12.the thousand sunny
name
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穏やかなはずの海面が、ほんのわずかに波打っていた。
陽が落ちきる前の空は、濃い群青色と橙が入り混じり、どこか異世界のような不穏さを孕んでいる。
――サウザンド・サニー号。
船の甲板に置かれた木箱の影、帆の下、陽を避けるようにして静かに横たわる影がひとつ。
nameはローの腕に支えられたまま、眠るでもなく眠れぬでもなく、まどろみのなかに沈んでいた。
身体は重い。薬のせいもあるが、それ以上に、今日という一日の中で、あまりに多くのことが起こりすぎた。気が緩むと、記憶が呼び戻す。シーザーの手、モニター越しの笑い声。過剰な薬の甘い香り。そして、それをかき消すように、肌に残る煙の残り香や、誰かの手の温もりが脈打つ。そんな夢とも現ともつかない深淵に沈みかけたとき、肩をゆさぶる手があった。
くぐもった世界に、明瞭な声が落ちる。
「起きろ。……ドフラミンゴに連絡を入れる」
それだけで、心臓が跳ねた。
皮膚が粟立つような感覚。眠気も酩酊も、全てが押し流される。ぱちりと目を開ける。喉が詰まり、何かを言おうとして言葉にならない。呼吸が浅く、はやい。
「落ち着け。……脅しじゃない。状況の整理だ」
静かな声は、そう続けるが、nameの指先はかすかに震えたまま。
それでも、懸命に言葉を紡ごうとする。
「……あの……今……ですか……?いま、わたしを……みせるんですか……?」
答えの代わりに、ローは視線だけを向けてくる。感情の読めないその目に、たじろぎそうになる。
「“お前が俺の手にある”と、あいつに知らせる。それだけだ」
言葉は淡々としている。けれど、nameの内側には、酷く重たいものが沈んでいった。胸が、奥から圧迫されるように苦しい。
「……わたしに……そんな価値、あるんでしょうか……」
ぽつりと漏れた声。
まるで自分でも気づかぬまま、心の奥から零れたそれは、あまりに弱く、あまりに素直だった。
この身体が利用されるたびに、意味を失っていくような錯覚に、何度も苛まれてきた。
それを聞いたローは、ほんの一瞬、目を細めた。
そして肩を落とし、いつになくあからさまな疲労を滲ませるように溜息をついた。
「……お前は、自分の価値をわかっちゃいねェ。あいつがお前に執着をみせてる。それで十分だ」
淡々と、だがはっきりと。ローはそう言いきった。
nameの心臓は、まだ速く打っていた。執着。その言葉ですむものなのだろうか。静かな船の中、遠くでは麦わらの一味の笑い声が聞こえていた。その対岸のような静寂の中、ローはゆっくりと通信機を手に取った。短くも長い、冷たい時間が始まろうとしていた。
小さな航海士用の備品室。航海に支障のない範囲で片づけられたその空間は、ほんのりと潮と木材の香りが残っていた。照明は控えめに落とされ、足元には波のリズムにあわせて微かに揺れる影。小さな窓からの薄明かりが、壁にかかったロープや工具を静かに照らしている。
nameは、静かにその場に座っていた。
足を揃えて、背を正し、膝の上に手を置いて。けれど指先だけが、かすかに震えていた。視線は正面の床に向いていたが、意識は隣の男の動きにすべてを集中させている。
ローは手慣れた仕草で電伝虫を取り出し、通話回線を確保する。ぼてりとした軟体の甲虫は、ピクリとまばたきし、唇にあたる部分がくい、と持ち上がった。
