山鳥毛
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「……と、言う訳でね。悪いが、君の住むアパートは我々で差し押さえさせて頂く事になっている」
「……………………、はあ」
「寝起きのところ申し訳ないね。これは『ほんのお詫びの印』だ、受け取って欲しい」
「…………おわびの……」
「君の仮住まいは、我々が責任を持って提供しよう。安心かつ安全な住まいを、可及的速やかに。何も心配しなくていい、これは我々の不手際だ」
「……フテギワ…………?」
おそら、きれい。
血の巡らない頭で、青空をみている。妙な話だった。木造モルタル二階建て、築五十年のはなまる荘の天井に、こんな大きな天窓があっただろうか。私の部屋って、こんなにダイナミックに埃まみれだっただろうか。
……まあ、最近掃除してなかったからな……。
胡乱な頭で考えている私を他所に、目の前の男の人は、深刻な表情で何かを語りかけている。だけど、その意味がほとんど取れなかった。何だか分厚い封筒を手渡されたけど、その意味もわからない。私は低血圧なのだ。特に起き抜けはひどいくらいポンコツで、エンジンがかかるまでに最低一時間はかかる。
今朝はなんだか妙な調子で、いきなり轟音が鳴り響いたと思ったらこれだ。何が何だかわからないうちにガンガンガンガン!!!とものすごい勢いでドアをノックされ、扉を開けたら知らない男の人が部屋に上がってきて。そこから何やら、シリアスっぽい話が展開されていく。真面目に聞かないと怒られそうな雰囲気を感じ取ったので、赤べこみたいにかっくんかっくん頷いて相槌を返している。そのうちに意識は半分体から抜け出して、宙を漂い始める。
家主の失踪、多額の借金、取り立て、差し押さえ、立ち退き交渉、取り壊し。
なんだか重要そうなワードが飛び交っては、私の耳を通り抜けていく。「はあ」と、何度目かもわからない空っぽの返事を繰り返している。ポンコツの脳みそはその時、おふとん、とか、枕、とか、そういう単語で埋め尽くされていた。
だって、今日は久しぶりの休日なのに。明日からはまたバイトで、だから、今日は一日寝溜めをするつもりだったのに。どうしてかこんなに早くに叩き起こされて、よくわからない話を聞いている。
眠気にぐらんぐらんと体を揺らす私に、目の前のその人が眉根を寄せる。「顔色が悪いな」低くくて癖があって、だけど優しげな声。ふと、おかしな気分が頭をもたげる。というのも、『痛ましい』と言わんばかりのその表情が、無性に懐かしかったからだ。白銀色の髪の毛にサングラス。真っ赤な瞳がこっちを覗き込んでいて、ぼんやりと私は、小さい頃に見かけた鷲の目を思い出したりなんかしていた。
……だけど、なんか、この人、どっかで会ったことがある、ような。
「食事はきちんと摂れているのか?睡眠時間は?ああ、隈がひどいな。そんな事ではいずれ体を壊してしまう」矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、半分くらいは返事をしただろうか。
えっと、睡眠時間は、最近は、あんまり。奨学金借りてて、生活費も必要で、私、家族とかいないから。大学も結構忙しいし。でも、バイト先の店長がうまい棒百本くれたから、それで一ヶ月生きれるかなって。
夢うつつだった。嘆かわしいと言わんばかりの重い重いため息が空間に落ちる。「私の小鳥」と、呼ばれたような気がするけど幻聴かもしれなかった。十八連勤の疲労が限界に達していて、まともに意識を保つのが難しかった。
「安心しなさい。何も心配することはないぞ、私の小鳥よ」ああ、やっぱり聞いたことがあるんだよなあそのフレーズ。ぼんやりとそう思ったけど、それもすぐに眠気に流される。目から送り込まれる情報を、脳みそが上手に処理できていないのだ。ぷつんぷつんと細切れ再生みたいに記憶が途切れていって、視界は黒くなったり明るくなったり、なんだかこれってやばいんじゃないかなあ、なんて、どこか他人事のように考えていた。
「少し休むといい。大丈夫だ、君のことは私が全責任を持って保護を」大きな掌が迫ってきて、視界が塞がれるのがわかった。大きくて暖かくてほんのり懐かしい、ような。一瞬だけ何かを思い出しかけるけど、ぶつん、と意識がそこで途切れて、頭の中は真っ暗になった。
▽
目が覚めたら宮殿にいた。
うちのアパートで知らない男の人と会話して以降の記憶がない。気がついたら宮殿のような場所で寝ていた。眼前には、見慣れたはなまる荘(風呂なしトイレなし四畳一間。板張りで、ところどころ雨漏りしている)とはかけ離れた景色が広がる。高い高い天井にぶら下がる、見たことのない形の照明。大きな鏡に映るのはうろたえる私の顔。明るい花柄の壁紙、天井にくっつきそうなほどの大きな窓にかけられた、重厚なカーテン。
……えっと、これは……?
