クランケ
名前変換
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吊り橋効果、という言葉がある。
何でもどこかの大学の高名な心理学者が、念入りの実験の末に打ち出した理論らしい。
例えば吊り橋など恐怖心を感じる場所で異性と出会うと、人は吊り橋の上にいる恐怖心を恋愛のときめきと勘違いする。確かそんな感じの理屈だ。
初めてそれを聞いたときは、そんなあほな、と思った。吊り橋の恐怖心を一瞬だけ勘違いするんならまだしも、それが恋愛という形で後々まで尾を引くなんて事あるわけがない。本当にそう思っていたのだ、一週間前までは。
「…名前」
「はいっ!?」
「どこ行こうとしてる」
「…い、いやちょっと些末な用事が」
「50秒で帰ってこい。いいな。」
「…そ、そんな殺生な」
「1、2、3、4、」
「ちょっ、な、大人げな、痛っ!あ、嘘ですすみません」
ぎりぎりぎり、傷む薬指、の、あった場所を押さえながら扉から飛び出した。吊り橋効果なのかもしれない。今の私は、彼が私の指をばらして持ってるなんてそんな異常な状況すら嬉しく感じてしまうのだ。四六時中軟禁状態みたいに束縛されるのも、気まぐれにばらされた指に噛みつかれるのすら嬉しい。流石にちょっと危ないんじゃないかと思う。声を聞くだけで心臓が痛くなるし、名前なんて呼ばれてしまったら呼吸が止まりそうになる。
勝手に荒くなる呼吸を整えるために、壁に寄りかかった私を見てシャチが言った。
「…名前さぁ、あんまキャプテンのこと苛めんなよ。」
どっちが!?
声を荒げそうになってから、ここがキャプテンの部屋の前だってことを思い出して何とか堪えた。あれから一週間。左手を隠しつづけて生活するなんて無茶な話で、私の薬指のことはあっさりとクルーに知れ渡った。
いつもの悪戯だと皆が見守る視線の中で、散々薬指をいじくり倒されていい加減私はグロッキーだ。苛められてるのはキャプテンではない。私だ。相変わらず彼の行動の意味は分からなくて、彼の言った言葉の意味も分からなくて。寝不足のふらふら状態のままで シャチを睨み付けたら、もう一回念を押すみたいに言われた。あんまキャプテンのこと苛めんなよ。
「…私が苛めてるんじゃないよ…」
「キャプテンはなー、分かりにくい子なんだからお前が汲み取ってあげなきゃ駄目でしょうが。」
「な、なにそれ意味わかんない。」
「うっそつけ。薄々わかってきた癖に」
「いやまじで分かんないって、一体なに、」
一体何が言いたいの。言いかけたらぎりぎりと薬指が痛みだす。扉の向こうからキャプテンの不機嫌な声がした。
「お前の『用事』はシャチと無駄口を叩くことなのか、名前。」
…げっ、どこまで会話を聞いてたんだろう。青くなる私を残して、そそくさとシャチは去っていった。すれ違い様に、「絶対キャプテンのこと、『キャプテン』って呼ぶなよ」なんてよく分からないアドバイスを残して。…なんだそれ。謎かけ?
