長谷部
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心臓の音がうるさかった。ドクンドクンと脈打つリズムに合わせて、視界がぐにゃぐにゃと歪んんだ。まるで水の中の景色みたいだなんて、無駄に冷静に思った。喉が渇いて渇いて、ミネラルウォーターのボトルをがぶ飲みしてはむせて、やばい死ぬ、と思ったけどどうやら生きてるみたいだ。ぜえぜえと呼吸するたびに肺が痛い。枕もとのスマホを引き寄せて、何も考えずにその番号に電話をかけた。もしもし、と低い声に返事もせずに「やばい」とだけ告げた私の声はがっさがさで、まるで知らない誰かの声みたいだった。やばくて、苦しくて、ねえ長谷部くん、私、どうしよう。譫言のように繰り返す私の、どう聞いてもやばめな言葉たちには何のコメントもなかった。「ご自宅ですよね。すぐ行きますからそこにいてください」と長谷部くんは簡潔に答えてすぐに電話が切れてしまう。ツーツーツーツー。スピーカーから流れ続ける音をぼんやり聞きながら、床に倒れてどのくらい経ったんだろう。
玄関の鍵が、慌ただしく開けられる音を聞いた。長谷部くんの声が私の名前を呼んでくれたような気がするけど、それももう気のせいかもしれなかった。グレーの靴下を履いた足が、床に散らばる錠剤を踏みつけてペキ、と軽い音を立てた。明るくなったり暗くなったり、視界はどうにもおぼろげだった。水彩画みたいに滲んだ風景の中で自分の指先をながめている。いびつに切りそろえられた爪が、まるで鱗みたいにキラキラと光っていた。うろこ。うろこだ。うろこが、生えてる。
誰かの(多分長谷部くんの)手に揺さぶられて、何度も何度も名前を呼ばれた。はせべくん、と、答えたはずの私の声は、なんだか揺れて掠れて不明瞭で、だからやっぱり水の中にいるみたいだった。痛くて苦しくて何も考えられなくて、ただ長谷部くんの肩にしがみついた。いたい、くるしい、みず、と、つぶやいた声に「水ですね」と泣きそうな声が返ってくる。息ができなくて、ああそうか魚ってエラ呼吸だもんな、なんてアホな事を考えていた。無理やりに上向かされたら泣きそうに潤んだ瞳が私をのぞき込む。薄紫色が綺麗だ。それだけ思って、もう一度はせべくん、と名前を呼んだ。そこからの記憶がない。気が付いたら私は長谷部くんちのマンションのやたらとでっかい浴槽で、肩までどっぷり水に浸かっていた。
▽
「おはようございます」
「……はよ……」
「ご気分は」
「なんか……何だろう……よくわからないけど」
「けど?」
「悪くは、ない、……気がする」
「それは何よりです。……あの後の事を、覚えていらっしゃいますか」
「あの後、……あの、あと……?」
ぱしゃん、と。足を動かすたびに魚が跳ねるみたいな音がする。どうにも変な感じだった。相変わらず頭はぼんやりしていて、何一つだって現実感がなかった。思い出しながらもなんだか手持無沙汰で、退屈しのぎに水面を蹴り上げてみる。ぱしゃん、ぱしゃん。水の中でゆれるワンピースの、裾から覗いた足の膝くらいまでが鱗に覆われている。幻覚でも見てるんだろうか。完全に常軌を逸した自分の体を、だけど、なんだか普通の事のように受け止めている自分がいた。「あの後、貴女が」一方長谷部くんはと言えば、苦虫をかみつぶしたような顔で懺悔するみたいな声を出す。
「水が欲しい、足りない、とおっしゃって。それで」
「ああ、それで連れてきてくれたの、ここまで」
「……すみません」
「長谷部くんちお風呂場広いもんねぇ」
「……すみません。水に浸かっていないと、貴女が死んでしまうような気がして。本来ならすぐ病院に連れていくべきだったのに」
「謝ることないのに」
「……でも、」
「いやそもそもこれってさあ、病院で何とかなるもんなのかなあ」
「原因は、思い当たりますか」
「わかんないけど、副作用かなあ、薬の」
「薬とは?」
「睡眠薬」
