05.sabaody archipelago
name
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潮風が船体を撫でる音が、ようやく現実の静けさを思い出させていた。
ボニーの船は、追手を振り切って港を離れたばかり。まだ緊張の余韻は残っていたが、いまはそれよりも――傷んだ足の感覚の方が、ずっと鮮明だった。
医務室の中は、思いのほか整っていた。荒くれ者の船という印象とは裏腹に、白い布や道具がきちんと並び、医療用の薬草とアルコールの匂いが混じって鼻をつく。nameはベッドに座らされ、脚を丁寧に包帯で巻かれていた。
「これでしばらくは動けるようになる。ただし無理は厳禁だ、わかったな?」
包帯を巻いていた初老の船医が目だけで念を押す。手際はよく、言葉も簡潔だが、その動作には長年の経験が滲んでいた。
nameは静かに頷く。
「……ありがとうございます。あの……ほんとうに、助けていただいて……」
そう言って、隣に立つボニーの方へ視線を向ける。包帯越しに少し熱をもっている脚をそっと撫でながら、nameは目を伏せた。
「あなたがあのとき……来てくださらなかったら、わたし、きっと……」
「んー……やめときな」
ボニーが片手を上げて、すこしだけ顔をしかめた。照れ隠しのようなその仕草に、nameの口元がほんの少しだけ和らぐ。
「たまたまだし。あんたがいたのは想定外ってやつ。……礼なんて、もらうほどじゃないわよ」
「そうは言っても……感謝してるんです。ここに、いられてよかったって……」
その言葉に、ボニーは少しだけ視線を逸らし、「やめとけって」と呟いた。
「ったく……おいおい、照れてんのか?うちの船長が礼言われて戸惑うとか、珍しいな」
横から口を挟んだのは船医だった。笑いながら、手を洗い流してタオルで拭くと、nameに向かって目を細める。
「そもそも怪我させたのは船長だろうが。あんたが連れてくるのは、あたりまえなんだよ。責任取って当然」
「うるさい。瓦礫でちょっと切れただけでしょ、死にゃしないっての」
「その“ちょっと”で骨までいってたらどうしてくれるんだ」
「そんなヤワな奴ならとっくに死んでるでしょ」
呆れたように言い合うふたりを、nameはぽかんと見ていた。
ひとつひとつの言葉にとげはあるのに、不思議と空気は柔らかい。
この人たちは――信頼しあってるのだと、すぐに分かった。
反発も軽口も、その根っこは深くつながっていて、強くて優しいものだ。
(……強いな、わたしなんかとは……全然違う……)
少しだけ胸が痛んだ。羨望と、自分への悔しさと、混ざったような感情。
それでも、ここに来られたことが、nameにとって小さな奇跡だった。
まだ傷だらけの心と身体を包むような、あたたかい空気の中に――
彼女は、久しぶりに「人のいる場所」にいるのだと、静かに実感していた。
医務室を後にして、ボニーはnameの横に並ぶように歩き出した。船の廊下はぎしぎしと音を立て、遠くで船員たちの掛け声が風に溶けていた。幾度か揺れる船体の動きにあわせて、nameは痛む脚を庇うように歩みを進めていたが、それを見て、ボニーは何も言わずに歩調を合わせてくれていた。
「客室はこっち。言っとくけど、そんなに広くはないからね。あんたの脚、休めるには十分なはずだけど」
軽い口調の中にも気遣いがあって、nameは少しだけ肩の力を抜いた。けれど、次の言葉には、不意を突かれた。
「……で、あの場所で、あんたは何してたの?」
扉の前で立ち止まり、ボニーが振り返る。
その問いに、nameの喉が詰まった。
「……っ」
思わず、ヒュッと息を吸い込んだ。
胸がきゅう、と締めつけられる。頭に浮かぶのは、暗く、甘く、痛い記憶。
吐息の端に残る快楽の残滓。爪痕のような痛みと、あの名を呼ぶ声――
