山鳥毛
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「何、大した問題ではないさ。あと三日で原稿を仕上げればいい。それだけの話だ」
……それを大した問題と、言うのではないんですかね。喉まで出かかった言葉を飲み込んだのはなんでだろう。山鳥毛さんの笑顔が、何だかとても威圧的に見えたせいかもしれない。
原稿をやりたくない一心で逃げ回っていたところを、いつものように捕まえられて、いつものようにホテルに軟禁されている。締め切りまでは後三日で、つまり、修羅場としか言いようのない状況だった。
「……ご迷惑かけて、すみません」もはや何回目かもわからない謝罪の言葉に、「小鳥が謝ることなど何もないだろう。迷惑など一つもかけられていないよ」と、神様のように優しい言葉が返される。
「それに、君が最大限のパフォーマンスを発揮できる環境を整えるために、私が居るんだ。存分に使ってくれて構わない」
……優しい。優しすぎるのが逆に怖い。辣腕編集者のオーラと圧が強すぎる。こういうときの山鳥毛さんは、神様みたいに優しくて頼もしくて、そして有無を言わせぬ迫力があるのだ。
窓際に大きな書き物机が鎮座しているのが、なんだかミスマッチだった。この人のことだから、もしかしたら特別に手配して運び込ませたのかもしれない。立派な机の上にちょこんと置かれているのは、愛用のノートパソコンだ。アパートに置いてきた筈なのに、当然のように持ち出されているあたりがほんのり怖かった。合い鍵を渡した記憶はないんだけど。
目の前には机、後ろには山鳥毛さん。もう逃げられないことは明白だった。それでも性懲りもなく、目の前に迫る大問題から逃げ出したくなる。それが私の、悪い癖だった。
椅子に座り込んでわずか三秒。「ちょっとお茶買ってきていいですか」と立ち上がりかけたところで、「その必要はないよ。飲み物は既に用意してある。いつもの炭酸水でいいかな? それとも、温かい紅茶をご所望だろうか」と押しとどめられる。
「おやつ」と言いかけた言葉は遮られて、「君の好きな洋菓子なら、ここに。ああ、スナック類も用意してあるから、塩気のあるものが欲しくなったら言いなさい。本格的な食事は三時間後にしよう、満腹になると効率が下がるからね」なんて声とともに有名店のマカロンが差し出された。
姪を見守る伯父さんを彷彿とさせる、優しげな視線。ほんのり居心地の悪さを感じながら、おずおずとマカロンを口に入れる。「お気に召していただけたかな」と聞かれるのにうなずけば、両肩に置かれた掌が、ぐ、と力をこめて、私を椅子に座らせた。耳元で声が囁く。修羅場だという現状をまるで感じさせない、穏やかで甘やかなトーンで。
「余計な事は何も考えなくていい。君が集中するべきことは、一つだけだ。わかるね?」
「うう、……うううう」
逃げられない。本当に、心の底から、逃げられない。……言い訳をしてもよそ見をしても、どうあがいてももう逃げられない。だから書くしかないのだと、諦めの悪い脳みそが、ようやく状況を理解し始める。肩の力を抜いたら、「そう、いい子だ」と、笑みを含んだ声が耳をくすぐる。
ノロノロとパソコンの電源を入れて、ごちゃごちゃに散らかったデスクトップから原稿のファイルを探す。時間稼ぎみたいに、なるべくゆっくりと。だけど、進捗ゼロの原稿を見られたくない、なんてろくでもない考えだって、多分とっくにばれている。
「さあ、原稿を開きなさい。過ぎたことはどうでもいい、『今』やるべきことをやるんだ。……できるね、私の小鳥」圧の強い視線に気圧されて、仕方なくキーボードに指を乗せる。「いい子だ」と笑う横顔は神様みたいに綺麗で、この人に担当してもらえるのは大変名誉な事なのだと、同業の誰かが言っていた言葉をふと思い出した。
なんで私に、こんなにすごい編集さんが付いているのか。駆け出しもいい所の新人、しかも締め切りがやばくなるたびに連絡を絶って逃避行に出るような人間が、何で未だに見捨てられずに、ここまで目をかけてもらえているのか。