「……さあ、応答しろよ、“ジョーカー”」
その一言に、電伝虫の目元が鋭く吊り上がる。すぐにあの声が返ってきた。
『……フッフッフ……久しぶりなのに連れない呼び方じゃねェか、ロー』
低く、艶やかな声。笑っているのに、ぞくりと背筋を撫でてくるような、湿り気と圧が滲む声だった。それだけで、nameの背筋が硬直する。肩がかすかに揺れ、首の後ろを何か冷たいものが這い登っていく錯覚。
――ドフラミンゴ。
その名前を聞かずとも、声だけで本能が反応する。喉がひとりでに狭くなり、呼吸がうまくできなくなる感覚に陥る。彼の声が、肌の内側を抉るように響いてくる。
だがローは動じない。むしろ淡々と、用件を切り出した。
「……単刀直入に言う。俺たちは“シーザー・クラウン”を捕縛している……あとお前の大事なオモチャもだ」
『……はァ?』
一拍、間。
そのあと、微かに噛み殺したような笑い声。
『……ほぉ……で?何が望みだ?金か?それとも――』
「明日の朝刊で、“王下七武海”を辞めると発表しろ」
沈黙が落ちた。明らかに、異常なほど長い、静寂。
nameの耳には、自分の心音ばかりが鳴っていた。
『……フッフッフ……あァ?オイオイ、ロー。正気か?そんなもんで、何になる?』
「それはお前の知ったことじゃねェ。……シーザーを返してほしければ、明日の朝刊に載るように“やめる”と声明を出せ。選択肢はない」
一方的な口調に、ドフラミンゴの声が、明らかに変わった。
『……テメェ……!いい度胸だな、クソガキ……ッ』
怒りと焦燥がない交ぜになった声。それだけで、ドフラミンゴの思考がかき乱されているのがわかる。あの男にしては珍しい反応だった。
だが――その瞬間だった。
「……ドフィ……」
小さな声が、電伝虫を通じて送られる。ローの隣にいたnameが、顔を上げていた。震える声を押し殺しながら、それでも、伝えるように。
「イイコに、できなくて……ごめんなさい……」
静かな、けれど刺すような告白。電伝虫の表情が、ぴたりと凍った。一瞬で、世界の空気が変わった気がした。
ローはすぐに通話を切った。バチンと鋭い音が、小部屋の空間を震わせる。
沈黙。
そのまま、二人の間に落ちたのは、呼吸さえ聞こえないほどの静けさだった。
nameは、下唇を噛んだまま、微かに首を垂れる。震えはまだ止まらない。だが、言わずにはいられなかった。その言葉が、どれだけ相手を狂わせるかを知りながら――
それでも、後悔はしていなかった。
夜の風が、ゆるやかに甲板を撫でていた。
サウザンドサニー号の甲板には、緑の芝が柔らかく敷かれ、昼間の熱気を少しだけ残しながらも、夜露の気配を纏っている。月は雲間にあり、船の照明がそれぞれの影をくっきりと落としていた。
ローは、nameを静かに抱えたまま、甲板へと足を運んだ。その腕の中、nameの体温は微かに高く、けれど冷たい汗を皮膚ににじませている。呼吸は浅く、小刻みに波打っていた。
甲板には、既にルフィたちの姿があった。
フランキーは腕を組み、ウソップは腰を下ろして何か言い合いながら様子をうかがっている。ロビンは控えめに柱にもたれ、視線だけを向けていた。チョッパーは何か準備している様子。錦えもんとモモの助の姿もある。小さな体で、モモの助は誰かの背に隠れるようにしていた。
そして、その中心には――柱に鎖でつながれたシーザー。
乱れた息を吐き、肩を上下させながらも、その目にはなおも嘲りと陶酔の名残が色濃く残っていた。
