長谷部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「それで?」と、男はそこで一旦言葉を区切って私を見た。
その瞳には何の気負いも興奮も見えない。人を殺したばかりだと言うのに。「如何でしたか、19回目の結婚生活のご感想は」
爽やかな日曜日の朝だった。
『日曜日の朝は必ず手作りのパンをだしてほしい。ママはいつもそうしてくれていたよ』と言う夫の言いつけを守るべく、リビングの扉を開けたらこれだ。テーブルの上で伏せる私の夫、の、上に優雅に腰掛けた元彼がにこやかに「おはようございます」と声をかけてきて、冒頭に戻る。感想も何も私の19回目の結婚生活は始まってからたったの32.8時間しかたっていない。強いて言えば彼はマザコンだったけど、それを元彼に言うのもなんか違う気がする。なので男の言葉を無視して私は夫に声をかける。
「嫌だあなた、しっかりして」
「ハハハ、無駄ですよもう死んでます」
「嫌だあなた、タカシさん、タカシさんしっかり」
「主、タカシは確か、貴女の前の前の夫君の名前では?」
「え、そうだっけ?」
「そうですね」
「じゃあヨシヒコさんだ、ヨシヒコさん、」
「それは四番目の夫ですね」
フユヒコ、カズヤ、イッセイ、ジュン、思いつく限りの名前を並べたら全て「違いますね」と却下された。名前あてクイズかなんかか。一応体を揺さぶってみたけど、あーこりゃだめだ、なんか血の量がすごい。正直もう諦めていたんだけど、名前が思い出せないのだけが妙に気になる。なのでもう少し声掛けを続けることにした。元彼は退屈半分面白半分と言った顔で足を組み直す。
「……あー、あ!じゃあ、ハルフミだ!ハルフミさん!」
「ハルフミは最初の夫君でしょう、しっかりしてください、主」
「……や、ていうかもう私あなたの主じゃないし」
「あなたは未来永劫俺の主ですよ」
「結婚する時に言ったよねえ、『普通の女の子に戻ります』って」
「『来世は一緒になろうね』とも仰ってました」
「まだ来世じゃない」
いい感じの朝日が居間に差し込んできて、私達を照らす。私と夫(の死体)と私の元彼と。神父さんみたいな格好はどう考えても現代日本で浮いてるけど、死体に腰掛けて笑うのがえげつないくらい様になる。「なるほど」、劇がかった態度で眉をひそめて顎に指を当てて、それがまた嫌になるくらいサマになるのだ。嫌になる。ちらりとこちらに視線を走らせた、藤色とも灰色とも付かない不思議な色の瞳。
「それでは、貴女の名前をお伺いしても?正確にお呼びしたいので」
「姓は赤黒田」
「それはこの男の名前でしょう、夫が死んだのであればもう貴女は赤黒田ではない」
「再婚の目星はたってるから、明後日からはネコヤナギだよ。先にお知らせしとくけど」
「ハハハ、またトンチキな名前の男を選んだものですね。それで、貴女のお名前は?」
「えーいやだ絶対教えない、禄な事にならないって聞いたよ」
「どこでお聞きになったので?」
「聞いたっていうか、こないだ金ローでやってたアニメで見た。あれでしょ、名前取られると神隠しされるんでしょ」
「……主、素人がにわかに仕入れた情報で専門知識を語るものではありませんよ」
「もともと専門職だったじゃん、引退したけど」
「おいたわしい。業界知識というのは常にアップデートされるものなのですよ。試しにお名前を教えてください。どんな素晴らしい事が起こるか、実際に体験いただけますから」
「やだって」
床まで流れた血を踏みにじる革靴。真っ白な手袋には返り血の一つだって付いていない。まるで浮世離れした私の元彼。当たり前だ、彼は人間じゃないのだ。
数年前に私が招集された歴史修正戦争、今聞くとまるでSFみたいだけど実際にそうなんだからしょうがない、とにかく、その戦争の中で私と一緒に戦ってくれた刀の神様の内の一人。へし切り長谷部というのが彼の名前だ。私は彼の事を長谷部くん、と呼んでいた。顕現したときから、色々あってくっついたあとも、お別れするときも、ずっとそう呼んでいた。
