長谷部
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「ねえ長谷部くん」
「なんです?」
「地獄ってジャワ原人とかいるのかな?」
「はい……、………、はい?」
完璧な笑顔で、でも完璧に困惑してることがわかる、そんな完璧な笑顔で長谷部くんが私を見ている。深夜の執務室。提出期限が明日までの書類は一向に進まない。ちょっと休憩、とかって旅行サイトなんか見てるうちにふと気になったので聞いてみた。ふと気になったのはなぜかというと、以前長谷部くんが、二日酔いのときに寝言で言っていた言葉がずっと引っかかっていたので。「いずれ地獄で」とか、そんな感じの。
「いや、ずっと気になってさ、地獄ってどんなとこかなって」
「なるほど?」
「死んだ人の数ってさあ生きてる人の数よりも断然多いじゃん?地獄ってどのくらいの人口いるんだろって」
「そうですね、以前行ったときは」
「行ったことあるの!?」
「ええ」
「嘘じゃんすっご、どうだった?」
「それが入れませんでした、入場規制がかかっていて」
「えっ遊園地みたいだね……」
「300歳未満の付喪神は入場禁止でしたね、残念です」
「年齢制限あるんだ………」
しばらくの沈黙。画面を見ながら考える。その時の彼は、前の主を探しに行ったんだろうか。付喪神にあの世があるなら、と、ある日うっかり聞いてしまったあの会話を思い出す。私が死んだあと、地獄までついてきてくれるだろうか。しかしR300は流石にハードルが高いな。一般人は入場できそうもない。こっそりブラウザを開き検索サイトを立ち上げる。『人間 300年 生きる 方法』入力してエンターを押す直前に長谷部くんの声。
「人間は年齢無制限だったのでご安心下さい」
「そっかあよかった」
思わずそう返してから複雑な気持ちになる。よかったんだろうか。私は地獄に行くんだろうか。そうか。天国じゃないのか。
「えっ、ちなみにさ」
「はい」
「入場ゲートから中とか覗いた?」
「はい、勿論」
「ティラノサウルスとかいた?やっぱ」
「ああ、それはですね」
「ステゴサウルスとかもいた?」
「いえ、はっきりとはわかりませんが遠目にそのようなものは」
「えーーーすごい最高じゃん!望遠鏡持ってけばよかったのに」
「ええ、次回はそうしようかと」
「次回?」
「貴女と行くときは望遠鏡持参で参りましょう」
「あっ……そう?」
「図鑑なども持っていきましょうか。楽しみでしょう?」
「えっめっちゃ楽しそうなにそれ!私冬のボーナスで恐竜図鑑買っとくわ」
「はは、そうですね俺も楽しみです」
そっか、地獄行きか。長谷部くんと。そうか、長谷部くんは私と地獄に落ちてくれるつもりなのか。そうなのか。『人間 300年 生きる』と入力したままの文字列を消して、『地獄 見どころ』と打ち込んでみる。
「ねえ長谷部くん」
「なんです?」
「好きだよ」
「はい、俺も愛しておりますよ」
無意味にヘラヘラと笑いながら、検索の1ページ目に引っかかったページを開く。『地獄の概念 西洋と東洋の地獄 その文化的背景について』なんてアカデミックなページを読み流すうちにふと不安になってくる。地獄って一口に言ってもいろいろあるじゃん。
「ねえ長谷部くん」
「はい?」
「地獄ってさ、洋式?和式?」
「どちらが宜しいですか?」
「えっ、私に聞くの」
「はい、主のご希望に合わせましょう」
……なんか結婚式の相談してるみたいだな。いや何考えてるんだろ。とりあえず『地獄 洋式 和式 比較』とかで検索してみる。なぜか結婚式場が引っかかった。そうじゃない。
「ええー……洋式の地獄ってさ、やっぱ英語圏?」
「どうでしょう?」
「私さあ、リスニング苦手なんだよ。文法なら行けるんだけど」
