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name
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波の上をゆるやかに進む小船の縁に、ダズの足が静かに着地した。
抱えられたnameの身体もそのまま優しく受け渡されるように、小舟の揺れに合わせて柔らかく沈み込む。湿った夜気が肌を撫でる。あたりは静まり返っていて、先ほどまでの甲板の賑わいが幻だったかのようだった。
「……来てくれたんですね」
小さく、けれど心の底からにじみ出た声音だった。その声に、ダズは短く目を伏せる。
「……ああ。遅くなった」
それだけだったが、nameの胸には十分すぎるほど沁みた。潮の香りが濃くなる中、船底の柔らかなクッションの上にnameを座らせると、ダズは無言のままその横に腰を下ろす。短く小さな溜め息が、どちらからともなく吐き出され、夜の海に溶けていった。
「……随分とにぎやかな宴だったようだな」
ぽつりと落ちたその声に、nameは頷く。
「皆さんよくしてくださいました。」
「そうか」
ダズの返答は淡々としていたが、声の奥には確かに、ほっと胸を撫で下ろしたような気配があった。その沈黙の合間、夜風がまた吹き抜け、マントの裾がさわり、と揺れた。
「……明日には、戻る。ボスの船まで」
「……はい」
「俺も聞きたいことは山ほどあるが、今日はもう休め。部屋まで運ぶ」
立ち上がる動きに合わせて、再びnameの身体は腕の中へと引き寄せられる。
その感覚に、nameは思わず身を委ねた。
緊張がすっと抜けていく。ローやルフィたちとの別れ、宴の余韻、褒められたこと、手配書。それらすべてが一気に身体から滑り落ちていくようだった。
「……生きてて、よかった」
思わずこぼれたその言葉に、ダズの脚が一瞬だけ止まる。けれど振り向くことはなく、そのまま静かに歩を進める。足音だけが甲板に響いて、
そのあとを、遠く小舟の綱を結ぶ波音が追いかけてくる。nameのまぶたが、少しずつ落ちていった。安堵と、疲労と、確かな信頼に包まれて。そしてその腕の中には、ようやく“帰る場所”の気配が、確かにあった。甲板の上に満ちていた月明かりも、どこか遠くへ引いていったような静けさの中。
ゆっくりとまぶたを開いた。視界に入るのは、柔らかな布地の天井。木の香りが仄かに漂う、質素ながらも手入れの行き届いた小部屋。見知らぬ場所であるはずなのに――否、もしかすると初めて訪れたはずなのに、そこには「恐怖」も「緊張」も、「用心」すらも存在しなかった。
呼吸が、深く、静かに肺へと落ちていく。
ひとつ、またひとつ。まだどこか眠気の残る頭の中で、
“ああ、ようやく……”という言葉が、じわじわと輪郭を浮かべていった。
久しぶりだった。こんなふうに、何も気にせずに眠り、何かに怯えずに目覚められた朝は――どれだけ、ぶりだろうか。
静寂に包まれていたのは部屋だけではなかった。自分の内側すらも、いまは波ひとつ立たず、ひどく穏やかに、深いところから満たされている。薄い寝具の上に身を沈めたまま、nameは目だけをゆっくりと横に動かした。
小さな机の上には見慣れた荷物。そのなかに、ローがそっと忍ばせた注射器と薬剤のセットがあることもわかっていた。それを思い出すと同時に、目の奥がほんのり熱を帯びる。昨夜は酔っていて、きっとうまく礼も伝えられていなかった。
けれど、きっとあれでよかったのだと、自分に言い聞かせる。シーツの縁を指先で摘む。
生きている。ちゃんと、生き延びてここにいて、
今、こんなふうに、何の音もなく、心臓の鼓動すら愛おしく感じるような朝を迎えられている。
「……」
少しだけ、喉の奥が詰まる。涙が零れるほどではないけれど、温度のあるものが胸の奥に灯って、それがじんわりと身体中に滲んでいく。長い、長い夜が終わったのだ。今はまだ“帰還”ではない。けれど、この感覚は確かに、「自分の居場所に還ってきた」という実感と、少しの希望を孕んでいた。
窓の外には、朝の気配がわずかに顔を覗かせていた。そしてnameは、初めて“自分の意思で”その一日を迎えようとしていた。船室に射し込む光はまだやわらかく、静かに木目を照らしていた。
nameは深く息を吐きながら、自分の荷物を解いた。衣類、必要な道具類、そして――
ローが「入れておいた」と言っていたもの。小さな木箱の奥に、丁寧に包まれた注射器と薬剤があった。それは、あの忌まわしい名を持つ薬――シェム――を少しずつ、けれど確実に解毒するためのもの。封を切る手は震えていなかった。覚悟はとうに決めていた。まだ不完全、だが確かに一歩前へと進むその薬を、自分自身の手で打つこと。消毒綿を取り出し、上腕部を軽く拭う。冷たい。そして、その冷たさが今の自分を現実へと引き戻してくれる。
「……っ」
針が刺さる瞬間、わずかに眉を寄せた。何度経験しても、どうしてもこの異物が皮膚を割って入ってくる感覚だけは、慣れることがなかった。どうしても色々な事を思い出してしまう。
けれど、それもすぐに過ぎる。ゆっくりと薬液が体内に押し込まれていく感覚。苦い記憶と、これから長く続くであろう“戦い”の始まり。それでもnameは、目を逸らさなかった。今は、もう――逃げない。
ちょうどそのとき、ドアが軽く軋む音がした。振り向いた先、扉の影からダズが姿を現す。
「……タイミング悪かったか?」
気まずそうな風でもなく、ただ淡々と問うその声。nameはほんの一瞬だけ驚いたあと、小さく首を振って微笑む。
「いえ、大丈夫です。もう、終わりましたから」
少しだけ頬が火照っているのは、薬のせいか、それとも見られたことへの照れか。それすらもわからなくなるほど、心が少し緩んでいた。ダズは無言のまま手にしていた包みを差し出す。
「着替えだ。……こっちの方が落ち着くだろ」
その言葉と共に現れた布地に、nameの目がぱちぱちと瞬いた。それは、懐かしい――けれど、あたたかい記憶を呼び起こす装い。レインディーズ時代に着ていた、あのメイド服だった。指先がそっと布に触れる。シンプルで、けれど手触りの良い生地。洗いたての香りが微かに香る。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
まるで、帰るべき場所に戻ってきたかのような感覚が、胸の奥でじんわりと広がった。ダズはあくまで無表情のまま、ただ一言。
