長谷部
名前変換
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満員電車の中で窒息しそうになりながら、つり革をつかむ誰かの手を見てしまったのがいけなかった。それで長谷部くんの手、短く几帳面に切りそろえられた爪だとか硬い指先、それから私に触る時の丁寧な仕草だとかを思い出してしまう。もうやだ、なんだこれ。勝手に涙が出そうになるのを必死に取り繕って早足で歩いてる帰り道、うちの少し手前で長谷部くんと鉢合わせしてしまったからもうダメだった。反射で彼の上着を引っ付かんで玄関に押し込む。ほとんど体当たりみたいな勢いで抱きついて、倒れる、と思ったのに長谷部くんは案外あっさりと私を抱きとめた。そのまま座り込んだ玄関で、どのくらいたったんだろう。
「どうかしましたか、名前さん」穏やかな声に何も言わず首を振る。首筋の、ちょうどネクタイのあたりに顔を擦り付けて、ようやく自分が楽に呼吸できることに気づく。雨上がりの匂いと外の匂いと長谷部くんの匂いと。
「名前さん」
「………、」
「はは、今日は随分と素直なんですね?」
「…………」
なんでもないようなその言葉には返事ができない。髪の間に差し込まれた指先が、ゆるゆると毛先まで降りてくる。それだけの動きをゆっくり、何回も繰り返す。頭の形を確かめるみたいに。口をひらけば自分が何かとんでもないことを言ってしまいそうで怖かった。「どうしよう」、なのに思わず口走ったその声が、とろとろに甘ったるいので途方にくれる。「どうしよう、私こんなはずじゃなかったのに」
「何か、悪いことでも?」
「……、ううん、悪いことは、まあ、なかったかな」
「それでは、具合が悪いとか?なら病院に行きましょう、車を出します」
「いや別に具合は悪くない」
「しかし、…ああほらやっぱり、少し体が熱い」
ひとまず部屋に上がりましょう、と促すのに頑なにあらがって、全力で抱きしめたらようやく長谷部くんはここに落ち着く気になったらしい。何かから守るみたいに頭の後ろに回された手が、少しだけ力を込めて私を引き寄せる。ガラス越しに月の光が差し込む気配。「顔をあげてください」と、長谷部くんがひっそりと笑いを零した。「月が綺麗ですよ、ほら」なんて彼は言うけど、月が綺麗なんて言ってる場合じゃなかった。ぐるぐるとこんがらがる言葉がどろどろになって喉元に落ちる。「名前さん、」名前を呼ばれるたびにめまいがして、つまりそれが幸福だとか、そういう何かなんだろうけど麻薬みたいだ。この人に名前を呼ばれるたびに私は正体を無くして、自分の形すら思い出せなくなる。最悪だ。こんなはずじゃなかったのに。
「長谷部くん私、」
「はい」
「どうしよう、おかしくなったのかもしれない」
「なぜです?」
「長谷部くんのことが好きすぎて」
「……、それに何か問題でも?」
「だってこんなの、」
だってこんなの絶対おかしい。もともとの私はもっと強かったし賢かったし、わからないけどとにかくこんなんじゃなかったのに。なのに長谷部くんといるとおかしくなりそうなくらい楽しくて嬉しくて幸せで、前の自分がどんなだったかなんてもう思い出せない。長谷部くんがいないだけで死ぬほど寂しいし本当に死んじゃいそうだし、そのうちきっと呼吸すらうまくできなくなる。最悪だ、こんなんで生きてけるわけない、どうしよう。
どこまで言葉にできたんだろう。「こんなの絶対おかしい」のあとはもうめちゃくちゃで、きちんとした日本語になっていなかった。でもだってそうじゃん、こんなのおかしい。それだけをぐるぐると繰り返すうちに涙が出てきて、自分でもわけがわからない。少しだけ滲んできた涙を拭おうとしたらその前に、長谷部くんが目元に口付ける。一瞬だけ触れて離れた唇を、もう一度まぶたに押し付けてくるので反射で目を瞑った。「なるほど」、長谷部くんの声。真っ暗になった視界。長谷部くんの体温。それ以外いらないような気がして、どうしたってそんなのは絶対おかしいのに。
