長谷部
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「ねぇ、長谷部くん」、と、呼びかけて途中でやめる。このまま二人で逃げちゃおうか。喉元まで出かかった言葉を飲み込めば、ざらざらと苦い味が口の中に広がる。意外と大きな背中越しに見る町並みは何だか知らない景色のようで、このままどこまでも走っていけたらいいのに、なんて、ありえないことを考えた。
錆びついた車輪が、悲鳴のような音を立てていた。「だいじょうぶですよ」その音に紛れてしまわないようにだろうか、長谷部くんは不自然なくらいに明るい声を出す。
「大丈夫です、どんなに遠くに行ったって。またすぐに会えますから」
すぐって、どのくらいすぐだろう。ほんの数日か数か月のことだろうか、それとも数年? この先のことなんて、考えようとしたってうまく行きっこない。だって私はまだ子供で、この街で長谷部くんとずっと一緒にいるんだろうなんて、まだどこかでそんなことを考えているくらいだったから。
何を言おうとしても悲しすぎる気がして、結局「……ん」と、曖昧な返事のような音を返した。私達の息の音と、車輪がギシギシと鳴る音。明け方の街で聞こえるのはそれだけで、世界で二人だけみたいにも思えるのに。
桜、見れなかったな。独り言みたいに呟けば、「写真を送ります。今年も、来年も、その先も」と、長谷部くんは当たり前のように答える。桜が咲く頃には私はこの場所にいないんだと、なんだかその事がまだ不思議だった。もう少ししたら電車に乗って、私はこの街からいなくなるのに。それすらもなんだか現実感がない。長谷部くんは私を励ますような声色で、話を続ける。
「電車で二時間、その後飛行機で三時間。たった五時間じゃないですか、そんなの大した距離じゃない。そうでしょう」きっとそうなんだろう。長谷部くんが私に嘘をついたことなんて、一度もないんだから。だけど、その言葉はどうしたって強がりに聞こえた。私も長谷部くんもまだまだ子供で、だからきっと、その距離は思っているよりもずっとずっと遠い。
まだつぼみが膨らみかけの桜並木。田んぼの中にぽつぽつと立ち並ぶ家。この街に来た頃には馴染めなかった景色が、今はおかしいくらいに愛おしかった。無性に泣きたくなって、目の前の背中に顔を埋める。呼吸のリズムに、シャツ越しの体温。いつの間にこんなに背が伸びたんだろうか。長谷部くんの背中は何だか骨ばって筋肉質で、普段の何倍も広いような感じがした。
「なんだか、三年前と同じですね」くすくすと笑う息遣いは、背中越しにやけに大きい。
「あのときもあなたは、そんなふうに泣きそうな顔をしてたでしょう」
「後ろにいるのに顔なんかわかる?」
「わかるに決まってます、あなたのことなら何でも」
「嘘だ」
「本当です、だって俺は、『あなたのおさななじみ』なんですから」
おさななじみ、なんて。
その言葉すら、苦くて悲しくて仕方がなかった。家族でも親戚でもない。『おさななじみ』なんて吹けば飛ぶような関係は、離れたらきっと何の意味もなくなる。目を閉じる。まぶたの裏に長谷部くんの笑顔が浮かぶ。何度も何度も見た表情。きっと今だってそんなふうに笑ってるんだろう。三年前、まるきりよそ者だった私に『はじめまして』と笑ってくれたのと同じ、やさしくてとろとろの顔で。
毎日のように顔を合わせて一緒に学校に通って放課後は二人で遊んだ。赤の他人同士なのに、まるで兄妹かなにかみたいに。そんな毎日にいきなり終止符が打たれたのはつい先週の事だった。離れて暮らしていた両親が手紙を寄こしてきたのだ。上等な便せんにはたった一行、『海外での事業がひと段落したから、来月から一緒に暮らそう』と書かれていた。
……今更『家族は一緒のほうがいい』なんて。三年前なら待ち遠しくて仕方なかったその知らせが、今ではただ疎ましかった。
