長谷部
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「じっとして。……そのまま、動かないでください」
鉛筆が、紙の表面を滑る音だけがうるさい。ちりちりと視線の感触が、肌を粟立たせた。焦げ付くような瞳の、色。熱を孕んだ瞳に私を映して男はうっとりと笑う。身じろぎをした瞬間に彼の右手に抑え込まれて、私はもう一度、柔らかすぎるベッドに沈み込んだ。
「目を」掠れた声がそれでも、有無を言わさぬ強さで私に命令する。「目を、逸らさないで。ねぇ、俺を見てください」うなずいたりなんかしない。だけど、この男にとって沈黙は、肯定と同じだ。細く息を吐いてから、言われた通りに男の瞳を見つめた。薄い唇、神経質そうな頬の線に、せわしなく瞬きを繰り返す睫毛。色素の薄い紫色は、綺麗だけどどこか人間離れして不気味だった。作り物めいた顔に恍惚とした表情を浮かべたまま、彼は私から目をそらさない。手元だけが別の生き物のように動いて、線を作り上げていく。
髪の毛。瞳の形に鼻筋、首を伝って、皮膚の下の、血管まであぶりだすように。どろどろに溶けきった瞳が、私の体の隅から隅までを暴いていく。その視線に身体を曝け出す私は、まるでまな板の上の魚みたいに哀れだ。ここでじっと息をひそめて、絡めとられる瞬間を待っている。逃げられないことも、後戻りができないことも知っているのに。そのことに気づかないふりをして、ただこうして待っている。この人が私を侵食して、頭の芯から作り変えてしまうその時を。
ふふ、と。笑いともため息ともつかない息が吐き出されて、鎖骨のあたりに落ちる。恍惚と、崇拝と、暴力的なまでの、愛情と。言葉の何倍も雄弁で臆面もない眼差しは体中にしみこんで、じくじくと余韻を残す。素敵です、と囁く声は奇妙に甘い。まるで恋人にするみたいに私の髪を撫でてから、柔らかい声が私に促す。「もっと、ちゃんと」足首を掴む指先は骨張っていて硬い。ひどく丁寧な手つきで足の線をなぞってから、骨の輪郭に指が触れる。親指に足の甲、くるぶしから上へと辿って、足の付け根まで。そうして確かめた形をそのまま、紙の上に写し取る。まるで情事の時のような声で、視線で、彼は私を隅々まで暴いて、観察して、絵画の中に閉じ込める。
「見せてください。もっとちゃんと、貴女の全てを。俺が、きちんと覚えていられるように」
体を預けたまま、大した抵抗もせず、その行為を受け入れている。従順に、命令されるままに。私は彼のものなのだ。少なくともこの時間が終わるまでは。ひそやかな呼吸と鉛筆を走らせる音。それ以外の音は何も聞こえない。大きな窓から真昼の光が降り注いでは私たちに陰を落とす。海の底にいるみたいに静かで、だから、勘違いをしそうになってしまう。
ここが、世界の全てなんじゃないか、なんて。
▽
長谷部国重という画家を知ったのは一年ほど前のことだった。懇意にしている画廊のオーナーに「俺の知り合いで、モデルを探している男がいてね」とかなんとか声をかけられたのが、そもそもの始まりだ。今思えば、何から何までおかしな話だった。ただの絵画モデルの依頼にしては破格の報酬に、「まあ、色々と癖のある男だが、きっとあんたも気にいると思うよ」なんて意味ありげなオーナーの言葉に。何か引っかかるものを感じつつ、金に目がくらんで2つ返事で契約書にサインした。一回あたり三十万円なんて、胡散臭いくらいの破格の条件で。なにか裏があるに違いない、と内心固めていた覚悟は、その後あっさり裏切られることになる。彼ほど金払いのいい取引先を、私は知らない。だけど同時に、あんなに厄介な人間も、彼以外に知らない。あの、熱に浮かされたような視線。熱狂、とか崇拝、とか、そういう言葉がしっくり来るような瞳で私を見て、彼は私をこう呼ぶのだ。「俺の神様」なんて。
『長谷部国重。二十四歳。藝術大学卒業後にニューヨーク、シドニーなどを拠点に創作活動を展開』適当に検索してヒットしたページを開くと、私とは縁遠い輝かしい経歴がつらつらと書いてあった。シュルレアリスムと抽象主義をかけ合わせたような平面構成がどうのこうのとか、在学中に出展した油絵「ぱらいそ」が最年少でどこかの賞を受賞しなんとかかんとか、とか。びっしりと並ぶ受賞歴と、ニコリともしない写真の表情がなんともアンバランスだった。見覚えのある藤の花の絵は、海外の有名な美術賞を受賞したものらしい。満開の藤の花と微笑んでいる誰かの影。怖いくらいきれいで、どこか宗教的な色彩。鮮やかなその絵に、どうしてだろう、懐かしいような奇妙な感慨を覚えた。
教えられた住所は都内の高級住宅街だった。真昼でも静かな住宅街の、コンクリートと白い壁で囲まれた道を歩いていくと、唐突に鬱蒼とした森が現れる。高い高い塀の向こうにだだっ広い邸宅が建っているのが、かろうじてわかった。親族から受け継いだ家に一人で住んでいるらしい。「奴さんの人嫌いにも困ったもんだよなあ」と笑うオーナーにくっついて、やたらと大きな門をくぐった。今思えばあのとき引き返しておけばよかったのだ。あの男に会いさえしなければ、私はただ一人ぼっちで生活を営んでいくことができたのに。一人きりのまま、誰かに依存することも、依存されることも知らないままで。
