長谷部
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とりあえず生きていける程度のお給料に、死にはしないけどそこそこハードな業務内容。朝九時から十二時間、労働に身を窶せば帰って眠るだけの生活だ。会社と職場の往復で日々は消費され、一日が、一月が、一年が、飛ぶように過ぎては年を取っていく。生きてるんだか死んでるんだかわからない毎日の中で、彼を拾ったのはほんの気まぐれだったのかもしれない。三月二日の二十二時過ぎ。単調な毎日にノイローゼ寸前の私は、アパートの外階段で、行き倒れの男を拾ったのだ。
▽
「おかえりなさい」
「……ああ、うん、ただいま?」
「随分とお疲れのようですね。風呂は沸かしてあります、お荷物はこちらに」
いつも通りに仕事を終え会社を出る。帰宅ラッシュの電車は満員で、死にそうな面々に囲まれれば私まで生気を吸い取られて行くような錯覚を起こす。重い重い荷物に、地面にめり込みそうな体。そうやってなんとか最寄り駅に帰れば、いつも通り彼は私を迎えに来てくれていた。「……長谷部くん」はい、と心底嬉しそうな笑顔。長谷部くん、と言うのが彼の名前だった。先月私が拾ってきた行き倒れの大学院生、長谷部国重くん。三つも四つもバイトを掛け持ちした挙句にほとんど飲まず食わずのまま一週間、夢中で研究室の課題に明け暮れるうちに、無理がたたってうちのアパートの外階段前に行き倒れたらしい。
単なる好奇心と同情心から、「うちでご飯、食べてく?」と提案してしまったところから、私たちの関係は始まった。一度だけのつもりだった。冷蔵庫の具材を適当に炒めただけのチャーハンを綺麗に食べ尽くした彼が、「こんなに美味いチャーハンを食べたのは、人生で初めてです」なんて、目を潤ませて大げさにのたまうのが、なんとも可愛かったのを覚えている。「俺は、俺は。きっとこれを食べるために生きてきたんですそうに決まってますこれは運命です」、なんてまくしたててから、長谷部くんは私の両手を握りしめて、「お礼をさせてください。受けたご恩はかならず返しますから」とまるで忠犬ハチ公みたいなことを言い出した。日々の労働ですり減りきっていた私は、正常な判断力を失っていたんだと思う。「お礼っていうか、それなら毎日一緒に、晩ご飯食べて欲しい。夕飯代奢るから」なんて口走っていた。そこから、私と長谷部くんのなんとも言えない共同生活が始まった。
「長谷部くんってさぁ」
「はい」
「…………、」
あれから二ヶ月。文字通り毎日、長谷部くんと晩御飯を食べている。金はあっても時間がないので、正直ろくな食事を作ってない。卵とネギを落としただけのラーメン、ツナ缶と塩昆布を適当にぶっこんだ炊き込みご飯、シャケにチーズとマヨネーズ乗っけてトースターでチンしたやつ、鶏肉をチンして辛味噌かなんかと和えた何か、豆苗とツナ缶を炒めただけのおかずに、白菜と豚バラを蒸しただけの鍋のような何か。何を作っても彼は目を輝かせて、「美味しいです嬉しいです幸せです」と言わんばかりの笑顔で綺麗にごはんを平らげる。無心にご飯をかき込むその様は、実家で飼っていた犬の姿を彷彿とさせた。そんな長谷部くんを眺めていると、労働で磨り減った心もなんとなく平穏を取り戻すのだ。「おいしい?」と聞けば間髪入れず「美味いです」とかえってくる。それって結構悪くなかった。ひたすら無邪気に可愛いだけの笑顔で日々のストレスは緩和され、他愛もなく誰かと笑い合う時間は私の心をやわらかくほぐしていく。ストレスマネジメントは重要だ。なんとなく仕事もうまい具合に回り始め、どうしたことだろう、なかなかに順調な日々を送っている。だけど。
……だけど、なんか、なんだろう、これって。