ローは視線をそちらに向けることもなく、甲板の一角、シーザーから明らかに距離を取るような場所まで歩き、そこで膝を落とし、nameを芝の上に下ろした。
その手が離れる瞬間、nameはほんのわずかに、その指先を掴みかけたが――力なく、諦めたように指を引いた。膝に手をついて、ゆっくりと姿勢を落とす。足元の芝が柔らかく、湿っているのがわかる。それが心地よいはずなのに、肌の内側まで冷えているようだった。
「……怒ってた……」
ぽつりと落ちた声。誰に向けたでもなく、ただ自分の中にある震えを、言葉にしてみただけのような呟きだった。
「……ドフィ……怒ってた……すごく……」
指先が震えていた。無意識に、胸元を握りしめるようにして、nameは視線を落とす。脳裏に焼きついた、あの声。普段は余裕たっぷりに嗤う彼が、明確に怒りを滲ませ、ローの言葉に食いついてきたあの瞬間。その怒気に触れたとき、心臓が凍るようだった。
“あれは、私に向けられた怒りだったのか、ローに向けられたものだったのか――”
どちらでも、構わなかった。ただ、あの声を聞いた途端に、全身の毛穴が開くような恐怖が押し寄せてきた。何度も、何度も、あの声を聞いてきた。甘く囁くときも、命じるときも、罰する時も。
けれど、あそこまで――底のない怒りを孕んだ声を、耳にしたことは、ほとんどなかった。
その恐怖が、身体の芯にまで染みて、今も抜け落ちない。ふと、芝の向こうで笑い声が上がった。
宴の続きを控えた麦わらの一味は、既に次の行動の段取りを話し始めている。だが、その輪に加わる気力も、言葉も、nameには残っていなかった。
月が雲間から覗き、その光が静かにnameを照らす。その独白を、ローは黙って見守っていた。何かをいいかけ、それは音にはならずまた黙り込む。なにもまだ終わっちゃいなかった。甲板に立ちこめる潮風は、次第に湿度を帯びて、遠く嵐の気配すら滲ませていた。
だが、今この瞬間、サウザンド・サニー号の上空は静穏だった。芝の上では、ルフィ、ロー、そして麦わらの一味が円を成すように座り込み、次の行き先について話し合っていた。
その輪の外れ、柱にもたれるようにして、nameはひとり腰を下ろしていた。
少しだけ遠巻きに聞こえてくる、戦士たちの声。
「――目的地はドレスローザ。そこにある工場を潰す」
ローの低く抑えた声が、風に乗って耳に届いた。口調は淡々としていても、その声には確かな鋭さがある。まるで鋼線のような張り詰めた意志。
「カイドウの野郎を倒すってことか?」
ルフィの明るい声がそれに続き、チョッパーが「ええっ、カイドウ!?」と驚き、ナミが「それって四皇の…!?」と声を潜めた。
それでもルフィはいつもの調子で、「面白そうじゃねぇか!」と笑い飛ばす。nameはそのやりとりを、まぶたを伏せながら聞いていた。胸の奥、冷たい水を飲んだような感覚が広がっている。
カイドウ。四皇の一角。
そしてそのカイドウが、ドフラミンゴから何かを“買っていた”。
名は「SMILE」――
(……ドレスローザで……そんな噂……あった……)
眠気と鎮静剤に朧な思考の奥、過去の記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。
屋敷の奥、耳にした声。酔った男たちの談笑の端で交わされていた小さな囁き。
『あの工場は――』『カイドウに渡すんだってさ』『ジョーカーが仕切ってるらしいぜ』
まだ意味も分からぬまま、通り過ぎていった言葉たち。
(あれが……SMILEのことだった……?)
