長谷部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
寂しさはこういう夜に襲ってくる。
雑踏の中、意味もなく頭が痛かった。細く息を吸ったら背中がきしんだ。ショルダーバッグの持ち手が肩に食い込んでいる。合わない形のヒールで踵には靴擦れができて、そうして立ち止まったままの私を追い抜いて、たくさんの人が通り過ぎる。いかにも邪魔くさいと言わんばかりの視線。のろのろと一歩を踏み出せばつま先が悲鳴を上げた。よろけてぶつかって突き飛ばされて、かろうじて手すりにつかまっては足を進める。ぴ、と無機質な音に見送られて改札を出た。私を追い立てるみたいに踏切の音がうるさい。人の話し声も、車のクラクションも、不快にまじりあっては頭の中で反響する。
駅から五分の安アパート。安っぽい金属でできた階段は、カンカンとけたたましく音を立てる。薄っぺらいドアの鍵を開けて玄関先にへたり込んで、体育すわりなんかして携帯をながめていた。携帯電話のアドレスの、一番上。長谷部国重、と書いてあるその名前を叩いては戻って、を繰り返す。一人分の呼吸の音。靴は履いたまま、鞄は放り出したまま。指先をきつく握りしめて呟く。「だいじょうぶ、」だいじょうぶ、こんなの、全然、だいじょうぶ。
唱えたところで全然、だいじょうぶなんかじゃない。ひゅうひゅうと喉が頼りない音を立てる。苦しくて、痛くて、寂しくて、さみしい。それを呟いた瞬間にいろんなことが駄目になりそうで、だから、歯を食いしばって抑えている。掌に爪を立てて、膝に顔をうずめたまま。携帯電話が玄関のタイルに落ちて大きく音を立てる。ごとん。画面が割れたかもしれない。修理にいくらかかるかな。頭のどこかでそんなことを考えて、そしたらさらに泣きたくなった。食いしばった歯の奥から、不格好な泣き声が漏れる、寸前の、ことだった。
ぴん、ぽーーーん。
癖のある押し方で鳴らされたチャイムに、思考が止まる。ぴん、ぽーーーん。もう一度同じやり方でチャイムが鳴らされた後、ゆっくりゆっくり鍵のシリンダーが回っていく。かちゃ。軽い音を立てて開いた扉は、私の体につかえて中途半端なところで止まった。「ああ、そこにいたんですね。おかえりなさい」おかえりなさい、って、ここはあなたのおうちじゃないんだけど。思った言葉は声にならなかった。
「はせべくん」と呼んだ名前のせいで、張りつめていた糸がふつん、と切れてしまうのが分かった。細く開いたドアの隙間をすりぬけて、長谷部くんは無理やり中に入り込んでくる。それから私の目の前にしゃがんで目を合わせて、にっこりと笑って見せた。「はい」、甘ったるくて柔らかくて、胸やけをおこしそうなくらいに優しい声。あ、もう、だめだ。思う間もなく涙がぼろぼろと溢れて視界を潤ませる。気が付いたら抱きしめられていて、私は声を出してわんわん泣いていた。まるで小さいころと同じように。「だいじょうぶです、」背中をするすると、大きな掌が撫でる。「だいじょうぶです。ね、俺がいます」小さいころと同じ調子の声。長谷部くんは、泣き出した私をこんな風になだめて、落ち着かせるのが得意だった。
長谷部くん。私の従兄弟の長谷部国重くん。
長谷部くんは、従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子、というもうほぼほぼ他人じゃないかくらいのうっすい間柄の親戚だ。なぜか親戚、というくくりで盆暮れ正月の度に親戚の会合に混じっていたけど、今思うと不思議だ。とにかく、小さいころから頭がよくちょっと引くほど足が速くおまけに顔もよかった長谷部くんと、これと言った特技もなく成績も真ん中ちょい上顔面はまあ普通くらい、の私は、なぜか幼馴染のような関係のまま大きくなった。長谷部くんは方向音痴の私の手を常に引っ張り、テスト前になれば一緒に勉強し、放課後は大抵二人で格ゲーなんかして、まあ途中から私は女子校に入ったので多少一緒の時間は減ったけど、それでも人生のほぼほぼ大半を彼と一緒に過ごしてきた。
