15 y ago
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
廊下の空気はひんやりと乾いていた。室内よりもわずかに低い温度が、火照った肌に静かに忍び込み、nameの背筋を撫でていく。
石畳の床を歩く足音が、ひとつ。小さく、乾いた音。報告を終えて出てきたばかりのnameは、手にしていた薄い書類の端をくしゃりと握り締めながら、ゆるく息を吐いた。
いつもと同じ仕事だった。言われた場所へ赴き、渡すべき物を渡し、渡されるべき物を持ち帰る。ただ、それが“たまたま”身体を使う役回りであったというだけのこと。
任務として淡々とこなすべきだと頭ではわかっていても、どうにも身体に残る火照りと痺れが、その理性に水を差してくる。軽く乱れた呼吸、いつもより艶を帯びた眼差し、赤みの残る首筋のあたり。艶めかしいのは装いでも姿勢でもなく、きっと、内側から滲み出たものだった。
そして――
曲がり角を抜けた、その先。無言のまま、ロシナンテと目が合った。
ふいに、空気が揺れる。
音が鳴らないのは、彼が“沈黙”を纏っていたからなのか、それとも、ただ純粋に、時間が少しだけ軋んだのか。
nameの眉が、わずかに動いた。ほんのわずかに――わかる者にしかわからない程度の、不機嫌の色が、その表情ににじんでいた。
「ああ……ごめん、ロシー。帰ってたんだね」
そう言って、少しだけ口角を上げる。けれど、その声はどこか乾いていて、覇気に欠けていた。動きも重たく、足取りも硬い。ロシナンテは、口元をわずかに結んだまま、懐から小さなメモを取り出す。指先で慣れたように紙をめくり、すぐに言葉を綴った。
【仕事だったのか】
それを見たnameは、肩をゆるく上下させた。肯定でも否定でもなく、ただ「まあね」とでも言いたげな動き。目を伏せ、唇を舐めるように濡らしてから、ふと視線を逸らした。
「珍しいでしょ。ひとりでのおしごと。……報告して、もうおわり」
あっさりとした語調のなかに、疲労と、何かを押し殺したような湿り気が混じっていた。
ロシナンテの視線は、じっとnameを見つめたまま動かない。その目には、少し前までまとっていた艶の理由が、はっきりと映っていた。
濡れた睫毛、湿った吐息、薄く色づいた鎖骨――
誰かの手がそこを這った痕跡が、肌の上から透けて見える気がした。
ロシナンテはもう一度メモに手を伸ばす。何かを書くのかと思われたが――途中でペンが止まった。
数秒の間、沈黙。
そして、ゆっくりとメモを閉じた。そのかわりに、そっと、手を差し出す。差し出された手は、静かな庇護。無言の問いかけだった。
「……」
一瞬だけ、nameの唇が歪んだ。その仕草は、泣く代わりに笑う子どもにも似ていた。けれど、結局は何も言わず、その手を取った。掌の熱が、じわりと指の隙間を埋めていく。誰にも気づかれない廊下の一角。そこに交わされたのは、仕事の報酬でも、命令でもない。ただ、静かな――あまりにも静かな、求めと許しの輪郭だった。
指先から伝う、しっとりとした掌の温もりに、ほんの少しだけ心が緩んだそのときだった。nameは、ふっと唇の端を上げると、手を握られたままの状態で横目にロシナンテを見上げた。
「……なにー?おててでも繋いで、ドフラミンゴのとこまで連れてってくれんの?」
投げるような口調に、皮肉の棘がほんの少し。けれど、どこか甘えるような含みもあった。軽口のようでいて、心のどこかで「そんなわけない」と安心している。――そう、彼のなかでは冗談のつもりだった。
だが。ロシナンテの足が一瞬止まる。その瞳が、すっとnameを見下ろした。
一拍の静寂。
そして――ふいに、にやりと唇を吊り上げた。その笑みには、静かな悪戯心と、確かな実行力が滲んでいた。nameの眉がぴくりと動く。
「あ、ちょ……ちょっと、ロシー?」
言い終わる前に、ロシナンテは再び歩き出した。繋いだ手を緩めることなく、nameを引き連れるようにして、廊下を進んでいく。その背には、いつも通りの大きなコートが揺れていたが――足取りは軽く、どこか愉しげですらあった。