冷や汗をたらたら流しながら当たりを見回して、自分がやたらどでかいベッドに寝ていたことに気づく。クイーンサイズとかキングサイズとか、都市伝説でしか聞いたことがないような天文学的な広さのベッドだ。なんとなく枕元に置いてあった分厚い封筒を開いてみて、ひゅっ、と、おかしな音が喉から漏れた。分厚い万札の束だ。なんだこれ。事件性しか感じない。
動転して立ち上がろうとして反動でバランスを崩して、もう一度お布団に沈み込んだ。窓の外はとっぷりと日が暮れている。なんだこれ。なんだこれ。沢山寝たと思しき頭はこの上なくクリアに目の前の情報を認識するのに、さっぱり現状が把握できなかった。ここはどこだ。私は誰だ。なんだこれは。意味のわからない光景に混乱しながら、私の頭はなんとか三つ、選択肢をひねり出す。
①夢を見ている
②幻覚を見ている
③白昼夢を見ている
余りにも現実味がなかった。『④ここは天国』の可能性はなるべく考えないようにしながら、恐る恐る自分の頬を抓るなどしてみる。痛い。痛いけど、この痛みは現実のものだろうか。……何か、とんでもない事が起きてる気がする。自分の実在すら揺るがす大事件に巻き込まれている、ような。
冷や汗を流しながら、ベッドを抜け出そうとした頃合いだった。不意にドアをノックされて、動転した私は「ハイ喜んで!!」などと、まるでバイト先の居酒屋の挨拶のような返事をしていた。カチャリ、と軽い音をたててなめらかにドアは開き(一つも軋まない辺りに文化の差を感じる)、その向こうから、さっきはなまる荘で会話した、あの男の人が顔を覗かせる。
「おはよう。よく眠れたかな」
「は、……はあ、まあ」
「君と、少々話がしたいのだが。ほんの数十分だけ、お時間をいただきたい。可能だろうか」
「か、可能、だと、思います、はい」
「何よりだ。そうだ、喉が乾いたろう。なにか飲みたいものは?」
絶対この人カタギじゃない。
あの時は寝ぼけてたから普通に対応しちゃったけど、改めて見るとこの人の風貌は絶対にカタギじゃない。正直めちゃくちゃ怖かった。あからさまにヤクザめいた男の外見に、脳みそが軽い恐慌状態に陥ってまたしてもフリーズする。そんな時に飲みたいものなんて聞かれても一個も思いつかなくて、考えに考えた末に気がついたら裏返った声で「ファッ、ファンタ、グレープで」などと口走っている。その人は注意深い表情で「ファンタグレープ」と、まるで異国の言葉のように復唱してから、「成程、善処しよう」と踵を返して去っていった。
なぜファンタなどと口走ってしまったのか。
一人残された部屋の中、自分の言葉を痛烈に後悔していた。五分とたたないうちに、「待たせたね。ご所望の物はこちらだろうか」なんて言葉とともに現れたファンタグレープで、私は更に混乱する。これって、これって。もしかして、悪い夢かなんかなのでは。
ベッドサイドの高級そうなテーブルの上に、見慣れたボトルと高そうなクリスタルのグラスが並ぶ。バカラと思しきグラスに注がれたファンタは、まるで魔法の飲み物のようにキラキラと美しかった。笑みを含んだ視線に促されて、口をつければ強い炭酸が、容赦無く私の喉を焼く。
……起き抜けにファンタはきつすぎた。あっけなく蒸せて咳き込めば、大きな手が背中を擦ってくれる。見かけによらず優しい。優しいけど、ちょっとこわい。謝ろうとしてさらにむせたら、「すまない、怯えさせてしまったかな」と、まるで子供に話しかけるような声でなだめられた。
「先程はすまなかったね、いきなりあのような話を聞かせて。だが安心してほしい、説明したように君のことは私が」……、あのような、話。あのような話って、どのような話、なんだっけ? 大きな掌の体温で力が抜ける。多少の冷静さを取り戻した脳みそで、少し前の記憶をぼんやりと思い出してみる。
早朝に地響きのような音で目を覚ましたこと。はなまる荘の天井に、見慣れない天窓ができていたこと。一文字山鳥毛、と書かれた名刺。家主の失踪、多額の借金、土地の差し押さえ。……差し押さえ……?