長谷部くんは従兄弟だ。それも、もはや他人くらいのうっすいうっすい関係の。
高校を卒業して一人暮らしを始めた。長谷部くんは週末ごとに連絡をしては私の世話を焼きに来る。大学を卒業して、引っ越しをした。長谷部くんは院に進学するらしい。適当な会社に入って、順調とはいえないにしろぎりぎり新社会人というやつをやっている。相変わらず、長谷部くんは私の世話を焼きに来るけれど。でもきっと、これからどんどん生活のリズムが合わなくなって、長谷部くんだって研究が忙しくなれば、私の面倒なんて見ている場合じゃなくなるだろう。
このままじゃ駄目になる、と気が付いたのがこのあいだの事だった。もうちょっと詳細に言うと二週間前、長谷部くんが「すみません学会の準備で今日はそちらにいけません」と、電話を寄こした時のことだった。別に約束してる訳でもないのに、長谷部くんたら律儀だなあ。なんて思っていた。その時はことの重大さに全然気づいていなかった。適当に会話をして適当に電話を切って、適当にラーメンをゆでて適当に食べた。長谷部くんがゆでてくれなかったラーメンは妙にしょっぱくて、気が付いたら食べながらちょっと泣いていた。自分で自分に引いた。それから一週間。先週も、長谷部くんは「学会の報告書の準備」とかでうちに遊びに来なかった。
私と来たら、たったの二週間でもう寂しくて仕方がなくなっている。長谷部くんがいつまでも私のそばにいるわけなんかなかったのに、それに気づいたのが遅すぎた。今となっては、もう水とか酸素とかそういうレベルで、長谷部くんが隣にいるのが当たり前になってしまっている。あとちょっとで戻れなくなるところだった。従兄弟のはとこの親戚の親戚のお爺さんの弟の息子、とかいうほぼほぼ他人の親戚に、依存している場合なんかじゃ全然ない。
寂しくなるたびに連絡してしまいそうになるのをなんとか我慢して、二週間と二日を過ごした。長谷部くんはたかが従兄弟(のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子)だ。ほとんど他人と言っていい。むしろ今までが異常だったんだから、これでよかったはずなんだ。そんな風に自分に言い聞かせながらなんとかやり過ごして来て、それで今。
ここ二週間ほど我慢に我慢を重ねた堤防がとうとう決壊して、理由も何もわからないままただ膨大な寂しさに押しつぶされている。なにやってるんだろう。頭のどこかは冷静なのに、一度泣き出してしまったらもう止められなかった。子供みたいにしゃくりあげればさらに強く抱きしめられて、服に顔を埋めれば慣れた匂いでさらに涙腺がゆるくなる。
くすくすと耳元で笑う声。長谷部くんの匂い。ほつれた髪の毛をほどいて、丁寧に整えてくれる指先の、感触。「不安でしたね、いっぱい我慢して、偉かったですね」、まるで子供に言い聞かせるみたいなその声を、腹立たしいような安心するようなその両方のような、苦い気持ちで聞いている。「でも、ダメですよ。何かあったら連絡してくださいと、いつもいってるじゃないですか。こういう時は、俺を呼んでくれないと困ります」心臓の音に、長谷部くんの匂いに、ぐずぐずと私が鼻を鳴らす音。
「……だって長谷部くん忙しそうだったし」
喉はカラカラで、鼻は詰まってるし涙声だしで、絞り出した言葉はまともな形を保っていなかった。それでも長谷部くんは私の言葉を正確に聞き取って、当たり前のように言葉を返してくれる。「俺が忙しいかどうかなんて関係ないです。だって、俺はあなたの従兄弟なんですから。寂しい時も不安な時も、いつだって俺を頼ってくださらないと」こういうのが困るのだ。こんな風に甘やかされるのに慣れきって、いつの間にか私は、子供の頃の何倍もひどい寂しがりになってしまった。
