センチメンタルジャーニー
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『サンジさん、』
あの子は俺を見て、柔らかく微笑む。危なっかしい足取り(あの黒いハイヒールは確かに似合っていたけれど)で、甘い香りを漂わせながら。一歩一歩嬉しげに近づいてきて、
今から85時間前、彼女が泣きながら俺に言った。嘘つき。
それから72時間と10分後に四回目のあの子の夢を見た。あのとき自分から突き放しておいて勝手な話だ。まだ、君のことがあたまから離れないなんて。
まるで話にならない、甘ったるい感傷に浸りながらぼんやりとカフェの窓から外を眺める。ここの甘ったるいアップルパイは、きっとあの子が好きな味だ。若干フィリングの味がしつこいけれど。砂糖を少し控えて、シナモンとレモンをもう少しきつめにして、仕上げにホイップクリームとバニラアイス。アップルパイにアールグレイは香りがきつすぎるから、例えばアッサムに、甘党な彼女だったら練乳でも入れたがるのかもしれない。気取ったしぐさでティーカップを手に持って、俺を見て、
何回だって思い出して、その度にセンチメンタルになる。まるで、平凡でどこかずれてる誰かさんみたいに。彼女と同じ栗色の髪の毛を目で追った。一瞬あのときと同じ甘ったるい香りがした気がして、我に返ったら目の前の男は怪訝な顔で俺を見つめていた。
「で、あいつはどこに連れていかれたって?」
「…オーストリアのドクトル・ホグバッグ研究所。予定外の事態みたいだが『ランブル』がデータごと消えたらしい。回収任務についてた奴が1人裏切ったって話だけど」
「…あぁそれ、俺。」
「はぁ!?お前、何言って、つーかじゃあ『ランブル』は、」
「俺が持ってる。で、今から開発者を迎えにいくところ。」
「…何でまたお前、そんな物騒なことしてんだよ…」
心底あきれたみたいな顔。まったく、スパイだの任務だの、裏切っただの。非現実的すぎていやになる。一見一般人にみえるこいつだって国家の機密情報すら易々と盗み出すハッカーだ。この男は顔立ちからして非現実的だけれども。あの子なら、小説か映画みたいだと笑うんだろう。住む世界が違うなんて事はわかっていても気がついたら考えている。この状況が全部嘘だったらいいのに。もしくは、嘘が本当だったらいいのに。
恋はいつでもハリケーンなんだよ、相変わらず怪訝な顔をする相手に上の空で返した。
「いや、訳わかんねぇし。」
「訳もなにも、そのまんまの意味、いや、違ぇ訳はあるんだが」
「……相変わらずだよなお前…」
「どういう意味だよ、長っ鼻。」
こんな風に会話する間も、彼女のことがあたまから離れない。笑った顔、柔らかい声、華奢な手。大した事もない平凡な出来事すらおとぎ話なんかに当てはめてみたりして。そういえばあの子のハイヒールは少しガラスの靴じみていたかもしれないな、シンデレラなんて呼んだらどんな顔をしただろう。顔を少し赤くして、それからあきれたみたいに笑って、
「……ジ、サンジ。おい、」
「なァ、お姫様をさらって逃避行ってどう思う?」
「…お前、大丈夫か…?」
*
店を出て通りを歩きながら、頭の中でまたあの子の声を反芻している。平凡でセンチメンタルで、多分もう二度と会うことのない彼女。笑った顔、俺のことをからかうときの嬉しそうな声、それから。
今から86時間前、あの子は泣きながら言った。嘘つき。
煙草に火をつけて深く吸い込んだ。昇っていく煙をぼんやりと眺める。さっきの店のアップルパイは、生地にバターが足りていなかったかもしれない。性懲りもなくそんな事を考えた。
*
幸せそうに微笑む彼女を眺めていた。その隣で照れ臭そうに笑うのは、私の初恋のひと。一週間前、飛行機に乗っていたときの予定だったら、私はもっと甘ったるい感情で頭を一杯にしてここに座っているはずだったんだけど。