「長谷部くんって、さあ」
「はい」
その手に促されるままにカバンを差し出した。返事のついでに今度は左手が伸びて来て、あっさりと私の右手を掴む。「春が近いとは言え、まだまだ冷えます。ねぇ、とりあえず、帰りませんか。風邪を引いたら大変です」冷え切った指先はコートの左ポッケに突っ込まれて、そのまま引きずられるように歩き出す。……これって結局、なんなんだ?あっさりと流された私はそれでも、頭の中でぐるぐるとクエスチョンマークを回す。
毎晩ご飯を食べるだけの関係が、こんなよくわからないことになったのはいつからだろう。いつの間にか私の生活は、長谷部くんにぐいぐいと侵食されていく。いつからだっけ、「ペットを飼い始めたので」って口実で早めに帰るようにしたのが始まりだったんだっけ。
「夜道は暗くて危険なので」とかなんとかいって、長谷部くんが駅まで迎えに来てくれるようになった。「いつも作っていただいてばかりなので」ということで、うちのキッチンでご飯を作ってくれるようになった。宅配便の受け取りをお願いしたのがきっかけで、スペアキーを渡したのは先週だっけ、それとも先々週だっけ。駅からの十分の道のりを一緒に帰り、長谷部くんの作ってくれたご飯を一緒に食べて、長谷部くんが沸かしておいてくれたお風呂に入り(ついでにドライヤーまでかけてもらい)、二人してテレビにツッコミを入れながらドラマ鑑賞などを行ってから「じゃあまた明日」なんて玄関先で彼を見送る。冷蔵庫の中には明日の朝食と、長谷部くんが作ってくれたお弁当。これは、この関係は、一体なんだろう。私の疑問なんか知らぬ顔で、彼は微笑む。
「今日のお夕飯は石狩鍋にしました。鮭が特売だったので。それに春菊のおひたしと、茶碗蒸しと」
「わあすごい、美味しそう」
「デザートにはチーズケーキもあります。バスク風がお好みだとおっしゃっていたので作ってみました」
「え、すごいねチーズケーキなんて作れるんだ」
「手順を守れば意外と簡単に作れますよ。以前ケーキ屋でバイトをしてたので、ある程度は教えてもらったんです」
「へえ、ケーキ屋のケーキってあれバイトが作ってるんだ?」
「ええ。店長がスパルタだったものですから、一通り仕込まれました。モンブランとか、ミルフィーユとか、ムースとか。ああ、そろそろ苺の季節なので、苺のタルトなんかもいいですよね。お好きですか?」
「ああ、うん。苺タルトは、まあ、好きかな」
「それなら、明日は苺タルトを作ります。うんと美味しく作りますから、なるべく早く帰って来てください。いい子にして待ってますから」
いい子にして、待ってますから。
その言葉は妙に甘ったるい声色で鼓膜に残る。
ぎゅ、と。ポケットの中の手に力が込められた。右斜め上で長谷部くんは白い息を吐く。駅から十分のこの道を、並んで歩くのがいつの間にか当たり前になっている。さむいね、と呟けば「さむいです」と返される。「早く帰りましょう」、なんて柔らかい声に頷きながら相変わらず考えている。これって、これって。この関係って、一体なんなんだっけ?「今日のお弁当はいかがでしたか」と聞かれて、「すごい美味しかった。特につくねが」なんて答えている。そしたら「嬉しいです。レシピを見つけた時に、あなたが好きそうな味だと思っていたので」とか微笑まれて、おいおいおい本当に何なんだこれ?と頭の中がさらにクエスチョンマークでいっぱいになる。
「ねぇ」
「? 、はい」
「あのさぁ、なんかこれおかしくない?」
「……? 、おかしい、とは?」