「……うそでしょ。や、ちょっと待ってって……ねぇ、ロシー?聞こえてる?!」
焦った声が漏れる。nameの足は自然と早まり、引っ張られるようにして歩調を合わせることになる。
けれど、ロシナンテは一切の筆談もせず、ただ黙って進む。廊下の先には、いかにも“要注意人物”の居場所とでも言いたげな重厚な扉――ドフラミンゴの執務室がある。
いやいやいや、と心の中で全力で抗議しながら、nameはちらりと隣を見上げた。ロシナンテの顔は、どこか無邪気にすら見える。だが、その目はしっかりと「わかってやっている」大人のそれだった。
「うわ、やだ、なにその顔……ほんとに連れてく気じゃん……!」
苦笑いとも悲鳴ともつかぬ声をあげながら、nameは半ば引きずられるようにして歩く。艶めかしく乱れた仕事帰りの姿のまま、繋がれた手を振り解くこともできず、ロシナンテの背にぐいと引かれながら、ゆるやかに悪意の匂いのするその扉へと向かっていった。
――軽口ひとつが、こうして地獄の入り口になる。
そんな未来を思い描きながらも、どこか止めきれない自分に、nameは内心、盛大に舌打ちしていた。
重たい金の蝶番が音を立て、ドフラミンゴの執務室の扉が開かれる。
空気はすでに色づいていた。陽の傾きがつくる琥珀色の陰影のなか、赤い羽毛のコートが窓際に揺れている。
「……へぇ、手ェ繋いで来たのかよ、ロシー。よかったなname、まるで赤ちゃんだ」
軽く笑う声。
くぐもった響きのなかに、確実な悪意と興味の混じる声だった。nameは肩をすくめ、繋がれたままの手をちらと見下ろす。
「ちょっとした冗談だったんだけどね……ほんと、こういうとこ真に受けるんだよな、ロシーって」
目を伏せると、口元にわずかに浮かぶ苦笑。すぐ横のロシナンテは、表情を変えずに手を離すこともなく、ただそのまま室内へと進む。手を繋がれたまま入ってきた“報告者”の姿に、ドフラミンゴの口元がにやりと持ち上がる。
「で?今日はどうだった、“おしごと”は」
まるで下卑た冗談を楽しむかのような声音。わかっていて、わざと。その男はいつもそうだった。
「……報告、していい?」
投げやりなような、ふてくされたような声。
けれど、その眼差しはどこか疲れの色を帯びていて、今だけは茶化しではないことを示していた。ロシナンテが、手を繋いだままメモを取り出し、さらさらと一筆。
【聞いていく。問題ない】
「……まじで?ロシーもここで聞くの?べつに部屋戻ってからでよくない?」
nameの声は、どこか居心地悪そうにわずかに裏返る。この場にロシナンテが居ると、内容的にかなり話しづらい。ドフラミンゴはその空気をしっかりと嗅ぎ取っていた。そして愉しげに、指先で煙草を弾くような仕草を見せながら、肩をすくめる。
「フッフッフ…いいじゃねェか、せっかくおてて繋いで連れてきてもらったんだろ?」
その言葉に、nameはすこしだけ視線をそらす。
言い返すほどの余裕もない――というより、今日はすでに消耗していた。
「……はいはい、じゃあ、始めるね」
軽く口角を上げ、いつもの調子でごまかすようにしながらも、声の熱は控えめ。nameは繋がれた手をようやく振りほどき、前に出る。
「今日のターゲットは例の街道筋の娼館経由の取引ね。ルートと金の流れは前と同じ、ただし、今回はちょっとだけ細工がされてた……俺にも、少し……ね?」
声のトーンが落ちる。後半は特に、誰にも聞かれたくない“余計な情報”だった。
「……うん、つまり、盛られてた。ほんのちょっとだけど」
そう口にするとき、nameの喉はごくりと鳴っていた。羞恥でも、恐れでもない。ただ、快楽の残滓が舌の奥に微かに滲んでいた。ドフラミンゴの目が、わずかに細まる。ロシナンテは筆談はせず、ただ黙って彼を見ていた。
「……まあ、すぐ気づいたし、仕事はちゃんと終わらせたよ。だから問題はなし。……以上」
ぴしゃりと、報告を締めくくる声。その裏には、自分のなかで“ここまで”と線を引く意思が滲んでいる。
「ふゥん……そりゃまた、面白ェ話だな。どうだった?身体の方は」
