長谷部
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「さぁ、主。お口を開けてください」
ん、と。子供みたいにうなずいて口を開ける。薄明かりを受けたそれは、てらてらと輝いて私を誘った。私の身体は、もはや全身で『それ』を求めていた。ああ、もう、たまらない。早く、はやくはやくはやく、はやく……♡網膜の裏側に映り込んだ、その光すら狂おしい。口の中に溜まった唾液を呑み込んで急してねだって、それからようやく、待ち望んでいた物が与えられる。その瞬間の、恍惚といったら。
暗褐色のたれは、とろりと甘辛い風味で絡みつく。にんにくと葱の風味が、ひたすらに私の中にくすぶる炎を煽って燃え立たせた。唇の内側を湿らせて、舌の上で肉がほどける。柔らかく、ゆっくりと。歯を立てれば切ないくらいあっけなく肉片は噛みちぎられて、私の中に残った。じゅん、と染み出す肉汁が口中を満たして、喉を滑り落ちていく。「っ、~~~♡♡♡」たった、ほんの、ひとかけらなのに。濃厚で、芳醇で、馥郁とした。いくつもの言葉が脳内をめぐるけど、そのどれもが今こうして口の中に広がっていく味覚には遠く及ばない。暴力的なまでの感覚が味蕾から全身を巡って、私をおかしくさせた。熱い。やけどしそうなくらいのその温度はひりひりと痛いのに、その痛みすらもどこか官能的だった。「うまいですか?」長谷部くんが目の前で微笑む。だけどまともな返事なんてできなくて、ただかすかにうなずいた。おいしい。おいしい。おいしくて、ただそれだけで、私はもういっぱいいっぱいだった。それなのに長谷部くんときたら、私をどこまでも誘惑する。
「ほら」
その瞳が私を映して、にい、と、弓なりにゆがむ。口元に近づけられたそれを舌で受け取ったら、まるで子供に言い聞かせるような声が、耳元で。「ねぇ、今度はもう少し強く、歯を立ててみたらどうですか。きっととびきり、素晴らしくなれますよ」甘い甘いその声は、まるで悪魔のささやきだった。堪らず首を振ってその言葉に抗う。甘くて、柔らかくて、口の中で溶ける。脳みそが溶けるようなその瞬間の、恍惚を。たった一口で終わらせるなんて、そんなのは絶対に嫌だった。嫌だった、はず、なのに。
嘘などとうに見透かした顔で長谷部くんは笑って、どこまでも私を追い詰める。「ああ、旨いでしょう?歯を立てて、しまいたいんでしょう?柔らかい歯ごたえを堪能して、溢れる肉汁でその小さなお口をいっぱいにして、それから、一息に」終わらせたくない。ずっとずっとこのままでいたい。ああ、だけど。とろとろと舌の上で蕩けるこれに、歯を立てた時の快感。溢れて止まらない肉汁が、甘い甘い上質の脂が、喉を滑り落ちていくときのあの、怖いくらいの幸福。「ほら、ね。主」つ、と、唇をなぞられる。終わらせたくない。終わりたくない。だけど、もっと。唆されるままに歯を立てれば、もうだめだった。「っ、ん、~~~っ、♡♡♡……♡」目の前が潤んで、思考が白く染まる。じゅぶ、かすかな音が脳髄まで響いては体中を歓喜させた。とろける脂が、肉汁が、味蕾の一つ一つを蹂躙して、満たして、それから。
「……、ぁ、……」
呑み込んでしまえば、悲しいくらいにあっけない。本当に美味しい牛肉は、お口の中で溶けるのだ。雑誌やテレビや広告で何度も何度も目にした言葉が本当に本当だったことを今はじめて、身を持って知った。いつも通っている焼肉屋とは段違いの理不尽な美味しさだった。政府高官も御用達だというこの店は、出してくる肉の質が普段のそれとはあまりにも違った。甘いのに、こくがあるのに、決してしつこくない。濃厚な旨味の残滓は舌の上ですうすうと後味を残して、それがまた喪失感を煽る。あからさまに物欲しそうな顔をしたんだろう、私の頬をいとおしげになでてから、さもおかしそうに長谷部くんが笑った。
