長谷部
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死ぬかも、と思ったときに思い浮かべるのはいつだって兄の顔だ。そのことが私にはひどく悔しい。
面倒臭い事に巻き込まれている予感は、うすうすしていたのだ。意味ありげな発言の節々に、不穏なものを感じてはいた。面倒くさいから受け流していたけど。なんでこう、私が引っ掛ける男はどいつもこいつもメンヘラ気質なんだろうか。考え込みそうになって途中でやめる。退勤直後に私を呼び留めた元上司(兼元不倫相手)の、焦点の合わない目が心底うっとうしかった。縋り付くように腕を引かれて反射で振り払った。「なるべく手短にお願いします」と、ため息交じりに声を出す。いかにもどうでもいい、とでも言いたげに。それは自分の声のはずなのに、まるで違う誰かの物のようだった。違う誰か、例えば、兄、とか。
「いまさら私に、何の用です?」首をかしげる。「私たちはもう終わったはずでは?」陳腐なドラマのような状況に笑った。笑いながら、揺れる髪の毛を抑えて、耳に掛ける。一つ一つの仕草がまるで瓜二つだと、小さいころから言われていた。まるで双子のように瓜二つだと。実際、私は三つ上の兄に依存しきったまま育った。兄のそばにいれば何もかも大丈夫だと信じ切っていて、それが不自然な事だという自覚なんてこれっぽっちもなかった。国重兄さんは当たり前の顔をして私の手を引いて、私を背中にかばって、何だって赦して与えてくれた。雛の刷り込みみたいなそれを、自覚したのはいつ頃だったんだろう。
一瞬だけ目が遠くなっていたのがそんなに気に障ったんだろうか。目の前の上司、多分明日には元上司、は、激昂した様子でこちらに手を伸ばしてくる。衝撃、の、のちに、熱さとも痛みともつかない感覚。爪が肌に食い込む感触はかなり不快だ。お前を殺してわたしも死ぬ、とかなんとか、震える声も、焦点の合わない目も、明らかに尋常じゃない。胸ポケットから取り出されたバタフライナイフを見て本格的に身構えた。こりゃまずい。
とうとう私もヤキが回ったのだ。テンモウカイカイソにして漏らさず。今の状況にピッタリのことわざが思い浮かんだけど、しかし、漢字がすぐに出てこない。こんなとき国重兄さんがいたなら、「全くお前は仕様のない」とかいいながら漢字を書いてみせてくれるんだろう。あの几帳面で神経質そうな、お手本のようにきれいな字で。
この期におよんで、そんな事を考えているあたり私は真面目さが足りないのかもしれなかった。だからまあ、来るべき時が来たってことなんだろう。結構とっかえひっかえしていた自覚はある。いつかこんなことになるんじゃないかなんて思っていたのも確かだ。しかしそのいつか、がまさか今来るとは。とにかくそんなわけで、冒頭に戻る。
いまわのきわになってまで、私と来たらあの人のことを考えている。私の名前を呼んで、目を合わせて笑ってくれる時のあの顔。とろとろと光を宿した瞳を、綺麗だといつもいつも思っていた。上司はとうとうしびれを切らしたらしい。硬質なステンレスが、きらりと眼前でひらめくのを見て目を閉じた。
夕方のニュースに出るかもしれない。『二十代女性 路地裏で死亡 痴情のもつれか』とかって。司法解剖とかって本当にされるんだろうか。割とどうでもいい事ばかり考えてしまう。そのニュースを見て、国重兄さんはなんていうんだろう。泣いてくれるだろうか。それとも。
気が遠くなったのは一瞬だった。目を閉じたまま、鈍い音で我に返る。掴まれていた左手はあっさりと解放された。薄っすらと漂う血の匂い。カラン、軽やかな響きに瞼を開ければ、路上に放り出されたナイフを、見慣れた指先が拾い上げる。
「だから、いつも言っているだろう。付き合う相手は選びなさい」