「そんなこと言って、先週も先々週も、私のこと放っておいたくせに」
気が付いたら拗ねた子供みたいなセリフが口から飛び出している。言ってしまったことを今更後悔したけどもう遅い。とびきり機嫌良く笑う顔が目に浮かぶ気がした。「そうですね、寂しかったですか?」嬉しくて嬉しくて仕方ないです、みたいな口調が腹立たしくて即答する。「別に」だけど、全く効果なんてなかった。だって現実に私は寂しくて寂しくて、子供みたいに大泣きした直後だったので。
「寂しかったんですね、かわいそうに。一人にしてすみませんでした」
「全然、全く、そんなことないから。別に普通だったし」
「そうですか。その割には随分と部屋が荒れていますね?」
「いつもこんなもんだよ」
「顔色も良くないです」
「こんな暗くて、顔色なんかわかる?」
「わかるに決まってます。ああ、隈もできてますね。これは酷い」
「だから、こんな暗くて、」
「わかるに決まってるでしょう、俺はあなたの従兄弟なんですから」
「いや、あのさあ」ほだされかかるぎりぎりのところで、なんとか体をひっぺがして距離をとった。そしたら、何を思ったのか長谷部くんは、胸ポッケから取り出したハンカチで涙を拭ってくれる。優しいけどそうじゃない。その手をなんとか押しとどめて、言葉の続きを探す。そんなキョトンとした顔をされても、困るよ長谷部くん。「あのさ、」
「従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子は従兄弟って言わないと思う」
「言いますよ、当たり前に」
「いや言わないよほぼ他人だよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ、ていうか従兄弟だったとしてもこんなの絶対おかしいと思う」
「こんなのとは?」
「なんか今まで長谷部くんにべったりだったじゃん、私」
「素敵です、ぜひこれからも俺とずぶずぶの関係を築いていきましょうね」
「嫌な言い方しないで」
「すみません。しかし、俺とあなたの関係の、どこに問題が?」
「どこって言われても、だって」
「『だって』、なんです?」
「長谷部くんだって、ずっと私のそばにいるわけじゃないじゃん」
「え?ずっとそばにいますよ。当たり前じゃないですか」
「うっそだぁ」
「本当です」
「絶対嘘だ、だって先週も先々週も忙しいって」
「っはは」
「何がおかしいの」
「気にしてないという割に、ずっとその話をされているので」
「………、や、別に、気にしてなんか、ないけどさ」
「ねぇ、寂しかったんでしょう?」
「……、寂しかったとか、そういうんじゃないけどさあ」
「それでは、一人で寝るのが怖かったとか」
「何歳の頃の話をしてるの」
「三歳か四歳ごろの話でしょうか、寂しがりなのは相変わらずで何よりです」
気が付いたら涙はすっかり乾いている。声はほとんどいつもの調子に戻ったし、呼吸だってもう楽にできる。それで、これは一体なんの話なんだっけ。よくわからない方向に話は転がって、気が付いたらまたしても拗ねた子供のようなことを言っている。長谷部くんはひとしきり笑ってから、もう一度私を抱きしめる。子供の頃とおんなじに、何かから私をかばうみたいなやり方で。長谷部くんの体温が溶けて馴染んで同化して、冷え切っていたからだがじんわりと暖まっていく。だけど、ほんのり眠くなりかけた頃にぶつけられた爆弾発言で、眠気も何もかもいっきにふっとんだ。「すみません、実は、わざとやったんです。たまには俺のことを気にかけてほしかったので」
……は?