記憶を掘り返せば出るわ出るわ、不穏なキーワードのオンパレードだ。「あの、つかぬことを、伺いますが」夢であってほしい。だけど、多分これ夢じゃないんじゃないかな。その証拠に、「はなまる荘は、一体」と震える私の声には返事がなくて、ただ苦虫を噛み潰したような顔で「申し訳ない」と謝られてしまった。
「我々のミスだ。203号室に住人は居ないなどと、そんな報告を鵜呑みにしていた私の責任だ。まさか、よりによってこんな所で君を見つけるとは」
「……、……、……」
「部屋にあった荷物は先ほど部下が回収し、この屋敷に移動させた。無断で君の資産に触れたことも、重ねてお詫びをさせていただきたい。申し訳なかった」
「…………、ほ、へ」
……そ、そんな、ばかな。
ため息とも笑いともつかない声が、勝手に口から漏れていく。空っぽの頭の中で、ホームレス、という言葉がぐるぐると回る。明日からまた朝四時に起きて、バイトと学校に明け暮れる生活が始まるはずなのに。引っ越しのお金だって、新しくアパートを借りるお金だって、一銭も持ってないのに。
だけど呆気にとられたのは一瞬で、頭の片隅では冷静な自分が馬鹿みたいに冷静に金勘定を始めていた。とにもかくにも金がない。どうやら月末のバイト代を待つ余裕すらもなさそうだ。割のいいバイト。そうだ、いっそのこと身売りでもするか。
そういえば北口の方にはその手の求人が山ほど貼ってあったよな。お酒は飲めないけど、容姿に自信があるわけでもないけど、女子大生というブランドをありがたがる客は多いはず。今晩の寝床だって、出会い系アプリで募集をかければきっと簡単に。それとも涙でも流してみせれば、この人は私に同情するだろうか。
そんなことまで考えて自己嫌悪に陥りつつも、奇跡的に私はまだ、人間的な態度を保っていた。頭をかきむしったり暴れたり猿のように奇声を発したりすることもなく、「ご親切にありがとうございました」と、口から出た声は他人のように落ち着き払っていた。泣きたかったけど、こういう時意外と涙は出ないのだ。というか、泣こうが喚こうが、今晩から宿無しなことに変わりはない。
だけど、立ち上がりかけた体は無理矢理引っ張り戻された。「待ちなさい」、と有無を言わさぬ声で命じられて、さらに、「……何を、考えている?」なんてただならぬ顔で問いただされて、ひゅ、と、息が止まりかけた。
「な、何って、言うか、えっと、とりあえず帰ろうかなって」
「帰るも何も、君の住むアパートはすでに取り壊されている」
「でも、だから、今晩寝るところを探さないと」
「その必要はない、君のことは我々が責任を持って保護すると先ほども言っただろう。奨学金も、アルバイトも、家賃も、何も心配することはないとあれほど」
「だって、いや、…………、……、ん……?」
言われたことが理解できない。何もかもが、私の理解を超えていた。この場所も、朝から今までの一連の出来事も、ついでにこの人の言っていることも。
惚けている所にさらに「私が朝、君に説明したことを思い出せるかな?」と聞かれて、あっけにとられながら「すいません私低血圧なんで」と答える。そしたら「詳細は省くが、君の生活は私が責任を持って補償させていただく、という話をした」と、さらに意味不明な話が展開される。
私の、生活を、ほしょう。
ほしょう、とは。
言葉の意味はわかるのに、話の内容がさっぱり理解できていない。聞き返そうとしたら口がうまく回らなくて、「ホ、ショウ……?」とか、なんだかカタコトみたいな口調になってしまった。そこから、数秒の(重い重い)沈黙。ふー、と、深刻なため息を着いてから、男の人は私に向き直る。
「君は」真っ赤な瞳が、私を覗き込んだ(やっぱりどこか猛禽類っぽい)。「いいか、君は不当にも住処を追われてここにいる。我々の、……私の、不手際の所為で、だ。わかるね?」噛んで含めるような口調だった。わかるね?ともう一度念を押されて気圧されて頷く。