「そうか」
それだけを言い残し、部屋を出ていく。nameはその背中に軽く一礼すると、メイド服を抱きしめるようにして胸元に引き寄せた。
新しい朝。それでも、ほんの少しの“かつての自分”を、取り戻せた気がした。
室内の空気は静かで、船の木材がきしむ音だけが、時折遠くから聞こえていた。目の前に広げられたメイド服は、少し年季の入った白と黒のコントラストを保ったまま、微かに漂う石鹸の香りを纏っていた。nameはゆっくりと指先でその布地に触れ、まるで過去の自分を撫でるように、そっと手のひらを滑らせた。
(……ずいぶん、遠回りしたな)
ひとりごとのような思考が、胸の奥でぼやけては浮かび、すっと消えていく。
ジャヤ、シャボンディ、マリンフォード、ドレスローザ。
どこで命を落としていてもおかしくなかった道のり。けれど、今、こうしてまた“元の姿”に袖を通すことができている。
nameはひとつ深く息を吸い、上着のボタンを順に留めていく。布の感触が、皮膚に馴染んでいくたび、身体の輪郭がようやく“自分”へと戻っていくような錯覚にさえ思えた。
だが――以前と違うものがあった。
ガーター状のホルスターに収められた、黒光りするマグナム。
そして、そのすぐ脇にセットされた小さな筒状のアンプル――ブースト薬。
ローからは「使うな」と厳重に釘を刺されている。あれは非常時のみにすべきもので、使えばシェムの排出サイクルに狂いが生じる危険がある。それでも、nameは手放すことができなかった。
「……大丈夫。使わない。使わないから……」
言い聞かせるように、小さく呟く。それでも重みは、否応なく太腿に圧を伝えてくる。この“重さ”が、今の自分を形作っているのだと、そうも思えた。
靴を履き直し、首元を整え、軽く肩を落とすように深呼吸。鏡に映った姿は、確かに――かつてのレインディーズにいた、“あのメイド”だった。けれどその眼差しは、もうあの頃のままではない。
扉の向こうに気配を感じていた。待ってくれているのだろう、ダズが。
「……お待たせしました」
声をかけながら、扉を開ける。すると、ダズが無言で振り返り、ちらりとnameの姿を確認すると、ほんのわずかに顎を引いた。それは、言葉にしない肯定。彼の中で、確かに“帰ってきた”という事実が、受け入れられた瞬間だった。
小船はゆっくりと波を切り、目の前に横たわる巨大な船影へと静かに近づいていく。
それはnameがかつて見たどの船とも異なる造りをしていた。金属と木材の質感が複雑に混じり合い、舷側にはどこか冷たさと重厚感を兼ね備えた意匠。まるで「砦」がそのまま海に浮かんでいるかのようだった。装飾は最小限で無骨。けれど、その沈黙が雄弁に“誰の船であるか”を語っていた。
(……やっぱり、すごい……)
圧倒される感覚と共に、nameはじんわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
今日――自分は“帰る”のだ。約束通り、ボスの元へ。桟橋のように設けられたステップをのぼりながら、ぴたりと背後につく気配を振り返ると、ダズがいつもの無言のまま、目で促してきた。
船内へと足を踏み入れれば、そこは無駄のない静謐な廊下。厚手の絨毯が足音を吸い込み、金属と木材が混在した独特の構造が空気を密やかに閉じ込めている。
――緊張が、指先からじわりと伝わる。
けれど、歩みは止まらない。nameは自身の脚で、この場所に“帰る”と決めたのだから。その隣を歩くダズの足取りは一定だった。言葉こそ少ないが、歩幅はnameに合わせてくれている。それだけで、気遣われているのだと感じられた。
そして――何よりも。背を預けられる存在がすぐ傍にいるという、その事実が、今のnameには何よりも心強かった。
「……緊張してんのか?」
ぽつりと、ダズが低く問いかけた。nameは肩をすくめるようにして、少しだけ笑う。
「……してないって言ったら、嘘になりますね。でも……うれしいです。ようやく……ようやく、ここまで来れたから」
その声に、ダズは何も言わなかった。けれど、その横顔はほんのわずかに柔らぎ――それが答えの代わりだった。
廊下の奥。目的地は、もうすぐそこだ。深く息を吸い、nameは背筋を正した。
もう一度、歩き出すために。船の静かな揺れに合わせて、絨毯越しの足音がふわりと沈んだ。
目的の扉まで、あと数歩。
けれど、その手前で――nameの足が、ふと止まった。動きを止めた自分の肩越しに、すぐ背後を歩くダズの気配が立ち止まる。不思議そうに小さく息を鳴らした気配がした。それでも、彼は何も言わない。急かすでも、問いただすでもなく。しばらくの沈黙のあと、nameはぽつりとこぼすように呟いた。
「……本当に、戻っていいんでしょうか。こんな……汚れてしまった、私が……」
声は小さく、まるで自分に向ける懺悔のようだった。薄く震えた指が、スカートの裾をぎゅっと掴む。どれだけの時間を経ても、どれだけ言葉を尽くしても、すべてが赦されるわけではないと、どこかでわかっていた。ただ傍にいたい、その願いすら――自分には、もう。
「……」
不意に、後頭部に温かな感触。大きな掌が、何の前触れもなく、そっとnameの頭を撫でていた。驚いて見上げれば、ダズは少しだけ呆れたような表情で、珍しく口元を緩めていた。
「……心配無用だ」
それだけの言葉。けれど、それが全てだった。彼の声は重みがあって、嘘がなかった。
「誰の指示で、俺がてめぇを探してたと思ってんだ。あの人だよ。……ボスが、“見つけてこい”って言ったんだ。お前を、だ」
その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。“探してくれていた”――その事実が、思った以上に深く、痛いほど沁みてくる。その手がまだ髪にあることが、どうしようもなく嬉しくて、悔しくて、安堵して、胸が詰まる。
「……ダズ様、また……撫でてくれますね……」
ぽそりと呟いた言葉に、ダズは視線を逸らすようにふいと目をそらしながら、口の端を持ち上げた。
「……俺だって安心してんだ。無事でいてくれてよかったって、そう思ってんだよ」
不器用な声。けれど、それはnameの心の傷にまっすぐ触れて、じんわりと温度を灯した。
nameは静かに、深く一度だけ息を吐いて――それから、再び歩き出す。
