長谷部
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「頼む、三十分経ったら起こしてくれ。抓っても引っ叩いても構わないから」
それだけ言い残して長谷部さんは眠りの世界へ旅立って行った。目元のクマが凄い。クシャクシャに乱れた髪の毛に、適当に腕まくりされたシャツに、肩に避けられたネクタイ。エアコンの音に混じってかすかに、穏やかな寝息が聞こえる。12時ぴったり、会議室に残っているのは私達だけだった。
「鬼」とか「アクマ」とか「ヤクザ」とか、さんざん聞かされた長谷部さんの噂を思い出しながらその寝顔を眺める。この人と組んで、そろそろ二ヶ月。こんがり炎上中のプロジェクト(メンバーが全員逃げた)の尻拭いに運悪く投入されて、ランチをとる暇もない日々が続いている。冗談じゃなかった。この仕事が終わったら絶対転職してやる、と固く固く心に誓った。だけど、長谷部さんは噂で聞いてたほど極悪でも最悪でもないのだ。噂通り頭は切れるけど、後輩の私には意外と優しい。理不尽なクレームからはかばってくれるし、残業はどんなに遅くても終電まで(納期が迫ってきたらそうも言ってられなそうだけど)。私が出したミスの後始末にだって、辛抱強く付き合ってくれるんだから頭が上がらない。
「……、ん、……、……」
薄い唇が開いて、ほんの少し何かを言いかける。だけどそれは言葉にもならないで、呼吸の音に変わっていく。片手に栄養ゼリー、片手に会議用の資料(昨日長谷部さんが徹夜で終わらせてくれたやつ)。目の前にはノートパソコン(今週末が納期のタスクを書いた付箋が死ぬほど貼ってある)(いよいよ修羅場で、来週まで生き延びていたら奇跡って感じだ)。あと一時間で会議で、それまでに資料に目を通しておかないといけない。それなのに目の前の文章には少しも集中できなくて、気が付いたら隣ばかりをながめてしまう。
腕の隙間から少しだけ覗いた目元。日中はいつだって眉間にしわを寄せてるくせに、寝顔は案外あどけない。ぴったり閉じられたまぶたは綺麗な二重で、長い長い睫毛が目元に影を落としている。身じろぎをした拍子に、机の上の書類の山が崩れそうになるので慌てて抑える。てっぺんの紙がひらひらと落っこちて、長谷部さんの頭に乗っかった。少しだけひやりとしたけど、問題はなかったみたいだ。ぱさ、と、響いた音になんか気づくこともなく、長谷部さんは眠っている。この上なく安らかに、穏やかに。
時計の音と、長谷部さんの寝息と、私が栄養ゼリーを吸う遠慮がちな音だけが部屋に響く。プロジェクトの為に貸し切りにしている会議室は、世界から切り離されたみたいに静かで穏やかで安全だ。ここが会社だとか、炎上中のプロジェクトがどうこうとか、そんなことは忘れてしまうくらいに。長谷部さんから書類に視線を戻す。なるべく音を立てないように気配を殺して、静かに、静かに。息を潜めてページを捲る。これ以上ないくらい明快にすっきりとまとめられたそれはいかにも長谷部さんって感じで何だか笑えてくる。この状況に全然似つかわしくない、硬い文章がおかしい。それでもなんとか読みすすめること五分、もしかしたら、三分くらいだったかもしれない(何しろ全然集中力が持たなかった)。
「……す、」漸くまともに読み始めたタイミングで、舌足らずな声、が、隣から。普段の隙のなさなんてかけらもないその声に、またしても手を止めてしまう。ついでに息を止めて、耳もそばだてる。「……いつも、たいへん、おせわになって、……す……、」苦しげな表情。眉間には深く深く皺が刻まれている。……夢の中でまで仕事してるなんて、相当まいってるんだな。可哀想に。同情しながら眺めていたら、うう、とうめき声とともに、今度は本格的にその体が傾いた。ごつん、と、おでこが机にぶつかる音。ついでに延ばされた掌が、積み上げられた書類の山に引っかかり、それで。