ほんの一瞬、顔を背けて俯くnameを見て、ボニーは「あー……」と小さく声を漏らした。
「ごめん、悪いこと聞いた。そういう……感じだったんだね」
言い訳をしようとしたnameの口が開くよりも早く、ボニーの言葉は続いた。
責めるでも、哀れむでもなく、ただ「そうか」と受け止めるような声だった。
「……ち、違うんです。わたし、あの、ほんとうは……」
「あー、いいって。無理して言わなくてもさ。あたしだって全部言えるわけじゃないし。ほら、おあいこってことで」
さらりと言いながら、ボニーは扉を開けて中を指差す。
狭いが清潔な部屋。簡素なベッドに、丸い窓。夜の海が見える位置。
nameは少しだけ躊躇いながらも、静かにその部屋に足を踏み入れる。
「でも……わたし……」
nameは振り返り、視線を落としたまま言葉を探した。
心の奥にある痛みをすべて伝えることはできなかった。けれど、それでも――
「……わたしは、“人”を……探してるんです。どうしても……会いたい人が、いるんです」
その言葉に、ボニーは驚くでもなく、少しだけ目を細めて頷いた。
「……そっか。あたしも、まあ……似たようなもんかも」
それだけ言って、ボニーは軽く手を振ると、「ゆっくり休みな」と部屋のドアを閉めた。
残されたnameは、ぽつんと立ち尽くしたまま、窓の外に目をやった。
星のない夜だった。だけど、風はどこか穏やかだった。
人を探す旅の途中。
今夜は――少しだけ、心があたたかかった。
窓の外に揺れる朝の光が、海面を静かに撫でていた。
わずかに傾く船体の揺れが、まるで誰かの掌に抱かれているように優しく、nameは久しぶりに夢も見ず、深く眠ることができた。起きた時、まだその柔らかな余韻が身体の内に残っていた。
息を吸い込む。潮と木の匂いが混じった空気は、昨日までいた場所の重苦しさとはまるで違って、胸の奥まで届いた。
ゆっくりと上体を起こし、傍らにたたまれていた服に手を伸ばす。
それは、ボニーが別れ際に「気が利くあたしに感謝してよね」と冗談めかして置いていったものだった。
薄手の長袖シャツと、丈の短いショートパンツ。風通しの良さと、傷を隠す配慮の絶妙なバランス。
袖を通すたびに、ほんのりと香る柔軟剤の匂いにボニーの気配が重なり、nameは少しだけ唇を緩めた。
コンコン、と控えめなノックが響いたのは、着替え終わったちょうどのタイミングだった。
「入りますよー」
扉を開けて入ってきたのは、昨日の医務室で手当をしてくれた船医だった。飄々とした雰囲気はそのままに、手にはいくつかの小さな瓶と包帯が握られている。
「足の調子、見せてもらえる?」
「はい……お願いします」
素直に頷いてベッドに座り直すと、船医は手早くnameの脚を見て、昨日より腫れが引いていることに安心したように息をついた。
「順調だね。しばらくは無理しなければ、問題ないよ。……けど」
彼は少しだけ視線を動かすと、nameの腕や首筋、肩、そして背中――隠しきれずに残る、いくつもの痕に目を留めた。
擦過傷、掴まれた跡、噛み痕のようなものまで。すべて、痛々しいほど“最近”のもの。
けれど、船医は何も聞かなかった。眉をひそめることも、詮索することもなく、ただ一言だけ。
「……大丈夫?」
その声音が、優しかった。
情けや同情ではなく、ただ“そこにいる君”に対して向けられたもの。
nameは一瞬、言葉を探し――それでも、ゆっくりと小さく頷いた。
「……はい。だいじょうぶ、です」
それ以上は何も言わず、船医は頷き、淡々とした手つきで消毒を始めた。
沁みる感覚。けれど、その痛みが妙に安心できるものであることに、nameは気づいていた。
ただ触れられるだけで身体がこわばっていたあの夜から、ほんの少しだけ距離ができた。
触れられることに、今、怖さはなかった。
それが、どれだけの変化か。自分でも驚くくらいだった。
「おわり。清潔に保って、無理はしないこと」