もう迷わない。もう、躊躇わない。この扉の向こうに、自分が“帰るべき場所”があるのだと。そう、信じて。
金属の重たい音が、静まり返った空間に響く。ダズの拳が重厚な扉を軽く叩いたのち、中から聞こえたのは、低く、静かに通る男の声だった。
「……入れ」
その一言に、ダズは何も言わずに取手を押し、扉をゆっくりと開ける。微かに油の香りと紙の匂いが混じる部屋の中。重厚な書斎机の奥、分厚い資料の束に囲まれるようにして、彼――クロコダイルは座っていた。葉巻の煙がまだ燻っているのか、わずかに紫煙が立ちのぼる空気の中に、その男の姿はあった。
「連れてきた」
そう告げたダズの声を、nameはどこか遠くで聞いているような気がした。足は勝手に前へ進んでいたが、胸の奥は張り裂けるような緊張で固く、喉はひりつくほど乾いている。
それでも――視線を上げずにはいられなかった。ちら、と目を上げた先。久しく夢にまで見たその横顔が、淡く揺れる煙越しに、確かにあった。クロコダイルは机上の書類にペンを走らせていた。その手が止まり、書類を静かに置き、ようやくゆっくりと顔を上げる。無言のまま、彼の目が、nameを一瞥する。
――視線が合った、その瞬間。胸の奥が、はじけるようにきゅう、と締めつけられた。
“ああ、本当に。ここに、いる”
ようやく、言葉が喉に届いた。けれど声に出すのはとても難しく、唇は乾いてかすかに震えた。それでも、絞り出すようにして、nameは口を開いた。
「……戻りました」
その声はか細く、けれど確かに、空気を震わせた。ただの報告のようでいて、すべてを込めた言葉だった。どれほどの想いを重ねて、どれほどの夜を越えて、ようやく辿り着いたこの一言。自身の意志で、立って、目を上げて、彼に告げた。
クロコダイルは微動だにせず、ただじっと、nameを見ていた。その視線の奥に何を思っているのか、今はまだ、わからない。けれど、それでもいい。
この場に立ち、告げたことが――すべての始まりだった。部屋に、緊張と安堵が入り混じるような静寂が満ちていた。nameはクロコダイルの視線からそっと目を逸らし、少しだけ俯いた。けれど、その声は淡々としていた。抑揚を排した語調で、まるで自分の感情を押し殺すように。
「……問題は、解決しました。ドフラミンゴは失脚して……ドレスローザは、元に戻ったと聞いています。カイドウが……動き出しそうです。鍵になっていたのは、シーザーで……」
言葉は矢継ぎ早に続いた。自分の存在が無駄ではなかったと、証明するように。この2年の意味を、忘れられたくなかった。ただの玩具でも、装飾でもなく――自分は、確かにそこにいたのだと。だが、まるでその焦りと打算を見透かしたかのように。静かに、けれどはっきりとその声は割って入った。
「――name」
名前を呼ばれた瞬間、身体がびくりと震える。抑えていた息が喉元で詰まり、動きが止まる。恐る恐る顔を上げると、その視線の先。
あの日と変わらぬ眼差しで、彼がそこにいた。机の奥、重厚な椅子に座るクロコダイルは、書類の上に片手を置いたまま、真正面からnameを見ていた。
その表情はどこか緩み、かすかに口角が上がっている。眉間の皺も、戦場のような冷ややかさも今はなく、確かに、そこにあったのは――ほっとしたような、“再会”の顔だった。
「よく……戻ったな」
ただ、その一言だった。
けれど、それだけでよかった。
その一言だけで、nameのなかのすべてが崩れていく。張り詰めていた糸がぷつんと切れる音がした。熱いものが一気に目元に押し寄せ、堪えようとした瞬間にはもう、頬を伝っていた。
「あ……っ……」
言葉にならなかった。ただ、ぽろぽろと涙が零れ落ちるのを止められず、nameは唇を噛むことも忘れていた。震える指先が、スカートの裾を握りしめる。嗚咽はなかった。ただ、静かに、けれど確かに、涙がこぼれて止まらなかった。
“戻っていい”と、誰も言ってくれなかった場所から。
“戻っていい”と、誰よりも求めていた人のもとへ。
ようやく、自分の居場所に帰ってこれた。その確信が、温かく胸の奥に染み渡っていった。部屋に、涙の音が静かに響く。それまで必死に理性の盾で堰き止めていた感情は、クロコダイルの言葉一つで一気に決壊した。nameの肩が震え、涙が頬から顎へ、制服の胸元を濡らして落ちていく。
「っ……あ……う……っ……」
声にならない嗚咽。全身の力が抜け、今にも崩れ落ちそうなほどに。その背後から、場の空気を和らげるようにダズが小さく肩をすくめる。
「ボス、泣かしたぞ」
苦笑交じりに、けれどどこか安堵したような調子だった。ダズにとっても、今日のこの再会はずっと望んでいた光景のはずだった。クロコダイルはゆっくりと立ち上がる。
背筋の通った大きな体が、陽の落ちた室内に影を落とす。足音も重くない。まるで風がすっと通るような自然な動きで、nameのすぐそばまで歩み寄った。
「……name」
名を呼ばれたその瞬間、また新しい涙が溢れる。次の瞬間、nameの頭にあたたかな感触が触れた。大きく、けれどどこか懐かしい手のひら。その厚みのある掌が、ゆっくりと髪を撫でていく。それだけで、赦された気がした。
「……っ……クロコダイル、さま……無事で……ほんとうに、よかった、です……っ」
しゃくりあげるように言葉を繋ぎ、顔をあげることもできないまま、ただ、絞り出すように想いを吐き出す。そのひとことに、今まで飲み込んできた日々が、すべて込められていた。
どれほどの夜を恐れと共に過ごしたか。どれほどの朝を自分を保つためだけに迎えたか。
どれほど、今日という日を願ってきたか――
それを、クロコダイルは黙って受け止めた。その背後で、ダズがふっと息を漏らし、どこか嬉しそうに口元を緩めているのがわかる。
「……よくここまで、耐えて、俺のところまで戻ってきたな。name」
低く、穏やかに響く声。その音だけで、また涙が溢れる。戻ってきた。確かに、ここに。遠回りして、深く傷ついて、壊れそうになって――それでも、最後に辿り着いた場所は、やっぱりここだった。
「……っ……ひっ、ぅ……うぅ……」
泣いても、泣いても、涙は止まらない。嗚咽すらも抑えられないほどに、心の奥底からあふれ出す。
クロコダイルはそれを叱りもせず、咎めもせず、ただ静かにその傍に立ち続けた。あの大きな背に、守られている。どれだけ穢れてしまったと思っても、この人の前ではまだ、自分は「帰ることが許された存在」だった。その事実だけで、すべてが報われたような気がした。そして、nameは知る。ここが、自分の「居場所」なのだと。