あ、やばい、と思う間もなかった。書類の山は私の目の前であっけなく崩壊して、派手な音とともに長谷部さんに降り注いだ。どさ、どさどさどさどさ、ばさっ。極めつけに、慌てて立ち上がった私のパイプ椅子が、後ろに倒れてけたたましく床にぶつかる、音。それから、三秒間の沈黙。あっけにとられたままその光景を眺める。散らばった紙の束。ストライプのシャツを着た背中。ぺら、と音を立てて、後頭部の一番てっぺんに乗っかっていた紙が滑り落ちていく。舞い上がった埃が日の光に透けて綺麗だった。長谷部さんの白い首筋と、均整の取れた背中のラインも。書類の山に埋もれてても美形ってどういうことなんだろう?いや、そんなの今考えることじゃないんだけど。
「は、…………せべさん……?」
「…………」
書類に埋まったままの背中に、恐る恐る声をかけてみる、けど、長谷部さんは微動だにしない。「え、ちょっと、大丈夫ですか……?」生きてる?死んだ?そんなまさか。相変わらず穏やかに繰り返される呼吸の音が、却って不安を煽った。「はせべさん……?ねえ、大丈夫ですか?はせべさん、」呼びかける。反応はない。窒息したわけではなさそうだけど。自問自答しながら書類の山をかき分けて、何とか救出を試みる。ばさばさ、ばさばさばさ。机の上から滑り落ちていく書類たちが鳥の羽ばたきみたいな音を立てている。結構うるさいけど構ってられない。もう、『起こしたら可哀想』だなんて考えは頭から抜けていた。「長谷部さん」名前を呼ぶ。返事はない。「長谷部さん、はせ」
言葉の続きは、声にならない悲鳴に変わった。ひんやりした紙の束をかき分けた先で、いきなり誰かに右手を鷲掴みされたので。誰かって、ここには一人しかいないんだけど。「お、……お目覚め、ですか……?」恐る恐るもう一度声をかけるけど、返事はない。ただ安らかな寝息が聞こえる。書類の山の中で眠る長谷部さんは、さっきとおんなじの安らかな表情で眠っている。私の手を、引っつかんだまま。……ちょっと、うそでしょ。あれだけうるさくてまだ起きないわけ?
「長谷部さん」
「………………」
「ねえ、長谷部さん」
「………………」
骨ばった指の感触がおかしなくらい鮮明だった。私の手首をしっかりと捉える、細くて長い指。掴まれた手首を、そのまんま揺らしてみる。反応はない。「長谷部さん」肩を叩いてみる。ワイシャツ越しの、私よりほんの少しだけ低い体温。時計の音がやけに大きい。「長谷部さん、」強めに何度か叩くうちに、うう、とか、ああ、とか、うめき声が返ってくる。だけど、まだ目をさます気配はなさそうだ。掴まれた腕を引き剥がそうとしたら、却って強く捕まえられてしまう。「…………」きつく閉じられていたまぶたが、微かにうごめく。はせべさん。何度呼んでも無駄っぽいな。そう思いながらも何度も何度も呼んでみる。長谷部さんはやっぱり眠っている。私の呼ぶ声になんか返事をしないまま、私の視線なんかには気づきもしないまま。
ああ時間。そろそろやばいかもなあ。
長谷部さんの呼吸に私の心臓の音、掴まれたまんまの右手。時計を確認する気にはなれなくて、手持ち無沙汰の左手で長谷部さんの髪の毛に触れてみる。硬いけど、思ったよりは柔らかくて、はねてて、少し癖があって。くしゃくしゃとかき回してはその感触を確かめる。こんな手触りなんだ、と、なんの気はなく呟いた自分の声が甘ったるく聞こえてうろたえる。ずっとこのままでも、結構楽しいかもなあ、なんておかしなことを考えてからすぐに打ち消す。あと数時間後に迫った会議の事を考えて、それから今週いっぱいに積み上げられた仕事の山の事を考える。ほんの少し胃が痛くなった。そろそろちゃんと起こさないとなあ、だけど、あと、三十秒だけ。