キョトンとした顔を向けられると言葉に詰まる。謎の罪悪感が襲ってきて、さらに思考はしどろもどろになる。「……や、なんかさあ、最初に話してたのとだいぶ違うって、いうか」歯切れの悪いことこの上ない私の言葉の「最初」の部分だけを都合よく聞き取って、長谷部くんはなぜだか頬を染める。「最初。そうですね、最初にあなたと出会ったあの日から、もう二ヶ月も経つんですね」とろとろに潤んだ瞳に、緩みきった口元。いかにも幸福の絶頂みたいに私を見つめてくる長谷部くんは確かに可愛いといえないこともなかったけど、問題はそこじゃないのだ。だけど彼は、「いまだに夢みたいだなと思うんです。あなたが俺を拾ってくださったあの日のことを思い出すと」なんて、すっかり思い出に浸っている。
「三日も寝ないで研究をしていたもので、本当に死ぬところでした。だから目を覚ました時は、天使が迎えに来たのかなんてバカなことを思ってしまって」
「……ねえ、前から思ってたけどさあ長谷部くんって結構大げさだよね?」
「そうでしょうか。だって、あの時作っていただいたチャーハンが忘れられないんです。暖かくて優しくて美味しくて、正面にはあなたが座っていてそれで」
「……まあ、気に入ってくれてよかったよ。たかがチャーハンでそこまで感動する人初めて見たけど」
「ひどいです、俺は本気なのに」
「長谷部くんさあ、変な宗教とかに勧誘されてもついてかないように気をつけてね……」
「……、そうやって、すぐ茶化すのをやめてください。俺は真剣なのに」
態とらしく拗ねた顔があざとくて可愛い。ごめんって、と、心にもないけど一応謝って見せてから、少し乱暴に髪の毛を撫でてみる。見た目ほど硬くない、ほんのり柔らかな髪の毛。「やめてくださいそうやって頭を撫でれば俺が絆されるとでも思ったら大間違いです!俺のことを一体なんだと思ってるんですか」とか何とか長谷部くんはまくしたてたけど、我慢しきれないみたいに口元が緩み出す。じっとりと私を睨みつけながらもされるがまんまで、その様はやっぱり昔飼っていた犬を彷彿とさせるのだ。……ああそうだ。懐かしいな。あの子もそうだった。ちょっと乱暴に撫でても嬉しそうに尻尾を振ってくれて、気持ち良さそうに目を細めては鼻にかかった声で甘えて。思い出すうちに本格的に懐かしくなってしまって、「強いていえば、芝犬」とど直球に答える。一瞬だけ瞬きをして、「……人間ですら、ないんですか」なんて涙目になるあたり、長谷部くんは本気でちょっと犬っぽい。
もうすぐ春も近いのに、夕方過ぎの気温は容赦無く体温を奪っていく。それでもポケットの中の手のひらは暖かくて、だからそれが、どうだっていうわけでもないんだけど。強く強く吹く風が木々を揺らす。「俺は、」ため息をついてから、長谷部くんが低く呟いた言葉も、風に吹かれてかき消えていく。だけど、あえて聞き返すことなんてしなかった。この関係って何だろう、頭の片隅で思いながらも実のところ、本当のことを明らかにする気なんてさらさらない。朝八時に家を出て労働に明け暮れて、死なない程度の給料で飼い殺される日々。可もなく不可もなく、大した不足もなく日々は過ぎていく。淡々とした日々の中で、それでも、確実に変化は訪れる。もう死んでしまった飼い犬、何年も音沙汰のない幼馴染、何かに絶望してこの世を去った同僚、「愛してる」なんて言葉だけ残して、私の側を離れていったあの人。みんなどこへ消えたんだろう。明日は今日の続きで、明日は明後日の続きで、そんな風にずっとずっと、変わらずに日々は連なっていったはずなのに。
そんな日常の中に長谷部くんは唐突に現れて、瞬く間に私を侵食していった。時間は瞬く間に過ぎていくし、二ヶ月なんていうのは一瞬で終わる束の間でしかない。……だけど。
一生のうちのたった二ヶ月の、そのまたさらに十分間。例えば、長谷部くんが明日いなくなったとして、ぽっかり空いたこの十分を、私は適切に埋めることができるだろうか。