ビクビクしながら部屋に戻ったら、彼は意外とご機嫌な様子だった。キャプテン、そう読んじゃいけないんなら、この人の事を一体何と呼べばいいんだろう。あなた、船長、例のあの人?どっちにしろ怒られそうだな。
「そろそろ本当に、心臓切り取ってやろうか」
…勘弁してください。本当に。そう伝える代わりに薬指をめちゃくちゃに動かした。彼の手のひらの上で、じたばたと私の指が暴れまわるのが見える。…芋虫みたいだ。こういうのを、掌の上で転がされている感覚、と言うんだろうか。…多分、違うな。
一週間前に言われたあの言葉の意味を考えようとしても、寝不足の頭は上手いこと働かない。くつくつくつ、微かな笑い声を聞きながら、段々と瞼が重くなっていくのを感じた。ここ二、三日、まともに寝られていないのだ。四六時中いじくり回される指と、その度にうるさくなり響く心臓のせいで。
ぐったりとテーブルに突っ伏したら、その冷たさが妙に心地よくて起き上がりたくなくなってしまった。ずしん、重力が私にだけ三倍のしかかって来たみたいにだるい。名前、小さくキャプテン、じゃなくて例のあの人、の、声が聞こえたような気がする。柔らかい声。緩やかに心拍数が上がっていく心臓も、今度は眠りの邪魔にはならないみたいだ。目をつむったら薬指に暖かい何かが触れてから直ぐに離れた。でも私はそれが何か、なんて気にならないくらいの眠気に押し潰されて、
*
「…シャチ、毛布持ってこい」
「はいはいっ」
「はい、は一回でいい」
「はいはいっ」
「……」
キャプテンの指が名前の髪の毛に触れて、直ぐに離れるのを見てから毛布を取りに走る。散々ちょっかいを出されて寝不足の名前は可哀想ではあるけど、何だかんだ奴も幸せそうだからそれはそれでいいんじゃないかと思う。
キャプテンは、名前の事が大好きだ。それが恋愛感情なのか は別として、おもちゃだろうが実験体だろうが何か特別な存在な事には変わりない。と、思ってたんだけど。
薬指を取られたなんて名前の話を聞いて、ああキャプテンは本格的にこいつにやられてんだなぁなんてしみじみ思ってしまった。勿論、恋愛的な意味で。だって左手の薬指なんてまるで結婚指輪じゃないか。そんな事を考えるのはいささかロマンチックすぎだろうか?あの人はあんななりして、意外とロマンチストな所があると思うんだけど。
ともあれ、気の毒なのは名前だ。いきなり薬指を取られて怯えるあいつは、まるで実験動物のモルモットみたく憐れだ。きっとそんなところがキャプテンの中のサデイスティック的なあれを擽るんだろう。幸せそうだからってのはつまり、あいつ自身無意識ではあるけどキャプテンの気まぐれな悪戯を楽しみにしてるみたいな節があるからだ。
好きな子に悪戯するなんてガキみたいなサデイスティックを丸出しにするキャプテンと、その好意に薄々気づきながらはぐらかし続ける名前。はぐらかせばはぐらかす程、事態はこじれるなんて事はとっくに気付いてるんだろう。今の状況は、だからあいつの自業自得と言えなくもない。俺から見たら、マゾヒスティックな香りのする名前とやたらと嗜虐的なキャプテンは中々にお似合いだ。なんかものすごく病的な香りがするから、別に羨ましくはないけれど。俺はもっとこう、ノーマルに可愛らしい女の子がいい。できればボンキュッボンで金髪の…え?そんな事より早く毛布持ってけって?
「…分かってねぇなぁ、毛布持ってこいってのはつまり、しばらく二人きりにしろって事なんだよ、ペンギン。」
「さすがに深読みだろ、それは…」
「いーや違うね。キャプテンはそろそろ痺れを切らす頃だと思うね、俺は。」
「痺れを切らすって、…」
「だってキャプテンさぁ、大好きじゃん、名前のカラダ。」
「ああ、確かに。」
「もしかしたらさ、今ごろあいつ、」
「…ホルマリン漬け?」
「…人体解剖かもしれないぜ」
あの人の愛情がどんなもんなのかは分からないけど、別に知りたいとも思わない。名前は、可哀想にな。ペンギンが独り言みたいに呟くのに無言で同意した。あんな風にアブノーマルな愛情を受けるのが、俺じゃなくて本当に良かった。
*
薄々わかってきた癖に、
