長谷部
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傘を持たずに出たら絶対土砂降りだし、そういう日に限って下したてのパンプスを履いている。退勤間際にもの言いたげな上司と目が合って、なんとなく中指でも立ててやろうかと思ったけどどうでもいいのでやめた。カバンの中に入った仕事用のPCを守るように抱えながら、小走りで会社から駅までの五分の距離を行く。
何のことはない、今時ありふれてる爛れた関係だ。相手は既婚子持ちの上司、「妻とはもう別れることになっている」とか絶対嘘っぱちのセリフは思った通り嘘だった。だから何ということもない。自力じゃ滅多にお目にかかれないような豪華なディナーと、メルカリに出せば結構いい値段で売れそうなプレゼントはまあまあ悪くなかった。惜しくないといたら嘘になる。だけどそれだけだ。転職するまでの半年間、いい暇つぶしができたというだけ。おまけにこないだ、上司の妻に呼び出しを喰らって「あの人とはこれっきりにしてくれるかしら」なんてドラマみたいなセリフで怒鳴りつけられるという、かなり稀有な経験もできた。別に何とも思ってない。何なら結構結構面白かった。だけど、彼が寄こしてきたネックレスの鎖は、濡れた肌に張り付いてひどく不快だ。
自宅へ向かうのとは反対方向の電車に乗って、そこから三分。駅前から直結の豪華なエントランスをくぐれば、一人世帯には豪華すぎるタワーマンションのホールに出る。国重兄さんがここを買ったときは正直驚いた。「え、愛人に買ったの……?」とか思わずバカみたいな事を口走ったら、容赦なくデコピンされた。国重兄さん。私の三つ上の兄だ。外見以外はこれっぽっちも似てなくて、馬鹿みたいに何でもできて、そしてたまに本当に馬鹿で、信じられない位に私に甘くて優しい、血のつながった兄弟。合いかぎを使って部屋の中に入れば、相変わらず生活感のない空間が広がっていて笑ってしまう。やたらと広いリビングには、大量の本と、ソファーと、テレビだけが鎮座している。殺風景な部屋の中、それでも、息を吸えばあの人の香りがして、それだけでひどく安心してしまう。
ずぶ濡れのまま靴を脱ぎ散らかして部屋に上がる。カバンだってそこに放り投げてから、無造作に濡れた髪の毛を拭いた。罪悪感なんて感じようがなかった。私がどれだけ傍若無人にふるまったって、どうしようもない失敗をしたって、兄はいつも「全く、お前はしょうがない」と愛し気に目を細めるだけで、何だって赦してしまうのだ。国重兄さん。私と血のつながった、私の。ああ、だから厄介なのだ。洗面台の、やっぱり無駄に鏡に映り込んだ瞳の色がうっとうしかった。兄と全く同じ、うっすらと紫がかった瞳。灰色と黒の中間みたいな色素の薄い髪の毛。なにもかもが、私とあの人が血縁関係にあることを主張している。もう本当に、これだから。
ざあざあと本降りになる雨の音を聞く。箪笥から適当にジャージ(それがまたクソダサい)を引っ張り出して羽織れば、ふわりと嗅ぎなれた匂いが鼻をくすぐる。冷蔵庫を開けてみれば、ほとんど缶ビールが詰め込まれたそこに、私の好物の生ハムとプリンだけがこれ見よがしに入っているので泣きたくなった。「……なんだよしけてんな」泣きそうになるのをごまかすみたいに呟いた悪態は、思いがけず甘ったるい口調で空間に溶ける。
生ハムに、プリンに、専用のマグカップ。兄はココアなんて飲まない癖に、キッチンの右端の戸棚には私の好きな銘柄が常備されている。いつだってここに逃げてきていいように。「お前はどうしたって、俺の妹なんだから」と笑う、あの声が耳の奥でよみがえる。嫌になる。私は結局、この人から逃げられはしないのだ。泣きたいような笑いたいような、感情が雪崩を起こして喉元でこんがらがる。腹立たしさに任せて生ハムを平らげて、国重兄さんが一番お気に入りの銘柄のビールも飲み干してやった。首にまとわりつくネックレスを外そうともがいたけど、金具がぐちゃぐちゃに絡みついて離れない。「ち、……っくしょ、」したうちを零す。喉元にせりあがってくるしょっぱい味を飲み込む。
ネックレスを外すことはあきらめて、上等そうなソファーに自堕落に寝転がった。机の上に無造作に重ねてある本を抜き取ってパラパラと眺めて、ある一文が目に入った瞬間に速攻で閉じた。