「こうなったのは私のせいだ。だから君は遠慮することなく、私の責任を追求して良いんだ。衣食住も、学費も、全て心配しなくて良い。勿論、信用できなければ明日にでも、此処を出て行ってくれて構わない。その場合の賠償も十二分に行う準備が、私にはある。しかし」
……なんて言ったけ、この人。一文字、三鳥毛さん?渡された名刺のことを、ふと思い出した。どっちが苗字でどっちが名前だかわからない。だけどほんのりと聞き覚えがあるのだ。こんな時にそんなことを考えているのは、現実逃避かなんかだろうか。なぜだか泣きそうに顔を歪めて、山鳥毛さん? は私を見つめる。
「しかしだな、小鳥。今は夜中の十一時、未成年が出歩くには危険すぎる時間帯だ。どうか今晩だけでも、ここに留まってはくれないだろうか」
「へ、……、あ、……、え? ん?」
「君を危険な目に合わせるのが、どうしても耐えられないものでね。私の個人的な感情に付き合わせてすまないが、どうだろう。少し落ち着いて、考えてはくれないか」
小鳥。聞きなれない呼び方なはずなのに、なんだかそれが、妙に懐かしかった。この人もしかして、大昔に事故で死んだ両親の、生き別れの兄弟かなんかだったりして。麻痺した脳みそでそんな、陳腐な漫画めいたことを考えたりなんかしていた。
まだ現実を受け入れられてなんかなかった。何もかもわけがわからない。だけど、「わかりました。とりあえず、一晩だけ」と、カラカラの喉でそう絞り出せば、三鳥毛さんは瞳を細めて、「ありがとう」と、本当に本当に嬉しそうに微笑んでくれたりするので。
意味が不明だけど、先のことを考えると不安で奇声を発したくもなるけど。目が覚めたら住処を追われていた私は、なんだかそれだけで、とりあえず大丈夫なような気がしてしまうのだった。
※※※
キンキンに冷えたファンタを飲みながら、もう一度詳しい事情を聞いたのはそこから数分経ってからのことだった。
大家さんが多額の借金をこしらえ高飛びをしてしまい、はなまる荘はもう随分前から、土地の抵当権その他諸々の差し押さえの対象になっていた、とか。住人には個別に説明済みだったはずなのに、常にバイトをはしごしているせいで私の部屋だけはいつ訪ねても留守で、その上台帳にもろくな記載がされてなかったから、とうとう『住人なし』として処理されてしまった、とか。それで今朝、取り壊しの当日になって、無人のはずのはなまる荘で爆睡している私が発見された、と。
まるで漫画か小説みたいな話だ。そんなことって本当にあるんだぁ、とボヤけば、「全く。あのような場所で、よりにもよって君を見つけるとはな」と、しみじみと頷かれたのがなんだかおかしかった。だけど、穏やかな空気は、ぐごごぎゅるるるるるるるるぐるるるるぐるみゃあ、という情け容赦ない私の腹の音により雲散霧消することになる。
ふは、と、耐えきれなくなったかのように吹き出した三鳥毛さんに「相変わらずで何よりだ。ずいぶん遅いが、夕飯にしようか。小鳥は、何か食べたいものはあるかな」と問われ、タダメシの予感に突き動かされた私はそれまでの感傷も緊張感も忘れて「唐揚げが好きです!」と元気いっぱいに宣言してしまった。
この世のものとは思えないほどの美味の唐揚げを食べながらようやく『そういえば小鳥って私のことかな』とか『相変わらずも何も私たちは初対面では』とか今更すぎることを考えたけど、もう本当に今更だった。結局この屋敷に残ることにした私は、この先も三鳥毛さんに「小鳥」というこっぱずかしい仇名で呼ばれ続けることになる。
「敷金なし礼金なし家賃なし、君の通う大学からは徒歩五分圏内。セキュリティの関係上門限だけは設させてもらうが、それ以外は好きに使ってくれて構わない。小鳥にとってもそう悪くはない条件のように思うのだが、どうだろうか」と、トチ狂った話を持ちかけてきたあの時の三鳥毛さんはどう考えても胡散臭かったのに、すんなり頷いてしまったのが今になっても結構不思議だ。
この人の発している圧倒的な安心感って本当に何なんだろう?
