをじっと見ている。
「わかってんだろ。今、俺たちは“動いてる最中”だ。……だからお前にも、“特別な役目”が回ってくる」
「……ん。わかってるよ」
nameはわずかに目を伏せ、肩をすくめる。声の調子は普段と変わらず、軽く、冗談めいたもの。けれどその目の奥には、複雑に折り重なる色があった。自分にしかできないことがある。他の誰にも務まらない“役割”。それを理解している。だからこそ、逃げ場もない。
「でもさ、ドフィ。こういうのばっかじゃ、俺、潰れちゃうかもよ?」
そう言って小さく笑ったnameに、ドフラミンゴは唇を吊り上げた。
「潰れねぇよ。……お前は、潰れても“使える”奴だ。だから俺は、お前を選んだんだ」
その言葉は残酷にすら聞こえた。けれど、事実だった。nameは小さく息を吸い、視線を上げる。そこにはもう、迷いも愚痴もなかった。
「……はぁ…今日も、俺が行けばいいんでしょ?“期待されてる役”を、ちゃんとこなすからさ」
静かに微笑んだnameの横顔を見て、ドフラミンゴは満足げに片眉を上げた。それでいい、という無言の承認。nameは背筋を伸ばし、いつものように、作られた笑顔を纏う。自分の価値、自分の仕事、自分の武器。
それをよく知っている男の、仮面の裏にある本音は、誰にも見せることはない。ただ、扉の向こうに待つ“任務”へと、足を踏み出すだけだった。
肩をすくめるようにして、nameはコートの襟を立てた。
白く滑らかな布地が、肌を撫でる夜気にわずかに揺れ、擦れる音が耳の奥に小さく残る。月は雲に隠れ、灯りのない路地は暗く、風は背を押すように冷たかった。目指す店までは、もうすぐだ。けれど足は重く、頭の奥で、繰り返し何かが鳴っていた。
(ロシーには、黙ったままだ……)
それは今日が初めてじゃない。けれど、今日もまた――という事実に、罪悪感は確かに存在していた。
(……バディ、なのにな)
低く漏らした声は、夜の闇にすぐ溶けた。黙って出てきた理由を、ロシナンテは察しているかもしれない。けれど咎めることはない。ただ、いつもみたいに苦笑して、「またお前、そういう顔してるな」って笑うんだ。
それが優しさだと知ってるからこそ、余計に、刺さる。
「ふたりで動くほうが、マシだったりすんのになー……」
冗談めかして呟いて、肩を落とす。ひとりだと、効率はいい。無駄な動きも、手間も減る。けれど、心は重くなる。面倒な仕事ほど、重く。
(でも……俺がやんなきゃ、ロシー、巻き込むことになるかもしんないし)
胸の奥で、ゆっくりと何かが沈んでいく。“バディ”であるはずの存在と、“守りたい”存在と、“対等”ではいられないと、どこかでわかっている。自分が動いて、前に出て、泥をかぶって。そうしなければ――そばに居続ける資格なんて、無い。
(……捨てられたくないだけ、なのかも)
脳裏をかすめるのは、あの倉庫の暗がり。湿った段ボールの臭い。踏みつけられたガラス片と、遠くで笑う声。ただそこにいることさえ許されなかった日々。
今、nameは“居場所”がある。ドフラミンゴに名前を呼ばれ、命じられ、求められる。それが偽物でも、支配でも、見せかけでも――自分の“価値”として提示されることに、意味があった。
(だから俺は、断らない)
ドフラミンゴからの“お願い”。それは絶対で、逆らえないもの……ではない。けれど、逆らえば、失うものがある。ファミリーの一員としての立場。ロシナンテと肩を並べられる“仕事仲間”という仮面。命令をこなすことで得ている、“存在していい”という感覚。
(戻りたくない、ゴミだめなんかに)
擦り切れた足元の舗石を踏みながら、nameは拳をぎゅっと握った。コートの裾が風に揺れ、すぐに静かになった。今日も、まだその白は汚れていない。けれどそれは、明日も続く保証ではない。
「……いこ。ちゃっちゃと終わらせて、ロシーにばれないうちに戻んないと」
どこか強がるように笑ってみせて、nameは足を速めた。夜の街のなかに、白い影がすべるように消えていった。
煌びやかな灯が、路地の奥から静かに滲んでいた。それはまるで、夜に咲く毒花のように艶やかで、胡乱だった。重く閉ざされた二枚扉の向こうには、静謐を装った喧騒が確かにある。nameは、足を止めて小さく息を吐いた。
「……まじか」
目の前の建物は、想像していた以上に“重い”。白を基調に金と赤をあしらった外壁、手入れの行き届いた石畳、ふかふかの絨毯のような階段に、ちりひとつない真鍮の手すり。見張りの男たちは礼儀正しい笑みを浮かべていたが、手元の懐に添えられた指には一切の油断がない。
(こんな場所にひとりで、って……)
「ねえ、ほんとに俺、ひとりでよかったの?」
もちろん、誰に届くわけでもない声。思わず口に出てしまうあたり、気が緩んでいたのかもしれない。いつもなら冗談混じりで軽く言えるのに、今夜は――背中に湿った汗がにじむほどに、空気が違った。
(やばいな、これ。ロシーとか、せめて誰か、ひとりくらい……連れてきとけば)