消毒を終え、包帯を整えながらそう言う船医に、nameはふと問いたくなった。
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「おや、やっと聞いてくれるの?オレは“ギャレン”。まあ、ボニーに振り回される係みたいなもんさ。何かあれば、気軽に呼んでよ。怖くないからね?」
冗談めかしたその言い方に、くすりと笑みが漏れた。
「……ありがとうございます、ギャレンさん」
胸の奥が、ほんの少しだけあたたかくなる。
繕うような礼ではなく、自然にこぼれた本当の感謝の言葉。
そしてそれを口にできた自分に、また小さく驚いていた。
通路の先に、陽の光が差し込んでいた。
ギャレンに案内されるまま、ゆるやかに波打つ船内の廊下を歩きながら、nameは静かに息を整えていた。足の包帯がすこし擦れるたび、治りかけの痛みが自己主張をするが、それ以上に、胸の奥にある不思議な緊張のほうが強かった。
「さ、着いた。ここがうちの“胃袋”さ」
軽やかな声とともに開かれた扉の向こうは、想像よりもずっと賑やかだった。
ぎしぎしと木の床を踏み鳴らす音、食器の触れ合う音、香ばしい何かの香り。そして何より、人の笑い声があった。
nameの足が止まる。
「……あ、来た来た!」
真っ先に気づいたのは、奥の大きなテーブルに腰掛けていたボニーだった。片手には肉の骨付きグリル、もう片手にはフォーク。口元には油のついた笑み。
「遅いぞギャレン。それとも丁寧に包帯でも巻いてきたか?」
「お前が“どんな顔”でやらかしたか考えたら、こっちは丁寧にもなるさ」
すかさず返された言葉に、周囲の船員たちからも笑いが洩れる。
「おーい、怪我させたのが船長なんだろ?そりゃ連れてきて正解じゃねぇか!」
「まさかぶっ壊した先に女の子がいたとはな〜。ボニー、女難の相出てるぞ!」
「うるせぇ!」
そう返しながらも、ボニーはどこか楽しそうだった。
そして、からかいの言葉の中に、誰ひとりとして悪意がないことに、nameはすぐに気づく。
それが、少しだけ救いだった。ギャレンが肩をすくめながら促す。
「ま、紹介しとくといいんじゃないか?」
「あー、そだね」
ボニーが肉を一度テーブルに置いて、椅子の背もたれに肘をかけながら、nameに視線を向ける。
その目は、さっきのような軽口とは違い、真っ直ぐだった。
「こっちは“name”。ちょっと、いろいろあって拾った子。次の島までの間、うちの船で預かることになってる。……つーか、ちゃんとあたしが送り届けるから」
「……あの」
少し遅れて、nameが前に出る。自分の声が静かに響くように、ゆっくりと話した。
「……nameと申します。船に乗せていただいて、本当にありがとうございます。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、いくつかの「おー」とか「礼儀正しいな」みたいな声が飛び、誰かが「いい子じゃん!ボニーとは大違いだ」と囁いてまた笑いが起きた。
「うるせぇっつってんだろ!!」
ボニーが叫ぶように返すと、場はさらに賑やかになる。
――その空気に、nameは少しだけ目を細めた。
この、騒がしくて、体温があって、言葉に棘がなくて。
それぞれが“船の音”と混じりながら、生きて響いているような場所。
たとえそれが一時的でも、居場所のない自分に手を差し伸べてくれる場所だった。
そんな風に感じたのは、ほんのひと時だったレインディーズでの日々以来だった。
「……あの、いただいても……?」
「おう、腹減ってんだろ。ガツガツ食え!ここにいるうちは誰もお前を置いてかねぇからな!」
そう言って皿を差し出してくれたのは、さっき一番からかっていた男だった。
笑顔と皿越しに覗くその眼差しに、nameはまた小さく微笑み、静かに椅子に腰を下ろした。