耳の奥でよみがえる声と、全く同じに柔らかくて甘い。その声は案外近くで聞こえた。小さい頃から変わらない。いつだって兄はこういう時、私を背中にかばうのだ。おにいちゃん、と思わず口から漏れた声は泣きたくなるくらいに子供じみていた。そこから先は、あまり覚えていない。「妹がいつもお世話になっております」と、とびきり綺麗に笑った国重兄さんの横顔以外はなんにも。気がついたらいつもどおり手を引かれて、車の助手席に放り込まれていた。
▽
相変わらず女っ気もない上に生活感がまるでない。有無を言わさず連れ込まれた兄の部屋はいつも通り殺風景だった。「見せてみなさい」と促されるままに手を差し出せば、骨ばった指先がするすると手首をなぞる。消毒液のにおいが鼻をついた。痛い、と思わず漏らせば、「自業自得だろう」なんて笑みを含んだ声にたしなめられた。
「ああ、これは酷いな」
わざとらしいため息。爪の跡に、うっすらと鬱血して変色した肌。私の手首に残ったそれらの痕跡を覆い隠すみたいに、ぐるぐると包帯が巻かれていく。物心ついたころからずっとこうだった。公園の隅だろうと教室だろうと兄の視線がある。いつだって兄は私を背中にかばって、けがをすれば大げさなくらいに慎重に手当てをした。大人になってからも変わらない。そうして最後には決まって笑うのだ、「お前は、兄さんのそばにいればいいんだよ」と、昔から全く変わらない綺麗な瞳で。
まるで雛の刷り込みだ。兄に言われるがまま、私はこの場所に、この人の傍にさえいられればいいのだと、根拠もなく思い込んでいる。ここだけが正しくて安全な場所だと。
「それで?」
「……それで、も何も、見たとおりだよ。ただの上司」
「ただの上司が、なんでお前と心中未遂なんか起こすんだ」
「……なんでもなにも、えっと、痴情のもつれ、みたいな」
「へえ、あんな豚のような男と?」
「別に普通のおじさんだったじゃん、あの年にしては結構痩せてたし。まあちょっと思いつめる質だったかもしれないけど」
「妻子がいる癖に俺の妹を捕まえて勝手に思い詰めた挙げ句に心中未遂をしでかすのが『ちょっと思いつめる質』か?本当にお前は節操がないな」
「別に節操がないわけじゃないって、毎回ちゃんと選んでる」
「へえ。じゃあ言ってみろ。あの上司とやらを選んだ基準は?」
煙草に火をつける時のやり方が、国重兄さんと同じだったから。
そう言ったらこの人はどういう顔をするんだろう。ふてくされた表情を取り繕う。息を吸って、その香りに泣きそうになる。だけど、「あの人金払いがよかったから」とかなんとか言いながら目をそらして、喉の奥でわだかまる言葉は飲み込んだ。
本当は誰だっていい、ただ一人を除いては。相手が誰であろうと私にとっては同じで。もちろん、そんなのは素直に口には出さない。ゆるくつかまれた手首は振りほどけないまま、だけどそれ以上どうすることもできないで、ぼんやりと思い返す。私たちは兄妹なのだと、気づいてしまったのはいつのことだっただろう。
「全く、金が欲しいなら兄さんに言えばいいだろ」
「いやそういうことじゃなくて」
「わからないな、じゃあどういうことなんだ」
「どうって言われても別に。お金が欲しいとか言うわけじゃなくて、ただ、……」
「『ただ』、なんだって?」
「ただ、…………」
兄の隣を歩く女の人を見たことがある。大学生の頃のことだった。親し気に言葉を交わしながら歩く二人は、あつらえたようにお似合いだった。あそこは私の場所なのに。確かにそう思ってからすぐに打ち消した。国重兄さんがいつまでも私のそばにいるわけがなかったのだ。その感情をどう分類していいかわからないまま、思い出すたびに落ち着かない気持ちになる。雛の刷り込みだと、兄への信頼だと思い込んでいた私のこれは、いったい何なのか。気づいてしまうのが、酷く恐ろしい。
捕まえられたままの手首に、ほんの少しだけ力が籠められる。甘やかな声で、私の名前を呼ぶくちびる。どうしようもなく安心してしまう。だけど。
離れて暮らすようになって、もう三年が経とうとしている。例えば私は、自分に証明しないといけなかった。かばってくれる背中も、髪をなでてくれる指先も、臆面もないくらいに愛し気に揺れる瞳も、簡単に手放してしまえるのだと。