重たい空気が、少しずつ柔らかくなる。泣きじゃくるnameの肩に、クロコダイルの手が一度ぽんと添えられたかと思えば、次の瞬間には「座れ」と無言の圧で促される。
引き寄せられるようにしてソファへ腰を落とすと、そのすぐ隣に、クロコダイルも静かに座った。重厚な身のこなし。沈み込む革張りの音すらも、nameの心を落ち着かせる。すぐそばに――帰ってきたことを示すように、その大きな存在がある。
斜め向かい、少し距離を置いて座ったダズが、ふっと安堵の吐息を漏らすのが聞こえた。何も言わないが、あの無愛想な表情の奥に微かな笑みの気配があった。
泣き疲れて、呼吸を整えようとしながらも、nameの指先は自然と胸元を探る。布の裏、慎重に守っていた薄い布袋のなかから、小さな金属音。震える手で差し出す、懐かしい銀のタバコケースとライター。まるで宝物のように扱っていたそれを、両手で差し出すようにクロコダイルの前へと持っていく。
「……あの、これ……預かったままでした……お返し、いたします……」
声はかすれていたが、言葉は確かだった。クロコダイルはそれを一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。
「……バカが。てめェにやるって言ったろうが」
ぴしゃりと言い捨てるような口調。けれどその声音は、どこか温かく、少しだけ呆れたような響きを孕んでいた。驚いたように顔を上げるnameに、クロコダイルは視線を戻さないまま、懐のシガーに手を伸ばした。
「――細かい話は、追々聞かせてもらう。今は、まず……」
葉巻に火を点けると、ふっと紫煙が広がる。久しぶりに嗅ぐ、その香り。喉の奥にくすぐるような熱が、nameの中の「帰ってきた」という実感を深く刻み込む。
「……少し、身体を休めろ。ずいぶんと、無理をした顔をしてやがる」
その言葉に、また涙がこぼれそうになった。けれど今は、それをこらえた。涙ではなく、心に広がる静かな安堵が、胸を満たしていた。
ダズが視線を横に流し、あえて口を噤む。この穏やかな一瞬は、誰にも邪魔させないように。
ただ静かに、帰還の空気が、そこにあった。部屋の空気は、まだ少し熱を帯びていた。
涙のあとのnameは、目元を赤く腫らしながらも、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻し、クロコダイルの隣で姿勢を正していた。
「……はい、休ませていただきます」
静かに頷いたnameの声音には、深い安堵と、それでもまだどこか緊張の影が残っていた。クロコダイルがシガーを燻らせながら視線を落とすと、少しだけ目尻が和らぐ。
「これから、色々と動くぞ……あっちの海は、“忙しい”からな」
何気ない調子で吐かれた言葉。詳細には触れずとも、何かしら大きな計画があることは、それだけで十分に伝わった。“新世界”という言葉が、nameの心に不意に現実味を帯びる。
「……お前はどうする?」
問われたnameは、ほんの一拍の沈黙ののち、真っ直ぐに顔を上げた。涙の名残を湛えた瞳で、まっすぐクロコダイルを見据える。
「私は……クロコダイル様のメイドです。どこにでもお供いたします」
その答えに、クロコダイルは肩を震わせ、短く吹き出した。まるで、それが一番らしいと思ったような、皮肉混じりの笑いだった。
「フッ、言うと思ったぜ。……メイドなァ」
苦いような、けれど嬉しそうな笑みが浮かぶその表情は、どこか呆れすら滲ませていた。すぐ傍らでその様子を見ていたダズが、煙の向こうから手を伸ばし、懐から一枚の紙を取り出す。
「その心配は、いらないと思うが。これが、昨日出たばかりのやつだ」
無造作に差し出されたその紙面――顔写真と共に、見慣れたフォントで「WANTED」の文字が躍っていた。差し出された瞬間、nameの表情が一変する。
「っ、それは……!」
慌てて手を伸ばすも、一瞬早くクロコダイルがそれをつまみ取る。紙越しにnameの顔と、額面と、経歴の一部を素早く流し読みすると、ゆっくりとした動作で視線を下ろす。
口元が、にやりと吊り上がった。
「……ほぉう。色んな場所で、おいたしてきたんだな、俺の“メイド”は」
悪戯を見つけた大人のような、ぞっとするほど愉しげな笑みだった。それを見たnameは目を伏せ、耳まで赤くなり、何か言いかけては言葉を飲み込んだ。ダズの方を見ると、彼は微かに肩をすくめた。
「なかなか、話題性のある手土産だ。ボス」
そのやり取りに、空気がさらに柔らかくなる。静かに揺れる紫煙の中、クロコダイルの笑みと、nameの顔に浮かぶ羞恥と誇りが、静かに重なっていく。それは、ただの帰還ではなかった。
“メイド”であることを貫きながらも、確かに彼女は“仲間”の一人として、再びその輪に加わったのだ。
夕陽が傾きかける頃、甲板の外にはゆるやかな海風が吹き、波音が船体にやさしく打ち寄せていた。
船の奥、幾重にも仕切られた廊下の先にある一室では、先ほどまでの笑い声が静かに余韻を残していた。
nameは未だ少し目元を赤らめながらも、胸の奥に深く沁みわたるような温もりを感じていた。心のどこかでずっと夢見ていた場所――その傍らに、今、自分は確かにいる。
クロコダイルが傍にいる。
ダズの姿もある。
――ただそれだけで、もう充分だった。
再びメイドとしてその場に居られること。命じられるまま、紅茶を淹れ、部屋を整え、報告をあげ、従う日々が戻ってくる。
けれどそれは、かつてとは違う。奪われ、縛られていた過去ではなく、自らの意志で戻ってきた現在――選び取った帰還だった。かつてのnameなら、その意味すら分からなかったかもしれない。
だが今は違う。どれほど痛みにまみれようと、濁った闇に沈もうと、手放さなかった「誇り」と「願い」が、この手に再び確かに戻ってきた。
クロコダイルは多くを語らない。だが視線の奥にあったものを、nameは見逃さなかった。それは信頼だった。ひとときも揺らがなかった、あの人なりの――帰りを待つという、確かな“答え”だった。
夕暮れの空に、紫煙がひと筋、ゆっくりと昇っていく。冷たい風の中に微かに香るその匂いに、nameの胸が、またじんわりと熱を帯びる。たとえ明日、また荒れ狂う嵐が待っていようと。
ここが、自分の戻るべき場所。戦う場所。