特に理由はない。いや、本当はあるけど。だってなんか、ちょっと、結構、長谷部さんが可愛いと言えないこともないような気がしてしまったから。つむじのてっぺんから、毛先まで。何度も何度も手触りを確かめる。なんの気はなく覗き込んで見た顔は普段なら考えられないくらいにあどけない。ふと、その唇が緩んで、幸せそうな息を漏らした。
「はせ、…………」
はせべさん、と。呼びかけた声を飲み込む。ほとんどため息みたいな声で、だから、それは勘違いだったかもしれない。この上なく幸せそうに微笑んだ唇が、甘ったるい声で、私の名前を呼んだ、ような気が、した。息を飲む。私の気なんか知らないで、長谷部さんはやっぱり眠っている。心臓の音がうるさい。固唾を飲んで見守る先で、もう一度うっとりとため息を吐いて、それから。
今度ははっきりと聞いた。とびっきりみたいな甘ったるい声色が、私の名前を呼んだ。まるで、大切で特別ななにか、みたいに。
「………………、…………」
「…………、…………、ふふ」
いったいなんの夢を見てるんだろう、この人。
考えかけてやめた。頰が熱くて、という体全体が熱くて、おまけに心臓の音がうるさい。右手をきつく掴まれたまま、息を潜めて聞いている。寝息と、幸せそうなくすくす笑いと、寝息の合間にたまに呼ばれる、自分の名前を呼ぶ声を。カチカチとやかましい時計の音。会議室の扉越しに、午後一時を告げるチャイムの音が聞こえる。もう時間だ。のんびりお昼寝なんかしている暇はないのだ。あと数時間後には会議で、今は修羅場で炎上中で、だから、叩いてでも引っ叩いてでも長谷部さんを起こさないといけないん、だけど。
「長谷部さん」
ぐるぐると考えることにも疲れてきた。ぺしん、と、軽い力を込めて、肩のあたりをひっぱたく。もちろん反応はない。揺らしても、叩いても、テコでも起きる気はないらしい。「長谷部さん」散々逡巡してからつねった頰は思いの外滑らかな手触りで、本気で悪いことをしてるみたいな気分になってしまう。あとが残らない程度に頰をつねって名前を呼ぶ。整った眉毛がしかめられて、ようやくうっすらとまぶたが開いた。薄紫色の瞳が私を捉えて、まぶしげに細められる。さり気なく視線をそらしたのは、きっとバレてないはずだ。「おはようございます」顔が赤い気がするのは多分気のせいだ。というか、私の顔なんて長谷部さんはまともに見てないに決まってる。その証拠に、あえて取り繕った私の硬い声には返事がない。安心半分、謎のがっかり半分。仕方ないので繰り返す。「おはようございます」
「…………ああ、…………」
「おはようございます、一時です」
「…………」
「や、二度寝しないでください。時間なので」
「…………………いやだ……」
「いやだ、じゃない」
「…………、…………、…………いやです」
「言い方の問題じゃない」
「……あと五分……」
掠れた声はいかにも『寝起きですまだ眠いです』と言わんばかりだ。私の右手首を握りしめたまま、眠りの世界に旅立とうとする長谷部さんは残念ながら結構可愛い。結構、どころか、かなり、相当、かわいい気がする。このままウダウダしている長谷部さんを眺めてるだけで、小一時間くらいは余裕で過ぎてしまいそうなくらい。だから、うっかり絆されそうになるのを必死で堪える。「遅刻しますよ、あと十五分で出ないといけないのに。十四時から博多ソリューションで打ち合わせでしょう」笑いを噛み殺したら、変な感じの声が出てしまった。「ウチアワセ」完全にカタコトのイントネーションで呟いてから、不承不承と言わんばかりにまぶたをこじ開けて、ようやく彼は頭を起こす。まだおぼつかない口調で「おはよう」と呟いて、それからようやく、今の状況に気がついたらしい。
……長谷部さん、寝起きから大変だなあ。