腹の底に冷たいものが降りた。ただの噂、ただの密売ではなかった。あの国の地下で動いていたのは、世界を揺るがすような取引の一端だったのだ。
(……私、そこにいたのに……)
指先がかすかに震える。
シーザーが“開発”し、ドフラミンゴが“流通”させ、カイドウが“兵器”として求めたSMILE。nameは、自分のいた場所が、どれだけの罪に加担していたのかを――今さらのように突きつけられていた。
「……っ」
息が詰まる。甲板の芝から、背中にしっとりとした冷たさが広がる。それでも動けなかった。まるで――その冷たさが、自分の罪そのもののようで、じわじわと侵食してくるようだった。
そのとき、ふと視線を感じた。輪の中から、ローがひとつ、こちらに視線を投げていた。
鋭さを潜めた目。見透かすようでいて、非難ではない。ただ、次の戦場に向けて、今何を思うのか――そう問いかけているような、静かなまなざし。nameは何も返さなかった。
あの国へ向かうという事実が、骨の髄まで凍えるほどの意味を持っていると、今は理解していた。
そして、再びドフラミンゴの“領土”へ自ら足を踏み入れるということが――
どれほどの代償を伴うかも。
陽が落ちきる前の空は、濃い群青色と橙が入り混じり、どこか異世界のような不穏さを孕んでいる。
――サウザンド・サニー号。
船の甲板に置かれた木箱の影、帆の下、陽を避けるようにして静かに横たわる影がひとつ。
nameはローの腕に支えられたまま、眠るでもなく眠れぬでもなく、まどろみのなかに沈んでいた。
身体は重い。薬のせいもあるが、それ以上に、今日という一日の中で、あまりに多くのことが起こりすぎた。気が緩むと、記憶が呼び戻す。シーザーの手、モニター越しの笑い声。過剰な薬の甘い香り。そして、それをかき消すように、肌に残る煙の残り香や、誰かの手の温もりが脈打つ。そんな夢とも現ともつかない深淵に沈みかけたとき、肩をゆさぶる手があった。
くぐもった世界に、明瞭な声が落ちる。
「起きろ。……ドフラミンゴに連絡を入れる」
それだけで、心臓が跳ねた。
皮膚が粟立つような感覚。眠気も酩酊も、全てが押し流される。ぱちりと目を開ける。喉が詰まり、何かを言おうとして言葉にならない。呼吸が浅く、はやい。
「落ち着け。……脅しじゃない。状況の整理だ」
静かな声は、そう続けるが、nameの指先はかすかに震えたまま。
それでも、懸命に言葉を紡ごうとする。
「……あの……今……ですか……?いま、わたしを……みせるんですか……?」
答えの代わりに、ローは視線だけを向けてくる。感情の読めないその目に、たじろぎそうになる。
「“お前が俺の手にある”と、あいつに知らせる。それだけだ」
言葉は淡々としている。けれど、nameの内側には、酷く重たいものが沈んでいった。胸が、奥から圧迫されるように苦しい。
「……わたしに……そんな価値、あるんでしょうか……」
ぽつりと漏れた声。
まるで自分でも気づかぬまま、心の奥から零れたそれは、あまりに弱く、あまりに素直だった。
この身体が利用されるたびに、意味を失っていくような錯覚に、何度も苛まれてきた。
それを聞いたローは、ほんの一瞬、目を細めた。
そして肩を落とし、いつになくあからさまな疲労を滲ませるように溜息をついた。
「……お前は、自分の価値をわかっちゃいねェ。あいつがお前に執着をみせてる。それで十分だ」
淡々と、だがはっきりと。ローはそう言いきった。
nameの心臓は、まだ速く打っていた。執着。その言葉ですむものなのだろうか。静かな船の中、遠くでは麦わらの一味の笑い声が聞こえていた。その対岸のような静寂の中、ローはゆっくりと通信機を手に取った。短くも長い、冷たい時間が始まろうとしていた。
小さな航海士用の備品室。航海に支障のない範囲で片づけられたその空間は、ほんのりと潮と木材の香りが残っていた。照明は控えめに落とされ、足元には波のリズムにあわせて微かに揺れる影。小さな窓からの薄明かりが、壁にかかったロープや工具を静かに照らしている。
nameは、静かにその場に座っていた。
足を揃えて、背を正し、膝の上に手を置いて。けれど指先だけが、かすかに震えていた。視線は正面の床に向いていたが、意識は隣の男の動きにすべてを集中させている。