考えれば考えるほどわからなかった。これまでにしでかしたいくつもの狼藉が、頭の中をぐるぐると回る。罪悪感と焦燥感で手を止めかければ、すかさず「小鳥」と咎められる。更に「何を、よそ見をしているのかな。いけない子だ」なんて甘ったるく詰られて、結局、本当に指を動かすしかなくなってしまう。
都内のお高いホテルの一室。原稿がやばくなるたびに逃避行を図って、そのたびに山鳥毛さんに捕獲されて、最終的にはここに缶詰になるのがお決まりのパターンになっている。
人間失格ってこういうことかな、と落ち込む私を「君が一人で原稿を書けないというのなら、私が側についていてやればいいだけの話だよ。何も、落ち込む必要はない」と励まし、もう無理書けないと弱音を吐く私に「できるさ、やってご覧。最後まで見ていてあげるから」と促し、だけど逃げることだけは決して許さず、最後には絶対に原稿を間に合わせる山鳥毛さんは、たまに本当に神様か何かに見えてくる。
部屋の中に、タイピングの音だけがうるさい。真後ろからの視線に振り返りたくなるのが厄介だった。文字が言葉に、言葉が文章になって、目の前の真っ白なページを埋めていく。書けば書くほど時間が足りなくて、焦燥感と罪悪感がねじれておかしな感覚を引き起こす。
……ていうか、何で私はこんなものを書いてるんだろう。冷静な頭の片隅で、何度も何度も考えた事を性懲りもなくもう一度考える。そうして、またしても同じ結論にたどり着いてしまう。……だって仕方ないのだ。どうしても、抗いきれなかったんだから。
この人に、山鳥毛さんに、私の言葉を読んでもらえる。今となっては、それは抗いがたい喜びだった。「書きなさい」と言われてしまったらもうだめで、恐怖心を覚えながらも止まれないまま、結局私は言いなりになってしまう。
「君の名義で、書いてみてはくれないだろうか」と誘われたのは二年前のことだった。いつもどおり、編集部に原稿を届けに行ったタイミングだっただろうか。給料がいい割に仕事が楽、というだけで始めたゴーストライターの仕事は、まあまあ軌道に乗っていた。だから、そんな話に乗る理由なんて一つだって見当たらなかった。
自分の名義で文章を作るなんて、大それたことができる気がしなかった。私が得意なのは、他人の文章のコピーくらいのものだった。書きたいことなんて見当たらないし、そもそも書いたところで、私の言葉なんて誰が聞きたがるんだろう。だけど、「自分のために書けないのなら、どうだろう。私のために書いてはくれないだろうか」なんて誘われて、「君の瞳に映る世界を教えてほしい。君の言葉で、君だけの文章で」なんて殺し文句を吐かれて、それでついうっかり頷いてしまった。
書いたものを片っ端から渡して、読まれるたびに手放しで褒めてもらえて、そんな関係が怖くなってしまったのはいつからだろう。初めて賞を取った日の、子供染みた誇らしさを今でも覚えている。「君を見つけたことは、私の人生でも至上の喜びだった。笑われるかもしれないがね」と頰を撫でてくれた、大きな手の感触も。だけど、こんな風に期待を掛けてくれる人に、私がしていることときたらなんだろう。
自分の中から物語を探して言葉にして曝け出す。生身の感情を紙の上に並べれば、彼はそっくり全てを受けとめて、余すところなく飲み干してくれる。たとえそれが、どんなに醜い言葉であっても。そのうちに、ゴーストライターの仕事が滞るようになった。あんなにすらすらと出てきたはずの他人の言葉が、自分の体のどこを探しても見つからない。
自分の言葉を受け止めてもらえる安心感が、恐怖心に変わるのは一瞬だった。気がついたときには、語りたい言葉が堰を切ったように溢れて、脳内で暴れだすようになっていた。書くことに取り憑かれて、正気の世界に戻れなくなるかもしれない。そう思ったら酷く恐ろしくなってしまった。
