山鳥毛
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雨が降り出したらしい。しとしとと空から落ちるしずくが庭の木々を濡らす。緑の匂い。湿った空気は、だけど、どこか暖かく懐かしい気配で私達を包む。雨の音に混じって、聞き慣れない不思議な音色が響いていた。からん、ぽろん、ころん。水琴窟。ふと、小学生の頃に聞いた単語を思い出す。鐘のような鈴のような、この音色がそうなんだろうか。そこに、どこか遠くで鳥が鳴いている声が混じる。
「そんなに怯えずとも、取って食いはしないさ」
いかにも上等な飴色のテーブル(テーブル?机?ちゃぶ台?わからないけどとにかくそんなような高そうなやつだ。傷なんてつけたら修理費は数十万だろう)を挟んで、向かい側。面白がるような口ぶりで、その人が笑う。怯えてるんじゃない。私は緊張しているのだ。理不尽にラグジュアリーな場の空気に圧倒され、正常な思考が麻痺しているだけだ。「へ、へぇ」かちかちに固まった口はうまく回らなくて、返事をしようとしたら時代劇に出てくる町人のような声が出た。『へぇ』って。とうとうこらえきれなくなったらしい、ふは、と軽く息を吐いて、山鳥毛さんは目尻を下げる。「ああ、いや。済まない。可愛らしいと思ってね。私の小鳥は存外、小心な所があるようだ。そう固くならずに、力を抜きなさい。ここには私と、君の二人しか居ないのだから」私の小鳥、なんて、言い方が板に付いてるあたりからもうなんか違う。生きてきた世界も、常識も、何もかも私とは違う。ファビュラスかつラグジュアリーかつ絢爛かつ雅かつ優雅なこの空間で、力を抜きなさいなんて言われても、もう力の抜き方がわからない。落ち着こう、オッケー、大丈夫、落ち着こう。無意味に自分を鼓舞しながら、冷え切った指先で茶碗を手に取る。湯呑じゃない、茶托付きの、やたらと高そうな色味の茶碗だ。香り高い気がするけど実際のところ味なんか全然わからない。そんな日本茶をなんとか一口呑み込んだら、それでも、ほんのりと胸の辺りがあたたまる。
「小鳥は蟹が好きなのだと、子猫から聞いたものでね」
「あ、ああ……蟹は、はい、ええと、すきです」
「何よりだ。聞くところによると、最近は随分と根を詰めて働いていたそうじゃないか。ゆっくり食事をする暇もなかったようだし、多少羽休めになれば、と思ったんだが」
優しい。
遠縁の親戚のとびきり優しい伯父さん、を思わせる温かい視線(そんな伯父さんが居た試しはないけど)。『カニって言うかカニ缶が好きで』といいかけてやめる。カニ缶なんて、この人知ってるだろうか。カニ缶に大量のマヨネーズをのけて食べるのが好き、なんて言ったら、がっかりされたりしないだろうか。
緊張と畏怖と子供みたいな、羞恥心。ちょっとだけ怖くて、だけどかまってほしくて。つい先日顕現した山鳥毛さんは、私にとってそんな、子供の頃のあの感情を思い出させるようなタイプの、よくわからないけどとにかくそういう神様だった。駆け出し三日目の私の本丸で、何をどうしてこんな大物を連れてこられたのか、今となってはもう思い出せない。ただ必死だった。眠る間もないくらいにオトシダマ(ていうかオトシダマって何だよって話である)を集めまくって、血眼で出陣に出陣を重ね、本当に無理やり連れてきたのがついこの間のことだった。初期刀の加州くんによるとその時の私は、「や、ヤクザだ……」とだけつぶやいて気を失ったらしい。どことなくヤンキーっぽくて地元感あふれる南泉くん(交換所から連れてきた)とは違って、山鳥毛さんのこの威圧感って本当に何なんだろう。だけど、初対面で失礼なことを言った私を笑って許して、何かと気にかけてくれる辺り本当はものすごく優しいのだ。
