04.unknown island
name
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夜が明けたのか、それともまだ深夜なのか
――その境は、積荷の影に身を潜めるnameにはもう分からなかった。
体を丸めたまま、ろくに動けない狭い空間。寝返りさえ打てず、空気は湿気と油、そして籠もった汗と鉄の臭いで重く濁っている。けれど、息を殺すのに慣れ始めていた。腹の底に力を込め、胸を上下させずに呼吸をする術も。
指先は冷たく、膝を抱え込んだまま痺れて感覚がない。けれどまだ、誰にも見つかっていない。それが、nameを支える唯一の希望だった。
乗船してから二夜が過ぎた。海は穏やかだった。
見回りはある。だが一定の時間はある程度読めた。油断すれば終わるが、注意していればやり過ごせた。船員たちは雑で、怠惰で、だがそのぶん警備も緩かった。
(……このまま、いける)
そう思えたのは、二日目の終わり、夜が完全に更けた頃だった。
――けれど。
三日目の朝。海が、豹変した。
最初は、船底に響く軋み。きしり、と神経を引っ掻くような低音が長く響き、それに続いて、どん、と甲板から落ちる音。
次の瞬間には、周囲がすべて揺れた。身体ごと投げ出されそうになる。ぎゅっと積荷にしがみつき、息を殺す。
(なに……?)
ぐらり、と右に傾く。床が一瞬、斜めになる。倉庫の木箱がずるりと音を立てて滑る。頭上からは怒号と、船体を叩く波の音。甲板を走る重い足音。
「ロープ締め直せッ!!」
「舵が――!」
どん、と。
外側から船体に叩きつけるような波の音が、腹の奥に響く。耳が詰まり、呼吸が浅くなる。
nameの口から、思わず小さなうめきが漏れた。頭が回らない。酸素が足りない。冷汗と、油のような蒸気が皮膚に張りついている。
(……まずい……)
床を這うようにして、荷物の隙間から外を覗いた。扉のわずかな隙間から、ちらりと外光が差していたが、その色は青くない。重たく、灰色の、鉛のような空。
(……嵐……)
理解するより早く、船はまた大きく揺れた。今度は逆方向。身体が跳ねるようにして転がり、脇腹が木箱の角にぶつかる。
「ぅ――……!」
口を押えて、声を殺す。
視界が揺れる。頭がぐるぐると回る。胃が裏返るような感覚。寒さ、湿気、狭さ――すべてが絡まり、吐き気となって喉元までこみ上げた。
(……まだ、いける……!)
必死に自分に言い聞かせる。これまでの経験がそうしてきたように、堪えれば通り過ぎる嵐だと。
けれど、違った。
この海は、それほど甘くなかった。
船底の奥、nameが潜んでいる貨物庫のさらに奥から、ごとん、ごとんと低く、くぐもった音がしていた。
最初は気のせいかと思った。波のせいか、積荷のせいか、あるいは自分の耳鳴りか。
でも――明らかに違った。
誰かが、檻の中で鎖を引きずっているような、そんな音。
(なに……?)