「そんなに寂しそうなお顔をされなくても、またすぐに差し上げるのに」大きな大きな金色の皿の上に、宝石のような見事な差し色が入った牛肉が並ぶ。シズル感と言う言葉はまさにこのためにあるんじゃないか。しっとりと柔らかそうな肉は光を放って、一枚一枚が驚くほど魅力的に私を誘う。バラの花をかたどるように盛り付けられたそれらは、まるで芸術品だった。その皿の縁を指先でなぞってから、焦らすような手付きで長谷部くんは箸を取る。
「さて。次は何を焼きましょうか。ロース?ハラミ?……ああ、そうですね。貴女が一等お好きなのは、厚切りの牛タンでしたよね」濡れたような艶。上品かつ重厚な存在感を放つそれを、細い箸が取り上げて、網の上に横たえる。火にあぶられた牛タンはじゅう、と汁気のある音を立ててその身を焦がしていく。煙の香りすら今の私には毒だった。やわらかくも歯ごたえのありそうな肉の、表面にくっきりと付いた網型の焼き目。扇状的なそのコントラストを、わざと見せつけるみたいに。彼はもったいぶった手付きでそれを裏返して、わざとらしく私から遠ざける。ごくり。無意識に喉が鳴ったのを聞きとがめて、「まだですよ」と長谷部くんは私に念を押した。
「表面がきつね色になるまで、しっかりと焼かないと。そうして、肉汁を閉じ込めてしまわないと。そうでしょう」その通りだ。それは、初めて焼肉に行った時に私が長谷部くんに教えたことだった。牛タンは常温に戻してから表面をじっくりと焼くのだ。注意深く焼き色をつけながら、肉の弾力を確かめ食べ頃を探る。レアでもなく、ウェルダンでもない絶妙の焼き加減。長谷部くんにその味を教えたのは紛れもなく私だった。ああ、だけど、だけど。じゅう、じゅわじゅわ、じゅん。網の上で脂がはねて、暴れて、視界までも犯していく。
「……それとも。もう我慢が、できないんですか?」
薄紫色の、瞳が。サディスティックな光をたたえて私を笑う。周りの喧騒もBGMも店員の声も、何もかもが遠ざかって、意識の外に消えていく。最初はぎこちなく私に教えを乞うていたはずの彼は、あの初々しくも可愛らしかった彼はどこに行ってしまったんだろう。幾度か連れて行くうちに長谷部くんは何もかもに慣れて、私なしでも淀みなく焼肉を遂行するようになった。それどころか今みたいに、あえて意地悪をして、私を焦らすようにすらなってしまった。
からかわれていることなんて分かりきっている。それなのに、はしたなくねだってしまいそうだった。早く、早く、もっと。焦れた思考はどろどろに脳みそを溶かす。長谷部くんの手が、ハサミを取り上げるのを見た。冷たく光る銀色の刃が、吸い込まれるように肉に食い込む。ぱちん。ぱちん。ぱちん。水気を含んだ、でも小気味いい音が、余す所なく伝えてくる。それがどんな食感なのか。どれほど柔らかく歯ごたえがあるか、どれほど狂おしくみずみずしいのか。ほんのりと赤みが残ったその一片を、うやうやしく箸が挟む。「はい、あーん」ほんの少し身を乗り出して、数センチの距離を埋める。柔らかい。ちゃんと言葉にして感じ取れたのはそれだけで、差し出されたお肉を唇で受け取った瞬間から、世界は弾けて色を変える。
「うまいですか?」
「おい、ひぃ」
答えた声の、語尾が無様に潰れた。優しい優しい声色と甘ったるい視線は、どこまでも私を安心させる。恥ずかしい、なんて思っていたことも、食べすぎないように、なんて決意していたことも、何もかもを忘れて、『おいしいこと』だけが頭を満たす。何も考えられない。ただただ美味しくて、だけど足りなくて、もっともっともっと、と、際限なく求める私を、ひたすらに長谷部くんが甘やかす。