ローは手慣れた仕草で電伝虫を取り出し、通話回線を確保する。ぼてりとした軟体の甲虫は、ピクリとまばたきし、唇にあたる部分がくい、と持ち上がった。
「……さあ、応答しろよ、“ジョーカー”」
その一言に、電伝虫の目元が鋭く吊り上がる。すぐにあの声が返ってきた。
『……フッフッフ……久しぶりなのに連れない呼び方じゃねェか、ロー』
低く、艶やかな声。笑っているのに、ぞくりと背筋を撫でてくるような、湿り気と圧が滲む声だった。それだけで、nameの背筋が硬直する。肩がかすかに揺れ、首の後ろを何か冷たいものが這い登っていく錯覚。
――ドフラミンゴ。
その名前を聞かずとも、声だけで本能が反応する。喉がひとりでに狭くなり、呼吸がうまくできなくなる感覚に陥る。彼の声が、肌の内側を抉るように響いてくる。
だがローは動じない。むしろ淡々と、用件を切り出した。
「……単刀直入に言う。俺たちは“シーザー・クラウン”を捕縛している……あとお前の大事なオモチャもだ」
『……はァ?』
一拍、間。
そのあと、微かに噛み殺したような笑い声。
『……ほぉ……で?何が望みだ?金か?それとも――』
「明日の朝刊で、“王下七武海”を辞めると発表しろ」
沈黙が落ちた。明らかに、異常なほど長い、静寂。
nameの耳には、自分の心音ばかりが鳴っていた。
『……フッフッフ……あァ?オイオイ、ロー。正気か?そんなもんで、何になる?』
「それはお前の知ったことじゃねェ。……シーザーを返してほしければ、明日の朝刊に載るように“やめる”と声明を出せ。選択肢はない」
一方的な口調に、ドフラミンゴの声が、明らかに変わった。
『……テメェ……!いい度胸だな、クソガキ……ッ』
怒りと焦燥がない交ぜになった声。それだけで、ドフラミンゴの思考がかき乱されているのがわかる。あの男にしては珍しい反応だった。
だが――その瞬間だった。
「……ドフィ……」
小さな声が、電伝虫を通じて送られる。ローの隣にいたnameが、顔を上げていた。震える声を押し殺しながら、それでも、伝えるように。
「イイコに、できなくて……ごめんなさい……」
静かな、けれど刺すような告白。電伝虫の表情が、ぴたりと凍った。一瞬で、世界の空気が変わった気がした。
ローはすぐに通話を切った。バチンと鋭い音が、小部屋の空間を震わせる。
沈黙。
そのまま、二人の間に落ちたのは、呼吸さえ聞こえないほどの静けさだった。
nameは、下唇を噛んだまま、微かに首を垂れる。震えはまだ止まらない。だが、言わずにはいられなかった。その言葉が、どれだけ相手を狂わせるかを知りながら――
それでも、後悔はしていなかった。
夜の風が、ゆるやかに甲板を撫でていた。
サウザンドサニー号の甲板には、緑の芝が柔らかく敷かれ、昼間の熱気を少しだけ残しながらも、夜露の気配を纏っている。月は雲間にあり、船の照明がそれぞれの影をくっきりと落としていた。
ローは、nameを静かに抱えたまま、甲板へと足を運んだ。その腕の中、nameの体温は微かに高く、けれど冷たい汗を皮膚ににじませている。呼吸は浅く、小刻みに波打っていた。
甲板には、既にルフィたちの姿があった。
フランキーは腕を組み、ウソップは腰を下ろして何か言い合いながら様子をうかがっている。ロビンは控えめに柱にもたれ、視線だけを向けていた。チョッパーは何か準備している様子。錦えもんとモモの助の姿もある。小さな体で、モモの助は誰かの背に隠れるようにしていた。
そして、その中心には――柱に鎖でつながれたシーザー。
乱れた息を吐き、肩を上下させながらも、その目にはなおも嘲りと陶酔の名残が色濃く残っていた。
ローは視線をそちらに向けることもなく、甲板の一角、シーザーから明らかに距離を取るような場所まで歩き、そこで膝を落とし、nameを芝の上に下ろした。
その手が離れる瞬間、nameはほんのわずかに、その指先を掴みかけたが――力なく、諦めたように指を引いた。膝に手をついて、ゆっくりと姿勢を落とす。足元の芝が柔らかく、湿っているのがわかる。それが心地よいはずなのに、肌の内側まで冷えているようだった。
「……怒ってた……」