きっと一生忘れられない。
長谷部国重と、最初に会ったときのこと。全てに倦んだような無関心な瞳が、喜びと恍惚で塗りつぶされていくあの瞬間。その視線の先にいた私の姿は、彼の目にはどんなふうに映ったんだろう。気がついたときには抱きしめられたまま、耳元で泣きそうに囁く声を聞いていた。「やっと見つけた、俺の神様」と。
▽
「もういいですか」
「まだです」
「私、午後から別の予定があるんだけどなぁ」
「別の予定とは?」
「画塾のデッサンモデル」
「何時からですか?」
「十八時から三時間」
「聞いてません」
「そりゃあ、言ってないから」
「なぜ教えておいて下さらなかったんです」
「少なくとも、長谷部さんに私の予定を知らせる義理はないと思うから」
「それは、そう、ですが」
「もう帰っていい?」
「嫌です帰らないでください」
「だから次の予定が、」
「キャンセルしてください、金なら払います」
「嫌です」
「では、その『画塾』とやらを潰しましょうか。そうすれば、少なくとも今日はここに居てくださいますよね」
「……、そういう、すぐ、金にものを言わせる所、ほんとどうかと思いますけど」
「ありがとうございます」
「褒めてないけど」
「だって、とにかく貴女は俺に対して、なにがしかの感情を覚えてくださったわけでしょう。それは当然、喜ぶべきことではないですか」
「ごめん、言ってる意味がわからない」
「ねぇ、俺は最近ようやく、金の価値というものに気がついたんです。金を積みさえすれば、貴女が俺のもとに留まってくださるでしょう」
沈黙は、肯定としか捉えられない。ため息を吐いたら嬉しげな顔で、「口座に、もう百万円振り込んでおきますね」なんて非常識な事を言われる。追い打ちをかけるように、「だから、今日はここに居てくださいますよね。ありがとうございます、嬉しいです」と一方的に微笑まれた。怖いくらいにきれいな顔に、幸福の絶頂みたいな表情を浮かべて。……どうして、こんなことに、なったんだろうなあ。この人と出会った最初から、最近までの事を思い返しては、何度目かもわからないため息をつく。ほんと、どうしてこんなことに。
長谷部国重。二十四歳。在学中に最年少で権威ある国際美術賞を入賞。大学卒業後はニューヨークだかシカゴを拠点とした芸術活動を展開、とか、なんとか。華々しい経歴からも、人形のように整ったその風貌からも、全く予想がつかなかった。まさか、こんなにも厄介な性格をしているなんて。初対面で私を「神様」なんて呼んだ彼は、社交性も生活能力も皆無で、ただ絵の才能だけで生きているような人間だった。親族から受け継いだ莫大な遺産を持て余しながら、絵を描いて暮らしていたらしい。「はあ。自分の絵に感慨はありませんが、あれを有難がる年寄連中も多いので。適当に高値をつけて売りつけてやることにしているんです」なんて、のほほんとした顔で言い放たれたときには何だか無性に腹がたった。絵を描いては法外な値段で売り払い(売れてしまうのがまた腹立たしい。別にいいけど)、くさるほどの金と時間を持て余しながら、待っていたらしい。何を待っていたかって?私に会えるその時を、だそうで。
初めて会った、あの日の事だ。泣きそうな顔で私を抱きしめたあと、幸福の絶頂みたいに微笑んで、長谷部国重は私にこんな話を聞かせてきた。
「貴女を探していました。網膜の奥に貼り付いたまま、描いても描いても消えてくれない貴女の幻覚を持て余したまま、生まれた時から探していたんです。信じていました、貴女なら俺を迎えに来てくださると思ってました。嬉しいです、俺を見つけてくださったんですね。だからこうして、会いに来てくださったんですよね。そうでしょう? ずっと思っていたんです、貴女がいないなら、何もかも無意味だと。きっと俺は、貴女に会うために生まれてきたんです。貴女を描くためだけに絵を描いてきたんです。ねえそうでしょう、俺の神様」
気が狂っている。素直にそう思った。ドン引きした私の表情を見て彼は、さらに常軌を逸した言葉を並べてはまくしたてた。「どうか怖がらないでください。俺は何も望みません、ただここに居てくださるだけでいいんです。いつもしているみたいに、俺の前で微笑んで居てくださるだけで。金ならあります、腐るほど。いくらでもお支払いしますから、だから」とか、なんとか。いや、普通に怖い。回れ右した瞬間に引きずり戻されて、何やら分厚い封筒を押し付けられた。開けてみたら、数百万と思しき分厚い札束が入っていた。振り返ったら目を潤ませながら微笑まれて、それが余計に怖かった。この人絶対やばい。頭の中では赤信号が点滅するのに、あの時なんで絆されてしまったんだろう。金に目がくらんだのか、「ここに居てください。お願いです。それ以上は決して、望みませんから」と懇願する顔が、ちょっとかわいく見えてしまったからだろうか。
週一回、四時間の契約だった。それで数百万の報酬を出すって言うんだから、本当にこの人は金銭感覚がおかしい。まあ、おかしいのは金銭感覚だけじゃないけど。「貴女を描くためだけに生きているんです」とまで宣う長谷部さんは確かに、私がいなくなったら野垂れ死にしそうなくらいに生活力がなかった。二回目に彼の家を尋ねるまでの一週間、焼酎と塩だけで生きていたのにはめまいがした。「貴女を描くための時間が、いくらあっても足りなかったので」と本人は言うけど、冗談じゃなかった。
