11_punk hazard
name
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燻るような蒸気と、時折耳の奥に響く機械音が入り混じる空気が、上陸の瞬間から肌にまとわりついてきた。遠くで甲高い警報音が鳴り、その後ろには絶えず重たい振動が鳴り続けている。パンクハザード。世界政府の手によって幾度となく用途を変えられ、今なお新たな“何か”が生成され続ける島。どこか腐食した金属の匂いと、焦げたような化学薬品の臭気が漂い、踏みしめる地面すら硬く冷たい。
立ち込める霧の中、研究棟へと続く舗装道はコンクリートの亀裂が目立ち、気温は異様に低い。
nameはヴェルゴの背を少し距離を取って追いながら、その光景に過去の記憶を呼び起こされることはなかった。ただ、どこか閉塞感に満ちた空気が身体を包むたび、自らの心音がやけに大きく響く。ドフラミンゴの影から久方ぶりに離れてなお、心には未だ彼の刻印が焼きついているようで、その残り香を消し去るには、まだ時間がかかるのだと知っていた。
ヴェルゴの足取りは一切の迷いがなく、nameは彼の背中の動きに合わせるようにして歩を進める。黙っていても先を導いてくれるその存在に、無言の安心を覚える。ふと研究棟の巨大な扉が開き、内部の冷気と共に、ひときわ整った顔立ちの女が姿を現す。
長い緑の髪を揺らしながら、モネが静かに歩み寄る。白い羽が背を撫で、雪の精霊のような気配を纏っていた。彼女の金の瞳がnameを捉える。目元にわずかに浮かぶ笑み、それが過去に確かに交わした挨拶の名残であると、すぐに思い出された。
「……ご無沙汰しております、モネ様」
静かに頭を下げたnameの声は、以前よりも幾分か落ち着きと硬さを帯びていた。モネはその仕草を見て、にこりと微笑む。
「久しぶりね。元気そうで、なにより」
そのやり取りに、ヴェルゴは口を挟まず、ただ無言のまま研究棟の中へと進んでいく。nameもまた、モネの横を通り過ぎながら一礼し、濃い冷気の漂う建物の中へと足を踏み入れた。
研究棟内部は白と灰に統一された無機質な世界だった。壁を這う管、赤く点滅するランプ、そして微かに響く電子音。人の気配は少なく、ここが閉じた空間であることを強く意識させられる。nameの喉に、知らず乾いた息が引っかかる。
「案内は私が、ヴェルゴ」
モネの声が、背後から柔らかく届く。ヴェルゴは顎を一度だけ動かし、それに応じる。nameはその流れに従い、研究施設の奥へと足を進める。通路の先、薄く靄がかかるガラス扉の向こうには、別の世界が待っているような錯覚があった。
nameは思った。この場所が、何を造り、何を奪うのか。ここに自分が足を踏み入れた意味を、まだ知らぬまま。だが確かに、その先へ進むしか道はないのだと、静かに胸の奥で呟いた。
研究棟の奥へと続く廊下は、無音の冷気を孕んでいた。足元にわずかに響くヒールと軍靴の音が、真っ白な壁と天井に反響して、まるで閉ざされた世界の心音のように脈打つ。先を行くモネの羽がかすかに揺れ、淡く照らされた照明の下で、白銀の羽毛が一瞬だけ光を反射した。
その背に続くnameは、僅かに身を縮こませながら歩いていた。気温の低さだけではない。身体に貼りつくようなこの無機質な空気は、ドフラミンゴの腕の中にいた日々とはまるで異なる――今ここにあるのは“個人”ではなく、“素材”として見られる世界だと、肌が敏感に察知していた。けれどnameは歩みを止めなかった。この場所に来たのは、自らの意志であり、あの人のため。その一点だけが心の中に熱を灯していた。
「こっちよ、マスターが待っているわ」