誰でもよかった。目の前のこの人を、忘れさせてくれるならだれでも。だけど、どういうわけかいつだって私は失敗して、そのたびにここに戻ってきてしまう。「いい加減諦めたらどうなんだ」と、笑みを含んだ声に首を振る。抱え込む感情の何もかもに、気づかないふりをする。「やだな、なんの話?」だけど、その声は掠れて震えた。国重兄さんは笑う。「わかってるくせに」なんて、絶望的なくらいの、甘くてひそやかな声で。その瞳に、私だけをうつしたまま。
「っ、はは。かわいそうにな」
「だからなんの話よ」
「本当にお前はかわいそうなくらい健気で、ばかで、かわいいよ」
「……、すっごい含みある言い方したね、ほめてるのそれ?」
「褒めてるに決まってるだろう」
ばかで、健気で、かわいそうで、かわいい俺の妹。
歌うような声が耳をくすぐる。うすく紫がかった瞳。黒とも茶色ともつかない中途半端な髪の色。小さい頃と同じやり方で私の髪をとって、するすると毛先までなぞる指先。医者に言わせれば、これは隔世遺伝なんだそうだ。遠い祖先にロシア人だかドイツ人だかが混じっているらしい。ひいおじいちゃんだかひいひいおじいちゃんだか忘れたけど。親族の中で、そんな色を持っているのは私と兄だけだった。腫れ物に触るような扱いもたくさんされた。汚いものを見るような視線は嫌いだった。だけどこの人さえいれば、後のことなんてどうでもよかった。国重兄さんの隣はいつだって私にとって、安全で正しい場所だったから。
おまえはどうしたって、俺の妹なんだから。いとしげな色を隠しもしないまま、呪いの言葉を吐いて兄が笑う。小さい頃と同じように。まるで、世界に二人っきりだったあの頃のように。
同じ色をした、血の繋がった私の兄。
瞬きを繰り返す。目を逸らそうにも、覗き込まれてしまえばどうしようもなかった。「………だって、こんなの、本当は正しくないんでしょう」言ってしまってから、もう一度自分に言い聞かせる。これは正しい事なのだ、と思い込もうとするのにあらがって。こんなのは正しくない。私の執着心も、国重兄さんの甘さも、多分何もかもが間違っているのに。
かわいそうにな。
国重兄さんは、もう一度そう言って笑って見せる。「可哀想にな、お前はここから逃げられないのに」どこまでも優し気な声色が耳をくすぐる。違う、と言えたらよかった。いつだってこの手を振りほどくことができると、そう言いきれたらよかったのに。
同じ体温に、同じ色。私たちの皮膚の下には、確かに同質の血が流れている。そのことがいつだって疎ましくて、愛おしかった。おにいちゃん、と、口からこぼれた自分の声が物欲しげで笑ってしまう。それにこたえてくれるみたいに、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。愛してるとか好きだとか、そういうたぐいの言葉の何倍も確実な熱を孕んだ声。思ったよりも簡単に、あっさりと重なったくちびるは当然のように私の体温と同化してなじんでいく。唾液の味。昔の記憶より少しだけ苦い。骨ばった掌が、頬の輪郭をたどっていく。「いい子」なんて、笑みを含んだ声。こんなのは正しくない。そう思おうとして、だけど、私の体は自分の意志すら裏切って、この人の言いなりになってしまう。閉じ込められた腕の中、めまいのようなそれに視界を揺らしながら思う。結局いつだって、私は、ここから逃げられない。
▽
気が付いたら深夜二時を回っている。おなかすいた、と呟いたら、「ピザでも取るか、記念に」とかなんとか、国重兄さんが訳の分からない事を言い出すのでちょっと引いた。記念ってなんの、と聞いたら、返ってきたのは「禁断の関係とやらの」とかデリカシーがない上に何が記念なんだかやっぱりわけがわからない回答だったので、「お兄ちゃんってバカなの」とか身も蓋もない事を言ってしまう。