とか、他人事みたいに思う自分がいた。気だるげな瞳が見開かれてからすぐに、ぴし、と音が鳴りそうな感じで表情が固まる。一瞬だけ蒼白になった顔色は、みるみるうちにユデダコみたいに染まっていく。「お、……俺は、一体、何を」私の右手首の手のひらは瞬く間に汗ばんでいくのに、離れる、という選択肢は思いつかなかったらしい。ぎゅ、と一瞬だけ力を込めてから五秒後、あからさまにうろたえた顔でようやく手首を解放された。それから、潤みきった瞳をそらしてからぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回して、勢いよく机に沈み込む。ごつん!と、明らかに痛そうな音が響いた。普段からはとても想像がつかない長谷部さんのその一連の奇行を、妙に穏やかな気持ちで見守る。この人寝起きが最高に弱いんだな、とか、この人意外とアドリブに弱いんだな、とか、余計なことを考えながら。
「つかぬ、ことを」
「はあ」
「つかぬ事を、聞くが」
「はい」
「お、俺は、君に、何を」
真っ赤な顔に絶望の表情を乗せて、長谷部さんは私を見ている。そんな顔するんだ。どこか上の空の私はあいかわらずそんなことを考えながら返事をする。
「はあ、ええ、まあ。特に、何も」
「何もなかった訳ないだろ、俺は君にどんな無体を働いた」
「む、無体ってリアルに言う人初めて見たなぁ」
「第一この参上は何なんだ、どうしてこんなに散らかって」
「ああ、それは……うーん、なんていうかな」
「……なんていうか?」
「……強いて言えば、長谷部さんの寝相の問題で」
「寝相の問題」
「長谷部さん、めちゃくちゃ寝相悪いですね」
「ああ、まあ、確かに寝相は、良い方とは言えない、かもしれないが」
「……あと、割と寝言も言ってましたね」
「寝言」
「そう、寝言」
「いや待ってくれ俺は一体何を言っていた?」
あからさまにうろたえたみたいな顔が可愛い。何を言われたかというと、特に何も言われてない。単純に名前を呼ばれたくらいのもので。素直に教えてあげようという気がないわけでもなかったんだけど、長谷部さんの反応が面白いせいでついからかいたくなってしまう。「知りたいですか」と聞いてみたらかぶせ気味に「知りたい」と即答されたので、「じゃあ、教えない」と即答を返してみる。普段の隙のなさはどこに行ったのか、うそだろ、とかなんとかうめいたあと、「……教えなくていいから、できれば忘れてくれ……」と弱りきった声が言うので笑ってしまう。またしても机に突っ伏してしまった首筋が、薄っすらと赤く染まっている。
「ちなみに」
「……ああ……」
今にして思えば、完全に調子に乗っていた。だって、長谷部さんが可愛かったので。中学生かってくらいのダイナミックな照れ方は眺めててあまりにも面白かったし、「忘れてくれ後生だから」なんて早口でまくしたてる声は慌てきっていて普段の冷静さのかけらもない。だからつい飽きなくて、もう少しいじめたくなってしまったのだ。だからうっかり聞いてしまった。「なんの夢を見てたんですか?」なんて。くしゃくしゃに乱れた前髪の下の、潤んだ瞳と目があった。観念した、とでもいいたげな、やけっぱちな表情。はあ、とため息を付いてからよりによって長谷部さんが、
「……君の夢を見てたに、決まってる」
とか言うもんだから。それってどういう意味ですか、なんて言葉は喉に引っかかったまま、聞けもしないままで三十秒が経過した。多分私の顔も、ゆでダコみたいになってる。中学生じゃあるまいし、頭のどこかの冷静な自分が、この状況にツッコミを入れている。……ほんと、中学生じゃあるまいし。時計の針と、二人分の呼吸。心臓が甘ったるく音を立てている。