くっ、と笑うドフラミンゴの声音に、nameは眉をひそめた。けれど、反論はしない。ただ、どこか突き放すような表情で目を伏せる。
「……ほらね、やっぱやだよ、ここで話すの」
かすれるような声に混じる、わずかな自嘲。それはロシナンテに向けてのものではなく、自分に対して吐いたものだった。ドフラミンゴは椅子にもたれたまま、唇の端を愉快そうに持ち上げる。その視線は、nameの一挙一動をまるで品定めするように追っていた。
「……で、どうだった?気持ちよくなれたか?」
低く、喉の奥で笑うような声音。明らかに揶揄が混じっているのに、それをまともに否定する気力は、nameにはなかった。
「……バカじゃないの。ちょっとだって言ってんでしょ」
頬をわずかに膨らませるようにして、拗ねたような声音で言い返す。けれど、その声のトーンも、呼吸も、どこかいつもと違った。乾いているようでいて、熱を帯びている。ロシナンテの手元が動いた。さらりとメモに一言。
【まだ抜けきってないんだな】
「だから、ちょっとだってばー……」
ふてくされたように言いながらも、nameの手は無意識に自分の太ももに置かれていた。そこに残る違和感。火照りきった感覚が、まだ奥底で燻っている。
ドフラミンゴが立ち上がったのは、そのタイミングだった。長身がゆるやかに影を落とすようにして、nameの正面へと降りてくる。気怠げな歩き方のまま、至近まで寄ると――指先でnameの顎を掴んだ。
「ちょっとねぇ……震えてんじゃねェか。ほら、ここ――」
唇に、そっと人差し指が触れる。それはまるで、皮膚の奥に熱を送り込むような柔らかな圧。指先が触れた瞬間、nameの身体がぴくりと震えた。
「っ……」
言葉にならない吐息。明らかに拒絶でも、受容でもない。ただ、瞬間的に生まれた反射のような震えが、正直すぎる答えを晒した。
「フッフッフ……おいおい、可愛いなァ?やっぱり効いてんじゃねェか」
ドフラミンゴが鼻で笑う。その目は愉悦に細められ、まるでおもちゃを見つけた子供のようだった。nameは顔を赤らめ、ばっと指を払いのける。その動きすらも、どこか緩慢で、普段よりもわずかに遅れている。
「……だからさァ、ロシー、せっかく見てるなら止めてよもう……ドフィほんと性格悪い……!」
思わずロシナンテに助け舟を求めるように視線を向ける。けれど、ロシナンテは一瞬目を伏せて、ノートにさらりと書いたあと、見せた。
【溜息しか出ない】
「……ロシーまで!?」
nameがわずかに唇を尖らせる。けれど、その頬には赤みが差し、耳までほんのりと染まっていた。顔を背けるようにして首をすくめる仕草が、どこか子供のようでもあり――それだけに、艶めいた余韻との対比が、またひときわ生々しかった。
「……もー……」
小さく呟いたその声は、ふざけた調子ではあったけれど、どこかに悔しさと羞恥の滲む響き。それを聞いたドフラミンゴは、また喉を鳴らして笑い、ロシナンテはもう一度だけ深く息を吐いた。この愉快で、少しだけひりついた空気の真ん中で、nameはただ、ふくれ面で立ち尽くしていた。
扉が閉まる音が背後に落ちて、ようやく少しだけ呼吸が楽になる。nameは、口の中に残るあの男の気配を、なんとか唾で流し込むようにして、ごくりと喉を鳴らした。
「……はぁ、疲れたー……ほんと…もう…」
足取りは少し早い。長く広い廊下を、少しでも早く抜けてしまいたかった。
肌の奥でまだ、あの視線の余韻がくすぶっている。熱い指先の残像も、甘くない言葉の記憶も――全部、少しでも早く置いていきたかった。
そして、無意識に身体は“いつもの道”を外れていた。角を曲がり、自分の部屋の方角へと進もうとする。わずかに重たいまぶた。薬のせいか、単なる疲労か。このまま何も考えずに、ひとり、寝てしまいたかった。
――けれど。
「……っ」
肩を、すっと掴まれる。その手の主に、抵抗する気は起きなかった。視線を動かせば、ロシナンテがすぐ傍にいた。手元にはメモ。けれど、何も書いていない。そのまま、黙って――ただ、行く手を塞ぐように立っていた。