――仕えるべき人が、そこにいる限り。
こうして、nameは再びクロコダイルの元に、
“メイド”として戻ることができた。
その手に、覚悟と誓いを握りしめて――。
抱えられたnameの身体もそのまま優しく受け渡されるように、小舟の揺れに合わせて柔らかく沈み込む。湿った夜気が肌を撫でる。あたりは静まり返っていて、先ほどまでの甲板の賑わいが幻だったかのようだった。
「……来てくれたんですね」
小さく、けれど心の底からにじみ出た声音だった。その声に、ダズは短く目を伏せる。
「……ああ。遅くなった」
それだけだったが、nameの胸には十分すぎるほど沁みた。潮の香りが濃くなる中、船底の柔らかなクッションの上にnameを座らせると、ダズは無言のままその横に腰を下ろす。短く小さな溜め息が、どちらからともなく吐き出され、夜の海に溶けていった。
「……随分とにぎやかな宴だったようだな」
ぽつりと落ちたその声に、nameは頷く。
「皆さんよくしてくださいました。」
「そうか」
ダズの返答は淡々としていたが、声の奥には確かに、ほっと胸を撫で下ろしたような気配があった。その沈黙の合間、夜風がまた吹き抜け、マントの裾がさわり、と揺れた。
「……明日には、戻る。ボスの船まで」
「……はい」
「俺も聞きたいことは山ほどあるが、今日はもう休め。部屋まで運ぶ」
立ち上がる動きに合わせて、再びnameの身体は腕の中へと引き寄せられる。
その感覚に、nameは思わず身を委ねた。
緊張がすっと抜けていく。ローやルフィたちとの別れ、宴の余韻、褒められたこと、手配書。それらすべてが一気に身体から滑り落ちていくようだった。
「……生きてて、よかった」
思わずこぼれたその言葉に、ダズの脚が一瞬だけ止まる。けれど振り向くことはなく、そのまま静かに歩を進める。足音だけが甲板に響いて、
そのあとを、遠く小舟の綱を結ぶ波音が追いかけてくる。nameのまぶたが、少しずつ落ちていった。安堵と、疲労と、確かな信頼に包まれて。そしてその腕の中には、ようやく“帰る場所”の気配が、確かにあった。甲板の上に満ちていた月明かりも、どこか遠くへ引いていったような静けさの中。
ゆっくりとまぶたを開いた。視界に入るのは、柔らかな布地の天井。木の香りが仄かに漂う、質素ながらも手入れの行き届いた小部屋。見知らぬ場所であるはずなのに――否、もしかすると初めて訪れたはずなのに、そこには「恐怖」も「緊張」も、「用心」すらも存在しなかった。
呼吸が、深く、静かに肺へと落ちていく。
ひとつ、またひとつ。まだどこか眠気の残る頭の中で、
“ああ、ようやく……”という言葉が、じわじわと輪郭を浮かべていった。
久しぶりだった。こんなふうに、何も気にせずに眠り、何かに怯えずに目覚められた朝は――どれだけ、ぶりだろうか。
静寂に包まれていたのは部屋だけではなかった。自分の内側すらも、いまは波ひとつ立たず、ひどく穏やかに、深いところから満たされている。薄い寝具の上に身を沈めたまま、nameは目だけをゆっくりと横に動かした。
小さな机の上には見慣れた荷物。そのなかに、ローがそっと忍ばせた注射器と薬剤のセットがあることもわかっていた。それを思い出すと同時に、目の奥がほんのり熱を帯びる。昨夜は酔っていて、きっとうまく礼も伝えられていなかった。
けれど、きっとあれでよかったのだと、自分に言い聞かせる。シーツの縁を指先で摘む。
生きている。ちゃんと、生き延びてここにいて、
今、こんなふうに、何の音もなく、心臓の鼓動すら愛おしく感じるような朝を迎えられている。
「……」
少しだけ、喉の奥が詰まる。涙が零れるほどではないけれど、温度のあるものが胸の奥に灯って、それがじんわりと身体中に滲んでいく。長い、長い夜が終わったのだ。今はまだ“帰還”ではない。けれど、この感覚は確かに、「自分の居場所に還ってきた」という実感と、少しの希望を孕んでいた。
窓の外には、朝の気配がわずかに顔を覗かせていた。そしてnameは、初めて“自分の意思で”その一日を迎えようとしていた。船室に射し込む光はまだやわらかく、静かに木目を照らしていた。
nameは深く息を吐きながら、自分の荷物を解いた。衣類、必要な道具類、そして――
ローが「入れておいた」と言っていたもの。小さな木箱の奥に、丁寧に包まれた注射器と薬剤があった。それは、あの忌まわしい名を持つ薬――シェム――を少しずつ、けれど確実に解毒するためのもの。封を切る手は震えていなかった。覚悟はとうに決めていた。まだ不完全、だが確かに一歩前へと進むその薬を、自分自身の手で打つこと。消毒綿を取り出し、上腕部を軽く拭う。冷たい。そして、その冷たさが今の自分を現実へと引き戻してくれる。
「……っ」
針が刺さる瞬間、わずかに眉を寄せた。何度経験しても、どうしてもこの異物が皮膚を割って入ってくる感覚だけは、慣れることがなかった。どうしても色々な事を思い出してしまう。
けれど、それもすぐに過ぎる。ゆっくりと薬液が体内に押し込まれていく感覚。苦い記憶と、これから長く続くであろう“戦い”の始まり。それでもnameは、目を逸らさなかった。今は、もう――逃げない。
ちょうどそのとき、ドアが軽く軋む音がした。振り向いた先、扉の影からダズが姿を現す。
「……タイミング悪かったか?」
気まずそうな風でもなく、ただ淡々と問うその声。nameはほんの一瞬だけ驚いたあと、小さく首を振って微笑む。
「いえ、大丈夫です。もう、終わりましたから」
少しだけ頬が火照っているのは、薬のせいか、それとも見られたことへの照れか。それすらもわからなくなるほど、心が少し緩んでいた。ダズは無言のまま手にしていた包みを差し出す。
「着替えだ。……こっちの方が落ち着くだろ」
その言葉と共に現れた布地に、nameの目がぱちぱちと瞬いた。それは、懐かしい――けれど、あたたかい記憶を呼び起こす装い。レインディーズ時代に着ていた、あのメイド服だった。指先がそっと布に触れる。シンプルで、けれど手触りの良い生地。洗いたての香りが微かに香る。
「……ありがとうございます。すごく、嬉しいです」
まるで、帰るべき場所に戻ってきたかのような感覚が、胸の奥でじんわりと広がった。ダズはあくまで無表情のまま、ただ一言。
「そうか」
それだけを言い残し、部屋を出ていく。nameはその背中に軽く一礼すると、メイド服を抱きしめるようにして胸元に引き寄せた。