忘れもしない、あれは一年前の春先の事だった。長谷部国重の家を、二回目に訪ねた時の事。玄関のドアを開けた瞬間、異様なほど満面の笑みを浮かべた彼が、私めがけて駆け出すなり床で蹴つまずいてそれっきりピクリともしなくなったのだ。絶対死んだと思った。生きてたけど。彼が私の服の裾を掴んで頑なに離さなかったので、私まで一緒に救急車に乗る羽目になった。隊員に「お二人の間柄は」と聞かれた瞬間に、嫌にはっきりした口調で「婚約者です」とかほざいたあたり、もしかしたらあれはわざと倒れたんじゃないかと疑っている。
放っておいたら野垂れ死にそう、と言うのが、長谷部国重に関する二番目の印象だった。あの一件以来、私は頭の片隅で常に、この男の生命の心配をするようになってしまった。だって仕方ない、目の前で人が倒れたのなんて初めてだったから。家を尋ねるたびに倒れられてたんじゃたまらない。だから、週に何回かこっそり様子を見に行くことにした(正直なところ怖いもの見たさもあった)。もちろん物陰から、こっそり生きてるかどうか確認するだけ、のはずだった。だけど、どこに隠れても長谷部さんは私を見つけて、毎回毎回「来てくださったんですね嬉しいです夢みたいだとても本当とは思えない、ああ、俺は今なら死んでもいいくらいです」と熱烈な歓迎をしてくれた。とうとう画廊のオーナーにまで「テイのいいアルバイトだと思って」なんて頼まれて、あれよあれよと状況が進んで行く。
外堀を埋められてしまえば、後はあっという間だった。私の時間はどんどん彼に吸いとられていく。週一回の約束がじわじわと増えて、気が付いた時にはこの屋敷に入り浸りになっていた。野良犬とか野良猫を放っておけない性分なのだ。今にものたれ死にそうな人間も、野良犬と同じくらい放っておけない。だって、死なれたら後味が悪いので。生活能力が皆無の長谷部さんの面倒を見るのはそれなりに大変で、それなりにエキセントリックで、それなりに面白くもあった。変わり種のペットを飼っているような気持ちでいればいいなんて、今思えばお気楽極まりないことも考えていた。結論から言うと、この男はペットというよりも怪物だったわけだけど。
「ねえ、長谷部さん」
「はい?」
「また私のバイト先が不審火で全焼したんだけど」
「大変でしたね。お怪我がなくて何よりです」
「あと、先週私がモデルしに行った大学の、担当教授が行方不明なんだけど」
「それはよかった、あの男は貴女を不埒な目で見ていましたからね」
「こないだ登録したモデル事務所は倒産したし」
「あんないかがわしいアルバイトなどに手を染めなくても、金なら俺がいくらでも差し上げるのに」
「……、ねえ」
「はい」
「何したの?」
「特に何も。ただ、最近流行りの、アウトソーシングというやつを実践してみたんです。金と手間暇を交換できるなんて、本当に便利な世の中になりましたね」
「…………」
「貴女がここに留まってくださるように、俺は手段を尽くすだけです」……歌うような声でとんでもないことを言ってのけるから手に負えない。「最悪」と思ったままを口にすれば、「だって、そうでもしないと貴女は、どこかに行ってしまうじゃないですか」なんて、無邪気な答えが返ってくる。
「邪魔なものは、できる限り消してしまうことにしたんです。俺から貴女を奪う連中も、貴女にふさわしくない場所も。そしたら、少しでも長く、貴女をここに留めておけるでしょう?」薄紫色の瞳に私だけを映して、長谷部さんはうっとりと微笑む。
「さて、明日のご予定は?それとも、明後日の予定でしょうか。俺としてはこのまま、ここに留まっていただきたいところですが」
「明日は新しいバイト先に面接に行くし、明後日はお世話になった彫刻家の受賞パーティがある」
「それは大変だ、『新しいバイト先』とやらが火事にならないといいのですが」
「…………あのね」
「貴女が懇意にしている彫刻家といえば、藝大の櫛田教授でしょうか。俺も学生時代にお世話になりました。教授は随分前から心臓に持病を抱えていらっしゃるそうですね。その上ご高齢だ。これはいつ倒れてもおかしくない」
「…………はあ」
「ああ、……それにしても。貴女が俺を置いて行く瞬間のことを思うと、悲しみでおかしくなってしまいそうです。人間の一人や二人くらい、簡単に殺せそうなくらい」
「ねえ、そうやって脅せば、言うことを聞くとでも思ってる?」
「いいえ。もちろん、お好きになさって構いません。ですが、貴女がそばにいてくださらないなら、俺は手首を切って死にます」
私以外いらないのだ、と。いつも彼はそう言って、泣きそうな顔をする。私を取り巻く一切合切が呪わしいのだと。私が彼以外の人間を認識して、会話して、笑い合うことを考えると、気が狂いそうになるのだと。
「脅しなどではありませんよ。単純に事実を述べているだけです。貴女がいてくださらないなら、一秒だって生きていたくないので。もっともほんの少しだけ期待もしていますが。貴女は俺に情けをかけて、ここに留まってくださるのではないかと」あっけらかんとした声がそう告げて、とうとう私は言葉を失ってしまう。それらの言葉が全て真実だと、痛いほど知ってしまっているから。この人は、私を手元に留めておくためなら、きっとなんでもするんだろう。文字通り、なんでも。
