独白
name
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闇と潮の匂いが入り混じる、獣の腹のような牢だった。壁は濡れ、苔のような湿り気が鉄に染みついている。錆びた鉄格子の隙間から流れ込む風は海の味をしており、塩気と血の匂いが混ざり合って鼻を刺す。吐き気を誘うほどの腐臭が漂い、遠くでは誰かの呻き声と、鉄を叩く乾いた音が途切れ途切れに響いていた。その音が止むたびに訪れる静寂が、逆に耳を圧迫する。まるで、ここでは時間さえも腐っていくかのようだった。
nameはその片隅で、身体を折り曲げるようにして横たわっていた。上半身には無数の打撲と裂傷。胸には鈍い痛みが常にあり、息をするたびに軋む。腹部にはまだ乾ききらない血の滲み。左脚の太腿の途中からは粗雑な布が巻かれており、その下はもう、何もなかった。焼き切られた断面は醜く歪み、肉の焦げる臭いがまだ薄く漂っている。焼き付いた黒い痕の隙間からは膿が滲み、冷えた鉄の床にぽたぽたと落ちては広がっていった。
体を少し動かすだけで、全身の神経が軋むように悲鳴を上げる。それでももう叫ぶ気力はなかった。最初の頃こそ喉が裂けるほど声を上げたが、それも無駄だと悟ってからは、唇を噛んで耐えるだけになった。痛みは慣れではなく、諦め。心が壊れる前に、痛みの意味を手放したのだ。
あのとき。あの瞬間。
勝者島の岸壁で、ローが叫んだ声が耳の奥に残っている。撤退命令。冷徹な指揮官の声にしては、僅かに焦りが滲んでいた。クルーたちの悲鳴。潜水艦が砲撃に晒され、白煙を上げ、海へ沈みかけた瞬間。あの轟音と、焼ける匂いと、風を切る弾丸の音。nameは最後尾にいた。誰よりも遅く、誰よりも多く仲間の背中を見送った。殿として残るのが自分の役目だと信じて。
あの瞬間、自分が戻らないことを理解していた。だが、不思議と怖くはなかった。ローの命令には、そうさせる力があった。あの男が生きている限り、彼の命令に従うことが正しいと、本能のように思っていた。だからこそ、撤退命令のあと、自分がここに残った。
黒ひげ海賊団の連中は、最初から捕まえるつもりだったのだろう。奴らの笑いはいつも獣のように湿っている。殴り、蹴り、骨を砕き、飽きたら別の興味を向ける。痛みだけでなく、屈辱と恐怖を何度も形を変えて与えてきた。肉を裂く音、笑い声、潮の音。全てが混ざって、地獄のように続いた。
「ほら見ろよ、まだ息してるぜ。」「さすが“ハート”の連中はしぶとぇな。」
そんな言葉が聞こえても、nameは何も返さなかった。彼らは反応を楽しむ。叫べば笑う。抵抗すれば殴る。だから、何も見せない。ただ生きるために、感情を殺した。
唇の端を伝う血を舐めると、鉄の味が広がった。その味が、どこかでローの武器を思い出させた。鋭く、冷たく、確固たる意志のような味。
ロー。
その名を思うたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。冷静で、誰よりも沈着な瞳。命令の瞬間に見せた、一瞬の焦り。それが最後の記憶だ。あの時、彼は必ず生き延びると信じていた。自分の犠牲を無駄にしない男だと、知っていたから。
鉄格子の外から笑い声が響く。
「まだ死んでねぇのか、片足野郎。」
聞き慣れた声。監視の一人、名も知らぬ下っ端。彼はわざと音を立てながら近づき、nameの残った右脚を蹴り上げた。鈍い痛みが腹を貫き、視界が一瞬白く弾ける。けれど、反応はしない。呻き声を出すことも、顔を歪めることもない。無反応でいることこそが、彼らへの抵抗だった。
監視は退屈そうに舌打ちし、鉄格子を叩いて去っていく。残された静寂の中、nameはようやく肺の奥に残った空気を吐き出した。血の混じった息が床に落ち、黒ずんだ染みを広げる。
ふと、壁の向こうから微かな水音が聞こえた。潮の満ち引き。遠くの波が、岩に砕ける音。ここがまだ海のそばであることを、皮肉のように知らせてくる。外の世界は、まだ動いている。生きている。自分が閉じ込められているこの場所とは対照的に。