音は一度止まり、次に聞こえたのは、重たく鉄をひきずるような足音。そして、短く、途切れた呻き声。
人の声。――それは確かだった。
nameは凍りついた。
寒さではない。嵐でもない。内側から背筋を這い上がるような、不気味な、確かな「違和感」。
(まさか……)
震える指で、そっと扉の隙間を押し開ける。だが、覗き込むことはできなかった。
ただ、微かに漏れる声――それは言葉ではない、うめきだった。
そしてもうひとつ――この船には「客」がいる。
彼らは「自由に動ける乗客」ではない。
その時、nameはまだ、それが「奴隷船」であることを知らなかった。
だが、船が運んでいるものが「人」であることだけは、肌で感じ始めていた。
息が詰まる。
冷たい汗が、背を伝う。
船はなおも揺れ、海は荒れ、空は重く沈黙している。
――ここは、最悪の場所だった。
木箱と木箱のわずかな隙間に身を縮め、nameは限界に近い意識の中で眠りに落ちていた。船の揺れは容赦なく、時折突き上げるように床を叩きつける。耳に残るのは甲板を打つ波音と、船体の軋む音、そして時折遠くから聞こえる呻き声。それでも身体は、疲労と酔いで言うことを聞かなかった。
夢は――悪夢だった。
かつてアラバスタで薬を盛られた夜。
薄暗い部屋。鼻腔をつく匂い。剥がされる衣服。声が出ない、けれど脳は鮮明に覚えている。肉体は反応し、心は逃げたがっているのに、どこにも逃げ道はない。
再び、その時の感覚が、皮膚をじりじりと焼くように蘇る。
「……や……め、て……っ」
か細く漏れた声。
無意識のうちに震える指が床を掴む。
「っ……いや……っ、こないで……」
それは誰に向けた言葉でもなかった。ただ、夢の中の幻に向かって発せられた微かな拒絶の声。
だが――それを、聞いてしまった者がいた。
船の通路。夜の見回り。
ゆらりと揺れるランタンの明かりの中、足を止めた船員が耳を傾けた。
「今の……女の声か?」
「はぁ?まさか、こんなとこにそんなの乗ってねえだろ」
「けどよ、今確かに……」
不穏な空気を連れて数人が集まり、足音が近づく。誰かが箱の側を蹴った。別の誰かが、軋む音を立てて木箱を押し退ける。
そして――光が届いた。
薄く開いた口。顔色の悪い、寝汗で頬に髪が張りついた若い女。汚れた毛布に包まれながらも、そこに確かに存在するその姿。
「――いたぜ」
ランタンを掲げる腕が微かに震える。
別の船員が、「おい、マジかよ……」と呟く。
そして、次の瞬間――
「っ……!」
nameは目を見開いた。夢と現実の狭間で、それでも本能的に状況を察する。
足元が揺れ、頭が回らない。けれど、逃げなければならないという思いだけが先に動いた。
がっ、と木箱を蹴り、狭い通路を這い出るようにして逃げようとしたその瞬間。
「こらぁ!」
腕を乱暴に掴まれる。
引き戻され、積荷の間で膝から床に崩れ落ちる。
「女だ……!マジでいやがった……!」
「密航者か……?いや、違う、こんな……」
「おい、触ってみろ……あったけぇ……生きてるぞ」
目の前が霞む。眩しい光。混濁する意識。数人の声が重なる。
nameは掴まれた腕を振り払おうとするが、力が入らない。心臓が喉までせり上がる。口を開けようとするが、声が出ない。
「……なに怯えてやがる。まだなにもしてねぇってのによ」
そう言った男の口元が、嗤っていた。
――最悪の船、最悪の時間が、ここから始まろうとしていた。
粗く引き起こされた身体は、立っているというより吊られているような不安定さで揺れていた。船の揺れに加え、過去のフラッシュバックが視界を滲ませる。