連絡を絶って逃げ出したのは、去年の一月の事だった。メールにも電話にも返事を返さないで、念の為携帯番号も住所も変えたのに、山鳥毛さんはあっさりと私を見つけて連れ戻した。そこからはもうイタチみたいに、子供じみた追いかけっこを続けている。
逃げて逃げて逃げて、それでも結局捕まえられて、いつだってここに引き戻されてしまう。
約束の一つだってまともに守れずに、なだめてくれる言葉すら拒絶して、自己嫌悪に沈んだ挙げ句に逃げ回って。そうやって私が引き起こした膨大な面倒ごとの全てを引き受けて、この人はなんてことないみたいな顔で笑ってくれる。それからあっさりと私を許してしまうのだ。「余計なことは、何も考えなくていい」なんてたった一言で。その笑顔を見るたびにおかしな感情が混ざり合って、まともな思考回路なんかぐずぐずに溶けて消えてしまう。
罪悪感と焦燥感と恐怖心と、赦されている、恍惚感と。それは麻薬のような快感だった。この人の声に、笑顔に追い詰められて、正気を失いながら物語を描いていく。その時間が酷く恐ろしくて、そしてとびきり、気持ちいい。
「ああ、……美しいな」
ふと、真後ろから覗き込まれて手が止まる。大きな手が右手に重ねられて、「続けて」と囁かれる。思考はぼんやりと白んで、自分がここにいないみたいな奇妙な錯覚を起こす。気が触れたみたいに動く指が、目の前に浮かぶ言葉をとらえては文字に表していく。そうして書き出された文章をなぞって、彼がうっとりと笑う。「君の言葉は、どんどん美しくなるな。……追い詰められれば追い詰められるほどに」
「ほら」低く押し殺した声は、吐息混じりに掠れて、私の肌の上に落ちる。「続きを、……この先を、読ませておくれ。君のなかの世界を、余すところなく開いて見せて」体中が沸騰したみたいに熱くて、そのくせ頭のどこかがしんとして冷たい。頭の中の物語を、私の見ている光景を、そっくり文章にして開いて見せるのだ。誰にも見せたくない本性も、四六時中取り付いて離れない狂気も、何もかもを言葉にしてぶちまけて、その全てを受け入れて赦される。
もっと、もっともっともっと。醜い本音も、残酷な欲望も、押し殺していた何もかもを見せてしまいたい。膨らむ欲望ははしたなく溢れ出すのに、咎められるどころか褒められて、「良い子だ」と頭を撫でられて、そうしてとうとう止まらなくなる。いとおしげに微笑む唇が緩んで、私を呼んだ。私の小鳥、と。その声にうなずいて見せれば、大きな手が慈しむように頬を撫でる。
息が詰まるほど幸福で、逃げ出したいほど恐ろしくて、だけど、ずっとずっとこうしていたい。吐き出した息は、甘ったるく空間に溶けた。文字が言葉に、言葉が文章になって、目の前の真っ白なページが『私』で埋め尽くされていく。感情は文字になって濁流を起こす。その全てをそっくり飲み干して、彼は笑ってくれるので。だから私は抗えなくて、いつだってこの場所に戻ってきてしまう。
ぞくぞくと、背筋を快楽が走る。恍惚感で指先が震える。その視線が文章をなぞるたびに、直に神経に触れられているみたいに気持ちがいい。気が狂いそうで怖いのに、どうしたってやめたくない。羞恥心と、罪悪感と、恍惚と。何もかもが入り混じって、おかしなくらいに私を陶然とさせた。慈しむような視線で、ぐらぐらと視界が揺れる。きれいな瞳が微笑んで、最後の理性を打ち砕いてしまう。
「私に、……私だけに、見せてご覧。君にしか語れない全てを、言葉にして。倫理も、理性も、余計なものは何もかも取り払ってしまって。……できるな? 私の小鳥」
この場所から逃げられなくなる、そう遠くないいつかの事を思う。抑えていた狂気はきっと私を飲み込んで、現実と物語の境目すらも曖昧にしてしまうだろう。だけど、それでもきっと、この人は笑ってくれるだろう。慈しみと愛しみを存分に込めた、神様みたいなあの瞳で。そのことを考えるだけで、恐怖心は麻痺して別の感情に変わっていく。
誰かが笑っている、と思ったら自分の声だった。きちんと全部飲み干して、私の全部を受け止めて。譫言みたいな声に、ただ穏やかな笑みが返される。膨大な言葉が、感情が、目の前を真っ黒に染めていく。まだ足りない、もっともっと、もっと。その視線に急かされながら、夜はまだ終わらない。