「ご心配には及びませんよ。俺が通訳して差し上げますね」
「喋れんの英語」
「ええまあ、世界中の博物館で展示されておりましたので。前職の経験を活かせるかと」
「えっ前職って扱いなのそれ」
「業界は同じですが職種が違いますからね」
「…………あっ、そうなんだよくわからないけど、そうなの?」
「そうです」
……深く考えないことにする。
代わりに『地獄 西洋』とかで検索してみて、いや私キリスト教の洗礼受けてないしな、西洋の地獄だと入場制限にひっかかるかもな、と思い直す。
「……やー……とりあえず洋式はないかな、和式で」
「ではそのように」
「………あっ」
「どうかされましたか?」
「えっ、和式ってか東洋の地獄ってさ、中国語とか喋れないとだめじゃない?」
「ははは」
「古文とか漢文とか苦手なんだけど」
「今からお勉強されては?教えて差し上げますよ」
「えー………サ段変角とかラ段変角とか?ありをりはべりいまそかりとか?」
「要は慣れですから」
「レ点とか返り点とか?反語とか?」
「ご安心下さい、最良の結果を主に」
「……あ、あなや」
「それとも、俺と一緒はお嫌ですか?」
「いや、嫌じゃない、けどさ」
「ありがとうございます」
……えっ、なんか勉強する流れになったけどなんだこれ。「いくつか教材を見繕っておきますね」と言われるのに勢いで頷く。まあいいか。地獄、の、ふた文字を眺めながら完全に手を止めて、ぼんやりとその時を思う。私が地獄に行くその時。
「いやー、……地獄ってさ」
「はい」
「どうやって行くの?バス?電車?車?馬?」
「徒歩ですね、どちらかといえば」
「徒歩か、こっから徒歩何分くらい?ナビに入れればいけるかな」
「大丈夫ですよ、道は覚えていますから。連れて行って差し上げます」
「あんま遠くないといいね、疲れるし」
「そうですね、そう遠くはありませんよ」
「そっかよかった」
また沈黙。長谷部くんがよどみなくキーボードを叩く音だけが響く。
「手が止まっていますよ、主」と言われて曖昧に笑う。目の前の書類を進める気にはなれそうになかった。「地獄でさあ、長谷部くんは探したりするの」うっかり聞いてしまってからぼんやりと後悔する。仮定の話だ。これは全て仮定の話だ。地獄があるかどうかもわからないし、長谷部くんが私についてきてくれるかどうかなんてわからない。
ごっこ遊びみたいな会話に、だから本音を混ぜ込むのは簡単だった。私の考えてることを知ってか知らずか、彼は綺麗に笑う。伏せられた睫毛の曲線が影を落とすのを眺める。
「何の話ですか?」
「例えば元の主とかさ」
「ご冗談を」
「一緒に探してあげるよ」
「お気持ちだけ有り難く頂戴します」
「いやほんとにさ。一緒に探してあげる、言いたいことも聞きたいこともたくさんあるでしょ」
「いいえ?特には」
「例えばさ、私を置いてってもいいからさ。地獄で前の主見つけたら、そっちについてってもいいからさ。そしたらたまには私にも会いに来てよ。寂しくないように」
仮定の話だ。仕事の合間の軽い余談だ。それなのに、かち合ってしまった視線に泣きたくなって、こんどははっきりと後悔する。じわじわと肺のあたりが痛い。パタン、とPCの蓋が閉められる音と同時くらいに頭上に影が落ちた。「そんなふうな泣きそうな顔をなさるなら、言わなければいいのに」呆れたようなどこか嬉しそうな声。前を向くのがいやで左を向いたり右を向いたりしているうちにしっかりと頭を固定されてしまう。微妙に涙がにじんでる目じりに口づけられて、後ずさりしようにもどうしよう、後ろが壁だ。あ、これあれじゃん?壁ドンってやつじゃんね?「いけませんよ、逃げては」って、笑う瞳が妙に熱っぽい。
「何か、勘違いをされているようですが」
「……はあ、なんすか」
「貴女は俺の物なんです」