「いや、ほんと、バカなの?禁断の関係って一昔前のエロ小説じゃあるまいし。しかもまだキスしかしてないからね言っとくけど」だけど、私がべらべらと並べ立てた言葉も、だいぶ馬鹿みたいだし身もふたもなかった。「まだキスしか」と、楽し気に繰り返されて墓穴を掘ったことに気づく。まだ、ってなんだ。弁解しようと口を開きかけたタイミングで、はでな音を立てておなかが鳴った。今度こそ耐えきれなくなったみたいに噴き出す兄の背中を軽く蹴飛ばす。
「国重兄さんの馬鹿」
「はは、そうだな」
「そうだな、じゃないよ。私よりスマブラ下手糞なくせに」
「スマブラは関係ないだろ」
「だって本当の事じゃん」
「それを言ったら麻雀は俺の方が強い」
「ええー、あれ絶対イカサマじゃん、あんな連戦連勝するの流石におかしいと思う」
「イカサマだとして、それを見破れないお前が悪い」
「我が兄ながらろくでもないねほんと」
「ああ、どうもありがとう」
「ほめてないよ一個も」
小さいころから変わらない。屈託なく笑う声に、顰め面をして見せる。窓の外は真っ暗で、街灯の明かりだけがしんとした光を投げかける。世界に二人だけみたい。だけど、多分本当にそうなのだと思う。きっと私の世界には、最初からこの人しかいなかった。そう思うと、こらえきれなくなって笑ってしまう。笑いながら、「ねえ好きだよ」、なんて、今更過ぎることを伝えそうになってやめる。代わりみたいに「それはそうとおなかすいた」とぼやけば、当然のようにその手が私を引き寄せて閉じ込める。国重兄さん。私の、国重兄さん。いつだってこの人の傍だけが安全で正しい場所なのだろう。きっと、これからもずっと。
「出前とろう出前。ピザなんてしけたもんじゃなくてもっとこう、特上寿司5人前とか」
「……、お前な」
呆れた調子の声に首をかしげて微笑んでみる。それから、「お願いおにいちゃん」、とねだって見せた。そうすれば、私の大抵のわがままは受け入れるのだから本当に国重兄さんはできた兄貴だ。結局、『特選国産本マグロセレクション ~皇~』とかいうバカみたいな値段の寿司を頼んで、買い置きのビールでやけ食いして雑魚寝した。今のソファで手を繋いだまま、子供の頃の続きみたいに。
面倒臭い事に巻き込まれている予感は、うすうすしていたのだ。意味ありげな発言の節々に、不穏なものを感じてはいた。面倒くさいから受け流していたけど。なんでこう、私が引っ掛ける男はどいつもこいつもメンヘラ気質なんだろうか。考え込みそうになって途中でやめる。退勤直後に私を呼び留めた元上司(兼元不倫相手)の、焦点の合わない目が心底うっとうしかった。縋り付くように腕を引かれて反射で振り払った。「なるべく手短にお願いします」と、ため息交じりに声を出す。いかにもどうでもいい、とでも言いたげに。それは自分の声のはずなのに、まるで違う誰かの物のようだった。違う誰か、例えば、兄、とか。
「いまさら私に、何の用です?」首をかしげる。「私たちはもう終わったはずでは?」陳腐なドラマのような状況に笑った。笑いながら、揺れる髪の毛を抑えて、耳に掛ける。一つ一つの仕草がまるで瓜二つだと、小さいころから言われていた。まるで双子のように瓜二つだと。実際、私は三つ上の兄に依存しきったまま育った。兄のそばにいれば何もかも大丈夫だと信じ切っていて、それが不自然な事だという自覚なんてこれっぽっちもなかった。国重兄さんは当たり前の顔をして私の手を引いて、私を背中にかばって、何だって赦して与えてくれた。雛の刷り込みみたいなそれを、自覚したのはいつ頃だったんだろう。
一瞬だけ目が遠くなっていたのがそんなに気に障ったんだろうか。目の前の上司、多分明日には元上司、は、激昂した様子でこちらに手を伸ばしてくる。衝撃、の、のちに、熱さとも痛みともつかない感覚。爪が肌に食い込む感触はかなり不快だ。お前を殺してわたしも死ぬ、とかなんとか、震える声も、焦点の合わない目も、明らかに尋常じゃない。胸ポケットから取り出されたバタフライナイフを見て本格的に身構えた。こりゃまずい。