午後二時からの打ち合わせのことなんか、頭の中からすっぽり抜けていた。気づいたときには完全遅刻。取引先に大目玉を食らって、二人して平謝りするはめになった。
それだけ言い残して長谷部さんは眠りの世界へ旅立って行った。目元のクマが凄い。クシャクシャに乱れた髪の毛に、適当に腕まくりされたシャツに、肩に避けられたネクタイ。エアコンの音に混じってかすかに、穏やかな寝息が聞こえる。12時ぴったり、会議室に残っているのは私達だけだった。
「鬼」とか「アクマ」とか「ヤクザ」とか、さんざん聞かされた長谷部さんの噂を思い出しながらその寝顔を眺める。この人と組んで、そろそろ二ヶ月。こんがり炎上中のプロジェクト(メンバーが全員逃げた)の尻拭いに運悪く投入されて、ランチをとる暇もない日々が続いている。冗談じゃなかった。この仕事が終わったら絶対転職してやる、と固く固く心に誓った。だけど、長谷部さんは噂で聞いてたほど極悪でも最悪でもないのだ。噂通り頭は切れるけど、後輩の私には意外と優しい。理不尽なクレームからはかばってくれるし、残業はどんなに遅くても終電まで(納期が迫ってきたらそうも言ってられなそうだけど)。私が出したミスの後始末にだって、辛抱強く付き合ってくれるんだから頭が上がらない。
「……、ん、……、……」
薄い唇が開いて、ほんの少し何かを言いかける。だけどそれは言葉にもならないで、呼吸の音に変わっていく。片手に栄養ゼリー、片手に会議用の資料(昨日長谷部さんが徹夜で終わらせてくれたやつ)。目の前にはノートパソコン(今週末が納期のタスクを書いた付箋が死ぬほど貼ってある)(いよいよ修羅場で、来週まで生き延びていたら奇跡って感じだ)。あと一時間で会議で、それまでに資料に目を通しておかないといけない。それなのに目の前の文章には少しも集中できなくて、気が付いたら隣ばかりをながめてしまう。
腕の隙間から少しだけ覗いた目元。日中はいつだって眉間にしわを寄せてるくせに、寝顔は案外あどけない。ぴったり閉じられたまぶたは綺麗な二重で、長い長い睫毛が目元に影を落としている。身じろぎをした拍子に、机の上の書類の山が崩れそうになるので慌てて抑える。てっぺんの紙がひらひらと落っこちて、長谷部さんの頭に乗っかった。少しだけひやりとしたけど、問題はなかったみたいだ。ぱさ、と、響いた音になんか気づくこともなく、長谷部さんは眠っている。この上なく安らかに、穏やかに。
時計の音と、長谷部さんの寝息と、私が栄養ゼリーを吸う遠慮がちな音だけが部屋に響く。プロジェクトの為に貸し切りにしている会議室は、世界から切り離されたみたいに静かで穏やかで安全だ。ここが会社だとか、炎上中のプロジェクトがどうこうとか、そんなことは忘れてしまうくらいに。長谷部さんから書類に視線を戻す。なるべく音を立てないように気配を殺して、静かに、静かに。息を潜めてページを捲る。これ以上ないくらい明快にすっきりとまとめられたそれはいかにも長谷部さんって感じで何だか笑えてくる。この状況に全然似つかわしくない、硬い文章がおかしい。それでもなんとか読みすすめること五分、もしかしたら、三分くらいだったかもしれない(何しろ全然集中力が持たなかった)。
「……す、」漸くまともに読み始めたタイミングで、舌足らずな声、が、隣から。普段の隙のなさなんてかけらもないその声に、またしても手を止めてしまう。ついでに息を止めて、耳もそばだてる。「……いつも、たいへん、おせわになって、……す……、」苦しげな表情。眉間には深く深く皺が刻まれている。……夢の中でまで仕事してるなんて、相当まいってるんだな。可哀想に。同情しながら眺めていたら、うう、とうめき声とともに、今度は本格的にその体が傾いた。ごつん、と、おでこが机にぶつかる音。ついでに延ばされた掌が、積み上げられた書類の山に引っかかり、それで。