こんなにも厄介な本性を、彼が隠しもしなくなったのは何時からだろうか。この男はとても私なんかの手に負えないと、気づいた時には既に遅かった。長谷部国重に出会ってから一年、私の周りからは潮が引くように人が消えていく。二年付き合った恋人も、嫌いだったバイト先の常連客も、学生時代からの友人も、行きつけのカフェのオーナーすらもどこかに消えてしまった。気味の悪い話だ。「何をしたの」と問い詰めたことだって、一度や二度じゃない。そのたびに彼はひっそりと笑って、「いいえ、俺は何も」と答えるばかりだった。
皆どこへ行ってしまったんだろう。おかしなことに、そのことを考えると決まって脳裏に、綺麗な日本刀が浮かぶのだ。
うっすらと表面に走った炎のような模様。光を反射して、刀身が冷たくきらめく。赤い柄巻きがされたそれを、細長い指が握りしめる。絵筆を握るよりもずっと慣れた手つきで。無関心な視線が対象をとらえて、一息に。綺麗な放物線を描いて、その刃が振り下ろされる。返り血など一つも浴びないまま、彼がうっとりと笑う。あの藤色の瞳に、いつも通りの恍惚とした色を浮かべて。薄い刃は血を滴らせて、点々と血だまりを作る。笑みをたたえた唇が、私の名前を呟く。漸く会えた。随分と探しましたよ、俺の可愛い人。これからはずっと一緒です。ずっとずっと、ずっと。
まるで現実味のない情景だ。
何度も何度も繰り返し頭の中でなぞった景色。そのことを思うたびに、どうしてだろう、恐怖よりも甘やかな感情ばかりが私の体を満たしていく。一切のためらいも罪の意識もなく、彼は刀を振り下ろすだろう。私と彼を隔てる、邪魔者がいなくなるその日まで。何人でも何十人でも、何百人でも殺すだろう。ただ、私一人の為だけに。私を、彼の元に留め置くためだけに。
長谷部さん、と、呼んだ声が掠れる。頷いたりなんかしない。ただ名前を呼ぶだけだ。それだって、『ここにいる』という意思表示には十分すぎるくらい。ひそやかに笑いをこぼしてから、彼は手元に視線を戻す。伏せられたまつげが、満足げに蠢く。呼吸も、鉛筆の音も、肌の上を滑る視線も、全てが甘ったるく耳元で溶ける。愛してる愛してる愛してる、言葉の何倍も雄弁で、容赦のない視線が私を作り変えて、ここに閉じ込める。
「明日は」
「はい。明日は、貴女の服を買いに出ましょうか。ここにいるなら、色々と物入りになりますよね」
「ずっとここにいるなんて一言も言ってない。さっきも言ったけど明日は予定があるの。バイト先を潰すっていうんならさらに別の予定を入れるつもりだし」
大きな窓ガラスから降り注ぐ光が、私たちを染める。二人分の呼吸の音。鉛筆の音に、彼が時折、こらえきれなくなったみたいに立てる、笑い声。それだけが全てで、だから、勘違いをしそうになってしまう。必要なのはそれだけで、ここだけが正しい場所なんだと。
「別の予定とは?」
「教えない。どうせ碌なことにならないから」
絡めとられる瞬間を待っている。私の世界に、彼しかいなくなるその時を待っている。明日になったら、なんて、意味のないセリフを並べ立てて、逃げ回るふりを続けている。逃げられないことも、後戻りができないこともわかっているのに。「つれないことを、言わないでください」長谷部国重が、うっとりと笑う。私だけをその瞳に映して、狂気と紙一重の、暴力的な愛情を浮かべて。
「何も心配はいりませんよ。もちろん、お望みならいくら俺を試していただいても構わないのですが。貴女はただ、ここにいてくださるだけでいいんです。邪魔なものは一つ残らず、俺が消してあげますから」
「だから、なんでそう物騒な方向に走るかなあ」
「なぜって、だって、貴女が俺のそばにいてくださらないから仕方ないじゃないですか」
「仕方なくないし、ねえ、そういうのなんていうか知ってる?」
「そういうの、とは?」
「長谷部さんのその話が通じないところ、ほんとどうかと思うよ。マジでサイコパス」
「貴女が呼んでくださるなら俺は、サイコパスでも何でも嬉しいです」
「だから、そういうことじゃなくて」
あの時出会ってなかったら、と、考えかけてふと気づく。彼に出会う前の自分がどんなだったかなんて、もう少しも思い出せないのだ。世界はどんどん作り変わっていって、気がついたら、私は閉じ込められかけている。すきです、と、脈絡もなく囁かれた言葉が、鼓膜から入り込んで脳みそをぐらぐらと揺らした。好きです、愛しています、貴女しかいらないんです、この先もずっとずっと、ずっと。祈りにも似た愛の言葉。それから決まって、彼は私を呼ぶのだ。おれのかみさま、と、まるで子供みたいに純粋で、衒いもなく甘い声で。恐怖と、恍惚と、毒のような幸福と。それはゆっくりと私の身体中を支配して、いつか息の根を止めるだろう。抗うふりをして、逃げるふりをして、私はただ待っている。彼の毒で、息の根を止めてしまうその時を。
皮肉のつもりで吐いたため息は、意思に反して満足げに響いた。琥珀に閉じ込められた虫みたいに。彼が私を食らいつくす、その時のことを思いながら、ただうっとりと瞼を閉じた。