「……キャプテン、」
掠れた声で呟いた。返事は、当然ない。けれど、確信はあった。ローは死んでいない。あの男は、必ず生き延びている。そうでなければ、あの命令の意味が消えてしまう。あの冷たい瞳の奥に宿った、わずかな情熱――それを信じることでしか、今を耐えられなかった。
指先に触れるのは乾いた血と鉄の感触。右手の甲には、刻まれた古いハートのタトゥー。掠れ、滲み、今にも消えそうなそれを、震える指でなぞる。ローの海賊団の証。それを見つめながら、息を整える。痛みに震えながらも、心だけは折らないように。
――帰る。
もし、この地獄から生きて出られるなら。もう一度、あの船に。あの声のもとへ。ローの命令の続きを聞くために。たとえ再び死地に向かうとしても構わない。それが自分の存在理由なのだから。
そう思った瞬間、鉄格子の向こうで誰かが歩く音がした。重い靴音が近づく。潮風が少しだけ強く吹き込み、火の消えかけた松明がちらりと揺れた。影が長く伸び、nameの顔を撫でていく。足音の主は、牢の前で立ち止まった。
「生きてるか、賞金首。」
低い声。聞き覚えのないもの。足音とともに、靴の先が鉄格子を軽く叩く音が響く。返事をする気力はない。ただ、静かにその気配を感じ取る。しばらくの沈黙のあと、男は鼻を鳴らし、笑った。
「いい目をしてる。死にきれねぇ顔だ。」
何かが床に投げ込まれた。錆びた鉄の皿に、硬いパンの切れ端と水の入った瓶。見下ろす影の中で、その瓶だけがかすかに光を反射した。男は興味を失ったように去っていく。足音が遠ざかり、再び闇が戻る。
nameはしばらく動けなかった。やがて右手を伸ばし、瓶を掴む。指が震え、手から滑り落ちそうになる。それでも何とか栓を外し、唇を湿らせた。濁った水の味。だがそれでも、生を繋ぐためには十分だった。喉を通るたびに、胸が熱くなる。生きているという感覚が、微かに戻ってくる。
そのまま壁にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。遠くで波が鳴る。鎖の軋む音、鉄のきしみ、そして海の匂い。外の世界のすべてが遠い夢のように感じられる。けれど確かに、そこにある。
――帰る。必ず。
呟いた唇がかすかに動く。血の味と塩の味が混ざり合う。鉄格子の向こうで、風が鳴った。どこかで誰かが泣いている声がした。それでも、海の音は確かに響いている。
nameはその音を聞きながら、崩れかけた意識を細い糸のように繋ぎ止めた。風が、波が、命の残り火を撫でていく。生と死の境目にあるその牢の中で、彼はまだ――生きていた。
牢の扉が軋む音が響いた。長く閉ざされていた空気が破られ、冷たい風とともに、海の匂いが流れ込んでくる。鉄の臭い、腐敗の臭い、そして外から混じる潮の香り。全てが混ざり合って、まるで生と死の境界が曖昧になったような気配だった。湿った石床の上を、ゆっくりとした足音が近づく。金属の鎖が擦れる音が一瞬止まり、牢の奥でうずくまっていたnameは、わずかに顔を上げた。瞼を開けるだけでも骨が軋み、視界が滲む。
扉の向こうに立っていたのは、外套を肩にかけた長身の男。足元まで届くその影は牢の中にまで延び、nameの顔を半分だけ照らした。光が冷たく、氷のように沈んでいる。その眼差しにはかつて海軍大将と呼ばれた者の風格がまだ残っていたが、同時に、どこか人間離れした倦怠と、深海のような冷静さが宿っていた。
「……青キジ、だと……」
声を出した瞬間、乾いた喉がひび割れた。言葉とともに血が滲み、舌先に鉄の味が広がる。どれほどの時間、言葉を発していなかっただろうか。声が自分のものとは思えないほど掠れていた。
「おう、久しぶりだな」
低く、どこか海鳴りのような声だった。クザンは鉄格子の隙間から中を覗き、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。部屋の空気が変わる。彼が連れてきた海の気配が、腐臭に染みついた空間の温度を一瞬で変えた。冷たく、澄んだ風。だがその冷たさは清浄さではなく、まるで痛みを包み隠すような静かな重さを持っていた。