顕現してからこれまでに山鳥毛さんがくれた、数々の差し入れのことを思い出す。ものすごく滑らかな口当たりの、信じられないほど美味しいチョコレートに、泣き出しそうなくらいに柔らかいおまんじゅう。夢みたいに綺麗な練り切りに、濃厚なのに口の中で儚く溶ける、もはや芸術と言っていいほどのチーズケーキ。戦績表が届くたびに「頑張っているな」と褒められ差し出されるお菓子たちは私の警戒心をあっという間に解いて、気がついたときにはすっかり餌付けされていた。最初の頃に感じていた威圧感もいつしか麻痺して、だから、「小鳥は、週末に出かける余裕はあるかな」と聞かれたときもごくごく気安くうなずいた。さっきまで忘れてたんだけど、この人は国宝の付喪神様だったのだ。地方都市生まれ地方都市育ちの庶民とは金銭感覚も常識も、何もかもが全く違った。
「私の行きつけの店があってね。甘味ばかりでは飽きただろう。少々遠出だが、きっと君も気に入る」いきつけ、と、あのときたしかに、山鳥毛さんは言っていた。そんなセレブっぽい単語を、なぜかその時スルーした。食欲にまみれた脳みそはその言葉を受けてもなお、「わぁ、楽しみだなぁ美味しそうだなぁ」とか腑抜けたことを考えていた。この間の私に言ってやりたい。この人、親戚の伯父さんとかじゃ全然ないんだぞ、と。ていうかそもそも、人間ですらないんだぞ、と。この料亭だって、実のところこの世のものではないような気がする。四季が麻痺したみたいに咲き乱れる花々に囲まれた、綺麗な日本家屋。中庭付きの和室。枯山水っぽい曰く有りげな掛け軸に、高級そうな花器に飾られた、色とりどりの生花。そんな空間で寛ぐ山鳥毛さんは、もうどう考えても政財界の大物か、ヤクザのドンみたいな雰囲気をまとっている。
「先付でございます。左から、香箱蟹、金時草湯葉巻、千鳥酢、防風。どうぞお楽しみくださいませ」
すすす、と音もなくふすまが開いた。やたらと玄人っぽい女将が、何やら外国語のような言葉を発してきれいに盛り付けられた器を差し出してくる。なめらかに説明されすぎて、一個も内容が理解できなかったけど。芸術品みたいに盛り付けられたこれらは、本当に食べ物なんだろうか。「さ、眺めていないで、遠慮なく食べなさい」と促され、おずおずと箸を取る。「い、いただき、ます」震える声で手を合わせれば、「ああ、召し上がれ」と鷹揚に微笑まれた。家庭科で習った日本食の作法を必死で思い出そうとしたけど、あんまり頭は働かなかった。それでも柚子の香箱?に箸をつけて口へ運んだ、ところで、一瞬にして何もかもがどうでも良くなる。
「……っ、!!!」
んぅ、と、こらえきれなかった声が微かに漏れた。複雑な味が口の中で混ざり合って、極上の美味に変化する。
「お気に召したようで、光栄だな」
その声はどこか遠くに聞こえた。「慌てなくてもなくなりはしないから、ゆっくり食べなさい」慈愛に満ちた視線。姪っ子を可愛がる伯父さんそのものみたいな口ぶりで私に言い聞かせながら、山鳥毛さんはにこにこと指を組む。「えっと、すごく、すごく、おいしくって」爽やかな柚子の香りが、鼻を抜ける。ほろほろと蟹の身がほぐれて、口の中を旨味で満たしていく。やばい、と、語彙の蕩けた脳みそはひたすらにそればかりを繰り返す。やばい。すごくおいしくて、あじがよくて、おいしくて、やばい。山鳥毛さんは壊れかけのラジオみたいな私の言葉も馬鹿になんかしないで、鷹揚に相槌を打ってくれる。
ゆっくり食べなさい、と言われたのに箸が止まらなくて、次から次に差し出される料理を、片っ端から平らげてしまう。先付け、前菜、御椀にお造り。料理の名前なんて説明される端から忘れていくのに、一々全部が美味しくて、子供みたいに夢中になってしまう。ここがどこだとか、もはやどうでも良かった。最初に覚えていたはずの緊張感もごちそうの前にはほぼ意味がなく、一口箸をすすめるごとに理性は溶けて消えていく。ほろほろと舌の上で崩れる鯛、脂が乗ってジューシーな鰤、透き通ってキラキラと綺麗な刺し身の盛り合わせに、宝石みたいに見事に脂が入った和牛のステーキ。それから、極めつけは。