鉛筆が、紙の表面を滑る音だけがうるさい。ちりちりと視線の感触が、肌を粟立たせた。焦げ付くような瞳の、色。熱を孕んだ瞳に私を映して男はうっとりと笑う。身じろぎをした瞬間に彼の右手に抑え込まれて、私はもう一度、柔らかすぎるベッドに沈み込んだ。
「目を」掠れた声がそれでも、有無を言わさぬ強さで私に命令する。「目を、逸らさないで。ねぇ、俺を見てください」うなずいたりなんかしない。だけど、この男にとって沈黙は、肯定と同じだ。細く息を吐いてから、言われた通りに男の瞳を見つめた。薄い唇、神経質そうな頬の線に、せわしなく瞬きを繰り返す睫毛。色素の薄い紫色は、綺麗だけどどこか人間離れして不気味だった。作り物めいた顔に恍惚とした表情を浮かべたまま、彼は私から目をそらさない。手元だけが別の生き物のように動いて、線を作り上げていく。
髪の毛。瞳の形に鼻筋、首を伝って、皮膚の下の、血管まであぶりだすように。どろどろに溶けきった瞳が、私の体の隅から隅までを暴いていく。その視線に身体を曝け出す私は、まるでまな板の上の魚みたいに哀れだ。ここでじっと息をひそめて、絡めとられる瞬間を待っている。逃げられないことも、後戻りができないことも知っているのに。そのことに気づかないふりをして、ただこうして待っている。この人が私を侵食して、頭の芯から作り変えてしまうその時を。
ふふ、と。笑いともため息ともつかない息が吐き出されて、鎖骨のあたりに落ちる。恍惚と、崇拝と、暴力的なまでの、愛情と。言葉の何倍も雄弁で臆面もない眼差しは体中にしみこんで、じくじくと余韻を残す。素敵です、と囁く声は奇妙に甘い。まるで恋人にするみたいに私の髪を撫でてから、柔らかい声が私に促す。「もっと、ちゃんと」足首を掴む指先は骨張っていて硬い。ひどく丁寧な手つきで足の線をなぞってから、骨の輪郭に指が触れる。親指に足の甲、くるぶしから上へと辿って、足の付け根まで。そうして確かめた形をそのまま、紙の上に写し取る。まるで情事の時のような声で、視線で、彼は私を隅々まで暴いて、観察して、絵画の中に閉じ込める。
「見せてください。もっとちゃんと、貴女の全てを。俺が、きちんと覚えていられるように」
体を預けたまま、大した抵抗もせず、その行為を受け入れている。従順に、命令されるままに。私は彼のものなのだ。少なくともこの時間が終わるまでは。ひそやかな呼吸と鉛筆を走らせる音。それ以外の音は何も聞こえない。大きな窓から真昼の光が降り注いでは私たちに陰を落とす。海の底にいるみたいに静かで、だから、勘違いをしそうになってしまう。
ここが、世界の全てなんじゃないか、なんて。
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長谷部国重という画家を知ったのは一年ほど前のことだった。懇意にしている画廊のオーナーに「俺の知り合いで、モデルを探している男がいてね」とかなんとか声をかけられたのが、そもそもの始まりだ。今思えば、何から何までおかしな話だった。ただの絵画モデルの依頼にしては破格の報酬に、「まあ、色々と癖のある男だが、きっとあんたも気にいると思うよ」なんて意味ありげなオーナーの言葉に。何か引っかかるものを感じつつ、金に目がくらんで2つ返事で契約書にサインした。一回あたり三十万円なんて、胡散臭いくらいの破格の条件で。なにか裏があるに違いない、と内心固めていた覚悟は、その後あっさり裏切られることになる。彼ほど金払いのいい取引先を、私は知らない。だけど同時に、あんなに厄介な人間も、彼以外に知らない。あの、熱に浮かされたような視線。熱狂、とか崇拝、とか、そういう言葉がしっくり来るような瞳で私を見て、彼は私をこう呼ぶのだ。「俺の神様」なんて。
『長谷部国重。二十四歳。藝術大学卒業後にニューヨーク、シドニーなどを拠点に創作活動を展開』適当に検索してヒットしたページを開くと、私とは縁遠い輝かしい経歴がつらつらと書いてあった。シュルレアリスムと抽象主義をかけ合わせたような平面構成がどうのこうのとか、在学中に出展した油絵「ぱらいそ」が最年少でどこかの賞を受賞しなんとかかんとか、とか。びっしりと並ぶ受賞歴と、ニコリともしない写真の表情がなんともアンバランスだった。見覚えのある藤の花の絵は、海外の有名な美術賞を受賞したものらしい。満開の藤の花と微笑んでいる誰かの影。怖いくらいきれいで、どこか宗教的な色彩。鮮やかなその絵に、どうしてだろう、懐かしいような奇妙な感慨を覚えた。
教えられた住所は都内の高級住宅街だった。真昼でも静かな住宅街の、コンクリートと白い壁で囲まれた道を歩いていくと、唐突に鬱蒼とした森が現れる。高い高い塀の向こうにだだっ広い邸宅が建っているのが、かろうじてわかった。親族から受け継いだ家に一人で住んでいるらしい。「奴さんの人嫌いにも困ったもんだよなあ」と笑うオーナーにくっついて、やたらと大きな門をくぐった。今思えばあのとき引き返しておけばよかったのだ。あの男に会いさえしなければ、私はただ一人ぼっちで生活を営んでいくことができたのに。一人きりのまま、誰かに依存することも、依存されることも知らないままで。
きっと一生忘れられない。