その時私はサニワとかいう役職だったんだけど、刀の付喪神と恋仲になった、という理由で解任された。まるで田舎のお父さんが放蕩娘を勘当するみたいな話で笑う。本丸は解体。他の本丸に引き継がれた刀も私が刀解してお別れした刀もいたんだけど、その日長谷部くんはどこを探しても見つからず、政府の目すら欺いてどこかに逃げおおせてしまった。それでそのまま、私は政府の命令でよくわからないおじさんと結婚させられることになった。それが最初の夫だった。私的にはそれはショックではあったんだけど、同時に渡りに船でもあった。
いつだって前の主の気配を纏わせている長谷部くん。仕方ないよねえ、もともと刀の神様だから。もう死んだ人間には勝てっこない。いつまでも美しい思い出のままだろう。でも彼の事が恋しくて、それと同じくらい憎たらしい私ときたら、その当時の私と来たら。恐ろしく病んでいた。ていうか今も病んでる。失踪した長谷部くんを追いかけないで適当なおっさんと結婚する私を、俺を捨てた酷い女だと永遠に恨んでくれたら素晴らしい。そんなふうに思いつめるくらいには。そこにのこのこと長谷部くんが現れたものだから、それが結婚前夜だったものだから大変な修羅場を演じた挙げ句泣いて泣いて、『普通の女の子に戻ります』だの『来世で一緒になろうね』だのの空恐ろしいほどの恥ずかしいセリフを吐きまくり、そんなわけで長谷部くんは私の元彼となった、筈だった。
最初の夫とは半年ほど続いた。ある日居間の扉を開けたら、「過去を断ち切ってまいりました。俺の刃は只、貴女のためだけにあります」とか言って笑ってる長谷部くんがいた。手には元夫の生首かなんか持っていた。グロすぎる。そこからはもうイタチごっこで、政府が連れてくる男と片っ端から結婚する私と、夫を片っ端から切って捨てていく長谷部くんと。「私達もう終わったでしょ」、そんな話をしたのも一回や二回じゃない。「終わるも何も貴女はどうあがいたって俺の主なんですよ、諦めてください」と言われたのも片手じゃすまない。
「何故です、俺の事を愛してくださってるのでは?」
「昔はね。もう終わったの」
「それでは何故、毎回俺の事を刀解せずに逃がすのですか?」
「いやせっかく現世まで来たんだから勿体無いでしょ。元カノとしての温情だよ、長谷部くんも現世の生活エンジョイしなよ。その顔ならモテるでしょ、私絶対バラさないから」
「それで貴女は、ネコヤナギとやらとご結婚なさるわけですか」
「うん」
「時間の無駄では?」
「いや、長谷部くんが夫殺しをやめてくれれば済む話だよ」
「貴女が俺の物になれば済む話では」
「どっちが名字でどっちが名前かわからない奴と結婚してはいけないって言うのが、家の家訓で」
「構いませんよ、別にへし切りと呼んでいただいても。それで姓が長谷部ということにしておきましょう」
「やだなあそれ」
「呼び方は話し合う必要がありそうですね、奥様?」
「私長谷部くんの奥様じゃないから」
「出会ったときから変わらず、貴女はいつまでも我儘だ。嫌ではありませんが」
「ねえ長谷部くん話聞いて」
「聞いておりますよ。俺の過去に嫉妬して駄々をこねているんでしょう?可愛らしい」
煤色の髪に、光が透けて綺麗だ。最後にキスしたときから全然変わってないその瞳の色も、頬に落ちる睫毛の影も。鞘にきちんと収まってるであろう、その刀のことを考える。冷たい光を反射する、触れるものすべてを斬り刻むその輝き。一切の容赦なく、私の夫は殺されたのだろう。想像する。きっと笑みすら浮かべて長谷部くんは斬ったんだろう。「ご苦労だったな、そろそろ楽にしてやろう」それで、バッサリ。かちりと視線が合う。きれい、以上の感情を思い出しそうになって慌てて目をそらす。長谷部くんはひっそりと笑う。
「……本当に。あの頃から変わらずお可愛らしい。俺も愛しておりますよ」
「俺も、って何。長谷部くんはあの頃より相当厚かましくなったよね。」