モネが立ち止まり、緩やかに手を掲げる。分厚い隔壁がゆるりと開き、冷気を伴って実験室の奥の部屋が現れる。中は広く、中央には奇妙な形のタンクや、管で繋がれた円筒状の装置、散乱した資料や試験器具が所狭しと並べられていた。
そしてその中心に立つのは、白衣の男――シーザー・クラウン。その長い黒髪と異様な笑みを浮かべた顔には、狂気と自負が入り混じっている。ガラスのゴーグル越しの視線が、開いた扉の奥から現れた三人をまっすぐに捉えた。
「おお、来たか。ヴェルゴ、ようやくかよ……まったく、ずいぶん待たせやがって」
気だるげな口調でそう言いながらも、シーザーの声にはどこか抑えきれない興奮が滲んでいた。ヴェルゴは変わらぬ無表情で室内に入り、手に持っていた小さなケースを金属台の上に置く。
「言われていた資材と試薬、量は十分だ。これで足りるらしい」
「あァ?そりゃ当然だ。オレが言った通りに揃えたんだからなァ」
得意げに笑うシーザーの目が、次の瞬間――nameへと向けられる。その瞳が一度だけ細められた。
「……で?そっちのは?」
ヴェルゴは一瞬だけ視線をnameに流し、それからシーザーの方へと戻す。
「お前が“被験者”を欲しがっていたな。ジョーカーの指示で、こいつを連れてきた。今は……お前の実験に耐えうる状態にある」
「ほぉ……」
シーザーの口元がゆるく持ち上がる。まるで珍しい玩具でも手に入れたかのように、ゆっくりと歩み寄る。nameの前に立つと、顔を近づけ、あからさまに値踏みするような視線を送った。身長も体格もnameより大きい男が、意図的に威圧するような気配を纏っていたが、nameはそれを黙って受け入れた。ただ、背筋を伸ばし、伏し目がちに目線だけを合わせる。
「なかなか面白い。見た目は悪くないし……なにより、いい匂いがするなァ……」
低く嗤う声に、nameはかすかに喉を動かす。
「……はじめまして、シーザー様。nameと申します。以後……よろしくお願いいたします」
言葉は丁寧で、声も落ち着いていたが、その内側では微かな緊張の糸が張り詰めている。シーザーはそんなnameの態度を面白がるように観察し、にやりと笑った。
「ほぉん?丁寧だな。お利口ちゃんってワケだ。……使えそうじゃねェか」
モネがそっと後ろから近づき、静かに告げる。
「マスター、彼女の部屋の準備は整ってるわ。すぐに案内します」
「よしよし。大事な素材だからなァ……壊さねェように、大事に扱わねェと」
そう言いながら、シーザーは片手でnameの顎を持ち上げ、ふと真剣な目でその顔を覗き込んだ。数秒の沈黙。そして興味深そうにふっと笑う。
「……面白くなりそうだぜ。いいモン連れてきてくれたな、ヴェルゴ」
「……ああ。成果を出せ」
その短い応答とともに、ヴェルゴは部屋の奥へと進み、実験資料の棚に目をやる。nameは、シーザーの手が離れるとそっと一礼し、モネの方へと歩み寄る。
静かに始まる、パンクハザードでの新たな日々。そこには、かつてとは違う重みと、確かな緊張感が、音もなく横たわっていた。
ヴェルゴが去る支度を始めたのは、シーザーとの会話が一段落した後だった。淡々と必要な引き継ぎを終え、nameに視線を向けることもなく、長いコートを翻し廊下へと向かうその背には、揺るがぬ任務の重みが纏わりついているようだった。
「ヴェルゴ様……」
思わず口をついて出た呼びかけに、彼はようやく振り返った。いつもの無表情のまま、わずかに顎を上げ、僅かに細められた眼差しがnameを見据える。
「無理はするな。ここは、使えるものだけが生き残る場所だ」
それは忠告のようでもあり、見送りの言葉のようでもあった。頷いたnameの前を通りすぎ、足音も静かに、彼はパンクハザードの外へと消えていった。