長谷部国重と、最初に会ったときのこと。全てに倦んだような無関心な瞳が、喜びと恍惚で塗りつぶされていくあの瞬間。その視線の先にいた私の姿は、彼の目にはどんなふうに映ったんだろう。気がついたときには抱きしめられたまま、耳元で泣きそうに囁く声を聞いていた。「やっと見つけた、俺の神様」と。
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「もういいですか」
「まだです」
「私、午後から別の予定があるんだけどなぁ」
「別の予定とは?」
「画塾のデッサンモデル」
「何時からですか?」
「十八時から三時間」
「聞いてません」
「そりゃあ、言ってないから」
「なぜ教えておいて下さらなかったんです」
「少なくとも、長谷部さんに私の予定を知らせる義理はないと思うから」
「それは、そう、ですが」
「もう帰っていい?」
「嫌です帰らないでください」
「だから次の予定が、」
「キャンセルしてください、金なら払います」
「嫌です」
「では、その『画塾』とやらを潰しましょうか。そうすれば、少なくとも今日はここに居てくださいますよね」
「……、そういう、すぐ、金にものを言わせる所、ほんとどうかと思いますけど」
「ありがとうございます」
「褒めてないけど」
「だって、とにかく貴女は俺に対して、なにがしかの感情を覚えてくださったわけでしょう。それは当然、喜ぶべきことではないですか」
「ごめん、言ってる意味がわからない」
「ねぇ、俺は最近ようやく、金の価値というものに気がついたんです。金を積みさえすれば、貴女が俺のもとに留まってくださるでしょう」
沈黙は、肯定としか捉えられない。ため息を吐いたら嬉しげな顔で、「口座に、もう百万円振り込んでおきますね」なんて非常識な事を言われる。追い打ちをかけるように、「だから、今日はここに居てくださいますよね。ありがとうございます、嬉しいです」と一方的に微笑まれた。怖いくらいにきれいな顔に、幸福の絶頂みたいな表情を浮かべて。……どうして、こんなことに、なったんだろうなあ。この人と出会った最初から、最近までの事を思い返しては、何度目かもわからないため息をつく。ほんと、どうしてこんなことに。
長谷部国重。二十四歳。在学中に最年少で権威ある国際美術賞を入賞。大学卒業後はニューヨークだかシカゴを拠点とした芸術活動を展開、とか、なんとか。華々しい経歴からも、人形のように整ったその風貌からも、全く予想がつかなかった。まさか、こんなにも厄介な性格をしているなんて。初対面で私を「神様」なんて呼んだ彼は、社交性も生活能力も皆無で、ただ絵の才能だけで生きているような人間だった。親族から受け継いだ莫大な遺産を持て余しながら、絵を描いて暮らしていたらしい。「はあ。自分の絵に感慨はありませんが、あれを有難がる年寄連中も多いので。適当に高値をつけて売りつけてやることにしているんです」なんて、のほほんとした顔で言い放たれたときには何だか無性に腹がたった。絵を描いては法外な値段で売り払い(売れてしまうのがまた腹立たしい。別にいいけど)、くさるほどの金と時間を持て余しながら、待っていたらしい。何を待っていたかって?私に会えるその時を、だそうで。
初めて会った、あの日の事だ。泣きそうな顔で私を抱きしめたあと、幸福の絶頂みたいに微笑んで、長谷部国重は私にこんな話を聞かせてきた。
「貴女を探していました。網膜の奥に貼り付いたまま、描いても描いても消えてくれない貴女の幻覚を持て余したまま、生まれた時から探していたんです。信じていました、貴女なら俺を迎えに来てくださると思ってました。嬉しいです、俺を見つけてくださったんですね。だからこうして、会いに来てくださったんですよね。そうでしょう? ずっと思っていたんです、貴女がいないなら、何もかも無意味だと。きっと俺は、貴女に会うために生まれてきたんです。貴女を描くためだけに絵を描いてきたんです。ねえそうでしょう、俺の神様」
気が狂っている。素直にそう思った。ドン引きした私の表情を見て彼は、さらに常軌を逸した言葉を並べてはまくしたてた。「どうか怖がらないでください。俺は何も望みません、ただここに居てくださるだけでいいんです。いつもしているみたいに、俺の前で微笑んで居てくださるだけで。金ならあります、腐るほど。いくらでもお支払いしますから、だから」とか、なんとか。いや、普通に怖い。回れ右した瞬間に引きずり戻されて、何やら分厚い封筒を押し付けられた。開けてみたら、数百万と思しき分厚い札束が入っていた。振り返ったら目を潤ませながら微笑まれて、それが余計に怖かった。この人絶対やばい。頭の中では赤信号が点滅するのに、あの時なんで絆されてしまったんだろう。金に目がくらんだのか、「ここに居てください。お願いです。それ以上は決して、望みませんから」と懇願する顔が、ちょっとかわいく見えてしまったからだろうか。
週一回、四時間の契約だった。それで数百万の報酬を出すって言うんだから、本当にこの人は金銭感覚がおかしい。まあ、おかしいのは金銭感覚だけじゃないけど。「貴女を描くためだけに生きているんです」とまで宣う長谷部さんは確かに、私がいなくなったら野垂れ死にしそうなくらいに生活力がなかった。二回目に彼の家を尋ねるまでの一週間、焼酎と塩だけで生きていたのにはめまいがした。「貴女を描くための時間が、いくらあっても足りなかったので」と本人は言うけど、冗談じゃなかった。