「そうかもしれませんね。思った事を素直に口に出さないと、禄な事が起こらないと悟ったもので」
「なんで男の人ってさ、元カノが自分のこといつまでも好きだって勘違いしちゃうんだろうね?」
「一般論に興味はありませんが、そうですね」
一瞬で距離を詰められる。ひゅ、と息を飲む間もなく左手を取られた。薬指に落ちる唇の感触。「それではなぜ貴女は、指輪を外しているのです?」薄い唇。最後に長谷部くんとキスしたのはいつだろう。手袋越しの体温だって、指に落とされたキスの感触だって、あの時と変わっていないのに。「頑なに結婚指輪をなさらないのは何故ですか。前もその前も、最初のご結婚の時からずっとですね」、笑みを含んだ声。ちろり、と薬指に舌が這う。やめて、と言うよりも早く噛みつかれて、きれいな瞳が私を覗き込んだ。藤色とも灰色とも付かない不思議な色。綺麗、以上の感情を私は飲み込む。これ以上は絶対言ってやらない。いまわの際にでもならない限り。
「……、帰って。次の結婚式の支度があるから」
「そうですか、精々頑張ってください」
「楽しみだなあ、ウエディングドレス。Diorのオートクチュールだってさ夢みたいじゃん」
「ええ、前回のドレスもよくお似合いでしたよ。前々回のも。すぐに次のドレスが着れるように、式が終わったらなるべく早めに始末しましょう」
「……もう来ないでよ懲りないなあ」
「懲りないのは主でしょう。俺はいくらだって付き合って差し上げますよ、貴女のワガママに」
「………」
「それとも、もう止めにして俺のもとに戻ってきて下さいますか?」、長谷部くんの言葉に首を振った。帰って、と繰り返せば朗らかに彼は笑って、「ええそれでは、明後日の結婚式で」とだけ言い残して部屋から出ていく。呼んでないし。残されたのは私と、私の元夫の死体。………後片付けが大変そうだなあ。思わず目を瞑ると長谷部くんの顔が浮かんだりして、おまけに体に絡みつく、藤の香りがうっとおしい。思い出すのは懐かしさと憎たらしさと、……それ以上の事は思い出してやらない。いまわの際にでもならない限り。
その瞳には何の気負いも興奮も見えない。人を殺したばかりだと言うのに。「如何でしたか、19回目の結婚生活のご感想は」
爽やかな日曜日の朝だった。
『日曜日の朝は必ず手作りのパンをだしてほしい。ママはいつもそうしてくれていたよ』と言う夫の言いつけを守るべく、リビングの扉を開けたらこれだ。テーブルの上で伏せる私の夫、の、上に優雅に腰掛けた元彼がにこやかに「おはようございます」と声をかけてきて、冒頭に戻る。感想も何も私の19回目の結婚生活は始まってからたったの32.8時間しかたっていない。強いて言えば彼はマザコンだったけど、それを元彼に言うのもなんか違う気がする。なので男の言葉を無視して私は夫に声をかける。
「嫌だあなた、しっかりして」
「ハハハ、無駄ですよもう死んでます」
「嫌だあなた、タカシさん、タカシさんしっかり」
「主、タカシは確か、貴女の前の前の夫君の名前では?」
「え、そうだっけ?」
「そうですね」
「じゃあヨシヒコさんだ、ヨシヒコさん、」
「それは四番目の夫ですね」
フユヒコ、カズヤ、イッセイ、ジュン、思いつく限りの名前を並べたら全て「違いますね」と却下された。名前あてクイズかなんかか。一応体を揺さぶってみたけど、あーこりゃだめだ、なんか血の量がすごい。正直もう諦めていたんだけど、名前が思い出せないのだけが妙に気になる。なのでもう少し声掛けを続けることにした。元彼は退屈半分面白半分と言った顔で足を組み直す。
「……あー、あ!じゃあ、ハルフミだ!ハルフミさん!」
「ハルフミは最初の夫君でしょう、しっかりしてください、主」
「……や、ていうかもう私あなたの主じゃないし」
「あなたは未来永劫俺の主ですよ」
「結婚する時に言ったよねえ、『普通の女の子に戻ります』って」
「『来世は一緒になろうね』とも仰ってました」
「まだ来世じゃない」