「ねぇ」
「……へっ?」
「俺のことを、『犬』だと言いましたよね。先ほど」
「ああ、うん、言ったね」
「この間もおっしゃってましたよね、俺が、以前に飼っていたペットに似ているんだとか」
「……い、言ったっけ?」
「まあ、あの時のあなたは、ひどく酔っ払っていたので覚えてなくても無理はないです」
「ああ、うん、ごめん……?」
「謝らないでください。俺は嬉しいんです。あなたは俺のことをペットの犬だと思ってくださってるんでしょう? それならそれで、全く問題ありません。ね、幾らでも芸をしてみせますし、お役にたってみせますから、だから」
泣きそう。そう思ったのは目の錯覚だったのだろうか。「だから、『捨てる』なんて言わないでくださいね」気が付いた時にはいつも通りに完璧な笑顔で彼は、私を見下ろしていた。何て返事をしていいかもわからないまま頷けば、その瞳はとろんとろんに緩んで瞬きを繰り返す。嬉しいです、という言葉にも曖昧に頷いて、その音に込められた意味に気づかないふりをする。嬉しいです、好きです、好きです好きです好きです、大好きです。頭の中に反響する幻聴はいつの間にか甘ったるい声色に取って代わる。だけどこんなのはきっと、寂しがり屋の私の、都合のいい妄想に違いないので。
駅から徒歩で、十分の距離。この先のことになんか知らんぷりをしたまま、他愛もない話ばかりが楽しい。研究室のおかしな先輩のこと、休憩室で流れてたバラエティ番組のこと、最近できた近所のカレー屋のこと、人懐っこい大学の野良猫のこと。夢みたいな夢でもないような、こんな幸せなんて大抵は、あっけなく幕切れを迎えることも知ってるんだけど。だけど、もう少しだけ知らないふりをするのだ。だって長谷部くんが、「おかえりなさい」と私に微笑んでくれるので。
やすっぽいアパートの二階の六畳一間。扉を開ければ、ふわりと美味しそうな匂いに包まれる。ひたすらに優しくて暖かくて、どこかままごとめいていて。長谷部くんに手を取られて、夢みたいな夢でもないような日常に帰っていく。余計なごちゃごちゃは頭の外にうっちゃって、今日も一日を終わらせるのだ。
「ただいま」
君は私の、可愛いペット。
▽
「おかえりなさい」
「……ああ、うん、ただいま?」
「随分とお疲れのようですね。風呂は沸かしてあります、お荷物はこちらに」
いつも通りに仕事を終え会社を出る。帰宅ラッシュの電車は満員で、死にそうな面々に囲まれれば私まで生気を吸い取られて行くような錯覚を起こす。重い重い荷物に、地面にめり込みそうな体。そうやってなんとか最寄り駅に帰れば、いつも通り彼は私を迎えに来てくれていた。「……長谷部くん」はい、と心底嬉しそうな笑顔。長谷部くん、と言うのが彼の名前だった。先月私が拾ってきた行き倒れの大学院生、長谷部国重くん。三つも四つもバイトを掛け持ちした挙句にほとんど飲まず食わずのまま一週間、夢中で研究室の課題に明け暮れるうちに、無理がたたってうちのアパートの外階段前に行き倒れたらしい。
単なる好奇心と同情心から、「うちでご飯、食べてく?」と提案してしまったところから、私たちの関係は始まった。一度だけのつもりだった。冷蔵庫の具材を適当に炒めただけのチャーハンを綺麗に食べ尽くした彼が、「こんなに美味いチャーハンを食べたのは、人生で初めてです」なんて、目を潤ませて大げさにのたまうのが、なんとも可愛かったのを覚えている。「俺は、俺は。きっとこれを食べるために生きてきたんですそうに決まってますこれは運命です」、なんてまくしたててから、長谷部くんは私の両手を握りしめて、「お礼をさせてください。受けたご恩はかならず返しますから」とまるで忠犬ハチ公みたいなことを言い出した。日々の労働ですり減りきっていた私は、正常な判断力を失っていたんだと思う。「お礼っていうか、それなら毎日一緒に、晩ご飯食べて欲しい。夕飯代奢るから」なんて口走っていた。そこから、私と長谷部くんのなんとも言えない共同生活が始まった。