たまに不思議にもなるけど、別にそれで困ったことが起きるわけでもないので放っておくことにしている。人生万事塞翁が馬ってことわざがあるけど、自分の身にこんなドラマチックな出来事が降りかかって来るとは思わなかった。
バイトしてる本屋の店長(占いが趣味)によると、私のこの生活は前世からのカルマとかそんな感じの何かによるものらしいけど、まさかな。ちなみに山鳥毛さんの職業はヤのつく自由業でも闇金の取り立て屋さんでもなく、古くから続く財閥系の巨大グループの長(ほんとに『長』って言ってた)だという事実が後々判明して気絶しかけた。
詳しくは忘れたけど「古臭い家系でね。事業の一環として、代々この辺り一帯の管理を行なっている」だそうで、そんな人がなんではなまる荘なんてチンケな物件の差し押さえに出向いてきたのかとか、大家さんって結局どこに消えたのかとか、色々と謎が残るけど、今となってはどうでもいいので深く考えないことにしている。
というわけで、風呂なしトイレなし家賃三万築五十年の中古物件から私は引っ越し、最早何LDKなのかもわからない広い広いお屋敷で、怖いくらいに快適でおそろしく身分不相応感のある下宿生活を始めることとなったのだ。
「……………………、はあ」
「寝起きのところ申し訳ないね。これは『ほんのお詫びの印』だ、受け取って欲しい」
「…………おわびの……」
「君の仮住まいは、我々が責任を持って提供しよう。安心かつ安全な住まいを、可及的速やかに。何も心配しなくていい、これは我々の不手際だ」
「……フテギワ…………?」
おそら、きれい。
血の巡らない頭で、青空をみている。妙な話だった。木造モルタル二階建て、築五十年のはなまる荘の天井に、こんな大きな天窓があっただろうか。私の部屋って、こんなにダイナミックに埃まみれだっただろうか。
……まあ、最近掃除してなかったからな……。
胡乱な頭で考えている私を他所に、目の前の男の人は、深刻な表情で何かを語りかけている。だけど、その意味がほとんど取れなかった。何だか分厚い封筒を手渡されたけど、その意味もわからない。私は低血圧なのだ。特に起き抜けはひどいくらいポンコツで、エンジンがかかるまでに最低一時間はかかる。
今朝はなんだか妙な調子で、いきなり轟音が鳴り響いたと思ったらこれだ。何が何だかわからないうちにガンガンガンガン!!!とものすごい勢いでドアをノックされ、扉を開けたら知らない男の人が部屋に上がってきて。そこから何やら、シリアスっぽい話が展開されていく。真面目に聞かないと怒られそうな雰囲気を感じ取ったので、赤べこみたいにかっくんかっくん頷いて相槌を返している。そのうちに意識は半分体から抜け出して、宙を漂い始める。
家主の失踪、多額の借金、取り立て、差し押さえ、立ち退き交渉、取り壊し。
なんだか重要そうなワードが飛び交っては、私の耳を通り抜けていく。「はあ」と、何度目かもわからない空っぽの返事を繰り返している。ポンコツの脳みそはその時、おふとん、とか、枕、とか、そういう単語で埋め尽くされていた。
だって、今日は久しぶりの休日なのに。明日からはまたバイトで、だから、今日は一日寝溜めをするつもりだったのに。どうしてかこんなに早くに叩き起こされて、よくわからない話を聞いている。
眠気にぐらんぐらんと体を揺らす私に、目の前のその人が眉根を寄せる。「顔色が悪いな」低くくて癖があって、だけど優しげな声。ふと、おかしな気分が頭をもたげる。というのも、『痛ましい』と言わんばかりのその表情が、無性に懐かしかったからだ。白銀色の髪の毛にサングラス。真っ赤な瞳がこっちを覗き込んでいて、ぼんやりと私は、小さい頃に見かけた鷲の目を思い出したりなんかしていた。
……だけど、なんか、この人、どっかで会ったことがある、ような。
「食事はきちんと摂れているのか?睡眠時間は?ああ、隈がひどいな。そんな事ではいずれ体を壊してしまう」矢継ぎ早に投げかけられる言葉に、半分くらいは返事をしただろうか。
えっと、睡眠時間は、最近は、あんまり。奨学金借りてて、生活費も必要で、私、家族とかいないから。大学も結構忙しいし。でも、バイト先の店長がうまい棒百本くれたから、それで一ヶ月生きれるかなって。
夢うつつだった。嘆かわしいと言わんばかりの重い重いため息が空間に落ちる。「私の小鳥」と、呼ばれたような気がするけど幻聴かもしれなかった。十八連勤の疲労が限界に達していて、まともに意識を保つのが難しかった。
「安心しなさい。何も心配することはないぞ、私の小鳥よ」ああ、やっぱり聞いたことがあるんだよなあそのフレーズ。ぼんやりとそう思ったけど、それもすぐに眠気に流される。目から送り込まれる情報を、脳みそが上手に処理できていないのだ。ぷつんぷつんと細切れ再生みたいに記憶が途切れていって、視界は黒くなったり明るくなったり、なんだかこれってやばいんじゃないかなあ、なんて、どこか他人事のように考えていた。
「少し休むといい。大丈夫だ、君のことは私が全責任を持って保護を」大きな掌が迫ってきて、視界が塞がれるのがわかった。大きくて暖かくてほんのり懐かしい、ような。一瞬だけ何かを思い出しかけるけど、ぶつん、と意識がそこで途切れて、頭の中は真っ暗になった。
▽
目が覚めたら宮殿にいた。
うちのアパートで知らない男の人と会話して以降の記憶がない。気がついたら宮殿のような場所で寝ていた。眼前には、見慣れたはなまる荘(風呂なしトイレなし四畳一間。板張りで、ところどころ雨漏りしている)とはかけ離れた景色が広がる。高い高い天井にぶら下がる、見たことのない形の照明。大きな鏡に映るのはうろたえる私の顔。明るい花柄の壁紙、天井にくっつきそうなほどの大きな窓にかけられた、重厚なカーテン。
……えっと、これは……?