nameは壁に背を預けたまま、唇を吊り上げて吐き捨てる。
「地に堕ちたな、青キジ。元海軍大将が、こんな泥の中に足突っ込んで、何してやがる」
クザンは肩をすくめ、少しだけ笑ったように見えた。
「へぇ、まだそんな口が利けるか。……死の外科医の部下ってのは、タフだねぇ」
その声は穏やかでありながら、どこか乾いている。慰めでも侮蔑でもない、ただの事実として言葉が落とされる。クザンはそのまましゃがみ込み、手にしていた袋を床に置いた。袋の口が開かれ、鉄の器具が冷たい光を放つ。金属が触れ合う音が、やけに鮮やかに響いた。
nameは瞳を細め、力なく笑った。
「治療の真似事でもすんのか。笑わせるな。お前が“人を助ける”なんざ、似合わねぇよ」
「言うねぇ」
皮肉をサラリとかわしつつ。クザンは器具を取り出しながら軽く肩を回した。
「治すっていうより、使えるようにしておけって命令さ。お前を殺すのはまだ早いんだとよ。……“利用価値”があるらしい」
「……チッ」
nameは顔を背けた。顎を動かしただけで、首筋の筋肉が軋む。血と汗の臭いが皮膚にこびりついている。クザンの視線が左脚へと移る。そこには粗末な布が巻かれ、赤黒く染まっていた。布を解くと、焼け焦げた断面が露わになる。肉の焦げる臭いが立ちのぼり、空気がさらに重く沈んだ。
「……これはひどいな。感染してる。まぁ、そりゃそうか」
クザンは淡々と呟いた。手袋越しに傷口へ指を伸ばす。その指先が触れた瞬間、冷気が肌を刺すように走る。次の瞬間、傷口から立ち上る痛みが凍りつき、感覚が奪われた。
「やめろ……触るな」
「おっと、我慢しなよ。……凍らせりゃ、少しはマシだろ」
その声音は、皮肉とも、ほんの一瞬の優しさとも取れる曖昧な響きをしていた。氷が皮膚の下を這い、痛みを閉じ込める。冷たさが神経を麻痺させ、心臓の鼓動だけが遠くで響く。
「……“死の外科医”の部下が、こんなところで、こんな姿か」
クザンがぼそりと呟く。
「あの男、頂上戦争のときもそうだったな。止められても前に出て、血まみれで帰ってきた。お前も似たようなもんだ」
「……何が言いたい」
「いや、感心してるんだわ。命令に逆らってでも、誰かを助けようとするバカさにな」
nameの拳が震えた。声を押し殺すように息を吐く。
「……あんた、俺を知ってたのか」
クザンは静かに息を吐き、視線を逸らさずに答える。
「少しくらいはな。海軍ってのは情報好きだもんで。特に“死の外科医”のクルーはみんな目立ってた。あの男の船に乗る奴は、みんな似てる。理屈より信念で動く。……でもな、信念だけじゃこの島は生き残れねぇ」
その言葉に、nameはかすかに笑った。唇が切れて血が滲む。
「説教か?裏切り者に言われる筋合いはねぇよ」
クザンの目がわずかに細まる。その瞳の奥には、痛みとも諦めともつかない影が揺れていた。
「裏切りかどうかは、立つ場所次第だ。……お前も、そうだろ?」
沈黙が落ちた。遠くで波の音がする。氷の冷たさが皮膚を覆い、痛みを遠ざける。その代わりに、胸の奥に残る熱が疼いた。ローの姿、仲間の叫び、砲撃の閃光、潜水艦が沈んでいく音。全てが焼き付いたまま、心の中で凍りついている。
クザンは立ち上がり、布を巻き直した。指先が淡く白い息を吐く。
「動くな。数日はそのままでいろ。腐っても、死ぬよりマシだ」
鉄格子の方へ向かうその背中を、nameは睨み続けた。体を動かすこともできず、ただその影を目で追う。彼が扉の前に立ったとき、低く掠れた声が牢に響いた。
「……青キジ」
クザンは足を止めた。
「ん?」
「キャプテンは…生きてるか」
一瞬、空気が止まる。外から吹き込んでいた風さえも静まり返ったように思えた。クザンは振り返らず、少しの間だけ黙り込んだあと、淡々と答えた。
「知らねぇな…けど、ま、“死の外科医”だぞ。そう簡単に死ぬような男か?」
その言葉が落ちると同時に、扉が静かに閉じた。金属の響きが重く、長く残る。風が一度だけ牢を通り抜け、氷の匂いと潮の香りを残して消えた。