「どれ、私が剥いてあげよう。指を傷つけては事だからね」
氷でぎっしりと満たされた船型の皿の上に、うやうやしく鎮座した松葉蟹。松葉蟹なんて雅な表現を初めて聞いたな、と、妙に冷静にそんなことを考える。絶品グルメという言葉が安っぽく思えるくらいの理不尽に豪華なごちそうとその美味が、私の頭を混乱させてごちゃごちゃに渋滞させていた。
……かにって、かにって。こんなに宝石みたいな生き物だったっけ。目に痛いほど鮮やかな赤色と、透き通った氷のコントラストが鮮やかだった。目の前で繰り広げられていくそれは、私の知っている『蟹』とはあまりにも違いすぎていた。蟹、とは。蟹とは、年に一度大晦日などの親戚が集まる場でしかお目にかかれない幻のごちそうではなかったのか。めったに食べられないそれを前に、水面下ではルール無用完全無差別級の争いが繰り広げられる、そういう魔性の食べ物ではなかっただろうか。他人を蹴落とし指を傷だらけにしながらも血眼で喰らい尽くす、修羅の食べ物ではなかっただろうか。……それを、今、『剥いてあげよう』って言った……?つまりこの人は、蟹を巡って争うどころか、自分が手ずから向いた蟹を私に分け与えようとしてくれている……?何故……?頭の中をごちゃごちゃにしたまんまで、山鳥毛さんが蟹に手をかけるのをひたすら見つめている。
こんなに優雅に蟹を剥く人っているんだ、などと考えてしまっている私は多分、完全に子供返りしていた。
ぺき、と、かすかな音がした。山鳥毛さんの綺麗な指が、軽い音を立てながら蟹の足を折って並べていく。まるで造作もないことのように関節を砕き、するりと殻を抜いてその下の、真っ赤な蟹の身を顕にする。目の前にぶら下げられたそれはつやつやと輝いて、新鮮さとその素晴らしい食感を伝えてくる。「ほら、食べさせてあげよう。口を開けなさい」見上げた先で、山鳥毛さんの瞳が優しげに細められる。たべさせて、あげよう……?言われた言葉の意味が把握できずにまばたきをすれば、「ほら」ともう一度促された。結構恥ずかしかったけど、慈愛に満ち満ちた表情に見つめられているうちに、何だかそうするのが一番正しいことのようにも、思えてきたので。
「……、あ、……」
目を閉じる。軽く口を開いて、剥き身の蟹を一口に頬張る。口のなかいっぱいに広がる蟹の風味も、ぷりぷりの歯ごたえも、旨味としか言いようのない暴力的なその味も、何もかもが私の常識を麻痺させていくのがわかった。私がこれまでに覚えてきた言葉なんかじゃ、とても足りない。おいしくて、おいしくて、おいしくて、おいしい。頭の中をそれだけでいっぱいにして、もどかしくても声にすれば、その分美味しさは増幅するような気がした。恥ずかしい、と思ったこともすっかり忘れて、与えられるそれを夢中で貪った。「いくらでも食べるといい。これは君の為に用意させた食事なんだから」と山鳥毛さんはこともなげにそう言って、次から次へと蟹を剥いては、「そら、お食べ」と手ずからそれを差し出してくる。圧倒的なその味を前に、頭の中の常識がすっかり洗われて、真っ白に戻っていく。こうやってあーんして食べさせてもらうのが蟹の正式な食べ方なんじゃないか、とすら思いかけていた。そこに、絶対そんなわけないよね、という気持ちと、こんなに美味しいんだからもうなんでもいいや、という気持ちが入り交じる。こんな素晴らしい食べ物をもらえる私は、きっと特別な存在なんだ、と、何だかどっかのCMでみたようなコメントが、感動的なBGMとともに頭の中をぐるぐる回った。