「……なに、今日はやけにしつこくない?」
軽く笑ってみせる。けれど、その声の中には、ほんの少しの揺れがあった。ロシナンテは表情を崩さずに、メモへペンを走らせる。
【どうせこっちに来るんだと思ってた】
その言葉に、nameはほんの少し眉をしかめる。けれど何も返さない。
代わりに、視線だけが自室の方向を向いた。“今日はだめ”、そう言いたそうな空気が、指先から漂っていた。
もう一度ペンが動く。
【ひとりで寝るには少し火照りすぎてるだろ】
「……うわ、めんどくさ……」
ぼやきながら、片手で顔を覆った。その指先の先、ほんのりと赤く染まった耳を、ロシナンテは見逃さなかった。そして、言葉の代わりに――ロシナンテの唇が、その手を払いのけ、nameの唇を塞いだ。
「――っ!」
思わず身体が揺れる。唇に触れたのは、熱というにはあまりにも穏やかで、けれど、逃がさない強さを持った重なりだった。一瞬、何が起きたのかわからずに瞠目する。そのまま押し出されるように、背中が壁に当たる。誰もいない廊下。白く無機質な壁。静かな空気。けれど、その中に落とされた熱は、ひどく確かなものだった。
「……っ、バカ、ここ廊下……っ」
なんとか言葉を吐き出すけれど、すでに息が上ずっていた。薬の名残が、身体の奥で泡立っている。唇を離された直後なのに、感覚だけがまだそこで疼いている。
ロシナンテはメモを開かない。その代わりに、小さく唇の端を吊り上げた。
“ほら、効いてるだろ”――そう言いたげな、悪戯な目。
「……はぁ……っ、もう……ロシーってさ、性格わる……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、nameは顔を背けた。頬が熱い。舌先が震えてる。ひとりじゃない方がいい、なんて――分かっていたけれど、認めたくなかっただけだ。
ロシナンテは無言のまま、nameの手首をそっと引く。それは拒める強さではない、けれど確実な誘導。nameはしばし迷うふりをして、けれど結局そのまま歩き出す。
向かうのは、自分の部屋。扉の奥で、薬の熱がやっと静まるか、あるいはもっと焚きつけられるのか――それはまだ、誰も知らなかった。
石畳の床を歩く足音が、ひとつ。小さく、乾いた音。報告を終えて出てきたばかりのnameは、手にしていた薄い書類の端をくしゃりと握り締めながら、ゆるく息を吐いた。
いつもと同じ仕事だった。言われた場所へ赴き、渡すべき物を渡し、渡されるべき物を持ち帰る。ただ、それが“たまたま”身体を使う役回りであったというだけのこと。
任務として淡々とこなすべきだと頭ではわかっていても、どうにも身体に残る火照りと痺れが、その理性に水を差してくる。軽く乱れた呼吸、いつもより艶を帯びた眼差し、赤みの残る首筋のあたり。艶めかしいのは装いでも姿勢でもなく、きっと、内側から滲み出たものだった。
そして――
曲がり角を抜けた、その先。無言のまま、ロシナンテと目が合った。
ふいに、空気が揺れる。
音が鳴らないのは、彼が“沈黙”を纏っていたからなのか、それとも、ただ純粋に、時間が少しだけ軋んだのか。
nameの眉が、わずかに動いた。ほんのわずかに――わかる者にしかわからない程度の、不機嫌の色が、その表情ににじんでいた。
「ああ……ごめん、ロシー。帰ってたんだね」
そう言って、少しだけ口角を上げる。けれど、その声はどこか乾いていて、覇気に欠けていた。動きも重たく、足取りも硬い。ロシナンテは、口元をわずかに結んだまま、懐から小さなメモを取り出す。指先で慣れたように紙をめくり、すぐに言葉を綴った。
【仕事だったのか】
それを見たnameは、肩をゆるく上下させた。肯定でも否定でもなく、ただ「まあね」とでも言いたげな動き。目を伏せ、唇を舐めるように濡らしてから、ふと視線を逸らした。
「珍しいでしょ。ひとりでのおしごと。……報告して、もうおわり」
あっさりとした語調のなかに、疲労と、何かを押し殺したような湿り気が混じっていた。
ロシナンテの視線は、じっとnameを見つめたまま動かない。その目には、少し前までまとっていた艶の理由が、はっきりと映っていた。