放課後のがらんとした教室。古びた本ばかりが並ぶ図書室に校庭、どこまでもまっすぐ続いてくあぜ道に、二人の秘密の場所だった海の近くの洞窟。手紙を受け取ってから七日間、二人でこの町のお気に入りの場所を余すところなく回った。大きな黒板に落書きをして遊んだこと、古びた児童文学の本を夢中で読んだこと、洞窟にランタンを持ち込んでお昼寝したこと。
どこもかしこも、長谷部くんと一緒に過ごした記憶にまみれている。当たり前だ、だってこの三年間、ずっと一緒にいたんだから。
何もかも大嫌いだった。「よかったわねぇ」なんて白々しく喜んで見せた親戚も、厄介払いしたはずの私を今更呼び戻そうとする両親も。これから私が暮らしていくであろう街の名前も、引っ越し屋のダンボールも、転校先の学校も。
そうやって嫌いな物を頭の中で片っ端から消していって、そしたら最後に残ったのは長谷部くんだけだった。もう皆いらない、二人でどっかに逃げちゃいたい。そんなふうに縋ったら、長谷部くんはなんていうだろうか。もしかして「勿論です。素敵ですね」なんて、笑ってくれないだろうか。私の大好きなあの綺麗な瞳に、とろりとした光を浮かべて。
だけど結局、「逃げたい」も「行きたくない」も「さよなら」も何一つ口にできないまま、私はここからいなくなろうとしている。歩いて一時間、自転車なら二十分の、駅までのみちのり。うしろに流れていく景色も音も、ただ私を急かして焦らせる。言いたいことも話したいことも沢山あって、なのに何一つ言葉になんかできなくて。大きいだけで何にも入ってないカバンを握りしめる。
たった一通の手紙にすら抗えない位に私も長谷部くんも子供で、そのことが憎たらしかった。「はやく、大人になれたらいいのに」掠れた声はまともな音の形になんてならなかったのに、長谷部くんが頷いてくれるのが分かった。私がもっと大人ならよかった。二人でどこまでも逃げていけるくらいの大人なら、それか、こんなことで悲しくなんてならない位の大人ならよかったのに。
長谷部くんの背中に額を押し付けたままだから、その声はくぐもって変な感じに聞こえただろう。掠れて揺れて途切れて、くしゃくしゃになった私の泣き言に返事はない。代わりに車輪の音だけがうるさかった。カンカンカン、と、けたたましい踏切の音で、とうとう駅についてしまったことを知る。いきたくない、漏らした声も、涙も、長谷部くんのシャツに吸い込まれて消えていく。名前を呼ばれたけど顔は上げられないまま、ただ背中にしがみつく。
「ねぇ、信じてください」ふ、とため息の音が落ちる。クシャクシャにシャツを握りしめていた私の手に、少しだけ大きい手のひらが重なる。「確かに俺は子供で、二人でどこかに逃げることも、あなたをここに留まらせることだってできません。でも、大丈夫です。方法なんて幾らでもあるんですよ。今までと同じようにとはいかないかもしれないけど、それでも、俺たちはずっと一緒ですから」
諭すみたいに柔らかい声はこんな時なのに落ち着き払っていて、それがなんだか苛立たしかった。悲しいのも寂しいのも私だけみたいで。だからほんの少し顔を上げてじっとりと睨んでやったのに、「ようやく顔を見せてくれた」なんて長谷部くんが笑うから、それもなんだか気に入らない。
「長谷部くんさあ」
「はい」
「淋しくないの」
「淋しいに決まってます、もちろん」
「嘘だ。遠くに行ったら、今までみたいに会えなくなったら、私の顔なんてすぐに忘れちゃうよ。隣の街に行くとかじゃないんだよ」
「忘れるわけないでしょう、バカな事を言わないでください。それにたかが五時間なんて、遠くのうちに入りません」
「たかがって」
「だって、地球の裏側に行くわけでもないんですから……ああ、でも」
「でも、なに」
「例えば地球の裏側に行くとしても、どこまでもついていきますから大丈夫ですよ。たとえそこが天国でも地獄でも俺たちはずっとずっと一緒ですから」
「何それこわい」
「酷いです、『離れたくない』と言ってくれたのは嘘だったんですか」