「え、今、なんて?」
肩に手をかけて、むりやりその体を引っ剥がそうとしたらあえなく失敗した。「え、なんでそんな意地悪すんの酷い」仕方なくさっきとおんなじ抱きしめられた姿勢のまま、長谷部くんの腕の中で抗議する。「私がこの二週間、どんな気持ちでいたと思ってんの」腹立ち紛れに首のあたりにチョップする。ぺち、と頼りない音がして、長谷部くんが楽しげに喉を鳴らすのがわかった。人の気も知らないで何を喜んでるんだろうこいつ。
「さびしかったですか?」ときかれて、「寂しかったに決まってるじゃん!」とどなった。「さびしかったし、夜も眠れないし、でも私もいい加減従兄弟離れしないといけないからって思って、だから頑張って耐えてたんじゃん!」怒れば怒るほど、長谷部くんは『嬉しくて仕方ないです』みたいなバラ色の空気を醸し出してくるのが余計火に油を注いだ。
「それはすみませんでした。全部全部俺のせいですね」と嬉しそうな声に「ごめんで済むなら警察はいらない」と返した。「安心してください、もう二度とあなたを一人で放っておいたりはしないので」と言われて、「誠意が感じられない、どう責任とってくれんの」と怒った。そしたら「はい。勿論責任はとります、喜んで。今後の対策という訳ではありませんが、とりあえず今日から一緒に暮らしましょう。そうすればもう寂しくないはずですから」と言われて、勢いで「そうする」と答えた。答えてから、今言われたことを反芻する。……ん?
「そうと決まれば週末は買い出しですね。うちは一部屋余っているのでこの際転がり込んで来てください。このアパートよりはいくらか快適かと」
「……は?」
「夕飯はハンバーグにしましょうね。たくさん泣いてお腹が空いたでしょうし」
「え、今なんて?」
「ですから夕飯は、」
「いや、その前」
「……?、今日から一緒に住みましょうね、と」
「いや、なんでよ」
「なんでと言われても。責任を取れと言ってくださったのはあなたじゃないですか」
「いや、まあ、言った、けど、さあ」
「言いましたよね?嬉しいです、これでずっとずっと一緒ですね?」
「いや、私はただ、従兄弟離れしなきゃって思っただけで」
「従兄弟離れする必要が、どこにあるんです?」
「……どこって。だってこのままじゃダメ人間になるじゃん」
「だめになっていいのでは?」
「いや困るよ、長谷部くんがいないと何もできないのは」
「それなら尚の事一緒に暮らしたほうがいいですよね。大丈夫です、ずっと一緒にいてあげますからね」
急展開に頭がついていかない。何がどうしてこんなことに。自分が何をどう思ってあんなに泣いていたのかも、今となってはどんどん曖昧になっていく。「俺がいないと何もできないなら、常に俺と一緒にいればいいのでは?」なんて言われて、思わず「ほんとだ!?」とか言ってしまってから首を傾げる。本当にそうだろうか。見上げた先で長谷部くんがにっこりと微笑む。何かを言いかけてからふと、ぺこぺこにお腹が空いていることに気づいた。もういいか、なんでも。不意にいろんなことがどうでもよくなって、お腹すいた、とだけ漏らせば、「すぐに夕飯にしましょうね」と私の従兄弟は綺麗に笑った。
結局その日は長谷部くんと一緒にハンバーグを作ってたらふく食べてから夢も見ないほど爆睡した。こんなにぐっすり眠れたのは十四日ぶりで、つまり、長谷部くんがいないと私は眠ることすら上手にできない。自分でもちょっと引く。
「今日から一緒に暮らしましょうね」とかいうあれは冗談か何かだと思ってたら、長谷部くんの方は普通に本気だったらしい。「?、日用品の類はあなたの分まで揃えてあるので、身一つで転がり込んでくれればいいだけですよ?」と純粋な瞳の圧にまけて、言われるがまんま転がり込んで見たら自分の部屋の五倍は綺麗な快適空間が広がっていて、いよいよ抜け出せそうもなかった。
ダメ人間になる、と漏らせば、私の従兄弟(多分本当は他人)は小憎たらしいくらいの余裕の口調で笑うのだ。「諦めた方が賢明ですよ。無駄な抵抗は止しましょう。俺がいないと寂しくて三日も持たないくせに」なんて、意地悪なんだか優しいんだかよくわからない皮肉を吐いて。寝坊すれば長谷部くんに叩き起こされて、二人で一緒にご飯を食べて、平日の夜は格ゲーなんかして遊ぶのだ。結局子供の頃から変わらず、私と来たら長谷部くんにべったりだ。これではいけない、なんて真っ当な気持ちも今ではどこかに飛んで言ってしまった。