そんなお葬式みたいな顔しなくても。
すいみんやく、と、私の言葉を繰り返して長谷部くんは、「眠れていなかったんですか」と更に死にそうな声を出す。予想外のところに飛んできた質問にどう答えていいかもわからなくて、うん、ええと、まあ、なんて、煮え切らない返事をしてしまう。眠れなかった、ような気がするんだけど、今となってはもう思い出せないのだ。何を思って睡眠薬なんか飲んだのか、それでどうしてこんなことになったのか、そもそもなんであの時、長谷部くんに電話なんか掛けてしまったのかもわからない。ただ、痛みと息苦しさに紛れて、奇妙な安堵感を覚えていたような気もする。
「すみません」
「だから、謝らなくたっていいのに」
「いいえ。だって、貴女が苦しんでいる時に、傍についていて差し上げられなかった」
ぱしゃん。水の中で、長谷部くんの掌が私の手を摑まえる。濡れるよ、と声を出したのには聞こえないふりをされた。うろこに覆われた指先でも、体温は感じるんだから不思議だ。「うろこ、気持ち悪くないの」一応聞いてみたら「バカなことを言わないでください」なんて、泣きそうな顔でなじられる。躊躇なく私の指先にキスを落として、長谷部くんは何度も何度も、私の名前を呼ぶ。そのたびに頷いて見せて、それで何かを思い出しかけたのに結局、心地よさに流されてどうでもよくなってしまう。ゆるゆると手の甲をなぞる体温がなんだか酷く優しくて力が抜けていく。
「今は」
「うん?」
「今は、苦しくはないですか」
「ん、大丈夫」
薄く濡れた瞳が、私をのぞき込む。おでことほっぺたと唇に、キスが落とされるのでされるがまんまになっている。「だきしめてもいいですか」と聞かれたので「濡れちゃうけど」と答えたのはやっぱり聞こえないふりをされてしまう。背中に回された掌も、肩口に押し付けられた長谷部くんの額も、なんだか随分と熱い。私がずっと、水の中にいるからかもしれない。そろそろと長谷部くんの背中に回した手は、指の半ばまでが半透明の鱗に覆われている。まるで魚か何かみたいに。
わたしどうなっちゃうのかなあ、と、つぶやいたのはほとんど声にならない位の音量だったのに、長谷部くんはきちんと私の言葉を拾って、「大丈夫」なんて、根拠もない事を言ってみせる。何が大丈夫だって言うんだろう。だけど、長谷部くんが「大丈夫」と口にした瞬間から、それを信じ込んでしまってるんだから私もたいがい馬鹿だ。どうしてこんなことになってしまったのかも、この先どうなってしまうのかも、何もかもがわからない。それなのにどうしてなんだろう、この場所がひどく心地いい。長谷部くんの硬い前髪が、濡れた肌に張り付く感触。縋りつくみたいにぎゅうぎゅうに抱きしめられながら小さく息を吐いた。小さい子供みたいに安心しきったまま、「ねむい」と声にした瞬間に本当に意識が遠くなる。照明の明かりが水面に反射してきらきらときれいだった。「ええ、安心してお休みください。俺が、ずっとそばにいますから」薄らと目を閉じたら、もういちど瞼に口づけが落とされた。おやすみなさい、とささやく声を聴いた後はもう思い出せない。ただ、眠気に押し流されて、死んだみたいに眠ってしまった。動物みたいに満ち足りた気持ちで、言葉も忘れてしまいそうなくらい、夢も見ないくらいにぐっすりと。
この場所が世界の全てだ。確かにその時、私は考えてしまった。ここに留まりさえすれば、彼をいつまでも引き留めておくことができる。長谷部くんのあの、綺麗な瞳の中に映っているのは私だけ。この人を泣かすことができるのも、安心させることができるのも、きっともう私だけに違いない。そう思ってしまった瞬間の、甘ったるい罪悪感と仄暗い満足感を覚えている。それから数日、これといった変化がないまま時間だけが過ぎ、私の肌を覆う鱗はじわじわと面積を増やしていく。ゆっくりと、でも、着実に。水に浸かっていないと覚束ない呼吸では、外を出歩くのもままならなかった。水の外に出て大丈夫なのはせいぜい五分、持って十分程度。呼吸困難を起こして血の混じった痰を吐く私を見て、長谷部くんは私を病院に連れ出すのを完全に諦めてしまったらしい。彼が何をどう誤魔化したのかはわからないけど、どうやら私は【休職中】という扱いになったようだった。一日のほとんどを水の中でまどろみ、日に数度だけ少量の食事を与えられて過ごす。睡眠薬を飲んでいたあの頃が嘘みたいに、私は眠ってばかりいる。静かで満ち足りた、この空間の中で。