掌が、肩を、腰を、腕を押さえる。ごつごつとした指の節が、布越しに無遠慮に食い込んでくる。暖かいはずの火の光は、今やむしろ皮膚を焼くようだった。
「へえ……こりゃ驚いた。こんな顔、なかなか出てこねぇよな」
火の灯るランタンを持った男が、nameの顔を真っ直ぐに照らした。眩しさに思わず目を細めると、笑い声が上がる。
「勝手に乗った密航者が、“売れる顔”してるとはな。なぁ?」
別の男が口笛を吹いた。
「こいつ……身体も悪くねぇ。顔の骨格も整ってるし、肌もまだ柔らけぇぞ。痩せてるが、使いようはあるな」
「痣つけるなよ。顔もだ。バイヤーは顔、まず見るからな」
「へーへー。でも、身体の状態くらいは確かめてもバレねぇだろ?」
ぺし、と裾が捲られかける。ぞわ、と冷たい空気が素肌に触れた。
手首、二の腕、脇腹、太もも。指先が這うように触れては離れ、また別の箇所へと移動する。
「くっ……」
かすれた声が喉をかすめる。けれど、抵抗は叶わない。力が抜けていた。
過去の悪夢の続きが、そのまま現実に繋がっていくような錯覚。
焼けるように熱い手のひらと、まるで商品を品定めするような視線。
「へへ……痕、つけてねぇって言ったろ?なぁに、ちょっと“温めて”やるだけさ」
「やめて……っ」
声が漏れる。震える指が服を握る。だが、それすらもどこか滑稽なほど、彼らにとっては意味を持たなかった。
無力の象徴のように吊られたnameの身体に、なおも触れる手。押さえ込む重み。
焚き火の熱とは別の、息苦しい熱が船倉を満たしていく。
船の軋む音が、笑い声にかき消される中、ただ一人――nameの心だけが、必死に逃げ場を探していた。
逃げ場のない、船の中で。
指先が首筋に滑り込んだ瞬間――ぞっとするような悪寒が背を走った。
その一点から、何かが身体の奥へと流れ込んでくるようだった。
(まただ――また……)
皮膚に触れる熱と、鼻をくすぐる甘ったるい匂い。
もうとっくに消えたはずの匂いが、記憶の中から現れて絡みつく。
目の裏に焼き付いているあの部屋の天井、押しつけられた重さ、喉の奥まで苦しかったあの夜。
「震えてるぜ……こりゃ、効いてんじゃねぇのか?」
誰かが笑った。
けれどその声も、もう遠い。音が水中に沈むようにぼやけて、言葉の意味も歪む。
nameはふらついた足元に力を込めようとするが、身体がついてこない。
息が詰まりそうなほどの熱に包まれ、視界がぐにゃりと歪んだ。
世界が傾いているのか、自分が傾いているのか――それすら、分からなかった。
(やだ……やだ……)
心は拒絶しているのに、身体は震えを止められず、ただそこにあるだけだった。
指が、髪をかき分けて首の後ろを撫でる。
過去と現在の記憶が混ざり合い、どちらが夢で、どちらが現実かすらわからなくなっていく。
誰かが笑いながら名前を呼んだ気がした。
でも、それはここにはいない誰か――思い出せない誰かの声。
「いい顔になってきたな……」
耳元で囁かれる声と共に、腰が引かれ、身体が宙に浮いたかと思えば、再び床板の冷たさが背を叩いた。
だが、もはや感覚は遠い。揺れる天井。火のゆらめき。
快楽というにはあまりに無慈悲な、拾われた熱が、脳の奥で脈打っていた。
そしてその熱に呑まれるように、nameはわずかに身を捩らせた。
拒む意思が、身体に伝わらない――そんな現実が、何より恐ろしかった。
「……やめて……っ」
かすれたような声が漏れた瞬間、nameの身体はびくんと跳ねた。
自分の声にさえ驚いたように、瞳が大きく開く。空気を吸おうと必死に喉が動くが、肺には湿った鉄の匂いと脂の臭気が入り込んでくるだけだった。