濡れた睫毛、湿った吐息、薄く色づいた鎖骨――
誰かの手がそこを這った痕跡が、肌の上から透けて見える気がした。
ロシナンテはもう一度メモに手を伸ばす。何かを書くのかと思われたが――途中でペンが止まった。
数秒の間、沈黙。
そして、ゆっくりとメモを閉じた。そのかわりに、そっと、手を差し出す。差し出された手は、静かな庇護。無言の問いかけだった。
「……」
一瞬だけ、nameの唇が歪んだ。その仕草は、泣く代わりに笑う子どもにも似ていた。けれど、結局は何も言わず、その手を取った。掌の熱が、じわりと指の隙間を埋めていく。誰にも気づかれない廊下の一角。そこに交わされたのは、仕事の報酬でも、命令でもない。ただ、静かな――あまりにも静かな、求めと許しの輪郭だった。
指先から伝う、しっとりとした掌の温もりに、ほんの少しだけ心が緩んだそのときだった。nameは、ふっと唇の端を上げると、手を握られたままの状態で横目にロシナンテを見上げた。
「……なにー?おててでも繋いで、ドフラミンゴのとこまで連れてってくれんの?」
投げるような口調に、皮肉の棘がほんの少し。けれど、どこか甘えるような含みもあった。軽口のようでいて、心のどこかで「そんなわけない」と安心している。――そう、彼のなかでは冗談のつもりだった。
だが。ロシナンテの足が一瞬止まる。その瞳が、すっとnameを見下ろした。
一拍の静寂。
そして――ふいに、にやりと唇を吊り上げた。その笑みには、静かな悪戯心と、確かな実行力が滲んでいた。nameの眉がぴくりと動く。
「あ、ちょ……ちょっと、ロシー?」
言い終わる前に、ロシナンテは再び歩き出した。繋いだ手を緩めることなく、nameを引き連れるようにして、廊下を進んでいく。その背には、いつも通りの大きなコートが揺れていたが――足取りは軽く、どこか愉しげですらあった。
「……うそでしょ。や、ちょっと待ってって……ねぇ、ロシー?聞こえてる?!」
焦った声が漏れる。nameの足は自然と早まり、引っ張られるようにして歩調を合わせることになる。
けれど、ロシナンテは一切の筆談もせず、ただ黙って進む。廊下の先には、いかにも“要注意人物”の居場所とでも言いたげな重厚な扉――ドフラミンゴの執務室がある。
いやいやいや、と心の中で全力で抗議しながら、nameはちらりと隣を見上げた。ロシナンテの顔は、どこか無邪気にすら見える。だが、その目はしっかりと「わかってやっている」大人のそれだった。
「うわ、やだ、なにその顔……ほんとに連れてく気じゃん……!」
苦笑いとも悲鳴ともつかぬ声をあげながら、nameは半ば引きずられるようにして歩く。艶めかしく乱れた仕事帰りの姿のまま、繋がれた手を振り解くこともできず、ロシナンテの背にぐいと引かれながら、ゆるやかに悪意の匂いのするその扉へと向かっていった。
――軽口ひとつが、こうして地獄の入り口になる。
そんな未来を思い描きながらも、どこか止めきれない自分に、nameは内心、盛大に舌打ちしていた。
重たい金の蝶番が音を立て、ドフラミンゴの執務室の扉が開かれる。
空気はすでに色づいていた。陽の傾きがつくる琥珀色の陰影のなか、赤い羽毛のコートが窓際に揺れている。
「……へぇ、手ェ繋いで来たのかよ、ロシー。よかったなname、まるで赤ちゃんだ」
軽く笑う声。
くぐもった響きのなかに、確実な悪意と興味の混じる声だった。nameは肩をすくめ、繋がれたままの手をちらと見下ろす。
「ちょっとした冗談だったんだけどね……ほんと、こういうとこ真に受けるんだよな、ロシーって」
目を伏せると、口元にわずかに浮かぶ苦笑。すぐ横のロシナンテは、表情を変えずに手を離すこともなく、ただそのまま室内へと進む。手を繋がれたまま入ってきた“報告者”の姿に、ドフラミンゴの口元がにやりと持ち上がる。
「で?今日はどうだった、“おしごと”は」
まるで下卑た冗談を楽しむかのような声音。わかっていて、わざと。その男はいつもそうだった。
「……報告、していい?」