「長谷部くんってさぁ」
「はい」
「…………、」
あれから二ヶ月。文字通り毎日、長谷部くんと晩御飯を食べている。金はあっても時間がないので、正直ろくな食事を作ってない。卵とネギを落としただけのラーメン、ツナ缶と塩昆布を適当にぶっこんだ炊き込みご飯、シャケにチーズとマヨネーズ乗っけてトースターでチンしたやつ、鶏肉をチンして辛味噌かなんかと和えた何か、豆苗とツナ缶を炒めただけのおかずに、白菜と豚バラを蒸しただけの鍋のような何か。何を作っても彼は目を輝かせて、「美味しいです嬉しいです幸せです」と言わんばかりの笑顔で綺麗にごはんを平らげる。無心にご飯をかき込むその様は、実家で飼っていた犬の姿を彷彿とさせた。そんな長谷部くんを眺めていると、労働で磨り減った心もなんとなく平穏を取り戻すのだ。「おいしい?」と聞けば間髪入れず「美味いです」とかえってくる。それって結構悪くなかった。ひたすら無邪気に可愛いだけの笑顔で日々のストレスは緩和され、他愛もなく誰かと笑い合う時間は私の心をやわらかくほぐしていく。ストレスマネジメントは重要だ。なんとなく仕事もうまい具合に回り始め、どうしたことだろう、なかなかに順調な日々を送っている。だけど。
……だけど、なんか、なんだろう、これって。
「長谷部くんって、さあ」
「はい」
その手に促されるままにカバンを差し出した。返事のついでに今度は左手が伸びて来て、あっさりと私の右手を掴む。「春が近いとは言え、まだまだ冷えます。ねぇ、とりあえず、帰りませんか。風邪を引いたら大変です」冷え切った指先はコートの左ポッケに突っ込まれて、そのまま引きずられるように歩き出す。……これって結局、なんなんだ?あっさりと流された私はそれでも、頭の中でぐるぐるとクエスチョンマークを回す。
毎晩ご飯を食べるだけの関係が、こんなよくわからないことになったのはいつからだろう。いつの間にか私の生活は、長谷部くんにぐいぐいと侵食されていく。いつからだっけ、「ペットを飼い始めたので」って口実で早めに帰るようにしたのが始まりだったんだっけ。
「夜道は暗くて危険なので」とかなんとかいって、長谷部くんが駅まで迎えに来てくれるようになった。「いつも作っていただいてばかりなので」ということで、うちのキッチンでご飯を作ってくれるようになった。宅配便の受け取りをお願いしたのがきっかけで、スペアキーを渡したのは先週だっけ、それとも先々週だっけ。駅からの十分の道のりを一緒に帰り、長谷部くんの作ってくれたご飯を一緒に食べて、長谷部くんが沸かしておいてくれたお風呂に入り(ついでにドライヤーまでかけてもらい)、二人してテレビにツッコミを入れながらドラマ鑑賞などを行ってから「じゃあまた明日」なんて玄関先で彼を見送る。冷蔵庫の中には明日の朝食と、長谷部くんが作ってくれたお弁当。これは、この関係は、一体なんだろう。私の疑問なんか知らぬ顔で、彼は微笑む。
「今日のお夕飯は石狩鍋にしました。鮭が特売だったので。それに春菊のおひたしと、茶碗蒸しと」
「わあすごい、美味しそう」
「デザートにはチーズケーキもあります。バスク風がお好みだとおっしゃっていたので作ってみました」
「え、すごいねチーズケーキなんて作れるんだ」
「手順を守れば意外と簡単に作れますよ。以前ケーキ屋でバイトをしてたので、ある程度は教えてもらったんです」
「へえ、ケーキ屋のケーキってあれバイトが作ってるんだ?」