新しい朝。それでも、ほんの少しの“かつての自分”を、取り戻せた気がした。
室内の空気は静かで、船の木材がきしむ音だけが、時折遠くから聞こえていた。目の前に広げられたメイド服は、少し年季の入った白と黒のコントラストを保ったまま、微かに漂う石鹸の香りを纏っていた。nameはゆっくりと指先でその布地に触れ、まるで過去の自分を撫でるように、そっと手のひらを滑らせた。
(……ずいぶん、遠回りしたな)
ひとりごとのような思考が、胸の奥でぼやけては浮かび、すっと消えていく。
ジャヤ、シャボンディ、マリンフォード、ドレスローザ。
どこで命を落としていてもおかしくなかった道のり。けれど、今、こうしてまた“元の姿”に袖を通すことができている。
nameはひとつ深く息を吸い、上着のボタンを順に留めていく。布の感触が、皮膚に馴染んでいくたび、身体の輪郭がようやく“自分”へと戻っていくような錯覚にさえ思えた。
だが――以前と違うものがあった。
ガーター状のホルスターに収められた、黒光りするマグナム。
そして、そのすぐ脇にセットされた小さな筒状のアンプル――ブースト薬。
ローからは「使うな」と厳重に釘を刺されている。あれは非常時のみにすべきもので、使えばシェムの排出サイクルに狂いが生じる危険がある。それでも、nameは手放すことができなかった。
「……大丈夫。使わない。使わないから……」
言い聞かせるように、小さく呟く。それでも重みは、否応なく太腿に圧を伝えてくる。この“重さ”が、今の自分を形作っているのだと、そうも思えた。
靴を履き直し、首元を整え、軽く肩を落とすように深呼吸。鏡に映った姿は、確かに――かつてのレインディーズにいた、“あのメイド”だった。けれどその眼差しは、もうあの頃のままではない。
扉の向こうに気配を感じていた。待ってくれているのだろう、ダズが。
「……お待たせしました」
声をかけながら、扉を開ける。すると、ダズが無言で振り返り、ちらりとnameの姿を確認すると、ほんのわずかに顎を引いた。それは、言葉にしない肯定。彼の中で、確かに“帰ってきた”という事実が、受け入れられた瞬間だった。
小船はゆっくりと波を切り、目の前に横たわる巨大な船影へと静かに近づいていく。
それはnameがかつて見たどの船とも異なる造りをしていた。金属と木材の質感が複雑に混じり合い、舷側にはどこか冷たさと重厚感を兼ね備えた意匠。まるで「砦」がそのまま海に浮かんでいるかのようだった。装飾は最小限で無骨。けれど、その沈黙が雄弁に“誰の船であるか”を語っていた。
(……やっぱり、すごい……)
圧倒される感覚と共に、nameはじんわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。
今日――自分は“帰る”のだ。約束通り、ボスの元へ。桟橋のように設けられたステップをのぼりながら、ぴたりと背後につく気配を振り返ると、ダズがいつもの無言のまま、目で促してきた。
船内へと足を踏み入れれば、そこは無駄のない静謐な廊下。厚手の絨毯が足音を吸い込み、金属と木材が混在した独特の構造が空気を密やかに閉じ込めている。
――緊張が、指先からじわりと伝わる。
けれど、歩みは止まらない。nameは自身の脚で、この場所に“帰る”と決めたのだから。その隣を歩くダズの足取りは一定だった。言葉こそ少ないが、歩幅はnameに合わせてくれている。それだけで、気遣われているのだと感じられた。
そして――何よりも。背を預けられる存在がすぐ傍にいるという、その事実が、今のnameには何よりも心強かった。
「……緊張してんのか?」
ぽつりと、ダズが低く問いかけた。nameは肩をすくめるようにして、少しだけ笑う。
「……してないって言ったら、嘘になりますね。でも……うれしいです。ようやく……ようやく、ここまで来れたから」
その声に、ダズは何も言わなかった。けれど、その横顔はほんのわずかに柔らぎ――それが答えの代わりだった。
廊下の奥。目的地は、もうすぐそこだ。深く息を吸い、nameは背筋を正した。
もう一度、歩き出すために。船の静かな揺れに合わせて、絨毯越しの足音がふわりと沈んだ。
目的の扉まで、あと数歩。
けれど、その手前で――nameの足が、ふと止まった。動きを止めた自分の肩越しに、すぐ背後を歩くダズの気配が立ち止まる。不思議そうに小さく息を鳴らした気配がした。それでも、彼は何も言わない。急かすでも、問いただすでもなく。しばらくの沈黙のあと、nameはぽつりとこぼすように呟いた。
「……本当に、戻っていいんでしょうか。こんな……汚れてしまった、私が……」
声は小さく、まるで自分に向ける懺悔のようだった。薄く震えた指が、スカートの裾をぎゅっと掴む。どれだけの時間を経ても、どれだけ言葉を尽くしても、すべてが赦されるわけではないと、どこかでわかっていた。ただ傍にいたい、その願いすら――自分には、もう。
「……」
不意に、後頭部に温かな感触。大きな掌が、何の前触れもなく、そっとnameの頭を撫でていた。驚いて見上げれば、ダズは少しだけ呆れたような表情で、珍しく口元を緩めていた。
「……心配無用だ」
それだけの言葉。けれど、それが全てだった。彼の声は重みがあって、嘘がなかった。
「誰の指示で、俺がてめぇを探してたと思ってんだ。あの人だよ。……ボスが、“見つけてこい”って言ったんだ。お前を、だ」
その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。“探してくれていた”――その事実が、思った以上に深く、痛いほど沁みてくる。その手がまだ髪にあることが、どうしようもなく嬉しくて、悔しくて、安堵して、胸が詰まる。
「……ダズ様、また……撫でてくれますね……」
ぽそりと呟いた言葉に、ダズは視線を逸らすようにふいと目をそらしながら、口の端を持ち上げた。
「……俺だって安心してんだ。無事でいてくれてよかったって、そう思ってんだよ」
不器用な声。けれど、それはnameの心の傷にまっすぐ触れて、じんわりと温度を灯した。
nameは静かに、深く一度だけ息を吐いて――それから、再び歩き出す。
もう迷わない。もう、躊躇わない。この扉の向こうに、自分が“帰るべき場所”があるのだと。そう、信じて。
金属の重たい音が、静まり返った空間に響く。ダズの拳が重厚な扉を軽く叩いたのち、中から聞こえたのは、低く、静かに通る男の声だった。