胸元に這う指先――皮膚の上をゆっくりと滑る感触が、まるで内臓にまで届いてきそうなほど、ねっとりと重たかった。鎖骨をなぞったあと、そのまま谷間の奥に指が沈もうとする。爪が擦れる感覚に、肌が粟立った。
「……こいつ、反応してやがんのか……?」
嘲笑と共に囁かれる声。けれどnameにはもう、誰が何を言っているのかは聞こえていなかった。
胸の奥で、どくどくと鼓動だけが膨れ上がっていく。逃げられなかった記憶――肌に刻み込まれた感触が、今まさに蘇り、彼女の体を中から喰い破っていた。
――あのときも、そうだった。誰かが唇を這わせ、誰かが髪を掴み、誰かが笑っていた。
誰も助けに来なかった。
名前を呼んだ相手は振り返らなかった。
すがった腕は引き剥がされ、口にされた言葉は、痛みよりも冷たかった。
「――っ!」
こわばったままの身体が、ついに限界を迎える。
浅い呼吸とともに、喉の奥からしゃくり上げるような音が漏れ、nameはその場に崩れ落ちるように蹲った。
震える指先が床を掴み、唇を噛む。血の味が、現実に引き戻そうとするが、過去の幻が視界を覆い隠す。
「……っ、はぁ、やだ……いや……っ……」
自分でも意味のない言葉だと分かっていた。
だが、口にしなければ、溺れてしまいそうだった。
それでも指は止まらない。背中に伸びた手が、服の縁を乱していく。
目の端に、船員の笑った口元が映る。
笑うな――その顔で、誰かと同じ顔をするな――
「……クロ……」
その名を呼びかけそうになった瞬間、声は喉でつかえた。
呼ぶべきではない名。呼べば、自分のいまの惨めさが突きつけられる。
助けは来ない。分かってる。だけど――。
張り詰めた空気のなか、まるで引き絞られた糸のように、nameの全身がきしんでいた。
まばたきすらできないほどの硬直。けれど、そのなかに、ひどく脆くて細い――それでも確かに“生きたい”と願う光が、まだ残っていた。
脚の付け根――太腿の内側を撫でる指が、一本、また一本と増えていく。
誰の手かも分からない。指先は粗く、乾いていて、時に爪が肌をひっかく。
布越しに撫でるもの、直接這わせるもの、押し込むように握るもの。
胸元の布も、もはや意味を成していない。
肩から落ちかけた衣服を誰かが掴んでは引き戻し、下から手を滑り込ませる。
触れる者は皆、口を綻ばせている。
下卑た笑い、舌なめずりする音、興奮を隠さない声。
「こりゃ当たりだな……動かす前に楽しみてぇぐらいだ」
「暴れさせるな。痕がついたら値が下がる」
「身体は確認だけなら大丈夫だろ?」
「……いや、これ、反応してやがんぞ?」
笑いが弾ける。甲板の上の寒風よりも、はるかに冷たい熱がnameの身体に這い上がってくる。
皮膚の上を、心を、じわじわと侵食する無力の感触。
逃げようとしても脚は絡まり、膝が言うことをきかない。
拘束されていないはずの身体が、自分のものではないように、鈍く重い。
「笑えよ。いい顔なんだからさ」
誰かの指が顎にかかり、顔を無理に持ち上げられる。
視線を合わせようとするその目は、nameを人間として見ていなかった。
おもちゃ。
モノ。
消耗品。
頬に落ちた一筋の汗。
それが冷えていく感覚だけが、いまの彼女にとって“現実”だった。
「……は……っ」
口が、何かを言おうと動く――
瞬間、誰かがその口の中へと、布切れを強く、ねじ込む。
味はない。ただ繊維の乾いた臭いと、唾液を吸って膨らんでいく感触。
それだけで、喉の奥が痙攣する。
「暴れんなよ、ほら、口塞いどけ。聞きたくねぇ悲鳴も上げさせるなって言われてんだ」