「そりゃ、言ったかもしれないけどさあ、そうじゃなくて」
「ねぇ、大丈夫ですよ」
「だいじょばないよ」
「大丈夫と言ったら、大丈夫です。ね、俺を信じてください。すぐにまた会いに行きますから」
「……どうやって?」
「……ええと。詳細は、まだ秘密です、が」
怪しい。あからさまに腑に落ちない顔をしてたんだろう、もう一度「信じてください。きっと全部、うまく行きます」なんて念を押されたら頷くしかなかった。涙でかぴかぴになったほっぺたをハンカチで拭いてくれる長谷部くんはどうしたって大人びて見えて、なんだろう、私ばっかりが子供みたいだ。
ぐす、と私が鼻を鳴らす音に長谷部くんは笑みを深くする。「行きましょう」なんて手を取られて、これじゃあまるきり兄妹にしか見えない。
がらんどうの駅のホームで、手を繋いで待っている。あと数分でここを出ないといけないなんて、やっぱり現実感がなかった。ぎゅう、と握り返された手の熱を忘れたくなかった。ほんの少しだけ私より背がたかい、長谷部くんの横顔も。
薄紫色の瞳に、茶色と灰色の中間みたいな髪の毛。初めて見た時からずっと綺麗だなって思ってたことだって、まだ言えてないのにな。ぼんやりと思ったけど無駄だ。無言のまま立ち尽くすうちに、数分の時間なんてたちまち終わってしまった。
ぷぁん、と警笛の音。遠くに見えていた列車の影はすぐに大きくなって、私たちのいる場所まで近づいてくる。「手紙書くから」と言ったら、「手紙なんて着く前に会いにいきます」とごくごく冷静な声色が返された。落ち着き払っているような顔の長谷部くんが憎たらしくて、だから、あんなことをしてしまったんだと思う。
ドアまで数メートルの距離。離れていこうとする手を握りしめて引っ張った。不意をつかれたんだろう、ほんの少しだけ瞬きをしてからバランスを崩した長谷部くんに、背伸びをする。数センチ、数ミリ、ゼロ。私と長谷部くんの間の距離を一瞬で縮めて、無理やりくっつけた唇はレモンの味なんてしなかった。
「……、もう行くね、ばいばい」鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔がおかしくて、ザマアミロ、なんて思ったら愉快で仕方なくなって。
駆け足で電車に乗り込んでから振り返ったら、思い出したみたいに今更真っ赤な顔の長谷部くんが、口をぱくぱくさせながらこっちを見ていた。手を振ったりなんかしない。だって、すぐに会えるに決まってるんだから。
またね、とかさよなら、の代わりに「だいすき」と叫んで、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑ってみせた。顔を真っ赤にした長谷部くん(もう随分遠くに見えるのに、こんなに離れても顔が赤いのが面白い)が何か言ってるのが聞こえたけど、言葉はもう聞き取れなかった。
ガランとした列車の中、「信じてください」、と、言われた言葉を頭の中で何度もなんども再生する。忘れたりなんかしないし、これで終わりになんてならない。きっとずっと、私たちは一緒なのだ。長谷部くんが私に嘘をついたことなんて、ただの一度だってないんだから。
▽
「だから言ったじゃないですか、『きっとすぐに会えます』って」
「…………。そうだね、言ったね」
あの時の涙とか、なんか、色々返して欲しい。
言おうと思ったけど言わなかった。だって面倒臭いことになるから。結論から言うと、全部長谷部くんの言う通りだったのだ。引っ越して二日後、マンションのお隣の部屋がやけにうるさくて、誰か引っ越してきたのかな? と思って覗きに行ったら、なんとそこに長谷部くんが立っていた。
「俺の家ですが、実は酷い手抜き工事物件だったらしいんです。一昨日あなたと別れたあと、玄関のドアを閉めた瞬間に振動で家が全壊してしまって。途方にくれていたところを偶然たまたま親切な親戚が拾ってくれました。親戚が住んでいる場所が偶然にもこのマンションだったもので、すごいですよね。渡りに船とはまさにこのことだと思いませんか」だそうで。