一人の男だけ見つめている女と、一人の男からいつも目をそらす女は、結局似たようなものである。
しょうもな。もうずっと昔から使い古された格言じゃんか。月九のドラマとかで引用されがちなべたなやつ。今更なんの価値もない。「は、は」笑いともため息ともつかない音が喉からこぼれる。放り投げた本は机にぶつかって、かつん、と硬質な音を立てた。薄暗闇の中で目をつぶる。私をどうしようもなく安心させてくれる、その匂いにつつまれながら目を閉じる。瞼の裏で、国重兄さんが柔らかく笑う。私を呼んでくれるあの声の、臆面のないくらいの甘さ。ぎゅう、とジャージの裾を握りしめて身を縮めた。遠くの方で、雷が落ちる音を聞く。
▽
柔らかい声で、自分の名前を呼んでくれる声を聞いた。首筋をなぞる指先が、絡まった鎖を丁寧に丁寧にほどいていく。外されたネックレスが、無造作に床に落とされる。ゆめうつつの意識の中、金属質の音が嫌に耳に残った。うっすらと濡れた髪の毛を避けてから、耳たぶに唇の感触。
「っ、はは。お前は本当に懲りないな」
甘い。飛び切り甘くて柔らかい、その声に含まれる感情には知らないふりをする。くにしげにいさん。寝言のふりでその名前を呼べば、笑みをこぼす気配。それから、ふわりと身体が浮かぶ。押し付けられた体温は、昔からずっと変わらない。少しだけ私よりも冷たいからだの熱がまじりあって同化していく。この人はいつだってそうだ。こうやって、私がここに逃げ込んでくることを見透かしている。国重兄さんから逃げようともがいて、もがいて、そうして失敗した私がここに戻ってくるのを待っている。
最悪だ。高級ホテルのディナーもいい値段のプレゼントだって、これっぽっちの効果もなかった。これまでとっかえひっかえしてきた男の誰も彼もが教えてくる。誰といたって、どこにいたって、結局私はこの兄のことを考えている。絶対的なつながりを持つ、憎たらしいくらいに私にそっくりな、国重兄さんの事を。
「……兄さん」
「ん?なんだ、起きてるんなら自分で歩きなさい」
「ええー……やだめんどい」
「面倒くさい、じゃない。体を冷やしたらどうするんだ、風邪をひくだろ」
「……んん」
視界が黒くぼやける。窓の外の、街灯の明かりだけが部屋に光を落とす。国重兄さん、は、瞳を眇めて甘ったるく笑って見せる。かたちのいい唇が、私の名前をかたどってくれるのをぼんやりと眺めた。それから、背中に腕を回せばゆるく髪の毛を撫でられる。何があった、なんて兄は聞かない。私がどこで何をしてきたのかなんて、きっとこの人はすべてわかってる。そんなのは大した問題じゃないのだ。だって国重兄さんはいつだって、私を赦して愛してくれたから。たとえ、私がどんなに汚れて見せたとしても。
横たえられたベッドの上。ほとんど声にならない位の音で兄を呼べば、返事の代わりに額に口づけが降ってくる。なにもかもに気づかないふりをする。それなのに、左手で捕まえた指先を、手離してしまうのが嫌だった。寝惚けたふりをして、離れていこうとする体温をつなぎとめている。毛布の向こう側で、その人が笑ってくれる。「おやすみ、俺の、」耳元でささやかれた言葉に気づかないふりをした。落ちるように眠りにつく。酷く私を安心させる、その香りに包まれたままで。
▽
「…………ねえ、国重兄さん」
「……うう」
「……お兄ちゃんったら」
「……いやだ、ことわる……」
「や、断る、じゃなくてさあ。自分が床で寝てどうすんの、ほら」
「…………」
深夜二時くらい、かもしれない。あのまま寝落ちた私の手を、国重兄さんは律義に握ったまんまにしていたらしい。ベッドの隅っこにもたれかかったまま、中途半端な姿勢で眠る兄の顔は、憎たらしいくらいに安らかだ。この人、一回寝たらテコでも起きないんだよなまいったな。
ベッドに引っ張り上げようとすれば駄々っ子みたいに抵抗するのが面白い。手を離そうとすれば「いやだ」と、これまた泣きそうな声を出すのも結構愉快だ。いつも余裕しゃくしゃく、『俺は完璧です』みたいな顔をしている兄の、こういう所は結構かわいい。なので、枕もとの兄の携帯を勝手に拝借して写真を撮っておくことにする。パシャリ、と、かなり大きな音が響いたのに起きる気配はみじんもない。ゆるく手を引っ張れば逆に引っ張り返されて、バランスを崩した体はずるずると国重兄さんを下敷きにしてしまう。