誰かの声が、どこか遠くに聞こえた。
目を逸らそうとした視界に、粗い布が落ちてくる。
被せられた麻袋が視界を塗りつぶす。
息が詰まる。濡れた吐息が反射し、顔に戻ってくる。
熱いのに寒い。気持ち悪いほど、汗が肌に張り付いて離れない。
耳元で船の軋む音がする。笑い声が、呼吸の音が、遠ざかったり近づいたりする。
呼吸が浅い。
布が張りつき、鼻の穴に、口に、微かに染みる潮の匂いと汗の臭気。
視界がない。ただの闇。
身体が動かない。手首は後ろにねじられたまま、ジンジンと痺れている。
自分の鼓動だけが、脳を内側から叩いていた。
(……また、だ……また……)
意識が霞んでいく。遠ざかる音。沈むような感覚。
呼吸が苦しい。けれど、抵抗する力がもうなかった。
言葉にできない願いが、心の奥で震えていた。
助けて。とすら、もう言えなかった。
――その境は、積荷の影に身を潜めるnameにはもう分からなかった。
体を丸めたまま、ろくに動けない狭い空間。寝返りさえ打てず、空気は湿気と油、そして籠もった汗と鉄の臭いで重く濁っている。けれど、息を殺すのに慣れ始めていた。腹の底に力を込め、胸を上下させずに呼吸をする術も。
指先は冷たく、膝を抱え込んだまま痺れて感覚がない。けれどまだ、誰にも見つかっていない。それが、nameを支える唯一の希望だった。
乗船してから二夜が過ぎた。海は穏やかだった。
見回りはある。だが一定の時間はある程度読めた。油断すれば終わるが、注意していればやり過ごせた。船員たちは雑で、怠惰で、だがそのぶん警備も緩かった。
(……このまま、いける)
そう思えたのは、二日目の終わり、夜が完全に更けた頃だった。
――けれど。
三日目の朝。海が、豹変した。
最初は、船底に響く軋み。きしり、と神経を引っ掻くような低音が長く響き、それに続いて、どん、と甲板から落ちる音。
次の瞬間には、周囲がすべて揺れた。身体ごと投げ出されそうになる。ぎゅっと積荷にしがみつき、息を殺す。
(なに……?)
ぐらり、と右に傾く。床が一瞬、斜めになる。倉庫の木箱がずるりと音を立てて滑る。頭上からは怒号と、船体を叩く波の音。甲板を走る重い足音。
「ロープ締め直せッ!!」
「舵が――!」
どん、と。
外側から船体に叩きつけるような波の音が、腹の奥に響く。耳が詰まり、呼吸が浅くなる。
nameの口から、思わず小さなうめきが漏れた。頭が回らない。酸素が足りない。冷汗と、油のような蒸気が皮膚に張りついている。
(……まずい……)
床を這うようにして、荷物の隙間から外を覗いた。扉のわずかな隙間から、ちらりと外光が差していたが、その色は青くない。重たく、灰色の、鉛のような空。
(……嵐……)
理解するより早く、船はまた大きく揺れた。今度は逆方向。身体が跳ねるようにして転がり、脇腹が木箱の角にぶつかる。
「ぅ――……!」
口を押えて、声を殺す。
視界が揺れる。頭がぐるぐると回る。胃が裏返るような感覚。寒さ、湿気、狭さ――すべてが絡まり、吐き気となって喉元までこみ上げた。
(……まだ、いける……!)
必死に自分に言い聞かせる。これまでの経験がそうしてきたように、堪えれば通り過ぎる嵐だと。
けれど、違った。
この海は、それほど甘くなかった。
船底の奥、nameが潜んでいる貨物庫のさらに奥から、ごとん、ごとんと低く、くぐもった音がしていた。
最初は気のせいかと思った。波のせいか、積荷のせいか、あるいは自分の耳鳴りか。
でも――明らかに違った。
誰かが、檻の中で鎖を引きずっているような、そんな音。
(なに……?)