ぽつりと落ちた声。誰に向けたでもなく、ただ自分の中にある震えを、言葉にしてみただけのような呟きだった。
「……ドフィ……怒ってた……すごく……」
指先が震えていた。無意識に、胸元を握りしめるようにして、nameは視線を落とす。脳裏に焼きついた、あの声。普段は余裕たっぷりに嗤う彼が、明確に怒りを滲ませ、ローの言葉に食いついてきたあの瞬間。その怒気に触れたとき、心臓が凍るようだった。
“あれは、私に向けられた怒りだったのか、ローに向けられたものだったのか――”
どちらでも、構わなかった。ただ、あの声を聞いた途端に、全身の毛穴が開くような恐怖が押し寄せてきた。何度も、何度も、あの声を聞いてきた。甘く囁くときも、命じるときも、罰する時も。
けれど、あそこまで――底のない怒りを孕んだ声を、耳にしたことは、ほとんどなかった。
その恐怖が、身体の芯にまで染みて、今も抜け落ちない。ふと、芝の向こうで笑い声が上がった。
宴の続きを控えた麦わらの一味は、既に次の行動の段取りを話し始めている。だが、その輪に加わる気力も、言葉も、nameには残っていなかった。
月が雲間から覗き、その光が静かにnameを照らす。その独白を、ローは黙って見守っていた。何かをいいかけ、それは音にはならずまた黙り込む。なにもまだ終わっちゃいなかった。甲板に立ちこめる潮風は、次第に湿度を帯びて、遠く嵐の気配すら滲ませていた。
だが、今この瞬間、サウザンド・サニー号の上空は静穏だった。芝の上では、ルフィ、ロー、そして麦わらの一味が円を成すように座り込み、次の行き先について話し合っていた。
その輪の外れ、柱にもたれるようにして、nameはひとり腰を下ろしていた。
少しだけ遠巻きに聞こえてくる、戦士たちの声。
「――目的地はドレスローザ。そこにある工場を潰す」
ローの低く抑えた声が、風に乗って耳に届いた。口調は淡々としていても、その声には確かな鋭さがある。まるで鋼線のような張り詰めた意志。
「カイドウの野郎を倒すってことか?」
ルフィの明るい声がそれに続き、チョッパーが「ええっ、カイドウ!?」と驚き、ナミが「それって四皇の…!?」と声を潜めた。
それでもルフィはいつもの調子で、「面白そうじゃねぇか!」と笑い飛ばす。nameはそのやりとりを、まぶたを伏せながら聞いていた。胸の奥、冷たい水を飲んだような感覚が広がっている。
カイドウ。四皇の一角。
そしてそのカイドウが、ドフラミンゴから何かを“買っていた”。
名は「SMILE」――
(……ドレスローザで……そんな噂……あった……)
眠気と鎮静剤に朧な思考の奥、過去の記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。
屋敷の奥、耳にした声。酔った男たちの談笑の端で交わされていた小さな囁き。
『あの工場は――』『カイドウに渡すんだってさ』『ジョーカーが仕切ってるらしいぜ』
まだ意味も分からぬまま、通り過ぎていった言葉たち。
(あれが……SMILEのことだった……?)
腹の底に冷たいものが降りた。ただの噂、ただの密売ではなかった。あの国の地下で動いていたのは、世界を揺るがすような取引の一端だったのだ。
(……私、そこにいたのに……)
指先がかすかに震える。
シーザーが“開発”し、ドフラミンゴが“流通”させ、カイドウが“兵器”として求めたSMILE。nameは、自分のいた場所が、どれだけの罪に加担していたのかを――今さらのように突きつけられていた。
「……っ」
息が詰まる。甲板の芝から、背中にしっとりとした冷たさが広がる。それでも動けなかった。まるで――その冷たさが、自分の罪そのもののようで、じわじわと侵食してくるようだった。
そのとき、ふと視線を感じた。輪の中から、ローがひとつ、こちらに視線を投げていた。
鋭さを潜めた目。見透かすようでいて、非難ではない。ただ、次の戦場に向けて、今何を思うのか――そう問いかけているような、静かなまなざし。nameは何も返さなかった。
あの国へ向かうという事実が、骨の髄まで凍えるほどの意味を持っていると、今は理解していた。
そして、再びドフラミンゴの“領土”へ自ら足を踏み入れるということが――
どれほどの代償を伴うかも。