「ねえちょっと」
「…………」
「風邪ひくよ」
「…………」
安らかな寝息の音。ゆるく抱きしめてくる腕は、簡単に振りほどけそうなくらい。だけど、まあ、いいや。だってまだ寒いし、このまま一人で床に寝ていたら風邪をひくだろう。あきらめて毛布を引きずり下ろす。すっぽりと包まれば、穏やかな心臓の音が心地よかった。懲りないな、お前も。甘ったるい兄の声を思い出して一人で笑う。「ほんと、懲りないよね、私も」笑い声は私と国重兄さんの間で転がって、溶けて消える。無意識なんだろうか、彼はあやすみたいに背中を撫でてくれる。小さいころと全く変わらない、丁寧な仕草で。ざあざあと、遠くで雨の音。強い風が吹いて窓ガラスを揺らす。私はと言えば性懲りもなく、小さいころに兄が話してくれた方舟の事を考えていた。100日間降り続く雨。余計なものは全部全部流されてしまう。たった一つの方舟の中に、番で閉じ込められたなら。
そんなのは夢のお話しで、結局私たちは兄妹以外の何物にもなれないんだけど。
※次の日起きてみたら、身体は寝違えてバッキバキだし寝惚け眼の国重兄さんの頬には面白いくらいにくっきりとフローリングの跡なんか残ってるもんだから笑ってしまった。それから、珍妙な寝ぐせを付けた兄を笑い飛ばしていたらおでこにチョップなんかくらわされて、しかも「そういえば昨日モンブランを買ったが、当然お前の分はないからな」とか言われたもんだから結構醜い言い争いに発展した。「冷蔵庫の生ハム勝手に食べただろ」、とか、「しかもお前ビールまで飲んだな」、とか、国重兄さんは何気にみみっちいのだ。
その癖、私が「そっちだって私がメルカリに売ろうとしてたネックレス捨てたじゃん!」と反論すれば、心底どうでもよさそうな顔で「あんなもの、幾らでも兄さんが買ってやるのに」とかって国重兄さんは笑うのだ。本当にこの人、みみっちいんだかなんなんだかわからない。結局、モンブランは二つとも平らげた上に、誕生日でも何でもないのに代わりのネックレスを買いに出かけることになった。兄と二人で。何それ超しょっぱい、だけど、眉を顰めて見せる自分の顔は我ながらまんざらでもなさそうで、本当に嫌になる。懲りないよね、私も。
何のことはない、今時ありふれてる爛れた関係だ。相手は既婚子持ちの上司、「妻とはもう別れることになっている」とか絶対嘘っぱちのセリフは思った通り嘘だった。だから何ということもない。自力じゃ滅多にお目にかかれないような豪華なディナーと、メルカリに出せば結構いい値段で売れそうなプレゼントはまあまあ悪くなかった。惜しくないといたら嘘になる。だけどそれだけだ。転職するまでの半年間、いい暇つぶしができたというだけ。おまけにこないだ、上司の妻に呼び出しを喰らって「あの人とはこれっきりにしてくれるかしら」なんてドラマみたいなセリフで怒鳴りつけられるという、かなり稀有な経験もできた。別に何とも思ってない。何なら結構結構面白かった。だけど、彼が寄こしてきたネックレスの鎖は、濡れた肌に張り付いてひどく不快だ。
自宅へ向かうのとは反対方向の電車に乗って、そこから三分。駅前から直結の豪華なエントランスをくぐれば、一人世帯には豪華すぎるタワーマンションのホールに出る。国重兄さんがここを買ったときは正直驚いた。「え、愛人に買ったの……?」とか思わずバカみたいな事を口走ったら、容赦なくデコピンされた。国重兄さん。私の三つ上の兄だ。外見以外はこれっぽっちも似てなくて、馬鹿みたいに何でもできて、そしてたまに本当に馬鹿で、信じられない位に私に甘くて優しい、血のつながった兄弟。合いかぎを使って部屋の中に入れば、相変わらず生活感のない空間が広がっていて笑ってしまう。やたらと広いリビングには、大量の本と、ソファーと、テレビだけが鎮座している。殺風景な部屋の中、それでも、息を吸えばあの人の香りがして、それだけでひどく安心してしまう。
