長谷部
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「主はきっと、お気に召しますよ」
春とはいえ、夕方はまだ肌寒い。身震いをした私に自分の羽織を着せかけてから、長谷部くんは繰り返す。「主はきっと、お気に召すはずです」紫色のガラス瓶に、何だか見覚えのある飾り結びが下げられている。「私、お酒、苦手なんだけどなぁ」とぼやいてみたら、知っています、と穏やかな声が笑う。
「それでも、主はこれを好きになりますよ。一日と置かずに召し上がりたくなるくらいにはね」
「……胡散臭いんだけど、どうしたのこれ」
「これは、俺の酒です」
「おれのさけ」
「はい、俺が作りました」
「……ごめん、意味が分からないんだけど、長谷部くんってお酒の醸造もできるの」
「ええ。正確には醸造をしたわけではないですが、まあそのようなものです」
「……そのようなもの……」
「そのようなものです」
「……これってさあ」
「はい」
「つまり、日本酒なの」
「そうですね。分類上は、きっと」
「きっと、って」
「日本酒です、恐らくは」
「恐らくって。……日本酒ってことは、なんだっけ、あれだ、大吟醸、みたいな?」
「ええ、大体そのようなものかと」
「さっきから何なのその、あやふやな感じ」
「ははは」
あまりにも胡散臭い。私の疑惑の視線を笑顔で受け流して、長谷部くんが瓶の蓋をひねる。ふわんと漂ってくる香りは、なんでだろう、とびきりに甘くておいしそうだ。
「そんなつれないことを、仰らないで」
とくとく、とくとくとく、とく。切子のグラスに注がれた液体は、透明なのにとろりとやわらかそうな、濃密な光を宿している。
……おいしそう。なんだか酷く、喉が渇いている。そのことに気づいたら無性に口さびしくなってきて、長谷部くんの掌の中のグラスから目がそらせなくなる。ふ、と。笑いともため息ともつかない息を漏らしてから、彼は誘うようにグラスを揺らした。
「主、ね、こちらに」大した抵抗もしないまま、その腕のなかに収まる。グラスの中の水面に、月の光が反射して綺麗だった。どこからともなく飛んできた藤の花びらが、グラスに入り込んで小さな波紋を作る。
……藤の花なんて、どこから。そんな疑問がほんの少しだけ頭をかすめたけど、すぐにどうでもよくなった。目の前のグラスに鼻を寄せてみたら、噎せそうなくらいの香りに視界が揺れる。
「飲んで」柔らかい声が私を誘う。「見ていて差し上げますから。ね、主。飲んでください。そうして、一滴残らず飲み干して」弓なりに歪んだ瞳。促されるままに唇を付ければ、果実にも似た複雑な香りが、口の中に広がる。
蜜みたいに甘くて、どこか苦くて、さらりとした感触なのに、喉に絡む。焼けるように熱いのに、飲み干した瞬間からすぐに次が欲しくなる。
「どうです?……お気に召して、いただけたでしょう?」吐き出した息が熱い。思考がおぼつかなくなるのに、それもとびきり心地いい。長谷部くんの体に寄りかかれば、なじんでいく体温に安心して、力が抜けていく。
おいしい、と、独り言みたいに呟いた言葉に嬉しそうに微笑んで、長谷部くんはもう一度、グラスにお酒を注いでくる。「もっともっと、注いで差し上げますね」からかうみたいな声にうなずく。「幾らでも差し上げます、ご随意にどうぞ。全部全部飲み干して、体の隅々まで満たしてください」
熱を持った肌に、その掌はひんやりと優しい。飲み干すたびに「いい子」と髪を撫でられて、子供の頃みたいに満ち足りた気持ちになってしまう。喉を通る液体は体中をめぐって、思考も、理性も何もかもをぼやかして溶かしてしまう。飲んでも飲んでも足りなくて、際限なくねだっては与えられて、どれくらい経ったんだろう。弛緩しきった体はどこにも力が入らなくて、自分の境目さえもなんだか曖昧だった。
あるじ、と呼ばれたのに微かに頷いた。指先すらも重くて、動くのがなんだか酷く億劫だった。だから、長谷部くんの膝の上に抱きしめられて、その声を聞いている。いつだって私を甘やかしてくれる声は耳元に落ちて、とろとろと柔らかく溶ける。
「ねぇ、主。俺の主」
「……、ん、」