「それでは心中でもしましょうか。いかがです?」
「……割といいアイデアだけど週末に温泉行くの楽しみにしてるんだよね」
「そうですね、俺も楽しみです。今週末まではひとまずやめておきましょう。再来週はいかがでしょうか、楽しく死ぬ方法をいくつか考えておきます」
「……、んーん」
「入水か、薬物なんかもいいですね。それとも俺に、あなたの首を絞めさせてくださいますか?」
「うん、いや、待ってよ長谷部くん」
「はい」
「ひとまずも何もしないよ心中なんて、冗談にきまってるじゃん」
「酷いな、俺は本気だったのに」
「嘘だ」
「本気ですよ、名前さん」
容赦ないくらいに甘くて柔らかくて、そんな声色が耳元で溶ける。俺の名前さん、と、当たり前みたいに呼ばれた自分の名前の響きに脳みそが揺れる。「好きです、愛してます言葉では足りないくらい」、額に少しだけ冷たくて柔らかい唇の感触。目を開いてみたら視界いっぱいに綺麗な瞳の色が広がる。あまりにもまっすぐに私を見るのでいたたまれなくて、それでも「目を逸らさないで」と甘やかな声に促されたら視線すら自分の思い通りにはいかない。「例えば俺は」、と、そこで区切るように唇に。長谷部くんが触れるだけのキスをしてくれるのでそれでまたしても、めまいを起こしそうになってしまう。幸せで。
「頭のてっぺんからつま先まで、ああそれだけでは足りないな、例えば内蔵だとか細胞だとか魂だとか、何から何までを喰いつくしてしまいたい位にあなたが好きなんです。本当にどうかしてる。俺には名前さんしかいらないしできればあなたをほかのだれの目にも触れさせたくない。あなたが、俺のものであればよかったのに。どうすればいいですか。心中がだめならどうすればいいんですか。どうしたら俺のものになってくれますか。愛してます、好きです、……、はは、気が狂いそうだ」
そうだねどうしよう、とそれだけ返して抱きしめたら長谷部くんが、「好きです」と声だけじゃなくて視線でも伝えてよこす。「うん」と、返事をした私の声もまるでドロドロで。
「名前さん、名前さん名前さん、名前さん」
「うん」
「愛してるんですだから、俺と死んでくださいますね?」
「しないって。心中はまずいよ。第一死んだらもう長谷部くんといちゃつけない」
「約束します、死んでも離しません。地獄だろうが天国だろうがあなたがどこに行こうと」
「長谷部くんそれじゃタチの悪いヒモみたいだよ」
「またそうやって茶化す」
「だって長谷部くんが物騒なこと言うから」
「そもそもを言えば物騒なことを言い出したのはあなたの方だ」
「や、何言ってるの。物騒なことは何一つ言ってないよねわたし」
「どこがです」
「好きすぎてどうしようって、言っただけじゃん」
「それが物騒だって言うんです、嬉しすぎて頭がおかしくなるかと思った」
わたしより少しだけ低い長谷部くんの体温。頰の輪郭から耳たぶまでをなぞっていく指先の感覚がせつない。スーツ皺になっちゃうな悪いな、思うのに骨が軋むくらいに抱きしめてその感触を貪る。筋肉質で意外と大きい長谷部くんの背中、綺麗な肩甲骨のあたりを触る。きっと彼は骨だって綺麗な形をしてるんだろう。想像するだけで死にそうだ。それから一秒、二秒、三秒。不意に、「心中していただけないなら仕方ない」、とため息が背筋の産毛を揺らした。少しだけ不機嫌な長谷部くんが「次善の策をとります」と神妙に言う。いっぱいいっぱいな私は思わず「はあ」とま抜けた声を出してしまってたしなめられた。「真面目に聞いてください」
「え、ごめん。何?」
「よく聞いてくださいね。今から市役所に、…クソ、この時間だと市役所が空いてないな。夜間窓口を調べます、すぐですから俺が調べている間に書いてください」
「うん、うん?」
「印鑑はお持ちですよね、忘れないでください。それからここが名前さんの本籍地でしたよね?確かそうだったと記憶してるのですが」
「え、いやごめん何?何の相談?何すればいいのわたし」
「大丈夫です問題ありません。ですから書いてください、居間のテレビ台の引き出しの下から二番目にありますよ」