音は一度止まり、次に聞こえたのは、重たく鉄をひきずるような足音。そして、短く、途切れた呻き声。
人の声。――それは確かだった。
nameは凍りついた。
寒さではない。嵐でもない。内側から背筋を這い上がるような、不気味な、確かな「違和感」。
(まさか……)
震える指で、そっと扉の隙間を押し開ける。だが、覗き込むことはできなかった。
ただ、微かに漏れる声――それは言葉ではない、うめきだった。
そしてもうひとつ――この船には「客」がいる。
彼らは「自由に動ける乗客」ではない。
その時、nameはまだ、それが「奴隷船」であることを知らなかった。
だが、船が運んでいるものが「人」であることだけは、肌で感じ始めていた。
息が詰まる。
冷たい汗が、背を伝う。
船はなおも揺れ、海は荒れ、空は重く沈黙している。
――ここは、最悪の場所だった。
木箱と木箱のわずかな隙間に身を縮め、nameは限界に近い意識の中で眠りに落ちていた。船の揺れは容赦なく、時折突き上げるように床を叩きつける。耳に残るのは甲板を打つ波音と、船体の軋む音、そして時折遠くから聞こえる呻き声。それでも身体は、疲労と酔いで言うことを聞かなかった。
夢は――悪夢だった。
かつてアラバスタで薬を盛られた夜。
薄暗い部屋。鼻腔をつく匂い。剥がされる衣服。声が出ない、けれど脳は鮮明に覚えている。肉体は反応し、心は逃げたがっているのに、どこにも逃げ道はない。
再び、その時の感覚が、皮膚をじりじりと焼くように蘇る。
「……や……め、て……っ」
か細く漏れた声。
無意識のうちに震える指が床を掴む。
「っ……いや……っ、こないで……」
それは誰に向けた言葉でもなかった。ただ、夢の中の幻に向かって発せられた微かな拒絶の声。
だが――それを、聞いてしまった者がいた。
船の通路。夜の見回り。
ゆらりと揺れるランタンの明かりの中、足を止めた船員が耳を傾けた。
「今の……女の声か?」
「はぁ?まさか、こんなとこにそんなの乗ってねえだろ」
「けどよ、今確かに……」
不穏な空気を連れて数人が集まり、足音が近づく。誰かが箱の側を蹴った。別の誰かが、軋む音を立てて木箱を押し退ける。
そして――光が届いた。
薄く開いた口。顔色の悪い、寝汗で頬に髪が張りついた若い女。汚れた毛布に包まれながらも、そこに確かに存在するその姿。
「――いたぜ」
ランタンを掲げる腕が微かに震える。
別の船員が、「おい、マジかよ……」と呟く。
そして、次の瞬間――
「っ……!」
nameは目を見開いた。夢と現実の狭間で、それでも本能的に状況を察する。
足元が揺れ、頭が回らない。けれど、逃げなければならないという思いだけが先に動いた。
がっ、と木箱を蹴り、狭い通路を這い出るようにして逃げようとしたその瞬間。
「こらぁ!」
腕を乱暴に掴まれる。
引き戻され、積荷の間で膝から床に崩れ落ちる。
「女だ……!マジでいやがった……!」
「密航者か……?いや、違う、こんな……」
「おい、触ってみろ……あったけぇ……生きてるぞ」
目の前が霞む。眩しい光。混濁する意識。数人の声が重なる。
nameは掴まれた腕を振り払おうとするが、力が入らない。心臓が喉までせり上がる。口を開けようとするが、声が出ない。
「……なに怯えてやがる。まだなにもしてねぇってのによ」
そう言った男の口元が、嗤っていた。
――最悪の船、最悪の時間が、ここから始まろうとしていた。
粗く引き起こされた身体は、立っているというより吊られているような不安定さで揺れていた。船の揺れに加え、過去のフラッシュバックが視界を滲ませる。
掌が、肩を、腰を、腕を押さえる。ごつごつとした指の節が、布越しに無遠慮に食い込んでくる。暖かいはずの火の光は、今やむしろ皮膚を焼くようだった。
「へえ……こりゃ驚いた。こんな顔、なかなか出てこねぇよな」