蟹をたらふく食べさせてもらって(カニ味噌と、しめのカニ雑炊も食べた)、ついでにデザートのメロンは山鳥毛さんの分まで私が平らげて(だって「小鳥は、甘いものが好きだろう。君が菓子を頬張る姿は、見ていて実に気持ちがいいからね。水菓子などよりも、その表情を眺めるほうが私には楽しい」と言うから)、永遠に食べられる気がしたし何なら『もうここに住みたい』とすら思ったけど流石にそれは言えないので、思いっきり後ろ髪を引かれつつ帰路についた。その後も「たくさん食べ、健やかに成長することが君の努めだからね」ということで、定期的に山鳥毛さんは私をご飯に連れ出してくれるようになった。
正直なところ、成長期なんてとっくに過ぎてるんだけど。「いやはや、人の身とは楽しいものだな。私の手で小鳥を手懐け、可愛がる事ができるとは」と山鳥毛さんが満足そうなので、まあこれはこれでウィンウィンってやつなんだと思う。定期的に舞い込んでくる匿名調査の依頼も、正直だるくてサボりがちだった連隊戦演習も、山鳥毛さんが来てからは別人の様に頑張る様になった。何故って、ノルマをこなせば、信じられないほど美味しいごはんに連れて行ってもらえる事がわかってしまったので。「雛の努力には、報いてあげたいものさ」とあの人は穏やかに笑って、私の前にごちそうの気配をぶら下げる。
「ふむ。今回の任務は、大般若長光の回収か。江戸城は広大だ。とはいえ、この本丸にそれを成し遂げる実力は、十分に備わっていると思うのだがね」この任務が、終わったら。若干不純な期待をいだきつつも、そうやって褒められると弱かったりもする。「できるな?私の小鳥よ」その言葉にうなずけば、いつもの様に慈愛に満ち満ちた目で、山鳥毛さんは笑ってくれる。それから、優しい優しい声色で、まるで雛を触るみたいな手付きで私の頭を撫でるのだ。「いい子だ」なんて、言ってくれながら。緊張と畏怖と子供みたいな、羞恥心。ちょっとだけ怖くて、だけどかまってほしくて。子供みたいな感情と食欲に突き動かされて、今日も私はせっせと任務をこなすのだ。この任務が終わったら、次はお寿司を食べさせてもらう約束をしている。
「そんなに怯えずとも、取って食いはしないさ」
いかにも上等な飴色のテーブル(テーブル?机?ちゃぶ台?わからないけどとにかくそんなような高そうなやつだ。傷なんてつけたら修理費は数十万だろう)を挟んで、向かい側。面白がるような口ぶりで、その人が笑う。怯えてるんじゃない。私は緊張しているのだ。理不尽にラグジュアリーな場の空気に圧倒され、正常な思考が麻痺しているだけだ。「へ、へぇ」かちかちに固まった口はうまく回らなくて、返事をしようとしたら時代劇に出てくる町人のような声が出た。『へぇ』って。とうとうこらえきれなくなったらしい、ふは、と軽く息を吐いて、山鳥毛さんは目尻を下げる。「ああ、いや。済まない。可愛らしいと思ってね。私の小鳥は存外、小心な所があるようだ。そう固くならずに、力を抜きなさい。ここには私と、君の二人しか居ないのだから」私の小鳥、なんて、言い方が板に付いてるあたりからもうなんか違う。生きてきた世界も、常識も、何もかも私とは違う。ファビュラスかつラグジュアリーかつ絢爛かつ雅かつ優雅なこの空間で、力を抜きなさいなんて言われても、もう力の抜き方がわからない。落ち着こう、オッケー、大丈夫、落ち着こう。無意味に自分を鼓舞しながら、冷え切った指先で茶碗を手に取る。湯呑じゃない、茶托付きの、やたらと高そうな色味の茶碗だ。香り高い気がするけど実際のところ味なんか全然わからない。そんな日本茶をなんとか一口呑み込んだら、それでも、ほんのりと胸の辺りがあたたまる。
「小鳥は蟹が好きなのだと、子猫から聞いたものでね」
「あ、ああ……蟹は、はい、ええと、すきです」