「ええ。店長がスパルタだったものですから、一通り仕込まれました。モンブランとか、ミルフィーユとか、ムースとか。ああ、そろそろ苺の季節なので、苺のタルトなんかもいいですよね。お好きですか?」
「ああ、うん。苺タルトは、まあ、好きかな」
「それなら、明日は苺タルトを作ります。うんと美味しく作りますから、なるべく早く帰って来てください。いい子にして待ってますから」
いい子にして、待ってますから。
その言葉は妙に甘ったるい声色で鼓膜に残る。
ぎゅ、と。ポケットの中の手に力が込められた。右斜め上で長谷部くんは白い息を吐く。駅から十分のこの道を、並んで歩くのがいつの間にか当たり前になっている。さむいね、と呟けば「さむいです」と返される。「早く帰りましょう」、なんて柔らかい声に頷きながら相変わらず考えている。これって、これって。この関係って、一体なんなんだっけ?「今日のお弁当はいかがでしたか」と聞かれて、「すごい美味しかった。特につくねが」なんて答えている。そしたら「嬉しいです。レシピを見つけた時に、あなたが好きそうな味だと思っていたので」とか微笑まれて、おいおいおい本当に何なんだこれ?と頭の中がさらにクエスチョンマークでいっぱいになる。
「ねぇ」
「? 、はい」
「あのさぁ、なんかこれおかしくない?」
「……? 、おかしい、とは?」
キョトンとした顔を向けられると言葉に詰まる。謎の罪悪感が襲ってきて、さらに思考はしどろもどろになる。「……や、なんかさあ、最初に話してたのとだいぶ違うって、いうか」歯切れの悪いことこの上ない私の言葉の「最初」の部分だけを都合よく聞き取って、長谷部くんはなぜだか頬を染める。「最初。そうですね、最初にあなたと出会ったあの日から、もう二ヶ月も経つんですね」とろとろに潤んだ瞳に、緩みきった口元。いかにも幸福の絶頂みたいに私を見つめてくる長谷部くんは確かに可愛いといえないこともなかったけど、問題はそこじゃないのだ。だけど彼は、「いまだに夢みたいだなと思うんです。あなたが俺を拾ってくださったあの日のことを思い出すと」なんて、すっかり思い出に浸っている。
「三日も寝ないで研究をしていたもので、本当に死ぬところでした。だから目を覚ました時は、天使が迎えに来たのかなんてバカなことを思ってしまって」
「……ねえ、前から思ってたけどさあ長谷部くんって結構大げさだよね?」
「そうでしょうか。だって、あの時作っていただいたチャーハンが忘れられないんです。暖かくて優しくて美味しくて、正面にはあなたが座っていてそれで」
「……まあ、気に入ってくれてよかったよ。たかがチャーハンでそこまで感動する人初めて見たけど」
「ひどいです、俺は本気なのに」
「長谷部くんさあ、変な宗教とかに勧誘されてもついてかないように気をつけてね……」
「……、そうやって、すぐ茶化すのをやめてください。俺は真剣なのに」
態とらしく拗ねた顔があざとくて可愛い。ごめんって、と、心にもないけど一応謝って見せてから、少し乱暴に髪の毛を撫でてみる。見た目ほど硬くない、ほんのり柔らかな髪の毛。「やめてくださいそうやって頭を撫でれば俺が絆されるとでも思ったら大間違いです!俺のことを一体なんだと思ってるんですか」とか何とか長谷部くんはまくしたてたけど、我慢しきれないみたいに口元が緩み出す。じっとりと私を睨みつけながらもされるがまんまで、その様はやっぱり昔飼っていた犬を彷彿とさせるのだ。……ああそうだ。懐かしいな。あの子もそうだった。ちょっと乱暴に撫でても嬉しそうに尻尾を振ってくれて、気持ち良さそうに目を細めては鼻にかかった声で甘えて。思い出すうちに本格的に懐かしくなってしまって、「強いていえば、芝犬」とど直球に答える。一瞬だけ瞬きをして、「……人間ですら、ないんですか」なんて涙目になるあたり、長谷部くんは本気でちょっと犬っぽい。