火の灯るランタンを持った男が、nameの顔を真っ直ぐに照らした。眩しさに思わず目を細めると、笑い声が上がる。
「勝手に乗った密航者が、“売れる顔”してるとはな。なぁ?」
別の男が口笛を吹いた。
「こいつ……身体も悪くねぇ。顔の骨格も整ってるし、肌もまだ柔らけぇぞ。痩せてるが、使いようはあるな」
「痣つけるなよ。顔もだ。バイヤーは顔、まず見るからな」
「へーへー。でも、身体の状態くらいは確かめてもバレねぇだろ?」
ぺし、と裾が捲られかける。ぞわ、と冷たい空気が素肌に触れた。
手首、二の腕、脇腹、太もも。指先が這うように触れては離れ、また別の箇所へと移動する。
「くっ……」
かすれた声が喉をかすめる。けれど、抵抗は叶わない。力が抜けていた。
過去の悪夢の続きが、そのまま現実に繋がっていくような錯覚。
焼けるように熱い手のひらと、まるで商品を品定めするような視線。
「へへ……痕、つけてねぇって言ったろ?なぁに、ちょっと“温めて”やるだけさ」
「やめて……っ」
声が漏れる。震える指が服を握る。だが、それすらもどこか滑稽なほど、彼らにとっては意味を持たなかった。
無力の象徴のように吊られたnameの身体に、なおも触れる手。押さえ込む重み。
焚き火の熱とは別の、息苦しい熱が船倉を満たしていく。
船の軋む音が、笑い声にかき消される中、ただ一人――nameの心だけが、必死に逃げ場を探していた。
逃げ場のない、船の中で。
指先が首筋に滑り込んだ瞬間――ぞっとするような悪寒が背を走った。
その一点から、何かが身体の奥へと流れ込んでくるようだった。
(まただ――また……)
皮膚に触れる熱と、鼻をくすぐる甘ったるい匂い。
もうとっくに消えたはずの匂いが、記憶の中から現れて絡みつく。
目の裏に焼き付いているあの部屋の天井、押しつけられた重さ、喉の奥まで苦しかったあの夜。
「震えてるぜ……こりゃ、効いてんじゃねぇのか?」
誰かが笑った。
けれどその声も、もう遠い。音が水中に沈むようにぼやけて、言葉の意味も歪む。
nameはふらついた足元に力を込めようとするが、身体がついてこない。
息が詰まりそうなほどの熱に包まれ、視界がぐにゃりと歪んだ。
世界が傾いているのか、自分が傾いているのか――それすら、分からなかった。
(やだ……やだ……)
心は拒絶しているのに、身体は震えを止められず、ただそこにあるだけだった。
指が、髪をかき分けて首の後ろを撫でる。
過去と現在の記憶が混ざり合い、どちらが夢で、どちらが現実かすらわからなくなっていく。
誰かが笑いながら名前を呼んだ気がした。
でも、それはここにはいない誰か――思い出せない誰かの声。
「いい顔になってきたな……」
耳元で囁かれる声と共に、腰が引かれ、身体が宙に浮いたかと思えば、再び床板の冷たさが背を叩いた。
だが、もはや感覚は遠い。揺れる天井。火のゆらめき。
快楽というにはあまりに無慈悲な、拾われた熱が、脳の奥で脈打っていた。
そしてその熱に呑まれるように、nameはわずかに身を捩らせた。
拒む意思が、身体に伝わらない――そんな現実が、何より恐ろしかった。
「……やめて……っ」
かすれたような声が漏れた瞬間、nameの身体はびくんと跳ねた。
自分の声にさえ驚いたように、瞳が大きく開く。空気を吸おうと必死に喉が動くが、肺には湿った鉄の匂いと脂の臭気が入り込んでくるだけだった。
胸元に這う指先――皮膚の上をゆっくりと滑る感触が、まるで内臓にまで届いてきそうなほど、ねっとりと重たかった。鎖骨をなぞったあと、そのまま谷間の奥に指が沈もうとする。爪が擦れる感覚に、肌が粟立った。
「……こいつ、反応してやがんのか……?」
嘲笑と共に囁かれる声。けれどnameにはもう、誰が何を言っているのかは聞こえていなかった。
胸の奥で、どくどくと鼓動だけが膨れ上がっていく。逃げられなかった記憶――肌に刻み込まれた感触が、今まさに蘇り、彼女の体を中から喰い破っていた。