「長谷部くん主語、主語が抜けてる」
「主語も何も婚姻届に決まってるじゃないですか、結婚しましょう」
こけっ。
何だ今のこえ。鶏みたいうける。
自分の出した声に自分で笑いそうになったりなんかして、て言うか笑っちゃって、笑っちゃってる間に言われたことを反芻する。婚姻届って何だっけ、結婚とかするときに出すやつじゃないかな、うん、言ってたね長谷部くんね、今はせべくん結婚って言ってた。「長谷部くん今なんて?」でも一応確かめてみたら普通に当たり前に、仕事の話をするみたいに「結婚です」と返されてまたちょっと笑って睨まれた。ごめんて。
「や、うん、ケッコン、うん」
「心中のほうがお好みなら、俺はどちらでも構いませんが」
「んん、いや、」
「それか…そうか、結婚してから心中すれば四方よしですねさすがです」
「四方よしってそれ絶対ノリで言ってるでしょ長谷部くん、待って一旦」
「何です?」
「いいから聞いてちょっと、あのさあ確かにケッコンのが、いいんだけどそれはでも、結婚、けっこんってさああれじゃん」
「はい」
「あれでしょ、給料三ヶ月分の指輪とかそれから教会でぱぱぱぱーんって、そうだ、名前忘れたけど分厚い雑誌あったよね、ああいう感じのなんか、必要なんじゃなかったっけ、」
「ありましたね、結婚式についても今詰めておきますか?」
「や、うん、ごめんあの、わかったえっとオッケー、今から行ってくるから一旦待っててもらえる?」
「?どこにですか役所ですか?この時間だと市役所は閉まっていますと先ほど」
長谷部くんが飛ばしてる。思ってたのに私もだいぶ飛ばしてるっていうか、理性とか正常な思考回路が飛んでる。
それでもって「いやあの、ほら、銀座行って買ってくるから指輪」とか口走ったら真面目な声が帰ってくる。「落ち着いてください、指輪が出来上がるまで二週間程度はかかります。店頭で即購入なんてできませんよ、コンビニじゃあるまいし」そして、「プロポーズだの婚約指輪だのの諸々は二日後に改めてと言うことで、結婚式については帰宅後すぐに話し合う必要がありますね。ご要望の雑誌も行きがけに買いましょう」とか何とか、よくわからないけど謎に明後日にプロポーズの予定を組まれて例の雑誌をバックナンバー含めてたっぷり五冊購入した挙句、首都高を死ぬほど飛ばして向かった深夜窓口で気がついたら届けを出していた。なんか「婚姻届」とか書いてあるやつ。
どうなってるんだこれ。それでも長谷部くんが「ああこれで、戸籍だけでも名前さんが俺のものになってくれる」なんて笑っていて、手を繋いでくる体温とか蕩けるような視線とか一緒にここを歩いている事実だとか、そんなことが嬉しくて幸せでそれはやっぱりめまいに似ていた。幸福で世界がぐらぐら揺れる、こんなのまるで猛毒だ。今すぐ死んでもおかしくないくらいの。
*
その後、めまいがすると思ってたら家に帰ってからすぐに熱を出してしまったので、もしかしたらめまいって熱の前兆だったかもしれないね。知恵熱かもしれないけど。
問答無用で病院に連れてかれて薬を飲まされベッドに押し込まれて、「大丈夫ですか」と長谷部くん(そうかもう長谷部くんじゃなくて国重くんって呼ばないとダメなんだろうな)が言うのに「無理かも、死にそうにしんどい」と返した。
実際結構しんどくて、頭も痛いし喉も痛いし視界はぐらぐらするし。その、グラグラした視界の向こうに長谷部くんはうっとりと笑う。「そうなったら俺もすぐ後を追います。安心してくださいね」なんて長谷部くん、ほんと物騒だけどそれはどうなの。
プロポーズは雨天順延、いや雨天ってなんだよって話だけど雨天順延(だって長谷部くんがほんとにそう言った)で、熱が下がってから恐ろしく高そうな夜景の凄いレストランで神妙な顔をしながら「俺と結婚してくださいますか」とか長谷部くんが聞いてきて、なんて答えたものやらみたいな感じになって困った。今更、「結婚してくださいますか」も違うっていうか、一週間前にうちら結婚してなかったっけ?