ヴェルゴの姿が見えなくなった廊下に、再び静寂が戻る。冷たい壁と蛍光灯の無機質な光が、さっきまでの出来事すら幻のように思わせる。
「じゃあ、こっちよ」
再び柔らかな声が響いた。モネが立ち位置を変え、nameの横に並ぶ。緑の羽根が揺れるたび、冷たい空気がかすかに流れ込み、nameの薄衣の裾がそれに応えるように揺れた。
「name、あなたの部屋へ、案内するわ。……でも」
一歩歩き出したモネが、振り向かずに続ける。
「休むのは、あと。初日の検査があるから、用意ができたら、すぐにマスターの元へ」
指先で扉を開けられた廊下の先には、幾つも似たような部屋が並んでいた。まるで病棟のような均一な構造。どこも同じ白、同じ光、同じ匂い。nameはその中のひとつに通される。
「用意ができたら、外に出てきてちょうだい」
そう告げて、モネはnameを残して去っていく。閉じられたドアの音が、重く響く。
部屋の中は、予想以上に殺風景だった。鉄製のベッドに、最低限の棚、洗面台と、細い机と椅子。壁には何も飾られておらず、窓もない。ただ淡い青白い照明が、常夜灯のように天井から照りつけているだけ。
ベッド脇の小さな鞄を開け、nameは自分の持ってきた荷物を押し込むようにして棚に収めた。香油の瓶、着替え用の布地、クロコダイルから贈られた小さなシガーケース。ひとつひとつが、此処とは違う空気の名残を宿していて、それがかえって場違いなほど温かく感じられた。
深く、息を吐く。呼吸ひとつすら乾いた室内に吸い込まれていくような、静けさ。目を閉じる時間も惜しいほどに、もう次が待っている。
nameは鏡の前に立ち、衣服の乱れを整えた。唇の色を確かめ、瞼にうっすらと影を指でなぞる。化粧を整えるような余裕はないが、それでも最低限の“人”としての輪郭を保つように。
――これから始まるのは、演技でも奉仕でもない。
“観察される”という名の、消耗戦。
鏡の奥の自分に、何かを誓うように一度頷くと、nameは静かに呼び鈴へと指を伸ばした。扉の向こう、冷たい科学の世界が待っている。身体と心を切り分ける準備など、とっくに済んでいた。
外に出る扉にかけた指先に、わずかな緊張が宿っていた。扉が外に開け放たれた瞬間、それはこの場所での最初の“選択”として、確かに響いた。
数分もしないうちに、モネがやってくる。変わらぬ微笑をたたえているが、その奥にあるものが本当の情緒かどうかはわからない。
「用意できたようね。じゃあ、ついてきてちょうだい」
そうしてたどり着いたのは、ひときわ分厚い扉の前だった。金属製のそれは、内側の機密を守るために閉じられた壁のようでもあり、一歩入ればそのまま飲まれてしまうような冷たい圧があった。
扉が開く。最初に通された部屋とは違う。室内は思っていたよりも広く、そして無機質だった。鋼鉄とガラスが支配する空間。中央にはモニターや医療機器のようなものが並び、部屋の奥には薬品の匂いが立ち込める棚。だがそれらのどれよりも目を引くのは、空間の中央に立っていた男の姿だった。
「シュロロロロロ…こいつが…例の“ジョーカー”の可愛いペットってわけか……」
蛇のようにと笑いながら、シーザー・クラウンはnameを見下ろした。白衣の下から覗く派手なシャツ、無造作に広がった髪と、乾いた目の奥にある異常な輝き。その男が発するのは、言葉よりも先に“好奇心”の気配だった。知識欲でも支配欲でもない。純粋な実験者の目。
「やれやれぇ〜、ずいぶん手間かけてくれたなあ、ヴェルゴ……いや、あいつも“ジョーカー”の頼みじゃ逆らえねェか。へっへっ」
nameは姿勢を崩さず、ゆっくりと頭を下げる。
「……本日よりお世話になります、シーザー様」