……それを大した問題と、言うのではないんですかね。喉まで出かかった言葉を飲み込んだのはなんでだろう。山鳥毛さんの笑顔が、何だかとても威圧的に見えたせいかもしれない。
原稿をやりたくない一心で逃げ回っていたところを、いつものように捕まえられて、いつものようにホテルに軟禁されている。締め切りまでは後三日で、つまり、修羅場としか言いようのない状況だった。
「……ご迷惑かけて、すみません」もはや何回目かもわからない謝罪の言葉に、「小鳥が謝ることなど何もないだろう。迷惑など一つもかけられていないよ」と、神様のように優しい言葉が返される。
「それに、君が最大限のパフォーマンスを発揮できる環境を整えるために、私が居るんだ。存分に使ってくれて構わない」
……優しい。優しすぎるのが逆に怖い。辣腕編集者のオーラと圧が強すぎる。こういうときの山鳥毛さんは、神様みたいに優しくて頼もしくて、そして有無を言わせぬ迫力があるのだ。
窓際に大きな書き物机が鎮座しているのが、なんだかミスマッチだった。この人のことだから、もしかしたら特別に手配して運び込ませたのかもしれない。立派な机の上にちょこんと置かれているのは、愛用のノートパソコンだ。アパートに置いてきた筈なのに、当然のように持ち出されているあたりがほんのり怖かった。合い鍵を渡した記憶はないんだけど。
目の前には机、後ろには山鳥毛さん。もう逃げられないことは明白だった。それでも性懲りもなく、目の前に迫る大問題から逃げ出したくなる。それが私の、悪い癖だった。
椅子に座り込んでわずか三秒。「ちょっとお茶買ってきていいですか」と立ち上がりかけたところで、「その必要はないよ。飲み物は既に用意してある。いつもの炭酸水でいいかな? それとも、温かい紅茶をご所望だろうか」と押しとどめられる。
「おやつ」と言いかけた言葉は遮られて、「君の好きな洋菓子なら、ここに。ああ、スナック類も用意してあるから、塩気のあるものが欲しくなったら言いなさい。本格的な食事は三時間後にしよう、満腹になると効率が下がるからね」なんて声とともに有名店のマカロンが差し出された。
姪を見守る伯父さんを彷彿とさせる、優しげな視線。ほんのり居心地の悪さを感じながら、おずおずとマカロンを口に入れる。「お気に召していただけたかな」と聞かれるのにうなずけば、両肩に置かれた掌が、ぐ、と力をこめて、私を椅子に座らせた。耳元で声が囁く。修羅場だという現状をまるで感じさせない、穏やかで甘やかなトーンで。
「余計な事は何も考えなくていい。君が集中するべきことは、一つだけだ。わかるね?」
「うう、……うううう」
逃げられない。本当に、心の底から、逃げられない。……言い訳をしてもよそ見をしても、どうあがいてももう逃げられない。だから書くしかないのだと、諦めの悪い脳みそが、ようやく状況を理解し始める。肩の力を抜いたら、「そう、いい子だ」と、笑みを含んだ声が耳をくすぐる。
ノロノロとパソコンの電源を入れて、ごちゃごちゃに散らかったデスクトップから原稿のファイルを探す。時間稼ぎみたいに、なるべくゆっくりと。だけど、進捗ゼロの原稿を見られたくない、なんてろくでもない考えだって、多分とっくにばれている。
「さあ、原稿を開きなさい。過ぎたことはどうでもいい、『今』やるべきことをやるんだ。……できるね、私の小鳥」圧の強い視線に気圧されて、仕方なくキーボードに指を乗せる。「いい子だ」と笑う横顔は神様みたいに綺麗で、この人に担当してもらえるのは大変名誉な事なのだと、同業の誰かが言っていた言葉をふと思い出した。
なんで私に、こんなにすごい編集さんが付いているのか。駆け出しもいい所の新人、しかも締め切りがやばくなるたびに連絡を絶って逃避行に出るような人間が、何で未だに見捨てられずに、ここまで目をかけてもらえているのか。