あまりにも胡散臭い。手抜き工事で家が全壊って絶対ウソじゃんとか、そんな都合のいい偶然ってあるんだろうかとか、ていうか会いに来るの早くない? とか、色々とツッコミどころがある気がするけどもうどこから突っ込んでいいのかもわからない。「それにしても」黙りこくる私とは対照的に、長谷部くんときたら得意げににこにこ笑う。
「少し宛が外れました。もう少し喜んでくれると思ったのに」
「や、それは、うれしくないわけじゃ、ないけどさぁ」
「淋しいです、一昨日の別れ際、あんなに熱烈な事をしてくださったのに」
「……それは、えっと、いわゆる一時の」
「一時の気の迷い、ですか? つまりたった一瞬の感情でで俺の事をもてあそんだってことですか? 酷いです、俺はこの二日間夜も眠れなかったのに」
「いや、うん、おうちが全壊したら、そりゃショックで眠れないと思うけど」
「そういう話ではなく」
顔が。顔が、近い。
距離を取ろうと後ずさったら、なんてことだろう、後ろが壁だった。そういえばこの間読んだ少女漫画で、こういうシーンあったなあ。そんなことを思い出せる余裕があったのは、長谷部くんがさらに距離を詰めてくる直前までだった。
「ねぇ、あのとき言ってくださった言葉の、お返事がしたいんです」聞きなれた声。柔らかくて、低くて、なのに、どうしてだろう、今日に限ってやたらと甘ったるく聞こえてしまうから困る。ひょわ、とか、変な声を出したって駄目だった。頬に触れた手が、私の顔を逃げられないように固定する。それで、それから。
……、やっぱり、レモンの味なんかじゃない。
重なった唇にぼんやりと、そんなことを思った。自分からしてきたくせに顔を真っ赤にするのはどうなの、思ったけど言わなかったのは、単純に私もいっぱいいっぱいだったからだ。整った顔を耳まで赤くして、長谷部くんが私を見ている。潤んだ瞳。心臓の音がうるさくても、その声だけは鮮明に聞き取れた。
「あなたが俺を思うより、ずっとずっと、俺はあなたの事が大好きですよ」なんて、本当かなぁ。
錆びついた車輪が、悲鳴のような音を立てていた。「だいじょうぶですよ」その音に紛れてしまわないようにだろうか、長谷部くんは不自然なくらいに明るい声を出す。
「大丈夫です、どんなに遠くに行ったって。またすぐに会えますから」
すぐって、どのくらいすぐだろう。ほんの数日か数か月のことだろうか、それとも数年? この先のことなんて、考えようとしたってうまく行きっこない。だって私はまだ子供で、この街で長谷部くんとずっと一緒にいるんだろうなんて、まだどこかでそんなことを考えているくらいだったから。
何を言おうとしても悲しすぎる気がして、結局「……ん」と、曖昧な返事のような音を返した。私達の息の音と、車輪がギシギシと鳴る音。明け方の街で聞こえるのはそれだけで、世界で二人だけみたいにも思えるのに。
桜、見れなかったな。独り言みたいに呟けば、「写真を送ります。今年も、来年も、その先も」と、長谷部くんは当たり前のように答える。桜が咲く頃には私はこの場所にいないんだと、なんだかその事がまだ不思議だった。もう少ししたら電車に乗って、私はこの街からいなくなるのに。それすらもなんだか現実感がない。長谷部くんは私を励ますような声色で、話を続ける。
「電車で二時間、その後飛行機で三時間。たった五時間じゃないですか、そんなの大した距離じゃない。そうでしょう」きっとそうなんだろう。長谷部くんが私に嘘をついたことなんて、一度もないんだから。だけど、その言葉はどうしたって強がりに聞こえた。私も長谷部くんもまだまだ子供で、だからきっと、その距離は思っているよりもずっとずっと遠い。