気がついた時には、皿の上のお肉はほとんど姿を消していた。最高級A5ランク能登牛、今更ながらに浮かんだワードで一気に罪悪感を思い出す。ここは政府高官御用達の、ものすごくお高い焼肉屋さんだ。コース一人前数万の代金は、経費として政府が出してくれることになっている。それもこれも、全て偶然の産物だった。万屋の帰りにカツアゲされてたおっさんを助けたら、ラッキーなことにそれが政府のお偉いさんだったのだ。『ほんの形式上のお礼』と言うことでおっさんが食事をご馳走してくれることになったんだけど、物理的におっさんを助けたのは長谷部くんなので、正直、あれもこれも全ては長谷部くんのお手柄だった。だから、この肉を食べる権利は主に長谷部くんに所属しているはずなのだ。それなのに。彼のおこぼれに預かっているに過ぎない私が、半分以上の肉を平らげてしまっている。
「長谷部くん。……ねぇ、長谷部くんも食べなくて、いいの」我ながらあっぱれな図々しさだった。自己嫌悪の感情はギリギリで食欲を上回り、冷静さを取り戻した私は漸く謝罪の言葉を口にした。「ごめんね。おいしいからって私ばっかり、こんな」好きな人を幸せにしてあげたいという感情くらい、私だって持っているのだ。こんなにも美味しいお肉なんだから、私の大好きな長谷部くんにだって食べさせてあげたい。意地汚くも足りないと訴える本能をねじ伏せて、やっとの思いで皿を遠ざける。食べて欲しい。早く、私が食欲に支配される前に。心からそう願って箸をとった。
だけど、こんどは私が焼いてあげる、なんて言葉は、あっさりと否定されてしまった。長谷部くんは笑って首を振るだけで、いとも容易に許してしまうのだ。「いいんですよ、主」皿の縁にかけた手を取られて、そのまま頬に誘導される。聖母様みたいにきれいに微笑んで、いつだってこの人は私を駄目にしてしまうのだ。「俺のものはすべて、貴女のものなんですから。何も気にする必要はないんです。貴女は何も考えずに、ご存分に」甘やかな声で囁かれながら、目の前に肉をぶら下げられたらもうだめだった。ごめん、とぼろぼろの謝罪を口にして、それなのに、思考とは裏腹に味覚は増幅して、背徳的な感情は肉の旨味を引き立たせる。だめなのに、いけないのに、おいしいのが止まらない……♡ ごめんなさい、と謝るたびに赦されて、「あーん」と促されるままにお肉を貪る。罪悪感と諦念と、赦されている、という恍惚感と。とろけそうな幸福感で頭は麻痺して、理性は焼き切れる寸前だった。皿は綺麗に空っぽになり、とうとう最後の一枚が網に上げられる。最後に残された、たった一枚のカルビ。それすらも私に与えてしまおうと、長谷部くんがそれを取り上げる。
たっぷりと卵黄を絡めて、ふー、と息を吹きかけて。適温に冷まされたそれは極上の美味だろう。だけど、だめなのだ。最後の一枚くらいは、長谷部くんに。頑なに口を閉ざすのを叱るみたいに、左手の指が唇をとん、と叩く。あるじ、と。聞き分けの悪い子供を諭すような調子で、長谷部くんが私を呼んだ。
「主、ほら。主」
「……、いい、いらない」
「っはは、そんなお可愛らしい顔をしていないで、お口をあけてください」
「……っ♡だめ、駄目……♡」
「何が『駄目』なんです?こんなに物欲しげな目をしているくせに」
「だって、それは、長谷部くんの」
「ええ。俺のものです。俺のものは、貴女のものなんです。ほら、とびきり美味そうですね?食べてしまいたいですね?いいんですよ、ご自分の欲望に素直になって。俺の前でだけは、わがままを言ってもいいんです。罪の意識など忘れてください。ね、貴女の何もかもを、赦して差し上げますから……♡」
その声が最後のひとかけらを打ち砕いた。薄明かりを受けたそれは、てらてらと輝いて私を誘う。だめなのに、いけないのに、だけど。誘われるがままに口を開けば、罪悪感すらも食欲に変わる。「……、ああ、……♡」恍惚と満ち足りたような息を吐いて、長谷部くんが私の名前を呼んだ。とろとろと目尻を下げて、うっとりと口元に笑みを浮かべて。いいこ、と、私を褒める掌が、思考を塗りつぶしていく。そうして最後の音が、私の世界を白く染める。「今、差し上げます……♡♡♡」