そんなわけで私は今日も、従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子の長谷部くんと、ずぶずぶの関係で生きていくのだった。
雑踏の中、意味もなく頭が痛かった。細く息を吸ったら背中がきしんだ。ショルダーバッグの持ち手が肩に食い込んでいる。合わない形のヒールで踵には靴擦れができて、そうして立ち止まったままの私を追い抜いて、たくさんの人が通り過ぎる。いかにも邪魔くさいと言わんばかりの視線。のろのろと一歩を踏み出せばつま先が悲鳴を上げた。よろけてぶつかって突き飛ばされて、かろうじて手すりにつかまっては足を進める。ぴ、と無機質な音に見送られて改札を出た。私を追い立てるみたいに踏切の音がうるさい。人の話し声も、車のクラクションも、不快にまじりあっては頭の中で反響する。
駅から五分の安アパート。安っぽい金属でできた階段は、カンカンとけたたましく音を立てる。薄っぺらいドアの鍵を開けて玄関先にへたり込んで、体育すわりなんかして携帯をながめていた。携帯電話のアドレスの、一番上。長谷部国重、と書いてあるその名前を叩いては戻って、を繰り返す。一人分の呼吸の音。靴は履いたまま、鞄は放り出したまま。指先をきつく握りしめて呟く。「だいじょうぶ、」だいじょうぶ、こんなの、全然、だいじょうぶ。
唱えたところで全然、だいじょうぶなんかじゃない。ひゅうひゅうと喉が頼りない音を立てる。苦しくて、痛くて、寂しくて、さみしい。それを呟いた瞬間にいろんなことが駄目になりそうで、だから、歯を食いしばって抑えている。掌に爪を立てて、膝に顔をうずめたまま。携帯電話が玄関のタイルに落ちて大きく音を立てる。ごとん。画面が割れたかもしれない。修理にいくらかかるかな。頭のどこかでそんなことを考えて、そしたらさらに泣きたくなった。食いしばった歯の奥から、不格好な泣き声が漏れる、寸前の、ことだった。
ぴん、ぽーーーん。
癖のある押し方で鳴らされたチャイムに、思考が止まる。ぴん、ぽーーーん。もう一度同じやり方でチャイムが鳴らされた後、ゆっくりゆっくり鍵のシリンダーが回っていく。かちゃ。軽い音を立てて開いた扉は、私の体につかえて中途半端なところで止まった。「ああ、そこにいたんですね。おかえりなさい」おかえりなさい、って、ここはあなたのおうちじゃないんだけど。思った言葉は声にならなかった。
「はせべくん」と呼んだ名前のせいで、張りつめていた糸がふつん、と切れてしまうのが分かった。細く開いたドアの隙間をすりぬけて、長谷部くんは無理やり中に入り込んでくる。それから私の目の前にしゃがんで目を合わせて、にっこりと笑って見せた。「はい」、甘ったるくて柔らかくて、胸やけをおこしそうなくらいに優しい声。あ、もう、だめだ。思う間もなく涙がぼろぼろと溢れて視界を潤ませる。気が付いたら抱きしめられていて、私は声を出してわんわん泣いていた。まるで小さいころと同じように。「だいじょうぶです、」背中をするすると、大きな掌が撫でる。「だいじょうぶです。ね、俺がいます」小さいころと同じ調子の声。長谷部くんは、泣き出した私をこんな風になだめて、落ち着かせるのが得意だった。
長谷部くん。私の従兄弟の長谷部国重くん。
長谷部くんは、従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子、というもうほぼほぼ他人じゃないかくらいのうっすい間柄の親戚だ。なぜか親戚、というくくりで盆暮れ正月の度に親戚の会合に混じっていたけど、今思うと不思議だ。とにかく、小さいころから頭がよくちょっと引くほど足が速くおまけに顔もよかった長谷部くんと、これと言った特技もなく成績も真ん中ちょい上顔面はまあ普通くらい、の私は、なぜか幼馴染のような関係のまま大きくなった。長谷部くんは方向音痴の私の手を常に引っ張り、テスト前になれば一緒に勉強し、放課後は大抵二人で格ゲーなんかして、まあ途中から私は女子校に入ったので多少一緒の時間は減ったけど、それでも人生のほぼほぼ大半を彼と一緒に過ごしてきた。
長谷部くんは従兄弟だ。それも、もはや他人くらいのうっすいうっすい関係の。