「…………、まあ、うん、そうかな」
「いつになったらご理解いただけるんですか?俺は貴女を離す気など更々ないですよ。当たり前でしょう、責任は取っていただきます」
「いや、……いや、責任って何」
「貴女がいなければ、俺はただの刀でいられた」
「……、」
「ただの刀でいるのだって悪くはなかった。主に仇なす悉くを切り伏せるだけの存在でいられれば。そうして折れていくだけでもよかったのに。貴女ではない、他の誰かの刀であったのなら」
だから責任を取っていただかないと。
どろどろに甘ったるい声が脳みそを揺さぶる。いつのまにか寄りかかった、壁の冷たさが心地いい。そのまんま唇が重なって、するすると首をなぞる長谷部くんの指に、すこしだけ力が籠められるのを他人事みたいに感じていた。
神様に恋をした人間の末路ときたら、碌なもんじゃないだろう。例えば地獄の業火で未来永劫焼かれるとか。そんなところが関の山だ。それは悲惨な未来のはずなのに、想像するだけで幸せで息が詰まる。
「こんな風に俺を作り変えたのは、他でもない貴女なのですから」目を閉じる寸前に見た、瞳の藤色が焼き付いたみたいに網膜から離れない。視線が絡まって溶けて、触れているところから体温が混じって同化していく。愛してます、祈るみたいな声に頷いた。頷いてから性懲りもなく想像している。本当に地獄なんてものがあるとして、長谷部くんが手を離さないでいてくれるならそこは恐ろしくもなんともないだろう。
「あのさ、地獄ってさ」
「はい」
「Wifi使えるかな」
「厳しいです、やはり地下なので」
「えー折角だから血の池とかで記念撮影とかしたいじゃん」
「カメラを持っていきましょうか」
「血の池めっちゃインスタ映えしそうだよね、デジカメで撮ってあとで上げればいいか。あと鬼とも握手したい」
「そうしましょう、楽しみですね」
なので、死んでもずっと貴女のお側に。
泣きそうな瞳で笑う長谷部くんに口づけて、「そうだね死んでもずっと一緒だね」とか子供みたいにはしゃいでしまった。それがついこないだの話。ちなみに書類はぎりぎりで間に合った。
ずっとずっと先のことだと思っていた約束は、その日から案外すぐ果たされてしまった。経過は端折るけど結構色々あり、殺したり殺されたりした挙げ句、結論だけ言うとどうやら私は死んだので地獄なうだ。
長谷部くんと手を繋いだりなんかして、地獄の入り口。まさか本当に地獄にティラノサウルスがいると思わなかったし、ジャワ原人にナンパされる日が来るなんて、生前の自分には想像もつかなかっただろう(長谷部くんがめっちゃ切れててて怖かった)(ていうかネアンデルタール人にもナンパされたんだけど、何、私原始人にモテる顔してるの?)。
空はおどろおどろしい感じに赤黒くて、そこかしこに骨なんかも散らばっていかにも恐ろしげな場所なのに、長谷部くんの手が温かいってそれだけで恐怖心が麻痺して消える。死んでも体温って感じるものなんだろうか。不思議だけど、細かいことはまあいいか。「参りましょう」と長谷部くんが手を引くのに頷いて、足早にかけだしたら「落ち着いてください」なんて、ちっともたしなめる気が無さそうな声が言う。
「貴女の地獄は随分と、愉快なところだったんですね。俺の主」
「え、まあ長谷部くんがいればどこだっけ楽しいよ。言ってなかったっけ?」
「……、……そんな殺し文句をどこで覚えてきたんです」
笑っちゃうくらい顔を赤くした長谷部くんが可愛いので、思わず足を止めてしまう。背伸びしてキスをしてみたら、血の匂いを含んだ風が心地よく髪を撫でる。
「好きだよ」といえば当たり前のように「俺も愛してます」と返してくれるんだろうけど、ここでいちゃつくのはやめておく。あまりのんびりしている時間はない。何しろこれから、血の池で記念撮影をしたり鬼と握手したりしなければいけないのだから。