とうとう私もヤキが回ったのだ。テンモウカイカイソにして漏らさず。今の状況にピッタリのことわざが思い浮かんだけど、しかし、漢字がすぐに出てこない。こんなとき国重兄さんがいたなら、「全くお前は仕様のない」とかいいながら漢字を書いてみせてくれるんだろう。あの几帳面で神経質そうな、お手本のようにきれいな字で。
この期におよんで、そんな事を考えているあたり私は真面目さが足りないのかもしれなかった。だからまあ、来るべき時が来たってことなんだろう。結構とっかえひっかえしていた自覚はある。いつかこんなことになるんじゃないかなんて思っていたのも確かだ。しかしそのいつか、がまさか今来るとは。とにかくそんなわけで、冒頭に戻る。
いまわのきわになってまで、私と来たらあの人のことを考えている。私の名前を呼んで、目を合わせて笑ってくれる時のあの顔。とろとろと光を宿した瞳を、綺麗だといつもいつも思っていた。上司はとうとうしびれを切らしたらしい。硬質なステンレスが、きらりと眼前でひらめくのを見て目を閉じた。
夕方のニュースに出るかもしれない。『二十代女性 路地裏で死亡 痴情のもつれか』とかって。司法解剖とかって本当にされるんだろうか。割とどうでもいい事ばかり考えてしまう。そのニュースを見て、国重兄さんはなんていうんだろう。泣いてくれるだろうか。それとも。
気が遠くなったのは一瞬だった。目を閉じたまま、鈍い音で我に返る。掴まれていた左手はあっさりと解放された。薄っすらと漂う血の匂い。カラン、軽やかな響きに瞼を開ければ、路上に放り出されたナイフを、見慣れた指先が拾い上げる。
「だから、いつも言っているだろう。付き合う相手は選びなさい」
耳の奥でよみがえる声と、全く同じに柔らかくて甘い。その声は案外近くで聞こえた。小さい頃から変わらない。いつだって兄はこういう時、私を背中にかばうのだ。おにいちゃん、と思わず口から漏れた声は泣きたくなるくらいに子供じみていた。そこから先は、あまり覚えていない。「妹がいつもお世話になっております」と、とびきり綺麗に笑った国重兄さんの横顔以外はなんにも。気がついたらいつもどおり手を引かれて、車の助手席に放り込まれていた。
▽
相変わらず女っ気もない上に生活感がまるでない。有無を言わさず連れ込まれた兄の部屋はいつも通り殺風景だった。「見せてみなさい」と促されるままに手を差し出せば、骨ばった指先がするすると手首をなぞる。消毒液のにおいが鼻をついた。痛い、と思わず漏らせば、「自業自得だろう」なんて笑みを含んだ声にたしなめられた。
「ああ、これは酷いな」
わざとらしいため息。爪の跡に、うっすらと鬱血して変色した肌。私の手首に残ったそれらの痕跡を覆い隠すみたいに、ぐるぐると包帯が巻かれていく。物心ついたころからずっとこうだった。公園の隅だろうと教室だろうと兄の視線がある。いつだって兄は私を背中にかばって、けがをすれば大げさなくらいに慎重に手当てをした。大人になってからも変わらない。そうして最後には決まって笑うのだ、「お前は、兄さんのそばにいればいいんだよ」と、昔から全く変わらない綺麗な瞳で。
まるで雛の刷り込みだ。兄に言われるがまま、私はこの場所に、この人の傍にさえいられればいいのだと、根拠もなく思い込んでいる。ここだけが正しくて安全な場所だと。
「それで?」
「……それで、も何も、見たとおりだよ。ただの上司」
「ただの上司が、なんでお前と心中未遂なんか起こすんだ」
「……なんでもなにも、えっと、痴情のもつれ、みたいな」
「へえ、あんな豚のような男と?」
「別に普通のおじさんだったじゃん、あの年にしては結構痩せてたし。まあちょっと思いつめる質だったかもしれないけど」
「妻子がいる癖に俺の妹を捕まえて勝手に思い詰めた挙げ句に心中未遂をしでかすのが『ちょっと思いつめる質』か?本当にお前は節操がないな」
「別に節操がないわけじゃないって、毎回ちゃんと選んでる」
「へえ。じゃあ言ってみろ。あの上司とやらを選んだ基準は?」
煙草に火をつける時のやり方が、国重兄さんと同じだったから。