まだつぼみが膨らみかけの桜並木。田んぼの中にぽつぽつと立ち並ぶ家。この街に来た頃には馴染めなかった景色が、今はおかしいくらいに愛おしかった。無性に泣きたくなって、目の前の背中に顔を埋める。呼吸のリズムに、シャツ越しの体温。いつの間にこんなに背が伸びたんだろうか。長谷部くんの背中は何だか骨ばって筋肉質で、普段の何倍も広いような感じがした。
「なんだか、三年前と同じですね」くすくすと笑う息遣いは、背中越しにやけに大きい。
「あのときもあなたは、そんなふうに泣きそうな顔をしてたでしょう」
「後ろにいるのに顔なんかわかる?」
「わかるに決まってます、あなたのことなら何でも」
「嘘だ」
「本当です、だって俺は、『あなたのおさななじみ』なんですから」
おさななじみ、なんて。
その言葉すら、苦くて悲しくて仕方がなかった。家族でも親戚でもない。『おさななじみ』なんて吹けば飛ぶような関係は、離れたらきっと何の意味もなくなる。目を閉じる。まぶたの裏に長谷部くんの笑顔が浮かぶ。何度も何度も見た表情。きっと今だってそんなふうに笑ってるんだろう。三年前、まるきりよそ者だった私に『はじめまして』と笑ってくれたのと同じ、やさしくてとろとろの顔で。
毎日のように顔を合わせて一緒に学校に通って放課後は二人で遊んだ。赤の他人同士なのに、まるで兄妹かなにかみたいに。そんな毎日にいきなり終止符が打たれたのはつい先週の事だった。離れて暮らしていた両親が手紙を寄こしてきたのだ。上等な便せんにはたった一行、『海外での事業がひと段落したから、来月から一緒に暮らそう』と書かれていた。
……今更『家族は一緒のほうがいい』なんて。三年前なら待ち遠しくて仕方なかったその知らせが、今ではただ疎ましかった。
放課後のがらんとした教室。古びた本ばかりが並ぶ図書室に校庭、どこまでもまっすぐ続いてくあぜ道に、二人の秘密の場所だった海の近くの洞窟。手紙を受け取ってから七日間、二人でこの町のお気に入りの場所を余すところなく回った。大きな黒板に落書きをして遊んだこと、古びた児童文学の本を夢中で読んだこと、洞窟にランタンを持ち込んでお昼寝したこと。
どこもかしこも、長谷部くんと一緒に過ごした記憶にまみれている。当たり前だ、だってこの三年間、ずっと一緒にいたんだから。
何もかも大嫌いだった。「よかったわねぇ」なんて白々しく喜んで見せた親戚も、厄介払いしたはずの私を今更呼び戻そうとする両親も。これから私が暮らしていくであろう街の名前も、引っ越し屋のダンボールも、転校先の学校も。
そうやって嫌いな物を頭の中で片っ端から消していって、そしたら最後に残ったのは長谷部くんだけだった。もう皆いらない、二人でどっかに逃げちゃいたい。そんなふうに縋ったら、長谷部くんはなんていうだろうか。もしかして「勿論です。素敵ですね」なんて、笑ってくれないだろうか。私の大好きなあの綺麗な瞳に、とろりとした光を浮かべて。
だけど結局、「逃げたい」も「行きたくない」も「さよなら」も何一つ口にできないまま、私はここからいなくなろうとしている。歩いて一時間、自転車なら二十分の、駅までのみちのり。うしろに流れていく景色も音も、ただ私を急かして焦らせる。言いたいことも話したいことも沢山あって、なのに何一つ言葉になんかできなくて。大きいだけで何にも入ってないカバンを握りしめる。
たった一通の手紙にすら抗えない位に私も長谷部くんも子供で、そのことが憎たらしかった。「はやく、大人になれたらいいのに」掠れた声はまともな音の形になんてならなかったのに、長谷部くんが頷いてくれるのが分かった。私がもっと大人ならよかった。二人でどこまでも逃げていけるくらいの大人なら、それか、こんなことで悲しくなんてならない位の大人ならよかったのに。
長谷部くんの背中に額を押し付けたままだから、その声はくぐもって変な感じに聞こえただろう。掠れて揺れて途切れて、くしゃくしゃになった私の泣き言に返事はない。代わりに車輪の音だけがうるさかった。カンカンカン、と、けたたましい踏切の音で、とうとう駅についてしまったことを知る。いきたくない、漏らした声も、涙も、長谷部くんのシャツに吸い込まれて消えていく。名前を呼ばれたけど顔は上げられないまま、ただ背中にしがみつく。