「俺はあなたの物なんです。髪の一筋から爪先、血の一滴に至るまで。この声も、体も、感情も、ぜんぶぜんぶ、あなただけの物なんです。そうでしょう?」
「……ぜんぶ……」
「ずっと考えていたんです。食らいつくされて、飲み干されて、そうして主の身体の一部になれたら、と。きっと、それは堪らなく心地いい事だろうと」
「……、……?」
「これは、俺の神域の水なんです。主に召しあがってほしくて、あるだけの霊力と神気を流し込みました。……きっと気に入っていただけると思っていました、だってあなたは、俺の唯一の人なので。嬉しいです、最後の一滴まで、『俺』を飲み干してくださるなんて」
強く強く風が吹いて、はらはらと花弁が舞う。藤の花だ。それも、こんなにたくさん。濃くて甘い香りが一面に立ちこめる。月の光と藤の色彩が混ざり合って、視界を薄紫色に染めていく。
「ねぇ、どんなに、素晴らしい心地がするか分かりますか。貴女の体中が、俺とそっくり同じものに変わっていくのがわかるんです。怖いくらいに満ち足りた気分です。……ああ、嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、気が狂いそうだ」
長谷部くんの言葉の意味が、上手に考えられなかった。ただただ幸福で、他に何もいらなかった。
ここはいったいどこで、私はどうしてここに来たんだっけ。何かを忘れている気がしたけれど、それはもう重要な事ではないのかもしれなかった。長谷部くんがいてくれればそれだけでいいのかもしれない。こうやって二人だけでずっとずっといられるなら、それだけで。
「俺を」掌が柔らかく視界を塞ぐ。「俺を、俺の全てを、貴女の物にしてくださいましたね。そうして貴女は、俺の物になってくださった。はは、もっと早くに試していればよかった。こんなに簡単に手に入るなら、何も躊躇う必要などなかったのに」
はふ、と吐き出した息が、長谷部くんの胸元で転がる。つむじと、おでこと、それから瞼にも口づけを落とされる。眠気で押し流される意識の中で、うっとりと唇が笑うのを見た。
「おやすみなさい、俺の可愛い人」真っ暗闇の中でも、長谷部くんの声は飛び切りに甘くて優しい。帰り道は、きっともう思い出せない。
春とはいえ、夕方はまだ肌寒い。身震いをした私に自分の羽織を着せかけてから、長谷部くんは繰り返す。「主はきっと、お気に召すはずです」紫色のガラス瓶に、何だか見覚えのある飾り結びが下げられている。「私、お酒、苦手なんだけどなぁ」とぼやいてみたら、知っています、と穏やかな声が笑う。
「それでも、主はこれを好きになりますよ。一日と置かずに召し上がりたくなるくらいにはね」
「……胡散臭いんだけど、どうしたのこれ」
「これは、俺の酒です」
「おれのさけ」
「はい、俺が作りました」
「……ごめん、意味が分からないんだけど、長谷部くんってお酒の醸造もできるの」
「ええ。正確には醸造をしたわけではないですが、まあそのようなものです」
「……そのようなもの……」
「そのようなものです」
「……これってさあ」
「はい」
「つまり、日本酒なの」
「そうですね。分類上は、きっと」
「きっと、って」
「日本酒です、恐らくは」
「恐らくって。……日本酒ってことは、なんだっけ、あれだ、大吟醸、みたいな?」
「ええ、大体そのようなものかと」
「さっきから何なのその、あやふやな感じ」
「ははは」
あまりにも胡散臭い。私の疑惑の視線を笑顔で受け流して、長谷部くんが瓶の蓋をひねる。ふわんと漂ってくる香りは、なんでだろう、とびきりに甘くておいしそうだ。
「そんなつれないことを、仰らないで」
とくとく、とくとくとく、とく。切子のグラスに注がれた液体は、透明なのにとろりとやわらかそうな、濃密な光を宿している。
……おいしそう。なんだか酷く、喉が渇いている。そのことに気づいたら無性に口さびしくなってきて、長谷部くんの掌の中のグラスから目がそらせなくなる。ふ、と。笑いともため息ともつかない息を漏らしてから、彼は誘うようにグラスを揺らした。
「主、ね、こちらに」大した抵抗もしないまま、その腕のなかに収まる。グラスの中の水面に、月の光が反射して綺麗だった。どこからともなく飛んできた藤の花びらが、グラスに入り込んで小さな波紋を作る。