「何よりだ。聞くところによると、最近は随分と根を詰めて働いていたそうじゃないか。ゆっくり食事をする暇もなかったようだし、多少羽休めになれば、と思ったんだが」
優しい。
遠縁の親戚のとびきり優しい伯父さん、を思わせる温かい視線(そんな伯父さんが居た試しはないけど)。『カニって言うかカニ缶が好きで』といいかけてやめる。カニ缶なんて、この人知ってるだろうか。カニ缶に大量のマヨネーズをのけて食べるのが好き、なんて言ったら、がっかりされたりしないだろうか。
緊張と畏怖と子供みたいな、羞恥心。ちょっとだけ怖くて、だけどかまってほしくて。つい先日顕現した山鳥毛さんは、私にとってそんな、子供の頃のあの感情を思い出させるようなタイプの、よくわからないけどとにかくそういう神様だった。駆け出し三日目の私の本丸で、何をどうしてこんな大物を連れてこられたのか、今となってはもう思い出せない。ただ必死だった。眠る間もないくらいにオトシダマ(ていうかオトシダマって何だよって話である)を集めまくって、血眼で出陣に出陣を重ね、本当に無理やり連れてきたのがついこの間のことだった。初期刀の加州くんによるとその時の私は、「や、ヤクザだ……」とだけつぶやいて気を失ったらしい。どことなくヤンキーっぽくて地元感あふれる南泉くん(交換所から連れてきた)とは違って、山鳥毛さんのこの威圧感って本当に何なんだろう。だけど、初対面で失礼なことを言った私を笑って許して、何かと気にかけてくれる辺り本当はものすごく優しいのだ。
顕現してからこれまでに山鳥毛さんがくれた、数々の差し入れのことを思い出す。ものすごく滑らかな口当たりの、信じられないほど美味しいチョコレートに、泣き出しそうなくらいに柔らかいおまんじゅう。夢みたいに綺麗な練り切りに、濃厚なのに口の中で儚く溶ける、もはや芸術と言っていいほどのチーズケーキ。戦績表が届くたびに「頑張っているな」と褒められ差し出されるお菓子たちは私の警戒心をあっという間に解いて、気がついたときにはすっかり餌付けされていた。最初の頃に感じていた威圧感もいつしか麻痺して、だから、「小鳥は、週末に出かける余裕はあるかな」と聞かれたときもごくごく気安くうなずいた。さっきまで忘れてたんだけど、この人は国宝の付喪神様だったのだ。地方都市生まれ地方都市育ちの庶民とは金銭感覚も常識も、何もかもが全く違った。
「私の行きつけの店があってね。甘味ばかりでは飽きただろう。少々遠出だが、きっと君も気に入る」いきつけ、と、あのときたしかに、山鳥毛さんは言っていた。そんなセレブっぽい単語を、なぜかその時スルーした。食欲にまみれた脳みそはその言葉を受けてもなお、「わぁ、楽しみだなぁ美味しそうだなぁ」とか腑抜けたことを考えていた。この間の私に言ってやりたい。この人、親戚の伯父さんとかじゃ全然ないんだぞ、と。ていうかそもそも、人間ですらないんだぞ、と。この料亭だって、実のところこの世のものではないような気がする。四季が麻痺したみたいに咲き乱れる花々に囲まれた、綺麗な日本家屋。中庭付きの和室。枯山水っぽい曰く有りげな掛け軸に、高級そうな花器に飾られた、色とりどりの生花。そんな空間で寛ぐ山鳥毛さんは、もうどう考えても政財界の大物か、ヤクザのドンみたいな雰囲気をまとっている。
「先付でございます。左から、香箱蟹、金時草湯葉巻、千鳥酢、防風。どうぞお楽しみくださいませ」
すすす、と音もなくふすまが開いた。やたらと玄人っぽい女将が、何やら外国語のような言葉を発してきれいに盛り付けられた器を差し出してくる。なめらかに説明されすぎて、一個も内容が理解できなかったけど。芸術品みたいに盛り付けられたこれらは、本当に食べ物なんだろうか。「さ、眺めていないで、遠慮なく食べなさい」と促され、おずおずと箸を取る。「い、いただき、ます」震える声で手を合わせれば、「ああ、召し上がれ」と鷹揚に微笑まれた。家庭科で習った日本食の作法を必死で思い出そうとしたけど、あんまり頭は働かなかった。それでも柚子の香箱?に箸をつけて口へ運んだ、ところで、一瞬にして何もかもがどうでも良くなる。