その一言にも、少しの緊張が滲んだ。が、シーザーはそれを愉しむように片眉を持ち上げた。
「へぇ〜、“様”付けとは丁寧じゃねェか。おいおい、“あの男”に飼われてりゃ、多少はマナーも仕込まれるってか?」
手元のタブレットを軽く叩きながら、シーザーは笑みを深めた。その目はもう、nameの全身を分析するように動いている。
「さてと……見た目はまずまず、状態は……うーん、ジョーカー好みの“壊れかけ”って感じか……」
ぼそぼそと呟かれる言葉の端々に、nameの肩がわずかに揺れる。だが声を発することなく、ただ静かに視線を落とすことでその場をやり過ごした。
「ま、とにかく今日は“初日”だからな。まずは基礎のデータ採取ってやつだァ」
シーザーは近くの装置のスイッチを入れると、椅子を指差した。
「そこ、座んな。モネ、血液と唾液、あと体温、脈拍も頼むぜ。んで、数値は全部俺にリアルタイムで送っとけ」
「かしこまりました、マスター」
モネが静かに応じると、装置が作動し、淡く青い光が室内を包んだ。nameは促されるまま椅子に腰を下ろす。金属の冷たさが背中と太腿に吸いつくように触れ、脈拍が意識の外へと追い出せないほどに早くなる。
「そうそう……その顔、その顔だよ。いいねェ……観察しがいがある」
シーザーの笑みは終始歪んだままだった。医師でもなく、拷問者でもない。その中間に位置する異物。だが、それがこの施設の“管理者”なのだと、肌に刻み込まれるように理解するには十分だった。
そして、始まる。
nameにとっては、“検査”という名の、最初の分解。
表情、声の揺れ、皮膚の色、全てが測られ、記録されていく。
この先、自分の身体のすべてが“データ”として管理されるのだという現実が、薄い衣服の上からすら伝わってくる。
冷たい測定器の先端が、皮膚をなぞるたび。
モネの指先が、事務的に体温計を挿し込むたび。
そしてシーザーの目が、ぞんざいな愉しみを含んでこちらを覗くたび。
それらすべてが、“人”であるはずの境界を曖昧にしていく。
まるで、剥がされるように。
ただの“素材”として――今、nameはシーザーの記録簿のなかに置かれた。
立ち込める霧の中、研究棟へと続く舗装道はコンクリートの亀裂が目立ち、気温は異様に低い。
nameはヴェルゴの背を少し距離を取って追いながら、その光景に過去の記憶を呼び起こされることはなかった。ただ、どこか閉塞感に満ちた空気が身体を包むたび、自らの心音がやけに大きく響く。ドフラミンゴの影から久方ぶりに離れてなお、心には未だ彼の刻印が焼きついているようで、その残り香を消し去るには、まだ時間がかかるのだと知っていた。
ヴェルゴの足取りは一切の迷いがなく、nameは彼の背中の動きに合わせるようにして歩を進める。黙っていても先を導いてくれるその存在に、無言の安心を覚える。ふと研究棟の巨大な扉が開き、内部の冷気と共に、ひときわ整った顔立ちの女が姿を現す。
長い緑の髪を揺らしながら、モネが静かに歩み寄る。白い羽が背を撫で、雪の精霊のような気配を纏っていた。彼女の金の瞳がnameを捉える。目元にわずかに浮かぶ笑み、それが過去に確かに交わした挨拶の名残であると、すぐに思い出された。
「……ご無沙汰しております、モネ様」
静かに頭を下げたnameの声は、以前よりも幾分か落ち着きと硬さを帯びていた。モネはその仕草を見て、にこりと微笑む。
「久しぶりね。元気そうで、なにより」
そのやり取りに、ヴェルゴは口を挟まず、ただ無言のまま研究棟の中へと進んでいく。nameもまた、モネの横を通り過ぎながら一礼し、濃い冷気の漂う建物の中へと足を踏み入れた。