いい感じの朝日が居間に差し込んできて、私達を照らす。私と夫(の死体)と私の元彼と。神父さんみたいな格好はどう考えても現代日本で浮いてるけど、死体に腰掛けて笑うのがえげつないくらい様になる。「なるほど」、劇がかった態度で眉をひそめて顎に指を当てて、それがまた嫌になるくらいサマになるのだ。嫌になる。ちらりとこちらに視線を走らせた、藤色とも灰色とも付かない不思議な色の瞳。
「それでは、貴女の名前をお伺いしても?正確にお呼びしたいので」
「姓は赤黒田」
「それはこの男の名前でしょう、夫が死んだのであればもう貴女は赤黒田ではない」
「再婚の目星はたってるから、明後日からはネコヤナギだよ。先にお知らせしとくけど」
「ハハハ、またトンチキな名前の男を選んだものですね。それで、貴女のお名前は?」
「えーいやだ絶対教えない、禄な事にならないって聞いたよ」
「どこでお聞きになったので?」
「聞いたっていうか、こないだ金ローでやってたアニメで見た。あれでしょ、名前取られると神隠しされるんでしょ」
「……主、素人がにわかに仕入れた情報で専門知識を語るものではありませんよ」
「もともと専門職だったじゃん、引退したけど」
「おいたわしい。業界知識というのは常にアップデートされるものなのですよ。試しにお名前を教えてください。どんな素晴らしい事が起こるか、実際に体験いただけますから」
「やだって」
床まで流れた血を踏みにじる革靴。真っ白な手袋には返り血の一つだって付いていない。まるで浮世離れした私の元彼。当たり前だ、彼は人間じゃないのだ。
数年前に私が招集された歴史修正戦争、今聞くとまるでSFみたいだけど実際にそうなんだからしょうがない、とにかく、その戦争の中で私と一緒に戦ってくれた刀の神様の内の一人。へし切り長谷部というのが彼の名前だ。私は彼の事を長谷部くん、と呼んでいた。顕現したときから、色々あってくっついたあとも、お別れするときも、ずっとそう呼んでいた。
その時私はサニワとかいう役職だったんだけど、刀の付喪神と恋仲になった、という理由で解任された。まるで田舎のお父さんが放蕩娘を勘当するみたいな話で笑う。本丸は解体。他の本丸に引き継がれた刀も私が刀解してお別れした刀もいたんだけど、その日長谷部くんはどこを探しても見つからず、政府の目すら欺いてどこかに逃げおおせてしまった。それでそのまま、私は政府の命令でよくわからないおじさんと結婚させられることになった。それが最初の夫だった。私的にはそれはショックではあったんだけど、同時に渡りに船でもあった。
いつだって前の主の気配を纏わせている長谷部くん。仕方ないよねえ、もともと刀の神様だから。もう死んだ人間には勝てっこない。いつまでも美しい思い出のままだろう。でも彼の事が恋しくて、それと同じくらい憎たらしい私ときたら、その当時の私と来たら。恐ろしく病んでいた。ていうか今も病んでる。失踪した長谷部くんを追いかけないで適当なおっさんと結婚する私を、俺を捨てた酷い女だと永遠に恨んでくれたら素晴らしい。そんなふうに思いつめるくらいには。そこにのこのこと長谷部くんが現れたものだから、それが結婚前夜だったものだから大変な修羅場を演じた挙げ句泣いて泣いて、『普通の女の子に戻ります』だの『来世で一緒になろうね』だのの空恐ろしいほどの恥ずかしいセリフを吐きまくり、そんなわけで長谷部くんは私の元彼となった、筈だった。
最初の夫とは半年ほど続いた。ある日居間の扉を開けたら、「過去を断ち切ってまいりました。俺の刃は只、貴女のためだけにあります」とか言って笑ってる長谷部くんがいた。手には元夫の生首かなんか持っていた。グロすぎる。そこからはもうイタチごっこで、政府が連れてくる男と片っ端から結婚する私と、夫を片っ端から切って捨てていく長谷部くんと。「私達もう終わったでしょ」、そんな話をしたのも一回や二回じゃない。「終わるも何も貴女はどうあがいたって俺の主なんですよ、諦めてください」と言われたのも片手じゃすまない。