再び訪れた静寂の中、nameは目を閉じる。冷気が皮膚を包み、胸の奥の熱がゆっくりと息を吹き返すように脈打つ。氷と炎が交互に鼓動を刻むように、痛みと希望が混ざり合う。
――あの男は生きている。
その確信だけが、そう思うことだけが、今も彼をこの地獄に繋ぎ止める鎖になっていた。
nameはその片隅で、身体を折り曲げるようにして横たわっていた。上半身には無数の打撲と裂傷。胸には鈍い痛みが常にあり、息をするたびに軋む。腹部にはまだ乾ききらない血の滲み。左脚の太腿の途中からは粗雑な布が巻かれており、その下はもう、何もなかった。焼き切られた断面は醜く歪み、肉の焦げる臭いがまだ薄く漂っている。焼き付いた黒い痕の隙間からは膿が滲み、冷えた鉄の床にぽたぽたと落ちては広がっていった。
体を少し動かすだけで、全身の神経が軋むように悲鳴を上げる。それでももう叫ぶ気力はなかった。最初の頃こそ喉が裂けるほど声を上げたが、それも無駄だと悟ってからは、唇を噛んで耐えるだけになった。痛みは慣れではなく、諦め。心が壊れる前に、痛みの意味を手放したのだ。
あのとき。あの瞬間。
勝者島の岸壁で、ローが叫んだ声が耳の奥に残っている。撤退命令。冷徹な指揮官の声にしては、僅かに焦りが滲んでいた。クルーたちの悲鳴。潜水艦が砲撃に晒され、白煙を上げ、海へ沈みかけた瞬間。あの轟音と、焼ける匂いと、風を切る弾丸の音。nameは最後尾にいた。誰よりも遅く、誰よりも多く仲間の背中を見送った。殿として残るのが自分の役目だと信じて。
あの瞬間、自分が戻らないことを理解していた。だが、不思議と怖くはなかった。ローの命令には、そうさせる力があった。あの男が生きている限り、彼の命令に従うことが正しいと、本能のように思っていた。だからこそ、撤退命令のあと、自分がここに残った。
黒ひげ海賊団の連中は、最初から捕まえるつもりだったのだろう。奴らの笑いはいつも獣のように湿っている。殴り、蹴り、骨を砕き、飽きたら別の興味を向ける。痛みだけでなく、屈辱と恐怖を何度も形を変えて与えてきた。肉を裂く音、笑い声、潮の音。全てが混ざって、地獄のように続いた。
「ほら見ろよ、まだ息してるぜ。」「さすが“ハート”の連中はしぶとぇな。」
そんな言葉が聞こえても、nameは何も返さなかった。彼らは反応を楽しむ。叫べば笑う。抵抗すれば殴る。だから、何も見せない。ただ生きるために、感情を殺した。
唇の端を伝う血を舐めると、鉄の味が広がった。その味が、どこかでローの武器を思い出させた。鋭く、冷たく、確固たる意志のような味。
ロー。
その名を思うたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。冷静で、誰よりも沈着な瞳。命令の瞬間に見せた、一瞬の焦り。それが最後の記憶だ。あの時、彼は必ず生き延びると信じていた。自分の犠牲を無駄にしない男だと、知っていたから。
鉄格子の外から笑い声が響く。
「まだ死んでねぇのか、片足野郎。」
聞き慣れた声。監視の一人、名も知らぬ下っ端。彼はわざと音を立てながら近づき、nameの残った右脚を蹴り上げた。鈍い痛みが腹を貫き、視界が一瞬白く弾ける。けれど、反応はしない。呻き声を出すことも、顔を歪めることもない。無反応でいることこそが、彼らへの抵抗だった。
監視は退屈そうに舌打ちし、鉄格子を叩いて去っていく。残された静寂の中、nameはようやく肺の奥に残った空気を吐き出した。血の混じった息が床に落ち、黒ずんだ染みを広げる。
ふと、壁の向こうから微かな水音が聞こえた。潮の満ち引き。遠くの波が、岩に砕ける音。ここがまだ海のそばであることを、皮肉のように知らせてくる。外の世界は、まだ動いている。生きている。自分が閉じ込められているこの場所とは対照的に。
「……キャプテン、」
掠れた声で呟いた。返事は、当然ない。けれど、確信はあった。ローは死んでいない。あの男は、必ず生き延びている。そうでなければ、あの命令の意味が消えてしまう。あの冷たい瞳の奥に宿った、わずかな情熱――それを信じることでしか、今を耐えられなかった。