「……っ、!!!」
んぅ、と、こらえきれなかった声が微かに漏れた。複雑な味が口の中で混ざり合って、極上の美味に変化する。
「お気に召したようで、光栄だな」
その声はどこか遠くに聞こえた。「慌てなくてもなくなりはしないから、ゆっくり食べなさい」慈愛に満ちた視線。姪っ子を可愛がる伯父さんそのものみたいな口ぶりで私に言い聞かせながら、山鳥毛さんはにこにこと指を組む。「えっと、すごく、すごく、おいしくって」爽やかな柚子の香りが、鼻を抜ける。ほろほろと蟹の身がほぐれて、口の中を旨味で満たしていく。やばい、と、語彙の蕩けた脳みそはひたすらにそればかりを繰り返す。やばい。すごくおいしくて、あじがよくて、おいしくて、やばい。山鳥毛さんは壊れかけのラジオみたいな私の言葉も馬鹿になんかしないで、鷹揚に相槌を打ってくれる。
ゆっくり食べなさい、と言われたのに箸が止まらなくて、次から次に差し出される料理を、片っ端から平らげてしまう。先付け、前菜、御椀にお造り。料理の名前なんて説明される端から忘れていくのに、一々全部が美味しくて、子供みたいに夢中になってしまう。ここがどこだとか、もはやどうでも良かった。最初に覚えていたはずの緊張感もごちそうの前にはほぼ意味がなく、一口箸をすすめるごとに理性は溶けて消えていく。ほろほろと舌の上で崩れる鯛、脂が乗ってジューシーな鰤、透き通ってキラキラと綺麗な刺し身の盛り合わせに、宝石みたいに見事に脂が入った和牛のステーキ。それから、極めつけは。
「どれ、私が剥いてあげよう。指を傷つけては事だからね」
氷でぎっしりと満たされた船型の皿の上に、うやうやしく鎮座した松葉蟹。松葉蟹なんて雅な表現を初めて聞いたな、と、妙に冷静にそんなことを考える。絶品グルメという言葉が安っぽく思えるくらいの理不尽に豪華なごちそうとその美味が、私の頭を混乱させてごちゃごちゃに渋滞させていた。
……かにって、かにって。こんなに宝石みたいな生き物だったっけ。目に痛いほど鮮やかな赤色と、透き通った氷のコントラストが鮮やかだった。目の前で繰り広げられていくそれは、私の知っている『蟹』とはあまりにも違いすぎていた。蟹、とは。蟹とは、年に一度大晦日などの親戚が集まる場でしかお目にかかれない幻のごちそうではなかったのか。めったに食べられないそれを前に、水面下ではルール無用完全無差別級の争いが繰り広げられる、そういう魔性の食べ物ではなかっただろうか。他人を蹴落とし指を傷だらけにしながらも血眼で喰らい尽くす、修羅の食べ物ではなかっただろうか。……それを、今、『剥いてあげよう』って言った……?つまりこの人は、蟹を巡って争うどころか、自分が手ずから向いた蟹を私に分け与えようとしてくれている……?何故……?頭の中をごちゃごちゃにしたまんまで、山鳥毛さんが蟹に手をかけるのをひたすら見つめている。
こんなに優雅に蟹を剥く人っているんだ、などと考えてしまっている私は多分、完全に子供返りしていた。
ぺき、と、かすかな音がした。山鳥毛さんの綺麗な指が、軽い音を立てながら蟹の足を折って並べていく。まるで造作もないことのように関節を砕き、するりと殻を抜いてその下の、真っ赤な蟹の身を顕にする。目の前にぶら下げられたそれはつやつやと輝いて、新鮮さとその素晴らしい食感を伝えてくる。「ほら、食べさせてあげよう。口を開けなさい」見上げた先で、山鳥毛さんの瞳が優しげに細められる。たべさせて、あげよう……?言われた言葉の意味が把握できずにまばたきをすれば、「ほら」ともう一度促された。結構恥ずかしかったけど、慈愛に満ち満ちた表情に見つめられているうちに、何だかそうするのが一番正しいことのようにも、思えてきたので。