ずぶ濡れのまま靴を脱ぎ散らかして部屋に上がる。カバンだってそこに放り投げてから、無造作に濡れた髪の毛を拭いた。罪悪感なんて感じようがなかった。私がどれだけ傍若無人にふるまったって、どうしようもない失敗をしたって、兄はいつも「全く、お前はしょうがない」と愛し気に目を細めるだけで、何だって赦してしまうのだ。国重兄さん。私と血のつながった、私の。ああ、だから厄介なのだ。洗面台の、やっぱり無駄に鏡に映り込んだ瞳の色がうっとうしかった。兄と全く同じ、うっすらと紫がかった瞳。灰色と黒の中間みたいな色素の薄い髪の毛。なにもかもが、私とあの人が血縁関係にあることを主張している。もう本当に、これだから。
ざあざあと本降りになる雨の音を聞く。箪笥から適当にジャージ(それがまたクソダサい)を引っ張り出して羽織れば、ふわりと嗅ぎなれた匂いが鼻をくすぐる。冷蔵庫を開けてみれば、ほとんど缶ビールが詰め込まれたそこに、私の好物の生ハムとプリンだけがこれ見よがしに入っているので泣きたくなった。「……なんだよしけてんな」泣きそうになるのをごまかすみたいに呟いた悪態は、思いがけず甘ったるい口調で空間に溶ける。
生ハムに、プリンに、専用のマグカップ。兄はココアなんて飲まない癖に、キッチンの右端の戸棚には私の好きな銘柄が常備されている。いつだってここに逃げてきていいように。「お前はどうしたって、俺の妹なんだから」と笑う、あの声が耳の奥でよみがえる。嫌になる。私は結局、この人から逃げられはしないのだ。泣きたいような笑いたいような、感情が雪崩を起こして喉元でこんがらがる。腹立たしさに任せて生ハムを平らげて、国重兄さんが一番お気に入りの銘柄のビールも飲み干してやった。首にまとわりつくネックレスを外そうともがいたけど、金具がぐちゃぐちゃに絡みついて離れない。「ち、……っくしょ、」したうちを零す。喉元にせりあがってくるしょっぱい味を飲み込む。
ネックレスを外すことはあきらめて、上等そうなソファーに自堕落に寝転がった。机の上に無造作に重ねてある本を抜き取ってパラパラと眺めて、ある一文が目に入った瞬間に速攻で閉じた。
一人の男だけ見つめている女と、一人の男からいつも目をそらす女は、結局似たようなものである。
しょうもな。もうずっと昔から使い古された格言じゃんか。月九のドラマとかで引用されがちなべたなやつ。今更なんの価値もない。「は、は」笑いともため息ともつかない音が喉からこぼれる。放り投げた本は机にぶつかって、かつん、と硬質な音を立てた。薄暗闇の中で目をつぶる。私をどうしようもなく安心させてくれる、その匂いにつつまれながら目を閉じる。瞼の裏で、国重兄さんが柔らかく笑う。私を呼んでくれるあの声の、臆面のないくらいの甘さ。ぎゅう、とジャージの裾を握りしめて身を縮めた。遠くの方で、雷が落ちる音を聞く。
▽
柔らかい声で、自分の名前を呼んでくれる声を聞いた。首筋をなぞる指先が、絡まった鎖を丁寧に丁寧にほどいていく。外されたネックレスが、無造作に床に落とされる。ゆめうつつの意識の中、金属質の音が嫌に耳に残った。うっすらと濡れた髪の毛を避けてから、耳たぶに唇の感触。
「っ、はは。お前は本当に懲りないな」
甘い。飛び切り甘くて柔らかい、その声に含まれる感情には知らないふりをする。くにしげにいさん。寝言のふりでその名前を呼べば、笑みをこぼす気配。それから、ふわりと身体が浮かぶ。押し付けられた体温は、昔からずっと変わらない。少しだけ私よりも冷たいからだの熱がまじりあって同化していく。この人はいつだってそうだ。こうやって、私がここに逃げ込んでくることを見透かしている。国重兄さんから逃げようともがいて、もがいて、そうして失敗した私がここに戻ってくるのを待っている。
最悪だ。高級ホテルのディナーもいい値段のプレゼントだって、これっぽっちの効果もなかった。これまでとっかえひっかえしてきた男の誰も彼もが教えてくる。誰といたって、どこにいたって、結局私はこの兄のことを考えている。絶対的なつながりを持つ、憎たらしいくらいに私にそっくりな、国重兄さんの事を。
「……兄さん」
「ん?なんだ、起きてるんなら自分で歩きなさい」
「ええー……やだめんどい」
「面倒くさい、じゃない。体を冷やしたらどうするんだ、風邪をひくだろ」
「……んん」