「なんです?」
「地獄ってジャワ原人とかいるのかな?」
「はい……、………、はい?」
完璧な笑顔で、でも完璧に困惑してることがわかる、そんな完璧な笑顔で長谷部くんが私を見ている。深夜の執務室。提出期限が明日までの書類は一向に進まない。ちょっと休憩、とかって旅行サイトなんか見てるうちにふと気になったので聞いてみた。ふと気になったのはなぜかというと、以前長谷部くんが、二日酔いのときに寝言で言っていた言葉がずっと引っかかっていたので。「いずれ地獄で」とか、そんな感じの。
「いや、ずっと気になってさ、地獄ってどんなとこかなって」
「なるほど?」
「死んだ人の数ってさあ生きてる人の数よりも断然多いじゃん?地獄ってどのくらいの人口いるんだろって」
「そうですね、以前行ったときは」
「行ったことあるの!?」
「ええ」
「嘘じゃんすっご、どうだった?」
「それが入れませんでした、入場規制がかかっていて」
「えっ遊園地みたいだね……」
「300歳未満の付喪神は入場禁止でしたね、残念です」
「年齢制限あるんだ………」
しばらくの沈黙。画面を見ながら考える。その時の彼は、前の主を探しに行ったんだろうか。付喪神にあの世があるなら、と、ある日うっかり聞いてしまったあの会話を思い出す。私が死んだあと、地獄までついてきてくれるだろうか。しかしR300は流石にハードルが高いな。一般人は入場できそうもない。こっそりブラウザを開き検索サイトを立ち上げる。『人間 300年 生きる 方法』入力してエンターを押す直前に長谷部くんの声。
「人間は年齢無制限だったのでご安心下さい」
「そっかあよかった」
思わずそう返してから複雑な気持ちになる。よかったんだろうか。私は地獄に行くんだろうか。そうか。天国じゃないのか。
「えっ、ちなみにさ」
「はい」
「入場ゲートから中とか覗いた?」
「はい、勿論」
「ティラノサウルスとかいた?やっぱ」
「ああ、それはですね」
「ステゴサウルスとかもいた?」
「いえ、はっきりとはわかりませんが遠目にそのようなものは」
「えーーーすごい最高じゃん!望遠鏡持ってけばよかったのに」
「ええ、次回はそうしようかと」
「次回?」
「貴女と行くときは望遠鏡持参で参りましょう」
「あっ……そう?」
「図鑑なども持っていきましょうか。楽しみでしょう?」
「えっめっちゃ楽しそうなにそれ!私冬のボーナスで恐竜図鑑買っとくわ」
「はは、そうですね俺も楽しみです」
そっか、地獄行きか。長谷部くんと。そうか、長谷部くんは私と地獄に落ちてくれるつもりなのか。そうなのか。『人間 300年 生きる』と入力したままの文字列を消して、『地獄 見どころ』と打ち込んでみる。
「ねえ長谷部くん」
「なんです?」
「好きだよ」
「はい、俺も愛しておりますよ」
無意味にヘラヘラと笑いながら、検索の1ページ目に引っかかったページを開く。『地獄の概念 西洋と東洋の地獄 その文化的背景について』なんてアカデミックなページを読み流すうちにふと不安になってくる。地獄って一口に言ってもいろいろあるじゃん。
「ねえ長谷部くん」
「はい?」
「地獄ってさ、洋式?和式?」
「どちらが宜しいですか?」
「えっ、私に聞くの」
「はい、主のご希望に合わせましょう」
……なんか結婚式の相談してるみたいだな。いや何考えてるんだろ。とりあえず『地獄 洋式 和式 比較』とかで検索してみる。なぜか結婚式場が引っかかった。そうじゃない。
「ええー……洋式の地獄ってさ、やっぱ英語圏?」
「どうでしょう?」
「私さあ、リスニング苦手なんだよ。文法なら行けるんだけど」
「ご心配には及びませんよ。俺が通訳して差し上げますね」
「喋れんの英語」