高校を卒業して一人暮らしを始めた。長谷部くんは週末ごとに連絡をしては私の世話を焼きに来る。大学を卒業して、引っ越しをした。長谷部くんは院に進学するらしい。適当な会社に入って、順調とはいえないにしろぎりぎり新社会人というやつをやっている。相変わらず、長谷部くんは私の世話を焼きに来るけれど。でもきっと、これからどんどん生活のリズムが合わなくなって、長谷部くんだって研究が忙しくなれば、私の面倒なんて見ている場合じゃなくなるだろう。
このままじゃ駄目になる、と気が付いたのがこのあいだの事だった。もうちょっと詳細に言うと二週間前、長谷部くんが「すみません学会の準備で今日はそちらにいけません」と、電話を寄こした時のことだった。別に約束してる訳でもないのに、長谷部くんたら律儀だなあ。なんて思っていた。その時はことの重大さに全然気づいていなかった。適当に会話をして適当に電話を切って、適当にラーメンをゆでて適当に食べた。長谷部くんがゆでてくれなかったラーメンは妙にしょっぱくて、気が付いたら食べながらちょっと泣いていた。自分で自分に引いた。それから一週間。先週も、長谷部くんは「学会の報告書の準備」とかでうちに遊びに来なかった。
私と来たら、たったの二週間でもう寂しくて仕方がなくなっている。長谷部くんがいつまでも私のそばにいるわけなんかなかったのに、それに気づいたのが遅すぎた。今となっては、もう水とか酸素とかそういうレベルで、長谷部くんが隣にいるのが当たり前になってしまっている。あとちょっとで戻れなくなるところだった。従兄弟のはとこの親戚の親戚のお爺さんの弟の息子、とかいうほぼほぼ他人の親戚に、依存している場合なんかじゃ全然ない。
寂しくなるたびに連絡してしまいそうになるのをなんとか我慢して、二週間と二日を過ごした。長谷部くんはたかが従兄弟(のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子)だ。ほとんど他人と言っていい。むしろ今までが異常だったんだから、これでよかったはずなんだ。そんな風に自分に言い聞かせながらなんとかやり過ごして来て、それで今。
ここ二週間ほど我慢に我慢を重ねた堤防がとうとう決壊して、理由も何もわからないままただ膨大な寂しさに押しつぶされている。なにやってるんだろう。頭のどこかは冷静なのに、一度泣き出してしまったらもう止められなかった。子供みたいにしゃくりあげればさらに強く抱きしめられて、服に顔を埋めれば慣れた匂いでさらに涙腺がゆるくなる。
くすくすと耳元で笑う声。長谷部くんの匂い。ほつれた髪の毛をほどいて、丁寧に整えてくれる指先の、感触。「不安でしたね、いっぱい我慢して、偉かったですね」、まるで子供に言い聞かせるみたいなその声を、腹立たしいような安心するようなその両方のような、苦い気持ちで聞いている。「でも、ダメですよ。何かあったら連絡してくださいと、いつもいってるじゃないですか。こういう時は、俺を呼んでくれないと困ります」心臓の音に、長谷部くんの匂いに、ぐずぐずと私が鼻を鳴らす音。
「……だって長谷部くん忙しそうだったし」
喉はカラカラで、鼻は詰まってるし涙声だしで、絞り出した言葉はまともな形を保っていなかった。それでも長谷部くんは私の言葉を正確に聞き取って、当たり前のように言葉を返してくれる。「俺が忙しいかどうかなんて関係ないです。だって、俺はあなたの従兄弟なんですから。寂しい時も不安な時も、いつだって俺を頼ってくださらないと」こういうのが困るのだ。こんな風に甘やかされるのに慣れきって、いつの間にか私は、子供の頃の何倍もひどい寂しがりになってしまった。
「そんなこと言って、先週も先々週も、私のこと放っておいたくせに」
気が付いたら拗ねた子供みたいなセリフが口から飛び出している。言ってしまったことを今更後悔したけどもう遅い。とびきり機嫌良く笑う顔が目に浮かぶ気がした。「そうですね、寂しかったですか?」嬉しくて嬉しくて仕方ないです、みたいな口調が腹立たしくて即答する。「別に」だけど、全く効果なんてなかった。だって現実に私は寂しくて寂しくて、子供みたいに大泣きした直後だったので。
「寂しかったんですね、かわいそうに。一人にしてすみませんでした」
「全然、全く、そんなことないから。別に普通だったし」
「そうですか。その割には随分と部屋が荒れていますね?」