あ、やばい、と思う間もなかった。書類の山は私の目の前であっけなく崩壊して、派手な音とともに長谷部さんに降り注いだ。どさ、どさどさどさどさ、ばさっ。極めつけに、慌てて立ち上がった私のパイプ椅子が、後ろに倒れてけたたましく床にぶつかる、音。それから、三秒間の沈黙。あっけにとられたままその光景を眺める。散らばった紙の束。ストライプのシャツを着た背中。ぺら、と音を立てて、後頭部の一番てっぺんに乗っかっていた紙が滑り落ちていく。舞い上がった埃が日の光に透けて綺麗だった。長谷部さんの白い首筋と、均整の取れた背中のラインも。書類の山に埋もれてても美形ってどういうことなんだろう?いや、そんなの今考えることじゃないんだけど。
「は、…………せべさん……?」
「…………」
書類に埋まったままの背中に、恐る恐る声をかけてみる、けど、長谷部さんは微動だにしない。「え、ちょっと、大丈夫ですか……?」生きてる?死んだ?そんなまさか。相変わらず穏やかに繰り返される呼吸の音が、却って不安を煽った。「はせべさん……?ねえ、大丈夫ですか?はせべさん、」呼びかける。反応はない。窒息したわけではなさそうだけど。自問自答しながら書類の山をかき分けて、何とか救出を試みる。ばさばさ、ばさばさばさ。机の上から滑り落ちていく書類たちが鳥の羽ばたきみたいな音を立てている。結構うるさいけど構ってられない。もう、『起こしたら可哀想』だなんて考えは頭から抜けていた。「長谷部さん」名前を呼ぶ。返事はない。「長谷部さん、はせ」
言葉の続きは、声にならない悲鳴に変わった。ひんやりした紙の束をかき分けた先で、いきなり誰かに右手を鷲掴みされたので。誰かって、ここには一人しかいないんだけど。「お、……お目覚め、ですか……?」恐る恐るもう一度声をかけるけど、返事はない。ただ安らかな寝息が聞こえる。書類の山の中で眠る長谷部さんは、さっきとおんなじの安らかな表情で眠っている。私の手を、引っつかんだまま。……ちょっと、うそでしょ。あれだけうるさくてまだ起きないわけ?
「長谷部さん」
「………………」
「ねえ、長谷部さん」
「………………」
骨ばった指の感触がおかしなくらい鮮明だった。私の手首をしっかりと捉える、細くて長い指。掴まれた手首を、そのまんま揺らしてみる。反応はない。「長谷部さん」肩を叩いてみる。ワイシャツ越しの、私よりほんの少しだけ低い体温。時計の音がやけに大きい。「長谷部さん、」強めに何度か叩くうちに、うう、とか、ああ、とか、うめき声が返ってくる。だけど、まだ目をさます気配はなさそうだ。掴まれた腕を引き剥がそうとしたら、却って強く捕まえられてしまう。「…………」きつく閉じられていたまぶたが、微かにうごめく。はせべさん。何度呼んでも無駄っぽいな。そう思いながらも何度も何度も呼んでみる。長谷部さんはやっぱり眠っている。私の呼ぶ声になんか返事をしないまま、私の視線なんかには気づきもしないまま。
ああ時間。そろそろやばいかもなあ。
長谷部さんの呼吸に私の心臓の音、掴まれたまんまの右手。時計を確認する気にはなれなくて、手持ち無沙汰の左手で長谷部さんの髪の毛に触れてみる。硬いけど、思ったよりは柔らかくて、はねてて、少し癖があって。くしゃくしゃとかき回してはその感触を確かめる。こんな手触りなんだ、と、なんの気はなく呟いた自分の声が甘ったるく聞こえてうろたえる。ずっとこのままでも、結構楽しいかもなあ、なんておかしなことを考えてからすぐに打ち消す。あと数時間後に迫った会議の事を考えて、それから今週いっぱいに積み上げられた仕事の山の事を考える。ほんの少し胃が痛くなった。そろそろちゃんと起こさないとなあ、だけど、あと、三十秒だけ。