研究棟内部は白と灰に統一された無機質な世界だった。壁を這う管、赤く点滅するランプ、そして微かに響く電子音。人の気配は少なく、ここが閉じた空間であることを強く意識させられる。nameの喉に、知らず乾いた息が引っかかる。
「案内は私が、ヴェルゴ」
モネの声が、背後から柔らかく届く。ヴェルゴは顎を一度だけ動かし、それに応じる。nameはその流れに従い、研究施設の奥へと足を進める。通路の先、薄く靄がかかるガラス扉の向こうには、別の世界が待っているような錯覚があった。
nameは思った。この場所が、何を造り、何を奪うのか。ここに自分が足を踏み入れた意味を、まだ知らぬまま。だが確かに、その先へ進むしか道はないのだと、静かに胸の奥で呟いた。
研究棟の奥へと続く廊下は、無音の冷気を孕んでいた。足元にわずかに響くヒールと軍靴の音が、真っ白な壁と天井に反響して、まるで閉ざされた世界の心音のように脈打つ。先を行くモネの羽がかすかに揺れ、淡く照らされた照明の下で、白銀の羽毛が一瞬だけ光を反射した。
その背に続くnameは、僅かに身を縮こませながら歩いていた。気温の低さだけではない。身体に貼りつくようなこの無機質な空気は、ドフラミンゴの腕の中にいた日々とはまるで異なる――今ここにあるのは“個人”ではなく、“素材”として見られる世界だと、肌が敏感に察知していた。けれどnameは歩みを止めなかった。この場所に来たのは、自らの意志であり、あの人のため。その一点だけが心の中に熱を灯していた。
「こっちよ、マスターが待っているわ」
モネが立ち止まり、緩やかに手を掲げる。分厚い隔壁がゆるりと開き、冷気を伴って実験室の奥の部屋が現れる。中は広く、中央には奇妙な形のタンクや、管で繋がれた円筒状の装置、散乱した資料や試験器具が所狭しと並べられていた。
そしてその中心に立つのは、白衣の男――シーザー・クラウン。その長い黒髪と異様な笑みを浮かべた顔には、狂気と自負が入り混じっている。ガラスのゴーグル越しの視線が、開いた扉の奥から現れた三人をまっすぐに捉えた。
「おお、来たか。ヴェルゴ、ようやくかよ……まったく、ずいぶん待たせやがって」
気だるげな口調でそう言いながらも、シーザーの声にはどこか抑えきれない興奮が滲んでいた。ヴェルゴは変わらぬ無表情で室内に入り、手に持っていた小さなケースを金属台の上に置く。
「言われていた資材と試薬、量は十分だ。これで足りるらしい」
「あァ?そりゃ当然だ。オレが言った通りに揃えたんだからなァ」
得意げに笑うシーザーの目が、次の瞬間――nameへと向けられる。その瞳が一度だけ細められた。
「……で?そっちのは?」
ヴェルゴは一瞬だけ視線をnameに流し、それからシーザーの方へと戻す。
「お前が“被験者”を欲しがっていたな。ジョーカーの指示で、こいつを連れてきた。今は……お前の実験に耐えうる状態にある」
「ほぉ……」
シーザーの口元がゆるく持ち上がる。まるで珍しい玩具でも手に入れたかのように、ゆっくりと歩み寄る。nameの前に立つと、顔を近づけ、あからさまに値踏みするような視線を送った。身長も体格もnameより大きい男が、意図的に威圧するような気配を纏っていたが、nameはそれを黙って受け入れた。ただ、背筋を伸ばし、伏し目がちに目線だけを合わせる。
「なかなか面白い。見た目は悪くないし……なにより、いい匂いがするなァ……」
低く嗤う声に、nameはかすかに喉を動かす。
「……はじめまして、シーザー様。nameと申します。以後……よろしくお願いいたします」
言葉は丁寧で、声も落ち着いていたが、その内側では微かな緊張の糸が張り詰めている。シーザーはそんなnameの態度を面白がるように観察し、にやりと笑った。