指先に触れるのは乾いた血と鉄の感触。右手の甲には、刻まれた古いハートのタトゥー。掠れ、滲み、今にも消えそうなそれを、震える指でなぞる。ローの海賊団の証。それを見つめながら、息を整える。痛みに震えながらも、心だけは折らないように。
――帰る。
もし、この地獄から生きて出られるなら。もう一度、あの船に。あの声のもとへ。ローの命令の続きを聞くために。たとえ再び死地に向かうとしても構わない。それが自分の存在理由なのだから。
そう思った瞬間、鉄格子の向こうで誰かが歩く音がした。重い靴音が近づく。潮風が少しだけ強く吹き込み、火の消えかけた松明がちらりと揺れた。影が長く伸び、nameの顔を撫でていく。足音の主は、牢の前で立ち止まった。
「生きてるか、賞金首。」
低い声。聞き覚えのないもの。足音とともに、靴の先が鉄格子を軽く叩く音が響く。返事をする気力はない。ただ、静かにその気配を感じ取る。しばらくの沈黙のあと、男は鼻を鳴らし、笑った。
「いい目をしてる。死にきれねぇ顔だ。」
何かが床に投げ込まれた。錆びた鉄の皿に、硬いパンの切れ端と水の入った瓶。見下ろす影の中で、その瓶だけがかすかに光を反射した。男は興味を失ったように去っていく。足音が遠ざかり、再び闇が戻る。
nameはしばらく動けなかった。やがて右手を伸ばし、瓶を掴む。指が震え、手から滑り落ちそうになる。それでも何とか栓を外し、唇を湿らせた。濁った水の味。だがそれでも、生を繋ぐためには十分だった。喉を通るたびに、胸が熱くなる。生きているという感覚が、微かに戻ってくる。
そのまま壁にもたれ、ゆっくりと目を閉じた。遠くで波が鳴る。鎖の軋む音、鉄のきしみ、そして海の匂い。外の世界のすべてが遠い夢のように感じられる。けれど確かに、そこにある。
――帰る。必ず。
呟いた唇がかすかに動く。血の味と塩の味が混ざり合う。鉄格子の向こうで、風が鳴った。どこかで誰かが泣いている声がした。それでも、海の音は確かに響いている。
nameはその音を聞きながら、崩れかけた意識を細い糸のように繋ぎ止めた。風が、波が、命の残り火を撫でていく。生と死の境目にあるその牢の中で、彼はまだ――生きていた。
牢の扉が軋む音が響いた。長く閉ざされていた空気が破られ、冷たい風とともに、海の匂いが流れ込んでくる。鉄の臭い、腐敗の臭い、そして外から混じる潮の香り。全てが混ざり合って、まるで生と死の境界が曖昧になったような気配だった。湿った石床の上を、ゆっくりとした足音が近づく。金属の鎖が擦れる音が一瞬止まり、牢の奥でうずくまっていたnameは、わずかに顔を上げた。瞼を開けるだけでも骨が軋み、視界が滲む。
扉の向こうに立っていたのは、外套を肩にかけた長身の男。足元まで届くその影は牢の中にまで延び、nameの顔を半分だけ照らした。光が冷たく、氷のように沈んでいる。その眼差しにはかつて海軍大将と呼ばれた者の風格がまだ残っていたが、同時に、どこか人間離れした倦怠と、深海のような冷静さが宿っていた。
「……青キジ、だと……」
声を出した瞬間、乾いた喉がひび割れた。言葉とともに血が滲み、舌先に鉄の味が広がる。どれほどの時間、言葉を発していなかっただろうか。声が自分のものとは思えないほど掠れていた。
「おう、久しぶりだな」
低く、どこか海鳴りのような声だった。クザンは鉄格子の隙間から中を覗き、ゆっくりと中へ足を踏み入れる。部屋の空気が変わる。彼が連れてきた海の気配が、腐臭に染みついた空間の温度を一瞬で変えた。冷たく、澄んだ風。だがその冷たさは清浄さではなく、まるで痛みを包み隠すような静かな重さを持っていた。
nameは壁に背を預けたまま、唇を吊り上げて吐き捨てる。
「地に堕ちたな、青キジ。元海軍大将が、こんな泥の中に足突っ込んで、何してやがる」
クザンは肩をすくめ、少しだけ笑ったように見えた。
「へぇ、まだそんな口が利けるか。……死の外科医の部下ってのは、タフだねぇ」