「……、あ、……」
目を閉じる。軽く口を開いて、剥き身の蟹を一口に頬張る。口のなかいっぱいに広がる蟹の風味も、ぷりぷりの歯ごたえも、旨味としか言いようのない暴力的なその味も、何もかもが私の常識を麻痺させていくのがわかった。私がこれまでに覚えてきた言葉なんかじゃ、とても足りない。おいしくて、おいしくて、おいしくて、おいしい。頭の中をそれだけでいっぱいにして、もどかしくても声にすれば、その分美味しさは増幅するような気がした。恥ずかしい、と思ったこともすっかり忘れて、与えられるそれを夢中で貪った。「いくらでも食べるといい。これは君の為に用意させた食事なんだから」と山鳥毛さんはこともなげにそう言って、次から次へと蟹を剥いては、「そら、お食べ」と手ずからそれを差し出してくる。圧倒的なその味を前に、頭の中の常識がすっかり洗われて、真っ白に戻っていく。こうやってあーんして食べさせてもらうのが蟹の正式な食べ方なんじゃないか、とすら思いかけていた。そこに、絶対そんなわけないよね、という気持ちと、こんなに美味しいんだからもうなんでもいいや、という気持ちが入り交じる。こんな素晴らしい食べ物をもらえる私は、きっと特別な存在なんだ、と、何だかどっかのCMでみたようなコメントが、感動的なBGMとともに頭の中をぐるぐる回った。
蟹をたらふく食べさせてもらって(カニ味噌と、しめのカニ雑炊も食べた)、ついでにデザートのメロンは山鳥毛さんの分まで私が平らげて(だって「小鳥は、甘いものが好きだろう。君が菓子を頬張る姿は、見ていて実に気持ちがいいからね。水菓子などよりも、その表情を眺めるほうが私には楽しい」と言うから)、永遠に食べられる気がしたし何なら『もうここに住みたい』とすら思ったけど流石にそれは言えないので、思いっきり後ろ髪を引かれつつ帰路についた。その後も「たくさん食べ、健やかに成長することが君の努めだからね」ということで、定期的に山鳥毛さんは私をご飯に連れ出してくれるようになった。
正直なところ、成長期なんてとっくに過ぎてるんだけど。「いやはや、人の身とは楽しいものだな。私の手で小鳥を手懐け、可愛がる事ができるとは」と山鳥毛さんが満足そうなので、まあこれはこれでウィンウィンってやつなんだと思う。定期的に舞い込んでくる匿名調査の依頼も、正直だるくてサボりがちだった連隊戦演習も、山鳥毛さんが来てからは別人の様に頑張る様になった。何故って、ノルマをこなせば、信じられないほど美味しいごはんに連れて行ってもらえる事がわかってしまったので。「雛の努力には、報いてあげたいものさ」とあの人は穏やかに笑って、私の前にごちそうの気配をぶら下げる。
「ふむ。今回の任務は、大般若長光の回収か。江戸城は広大だ。とはいえ、この本丸にそれを成し遂げる実力は、十分に備わっていると思うのだがね」この任務が、終わったら。若干不純な期待をいだきつつも、そうやって褒められると弱かったりもする。「できるな?私の小鳥よ」その言葉にうなずけば、いつもの様に慈愛に満ち満ちた目で、山鳥毛さんは笑ってくれる。それから、優しい優しい声色で、まるで雛を触るみたいな手付きで私の頭を撫でるのだ。「いい子だ」なんて、言ってくれながら。緊張と畏怖と子供みたいな、羞恥心。ちょっとだけ怖くて、だけどかまってほしくて。子供みたいな感情と食欲に突き動かされて、今日も私はせっせと任務をこなすのだ。この任務が終わったら、次はお寿司を食べさせてもらう約束をしている。
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