「ほぉん?丁寧だな。お利口ちゃんってワケだ。……使えそうじゃねェか」
モネがそっと後ろから近づき、静かに告げる。
「マスター、彼女の部屋の準備は整ってるわ。すぐに案内します」
「よしよし。大事な素材だからなァ……壊さねェように、大事に扱わねェと」
そう言いながら、シーザーは片手でnameの顎を持ち上げ、ふと真剣な目でその顔を覗き込んだ。数秒の沈黙。そして興味深そうにふっと笑う。
「……面白くなりそうだぜ。いいモン連れてきてくれたな、ヴェルゴ」
「……ああ。成果を出せ」
その短い応答とともに、ヴェルゴは部屋の奥へと進み、実験資料の棚に目をやる。nameは、シーザーの手が離れるとそっと一礼し、モネの方へと歩み寄る。
静かに始まる、パンクハザードでの新たな日々。そこには、かつてとは違う重みと、確かな緊張感が、音もなく横たわっていた。
ヴェルゴが去る支度を始めたのは、シーザーとの会話が一段落した後だった。淡々と必要な引き継ぎを終え、nameに視線を向けることもなく、長いコートを翻し廊下へと向かうその背には、揺るがぬ任務の重みが纏わりついているようだった。
「ヴェルゴ様……」
思わず口をついて出た呼びかけに、彼はようやく振り返った。いつもの無表情のまま、わずかに顎を上げ、僅かに細められた眼差しがnameを見据える。
「無理はするな。ここは、使えるものだけが生き残る場所だ」
それは忠告のようでもあり、見送りの言葉のようでもあった。頷いたnameの前を通りすぎ、足音も静かに、彼はパンクハザードの外へと消えていった。
ヴェルゴの姿が見えなくなった廊下に、再び静寂が戻る。冷たい壁と蛍光灯の無機質な光が、さっきまでの出来事すら幻のように思わせる。
「じゃあ、こっちよ」
再び柔らかな声が響いた。モネが立ち位置を変え、nameの横に並ぶ。緑の羽根が揺れるたび、冷たい空気がかすかに流れ込み、nameの薄衣の裾がそれに応えるように揺れた。
「name、あなたの部屋へ、案内するわ。……でも」
一歩歩き出したモネが、振り向かずに続ける。
「休むのは、あと。初日の検査があるから、用意ができたら、すぐにマスターの元へ」
指先で扉を開けられた廊下の先には、幾つも似たような部屋が並んでいた。まるで病棟のような均一な構造。どこも同じ白、同じ光、同じ匂い。nameはその中のひとつに通される。
「用意ができたら、外に出てきてちょうだい」
そう告げて、モネはnameを残して去っていく。閉じられたドアの音が、重く響く。
部屋の中は、予想以上に殺風景だった。鉄製のベッドに、最低限の棚、洗面台と、細い机と椅子。壁には何も飾られておらず、窓もない。ただ淡い青白い照明が、常夜灯のように天井から照りつけているだけ。
ベッド脇の小さな鞄を開け、nameは自分の持ってきた荷物を押し込むようにして棚に収めた。香油の瓶、着替え用の布地、クロコダイルから贈られた小さなシガーケース。ひとつひとつが、此処とは違う空気の名残を宿していて、それがかえって場違いなほど温かく感じられた。
深く、息を吐く。呼吸ひとつすら乾いた室内に吸い込まれていくような、静けさ。目を閉じる時間も惜しいほどに、もう次が待っている。
nameは鏡の前に立ち、衣服の乱れを整えた。唇の色を確かめ、瞼にうっすらと影を指でなぞる。化粧を整えるような余裕はないが、それでも最低限の“人”としての輪郭を保つように。
――これから始まるのは、演技でも奉仕でもない。
“観察される”という名の、消耗戦。
鏡の奥の自分に、何かを誓うように一度頷くと、nameは静かに呼び鈴へと指を伸ばした。扉の向こう、冷たい科学の世界が待っている。身体と心を切り分ける準備など、とっくに済んでいた。