「……入れ」
その一言に、ダズは何も言わずに取手を押し、扉をゆっくりと開ける。微かに油の香りと紙の匂いが混じる部屋の中。重厚な書斎机の奥、分厚い資料の束に囲まれるようにして、彼――クロコダイルは座っていた。葉巻の煙がまだ燻っているのか、わずかに紫煙が立ちのぼる空気の中に、その男の姿はあった。
「連れてきた」
そう告げたダズの声を、nameはどこか遠くで聞いているような気がした。足は勝手に前へ進んでいたが、胸の奥は張り裂けるような緊張で固く、喉はひりつくほど乾いている。
それでも――視線を上げずにはいられなかった。ちら、と目を上げた先。久しく夢にまで見たその横顔が、淡く揺れる煙越しに、確かにあった。クロコダイルは机上の書類にペンを走らせていた。その手が止まり、書類を静かに置き、ようやくゆっくりと顔を上げる。無言のまま、彼の目が、nameを一瞥する。
――視線が合った、その瞬間。胸の奥が、はじけるようにきゅう、と締めつけられた。
“ああ、本当に。ここに、いる”
ようやく、言葉が喉に届いた。けれど声に出すのはとても難しく、唇は乾いてかすかに震えた。それでも、絞り出すようにして、nameは口を開いた。
「……戻りました」
その声はか細く、けれど確かに、空気を震わせた。ただの報告のようでいて、すべてを込めた言葉だった。どれほどの想いを重ねて、どれほどの夜を越えて、ようやく辿り着いたこの一言。自身の意志で、立って、目を上げて、彼に告げた。
クロコダイルは微動だにせず、ただじっと、nameを見ていた。その視線の奥に何を思っているのか、今はまだ、わからない。けれど、それでもいい。
この場に立ち、告げたことが――すべての始まりだった。部屋に、緊張と安堵が入り混じるような静寂が満ちていた。nameはクロコダイルの視線からそっと目を逸らし、少しだけ俯いた。けれど、その声は淡々としていた。抑揚を排した語調で、まるで自分の感情を押し殺すように。
「……問題は、解決しました。ドフラミンゴは失脚して……ドレスローザは、元に戻ったと聞いています。カイドウが……動き出しそうです。鍵になっていたのは、シーザーで……」
言葉は矢継ぎ早に続いた。自分の存在が無駄ではなかったと、証明するように。この2年の意味を、忘れられたくなかった。ただの玩具でも、装飾でもなく――自分は、確かにそこにいたのだと。だが、まるでその焦りと打算を見透かしたかのように。静かに、けれどはっきりとその声は割って入った。
「――name」
名前を呼ばれた瞬間、身体がびくりと震える。抑えていた息が喉元で詰まり、動きが止まる。恐る恐る顔を上げると、その視線の先。
あの日と変わらぬ眼差しで、彼がそこにいた。机の奥、重厚な椅子に座るクロコダイルは、書類の上に片手を置いたまま、真正面からnameを見ていた。
その表情はどこか緩み、かすかに口角が上がっている。眉間の皺も、戦場のような冷ややかさも今はなく、確かに、そこにあったのは――ほっとしたような、“再会”の顔だった。
「よく……戻ったな」
ただ、その一言だった。
けれど、それだけでよかった。
その一言だけで、nameのなかのすべてが崩れていく。張り詰めていた糸がぷつんと切れる音がした。熱いものが一気に目元に押し寄せ、堪えようとした瞬間にはもう、頬を伝っていた。
「あ……っ……」
言葉にならなかった。ただ、ぽろぽろと涙が零れ落ちるのを止められず、nameは唇を噛むことも忘れていた。震える指先が、スカートの裾を握りしめる。嗚咽はなかった。ただ、静かに、けれど確かに、涙がこぼれて止まらなかった。
“戻っていい”と、誰も言ってくれなかった場所から。
“戻っていい”と、誰よりも求めていた人のもとへ。
ようやく、自分の居場所に帰ってこれた。その確信が、温かく胸の奥に染み渡っていった。部屋に、涙の音が静かに響く。それまで必死に理性の盾で堰き止めていた感情は、クロコダイルの言葉一つで一気に決壊した。nameの肩が震え、涙が頬から顎へ、制服の胸元を濡らして落ちていく。
「っ……あ……う……っ……」
声にならない嗚咽。全身の力が抜け、今にも崩れ落ちそうなほどに。その背後から、場の空気を和らげるようにダズが小さく肩をすくめる。
「ボス、泣かしたぞ」
苦笑交じりに、けれどどこか安堵したような調子だった。ダズにとっても、今日のこの再会はずっと望んでいた光景のはずだった。クロコダイルはゆっくりと立ち上がる。
背筋の通った大きな体が、陽の落ちた室内に影を落とす。足音も重くない。まるで風がすっと通るような自然な動きで、nameのすぐそばまで歩み寄った。
「……name」
名を呼ばれたその瞬間、また新しい涙が溢れる。次の瞬間、nameの頭にあたたかな感触が触れた。大きく、けれどどこか懐かしい手のひら。その厚みのある掌が、ゆっくりと髪を撫でていく。それだけで、赦された気がした。
「……っ……クロコダイル、さま……無事で……ほんとうに、よかった、です……っ」
しゃくりあげるように言葉を繋ぎ、顔をあげることもできないまま、ただ、絞り出すように想いを吐き出す。そのひとことに、今まで飲み込んできた日々が、すべて込められていた。
どれほどの夜を恐れと共に過ごしたか。どれほどの朝を自分を保つためだけに迎えたか。
どれほど、今日という日を願ってきたか――
それを、クロコダイルは黙って受け止めた。その背後で、ダズがふっと息を漏らし、どこか嬉しそうに口元を緩めているのがわかる。
「……よくここまで、耐えて、俺のところまで戻ってきたな。name」
低く、穏やかに響く声。その音だけで、また涙が溢れる。戻ってきた。確かに、ここに。遠回りして、深く傷ついて、壊れそうになって――それでも、最後に辿り着いた場所は、やっぱりここだった。
「……っ……ひっ、ぅ……うぅ……」
泣いても、泣いても、涙は止まらない。嗚咽すらも抑えられないほどに、心の奥底からあふれ出す。
クロコダイルはそれを叱りもせず、咎めもせず、ただ静かにその傍に立ち続けた。あの大きな背に、守られている。どれだけ穢れてしまったと思っても、この人の前ではまだ、自分は「帰ることが許された存在」だった。その事実だけで、すべてが報われたような気がした。そして、nameは知る。ここが、自分の「居場所」なのだと。
重たい空気が、少しずつ柔らかくなる。泣きじゃくるnameの肩に、クロコダイルの手が一度ぽんと添えられたかと思えば、次の瞬間には「座れ」と無言の圧で促される。