心のどこかで、夜が来ることへの恐れがまだ残っている。
けれど、今このひとときだけは、そのことを忘れてもいいのかもしれない。
そんなふうに、感じていた。
ボニーの船は、追手を振り切って港を離れたばかり。まだ緊張の余韻は残っていたが、いまはそれよりも――傷んだ足の感覚の方が、ずっと鮮明だった。
医務室の中は、思いのほか整っていた。荒くれ者の船という印象とは裏腹に、白い布や道具がきちんと並び、医療用の薬草とアルコールの匂いが混じって鼻をつく。nameはベッドに座らされ、脚を丁寧に包帯で巻かれていた。
「これでしばらくは動けるようになる。ただし無理は厳禁だ、わかったな?」
包帯を巻いていた初老の船医が目だけで念を押す。手際はよく、言葉も簡潔だが、その動作には長年の経験が滲んでいた。
nameは静かに頷く。
「……ありがとうございます。あの……ほんとうに、助けていただいて……」
そう言って、隣に立つボニーの方へ視線を向ける。包帯越しに少し熱をもっている脚をそっと撫でながら、nameは目を伏せた。
「あなたがあのとき……来てくださらなかったら、わたし、きっと……」
「んー……やめときな」
ボニーが片手を上げて、すこしだけ顔をしかめた。照れ隠しのようなその仕草に、nameの口元がほんの少しだけ和らぐ。
「たまたまだし。あんたがいたのは想定外ってやつ。……礼なんて、もらうほどじゃないわよ」
「そうは言っても……感謝してるんです。ここに、いられてよかったって……」
その言葉に、ボニーは少しだけ視線を逸らし、「やめとけって」と呟いた。
「ったく……おいおい、照れてんのか?うちの船長が礼言われて戸惑うとか、珍しいな」
横から口を挟んだのは船医だった。笑いながら、手を洗い流してタオルで拭くと、nameに向かって目を細める。
「そもそも怪我させたのは船長だろうが。あんたが連れてくるのは、あたりまえなんだよ。責任取って当然」
「うるさい。瓦礫でちょっと切れただけでしょ、死にゃしないっての」
「その“ちょっと”で骨までいってたらどうしてくれるんだ」
「そんなヤワな奴ならとっくに死んでるでしょ」
呆れたように言い合うふたりを、nameはぽかんと見ていた。
ひとつひとつの言葉にとげはあるのに、不思議と空気は柔らかい。
この人たちは――信頼しあってるのだと、すぐに分かった。
反発も軽口も、その根っこは深くつながっていて、強くて優しいものだ。
(……強いな、わたしなんかとは……全然違う……)
少しだけ胸が痛んだ。羨望と、自分への悔しさと、混ざったような感情。
それでも、ここに来られたことが、nameにとって小さな奇跡だった。
まだ傷だらけの心と身体を包むような、あたたかい空気の中に――
彼女は、久しぶりに「人のいる場所」にいるのだと、静かに実感していた。
医務室を後にして、ボニーはnameの横に並ぶように歩き出した。船の廊下はぎしぎしと音を立て、遠くで船員たちの掛け声が風に溶けていた。幾度か揺れる船体の動きにあわせて、nameは痛む脚を庇うように歩みを進めていたが、それを見て、ボニーは何も言わずに歩調を合わせてくれていた。
「客室はこっち。言っとくけど、そんなに広くはないからね。あんたの脚、休めるには十分なはずだけど」
軽い口調の中にも気遣いがあって、nameは少しだけ肩の力を抜いた。けれど、次の言葉には、不意を突かれた。
「……で、あの場所で、あんたは何してたの?」
扉の前で立ち止まり、ボニーが振り返る。
その問いに、nameの喉が詰まった。
「……っ」
思わず、ヒュッと息を吸い込んだ。
胸がきゅう、と締めつけられる。頭に浮かぶのは、暗く、甘く、痛い記憶。
吐息の端に残る快楽の残滓。爪痕のような痛みと、あの名を呼ぶ声――
ほんの一瞬、顔を背けて俯くnameを見て、ボニーは「あー……」と小さく声を漏らした。