私をここに残したまま外出をするのは、長谷部くんにとって「酷く耐え難いこと」のようだった。仕事に行くのも気が咎めていた様子で、「何かあったら必ず連絡をください。それがどんなに些細なことであっても」と思いつめた瞳で約束をさせられた。私はここにいるし、少なくとも消えたりなんてしない。そんなことを言い聞かせたところで、彼の不安は和らがない。「そりゃちょっと鱗は生えてるけど、まだ人間なわけだし。もしかしたらいつか魚になっちゃうのかもしれないけど」なんて、口を滑らせてしまった瞬間の、長谷部くんの顔ときたら。酷く傷ついた顔をした長谷部くんは、それでも責めるような言葉を一つも吐かないで、ただ私をきつく抱きしめた。その震える体を抱きしめ返しながら、最悪なことに、私は満足感で一杯になっていた。「安心していいよ。本当に魚になっちゃったところで、長谷部くんのことを忘れたりなんかしないから」慰めるふりをして吐いた呪いの言葉に、彼は黙って首を振った。それがたぶん、きっかけだったんだと思う。結局その日から長谷部くんはほぼ一歩も部屋から出ないで、私の傍に居るようになった。
「貴女の為ではないんです。これはきっと、俺の為にしていることなんです」と、長谷部くんは言う。私が消えないように、誰かに奪われないように、こうして「見張っている」のだと。
「正気の沙汰ではないと、自分でも思います。それでももう耐え難いのです。貴女の傍を離れることも、貴女から目を離してしまうことも。俺が出かけている間に貴女が誰かに奪われやしないかと、最近はそんなことばかりを考えていました。目を離した隙に貴女が誰かに攫われて、そうしたらきっと」きっと、あなたは俺を忘れてしまう。泣きそうに掠れた声が耳元に落ちる。ほとんど鱗に覆われた私の手。人間離れしたおぞましい有様のそこに、長谷部くんは口づけを落とす。気持ち悪くないの、なんて、聞くのはもう今更何だろうか。水の音と、ほのかに差し込む光。薄紫色の瞳は、こんな時だってやっぱり綺麗だ。ここに閉じ込めて、誰にも見せないで、自分だけの手元に置いておいてしまいたくなるくらいに。
「……それでもどうか、安心してください。ずっとずっと、俺が傍に居ます。貴女がどのような姿になったとしても、……本当に魚になって、俺の事を忘れたとしても、ずっと」あいしてます、懺悔のような祈りのようなその声を聴きながら、気が狂いそうなくらいの幸福感が体中を満たしていく。言葉を返すこともしないで目を閉じて、ただその声を聴いていた。恋人をこんな風に泣かせておいて、罪悪感を覚えるどころか喜んでしまうなんて最低だ。きっと私は地獄に落ちる。その時は長谷部くんも、一緒に地獄に落ちてくれるだろうか。
時計がないと却って人は規則的に生活をするようになる、というのは本当なのかもしれなかった。まるで時計みたいに規則的に、長谷部くんは私に【食事】を持ってくる。
「口を開けてください」促されるままに口を開いて、その指先にしゃぶりつく。甘ったるく舌の上で溶けるチョコレート。骨ばった指の感触が名残惜しくて、そのまま爪の間に舌を這わす。「、こら、」私を咎めるような声は、だけど、どこか甘ったるい色を含んで響く。「そういう悪戯は、終わってからにして下さい。食事はきちんと取って下さらないと」ふん、と、不服げに鼻を鳴らしてもう一度口を開ける。「貴女は本当に、俺を困らせるのがお上手だ」なんてお説教めいたことを言いながら、物欲しそうな視線が隠しきれていない長谷部くんは可愛い。素直にもう一度口を開けて、舌の上にチョコレートをもう一粒受けとった。滑らかで複雑な甘味は嫌いじゃない。だけど本当は、もっと別のものがほしいのに。