「どうかしましたか、名前さん」穏やかな声に何も言わず首を振る。首筋の、ちょうどネクタイのあたりに顔を擦り付けて、ようやく自分が楽に呼吸できることに気づく。雨上がりの匂いと外の匂いと長谷部くんの匂いと。
「名前さん」
「………、」
「はは、今日は随分と素直なんですね?」
「…………」
なんでもないようなその言葉には返事ができない。髪の間に差し込まれた指先が、ゆるゆると毛先まで降りてくる。それだけの動きをゆっくり、何回も繰り返す。頭の形を確かめるみたいに。口をひらけば自分が何かとんでもないことを言ってしまいそうで怖かった。「どうしよう」、なのに思わず口走ったその声が、とろとろに甘ったるいので途方にくれる。「どうしよう、私こんなはずじゃなかったのに」
「何か、悪いことでも?」
「……、ううん、悪いことは、まあ、なかったかな」
「それでは、具合が悪いとか?なら病院に行きましょう、車を出します」
「いや別に具合は悪くない」
「しかし、…ああほらやっぱり、少し体が熱い」
ひとまず部屋に上がりましょう、と促すのに頑なにあらがって、全力で抱きしめたらようやく長谷部くんはここに落ち着く気になったらしい。何かから守るみたいに頭の後ろに回された手が、少しだけ力を込めて私を引き寄せる。ガラス越しに月の光が差し込む気配。「顔をあげてください」と、長谷部くんがひっそりと笑いを零した。「月が綺麗ですよ、ほら」なんて彼は言うけど、月が綺麗なんて言ってる場合じゃなかった。ぐるぐるとこんがらがる言葉がどろどろになって喉元に落ちる。「名前さん、」名前を呼ばれるたびにめまいがして、つまりそれが幸福だとか、そういう何かなんだろうけど麻薬みたいだ。この人に名前を呼ばれるたびに私は正体を無くして、自分の形すら思い出せなくなる。最悪だ。こんなはずじゃなかったのに。
「長谷部くん私、」
「はい」
「どうしよう、おかしくなったのかもしれない」
「なぜです?」
「長谷部くんのことが好きすぎて」
「……、それに何か問題でも?」
「だってこんなの、」
だってこんなの絶対おかしい。もともとの私はもっと強かったし賢かったし、わからないけどとにかくこんなんじゃなかったのに。なのに長谷部くんといるとおかしくなりそうなくらい楽しくて嬉しくて幸せで、前の自分がどんなだったかなんてもう思い出せない。長谷部くんがいないだけで死ぬほど寂しいし本当に死んじゃいそうだし、そのうちきっと呼吸すらうまくできなくなる。最悪だ、こんなんで生きてけるわけない、どうしよう。
どこまで言葉にできたんだろう。「こんなの絶対おかしい」のあとはもうめちゃくちゃで、きちんとした日本語になっていなかった。でもだってそうじゃん、こんなのおかしい。それだけをぐるぐると繰り返すうちに涙が出てきて、自分でもわけがわからない。少しだけ滲んできた涙を拭おうとしたらその前に、長谷部くんが目元に口付ける。一瞬だけ触れて離れた唇を、もう一度まぶたに押し付けてくるので反射で目を瞑った。「なるほど」、長谷部くんの声。真っ暗になった視界。長谷部くんの体温。それ以外いらないような気がして、どうしたってそんなのは絶対おかしいのに。
「それでは心中でもしましょうか。いかがです?」
「……割といいアイデアだけど週末に温泉行くの楽しみにしてるんだよね」
「そうですね、俺も楽しみです。今週末まではひとまずやめておきましょう。再来週はいかがでしょうか、楽しく死ぬ方法をいくつか考えておきます」
「……、んーん」
「入水か、薬物なんかもいいですね。それとも俺に、あなたの首を絞めさせてくださいますか?」
「うん、いや、待ってよ長谷部くん」
「はい」
「ひとまずも何もしないよ心中なんて、冗談にきまってるじゃん」