忘れもしない、あれは一年前の春先の事だった。長谷部国重の家を、二回目に訪ねた時の事。玄関のドアを開けた瞬間、異様なほど満面の笑みを浮かべた彼が、私めがけて駆け出すなり床で蹴つまずいてそれっきりピクリともしなくなったのだ。絶対死んだと思った。生きてたけど。彼が私の服の裾を掴んで頑なに離さなかったので、私まで一緒に救急車に乗る羽目になった。隊員に「お二人の間柄は」と聞かれた瞬間に、嫌にはっきりした口調で「婚約者です」とかほざいたあたり、もしかしたらあれはわざと倒れたんじゃないかと疑っている。
放っておいたら野垂れ死にそう、と言うのが、長谷部国重に関する二番目の印象だった。あの一件以来、私は頭の片隅で常に、この男の生命の心配をするようになってしまった。だって仕方ない、目の前で人が倒れたのなんて初めてだったから。家を尋ねるたびに倒れられてたんじゃたまらない。だから、週に何回かこっそり様子を見に行くことにした(正直なところ怖いもの見たさもあった)。もちろん物陰から、こっそり生きてるかどうか確認するだけ、のはずだった。だけど、どこに隠れても長谷部さんは私を見つけて、毎回毎回「来てくださったんですね嬉しいです夢みたいだとても本当とは思えない、ああ、俺は今なら死んでもいいくらいです」と熱烈な歓迎をしてくれた。とうとう画廊のオーナーにまで「テイのいいアルバイトだと思って」なんて頼まれて、あれよあれよと状況が進んで行く。
外堀を埋められてしまえば、後はあっという間だった。私の時間はどんどん彼に吸いとられていく。週一回の約束がじわじわと増えて、気が付いた時にはこの屋敷に入り浸りになっていた。野良犬とか野良猫を放っておけない性分なのだ。今にものたれ死にそうな人間も、野良犬と同じくらい放っておけない。だって、死なれたら後味が悪いので。生活能力が皆無の長谷部さんの面倒を見るのはそれなりに大変で、それなりにエキセントリックで、それなりに面白くもあった。変わり種のペットを飼っているような気持ちでいればいいなんて、今思えばお気楽極まりないことも考えていた。結論から言うと、この男はペットというよりも怪物だったわけだけど。
「ねえ、長谷部さん」
「はい?」
「また私のバイト先が不審火で全焼したんだけど」
「大変でしたね。お怪我がなくて何よりです」
「あと、先週私がモデルしに行った大学の、担当教授が行方不明なんだけど」
「それはよかった、あの男は貴女を不埒な目で見ていましたからね」
「こないだ登録したモデル事務所は倒産したし」
「あんないかがわしいアルバイトなどに手を染めなくても、金なら俺がいくらでも差し上げるのに」
「……、ねえ」
「はい」
「何したの?」
「特に何も。ただ、最近流行りの、アウトソーシングというやつを実践してみたんです。金と手間暇を交換できるなんて、本当に便利な世の中になりましたね」
「…………」
「貴女がここに留まってくださるように、俺は手段を尽くすだけです」……歌うような声でとんでもないことを言ってのけるから手に負えない。「最悪」と思ったままを口にすれば、「だって、そうでもしないと貴女は、どこかに行ってしまうじゃないですか」なんて、無邪気な答えが返ってくる。
「邪魔なものは、できる限り消してしまうことにしたんです。俺から貴女を奪う連中も、貴女にふさわしくない場所も。そしたら、少しでも長く、貴女をここに留めておけるでしょう?」薄紫色の瞳に私だけを映して、長谷部さんはうっとりと微笑む。
「さて、明日のご予定は?それとも、明後日の予定でしょうか。俺としてはこのまま、ここに留まっていただきたいところですが」
「明日は新しいバイト先に面接に行くし、明後日はお世話になった彫刻家の受賞パーティがある」
「それは大変だ、『新しいバイト先』とやらが火事にならないといいのですが」
「…………あのね」
「貴女が懇意にしている彫刻家といえば、藝大の櫛田教授でしょうか。俺も学生時代にお世話になりました。教授は随分前から心臓に持病を抱えていらっしゃるそうですね。その上ご高齢だ。これはいつ倒れてもおかしくない」
「…………はあ」
「ああ、……それにしても。貴女が俺を置いて行く瞬間のことを思うと、悲しみでおかしくなってしまいそうです。人間の一人や二人くらい、簡単に殺せそうなくらい」
「ねえ、そうやって脅せば、言うことを聞くとでも思ってる?」
「いいえ。もちろん、お好きになさって構いません。ですが、貴女がそばにいてくださらないなら、俺は手首を切って死にます」
私以外いらないのだ、と。いつも彼はそう言って、泣きそうな顔をする。私を取り巻く一切合切が呪わしいのだと。私が彼以外の人間を認識して、会話して、笑い合うことを考えると、気が狂いそうになるのだと。
「脅しなどではありませんよ。単純に事実を述べているだけです。貴女がいてくださらないなら、一秒だって生きていたくないので。もっともほんの少しだけ期待もしていますが。貴女は俺に情けをかけて、ここに留まってくださるのではないかと」あっけらかんとした声がそう告げて、とうとう私は言葉を失ってしまう。それらの言葉が全て真実だと、痛いほど知ってしまっているから。この人は、私を手元に留めておくためなら、きっとなんでもするんだろう。文字通り、なんでも。