ん、と。子供みたいにうなずいて口を開ける。薄明かりを受けたそれは、てらてらと輝いて私を誘った。私の身体は、もはや全身で『それ』を求めていた。ああ、もう、たまらない。早く、はやくはやくはやく、はやく……♡網膜の裏側に映り込んだ、その光すら狂おしい。口の中に溜まった唾液を呑み込んで急してねだって、それからようやく、待ち望んでいた物が与えられる。その瞬間の、恍惚といったら。
暗褐色のたれは、とろりと甘辛い風味で絡みつく。にんにくと葱の風味が、ひたすらに私の中にくすぶる炎を煽って燃え立たせた。唇の内側を湿らせて、舌の上で肉がほどける。柔らかく、ゆっくりと。歯を立てれば切ないくらいあっけなく肉片は噛みちぎられて、私の中に残った。じゅん、と染み出す肉汁が口中を満たして、喉を滑り落ちていく。「っ、~~~♡♡♡」たった、ほんの、ひとかけらなのに。濃厚で、芳醇で、馥郁とした。いくつもの言葉が脳内をめぐるけど、そのどれもが今こうして口の中に広がっていく味覚には遠く及ばない。暴力的なまでの感覚が味蕾から全身を巡って、私をおかしくさせた。熱い。やけどしそうなくらいのその温度はひりひりと痛いのに、その痛みすらもどこか官能的だった。「うまいですか?」長谷部くんが目の前で微笑む。だけどまともな返事なんてできなくて、ただかすかにうなずいた。おいしい。おいしい。おいしくて、ただそれだけで、私はもういっぱいいっぱいだった。それなのに長谷部くんときたら、私をどこまでも誘惑する。
「ほら」
その瞳が私を映して、にい、と、弓なりにゆがむ。口元に近づけられたそれを舌で受け取ったら、まるで子供に言い聞かせるような声が、耳元で。「ねぇ、今度はもう少し強く、歯を立ててみたらどうですか。きっととびきり、素晴らしくなれますよ」甘い甘いその声は、まるで悪魔のささやきだった。堪らず首を振ってその言葉に抗う。甘くて、柔らかくて、口の中で溶ける。脳みそが溶けるようなその瞬間の、恍惚を。たった一口で終わらせるなんて、そんなのは絶対に嫌だった。嫌だった、はず、なのに。
嘘などとうに見透かした顔で長谷部くんは笑って、どこまでも私を追い詰める。「ああ、旨いでしょう?歯を立てて、しまいたいんでしょう?柔らかい歯ごたえを堪能して、溢れる肉汁でその小さなお口をいっぱいにして、それから、一息に」終わらせたくない。ずっとずっとこのままでいたい。ああ、だけど。とろとろと舌の上で蕩けるこれに、歯を立てた時の快感。溢れて止まらない肉汁が、甘い甘い上質の脂が、喉を滑り落ちていくときのあの、怖いくらいの幸福。「ほら、ね。主」つ、と、唇をなぞられる。終わらせたくない。終わりたくない。だけど、もっと。唆されるままに歯を立てれば、もうだめだった。「っ、ん、~~~っ、♡♡♡……♡」目の前が潤んで、思考が白く染まる。じゅぶ、かすかな音が脳髄まで響いては体中を歓喜させた。とろける脂が、肉汁が、味蕾の一つ一つを蹂躙して、満たして、それから。
「……、ぁ、……」
呑み込んでしまえば、悲しいくらいにあっけない。本当に美味しい牛肉は、お口の中で溶けるのだ。雑誌やテレビや広告で何度も何度も目にした言葉が本当に本当だったことを今はじめて、身を持って知った。いつも通っている焼肉屋とは段違いの理不尽な美味しさだった。政府高官も御用達だというこの店は、出してくる肉の質が普段のそれとはあまりにも違った。甘いのに、こくがあるのに、決してしつこくない。濃厚な旨味の残滓は舌の上ですうすうと後味を残して、それがまた喪失感を煽る。あからさまに物欲しそうな顔をしたんだろう、私の頬をいとおしげになでてから、さもおかしそうに長谷部くんが笑った。