その声は穏やかでありながら、どこか乾いている。慰めでも侮蔑でもない、ただの事実として言葉が落とされる。クザンはそのまましゃがみ込み、手にしていた袋を床に置いた。袋の口が開かれ、鉄の器具が冷たい光を放つ。金属が触れ合う音が、やけに鮮やかに響いた。
nameは瞳を細め、力なく笑った。
「治療の真似事でもすんのか。笑わせるな。お前が“人を助ける”なんざ、似合わねぇよ」
「言うねぇ」
皮肉をサラリとかわしつつ。クザンは器具を取り出しながら軽く肩を回した。
「治すっていうより、使えるようにしておけって命令さ。お前を殺すのはまだ早いんだとよ。……“利用価値”があるらしい」
「……チッ」
nameは顔を背けた。顎を動かしただけで、首筋の筋肉が軋む。血と汗の臭いが皮膚にこびりついている。クザンの視線が左脚へと移る。そこには粗末な布が巻かれ、赤黒く染まっていた。布を解くと、焼け焦げた断面が露わになる。肉の焦げる臭いが立ちのぼり、空気がさらに重く沈んだ。
「……これはひどいな。感染してる。まぁ、そりゃそうか」
クザンは淡々と呟いた。手袋越しに傷口へ指を伸ばす。その指先が触れた瞬間、冷気が肌を刺すように走る。次の瞬間、傷口から立ち上る痛みが凍りつき、感覚が奪われた。
「やめろ……触るな」
「おっと、我慢しなよ。……凍らせりゃ、少しはマシだろ」
その声音は、皮肉とも、ほんの一瞬の優しさとも取れる曖昧な響きをしていた。氷が皮膚の下を這い、痛みを閉じ込める。冷たさが神経を麻痺させ、心臓の鼓動だけが遠くで響く。
「……“死の外科医”の部下が、こんなところで、こんな姿か」
クザンがぼそりと呟く。
「あの男、頂上戦争のときもそうだったな。止められても前に出て、血まみれで帰ってきた。お前も似たようなもんだ」
「……何が言いたい」
「いや、感心してるんだわ。命令に逆らってでも、誰かを助けようとするバカさにな」
nameの拳が震えた。声を押し殺すように息を吐く。
「……あんた、俺を知ってたのか」
クザンは静かに息を吐き、視線を逸らさずに答える。
「少しくらいはな。海軍ってのは情報好きだもんで。特に“死の外科医”のクルーはみんな目立ってた。あの男の船に乗る奴は、みんな似てる。理屈より信念で動く。……でもな、信念だけじゃこの島は生き残れねぇ」
その言葉に、nameはかすかに笑った。唇が切れて血が滲む。
「説教か?裏切り者に言われる筋合いはねぇよ」
クザンの目がわずかに細まる。その瞳の奥には、痛みとも諦めともつかない影が揺れていた。
「裏切りかどうかは、立つ場所次第だ。……お前も、そうだろ?」
沈黙が落ちた。遠くで波の音がする。氷の冷たさが皮膚を覆い、痛みを遠ざける。その代わりに、胸の奥に残る熱が疼いた。ローの姿、仲間の叫び、砲撃の閃光、潜水艦が沈んでいく音。全てが焼き付いたまま、心の中で凍りついている。
クザンは立ち上がり、布を巻き直した。指先が淡く白い息を吐く。
「動くな。数日はそのままでいろ。腐っても、死ぬよりマシだ」
鉄格子の方へ向かうその背中を、nameは睨み続けた。体を動かすこともできず、ただその影を目で追う。彼が扉の前に立ったとき、低く掠れた声が牢に響いた。
「……青キジ」
クザンは足を止めた。
「ん?」
「キャプテンは…生きてるか」
一瞬、空気が止まる。外から吹き込んでいた風さえも静まり返ったように思えた。クザンは振り返らず、少しの間だけ黙り込んだあと、淡々と答えた。
「知らねぇな…けど、ま、“死の外科医”だぞ。そう簡単に死ぬような男か?」
その言葉が落ちると同時に、扉が静かに閉じた。金属の響きが重く、長く残る。風が一度だけ牢を通り抜け、氷の匂いと潮の香りを残して消えた。
再び訪れた静寂の中、nameは目を閉じる。冷気が皮膚を包み、胸の奥の熱がゆっくりと息を吹き返すように脈打つ。氷と炎が交互に鼓動を刻むように、痛みと希望が混ざり合う。
――あの男は生きている。
その確信だけが、そう思うことだけが、今も彼をこの地獄に繋ぎ止める鎖になっていた。
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