後悔はすぐに喉奥で消えた。いや、連れてこれないことくらい、わかってた。これはname“だけ”に任された仕事。ドフラミンゴが「お前じゃなきゃ」と言った以上、それはもう、誰にも触れさせちゃいけない案件だ。
「……切り替えよ」
くるり、と瞬き一つで顔つきを変える。癖のある前髪をかきあげ、口角を持ち上げた。視線は真っ直ぐに、気配は柔らかく、けれど芯のある“それ”へと変貌していく。誰にも悟らせない“スイッチ”――それが、今のnameにとっての武器だった。革手袋を抜いてポケットにしまう。
露出の多い服装ではないが、手首や鎖骨のラインはわざとらしく見せるように調整してある。コートの下に隠された薄いシャツ、その下にある体温も、今夜は“道具”だ。ドアの前に立ち、礼儀正しくインターフォンに手をかけた。中から応対の気配。低い声。確認の手順。nameは、柔らかく、品のある笑みで応じた。
「お約束の時間に参りました。お通しいただけますか?」
完璧な声色。媚びすぎず、けれどどこか艶を含む。相手が何を求めているか、どう見られるべきか――それは、痛いほどに心得ていた。
応答の後、扉が音もなく開く。中からあふれ出る、濃密な香。それは甘く、華やかで、同時にどこかに腐った果実の匂いも含んでいるような、不穏な香気。
(あーあ、やだなぁ)
そんな気持ちを胸の奥に隠しながら、nameは一歩、足を踏み入れた。
コートの裾が揺れ、背後の扉が音もなく閉じられる。
今夜もまた、“仕事”が始まる。ひとりきりで、汚れ役を演じる時間が。
静かに閉じられた扉の向こうは、まるで異国の劇場のようだった。仄暗く落とされた照明、煌びやかなシャンデリアの陰影に照らされた大理石の床。甘い花の香りと混ざり合うのは、汗、香水、アルコール、そして欲望の匂い。
その空間の中心にいたのは、男たちだった。ソファに腰掛ける者、壁際に腕を組む者、手に酒を持って笑う者――総勢七、八名はいただろうか。いずれも上等な仕立ての服を纏い、品格と傲慢を同居させた空気を纏っていた。
(……うわ、やっば。数、聞いてないんだけど)
一瞬だけ眉がわずかに動きそうになったのを、nameは寸前で押しとどめた。どんなに数がいようと、自分はドン・キホーテファミリーの名を背負ってここに来ている。その“名前”が意味する重さと、怖さを、nameは嫌というほど知っていた。
「おや、あんたが……“name”かい」
部屋の中央に鎮座していた一人の男が、ゆるく笑う。年齢は四十を越えていそうな、太った体格の中年男。金の指輪を両手にいくつも光らせ、口元にはいやらしい形に歪んだ笑み。取り巻きが同時に視線を向ける。好奇、警戒、品定め――あらゆる視線が、nameを正面から貫いた。
「……はい。お初にお目にかかります。ドン・キホーテファミリーより、今回は“特使”として」
静かに、けれど一語一語を明瞭に。声色は柔らかいが、媚びてなどいない。胸元をやや張り、白いコートの襟を軽く整える仕草だけで、自分の立ち位置を相手に思い出させる。
(下手に出たら、舐められるだけ。ここは“交渉”じゃない。力と看板の“示威”だ)
笑ってはいるが、男たちのどこかに――殺気にも似た油断のない気配がある。この場で何かを間違えれば、笑いのかわりに銃声が響くような、そんな沈んだ緊張が空気の底にある。
「ずいぶんと若ぇじゃねェか。こんな子どもが“交渉”を取り仕切るとはなァ?」
「恐縮です。でも、どうやら“子ども”だからこそ、俺がここに呼ばれたようですね?」
少しだけ口元をゆるめて、nameは挑発とも取れる一言を返す。男たちのひとりがくつくつと笑った。
「はっ、口の利き方は大人だなァ?」
「ええ、仕事ですから」
ドフラミンゴがよく使う“線”の張り方を、nameは見習っている。張り詰めすぎず、でも確かに舐められない“芯”を通す。それが、彼の教えだった。テーブルの上に置かれた書類に視線を落としつつ、nameは手袋を外して片手で丁寧に捲る。指先はわずかに震えているのに、表情は静かに整っていた。
(……やっぱ、ロシーがいた方がやりやすかったかも……)
そんな甘えが喉元に浮かんでも、もう遅い。これが“俺の役割”だ。背負うことでしか、ここにはいられない。“あの人”の隣に、いられない。
「取引の条件、いくつかこちらで修正させていただいております。ご確認を」
指先で軽く示す。そこからは、もはや“劇”の時間。
呼吸の間、眼差しの角度、語尾の響きまで、すべてが計算された言葉のやり取り。男たちの中には、不快を露わにする者もいた。
だが、それでいい。nameが欲しいのは好かれることじゃない。“ファミリーの看板”として、畏れさせ、納得させることだ。部屋の奥にかかった分厚いカーテンが、微かに揺れた。外の風ではない。この場所にも、目に見えない“動き”がある。だからこそ、気は抜けない。
(ねえ、ドフィ……やっぱ、俺さ)
ひとりでやるには、ちょっと荷が重いよ。けど、任されたからには――ちゃんとやる。
誰よりも、白いコートを汚さずに、誰よりも、ファミリーの看板を守るように。