「そんなに寂しそうなお顔をされなくても、またすぐに差し上げるのに」大きな大きな金色の皿の上に、宝石のような見事な差し色が入った牛肉が並ぶ。シズル感と言う言葉はまさにこのためにあるんじゃないか。しっとりと柔らかそうな肉は光を放って、一枚一枚が驚くほど魅力的に私を誘う。バラの花をかたどるように盛り付けられたそれらは、まるで芸術品だった。その皿の縁を指先でなぞってから、焦らすような手付きで長谷部くんは箸を取る。
「さて。次は何を焼きましょうか。ロース?ハラミ?……ああ、そうですね。貴女が一等お好きなのは、厚切りの牛タンでしたよね」濡れたような艶。上品かつ重厚な存在感を放つそれを、細い箸が取り上げて、網の上に横たえる。火にあぶられた牛タンはじゅう、と汁気のある音を立ててその身を焦がしていく。煙の香りすら今の私には毒だった。やわらかくも歯ごたえのありそうな肉の、表面にくっきりと付いた網型の焼き目。扇状的なそのコントラストを、わざと見せつけるみたいに。彼はもったいぶった手付きでそれを裏返して、わざとらしく私から遠ざける。ごくり。無意識に喉が鳴ったのを聞きとがめて、「まだですよ」と長谷部くんは私に念を押した。
「表面がきつね色になるまで、しっかりと焼かないと。そうして、肉汁を閉じ込めてしまわないと。そうでしょう」その通りだ。それは、初めて焼肉に行った時に私が長谷部くんに教えたことだった。牛タンは常温に戻してから表面をじっくりと焼くのだ。注意深く焼き色をつけながら、肉の弾力を確かめ食べ頃を探る。レアでもなく、ウェルダンでもない絶妙の焼き加減。長谷部くんにその味を教えたのは紛れもなく私だった。ああ、だけど、だけど。じゅう、じゅわじゅわ、じゅん。網の上で脂がはねて、暴れて、視界までも犯していく。
「……それとも。もう我慢が、できないんですか?」
薄紫色の、瞳が。サディスティックな光をたたえて私を笑う。周りの喧騒もBGMも店員の声も、何もかもが遠ざかって、意識の外に消えていく。最初はぎこちなく私に教えを乞うていたはずの彼は、あの初々しくも可愛らしかった彼はどこに行ってしまったんだろう。幾度か連れて行くうちに長谷部くんは何もかもに慣れて、私なしでも淀みなく焼肉を遂行するようになった。それどころか今みたいに、あえて意地悪をして、私を焦らすようにすらなってしまった。
からかわれていることなんて分かりきっている。それなのに、はしたなくねだってしまいそうだった。早く、早く、もっと。焦れた思考はどろどろに脳みそを溶かす。長谷部くんの手が、ハサミを取り上げるのを見た。冷たく光る銀色の刃が、吸い込まれるように肉に食い込む。ぱちん。ぱちん。ぱちん。水気を含んだ、でも小気味いい音が、余す所なく伝えてくる。それがどんな食感なのか。どれほど柔らかく歯ごたえがあるか、どれほど狂おしくみずみずしいのか。ほんのりと赤みが残ったその一片を、うやうやしく箸が挟む。「はい、あーん」ほんの少し身を乗り出して、数センチの距離を埋める。柔らかい。ちゃんと言葉にして感じ取れたのはそれだけで、差し出されたお肉を唇で受け取った瞬間から、世界は弾けて色を変える。
「うまいですか?」
「おい、ひぃ」
答えた声の、語尾が無様に潰れた。優しい優しい声色と甘ったるい視線は、どこまでも私を安心させる。恥ずかしい、なんて思っていたことも、食べすぎないように、なんて決意していたことも、何もかもを忘れて、『おいしいこと』だけが頭を満たす。何も考えられない。ただただ美味しくて、だけど足りなくて、もっともっともっと、と、際限なく求める私を、ひたすらに長谷部くんが甘やかす。