……藤の花なんて、どこから。そんな疑問がほんの少しだけ頭をかすめたけど、すぐにどうでもよくなった。目の前のグラスに鼻を寄せてみたら、噎せそうなくらいの香りに視界が揺れる。
「飲んで」柔らかい声が私を誘う。「見ていて差し上げますから。ね、主。飲んでください。そうして、一滴残らず飲み干して」弓なりに歪んだ瞳。促されるままに唇を付ければ、果実にも似た複雑な香りが、口の中に広がる。
蜜みたいに甘くて、どこか苦くて、さらりとした感触なのに、喉に絡む。焼けるように熱いのに、飲み干した瞬間からすぐに次が欲しくなる。
「どうです?……お気に召して、いただけたでしょう?」吐き出した息が熱い。思考がおぼつかなくなるのに、それもとびきり心地いい。長谷部くんの体に寄りかかれば、なじんでいく体温に安心して、力が抜けていく。
おいしい、と、独り言みたいに呟いた言葉に嬉しそうに微笑んで、長谷部くんはもう一度、グラスにお酒を注いでくる。「もっともっと、注いで差し上げますね」からかうみたいな声にうなずく。「幾らでも差し上げます、ご随意にどうぞ。全部全部飲み干して、体の隅々まで満たしてください」
熱を持った肌に、その掌はひんやりと優しい。飲み干すたびに「いい子」と髪を撫でられて、子供の頃みたいに満ち足りた気持ちになってしまう。喉を通る液体は体中をめぐって、思考も、理性も何もかもをぼやかして溶かしてしまう。飲んでも飲んでも足りなくて、際限なくねだっては与えられて、どれくらい経ったんだろう。弛緩しきった体はどこにも力が入らなくて、自分の境目さえもなんだか曖昧だった。
あるじ、と呼ばれたのに微かに頷いた。指先すらも重くて、動くのがなんだか酷く億劫だった。だから、長谷部くんの膝の上に抱きしめられて、その声を聞いている。いつだって私を甘やかしてくれる声は耳元に落ちて、とろとろと柔らかく溶ける。
「ねぇ、主。俺の主」
「……、ん、」
「俺はあなたの物なんです。髪の一筋から爪先、血の一滴に至るまで。この声も、体も、感情も、ぜんぶぜんぶ、あなただけの物なんです。そうでしょう?」
「……ぜんぶ……」
「ずっと考えていたんです。食らいつくされて、飲み干されて、そうして主の身体の一部になれたら、と。きっと、それは堪らなく心地いい事だろうと」
「……、……?」
「これは、俺の神域の水なんです。主に召しあがってほしくて、あるだけの霊力と神気を流し込みました。……きっと気に入っていただけると思っていました、だってあなたは、俺の唯一の人なので。嬉しいです、最後の一滴まで、『俺』を飲み干してくださるなんて」
強く強く風が吹いて、はらはらと花弁が舞う。藤の花だ。それも、こんなにたくさん。濃くて甘い香りが一面に立ちこめる。月の光と藤の色彩が混ざり合って、視界を薄紫色に染めていく。
「ねぇ、どんなに、素晴らしい心地がするか分かりますか。貴女の体中が、俺とそっくり同じものに変わっていくのがわかるんです。怖いくらいに満ち足りた気分です。……ああ、嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて、気が狂いそうだ」
長谷部くんの言葉の意味が、上手に考えられなかった。ただただ幸福で、他に何もいらなかった。
ここはいったいどこで、私はどうしてここに来たんだっけ。何かを忘れている気がしたけれど、それはもう重要な事ではないのかもしれなかった。長谷部くんがいてくれればそれだけでいいのかもしれない。こうやって二人だけでずっとずっといられるなら、それだけで。
「俺を」掌が柔らかく視界を塞ぐ。「俺を、俺の全てを、貴女の物にしてくださいましたね。そうして貴女は、俺の物になってくださった。はは、もっと早くに試していればよかった。こんなに簡単に手に入るなら、何も躊躇う必要などなかったのに」
はふ、と吐き出した息が、長谷部くんの胸元で転がる。つむじと、おでこと、それから瞼にも口づけを落とされる。眠気で押し流される意識の中で、うっとりと唇が笑うのを見た。
「おやすみなさい、俺の可愛い人」真っ暗闇の中でも、長谷部くんの声は飛び切りに甘くて優しい。帰り道は、きっともう思い出せない。