冷や汗をたらたら流しながら当たりを見回して、自分がやたらどでかいベッドに寝ていたことに気づく。クイーンサイズとかキングサイズとか、都市伝説でしか聞いたことがないような天文学的な広さのベッドだ。なんとなく枕元に置いてあった分厚い封筒を開いてみて、ひゅっ、と、おかしな音が喉から漏れた。分厚い万札の束だ。なんだこれ。事件性しか感じない。
動転して立ち上がろうとして反動でバランスを崩して、もう一度お布団に沈み込んだ。窓の外はとっぷりと日が暮れている。なんだこれ。なんだこれ。沢山寝たと思しき頭はこの上なくクリアに目の前の情報を認識するのに、さっぱり現状が把握できなかった。ここはどこだ。私は誰だ。なんだこれは。意味のわからない光景に混乱しながら、私の頭はなんとか三つ、選択肢をひねり出す。
①夢を見ている
②幻覚を見ている
③白昼夢を見ている
余りにも現実味がなかった。『④ここは天国』の可能性はなるべく考えないようにしながら、恐る恐る自分の頬を抓るなどしてみる。痛い。痛いけど、この痛みは現実のものだろうか。……何か、とんでもない事が起きてる気がする。自分の実在すら揺るがす大事件に巻き込まれている、ような。
冷や汗を流しながら、ベッドを抜け出そうとした頃合いだった。不意にドアをノックされて、動転した私は「ハイ喜んで!!」などと、まるでバイト先の居酒屋の挨拶のような返事をしていた。カチャリ、と軽い音をたててなめらかにドアは開き(一つも軋まない辺りに文化の差を感じる)、その向こうから、さっきはなまる荘で会話した、あの男の人が顔を覗かせる。
「おはよう。よく眠れたかな」
「は、……はあ、まあ」
「君と、少々話がしたいのだが。ほんの数十分だけ、お時間をいただきたい。可能だろうか」
「か、可能、だと、思います、はい」
「何よりだ。そうだ、喉が乾いたろう。なにか飲みたいものは?」
絶対この人カタギじゃない。
あの時は寝ぼけてたから普通に対応しちゃったけど、改めて見るとこの人の風貌は絶対にカタギじゃない。正直めちゃくちゃ怖かった。あからさまにヤクザめいた男の外見に、脳みそが軽い恐慌状態に陥ってまたしてもフリーズする。そんな時に飲みたいものなんて聞かれても一個も思いつかなくて、考えに考えた末に気がついたら裏返った声で「ファッ、ファンタ、グレープで」などと口走っている。その人は注意深い表情で「ファンタグレープ」と、まるで異国の言葉のように復唱してから、「成程、善処しよう」と踵を返して去っていった。
なぜファンタなどと口走ってしまったのか。
一人残された部屋の中、自分の言葉を痛烈に後悔していた。五分とたたないうちに、「待たせたね。ご所望の物はこちらだろうか」なんて言葉とともに現れたファンタグレープで、私は更に混乱する。これって、これって。もしかして、悪い夢かなんかなのでは。
ベッドサイドの高級そうなテーブルの上に、見慣れたボトルと高そうなクリスタルのグラスが並ぶ。バカラと思しきグラスに注がれたファンタは、まるで魔法の飲み物のようにキラキラと美しかった。笑みを含んだ視線に促されて、口をつければ強い炭酸が、容赦無く私の喉を焼く。
……起き抜けにファンタはきつすぎた。あっけなく蒸せて咳き込めば、大きな手が背中を擦ってくれる。見かけによらず優しい。優しいけど、ちょっとこわい。謝ろうとしてさらにむせたら、「すまない、怯えさせてしまったかな」と、まるで子供に話しかけるような声でなだめられた。
「先程はすまなかったね、いきなりあのような話を聞かせて。だが安心してほしい、説明したように君のことは私が」……、あのような、話。あのような話って、どのような話、なんだっけ? 大きな掌の体温で力が抜ける。多少の冷静さを取り戻した脳みそで、少し前の記憶をぼんやりと思い出してみる。
早朝に地響きのような音で目を覚ましたこと。はなまる荘の天井に、見慣れない天窓ができていたこと。一文字山鳥毛、と書かれた名刺。家主の失踪、多額の借金、土地の差し押さえ。……差し押さえ……?