「ねぇ、信じてください」ふ、とため息の音が落ちる。クシャクシャにシャツを握りしめていた私の手に、少しだけ大きい手のひらが重なる。「確かに俺は子供で、二人でどこかに逃げることも、あなたをここに留まらせることだってできません。でも、大丈夫です。方法なんて幾らでもあるんですよ。今までと同じようにとはいかないかもしれないけど、それでも、俺たちはずっと一緒ですから」
諭すみたいに柔らかい声はこんな時なのに落ち着き払っていて、それがなんだか苛立たしかった。悲しいのも寂しいのも私だけみたいで。だからほんの少し顔を上げてじっとりと睨んでやったのに、「ようやく顔を見せてくれた」なんて長谷部くんが笑うから、それもなんだか気に入らない。
「長谷部くんさあ」
「はい」
「淋しくないの」
「淋しいに決まってます、もちろん」
「嘘だ。遠くに行ったら、今までみたいに会えなくなったら、私の顔なんてすぐに忘れちゃうよ。隣の街に行くとかじゃないんだよ」
「忘れるわけないでしょう、バカな事を言わないでください。それにたかが五時間なんて、遠くのうちに入りません」
「たかがって」
「だって、地球の裏側に行くわけでもないんですから……ああ、でも」
「でも、なに」
「例えば地球の裏側に行くとしても、どこまでもついていきますから大丈夫ですよ。たとえそこが天国でも地獄でも俺たちはずっとずっと一緒ですから」
「何それこわい」
「酷いです、『離れたくない』と言ってくれたのは嘘だったんですか」
「そりゃ、言ったかもしれないけどさあ、そうじゃなくて」
「ねぇ、大丈夫ですよ」
「だいじょばないよ」
「大丈夫と言ったら、大丈夫です。ね、俺を信じてください。すぐにまた会いに行きますから」
「……どうやって?」
「……ええと。詳細は、まだ秘密です、が」
怪しい。あからさまに腑に落ちない顔をしてたんだろう、もう一度「信じてください。きっと全部、うまく行きます」なんて念を押されたら頷くしかなかった。涙でかぴかぴになったほっぺたをハンカチで拭いてくれる長谷部くんはどうしたって大人びて見えて、なんだろう、私ばっかりが子供みたいだ。
ぐす、と私が鼻を鳴らす音に長谷部くんは笑みを深くする。「行きましょう」なんて手を取られて、これじゃあまるきり兄妹にしか見えない。
がらんどうの駅のホームで、手を繋いで待っている。あと数分でここを出ないといけないなんて、やっぱり現実感がなかった。ぎゅう、と握り返された手の熱を忘れたくなかった。ほんの少しだけ私より背がたかい、長谷部くんの横顔も。
薄紫色の瞳に、茶色と灰色の中間みたいな髪の毛。初めて見た時からずっと綺麗だなって思ってたことだって、まだ言えてないのにな。ぼんやりと思ったけど無駄だ。無言のまま立ち尽くすうちに、数分の時間なんてたちまち終わってしまった。
ぷぁん、と警笛の音。遠くに見えていた列車の影はすぐに大きくなって、私たちのいる場所まで近づいてくる。「手紙書くから」と言ったら、「手紙なんて着く前に会いにいきます」とごくごく冷静な声色が返された。落ち着き払っているような顔の長谷部くんが憎たらしくて、だから、あんなことをしてしまったんだと思う。
ドアまで数メートルの距離。離れていこうとする手を握りしめて引っ張った。不意をつかれたんだろう、ほんの少しだけ瞬きをしてからバランスを崩した長谷部くんに、背伸びをする。数センチ、数ミリ、ゼロ。私と長谷部くんの間の距離を一瞬で縮めて、無理やりくっつけた唇はレモンの味なんてしなかった。
「……、もう行くね、ばいばい」鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔がおかしくて、ザマアミロ、なんて思ったら愉快で仕方なくなって。