考えれば考えるほどわからなかった。これまでにしでかしたいくつもの狼藉が、頭の中をぐるぐると回る。罪悪感と焦燥感で手を止めかければ、すかさず「小鳥」と咎められる。更に「何を、よそ見をしているのかな。いけない子だ」なんて甘ったるく詰られて、結局、本当に指を動かすしかなくなってしまう。
都内のお高いホテルの一室。原稿がやばくなるたびに逃避行を図って、そのたびに山鳥毛さんに捕獲されて、最終的にはここに缶詰になるのがお決まりのパターンになっている。
人間失格ってこういうことかな、と落ち込む私を「君が一人で原稿を書けないというのなら、私が側についていてやればいいだけの話だよ。何も、落ち込む必要はない」と励まし、もう無理書けないと弱音を吐く私に「できるさ、やってご覧。最後まで見ていてあげるから」と促し、だけど逃げることだけは決して許さず、最後には絶対に原稿を間に合わせる山鳥毛さんは、たまに本当に神様か何かに見えてくる。
部屋の中に、タイピングの音だけがうるさい。真後ろからの視線に振り返りたくなるのが厄介だった。文字が言葉に、言葉が文章になって、目の前の真っ白なページを埋めていく。書けば書くほど時間が足りなくて、焦燥感と罪悪感がねじれておかしな感覚を引き起こす。
……ていうか、何で私はこんなものを書いてるんだろう。冷静な頭の片隅で、何度も何度も考えた事を性懲りもなくもう一度考える。そうして、またしても同じ結論にたどり着いてしまう。……だって仕方ないのだ。どうしても、抗いきれなかったんだから。
この人に、山鳥毛さんに、私の言葉を読んでもらえる。今となっては、それは抗いがたい喜びだった。「書きなさい」と言われてしまったらもうだめで、恐怖心を覚えながらも止まれないまま、結局私は言いなりになってしまう。
「君の名義で、書いてみてはくれないだろうか」と誘われたのは二年前のことだった。いつもどおり、編集部に原稿を届けに行ったタイミングだっただろうか。給料がいい割に仕事が楽、というだけで始めたゴーストライターの仕事は、まあまあ軌道に乗っていた。だから、そんな話に乗る理由なんて一つだって見当たらなかった。
自分の名義で文章を作るなんて、大それたことができる気がしなかった。私が得意なのは、他人の文章のコピーくらいのものだった。書きたいことなんて見当たらないし、そもそも書いたところで、私の言葉なんて誰が聞きたがるんだろう。だけど、「自分のために書けないのなら、どうだろう。私のために書いてはくれないだろうか」なんて誘われて、「君の瞳に映る世界を教えてほしい。君の言葉で、君だけの文章で」なんて殺し文句を吐かれて、それでついうっかり頷いてしまった。
書いたものを片っ端から渡して、読まれるたびに手放しで褒めてもらえて、そんな関係が怖くなってしまったのはいつからだろう。初めて賞を取った日の、子供染みた誇らしさを今でも覚えている。「君を見つけたことは、私の人生でも至上の喜びだった。笑われるかもしれないがね」と頰を撫でてくれた、大きな手の感触も。だけど、こんな風に期待を掛けてくれる人に、私がしていることときたらなんだろう。
自分の中から物語を探して言葉にして曝け出す。生身の感情を紙の上に並べれば、彼はそっくり全てを受けとめて、余すところなく飲み干してくれる。たとえそれが、どんなに醜い言葉であっても。そのうちに、ゴーストライターの仕事が滞るようになった。あんなにすらすらと出てきたはずの他人の言葉が、自分の体のどこを探しても見つからない。
自分の言葉を受け止めてもらえる安心感が、恐怖心に変わるのは一瞬だった。気がついたときには、語りたい言葉が堰を切ったように溢れて、脳内で暴れだすようになっていた。書くことに取り憑かれて、正気の世界に戻れなくなるかもしれない。そう思ったら酷く恐ろしくなってしまった。
連絡を絶って逃げ出したのは、去年の一月の事だった。メールにも電話にも返事を返さないで、念の為携帯番号も住所も変えたのに、山鳥毛さんはあっさりと私を見つけて連れ戻した。そこからはもうイタチみたいに、子供じみた追いかけっこを続けている。