「ええまあ、世界中の博物館で展示されておりましたので。前職の経験を活かせるかと」
「えっ前職って扱いなのそれ」
「業界は同じですが職種が違いますからね」
「…………あっ、そうなんだよくわからないけど、そうなの?」
「そうです」
……深く考えないことにする。
代わりに『地獄 西洋』とかで検索してみて、いや私キリスト教の洗礼受けてないしな、西洋の地獄だと入場制限にひっかかるかもな、と思い直す。
「……やー……とりあえず洋式はないかな、和式で」
「ではそのように」
「………あっ」
「どうかされましたか?」
「えっ、和式ってか東洋の地獄ってさ、中国語とか喋れないとだめじゃない?」
「ははは」
「古文とか漢文とか苦手なんだけど」
「今からお勉強されては?教えて差し上げますよ」
「えー………サ段変角とかラ段変角とか?ありをりはべりいまそかりとか?」
「要は慣れですから」
「レ点とか返り点とか?反語とか?」
「ご安心下さい、最良の結果を主に」
「……あ、あなや」
「それとも、俺と一緒はお嫌ですか?」
「いや、嫌じゃない、けどさ」
「ありがとうございます」
……えっ、なんか勉強する流れになったけどなんだこれ。「いくつか教材を見繕っておきますね」と言われるのに勢いで頷く。まあいいか。地獄、の、ふた文字を眺めながら完全に手を止めて、ぼんやりとその時を思う。私が地獄に行くその時。
「いやー、……地獄ってさ」
「はい」
「どうやって行くの?バス?電車?車?馬?」
「徒歩ですね、どちらかといえば」
「徒歩か、こっから徒歩何分くらい?ナビに入れればいけるかな」
「大丈夫ですよ、道は覚えていますから。連れて行って差し上げます」
「あんま遠くないといいね、疲れるし」
「そうですね、そう遠くはありませんよ」
「そっかよかった」
また沈黙。長谷部くんがよどみなくキーボードを叩く音だけが響く。
「手が止まっていますよ、主」と言われて曖昧に笑う。目の前の書類を進める気にはなれそうになかった。「地獄でさあ、長谷部くんは探したりするの」うっかり聞いてしまってからぼんやりと後悔する。仮定の話だ。これは全て仮定の話だ。地獄があるかどうかもわからないし、長谷部くんが私についてきてくれるかどうかなんてわからない。
ごっこ遊びみたいな会話に、だから本音を混ぜ込むのは簡単だった。私の考えてることを知ってか知らずか、彼は綺麗に笑う。伏せられた睫毛の曲線が影を落とすのを眺める。
「何の話ですか?」
「例えば元の主とかさ」
「ご冗談を」
「一緒に探してあげるよ」
「お気持ちだけ有り難く頂戴します」
「いやほんとにさ。一緒に探してあげる、言いたいことも聞きたいこともたくさんあるでしょ」
「いいえ?特には」
「例えばさ、私を置いてってもいいからさ。地獄で前の主見つけたら、そっちについてってもいいからさ。そしたらたまには私にも会いに来てよ。寂しくないように」
仮定の話だ。仕事の合間の軽い余談だ。それなのに、かち合ってしまった視線に泣きたくなって、こんどははっきりと後悔する。じわじわと肺のあたりが痛い。パタン、とPCの蓋が閉められる音と同時くらいに頭上に影が落ちた。「そんなふうな泣きそうな顔をなさるなら、言わなければいいのに」呆れたようなどこか嬉しそうな声。前を向くのがいやで左を向いたり右を向いたりしているうちにしっかりと頭を固定されてしまう。微妙に涙がにじんでる目じりに口づけられて、後ずさりしようにもどうしよう、後ろが壁だ。あ、これあれじゃん?壁ドンってやつじゃんね?「いけませんよ、逃げては」って、笑う瞳が妙に熱っぽい。
「何か、勘違いをされているようですが」
「……はあ、なんすか」
「貴女は俺の物なんです」
「…………、まあ、うん、そうかな」