シャチに言われた言葉がぐるぐると頭を回る。薄々わかってきた?…冗談じゃない、本当に分からないんだってば。本当に、私があの人の何なのかなんて全く見当もつかない。当然、キャプテンじゃないなら何て呼んだらいいのか何てことも分かるわけがないんだってば。
夢うつつのままでぼんやりとそんな事を考えていた。誰かの指が、優しく髪の毛に触れるのを感じながらまだ私はテーブルで突っ伏していた。ひたすら優しげな声が私の名前を呼んだ。実はそれが誰だかなんて、分かり切っているんだけれど。
暖かい指先が、形を確かめるみたいに耳たぶをなぞった。そのまま軽く引っ掛かれて、体が震えそうになるのを堪えたら耳元で囁かれる。
「…いつまで狸寝入りする気だ、『名前』。」
ぴくり。
誤魔化しようもなく身じろぎをしてしまったけれど、今更顔をあげるのなんてとんでもない気がして。結局、冷や汗を書きながらも相変わらず私は目を瞑っていた。名前、名前、名前。低くて甘い声。が、歌うみたいに何回も名前を呼んで、その度に私はよく分からないまま心臓が止まりそうになる。パブロフの犬とか、確かそんな感じの言葉があったような気がするけどその意味が思い出せない。何だっけそれ。
解剖をする時みたいな繊細な手つきで、彼は私に触る。丁寧に髪を梳いて、首筋に触れて、
…まるで悪い病気にかかったみたいだ。心臓が止まりそうになるこの感覚は、きっと実験動物のモルモットみたいな気分だと言ったって差し支えない。実験体、モルモット、おもちゃ。彼がそれで満足するんならそれでいいじゃないか。そんなことを言って置いて実は、その状態を気に入っているのは彼じゃなくて私なのかもしれない。
彼、例のあの人、船長、キャプテン、私のご主人様…は、どう考えても変態みたいだから止めよう。ドクターなんて言ったらどういう顔をするんだろう。多分私は、こういう時の、この人の触り方が好きだ。解剖用の臓器やら実験動物を扱うときみたいな、優しくて繊細で、どこか残酷な手つき。傷を残すこともその傷を跡形もなく治すことも、造作なくやってのけてしまう綺麗な手。
口では残酷な事を言う癖に、私に触る手だけは酷く暖かいから、たまに酷く優しい目で私を見るから、甘やかすみたいに名前を呼ぶから、ぎりぎりの所で安心してしまう。今だってそう、感じるのは恐怖感と安心感と妙な高揚と、
…薄々どころか、最初からはっきり分かっていた事だ。私はもう、この人無しじゃ居られないんだと思う。モルモット、おもちゃ、実験体。それが少し悲しいのは、それだけじゃ足りなくなってしまったのは、きっと私が彼の事を酷く愛してしまったから、
*
「名前。」
「!いっ…!」
痛い!
不意に耳に歯を立てられた。涙目になって飛び起きた私を見て、彼は笑う。綺麗な手のなかで、無様な芋虫みたくびくりと動いた私の指から目が離せなくなる。心臓を切り取られたらどんな風だろう。そんなことを考えると妙に甘ったるい気分になる私は、やっぱり少し異常なんじゃないかと思う。
「あの、…キャ、…ロー、……さん。」
歯を立てられた右耳を耳を押さえながら、ようやくそれだけ口にした。うわ、超照れる恥ずかしい。この人の名前なんて呼んだのは多分初めてだ。あっという間に熱くなる顔も、狂ったみたいに暴れる心臓も、上手くいかない呼吸も、まるで実験動物のモルモットみたいだ。そうじゃなかったら何なんだろう。…恋の病?はずかしいから絶対に言わないけど。
キャプテン、例のあの人、改め、トラファルガー・ローさんは愉しそうに私を見て、それだけで脳みそは痺れたみたいに何も考えられなくなっていく。熱くなって来た顔をそらすこともしないで、少しだけ泣きたくなりながら彼をまっすぐ見つめた。まるで、謎々の答えあわせみたいだ。私にとってのあなたは、
…あなたにとっての、私は?
ローさん。もう一度、彼の名前を呼ぶ。声が情けなく震えていたけど気にしないことにして、
「あ、あの、…私、あなたの事が好きだと、思うんですけど…」
「……『けど』?」
「で、できれば、あなたにも私の事を好きになって頂きたいんだと、…思うんですけど…」
「……は、」
……
………『は、』?