視界が黒くぼやける。窓の外の、街灯の明かりだけが部屋に光を落とす。国重兄さん、は、瞳を眇めて甘ったるく笑って見せる。かたちのいい唇が、私の名前をかたどってくれるのをぼんやりと眺めた。それから、背中に腕を回せばゆるく髪の毛を撫でられる。何があった、なんて兄は聞かない。私がどこで何をしてきたのかなんて、きっとこの人はすべてわかってる。そんなのは大した問題じゃないのだ。だって国重兄さんはいつだって、私を赦して愛してくれたから。たとえ、私がどんなに汚れて見せたとしても。
横たえられたベッドの上。ほとんど声にならない位の音で兄を呼べば、返事の代わりに額に口づけが降ってくる。なにもかもに気づかないふりをする。それなのに、左手で捕まえた指先を、手離してしまうのが嫌だった。寝惚けたふりをして、離れていこうとする体温をつなぎとめている。毛布の向こう側で、その人が笑ってくれる。「おやすみ、俺の、」耳元でささやかれた言葉に気づかないふりをした。落ちるように眠りにつく。酷く私を安心させる、その香りに包まれたままで。
▽
「…………ねえ、国重兄さん」
「……うう」
「……お兄ちゃんったら」
「……いやだ、ことわる……」
「や、断る、じゃなくてさあ。自分が床で寝てどうすんの、ほら」
「…………」
深夜二時くらい、かもしれない。あのまま寝落ちた私の手を、国重兄さんは律義に握ったまんまにしていたらしい。ベッドの隅っこにもたれかかったまま、中途半端な姿勢で眠る兄の顔は、憎たらしいくらいに安らかだ。この人、一回寝たらテコでも起きないんだよなまいったな。
ベッドに引っ張り上げようとすれば駄々っ子みたいに抵抗するのが面白い。手を離そうとすれば「いやだ」と、これまた泣きそうな声を出すのも結構愉快だ。いつも余裕しゃくしゃく、『俺は完璧です』みたいな顔をしている兄の、こういう所は結構かわいい。なので、枕もとの兄の携帯を勝手に拝借して写真を撮っておくことにする。パシャリ、と、かなり大きな音が響いたのに起きる気配はみじんもない。ゆるく手を引っ張れば逆に引っ張り返されて、バランスを崩した体はずるずると国重兄さんを下敷きにしてしまう。
「ねえちょっと」
「…………」
「風邪ひくよ」
「…………」
安らかな寝息の音。ゆるく抱きしめてくる腕は、簡単に振りほどけそうなくらい。だけど、まあ、いいや。だってまだ寒いし、このまま一人で床に寝ていたら風邪をひくだろう。あきらめて毛布を引きずり下ろす。すっぽりと包まれば、穏やかな心臓の音が心地よかった。懲りないな、お前も。甘ったるい兄の声を思い出して一人で笑う。「ほんと、懲りないよね、私も」笑い声は私と国重兄さんの間で転がって、溶けて消える。無意識なんだろうか、彼はあやすみたいに背中を撫でてくれる。小さいころと全く変わらない、丁寧な仕草で。ざあざあと、遠くで雨の音。強い風が吹いて窓ガラスを揺らす。私はと言えば性懲りもなく、小さいころに兄が話してくれた方舟の事を考えていた。100日間降り続く雨。余計なものは全部全部流されてしまう。たった一つの方舟の中に、番で閉じ込められたなら。
そんなのは夢のお話しで、結局私たちは兄妹以外の何物にもなれないんだけど。
※次の日起きてみたら、身体は寝違えてバッキバキだし寝惚け眼の国重兄さんの頬には面白いくらいにくっきりとフローリングの跡なんか残ってるもんだから笑ってしまった。それから、珍妙な寝ぐせを付けた兄を笑い飛ばしていたらおでこにチョップなんかくらわされて、しかも「そういえば昨日モンブランを買ったが、当然お前の分はないからな」とか言われたもんだから結構醜い言い争いに発展した。「冷蔵庫の生ハム勝手に食べただろ」、とか、「しかもお前ビールまで飲んだな」、とか、国重兄さんは何気にみみっちいのだ。
その癖、私が「そっちだって私がメルカリに売ろうとしてたネックレス捨てたじゃん!」と反論すれば、心底どうでもよさそうな顔で「あんなもの、幾らでも兄さんが買ってやるのに」とかって国重兄さんは笑うのだ。本当にこの人、みみっちいんだかなんなんだかわからない。結局、モンブランは二つとも平らげた上に、誕生日でも何でもないのに代わりのネックレスを買いに出かけることになった。兄と二人で。何それ超しょっぱい、だけど、眉を顰めて見せる自分の顔は我ながらまんざらでもなさそうで、本当に嫌になる。懲りないよね、私も。