思えば思うほど欲しいのが止まらなくなって、ほとんど無理矢理にその手を引っ張った。バランスを崩したところで強引に口づけれれば、唾液の味にくらりと視界が揺れる。長谷部くんの、あじ。唇を離そうとしたら今度は向こうから口付けられた。欲情しきった声で名前を呼ばれて、返事の代わりに縋り付く。二人分の呼吸の音。鱗に覆われた場所すらも慈しむように、滑らかな指先がゆっくりと肌の上を滑る。押し殺すような吐息も、皮膚の下の骨の感触も、おかしくなりそうなくらいに愛おしくて気持ちいい。もっと、と、強請れば強請った分だけ与えられて、体温も何もかもがどろどろに溶けて混ざり合っていく。このまま一つになって、同じものになれるような錯覚。それは本当に錯覚、だっただろうか。自我も言葉も放棄して、狭い水槽の中で睦合うだけの魚たち。脳裏に浮かんだそれは、願望にしては妙に鮮明だ。
季節も時間も、昼も夜も関係なくなった空間で、二人きりで過ごしている。広い浴槽は、もう私のためだけのスペースになったみたいだ。シャワー室で体を洗う時と、着替えの時以外のほとんどすべての時間を、長谷部くんはこの場所で過ごしている。浴室の他にシャワー室がついてるなんて、さすが高級マンションだ。ユニットバスじゃなくて助かったね、そんなことを話したのはいつの事だったっけ。「私が眠ってる間何してるの」と聞けば、長谷部くんはひそやかな声でただ答える。「寝顔を見つめています。貴女の呼吸を確かめて、心臓の音を聞いて。それだけでも、存外に忙しいものですよ」
世界から隔絶された空間に二人きり。怠惰に眠っては目覚めて、少量の食事を与えられて、会話をして、体を重ねて、手を繋いでまた眠る。シンプルで満ち足りて、安全な生活。鱗に侵食されるにつれて、私の体は人間とは違う何かに変質していくようだった。口にするのは長谷部くんの手から与えられる、ほんの少しの果物とチョコレートだけ。それだけでも多すぎるくらい。普通なら餓死してもおかしくないような気がするのに、それでも普通に生きていけるんだから不思議だ。暖かいドリアに、雑炊にパン粥。舌で潰せるくらいまで煮込んだ塊肉やら柔らかくすりつぶした果物やら、長谷部くんはそれでも、随分と苦労して色々な食事を作ってくれた。最初の頃には頑張って食べようとしたものだけど、大半は体が受け付けなかった。
本当は食事すら必要なくなったのかもしれない。でも、それを言葉にするのはなんだかいけないことのような気がしていた。少しでも食事を摂って見せれば、長谷部くんはあからさまに安堵する。まるで雛の給餌みたいに、与えられる何もかもを飲み込んで咀嚼して、体の一部にする。それはどこか官能的で儀式めいた時間だった。彼に依存することを、彼のみによって生かされていることを、受け入れて証明するための儀式。そうして見せることが、罪滅ぼしになるような気がした。ここに彼を置き去りにしたまま、こんこんと眠りに落ちてしまうことの贖罪に。
ちらりと脳裏を掠めたのは夜の記憶だった。あの日、最初に鱗が生えてきた日のことすらも、もう随分昔に思えた。眠れない夜の静かさも恐怖も、もう鮮明に思い出すことはできそうもない。床に散らばった大量の本。何を思ってあんなにたくさん買い込んだんだっけ。そう、たしか、一人の時間は、ほとんどずっと本を読んで過ごしていた。物語に没入するのではなく、空白の時間を文字で埋めるために本を読んだ。飲んでも飲んでも効き目のなかった睡眠薬。暗闇の中に一人きりでいると、どうしようもなく恐ろしかった。
……あの時の私は一体、何を恐がっていたんだろう。暗闇が? 静寂が? それとも、帰れないと知ってしまうことが? ……でも帰るって、一体どこに?