「酷いな、俺は本気だったのに」
「嘘だ」
「本気ですよ、名前さん」
容赦ないくらいに甘くて柔らかくて、そんな声色が耳元で溶ける。俺の名前さん、と、当たり前みたいに呼ばれた自分の名前の響きに脳みそが揺れる。「好きです、愛してます言葉では足りないくらい」、額に少しだけ冷たくて柔らかい唇の感触。目を開いてみたら視界いっぱいに綺麗な瞳の色が広がる。あまりにもまっすぐに私を見るのでいたたまれなくて、それでも「目を逸らさないで」と甘やかな声に促されたら視線すら自分の思い通りにはいかない。「例えば俺は」、と、そこで区切るように唇に。長谷部くんが触れるだけのキスをしてくれるのでそれでまたしても、めまいを起こしそうになってしまう。幸せで。
「頭のてっぺんからつま先まで、ああそれだけでは足りないな、例えば内蔵だとか細胞だとか魂だとか、何から何までを喰いつくしてしまいたい位にあなたが好きなんです。本当にどうかしてる。俺には名前さんしかいらないしできればあなたをほかのだれの目にも触れさせたくない。あなたが、俺のものであればよかったのに。どうすればいいですか。心中がだめならどうすればいいんですか。どうしたら俺のものになってくれますか。愛してます、好きです、……、はは、気が狂いそうだ」
そうだねどうしよう、とそれだけ返して抱きしめたら長谷部くんが、「好きです」と声だけじゃなくて視線でも伝えてよこす。「うん」と、返事をした私の声もまるでドロドロで。
「名前さん、名前さん名前さん、名前さん」
「うん」
「愛してるんですだから、俺と死んでくださいますね?」
「しないって。心中はまずいよ。第一死んだらもう長谷部くんといちゃつけない」
「約束します、死んでも離しません。地獄だろうが天国だろうがあなたがどこに行こうと」
「長谷部くんそれじゃタチの悪いヒモみたいだよ」
「またそうやって茶化す」
「だって長谷部くんが物騒なこと言うから」
「そもそもを言えば物騒なことを言い出したのはあなたの方だ」
「や、何言ってるの。物騒なことは何一つ言ってないよねわたし」
「どこがです」
「好きすぎてどうしようって、言っただけじゃん」
「それが物騒だって言うんです、嬉しすぎて頭がおかしくなるかと思った」
わたしより少しだけ低い長谷部くんの体温。頰の輪郭から耳たぶまでをなぞっていく指先の感覚がせつない。スーツ皺になっちゃうな悪いな、思うのに骨が軋むくらいに抱きしめてその感触を貪る。筋肉質で意外と大きい長谷部くんの背中、綺麗な肩甲骨のあたりを触る。きっと彼は骨だって綺麗な形をしてるんだろう。想像するだけで死にそうだ。それから一秒、二秒、三秒。不意に、「心中していただけないなら仕方ない」、とため息が背筋の産毛を揺らした。少しだけ不機嫌な長谷部くんが「次善の策をとります」と神妙に言う。いっぱいいっぱいな私は思わず「はあ」とま抜けた声を出してしまってたしなめられた。「真面目に聞いてください」
「え、ごめん。何?」
「よく聞いてくださいね。今から市役所に、…クソ、この時間だと市役所が空いてないな。夜間窓口を調べます、すぐですから俺が調べている間に書いてください」
「うん、うん?」
「印鑑はお持ちですよね、忘れないでください。それからここが名前さんの本籍地でしたよね?確かそうだったと記憶してるのですが」
「え、いやごめん何?何の相談?何すればいいのわたし」
「大丈夫です問題ありません。ですから書いてください、居間のテレビ台の引き出しの下から二番目にありますよ」
「長谷部くん主語、主語が抜けてる」
「主語も何も婚姻届に決まってるじゃないですか、結婚しましょう」
こけっ。
何だ今のこえ。鶏みたいうける。