気がついた時には、皿の上のお肉はほとんど姿を消していた。最高級A5ランク能登牛、今更ながらに浮かんだワードで一気に罪悪感を思い出す。ここは政府高官御用達の、ものすごくお高い焼肉屋さんだ。コース一人前数万の代金は、経費として政府が出してくれることになっている。それもこれも、全て偶然の産物だった。万屋の帰りにカツアゲされてたおっさんを助けたら、ラッキーなことにそれが政府のお偉いさんだったのだ。『ほんの形式上のお礼』と言うことでおっさんが食事をご馳走してくれることになったんだけど、物理的におっさんを助けたのは長谷部くんなので、正直、あれもこれも全ては長谷部くんのお手柄だった。だから、この肉を食べる権利は主に長谷部くんに所属しているはずなのだ。それなのに。彼のおこぼれに預かっているに過ぎない私が、半分以上の肉を平らげてしまっている。
「長谷部くん。……ねぇ、長谷部くんも食べなくて、いいの」我ながらあっぱれな図々しさだった。自己嫌悪の感情はギリギリで食欲を上回り、冷静さを取り戻した私は漸く謝罪の言葉を口にした。「ごめんね。おいしいからって私ばっかり、こんな」好きな人を幸せにしてあげたいという感情くらい、私だって持っているのだ。こんなにも美味しいお肉なんだから、私の大好きな長谷部くんにだって食べさせてあげたい。意地汚くも足りないと訴える本能をねじ伏せて、やっとの思いで皿を遠ざける。食べて欲しい。早く、私が食欲に支配される前に。心からそう願って箸をとった。
だけど、こんどは私が焼いてあげる、なんて言葉は、あっさりと否定されてしまった。長谷部くんは笑って首を振るだけで、いとも容易に許してしまうのだ。「いいんですよ、主」皿の縁にかけた手を取られて、そのまま頬に誘導される。聖母様みたいにきれいに微笑んで、いつだってこの人は私を駄目にしてしまうのだ。「俺のものはすべて、貴女のものなんですから。何も気にする必要はないんです。貴女は何も考えずに、ご存分に」甘やかな声で囁かれながら、目の前に肉をぶら下げられたらもうだめだった。ごめん、とぼろぼろの謝罪を口にして、それなのに、思考とは裏腹に味覚は増幅して、背徳的な感情は肉の旨味を引き立たせる。だめなのに、いけないのに、おいしいのが止まらない……♡ ごめんなさい、と謝るたびに赦されて、「あーん」と促されるままにお肉を貪る。罪悪感と諦念と、赦されている、という恍惚感と。とろけそうな幸福感で頭は麻痺して、理性は焼き切れる寸前だった。皿は綺麗に空っぽになり、とうとう最後の一枚が網に上げられる。最後に残された、たった一枚のカルビ。それすらも私に与えてしまおうと、長谷部くんがそれを取り上げる。
たっぷりと卵黄を絡めて、ふー、と息を吹きかけて。適温に冷まされたそれは極上の美味だろう。だけど、だめなのだ。最後の一枚くらいは、長谷部くんに。頑なに口を閉ざすのを叱るみたいに、左手の指が唇をとん、と叩く。あるじ、と。聞き分けの悪い子供を諭すような調子で、長谷部くんが私を呼んだ。
「主、ほら。主」
「……、いい、いらない」
「っはは、そんなお可愛らしい顔をしていないで、お口をあけてください」
「……っ♡だめ、駄目……♡」
「何が『駄目』なんです?こんなに物欲しげな目をしているくせに」
「だって、それは、長谷部くんの」
「ええ。俺のものです。俺のものは、貴女のものなんです。ほら、とびきり美味そうですね?食べてしまいたいですね?いいんですよ、ご自分の欲望に素直になって。俺の前でだけは、わがままを言ってもいいんです。罪の意識など忘れてください。ね、貴女の何もかもを、赦して差し上げますから……♡」
その声が最後のひとかけらを打ち砕いた。薄明かりを受けたそれは、てらてらと輝いて私を誘う。だめなのに、いけないのに、だけど。誘われるがままに口を開けば、罪悪感すらも食欲に変わる。「……、ああ、……♡」恍惚と満ち足りたような息を吐いて、長谷部くんが私の名前を呼んだ。とろとろと目尻を下げて、うっとりと口元に笑みを浮かべて。いいこ、と、私を褒める掌が、思考を塗りつぶしていく。そうして最後の音が、私の世界を白く染める。「今、差し上げます……♡♡♡」
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