ふと、目の前に影が差した。何かを思い出しかけたはずなのに、口づけられたらすぐに思考はあやふやになる。「……何を、お考えに?」質問を装っていたけど、答えを聞く気なんかないことくらい、目を見ればすぐにわかってしまう。むかしのこと、と答える前に唇をふさがれた。「にがさない」息もできないくらいのキスの合間、確かに長谷部くんは、そんな言葉をささやいた。「にがさない。もうどこにも、過去にも未来にも逃がさない。貴女の場所はここだけです。そうでしょう。そうだと、一言そうおっしゃってください。ここが、ここだけが、世界の全てだと」熱に浮かされたみたいな声。ばしゃん、と水が跳ねて二人を濡らしていく。にがさない。それはむしろ私の台詞のような気がするのに。反論の言葉も封じられて、蹂躙され征服されて、恐怖心も記憶も、これまでの自分を構成していたはずの何もかもが錆びついて腐食して、どろどろに溶けていく。
「逃がさない。ここにいてください。ここにいて、俺だけを必要としてください」つま先にも髪の毛にも首筋にも、体中あらゆるところに口づけが落ちる。愛してます愛してます愛してます、と、低い声が祈りのような切実さで囁く。その言葉を擦り込むように、指先は何度も何度も執拗に私を追い詰める。幸福も不幸も恐怖も安堵も、罪悪感も。それが長谷部くんの感情なのか、自分の感情なのかすらも曖昧に、ただすべてが輪郭をぼやかしていく。もう逃げられない。どこにも帰れないし、どこにも行けない。それは確かに不幸な事の筈だった。元の自分の形すらも思い出せず、言葉も記憶も置き去りにして、私は人間ではない何かに変わってしまおうとしている。恐ろしい事の筈だった。なのに今となっては、それこそが唯一、正しい事だと思えてしまう。
半透明の鱗に覆われた私の手を、滑らかな指先がなぞっていく。まるで悪い夢みたいな光景だ。だけど長谷部くんは恭しい仕草で、ただその行為を続ける。大切な宝物に触れるみたいに慎重な手つきと、言葉の何倍も雄弁で、臆面もなく甘ったるい瞳で。
「酷い事を、言っても良いですか」
「……うん?」
「俺はこの鱗に感謝することがあるんです。貴女をここに閉じ込めて、本当はずっと考えていました。これで漸く、貴女を手に入れることができた、と」
「閉じ込められてるのが自分の方だとは、思わなかったの」
「閉じ込められる、だなんて。いままで一言だって、俺を束縛するような言葉はくださらなかった癖に」
「束縛してほしかったの?」
「そうだったのかもしれません。俺は試されたかったんです。貴女に苦しめられて煩わされて、それで証明したかった。俺の何もかもがすべて、貴女のものであることを。貴女を所有したいのと同じくらい、俺は貴女に所有されたかった。……ですから、現状を喜ばしいと思ってしまう。貴女をここに閉じ込めて、俺の思考も、感情も、体も、何もかもを貴女の為だけに使えることが、嬉しくて堪らなくなってしまう」
「……、そんなこと言ってると、感染するかもしれないよ」
「感染する? 鱗が、ですか? 何を根拠にそのようなことを?」
「や、根拠はないけど。……鱗が生えてくる前の私も、似たような事を考えてた気がするから」
「似たようなこと、とは?」
「…………、長谷部くんを、この場所に閉じ込めておけたらって」
「……、はは。そう、ですか」
藤色の瞳。水色と薄い薄い紫がまじりあった、複雑な色の長谷部くんの瞳が、とろりとした光をたたえて笑う。こらえきれないみたいに瞬きをして、次の瞬間には狂気じみた強さで私を射抜く。「それが本当なら、こんなに素敵なことはありません。そうでしょう」素敵なこと。そうだろうか、と思うのに、長谷部くんがそれを口にした瞬間にはもう、それは抗いがたく魅力的な事のように思えてきてしまう。