親友と初恋のひと。二人の幸せを願いながら、平凡な女は涙にくれるのでした。そんなよくある失恋物語に自分を当てはめてみたりして、式がおわったら実家から、1人でセンチメンタルジャーニーへ。感傷的な気分を吹き飛ばしてくれる痛快なスパイ小説と、遅ればせながらのバカンスを楽しむためのガイドブックをトランクに詰め込んで、でもひと夏のアバンチュールなんてのは想像のなかだけの話。実際はそんなの起こりっこないって知っているのに、センチメンタルジャーニーなんて洒落てみて。
彼と一瞬だけ目があったので、微笑みかけたらあからさまに安心したような顔をする。あの人に少し似てる、性懲りもなくまだ私は考えている。小さな蜘蛛に怯えてるときのなっさけない顔。そういえば私が泣き止んだときにも、あんな風に笑ったっけ。
結局似たようなものなのかもしれなかった。相手が違うだけで、やっぱり私はセンチメンタルな気分に浸りながら彼女たちに笑いかける。失恋の相手が、違うだけ。忘れようとする度に私を悲しくさせる、甘い夢を見てただけなのに。私は多分、まだ彼に恋してるんだろう。きっとこれから先も、耳の奥に響く声を何回だって思い出す。甘くて低い、癖のあるあの声。ひんやりした手で私を抱き上げて、軽やかに笑う。銃弾の雨だって、真っ昼間のカーチェイスだって、何でもないことみたいに。
…忘れられる、わけがない。そんなセンチメンタルは前にも味わったことがある。ひとつだけ違うのは、あの人にはもう二度と会えないって所だけ。私の手に入らなくたっていいから、こんなふうに眺めてるだけでもできたらいいのに。それすらも叶わない願望だ。住む世界が、違うんだから。
おめでとう、そう呟いたのは本心からで、ニューヨークのアパートを出るときに決めていた目標が密かに達成されたのに気づいた。初恋に蹴りをつけるためのセンチメンタルジャーニー。悪夢みたいな一週間前が過ぎ去ったあとには全てが予定通りの日常が待っていた。ハイスクール時代の懐かしい面子とグラスを付き合わせる。そう、全て、予定通り。
私は予定通りにこうして親友の結婚式に参加して、……予定、通り?
何か、妙。
唐突に感じた違和感の理由を考えながら、グラスに注がれたワインを一口。…やっぱり、美味しくない。
予定通りなんて、やっぱり妙だ。上の空で考える私を、親友が心配そうな顔で見ていた。今日は彼女の結婚式だ。私は、今日から丁度8日前にボストンに着くようにチケットを取った。そして今、予定通り私は結婚式に出席している。
「…ナマエ?大丈夫?」
「あ、うん、いや、ちょっとね、」
サンジさんにあったのが8日前。次の日からしばらく彼と一緒に行動して、私はボストンに帰ってきた。週末までに君をボストンで。彼は言った。そしたら、結婚式に間に合うだろ?その予定通り、その日からきっかり四日後に私は帰ってきた。そう、予定通りに、
「……ごめん、私、帰る。」
「えっ、ちょっと、ナマエ!」
「ほんとごめん、おめでとう!」
「あ、ありがとう、ってそうじゃなくて!」
やっぱりおかしい。サンジさんとあんな風に別れたのに 、何で私は予定通りボストンにいる?もしかして、あれは全部、予定通り?勘違いかもしれないけど、あの人ならあり得るかもしれない。いつも通り根拠はないんだけど、もしかして、
「ちょっと急用ができたの!ほんとごめん、」
「急用って、…こんな夜中にどこ行くのよ、」
どこって、センチメンタルジャーニーの続きに。誰かさんみたいに気障な台詞。流石に言うのは恥ずかしいから、頭の中で呟いた。顔の火照りを冷ましながら、なにかにせかされてるような気分で車に乗り込む。やっぱり、ワインなんて飲まなくて正解だった。
*
「ミッドナイトレイディオ48チャンネル、時刻は11時20分、今夜のご機嫌なメローチューンはこの曲からスタートしよう、」
カーラジオがハイテンションで時刻を告げた。流れ出すセレナーデに耳を傾けながら熱に浮かされたみたいな頭で次々と馬鹿みたいな考えが浮かんでは消えていく。空にはぽっかりと穴を開けたみたいに綺麗な月が浮かんでいる。作り物みたいな綺麗な月。
希望的観測にも程があるけど、それがどうしたって言うんだろう?例えば、あのときの私の取った行動だって、サンジさんの予定通りだったとしたら?