自分の出した声に自分で笑いそうになったりなんかして、て言うか笑っちゃって、笑っちゃってる間に言われたことを反芻する。婚姻届って何だっけ、結婚とかするときに出すやつじゃないかな、うん、言ってたね長谷部くんね、今はせべくん結婚って言ってた。「長谷部くん今なんて?」でも一応確かめてみたら普通に当たり前に、仕事の話をするみたいに「結婚です」と返されてまたちょっと笑って睨まれた。ごめんて。
「や、うん、ケッコン、うん」
「心中のほうがお好みなら、俺はどちらでも構いませんが」
「んん、いや、」
「それか…そうか、結婚してから心中すれば四方よしですねさすがです」
「四方よしってそれ絶対ノリで言ってるでしょ長谷部くん、待って一旦」
「何です?」
「いいから聞いてちょっと、あのさあ確かにケッコンのが、いいんだけどそれはでも、結婚、けっこんってさああれじゃん」
「はい」
「あれでしょ、給料三ヶ月分の指輪とかそれから教会でぱぱぱぱーんって、そうだ、名前忘れたけど分厚い雑誌あったよね、ああいう感じのなんか、必要なんじゃなかったっけ、」
「ありましたね、結婚式についても今詰めておきますか?」
「や、うん、ごめんあの、わかったえっとオッケー、今から行ってくるから一旦待っててもらえる?」
「?どこにですか役所ですか?この時間だと市役所は閉まっていますと先ほど」
長谷部くんが飛ばしてる。思ってたのに私もだいぶ飛ばしてるっていうか、理性とか正常な思考回路が飛んでる。
それでもって「いやあの、ほら、銀座行って買ってくるから指輪」とか口走ったら真面目な声が帰ってくる。「落ち着いてください、指輪が出来上がるまで二週間程度はかかります。店頭で即購入なんてできませんよ、コンビニじゃあるまいし」そして、「プロポーズだの婚約指輪だのの諸々は二日後に改めてと言うことで、結婚式については帰宅後すぐに話し合う必要がありますね。ご要望の雑誌も行きがけに買いましょう」とか何とか、よくわからないけど謎に明後日にプロポーズの予定を組まれて例の雑誌をバックナンバー含めてたっぷり五冊購入した挙句、首都高を死ぬほど飛ばして向かった深夜窓口で気がついたら届けを出していた。なんか「婚姻届」とか書いてあるやつ。
どうなってるんだこれ。それでも長谷部くんが「ああこれで、戸籍だけでも名前さんが俺のものになってくれる」なんて笑っていて、手を繋いでくる体温とか蕩けるような視線とか一緒にここを歩いている事実だとか、そんなことが嬉しくて幸せでそれはやっぱりめまいに似ていた。幸福で世界がぐらぐら揺れる、こんなのまるで猛毒だ。今すぐ死んでもおかしくないくらいの。
*
その後、めまいがすると思ってたら家に帰ってからすぐに熱を出してしまったので、もしかしたらめまいって熱の前兆だったかもしれないね。知恵熱かもしれないけど。
問答無用で病院に連れてかれて薬を飲まされベッドに押し込まれて、「大丈夫ですか」と長谷部くん(そうかもう長谷部くんじゃなくて国重くんって呼ばないとダメなんだろうな)が言うのに「無理かも、死にそうにしんどい」と返した。
実際結構しんどくて、頭も痛いし喉も痛いし視界はぐらぐらするし。その、グラグラした視界の向こうに長谷部くんはうっとりと笑う。「そうなったら俺もすぐ後を追います。安心してくださいね」なんて長谷部くん、ほんと物騒だけどそれはどうなの。
プロポーズは雨天順延、いや雨天ってなんだよって話だけど雨天順延(だって長谷部くんがほんとにそう言った)で、熱が下がってから恐ろしく高そうな夜景の凄いレストランで神妙な顔をしながら「俺と結婚してくださいますか」とか長谷部くんが聞いてきて、なんて答えたものやらみたいな感じになって困った。今更、「結婚してくださいますか」も違うっていうか、一週間前にうちら結婚してなかったっけ?