「ごめん、悪いこと聞いた。そういう……感じだったんだね」
言い訳をしようとしたnameの口が開くよりも早く、ボニーの言葉は続いた。
責めるでも、哀れむでもなく、ただ「そうか」と受け止めるような声だった。
「……ち、違うんです。わたし、あの、ほんとうは……」
「あー、いいって。無理して言わなくてもさ。あたしだって全部言えるわけじゃないし。ほら、おあいこってことで」
さらりと言いながら、ボニーは扉を開けて中を指差す。
狭いが清潔な部屋。簡素なベッドに、丸い窓。夜の海が見える位置。
nameは少しだけ躊躇いながらも、静かにその部屋に足を踏み入れる。
「でも……わたし……」
nameは振り返り、視線を落としたまま言葉を探した。
心の奥にある痛みをすべて伝えることはできなかった。けれど、それでも――
「……わたしは、“人”を……探してるんです。どうしても……会いたい人が、いるんです」
その言葉に、ボニーは驚くでもなく、少しだけ目を細めて頷いた。
「……そっか。あたしも、まあ……似たようなもんかも」
それだけ言って、ボニーは軽く手を振ると、「ゆっくり休みな」と部屋のドアを閉めた。
残されたnameは、ぽつんと立ち尽くしたまま、窓の外に目をやった。
星のない夜だった。だけど、風はどこか穏やかだった。
人を探す旅の途中。
今夜は――少しだけ、心があたたかかった。
窓の外に揺れる朝の光が、海面を静かに撫でていた。
わずかに傾く船体の揺れが、まるで誰かの掌に抱かれているように優しく、nameは久しぶりに夢も見ず、深く眠ることができた。起きた時、まだその柔らかな余韻が身体の内に残っていた。
息を吸い込む。潮と木の匂いが混じった空気は、昨日までいた場所の重苦しさとはまるで違って、胸の奥まで届いた。
ゆっくりと上体を起こし、傍らにたたまれていた服に手を伸ばす。
それは、ボニーが別れ際に「気が利くあたしに感謝してよね」と冗談めかして置いていったものだった。
薄手の長袖シャツと、丈の短いショートパンツ。風通しの良さと、傷を隠す配慮の絶妙なバランス。
袖を通すたびに、ほんのりと香る柔軟剤の匂いにボニーの気配が重なり、nameは少しだけ唇を緩めた。
コンコン、と控えめなノックが響いたのは、着替え終わったちょうどのタイミングだった。
「入りますよー」
扉を開けて入ってきたのは、昨日の医務室で手当をしてくれた船医だった。飄々とした雰囲気はそのままに、手にはいくつかの小さな瓶と包帯が握られている。
「足の調子、見せてもらえる?」
「はい……お願いします」
素直に頷いてベッドに座り直すと、船医は手早くnameの脚を見て、昨日より腫れが引いていることに安心したように息をついた。
「順調だね。しばらくは無理しなければ、問題ないよ。……けど」
彼は少しだけ視線を動かすと、nameの腕や首筋、肩、そして背中――隠しきれずに残る、いくつもの痕に目を留めた。
擦過傷、掴まれた跡、噛み痕のようなものまで。すべて、痛々しいほど“最近”のもの。
けれど、船医は何も聞かなかった。眉をひそめることも、詮索することもなく、ただ一言だけ。
「……大丈夫?」
その声音が、優しかった。
情けや同情ではなく、ただ“そこにいる君”に対して向けられたもの。
nameは一瞬、言葉を探し――それでも、ゆっくりと小さく頷いた。
「……はい。だいじょうぶ、です」
それ以上は何も言わず、船医は頷き、淡々とした手つきで消毒を始めた。
沁みる感覚。けれど、その痛みが妙に安心できるものであることに、nameは気づいていた。
ただ触れられるだけで身体がこわばっていたあの夜から、ほんの少しだけ距離ができた。
触れられることに、今、怖さはなかった。
それが、どれだけの変化か。自分でも驚くくらいだった。
「おわり。清潔に保って、無理はしないこと」
消毒を終え、包帯を整えながらそう言う船医に、nameはふと問いたくなった。