そう言ったらこの人はどういう顔をするんだろう。ふてくされた表情を取り繕う。息を吸って、その香りに泣きそうになる。だけど、「あの人金払いがよかったから」とかなんとか言いながら目をそらして、喉の奥でわだかまる言葉は飲み込んだ。
本当は誰だっていい、ただ一人を除いては。相手が誰であろうと私にとっては同じで。もちろん、そんなのは素直に口には出さない。ゆるくつかまれた手首は振りほどけないまま、だけどそれ以上どうすることもできないで、ぼんやりと思い返す。私たちは兄妹なのだと、気づいてしまったのはいつのことだっただろう。
「全く、金が欲しいなら兄さんに言えばいいだろ」
「いやそういうことじゃなくて」
「わからないな、じゃあどういうことなんだ」
「どうって言われても別に。お金が欲しいとか言うわけじゃなくて、ただ、……」
「『ただ』、なんだって?」
「ただ、…………」
兄の隣を歩く女の人を見たことがある。大学生の頃のことだった。親し気に言葉を交わしながら歩く二人は、あつらえたようにお似合いだった。あそこは私の場所なのに。確かにそう思ってからすぐに打ち消した。国重兄さんがいつまでも私のそばにいるわけがなかったのだ。その感情をどう分類していいかわからないまま、思い出すたびに落ち着かない気持ちになる。雛の刷り込みだと、兄への信頼だと思い込んでいた私のこれは、いったい何なのか。気づいてしまうのが、酷く恐ろしい。
捕まえられたままの手首に、ほんの少しだけ力が籠められる。甘やかな声で、私の名前を呼ぶくちびる。どうしようもなく安心してしまう。だけど。
離れて暮らすようになって、もう三年が経とうとしている。例えば私は、自分に証明しないといけなかった。かばってくれる背中も、髪をなでてくれる指先も、臆面もないくらいに愛し気に揺れる瞳も、簡単に手放してしまえるのだと。
誰でもよかった。目の前のこの人を、忘れさせてくれるならだれでも。だけど、どういうわけかいつだって私は失敗して、そのたびにここに戻ってきてしまう。「いい加減諦めたらどうなんだ」と、笑みを含んだ声に首を振る。抱え込む感情の何もかもに、気づかないふりをする。「やだな、なんの話?」だけど、その声は掠れて震えた。国重兄さんは笑う。「わかってるくせに」なんて、絶望的なくらいの、甘くてひそやかな声で。その瞳に、私だけをうつしたまま。
「っ、はは。かわいそうにな」
「だからなんの話よ」
「本当にお前はかわいそうなくらい健気で、ばかで、かわいいよ」
「……、すっごい含みある言い方したね、ほめてるのそれ?」
「褒めてるに決まってるだろう」
ばかで、健気で、かわいそうで、かわいい俺の妹。
歌うような声が耳をくすぐる。うすく紫がかった瞳。黒とも茶色ともつかない中途半端な髪の色。小さい頃と同じやり方で私の髪をとって、するすると毛先までなぞる指先。医者に言わせれば、これは隔世遺伝なんだそうだ。遠い祖先にロシア人だかドイツ人だかが混じっているらしい。ひいおじいちゃんだかひいひいおじいちゃんだか忘れたけど。親族の中で、そんな色を持っているのは私と兄だけだった。腫れ物に触るような扱いもたくさんされた。汚いものを見るような視線は嫌いだった。だけどこの人さえいれば、後のことなんてどうでもよかった。国重兄さんの隣はいつだって私にとって、安全で正しい場所だったから。
おまえはどうしたって、俺の妹なんだから。いとしげな色を隠しもしないまま、呪いの言葉を吐いて兄が笑う。小さい頃と同じように。まるで、世界に二人っきりだったあの頃のように。
同じ色をした、血の繋がった私の兄。
瞬きを繰り返す。目を逸らそうにも、覗き込まれてしまえばどうしようもなかった。「………だって、こんなの、本当は正しくないんでしょう」言ってしまってから、もう一度自分に言い聞かせる。これは正しい事なのだ、と思い込もうとするのにあらがって。こんなのは正しくない。私の執着心も、国重兄さんの甘さも、多分何もかもが間違っているのに。
かわいそうにな。