こんなにも厄介な本性を、彼が隠しもしなくなったのは何時からだろうか。この男はとても私なんかの手に負えないと、気づいた時には既に遅かった。長谷部国重に出会ってから一年、私の周りからは潮が引くように人が消えていく。二年付き合った恋人も、嫌いだったバイト先の常連客も、学生時代からの友人も、行きつけのカフェのオーナーすらもどこかに消えてしまった。気味の悪い話だ。「何をしたの」と問い詰めたことだって、一度や二度じゃない。そのたびに彼はひっそりと笑って、「いいえ、俺は何も」と答えるばかりだった。
皆どこへ行ってしまったんだろう。おかしなことに、そのことを考えると決まって脳裏に、綺麗な日本刀が浮かぶのだ。
うっすらと表面に走った炎のような模様。光を反射して、刀身が冷たくきらめく。赤い柄巻きがされたそれを、細長い指が握りしめる。絵筆を握るよりもずっと慣れた手つきで。無関心な視線が対象をとらえて、一息に。綺麗な放物線を描いて、その刃が振り下ろされる。返り血など一つも浴びないまま、彼がうっとりと笑う。あの藤色の瞳に、いつも通りの恍惚とした色を浮かべて。薄い刃は血を滴らせて、点々と血だまりを作る。笑みをたたえた唇が、私の名前を呟く。漸く会えた。随分と探しましたよ、俺の可愛い人。これからはずっと一緒です。ずっとずっと、ずっと。
まるで現実味のない情景だ。
何度も何度も繰り返し頭の中でなぞった景色。そのことを思うたびに、どうしてだろう、恐怖よりも甘やかな感情ばかりが私の体を満たしていく。一切のためらいも罪の意識もなく、彼は刀を振り下ろすだろう。私と彼を隔てる、邪魔者がいなくなるその日まで。何人でも何十人でも、何百人でも殺すだろう。ただ、私一人の為だけに。私を、彼の元に留め置くためだけに。
長谷部さん、と、呼んだ声が掠れる。頷いたりなんかしない。ただ名前を呼ぶだけだ。それだって、『ここにいる』という意思表示には十分すぎるくらい。ひそやかに笑いをこぼしてから、彼は手元に視線を戻す。伏せられたまつげが、満足げに蠢く。呼吸も、鉛筆の音も、肌の上を滑る視線も、全てが甘ったるく耳元で溶ける。愛してる愛してる愛してる、言葉の何倍も雄弁で、容赦のない視線が私を作り変えて、ここに閉じ込める。
「明日は」
「はい。明日は、貴女の服を買いに出ましょうか。ここにいるなら、色々と物入りになりますよね」
「ずっとここにいるなんて一言も言ってない。さっきも言ったけど明日は予定があるの。バイト先を潰すっていうんならさらに別の予定を入れるつもりだし」
大きな窓ガラスから降り注ぐ光が、私たちを染める。二人分の呼吸の音。鉛筆の音に、彼が時折、こらえきれなくなったみたいに立てる、笑い声。それだけが全てで、だから、勘違いをしそうになってしまう。必要なのはそれだけで、ここだけが正しい場所なんだと。
「別の予定とは?」
「教えない。どうせ碌なことにならないから」
絡めとられる瞬間を待っている。私の世界に、彼しかいなくなるその時を待っている。明日になったら、なんて、意味のないセリフを並べ立てて、逃げ回るふりを続けている。逃げられないことも、後戻りができないこともわかっているのに。「つれないことを、言わないでください」長谷部国重が、うっとりと笑う。私だけをその瞳に映して、狂気と紙一重の、暴力的な愛情を浮かべて。
「何も心配はいりませんよ。もちろん、お望みならいくら俺を試していただいても構わないのですが。貴女はただ、ここにいてくださるだけでいいんです。邪魔なものは一つ残らず、俺が消してあげますから」
「だから、なんでそう物騒な方向に走るかなあ」
「なぜって、だって、貴女が俺のそばにいてくださらないから仕方ないじゃないですか」
「仕方なくないし、ねえ、そういうのなんていうか知ってる?」
「そういうの、とは?」
「長谷部さんのその話が通じないところ、ほんとどうかと思うよ。マジでサイコパス」
「貴女が呼んでくださるなら俺は、サイコパスでも何でも嬉しいです」
「だから、そういうことじゃなくて」
あの時出会ってなかったら、と、考えかけてふと気づく。彼に出会う前の自分がどんなだったかなんて、もう少しも思い出せないのだ。世界はどんどん作り変わっていって、気がついたら、私は閉じ込められかけている。すきです、と、脈絡もなく囁かれた言葉が、鼓膜から入り込んで脳みそをぐらぐらと揺らした。好きです、愛しています、貴女しかいらないんです、この先もずっとずっと、ずっと。祈りにも似た愛の言葉。それから決まって、彼は私を呼ぶのだ。おれのかみさま、と、まるで子供みたいに純粋で、衒いもなく甘い声で。恐怖と、恍惚と、毒のような幸福と。それはゆっくりと私の身体中を支配して、いつか息の根を止めるだろう。抗うふりをして、逃げるふりをして、私はただ待っている。彼の毒で、息の根を止めてしまうその時を。
皮肉のつもりで吐いたため息は、意思に反して満足げに響いた。琥珀に閉じ込められた虫みたいに。彼が私を食らいつくす、その時のことを思いながら、ただうっとりと瞼を閉じた。