「……お名前、聞いてもいいですか?」
「おや、やっと聞いてくれるの?オレは“ギャレン”。まあ、ボニーに振り回される係みたいなもんさ。何かあれば、気軽に呼んでよ。怖くないからね?」
冗談めかしたその言い方に、くすりと笑みが漏れた。
「……ありがとうございます、ギャレンさん」
胸の奥が、ほんの少しだけあたたかくなる。
繕うような礼ではなく、自然にこぼれた本当の感謝の言葉。
そしてそれを口にできた自分に、また小さく驚いていた。
通路の先に、陽の光が差し込んでいた。
ギャレンに案内されるまま、ゆるやかに波打つ船内の廊下を歩きながら、nameは静かに息を整えていた。足の包帯がすこし擦れるたび、治りかけの痛みが自己主張をするが、それ以上に、胸の奥にある不思議な緊張のほうが強かった。
「さ、着いた。ここがうちの“胃袋”さ」
軽やかな声とともに開かれた扉の向こうは、想像よりもずっと賑やかだった。
ぎしぎしと木の床を踏み鳴らす音、食器の触れ合う音、香ばしい何かの香り。そして何より、人の笑い声があった。
nameの足が止まる。
「……あ、来た来た!」
真っ先に気づいたのは、奥の大きなテーブルに腰掛けていたボニーだった。片手には肉の骨付きグリル、もう片手にはフォーク。口元には油のついた笑み。
「遅いぞギャレン。それとも丁寧に包帯でも巻いてきたか?」
「お前が“どんな顔”でやらかしたか考えたら、こっちは丁寧にもなるさ」
すかさず返された言葉に、周囲の船員たちからも笑いが洩れる。
「おーい、怪我させたのが船長なんだろ?そりゃ連れてきて正解じゃねぇか!」
「まさかぶっ壊した先に女の子がいたとはな〜。ボニー、女難の相出てるぞ!」
「うるせぇ!」
そう返しながらも、ボニーはどこか楽しそうだった。
そして、からかいの言葉の中に、誰ひとりとして悪意がないことに、nameはすぐに気づく。
それが、少しだけ救いだった。ギャレンが肩をすくめながら促す。
「ま、紹介しとくといいんじゃないか?」
「あー、そだね」
ボニーが肉を一度テーブルに置いて、椅子の背もたれに肘をかけながら、nameに視線を向ける。
その目は、さっきのような軽口とは違い、真っ直ぐだった。
「こっちは“name”。ちょっと、いろいろあって拾った子。次の島までの間、うちの船で預かることになってる。……つーか、ちゃんとあたしが送り届けるから」
「……あの」
少し遅れて、nameが前に出る。自分の声が静かに響くように、ゆっくりと話した。
「……nameと申します。船に乗せていただいて、本当にありがとうございます。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、いくつかの「おー」とか「礼儀正しいな」みたいな声が飛び、誰かが「いい子じゃん!ボニーとは大違いだ」と囁いてまた笑いが起きた。
「うるせぇっつってんだろ!!」
ボニーが叫ぶように返すと、場はさらに賑やかになる。
――その空気に、nameは少しだけ目を細めた。
この、騒がしくて、体温があって、言葉に棘がなくて。
それぞれが“船の音”と混じりながら、生きて響いているような場所。
たとえそれが一時的でも、居場所のない自分に手を差し伸べてくれる場所だった。
そんな風に感じたのは、ほんのひと時だったレインディーズでの日々以来だった。
「……あの、いただいても……?」
「おう、腹減ってんだろ。ガツガツ食え!ここにいるうちは誰もお前を置いてかねぇからな!」
そう言って皿を差し出してくれたのは、さっき一番からかっていた男だった。
笑顔と皿越しに覗くその眼差しに、nameはまた小さく微笑み、静かに椅子に腰を下ろした。
心のどこかで、夜が来ることへの恐れがまだ残っている。
けれど、今このひとときだけは、そのことを忘れてもいいのかもしれない。
そんなふうに、感じていた。