投げやりなような、ふてくされたような声。
けれど、その眼差しはどこか疲れの色を帯びていて、今だけは茶化しではないことを示していた。ロシナンテが、手を繋いだままメモを取り出し、さらさらと一筆。
【聞いていく。問題ない】
「……まじで?ロシーもここで聞くの?べつに部屋戻ってからでよくない?」
nameの声は、どこか居心地悪そうにわずかに裏返る。この場にロシナンテが居ると、内容的にかなり話しづらい。ドフラミンゴはその空気をしっかりと嗅ぎ取っていた。そして愉しげに、指先で煙草を弾くような仕草を見せながら、肩をすくめる。
「フッフッフ…いいじゃねェか、せっかくおてて繋いで連れてきてもらったんだろ?」
その言葉に、nameはすこしだけ視線をそらす。
言い返すほどの余裕もない――というより、今日はすでに消耗していた。
「……はいはい、じゃあ、始めるね」
軽く口角を上げ、いつもの調子でごまかすようにしながらも、声の熱は控えめ。nameは繋がれた手をようやく振りほどき、前に出る。
「今日のターゲットは例の街道筋の娼館経由の取引ね。ルートと金の流れは前と同じ、ただし、今回はちょっとだけ細工がされてた……俺にも、少し……ね?」
声のトーンが落ちる。後半は特に、誰にも聞かれたくない“余計な情報”だった。
「……うん、つまり、盛られてた。ほんのちょっとだけど」
そう口にするとき、nameの喉はごくりと鳴っていた。羞恥でも、恐れでもない。ただ、快楽の残滓が舌の奥に微かに滲んでいた。ドフラミンゴの目が、わずかに細まる。ロシナンテは筆談はせず、ただ黙って彼を見ていた。
「……まあ、すぐ気づいたし、仕事はちゃんと終わらせたよ。だから問題はなし。……以上」
ぴしゃりと、報告を締めくくる声。その裏には、自分のなかで“ここまで”と線を引く意思が滲んでいる。
「ふゥん……そりゃまた、面白ェ話だな。どうだった?身体の方は」
くっ、と笑うドフラミンゴの声音に、nameは眉をひそめた。けれど、反論はしない。ただ、どこか突き放すような表情で目を伏せる。
「……ほらね、やっぱやだよ、ここで話すの」
かすれるような声に混じる、わずかな自嘲。それはロシナンテに向けてのものではなく、自分に対して吐いたものだった。ドフラミンゴは椅子にもたれたまま、唇の端を愉快そうに持ち上げる。その視線は、nameの一挙一動をまるで品定めするように追っていた。
「……で、どうだった?気持ちよくなれたか?」
低く、喉の奥で笑うような声音。明らかに揶揄が混じっているのに、それをまともに否定する気力は、nameにはなかった。
「……バカじゃないの。ちょっとだって言ってんでしょ」
頬をわずかに膨らませるようにして、拗ねたような声音で言い返す。けれど、その声のトーンも、呼吸も、どこかいつもと違った。乾いているようでいて、熱を帯びている。ロシナンテの手元が動いた。さらりとメモに一言。
【まだ抜けきってないんだな】
「だから、ちょっとだってばー……」
ふてくされたように言いながらも、nameの手は無意識に自分の太ももに置かれていた。そこに残る違和感。火照りきった感覚が、まだ奥底で燻っている。
ドフラミンゴが立ち上がったのは、そのタイミングだった。長身がゆるやかに影を落とすようにして、nameの正面へと降りてくる。気怠げな歩き方のまま、至近まで寄ると――指先でnameの顎を掴んだ。
「ちょっとねぇ……震えてんじゃねェか。ほら、ここ――」
唇に、そっと人差し指が触れる。それはまるで、皮膚の奥に熱を送り込むような柔らかな圧。指先が触れた瞬間、nameの身体がぴくりと震えた。
「っ……」
言葉にならない吐息。明らかに拒絶でも、受容でもない。ただ、瞬間的に生まれた反射のような震えが、正直すぎる答えを晒した。
「フッフッフ……おいおい、可愛いなァ?やっぱり効いてんじゃねェか」
ドフラミンゴが鼻で笑う。その目は愉悦に細められ、まるでおもちゃを見つけた子供のようだった。nameは顔を赤らめ、ばっと指を払いのける。その動きすらも、どこか緩慢で、普段よりもわずかに遅れている。