記憶を掘り返せば出るわ出るわ、不穏なキーワードのオンパレードだ。「あの、つかぬことを、伺いますが」夢であってほしい。だけど、多分これ夢じゃないんじゃないかな。その証拠に、「はなまる荘は、一体」と震える私の声には返事がなくて、ただ苦虫を噛み潰したような顔で「申し訳ない」と謝られてしまった。
「我々のミスだ。203号室に住人は居ないなどと、そんな報告を鵜呑みにしていた私の責任だ。まさか、よりによってこんな所で君を見つけるとは」
「……、……、……」
「部屋にあった荷物は先ほど部下が回収し、この屋敷に移動させた。無断で君の資産に触れたことも、重ねてお詫びをさせていただきたい。申し訳なかった」
「…………、ほ、へ」
……そ、そんな、ばかな。
ため息とも笑いともつかない声が、勝手に口から漏れていく。空っぽの頭の中で、ホームレス、という言葉がぐるぐると回る。明日からまた朝四時に起きて、バイトと学校に明け暮れる生活が始まるはずなのに。引っ越しのお金だって、新しくアパートを借りるお金だって、一銭も持ってないのに。
だけど呆気にとられたのは一瞬で、頭の片隅では冷静な自分が馬鹿みたいに冷静に金勘定を始めていた。とにもかくにも金がない。どうやら月末のバイト代を待つ余裕すらもなさそうだ。割のいいバイト。そうだ、いっそのこと身売りでもするか。
そういえば北口の方にはその手の求人が山ほど貼ってあったよな。お酒は飲めないけど、容姿に自信があるわけでもないけど、女子大生というブランドをありがたがる客は多いはず。今晩の寝床だって、出会い系アプリで募集をかければきっと簡単に。それとも涙でも流してみせれば、この人は私に同情するだろうか。
そんなことまで考えて自己嫌悪に陥りつつも、奇跡的に私はまだ、人間的な態度を保っていた。頭をかきむしったり暴れたり猿のように奇声を発したりすることもなく、「ご親切にありがとうございました」と、口から出た声は他人のように落ち着き払っていた。泣きたかったけど、こういう時意外と涙は出ないのだ。というか、泣こうが喚こうが、今晩から宿無しなことに変わりはない。
だけど、立ち上がりかけた体は無理矢理引っ張り戻された。「待ちなさい」、と有無を言わさぬ声で命じられて、さらに、「……何を、考えている?」なんてただならぬ顔で問いただされて、ひゅ、と、息が止まりかけた。
「な、何って、言うか、えっと、とりあえず帰ろうかなって」
「帰るも何も、君の住むアパートはすでに取り壊されている」
「でも、だから、今晩寝るところを探さないと」
「その必要はない、君のことは我々が責任を持って保護すると先ほども言っただろう。奨学金も、アルバイトも、家賃も、何も心配することはないとあれほど」
「だって、いや、…………、……、ん……?」
言われたことが理解できない。何もかもが、私の理解を超えていた。この場所も、朝から今までの一連の出来事も、ついでにこの人の言っていることも。
惚けている所にさらに「私が朝、君に説明したことを思い出せるかな?」と聞かれて、あっけにとられながら「すいません私低血圧なんで」と答える。そしたら「詳細は省くが、君の生活は私が責任を持って補償させていただく、という話をした」と、さらに意味不明な話が展開される。
私の、生活を、ほしょう。
ほしょう、とは。
言葉の意味はわかるのに、話の内容がさっぱり理解できていない。聞き返そうとしたら口がうまく回らなくて、「ホ、ショウ……?」とか、なんだかカタコトみたいな口調になってしまった。そこから、数秒の(重い重い)沈黙。ふー、と、深刻なため息を着いてから、男の人は私に向き直る。
「君は」真っ赤な瞳が、私を覗き込んだ(やっぱりどこか猛禽類っぽい)。「いいか、君は不当にも住処を追われてここにいる。我々の、……私の、不手際の所為で、だ。わかるね?」噛んで含めるような口調だった。わかるね?ともう一度念を押されて気圧されて頷く。
「こうなったのは私のせいだ。だから君は遠慮することなく、私の責任を追求して良いんだ。衣食住も、学費も、全て心配しなくて良い。勿論、信用できなければ明日にでも、此処を出て行ってくれて構わない。その場合の賠償も十二分に行う準備が、私にはある。しかし」
……なんて言ったけ、この人。一文字、三鳥毛さん?渡された名刺のことを、ふと思い出した。どっちが苗字でどっちが名前だかわからない。だけどほんのりと聞き覚えがあるのだ。こんな時にそんなことを考えているのは、現実逃避かなんかだろうか。なぜだか泣きそうに顔を歪めて、山鳥毛さん? は私を見つめる。