駆け足で電車に乗り込んでから振り返ったら、思い出したみたいに今更真っ赤な顔の長谷部くんが、口をぱくぱくさせながらこっちを見ていた。手を振ったりなんかしない。だって、すぐに会えるに決まってるんだから。
またね、とかさよなら、の代わりに「だいすき」と叫んで、涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑ってみせた。顔を真っ赤にした長谷部くん(もう随分遠くに見えるのに、こんなに離れても顔が赤いのが面白い)が何か言ってるのが聞こえたけど、言葉はもう聞き取れなかった。
ガランとした列車の中、「信じてください」、と、言われた言葉を頭の中で何度もなんども再生する。忘れたりなんかしないし、これで終わりになんてならない。きっとずっと、私たちは一緒なのだ。長谷部くんが私に嘘をついたことなんて、ただの一度だってないんだから。
▽
「だから言ったじゃないですか、『きっとすぐに会えます』って」
「…………。そうだね、言ったね」
あの時の涙とか、なんか、色々返して欲しい。
言おうと思ったけど言わなかった。だって面倒臭いことになるから。結論から言うと、全部長谷部くんの言う通りだったのだ。引っ越して二日後、マンションのお隣の部屋がやけにうるさくて、誰か引っ越してきたのかな? と思って覗きに行ったら、なんとそこに長谷部くんが立っていた。
「俺の家ですが、実は酷い手抜き工事物件だったらしいんです。一昨日あなたと別れたあと、玄関のドアを閉めた瞬間に振動で家が全壊してしまって。途方にくれていたところを偶然たまたま親切な親戚が拾ってくれました。親戚が住んでいる場所が偶然にもこのマンションだったもので、すごいですよね。渡りに船とはまさにこのことだと思いませんか」だそうで。
あまりにも胡散臭い。手抜き工事で家が全壊って絶対ウソじゃんとか、そんな都合のいい偶然ってあるんだろうかとか、ていうか会いに来るの早くない? とか、色々とツッコミどころがある気がするけどもうどこから突っ込んでいいのかもわからない。「それにしても」黙りこくる私とは対照的に、長谷部くんときたら得意げににこにこ笑う。
「少し宛が外れました。もう少し喜んでくれると思ったのに」
「や、それは、うれしくないわけじゃ、ないけどさぁ」
「淋しいです、一昨日の別れ際、あんなに熱烈な事をしてくださったのに」
「……それは、えっと、いわゆる一時の」
「一時の気の迷い、ですか? つまりたった一瞬の感情でで俺の事をもてあそんだってことですか? 酷いです、俺はこの二日間夜も眠れなかったのに」
「いや、うん、おうちが全壊したら、そりゃショックで眠れないと思うけど」
「そういう話ではなく」
顔が。顔が、近い。
距離を取ろうと後ずさったら、なんてことだろう、後ろが壁だった。そういえばこの間読んだ少女漫画で、こういうシーンあったなあ。そんなことを思い出せる余裕があったのは、長谷部くんがさらに距離を詰めてくる直前までだった。
「ねぇ、あのとき言ってくださった言葉の、お返事がしたいんです」聞きなれた声。柔らかくて、低くて、なのに、どうしてだろう、今日に限ってやたらと甘ったるく聞こえてしまうから困る。ひょわ、とか、変な声を出したって駄目だった。頬に触れた手が、私の顔を逃げられないように固定する。それで、それから。
……、やっぱり、レモンの味なんかじゃない。
重なった唇にぼんやりと、そんなことを思った。自分からしてきたくせに顔を真っ赤にするのはどうなの、思ったけど言わなかったのは、単純に私もいっぱいいっぱいだったからだ。整った顔を耳まで赤くして、長谷部くんが私を見ている。潤んだ瞳。心臓の音がうるさくても、その声だけは鮮明に聞き取れた。
「あなたが俺を思うより、ずっとずっと、俺はあなたの事が大好きですよ」なんて、本当かなぁ。