「いつもこんなもんだよ」
「顔色も良くないです」
「こんな暗くて、顔色なんかわかる?」
「わかるに決まってます。ああ、隈もできてますね。これは酷い」
「だから、こんな暗くて、」
「わかるに決まってるでしょう、俺はあなたの従兄弟なんですから」
「いや、あのさあ」ほだされかかるぎりぎりのところで、なんとか体をひっぺがして距離をとった。そしたら、何を思ったのか長谷部くんは、胸ポッケから取り出したハンカチで涙を拭ってくれる。優しいけどそうじゃない。その手をなんとか押しとどめて、言葉の続きを探す。そんなキョトンとした顔をされても、困るよ長谷部くん。「あのさ、」
「従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子は従兄弟って言わないと思う」
「言いますよ、当たり前に」
「いや言わないよほぼ他人だよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ、ていうか従兄弟だったとしてもこんなの絶対おかしいと思う」
「こんなのとは?」
「なんか今まで長谷部くんにべったりだったじゃん、私」
「素敵です、ぜひこれからも俺とずぶずぶの関係を築いていきましょうね」
「嫌な言い方しないで」
「すみません。しかし、俺とあなたの関係の、どこに問題が?」
「どこって言われても、だって」
「『だって』、なんです?」
「長谷部くんだって、ずっと私のそばにいるわけじゃないじゃん」
「え?ずっとそばにいますよ。当たり前じゃないですか」
「うっそだぁ」
「本当です」
「絶対嘘だ、だって先週も先々週も忙しいって」
「っはは」
「何がおかしいの」
「気にしてないという割に、ずっとその話をされているので」
「………、や、別に、気にしてなんか、ないけどさ」
「ねぇ、寂しかったんでしょう?」
「……、寂しかったとか、そういうんじゃないけどさあ」
「それでは、一人で寝るのが怖かったとか」
「何歳の頃の話をしてるの」
「三歳か四歳ごろの話でしょうか、寂しがりなのは相変わらずで何よりです」
気が付いたら涙はすっかり乾いている。声はほとんどいつもの調子に戻ったし、呼吸だってもう楽にできる。それで、これは一体なんの話なんだっけ。よくわからない方向に話は転がって、気が付いたらまたしても拗ねた子供のようなことを言っている。長谷部くんはひとしきり笑ってから、もう一度私を抱きしめる。子供の頃とおんなじに、何かから私をかばうみたいなやり方で。長谷部くんの体温が溶けて馴染んで同化して、冷え切っていたからだがじんわりと暖まっていく。だけど、ほんのり眠くなりかけた頃にぶつけられた爆弾発言で、眠気も何もかもいっきにふっとんだ。「すみません、実は、わざとやったんです。たまには俺のことを気にかけてほしかったので」
……は?
「え、今、なんて?」
肩に手をかけて、むりやりその体を引っ剥がそうとしたらあえなく失敗した。「え、なんでそんな意地悪すんの酷い」仕方なくさっきとおんなじ抱きしめられた姿勢のまま、長谷部くんの腕の中で抗議する。「私がこの二週間、どんな気持ちでいたと思ってんの」腹立ち紛れに首のあたりにチョップする。ぺち、と頼りない音がして、長谷部くんが楽しげに喉を鳴らすのがわかった。人の気も知らないで何を喜んでるんだろうこいつ。
「さびしかったですか?」ときかれて、「寂しかったに決まってるじゃん!」とどなった。「さびしかったし、夜も眠れないし、でも私もいい加減従兄弟離れしないといけないからって思って、だから頑張って耐えてたんじゃん!」怒れば怒るほど、長谷部くんは『嬉しくて仕方ないです』みたいなバラ色の空気を醸し出してくるのが余計火に油を注いだ。
「それはすみませんでした。全部全部俺のせいですね」と嬉しそうな声に「ごめんで済むなら警察はいらない」と返した。「安心してください、もう二度とあなたを一人で放っておいたりはしないので」と言われて、「誠意が感じられない、どう責任とってくれんの」と怒った。そしたら「はい。勿論責任はとります、喜んで。今後の対策という訳ではありませんが、とりあえず今日から一緒に暮らしましょう。そうすればもう寂しくないはずですから」と言われて、勢いで「そうする」と答えた。答えてから、今言われたことを反芻する。……ん?