特に理由はない。いや、本当はあるけど。だってなんか、ちょっと、結構、長谷部さんが可愛いと言えないこともないような気がしてしまったから。つむじのてっぺんから、毛先まで。何度も何度も手触りを確かめる。なんの気はなく覗き込んで見た顔は普段なら考えられないくらいにあどけない。ふと、その唇が緩んで、幸せそうな息を漏らした。
「はせ、…………」
はせべさん、と。呼びかけた声を飲み込む。ほとんどため息みたいな声で、だから、それは勘違いだったかもしれない。この上なく幸せそうに微笑んだ唇が、甘ったるい声で、私の名前を呼んだ、ような気が、した。息を飲む。私の気なんか知らないで、長谷部さんはやっぱり眠っている。心臓の音がうるさい。固唾を飲んで見守る先で、もう一度うっとりとため息を吐いて、それから。
今度ははっきりと聞いた。とびっきりみたいな甘ったるい声色が、私の名前を呼んだ。まるで、大切で特別ななにか、みたいに。
「………………、…………」
「…………、…………、ふふ」
いったいなんの夢を見てるんだろう、この人。
考えかけてやめた。頰が熱くて、という体全体が熱くて、おまけに心臓の音がうるさい。右手をきつく掴まれたまま、息を潜めて聞いている。寝息と、幸せそうなくすくす笑いと、寝息の合間にたまに呼ばれる、自分の名前を呼ぶ声を。カチカチとやかましい時計の音。会議室の扉越しに、午後一時を告げるチャイムの音が聞こえる。もう時間だ。のんびりお昼寝なんかしている暇はないのだ。あと数時間後には会議で、今は修羅場で炎上中で、だから、叩いてでも引っ叩いてでも長谷部さんを起こさないといけないん、だけど。
「長谷部さん」
ぐるぐると考えることにも疲れてきた。ぺしん、と、軽い力を込めて、肩のあたりをひっぱたく。もちろん反応はない。揺らしても、叩いても、テコでも起きる気はないらしい。「長谷部さん」散々逡巡してからつねった頰は思いの外滑らかな手触りで、本気で悪いことをしてるみたいな気分になってしまう。あとが残らない程度に頰をつねって名前を呼ぶ。整った眉毛がしかめられて、ようやくうっすらとまぶたが開いた。薄紫色の瞳が私を捉えて、まぶしげに細められる。さり気なく視線をそらしたのは、きっとバレてないはずだ。「おはようございます」顔が赤い気がするのは多分気のせいだ。というか、私の顔なんて長谷部さんはまともに見てないに決まってる。その証拠に、あえて取り繕った私の硬い声には返事がない。安心半分、謎のがっかり半分。仕方ないので繰り返す。「おはようございます」
「…………ああ、…………」
「おはようございます、一時です」
「…………」
「や、二度寝しないでください。時間なので」
「…………………いやだ……」
「いやだ、じゃない」
「…………、…………、…………いやです」
「言い方の問題じゃない」
「……あと五分……」
掠れた声はいかにも『寝起きですまだ眠いです』と言わんばかりだ。私の右手首を握りしめたまま、眠りの世界に旅立とうとする長谷部さんは残念ながら結構可愛い。結構、どころか、かなり、相当、かわいい気がする。このままウダウダしている長谷部さんを眺めてるだけで、小一時間くらいは余裕で過ぎてしまいそうなくらい。だから、うっかり絆されそうになるのを必死で堪える。「遅刻しますよ、あと十五分で出ないといけないのに。十四時から博多ソリューションで打ち合わせでしょう」笑いを噛み殺したら、変な感じの声が出てしまった。「ウチアワセ」完全にカタコトのイントネーションで呟いてから、不承不承と言わんばかりにまぶたをこじ開けて、ようやく彼は頭を起こす。まだおぼつかない口調で「おはよう」と呟いて、それからようやく、今の状況に気がついたらしい。
……長谷部さん、寝起きから大変だなあ。