「いつになったらご理解いただけるんですか?俺は貴女を離す気など更々ないですよ。当たり前でしょう、責任は取っていただきます」
「いや、……いや、責任って何」
「貴女がいなければ、俺はただの刀でいられた」
「……、」
「ただの刀でいるのだって悪くはなかった。主に仇なす悉くを切り伏せるだけの存在でいられれば。そうして折れていくだけでもよかったのに。貴女ではない、他の誰かの刀であったのなら」
だから責任を取っていただかないと。
どろどろに甘ったるい声が脳みそを揺さぶる。いつのまにか寄りかかった、壁の冷たさが心地いい。そのまんま唇が重なって、するすると首をなぞる長谷部くんの指に、すこしだけ力が籠められるのを他人事みたいに感じていた。
神様に恋をした人間の末路ときたら、碌なもんじゃないだろう。例えば地獄の業火で未来永劫焼かれるとか。そんなところが関の山だ。それは悲惨な未来のはずなのに、想像するだけで幸せで息が詰まる。
「こんな風に俺を作り変えたのは、他でもない貴女なのですから」目を閉じる寸前に見た、瞳の藤色が焼き付いたみたいに網膜から離れない。視線が絡まって溶けて、触れているところから体温が混じって同化していく。愛してます、祈るみたいな声に頷いた。頷いてから性懲りもなく想像している。本当に地獄なんてものがあるとして、長谷部くんが手を離さないでいてくれるならそこは恐ろしくもなんともないだろう。
「あのさ、地獄ってさ」
「はい」
「Wifi使えるかな」
「厳しいです、やはり地下なので」
「えー折角だから血の池とかで記念撮影とかしたいじゃん」
「カメラを持っていきましょうか」
「血の池めっちゃインスタ映えしそうだよね、デジカメで撮ってあとで上げればいいか。あと鬼とも握手したい」
「そうしましょう、楽しみですね」
なので、死んでもずっと貴女のお側に。
泣きそうな瞳で笑う長谷部くんに口づけて、「そうだね死んでもずっと一緒だね」とか子供みたいにはしゃいでしまった。それがついこないだの話。ちなみに書類はぎりぎりで間に合った。
ずっとずっと先のことだと思っていた約束は、その日から案外すぐ果たされてしまった。経過は端折るけど結構色々あり、殺したり殺されたりした挙げ句、結論だけ言うとどうやら私は死んだので地獄なうだ。
長谷部くんと手を繋いだりなんかして、地獄の入り口。まさか本当に地獄にティラノサウルスがいると思わなかったし、ジャワ原人にナンパされる日が来るなんて、生前の自分には想像もつかなかっただろう(長谷部くんがめっちゃ切れててて怖かった)(ていうかネアンデルタール人にもナンパされたんだけど、何、私原始人にモテる顔してるの?)。
空はおどろおどろしい感じに赤黒くて、そこかしこに骨なんかも散らばっていかにも恐ろしげな場所なのに、長谷部くんの手が温かいってそれだけで恐怖心が麻痺して消える。死んでも体温って感じるものなんだろうか。不思議だけど、細かいことはまあいいか。「参りましょう」と長谷部くんが手を引くのに頷いて、足早にかけだしたら「落ち着いてください」なんて、ちっともたしなめる気が無さそうな声が言う。
「貴女の地獄は随分と、愉快なところだったんですね。俺の主」
「え、まあ長谷部くんがいればどこだっけ楽しいよ。言ってなかったっけ?」
「……、……そんな殺し文句をどこで覚えてきたんです」
笑っちゃうくらい顔を赤くした長谷部くんが可愛いので、思わず足を止めてしまう。背伸びしてキスをしてみたら、血の匂いを含んだ風が心地よく髪を撫でる。
「好きだよ」といえば当たり前のように「俺も愛してます」と返してくれるんだろうけど、ここでいちゃつくのはやめておく。あまりのんびりしている時間はない。何しろこれから、血の池で記念撮影をしたり鬼と握手したりしなければいけないのだから。