もうすぐ春も近いのに、夕方過ぎの気温は容赦無く体温を奪っていく。それでもポケットの中の手のひらは暖かくて、だからそれが、どうだっていうわけでもないんだけど。強く強く吹く風が木々を揺らす。「俺は、」ため息をついてから、長谷部くんが低く呟いた言葉も、風に吹かれてかき消えていく。だけど、あえて聞き返すことなんてしなかった。この関係って何だろう、頭の片隅で思いながらも実のところ、本当のことを明らかにする気なんてさらさらない。朝八時に家を出て労働に明け暮れて、死なない程度の給料で飼い殺される日々。可もなく不可もなく、大した不足もなく日々は過ぎていく。淡々とした日々の中で、それでも、確実に変化は訪れる。もう死んでしまった飼い犬、何年も音沙汰のない幼馴染、何かに絶望してこの世を去った同僚、「愛してる」なんて言葉だけ残して、私の側を離れていったあの人。みんなどこへ消えたんだろう。明日は今日の続きで、明日は明後日の続きで、そんな風にずっとずっと、変わらずに日々は連なっていったはずなのに。
そんな日常の中に長谷部くんは唐突に現れて、瞬く間に私を侵食していった。時間は瞬く間に過ぎていくし、二ヶ月なんていうのは一瞬で終わる束の間でしかない。……だけど。
一生のうちのたった二ヶ月の、そのまたさらに十分間。例えば、長谷部くんが明日いなくなったとして、ぽっかり空いたこの十分を、私は適切に埋めることができるだろうか。
「ねぇ」
「……へっ?」
「俺のことを、『犬』だと言いましたよね。先ほど」
「ああ、うん、言ったね」
「この間もおっしゃってましたよね、俺が、以前に飼っていたペットに似ているんだとか」
「……い、言ったっけ?」
「まあ、あの時のあなたは、ひどく酔っ払っていたので覚えてなくても無理はないです」
「ああ、うん、ごめん……?」
「謝らないでください。俺は嬉しいんです。あなたは俺のことをペットの犬だと思ってくださってるんでしょう? それならそれで、全く問題ありません。ね、幾らでも芸をしてみせますし、お役にたってみせますから、だから」
泣きそう。そう思ったのは目の錯覚だったのだろうか。「だから、『捨てる』なんて言わないでくださいね」気が付いた時にはいつも通りに完璧な笑顔で彼は、私を見下ろしていた。何て返事をしていいかもわからないまま頷けば、その瞳はとろんとろんに緩んで瞬きを繰り返す。嬉しいです、という言葉にも曖昧に頷いて、その音に込められた意味に気づかないふりをする。嬉しいです、好きです、好きです好きです好きです、大好きです。頭の中に反響する幻聴はいつの間にか甘ったるい声色に取って代わる。だけどこんなのはきっと、寂しがり屋の私の、都合のいい妄想に違いないので。
駅から徒歩で、十分の距離。この先のことになんか知らんぷりをしたまま、他愛もない話ばかりが楽しい。研究室のおかしな先輩のこと、休憩室で流れてたバラエティ番組のこと、最近できた近所のカレー屋のこと、人懐っこい大学の野良猫のこと。夢みたいな夢でもないような、こんな幸せなんて大抵は、あっけなく幕切れを迎えることも知ってるんだけど。だけど、もう少しだけ知らないふりをするのだ。だって長谷部くんが、「おかえりなさい」と私に微笑んでくれるので。
やすっぽいアパートの二階の六畳一間。扉を開ければ、ふわりと美味しそうな匂いに包まれる。ひたすらに優しくて暖かくて、どこかままごとめいていて。長谷部くんに手を取られて、夢みたいな夢でもないような日常に帰っていく。余計なごちゃごちゃは頭の外にうっちゃって、今日も一日を終わらせるのだ。
「ただいま」
君は私の、可愛いペット。