「何故です、俺の事を愛してくださってるのでは?」
「昔はね。もう終わったの」
「それでは何故、毎回俺の事を刀解せずに逃がすのですか?」
「いやせっかく現世まで来たんだから勿体無いでしょ。元カノとしての温情だよ、長谷部くんも現世の生活エンジョイしなよ。その顔ならモテるでしょ、私絶対バラさないから」
「それで貴女は、ネコヤナギとやらとご結婚なさるわけですか」
「うん」
「時間の無駄では?」
「いや、長谷部くんが夫殺しをやめてくれれば済む話だよ」
「貴女が俺の物になれば済む話では」
「どっちが名字でどっちが名前かわからない奴と結婚してはいけないって言うのが、家の家訓で」
「構いませんよ、別にへし切りと呼んでいただいても。それで姓が長谷部ということにしておきましょう」
「やだなあそれ」
「呼び方は話し合う必要がありそうですね、奥様?」
「私長谷部くんの奥様じゃないから」
「出会ったときから変わらず、貴女はいつまでも我儘だ。嫌ではありませんが」
「ねえ長谷部くん話聞いて」
「聞いておりますよ。俺の過去に嫉妬して駄々をこねているんでしょう?可愛らしい」
煤色の髪に、光が透けて綺麗だ。最後にキスしたときから全然変わってないその瞳の色も、頬に落ちる睫毛の影も。鞘にきちんと収まってるであろう、その刀のことを考える。冷たい光を反射する、触れるものすべてを斬り刻むその輝き。一切の容赦なく、私の夫は殺されたのだろう。想像する。きっと笑みすら浮かべて長谷部くんは斬ったんだろう。「ご苦労だったな、そろそろ楽にしてやろう」それで、バッサリ。かちりと視線が合う。きれい、以上の感情を思い出しそうになって慌てて目をそらす。長谷部くんはひっそりと笑う。
「……本当に。あの頃から変わらずお可愛らしい。俺も愛しておりますよ」
「俺も、って何。長谷部くんはあの頃より相当厚かましくなったよね。」
「そうかもしれませんね。思った事を素直に口に出さないと、禄な事が起こらないと悟ったもので」
「なんで男の人ってさ、元カノが自分のこといつまでも好きだって勘違いしちゃうんだろうね?」
「一般論に興味はありませんが、そうですね」
一瞬で距離を詰められる。ひゅ、と息を飲む間もなく左手を取られた。薬指に落ちる唇の感触。「それではなぜ貴女は、指輪を外しているのです?」薄い唇。最後に長谷部くんとキスしたのはいつだろう。手袋越しの体温だって、指に落とされたキスの感触だって、あの時と変わっていないのに。「頑なに結婚指輪をなさらないのは何故ですか。前もその前も、最初のご結婚の時からずっとですね」、笑みを含んだ声。ちろり、と薬指に舌が這う。やめて、と言うよりも早く噛みつかれて、きれいな瞳が私を覗き込んだ。藤色とも灰色とも付かない不思議な色。綺麗、以上の感情を私は飲み込む。これ以上は絶対言ってやらない。いまわの際にでもならない限り。
「……、帰って。次の結婚式の支度があるから」
「そうですか、精々頑張ってください」
「楽しみだなあ、ウエディングドレス。Diorのオートクチュールだってさ夢みたいじゃん」
「ええ、前回のドレスもよくお似合いでしたよ。前々回のも。すぐに次のドレスが着れるように、式が終わったらなるべく早めに始末しましょう」
「……もう来ないでよ懲りないなあ」
「懲りないのは主でしょう。俺はいくらだって付き合って差し上げますよ、貴女のワガママに」
「………」
「それとも、もう止めにして俺のもとに戻ってきて下さいますか?」、長谷部くんの言葉に首を振った。帰って、と繰り返せば朗らかに彼は笑って、「ええそれでは、明後日の結婚式で」とだけ言い残して部屋から出ていく。呼んでないし。残されたのは私と、私の元夫の死体。………後片付けが大変そうだなあ。思わず目を瞑ると長谷部くんの顔が浮かんだりして、おまけに体に絡みつく、藤の香りがうっとおしい。思い出すのは懐かしさと憎たらしさと、……それ以上の事は思い出してやらない。いまわの際にでもならない限り。