引き寄せられるようにしてソファへ腰を落とすと、そのすぐ隣に、クロコダイルも静かに座った。重厚な身のこなし。沈み込む革張りの音すらも、nameの心を落ち着かせる。すぐそばに――帰ってきたことを示すように、その大きな存在がある。
斜め向かい、少し距離を置いて座ったダズが、ふっと安堵の吐息を漏らすのが聞こえた。何も言わないが、あの無愛想な表情の奥に微かな笑みの気配があった。
泣き疲れて、呼吸を整えようとしながらも、nameの指先は自然と胸元を探る。布の裏、慎重に守っていた薄い布袋のなかから、小さな金属音。震える手で差し出す、懐かしい銀のタバコケースとライター。まるで宝物のように扱っていたそれを、両手で差し出すようにクロコダイルの前へと持っていく。
「……あの、これ……預かったままでした……お返し、いたします……」
声はかすれていたが、言葉は確かだった。クロコダイルはそれを一瞥し、ふっと鼻を鳴らした。
「……バカが。てめェにやるって言ったろうが」
ぴしゃりと言い捨てるような口調。けれどその声音は、どこか温かく、少しだけ呆れたような響きを孕んでいた。驚いたように顔を上げるnameに、クロコダイルは視線を戻さないまま、懐のシガーに手を伸ばした。
「――細かい話は、追々聞かせてもらう。今は、まず……」
葉巻に火を点けると、ふっと紫煙が広がる。久しぶりに嗅ぐ、その香り。喉の奥にくすぐるような熱が、nameの中の「帰ってきた」という実感を深く刻み込む。
「……少し、身体を休めろ。ずいぶんと、無理をした顔をしてやがる」
その言葉に、また涙がこぼれそうになった。けれど今は、それをこらえた。涙ではなく、心に広がる静かな安堵が、胸を満たしていた。
ダズが視線を横に流し、あえて口を噤む。この穏やかな一瞬は、誰にも邪魔させないように。
ただ静かに、帰還の空気が、そこにあった。部屋の空気は、まだ少し熱を帯びていた。
涙のあとのnameは、目元を赤く腫らしながらも、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻し、クロコダイルの隣で姿勢を正していた。
「……はい、休ませていただきます」
静かに頷いたnameの声音には、深い安堵と、それでもまだどこか緊張の影が残っていた。クロコダイルがシガーを燻らせながら視線を落とすと、少しだけ目尻が和らぐ。
「これから、色々と動くぞ……あっちの海は、“忙しい”からな」
何気ない調子で吐かれた言葉。詳細には触れずとも、何かしら大きな計画があることは、それだけで十分に伝わった。“新世界”という言葉が、nameの心に不意に現実味を帯びる。
「……お前はどうする?」
問われたnameは、ほんの一拍の沈黙ののち、真っ直ぐに顔を上げた。涙の名残を湛えた瞳で、まっすぐクロコダイルを見据える。
「私は……クロコダイル様のメイドです。どこにでもお供いたします」
その答えに、クロコダイルは肩を震わせ、短く吹き出した。まるで、それが一番らしいと思ったような、皮肉混じりの笑いだった。
「フッ、言うと思ったぜ。……メイドなァ」
苦いような、けれど嬉しそうな笑みが浮かぶその表情は、どこか呆れすら滲ませていた。すぐ傍らでその様子を見ていたダズが、煙の向こうから手を伸ばし、懐から一枚の紙を取り出す。
「その心配は、いらないと思うが。これが、昨日出たばかりのやつだ」
無造作に差し出されたその紙面――顔写真と共に、見慣れたフォントで「WANTED」の文字が躍っていた。差し出された瞬間、nameの表情が一変する。
「っ、それは……!」
慌てて手を伸ばすも、一瞬早くクロコダイルがそれをつまみ取る。紙越しにnameの顔と、額面と、経歴の一部を素早く流し読みすると、ゆっくりとした動作で視線を下ろす。
口元が、にやりと吊り上がった。
「……ほぉう。色んな場所で、おいたしてきたんだな、俺の“メイド”は」
悪戯を見つけた大人のような、ぞっとするほど愉しげな笑みだった。それを見たnameは目を伏せ、耳まで赤くなり、何か言いかけては言葉を飲み込んだ。ダズの方を見ると、彼は微かに肩をすくめた。
「なかなか、話題性のある手土産だ。ボス」
そのやり取りに、空気がさらに柔らかくなる。静かに揺れる紫煙の中、クロコダイルの笑みと、nameの顔に浮かぶ羞恥と誇りが、静かに重なっていく。それは、ただの帰還ではなかった。
“メイド”であることを貫きながらも、確かに彼女は“仲間”の一人として、再びその輪に加わったのだ。
夕陽が傾きかける頃、甲板の外にはゆるやかな海風が吹き、波音が船体にやさしく打ち寄せていた。
船の奥、幾重にも仕切られた廊下の先にある一室では、先ほどまでの笑い声が静かに余韻を残していた。
nameは未だ少し目元を赤らめながらも、胸の奥に深く沁みわたるような温もりを感じていた。心のどこかでずっと夢見ていた場所――その傍らに、今、自分は確かにいる。
クロコダイルが傍にいる。
ダズの姿もある。
――ただそれだけで、もう充分だった。
再びメイドとしてその場に居られること。命じられるまま、紅茶を淹れ、部屋を整え、報告をあげ、従う日々が戻ってくる。
けれどそれは、かつてとは違う。奪われ、縛られていた過去ではなく、自らの意志で戻ってきた現在――選び取った帰還だった。かつてのnameなら、その意味すら分からなかったかもしれない。
だが今は違う。どれほど痛みにまみれようと、濁った闇に沈もうと、手放さなかった「誇り」と「願い」が、この手に再び確かに戻ってきた。
クロコダイルは多くを語らない。だが視線の奥にあったものを、nameは見逃さなかった。それは信頼だった。ひとときも揺らがなかった、あの人なりの――帰りを待つという、確かな“答え”だった。
夕暮れの空に、紫煙がひと筋、ゆっくりと昇っていく。冷たい風の中に微かに香るその匂いに、nameの胸が、またじんわりと熱を帯びる。たとえ明日、また荒れ狂う嵐が待っていようと。
ここが、自分の戻るべき場所。戦う場所。
――仕えるべき人が、そこにいる限り。
こうして、nameは再びクロコダイルの元に、
“メイド”として戻ることができた。
その手に、覚悟と誓いを握りしめて――。
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