とか、他人事みたいに思う自分がいた。気だるげな瞳が見開かれてからすぐに、ぴし、と音が鳴りそうな感じで表情が固まる。一瞬だけ蒼白になった顔色は、みるみるうちにユデダコみたいに染まっていく。「お、……俺は、一体、何を」私の右手首の手のひらは瞬く間に汗ばんでいくのに、離れる、という選択肢は思いつかなかったらしい。ぎゅ、と一瞬だけ力を込めてから五秒後、あからさまにうろたえた顔でようやく手首を解放された。それから、潤みきった瞳をそらしてからぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回して、勢いよく机に沈み込む。ごつん!と、明らかに痛そうな音が響いた。普段からはとても想像がつかない長谷部さんのその一連の奇行を、妙に穏やかな気持ちで見守る。この人寝起きが最高に弱いんだな、とか、この人意外とアドリブに弱いんだな、とか、余計なことを考えながら。
「つかぬ、ことを」
「はあ」
「つかぬ事を、聞くが」
「はい」
「お、俺は、君に、何を」
真っ赤な顔に絶望の表情を乗せて、長谷部さんは私を見ている。そんな顔するんだ。どこか上の空の私はあいかわらずそんなことを考えながら返事をする。
「はあ、ええ、まあ。特に、何も」
「何もなかった訳ないだろ、俺は君にどんな無体を働いた」
「む、無体ってリアルに言う人初めて見たなぁ」
「第一この参上は何なんだ、どうしてこんなに散らかって」
「ああ、それは……うーん、なんていうかな」
「……なんていうか?」
「……強いて言えば、長谷部さんの寝相の問題で」
「寝相の問題」
「長谷部さん、めちゃくちゃ寝相悪いですね」
「ああ、まあ、確かに寝相は、良い方とは言えない、かもしれないが」
「……あと、割と寝言も言ってましたね」
「寝言」
「そう、寝言」
「いや待ってくれ俺は一体何を言っていた?」
あからさまにうろたえたみたいな顔が可愛い。何を言われたかというと、特に何も言われてない。単純に名前を呼ばれたくらいのもので。素直に教えてあげようという気がないわけでもなかったんだけど、長谷部さんの反応が面白いせいでついからかいたくなってしまう。「知りたいですか」と聞いてみたらかぶせ気味に「知りたい」と即答されたので、「じゃあ、教えない」と即答を返してみる。普段の隙のなさはどこに行ったのか、うそだろ、とかなんとかうめいたあと、「……教えなくていいから、できれば忘れてくれ……」と弱りきった声が言うので笑ってしまう。またしても机に突っ伏してしまった首筋が、薄っすらと赤く染まっている。
「ちなみに」
「……ああ……」
今にして思えば、完全に調子に乗っていた。だって、長谷部さんが可愛かったので。中学生かってくらいのダイナミックな照れ方は眺めててあまりにも面白かったし、「忘れてくれ後生だから」なんて早口でまくしたてる声は慌てきっていて普段の冷静さのかけらもない。だからつい飽きなくて、もう少しいじめたくなってしまったのだ。だからうっかり聞いてしまった。「なんの夢を見てたんですか?」なんて。くしゃくしゃに乱れた前髪の下の、潤んだ瞳と目があった。観念した、とでもいいたげな、やけっぱちな表情。はあ、とため息を付いてからよりによって長谷部さんが、
「……君の夢を見てたに、決まってる」
とか言うもんだから。それってどういう意味ですか、なんて言葉は喉に引っかかったまま、聞けもしないままで三十秒が経過した。多分私の顔も、ゆでダコみたいになってる。中学生じゃあるまいし、頭のどこかの冷静な自分が、この状況にツッコミを入れている。……ほんと、中学生じゃあるまいし。時計の針と、二人分の呼吸。心臓が甘ったるく音を立てている。
午後二時からの打ち合わせのことなんか、頭の中からすっぽり抜けていた。気づいたときには完全遅刻。取引先に大目玉を食らって、二人して平謝りするはめになった。