「……だからさァ、ロシー、せっかく見てるなら止めてよもう……ドフィほんと性格悪い……!」
思わずロシナンテに助け舟を求めるように視線を向ける。けれど、ロシナンテは一瞬目を伏せて、ノートにさらりと書いたあと、見せた。
【溜息しか出ない】
「……ロシーまで!?」
nameがわずかに唇を尖らせる。けれど、その頬には赤みが差し、耳までほんのりと染まっていた。顔を背けるようにして首をすくめる仕草が、どこか子供のようでもあり――それだけに、艶めいた余韻との対比が、またひときわ生々しかった。
「……もー……」
小さく呟いたその声は、ふざけた調子ではあったけれど、どこかに悔しさと羞恥の滲む響き。それを聞いたドフラミンゴは、また喉を鳴らして笑い、ロシナンテはもう一度だけ深く息を吐いた。この愉快で、少しだけひりついた空気の真ん中で、nameはただ、ふくれ面で立ち尽くしていた。
扉が閉まる音が背後に落ちて、ようやく少しだけ呼吸が楽になる。nameは、口の中に残るあの男の気配を、なんとか唾で流し込むようにして、ごくりと喉を鳴らした。
「……はぁ、疲れたー……ほんと…もう…」
足取りは少し早い。長く広い廊下を、少しでも早く抜けてしまいたかった。
肌の奥でまだ、あの視線の余韻がくすぶっている。熱い指先の残像も、甘くない言葉の記憶も――全部、少しでも早く置いていきたかった。
そして、無意識に身体は“いつもの道”を外れていた。角を曲がり、自分の部屋の方角へと進もうとする。わずかに重たいまぶた。薬のせいか、単なる疲労か。このまま何も考えずに、ひとり、寝てしまいたかった。
――けれど。
「……っ」
肩を、すっと掴まれる。その手の主に、抵抗する気は起きなかった。視線を動かせば、ロシナンテがすぐ傍にいた。手元にはメモ。けれど、何も書いていない。そのまま、黙って――ただ、行く手を塞ぐように立っていた。
「……なに、今日はやけにしつこくない?」
軽く笑ってみせる。けれど、その声の中には、ほんの少しの揺れがあった。ロシナンテは表情を崩さずに、メモへペンを走らせる。
【どうせこっちに来るんだと思ってた】
その言葉に、nameはほんの少し眉をしかめる。けれど何も返さない。
代わりに、視線だけが自室の方向を向いた。“今日はだめ”、そう言いたそうな空気が、指先から漂っていた。
もう一度ペンが動く。
【ひとりで寝るには少し火照りすぎてるだろ】
「……うわ、めんどくさ……」
ぼやきながら、片手で顔を覆った。その指先の先、ほんのりと赤く染まった耳を、ロシナンテは見逃さなかった。そして、言葉の代わりに――ロシナンテの唇が、その手を払いのけ、nameの唇を塞いだ。
「――っ!」
思わず身体が揺れる。唇に触れたのは、熱というにはあまりにも穏やかで、けれど、逃がさない強さを持った重なりだった。一瞬、何が起きたのかわからずに瞠目する。そのまま押し出されるように、背中が壁に当たる。誰もいない廊下。白く無機質な壁。静かな空気。けれど、その中に落とされた熱は、ひどく確かなものだった。
「……っ、バカ、ここ廊下……っ」
なんとか言葉を吐き出すけれど、すでに息が上ずっていた。薬の名残が、身体の奥で泡立っている。唇を離された直後なのに、感覚だけがまだそこで疼いている。
ロシナンテはメモを開かない。その代わりに、小さく唇の端を吊り上げた。
“ほら、効いてるだろ”――そう言いたげな、悪戯な目。
「……はぁ……っ、もう……ロシーってさ、性格わる……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、nameは顔を背けた。頬が熱い。舌先が震えてる。ひとりじゃない方がいい、なんて――分かっていたけれど、認めたくなかっただけだ。
ロシナンテは無言のまま、nameの手首をそっと引く。それは拒める強さではない、けれど確実な誘導。nameはしばし迷うふりをして、けれど結局そのまま歩き出す。
向かうのは、自分の部屋。扉の奥で、薬の熱がやっと静まるか、あるいはもっと焚きつけられるのか――それはまだ、誰も知らなかった。