は、って何だは、って。
そんな風な妙な間が、多分十秒くらい。ローさん、は、びっくりしたような顔で固まって、それをみながら私は内心、何か言えよ!と突っ込んでいた。あんた、私にこれを言わせたくて指とったんじゃないの何なの、とか、そんな逆切れもしていたと思う。…名前。ため息混じりの、呆れたみたいな声でやっと我に返った。面倒臭そうな目。…なにこれ、傷つく。
「…お前は本当に、何も分かっちゃいないんだな……」
「え、いや分かってます分かって…ない、ん、でしょうか…」
じゃあ何だって言うんだ。はっきり言えよこの隈男。
なんて、事も、もちろん言えるわけがない。恥ずかしさやら混乱やら、色々な思いが押し寄せてきて泣きたいような気分で座り込んだ、ら、薬指に柔らかい何かが触れた。何かって何だ。あ、唇だ。
私の薬指にキスを落とす。なんて、文章にしてみるとロマンチックなのに今の状況はどう考えても異常だ。くつくつくつ、圧し殺した笑い声に更に顔を熱くした。彼の、歌うみたいにご機嫌な声が降ってくる。
「名前、」
「…何すか」
「お前は何も分かっちゃいないんだな」
「…それさっきも聞きました」
「何で俺が、お前の薬指なんか取ったと思う」
「だから、それはこうやって私をからかうためで、」
「…die so verheerend gluhn in meiner B rust.Nur Eine kann mir helfen,jene Eine di e mir das suse Gift gab,dran ich kranke.」
「へっ!?」
何言ってんですか、なんて口に出す前に。引っ張り起こされて、何かが唇に重なった。だから、何かって何だ。、唇か。誰の?誰って、ここには一人しか居ないんだけど。つまりキスしてるんだ、と理解するのに15秒くらいかかった、と、思う。そのあとは酸欠みたいになって何も考えられなくなっていた、ような、気が、する。
背中に回された手が私を捕まえて、逃げようなんて思っても見ないくせに、これはもう逃げられないな、なんて言葉が浮かんだ。
抱き締められてキスをされました。文章にしてみると非常にロマンチックで、今の状況を見てもどう考えてもロマンチックで、それがまるで異様な事態みたいに私を混乱させた。ローさんが囁く。飛びっきりの甘い甘い声で、
「愛してるぜ、名前。…ホルマリン浸けにして、手元に置いておきたい位には。」
俺は、お前の心臓だって可愛がってやりたい。なんて、まるで病気みたいな口説き文句だ。だけど、それを聞いて甘ったるい気分になってしまう私もまるで、
私は、少し病気です
名前の手に、薬指が戻ってきた。にこにこにこ、音が出そうな位に嬉しそうに笑う名前は、まるでのろけみたいな口調でとんでもないことを俺に話す。
「ホルマリン浸けにしたいくらい、好きなんだって、私のこと。」
「…ホル、…何だって?」
「だからね、心臓切り取ってホルマリン漬けにしたいくらい、ちょっ、ペンギンちゃんと聞いて」
…正直、付き合いきれない。キャプテンが変態なのは前々から知ってたが、ホルマリン漬けだの心臓だのを嬉しそうに話す名前も大概だ。あいつは、前からあんなだったかな。確かにマゾっぽい気はしてたけど、だからつまり似た者同士って、ことなんだろうけど…。
盛大に肩を落としてため息を吐いたら、シャチが愉快そうに笑った。
「だから言ったろ、あいつらビョーキなんだって」
恋の病がどうとかこうとか。
最近キャプテンが気に入ってるドイツ語の詞を、へったくそな発音で朗読しながらシャチはキッチンへ引っ込んだ。…俺も、甲板掃除でもしよう。そう思って扉を出た瞬間に名前の悲鳴とキャプテンの笑い声が聞こえて、またため息をつきたくなるのを今度は堪えた。扉の向こうでどんな異常事態が起こっているのかなんて知りたくもない。
「なぁ、愛してるぜ。名前、」
「ろっ、ロロロ、ローさん、私も愛してます愛してるから、お願い、そのメスどけてぇぇぇ」
…扉の向こうの異様な会話なんか、もう日常茶飯事だ。気にしたら負けだ。結局、彼らにとっては異常な事が正常なのだ。
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