「しかしだな、小鳥。今は夜中の十一時、未成年が出歩くには危険すぎる時間帯だ。どうか今晩だけでも、ここに留まってはくれないだろうか」
「へ、……、あ、……、え? ん?」
「君を危険な目に合わせるのが、どうしても耐えられないものでね。私の個人的な感情に付き合わせてすまないが、どうだろう。少し落ち着いて、考えてはくれないか」
小鳥。聞きなれない呼び方なはずなのに、なんだかそれが、妙に懐かしかった。この人もしかして、大昔に事故で死んだ両親の、生き別れの兄弟かなんかだったりして。麻痺した脳みそでそんな、陳腐な漫画めいたことを考えたりなんかしていた。
まだ現実を受け入れられてなんかなかった。何もかもわけがわからない。だけど、「わかりました。とりあえず、一晩だけ」と、カラカラの喉でそう絞り出せば、三鳥毛さんは瞳を細めて、「ありがとう」と、本当に本当に嬉しそうに微笑んでくれたりするので。
意味が不明だけど、先のことを考えると不安で奇声を発したくもなるけど。目が覚めたら住処を追われていた私は、なんだかそれだけで、とりあえず大丈夫なような気がしてしまうのだった。
※※※
キンキンに冷えたファンタを飲みながら、もう一度詳しい事情を聞いたのはそこから数分経ってからのことだった。
大家さんが多額の借金をこしらえ高飛びをしてしまい、はなまる荘はもう随分前から、土地の抵当権その他諸々の差し押さえの対象になっていた、とか。住人には個別に説明済みだったはずなのに、常にバイトをはしごしているせいで私の部屋だけはいつ訪ねても留守で、その上台帳にもろくな記載がされてなかったから、とうとう『住人なし』として処理されてしまった、とか。それで今朝、取り壊しの当日になって、無人のはずのはなまる荘で爆睡している私が発見された、と。
まるで漫画か小説みたいな話だ。そんなことって本当にあるんだぁ、とボヤけば、「全く。あのような場所で、よりにもよって君を見つけるとはな」と、しみじみと頷かれたのがなんだかおかしかった。だけど、穏やかな空気は、ぐごごぎゅるるるるるるるるぐるるるるぐるみゃあ、という情け容赦ない私の腹の音により雲散霧消することになる。
ふは、と、耐えきれなくなったかのように吹き出した三鳥毛さんに「相変わらずで何よりだ。ずいぶん遅いが、夕飯にしようか。小鳥は、何か食べたいものはあるかな」と問われ、タダメシの予感に突き動かされた私はそれまでの感傷も緊張感も忘れて「唐揚げが好きです!」と元気いっぱいに宣言してしまった。
この世のものとは思えないほどの美味の唐揚げを食べながらようやく『そういえば小鳥って私のことかな』とか『相変わらずも何も私たちは初対面では』とか今更すぎることを考えたけど、もう本当に今更だった。結局この屋敷に残ることにした私は、この先も三鳥毛さんに「小鳥」というこっぱずかしい仇名で呼ばれ続けることになる。
「敷金なし礼金なし家賃なし、君の通う大学からは徒歩五分圏内。セキュリティの関係上門限だけは設させてもらうが、それ以外は好きに使ってくれて構わない。小鳥にとってもそう悪くはない条件のように思うのだが、どうだろうか」と、トチ狂った話を持ちかけてきたあの時の三鳥毛さんはどう考えても胡散臭かったのに、すんなり頷いてしまったのが今になっても結構不思議だ。
この人の発している圧倒的な安心感って本当に何なんだろう?
たまに不思議にもなるけど、別にそれで困ったことが起きるわけでもないので放っておくことにしている。人生万事塞翁が馬ってことわざがあるけど、自分の身にこんなドラマチックな出来事が降りかかって来るとは思わなかった。
バイトしてる本屋の店長(占いが趣味)によると、私のこの生活は前世からのカルマとかそんな感じの何かによるものらしいけど、まさかな。ちなみに山鳥毛さんの職業はヤのつく自由業でも闇金の取り立て屋さんでもなく、古くから続く財閥系の巨大グループの長(ほんとに『長』って言ってた)だという事実が後々判明して気絶しかけた。
詳しくは忘れたけど「古臭い家系でね。事業の一環として、代々この辺り一帯の管理を行なっている」だそうで、そんな人がなんではなまる荘なんてチンケな物件の差し押さえに出向いてきたのかとか、大家さんって結局どこに消えたのかとか、色々と謎が残るけど、今となってはどうでもいいので深く考えないことにしている。
というわけで、風呂なしトイレなし家賃三万築五十年の中古物件から私は引っ越し、最早何LDKなのかもわからない広い広いお屋敷で、怖いくらいに快適でおそろしく身分不相応感のある下宿生活を始めることとなったのだ。