逃げて逃げて逃げて、それでも結局捕まえられて、いつだってここに引き戻されてしまう。
約束の一つだってまともに守れずに、なだめてくれる言葉すら拒絶して、自己嫌悪に沈んだ挙げ句に逃げ回って。そうやって私が引き起こした膨大な面倒ごとの全てを引き受けて、この人はなんてことないみたいな顔で笑ってくれる。それからあっさりと私を許してしまうのだ。「余計なことは、何も考えなくていい」なんてたった一言で。その笑顔を見るたびにおかしな感情が混ざり合って、まともな思考回路なんかぐずぐずに溶けて消えてしまう。
罪悪感と焦燥感と恐怖心と、赦されている、恍惚感と。それは麻薬のような快感だった。この人の声に、笑顔に追い詰められて、正気を失いながら物語を描いていく。その時間が酷く恐ろしくて、そしてとびきり、気持ちいい。
「ああ、……美しいな」
ふと、真後ろから覗き込まれて手が止まる。大きな手が右手に重ねられて、「続けて」と囁かれる。思考はぼんやりと白んで、自分がここにいないみたいな奇妙な錯覚を起こす。気が触れたみたいに動く指が、目の前に浮かぶ言葉をとらえては文字に表していく。そうして書き出された文章をなぞって、彼がうっとりと笑う。「君の言葉は、どんどん美しくなるな。……追い詰められれば追い詰められるほどに」
「ほら」低く押し殺した声は、吐息混じりに掠れて、私の肌の上に落ちる。「続きを、……この先を、読ませておくれ。君のなかの世界を、余すところなく開いて見せて」体中が沸騰したみたいに熱くて、そのくせ頭のどこかがしんとして冷たい。頭の中の物語を、私の見ている光景を、そっくり文章にして開いて見せるのだ。誰にも見せたくない本性も、四六時中取り付いて離れない狂気も、何もかもを言葉にしてぶちまけて、その全てを受け入れて赦される。
もっと、もっともっともっと。醜い本音も、残酷な欲望も、押し殺していた何もかもを見せてしまいたい。膨らむ欲望ははしたなく溢れ出すのに、咎められるどころか褒められて、「良い子だ」と頭を撫でられて、そうしてとうとう止まらなくなる。いとおしげに微笑む唇が緩んで、私を呼んだ。私の小鳥、と。その声にうなずいて見せれば、大きな手が慈しむように頬を撫でる。
息が詰まるほど幸福で、逃げ出したいほど恐ろしくて、だけど、ずっとずっとこうしていたい。吐き出した息は、甘ったるく空間に溶けた。文字が言葉に、言葉が文章になって、目の前の真っ白なページが『私』で埋め尽くされていく。感情は文字になって濁流を起こす。その全てをそっくり飲み干して、彼は笑ってくれるので。だから私は抗えなくて、いつだってこの場所に戻ってきてしまう。
ぞくぞくと、背筋を快楽が走る。恍惚感で指先が震える。その視線が文章をなぞるたびに、直に神経に触れられているみたいに気持ちがいい。気が狂いそうで怖いのに、どうしたってやめたくない。羞恥心と、罪悪感と、恍惚と。何もかもが入り混じって、おかしなくらいに私を陶然とさせた。慈しむような視線で、ぐらぐらと視界が揺れる。きれいな瞳が微笑んで、最後の理性を打ち砕いてしまう。
「私に、……私だけに、見せてご覧。君にしか語れない全てを、言葉にして。倫理も、理性も、余計なものは何もかも取り払ってしまって。……できるな? 私の小鳥」
この場所から逃げられなくなる、そう遠くないいつかの事を思う。抑えていた狂気はきっと私を飲み込んで、現実と物語の境目すらも曖昧にしてしまうだろう。だけど、それでもきっと、この人は笑ってくれるだろう。慈しみと愛しみを存分に込めた、神様みたいなあの瞳で。そのことを考えるだけで、恐怖心は麻痺して別の感情に変わっていく。
誰かが笑っている、と思ったら自分の声だった。きちんと全部飲み干して、私の全部を受け止めて。譫言みたいな声に、ただ穏やかな笑みが返される。膨大な言葉が、感情が、目の前を真っ黒に染めていく。まだ足りない、もっともっと、もっと。その視線に急かされながら、夜はまだ終わらない。