ずっと感じていた違和感の正体を突き止めたような気がした。彼が、あのサイコパスで気障で物騒な彼が、私の素人な尾行に気づかない訳がない。
例えば、盗み聞きされることも知っていて、バルコニーで迂闊なふりして電話をする。そのあとはわざと尾行させて、私を家に帰した。カフェでわざわざ窓際の席に座った理由は、あの会話を私に聞かせるため。自分を追っている組織と手を組ませれば、ボストンに帰ってから私が狙われることはない。
馬鹿みたいな想像だ。根拠なんて、もちろんない。私は利用されただけで、彼はもう死んでいて。いつもだったらそう考えたはずだ。根拠なんて、せいぜい彼の死体が見つからなかったってことだけだ。
誰かが笑っている、と思ったらそれは自分の喉がたてた音だった。心底愉快そうな笑い声。思い出すのはもちろんあの人のことで、相変わらずのセンチメンタルが私を突き動かした。
根拠なんて、ない。だけど、それがどうしたって言うんだろう?彼が死んでいたら?生きていたとしても、私のことなんてどうだってよかったら?確かめなければわからないことだ。嘘臭い月明かりのなかで車を走らせる。ラジオから流れるのは、いつだったかサイコパスが鼻唄で歌っていた曲だ。
「次にご紹介するのは、こんな風な月夜にぴったりの一曲、『night and day』」
ご機嫌なDJの声に続いて、甘ったるいボーカルが流れ出す。近くても遠くても、朝だろうが夜だろうが、考えるのはあなたのこと。まるで歯の浮く、気障ったらしい歌詞だ。あの人にぴったりの、もしかしたら、センチメンタルな私にもぴったりの。
すむ世界が違おうが、あなたが遠くに行ってしまおうが、なんちゃって。ボーカルにあわせて歌いながら、私は無鉄砲な計画を立てていた。唐突に始まったこの恋に蹴りをつけなくては。悪夢みたいに現実味のない、でも目一杯に甘くてロマンチックな私のセンチメンタルジャーニーに。
*
ただの勘だった。
カリファさんの言っていた、外国の製薬会社。ローマで私を拉致監禁したジャブラさんはそこの一員だろう。サンジさんは薬を売る前に消えてしまったから、きっと彼らは『ランブル』を手に入れていないはず。心当たりはCP9製薬だけど、カリファさんはまだサンジさんの死体を見つけられていない。だとしたら、唯一の心当たりは、きっと。
無事で帰れるなんて、そもそも思っていなかった。口封じに殺されるんじゃなかったら、私が余計なことを喋らないようにしばらく監視をつける筈。まぁ、小さい頃に読んだスパイ小説のシナリオで行けば、なんだけど。
気分は女スパイ、がらじゃないけどつべこべ言わないことにする。スパイの常套手段はきっと、監視・尾行、それから、そう、盗聴。
携帯電話は盗聴されやすいって、言ってたのは誰だっけ。そんなことを考えながら自宅の番号をダイヤルする。留守電に切り替わった瞬間に、早口で伝言を残した。あ、やばい。緊張しすぎて噛んじゃった。
「盗聴してるあなたに、愛を込めて…『ランブル』を持ってる。取引しましょ。 」
ただの勘だった。あんまり成功するとも思ってなかったんだけど。
*
人気のない広い道路。随分頑張って逃げ回ったけど、ここが行き止まりだ。車からぞろぞろと降りてくる男たちににっこり微笑みかけた。
「『ランブル』はここにある。欲しかったら取りに来て、」
まぁ、偽物なんですけどね。頭の中で言い終わる前に後ろからなにかを被せられて目の前が真っ暗になった。乱暴に縛り上げられて、なんだか狭い所に放り投げられる。背中が痛い…あーあ、大成功って所だ。車のトランクルームに閉じこめて拉致監禁なんて、使い古された悪役の手口。相変わらず悪夢みたいに始まる私のセンチメンタルジャーニーは、今度はどんな終わりかたをするんだろう?
瞼の裏に浮かぶサンジさんの情けない顔を思い浮かべて、私は密かに笑った。
こんなときなのに、ハッピーエンドに繋がるささやかな根拠をひとつだけ思いだした。私とサンジさんが出会ったあの日の新聞。星座占いにはたしか、こう書いてあった筈…運命の出会いの予感。