――あのときも、そうだった。誰かが唇を這わせ、誰かが髪を掴み、誰かが笑っていた。
誰も助けに来なかった。
名前を呼んだ相手は振り返らなかった。
すがった腕は引き剥がされ、口にされた言葉は、痛みよりも冷たかった。
「――っ!」
こわばったままの身体が、ついに限界を迎える。
浅い呼吸とともに、喉の奥からしゃくり上げるような音が漏れ、nameはその場に崩れ落ちるように蹲った。
震える指先が床を掴み、唇を噛む。血の味が、現実に引き戻そうとするが、過去の幻が視界を覆い隠す。
「……っ、はぁ、やだ……いや……っ……」
自分でも意味のない言葉だと分かっていた。
だが、口にしなければ、溺れてしまいそうだった。
それでも指は止まらない。背中に伸びた手が、服の縁を乱していく。
目の端に、船員の笑った口元が映る。
笑うな――その顔で、誰かと同じ顔をするな――
「……クロ……」
その名を呼びかけそうになった瞬間、声は喉でつかえた。
呼ぶべきではない名。呼べば、自分のいまの惨めさが突きつけられる。
助けは来ない。分かってる。だけど――。
張り詰めた空気のなか、まるで引き絞られた糸のように、nameの全身がきしんでいた。
まばたきすらできないほどの硬直。けれど、そのなかに、ひどく脆くて細い――それでも確かに“生きたい”と願う光が、まだ残っていた。
脚の付け根――太腿の内側を撫でる指が、一本、また一本と増えていく。
誰の手かも分からない。指先は粗く、乾いていて、時に爪が肌をひっかく。
布越しに撫でるもの、直接這わせるもの、押し込むように握るもの。
胸元の布も、もはや意味を成していない。
肩から落ちかけた衣服を誰かが掴んでは引き戻し、下から手を滑り込ませる。
触れる者は皆、口を綻ばせている。
下卑た笑い、舌なめずりする音、興奮を隠さない声。
「こりゃ当たりだな……動かす前に楽しみてぇぐらいだ」
「暴れさせるな。痕がついたら値が下がる」
「身体は確認だけなら大丈夫だろ?」
「……いや、これ、反応してやがんぞ?」
笑いが弾ける。甲板の上の寒風よりも、はるかに冷たい熱がnameの身体に這い上がってくる。
皮膚の上を、心を、じわじわと侵食する無力の感触。
逃げようとしても脚は絡まり、膝が言うことをきかない。
拘束されていないはずの身体が、自分のものではないように、鈍く重い。
「笑えよ。いい顔なんだからさ」
誰かの指が顎にかかり、顔を無理に持ち上げられる。
視線を合わせようとするその目は、nameを人間として見ていなかった。
おもちゃ。
モノ。
消耗品。
頬に落ちた一筋の汗。
それが冷えていく感覚だけが、いまの彼女にとって“現実”だった。
「……は……っ」
口が、何かを言おうと動く――
瞬間、誰かがその口の中へと、布切れを強く、ねじ込む。
味はない。ただ繊維の乾いた臭いと、唾液を吸って膨らんでいく感触。
それだけで、喉の奥が痙攣する。
「暴れんなよ、ほら、口塞いどけ。聞きたくねぇ悲鳴も上げさせるなって言われてんだ」
誰かの声が、どこか遠くに聞こえた。
目を逸らそうとした視界に、粗い布が落ちてくる。
被せられた麻袋が視界を塗りつぶす。
息が詰まる。濡れた吐息が反射し、顔に戻ってくる。
熱いのに寒い。気持ち悪いほど、汗が肌に張り付いて離れない。
耳元で船の軋む音がする。笑い声が、呼吸の音が、遠ざかったり近づいたりする。
呼吸が浅い。
布が張りつき、鼻の穴に、口に、微かに染みる潮の匂いと汗の臭気。
視界がない。ただの闇。
身体が動かない。手首は後ろにねじられたまま、ジンジンと痺れている。
自分の鼓動だけが、脳を内側から叩いていた。
(……また、だ……また……)
意識が霞んでいく。遠ざかる音。沈むような感覚。
呼吸が苦しい。けれど、抵抗する力がもうなかった。
言葉にできない願いが、心の奥で震えていた。
助けて。とすら、もう言えなかった。