「そうと決まれば週末は買い出しですね。うちは一部屋余っているのでこの際転がり込んで来てください。このアパートよりはいくらか快適かと」
「……は?」
「夕飯はハンバーグにしましょうね。たくさん泣いてお腹が空いたでしょうし」
「え、今なんて?」
「ですから夕飯は、」
「いや、その前」
「……?、今日から一緒に住みましょうね、と」
「いや、なんでよ」
「なんでと言われても。責任を取れと言ってくださったのはあなたじゃないですか」
「いや、まあ、言った、けど、さあ」
「言いましたよね?嬉しいです、これでずっとずっと一緒ですね?」
「いや、私はただ、従兄弟離れしなきゃって思っただけで」
「従兄弟離れする必要が、どこにあるんです?」
「……どこって。だってこのままじゃダメ人間になるじゃん」
「だめになっていいのでは?」
「いや困るよ、長谷部くんがいないと何もできないのは」
「それなら尚の事一緒に暮らしたほうがいいですよね。大丈夫です、ずっと一緒にいてあげますからね」
急展開に頭がついていかない。何がどうしてこんなことに。自分が何をどう思ってあんなに泣いていたのかも、今となってはどんどん曖昧になっていく。「俺がいないと何もできないなら、常に俺と一緒にいればいいのでは?」なんて言われて、思わず「ほんとだ!?」とか言ってしまってから首を傾げる。本当にそうだろうか。見上げた先で長谷部くんがにっこりと微笑む。何かを言いかけてからふと、ぺこぺこにお腹が空いていることに気づいた。もういいか、なんでも。不意にいろんなことがどうでもよくなって、お腹すいた、とだけ漏らせば、「すぐに夕飯にしましょうね」と私の従兄弟は綺麗に笑った。
結局その日は長谷部くんと一緒にハンバーグを作ってたらふく食べてから夢も見ないほど爆睡した。こんなにぐっすり眠れたのは十四日ぶりで、つまり、長谷部くんがいないと私は眠ることすら上手にできない。自分でもちょっと引く。
「今日から一緒に暮らしましょうね」とかいうあれは冗談か何かだと思ってたら、長谷部くんの方は普通に本気だったらしい。「?、日用品の類はあなたの分まで揃えてあるので、身一つで転がり込んでくれればいいだけですよ?」と純粋な瞳の圧にまけて、言われるがまんま転がり込んで見たら自分の部屋の五倍は綺麗な快適空間が広がっていて、いよいよ抜け出せそうもなかった。
ダメ人間になる、と漏らせば、私の従兄弟(多分本当は他人)は小憎たらしいくらいの余裕の口調で笑うのだ。「諦めた方が賢明ですよ。無駄な抵抗は止しましょう。俺がいないと寂しくて三日も持たないくせに」なんて、意地悪なんだか優しいんだかよくわからない皮肉を吐いて。寝坊すれば長谷部くんに叩き起こされて、二人で一緒にご飯を食べて、平日の夜は格ゲーなんかして遊ぶのだ。結局子供の頃から変わらず、私と来たら長谷部くんにべったりだ。これではいけない、なんて真っ当な気持ちも今ではどこかに飛んで言ってしまった。
そんなわけで私は今日も、従兄弟のはとこの親戚の親戚の親戚のお爺さんの弟の息子の長谷部くんと、ずぶずぶの関係で生きていくのだった。