国重兄さんは、もう一度そう言って笑って見せる。「可哀想にな、お前はここから逃げられないのに」どこまでも優し気な声色が耳をくすぐる。違う、と言えたらよかった。いつだってこの手を振りほどくことができると、そう言いきれたらよかったのに。
同じ体温に、同じ色。私たちの皮膚の下には、確かに同質の血が流れている。そのことがいつだって疎ましくて、愛おしかった。おにいちゃん、と、口からこぼれた自分の声が物欲しげで笑ってしまう。それにこたえてくれるみたいに、自分の名前を呼ぶ声を聞いた。愛してるとか好きだとか、そういうたぐいの言葉の何倍も確実な熱を孕んだ声。思ったよりも簡単に、あっさりと重なったくちびるは当然のように私の体温と同化してなじんでいく。唾液の味。昔の記憶より少しだけ苦い。骨ばった掌が、頬の輪郭をたどっていく。「いい子」なんて、笑みを含んだ声。こんなのは正しくない。そう思おうとして、だけど、私の体は自分の意志すら裏切って、この人の言いなりになってしまう。閉じ込められた腕の中、めまいのようなそれに視界を揺らしながら思う。結局いつだって、私は、ここから逃げられない。
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気が付いたら深夜二時を回っている。おなかすいた、と呟いたら、「ピザでも取るか、記念に」とかなんとか、国重兄さんが訳の分からない事を言い出すのでちょっと引いた。記念ってなんの、と聞いたら、返ってきたのは「禁断の関係とやらの」とかデリカシーがない上に何が記念なんだかやっぱりわけがわからない回答だったので、「お兄ちゃんってバカなの」とか身も蓋もない事を言ってしまう。
「いや、ほんと、バカなの?禁断の関係って一昔前のエロ小説じゃあるまいし。しかもまだキスしかしてないからね言っとくけど」だけど、私がべらべらと並べ立てた言葉も、だいぶ馬鹿みたいだし身もふたもなかった。「まだキスしか」と、楽し気に繰り返されて墓穴を掘ったことに気づく。まだ、ってなんだ。弁解しようと口を開きかけたタイミングで、はでな音を立てておなかが鳴った。今度こそ耐えきれなくなったみたいに噴き出す兄の背中を軽く蹴飛ばす。
「国重兄さんの馬鹿」
「はは、そうだな」
「そうだな、じゃないよ。私よりスマブラ下手糞なくせに」
「スマブラは関係ないだろ」
「だって本当の事じゃん」
「それを言ったら麻雀は俺の方が強い」
「ええー、あれ絶対イカサマじゃん、あんな連戦連勝するの流石におかしいと思う」
「イカサマだとして、それを見破れないお前が悪い」
「我が兄ながらろくでもないねほんと」
「ああ、どうもありがとう」
「ほめてないよ一個も」
小さいころから変わらない。屈託なく笑う声に、顰め面をして見せる。窓の外は真っ暗で、街灯の明かりだけがしんとした光を投げかける。世界に二人だけみたい。だけど、多分本当にそうなのだと思う。きっと私の世界には、最初からこの人しかいなかった。そう思うと、こらえきれなくなって笑ってしまう。笑いながら、「ねえ好きだよ」、なんて、今更過ぎることを伝えそうになってやめる。代わりみたいに「それはそうとおなかすいた」とぼやけば、当然のようにその手が私を引き寄せて閉じ込める。国重兄さん。私の、国重兄さん。いつだってこの人の傍だけが安全で正しい場所なのだろう。きっと、これからもずっと。
「出前とろう出前。ピザなんてしけたもんじゃなくてもっとこう、特上寿司5人前とか」
「……、お前な」
呆れた調子の声に首をかしげて微笑んでみる。それから、「お願いおにいちゃん」、とねだって見せた。そうすれば、私の大抵のわがままは受け入れるのだから本当に国重兄さんはできた兄貴だ。結局、『特選国産本マグロセレクション ~皇~』とかいうバカみたいな値段の寿司を頼んで、買い置きのビールでやけ食いして雑魚寝した。今のソファで手を繋いだまま、子供の頃の続きみたいに。
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