外に出る扉にかけた指先に、わずかな緊張が宿っていた。扉が外に開け放たれた瞬間、それはこの場所での最初の“選択”として、確かに響いた。
数分もしないうちに、モネがやってくる。変わらぬ微笑をたたえているが、その奥にあるものが本当の情緒かどうかはわからない。
「用意できたようね。じゃあ、ついてきてちょうだい」
そうしてたどり着いたのは、ひときわ分厚い扉の前だった。金属製のそれは、内側の機密を守るために閉じられた壁のようでもあり、一歩入ればそのまま飲まれてしまうような冷たい圧があった。
扉が開く。最初に通された部屋とは違う。室内は思っていたよりも広く、そして無機質だった。鋼鉄とガラスが支配する空間。中央にはモニターや医療機器のようなものが並び、部屋の奥には薬品の匂いが立ち込める棚。だがそれらのどれよりも目を引くのは、空間の中央に立っていた男の姿だった。
「シュロロロロロ…こいつが…例の“ジョーカー”の可愛いペットってわけか……」
蛇のようにと笑いながら、シーザー・クラウンはnameを見下ろした。白衣の下から覗く派手なシャツ、無造作に広がった髪と、乾いた目の奥にある異常な輝き。その男が発するのは、言葉よりも先に“好奇心”の気配だった。知識欲でも支配欲でもない。純粋な実験者の目。
「やれやれぇ〜、ずいぶん手間かけてくれたなあ、ヴェルゴ……いや、あいつも“ジョーカー”の頼みじゃ逆らえねェか。へっへっ」
nameは姿勢を崩さず、ゆっくりと頭を下げる。
「……本日よりお世話になります、シーザー様」
その一言にも、少しの緊張が滲んだ。が、シーザーはそれを愉しむように片眉を持ち上げた。
「へぇ〜、“様”付けとは丁寧じゃねェか。おいおい、“あの男”に飼われてりゃ、多少はマナーも仕込まれるってか?」
手元のタブレットを軽く叩きながら、シーザーは笑みを深めた。その目はもう、nameの全身を分析するように動いている。
「さてと……見た目はまずまず、状態は……うーん、ジョーカー好みの“壊れかけ”って感じか……」
ぼそぼそと呟かれる言葉の端々に、nameの肩がわずかに揺れる。だが声を発することなく、ただ静かに視線を落とすことでその場をやり過ごした。
「ま、とにかく今日は“初日”だからな。まずは基礎のデータ採取ってやつだァ」
シーザーは近くの装置のスイッチを入れると、椅子を指差した。
「そこ、座んな。モネ、血液と唾液、あと体温、脈拍も頼むぜ。んで、数値は全部俺にリアルタイムで送っとけ」
「かしこまりました、マスター」
モネが静かに応じると、装置が作動し、淡く青い光が室内を包んだ。nameは促されるまま椅子に腰を下ろす。金属の冷たさが背中と太腿に吸いつくように触れ、脈拍が意識の外へと追い出せないほどに早くなる。
「そうそう……その顔、その顔だよ。いいねェ……観察しがいがある」
シーザーの笑みは終始歪んだままだった。医師でもなく、拷問者でもない。その中間に位置する異物。だが、それがこの施設の“管理者”なのだと、肌に刻み込まれるように理解するには十分だった。
そして、始まる。
nameにとっては、“検査”という名の、最初の分解。
表情、声の揺れ、皮膚の色、全てが測られ、記録されていく。
この先、自分の身体のすべてが“データ”として管理されるのだという現実が、薄い衣服の上からすら伝わってくる。
冷たい測定器の先端が、皮膚をなぞるたび。
モネの指先が、事務的に体温計を挿し込むたび。
そしてシーザーの目が、ぞんざいな愉しみを含んでこちらを覗くたび。
それらすべてが、“人”であるはずの境界を曖昧にしていく。
まるで、剥がされるように。
ただの“素材”として――今、nameはシーザーの記録簿のなかに置かれた。