「俺にも鱗が生えれば良い。貴女だけを必要として、貴女だけによって生かされる存在になれるのなら。……そしていつかは、水の中でどろどろに溶けて同じものになれるのなら。はは、素敵です。そしたらきっと、もう誰にも貴女を奪われない。記憶にも未来にも過去にも、貴女自身にすらも」ほとんど感覚のなくなった指先でも、柔らかい唇の感触だけは鮮明に分かった。まるで忠誠を誓うみたいな仕草で、何度も何度も口づけが落とされる。
「もう少し経ったら、水槽を誂えようと思うんです。俺と貴女の為だけの、美しい水槽を」
恍惚とした声。肌に馴染む水の心地よさに、長谷部くんの体温。怖いくらいに満ち足りてしまったまま考える。ここがきっと、行き止まりだ。ガラスの水槽の中、睦会うだけの魚たち。瞼を閉じれば、いつか見た光景がちらついた。遠くないいつか、必ず来るその日の事を思いながら、今はただ眠りの中に落ちていく。
玄関の鍵が、慌ただしく開けられる音を聞いた。長谷部くんの声が私の名前を呼んでくれたような気がするけど、それももう気のせいかもしれなかった。グレーの靴下を履いた足が、床に散らばる錠剤を踏みつけてペキ、と軽い音を立てた。明るくなったり暗くなったり、視界はどうにもおぼろげだった。水彩画みたいに滲んだ風景の中で自分の指先をながめている。いびつに切りそろえられた爪が、まるで鱗みたいにキラキラと光っていた。うろこ。うろこだ。うろこが、生えてる。
誰かの(多分長谷部くんの)手に揺さぶられて、何度も何度も名前を呼ばれた。はせべくん、と、答えたはずの私の声は、なんだか揺れて掠れて不明瞭で、だからやっぱり水の中にいるみたいだった。痛くて苦しくて何も考えられなくて、ただ長谷部くんの肩にしがみついた。いたい、くるしい、みず、と、つぶやいた声に「水ですね」と泣きそうな声が返ってくる。息ができなくて、ああそうか魚ってエラ呼吸だもんな、なんてアホな事を考えていた。無理やりに上向かされたら泣きそうに潤んだ瞳が私をのぞき込む。薄紫色が綺麗だ。それだけ思って、もう一度はせべくん、と名前を呼んだ。そこからの記憶がない。気が付いたら私は長谷部くんちのマンションのやたらとでっかい浴槽で、肩までどっぷり水に浸かっていた。
▽
「おはようございます」
「……はよ……」
「ご気分は」
「なんか……何だろう……よくわからないけど」
「けど?」
「悪くは、ない、……気がする」
「それは何よりです。……あの後の事を、覚えていらっしゃいますか」
「あの後、……あの、あと……?」
ぱしゃん、と。足を動かすたびに魚が跳ねるみたいな音がする。どうにも変な感じだった。相変わらず頭はぼんやりしていて、何一つだって現実感がなかった。思い出しながらもなんだか手持無沙汰で、退屈しのぎに水面を蹴り上げてみる。ぱしゃん、ぱしゃん。水の中でゆれるワンピースの、裾から覗いた足の膝くらいまでが鱗に覆われている。幻覚でも見てるんだろうか。完全に常軌を逸した自分の体を、だけど、なんだか普通の事のように受け止めている自分がいた。「あの後、貴女が」一方長谷部くんはと言えば、苦虫をかみつぶしたような顔で懺悔するみたいな声を出す。
「水が欲しい、足りない、とおっしゃって。それで」
「ああ、それで連れてきてくれたの、ここまで」
「……すみません」
「長谷部くんちお風呂場広いもんねぇ」
「……すみません。水に浸かっていないと、貴女が死んでしまうような気がして。本来ならすぐ病院に連れていくべきだったのに」
「謝ることないのに」
「……でも、」
「いやそもそもこれってさあ、病院で何とかなるもんなのかなあ」
「原因は、思い当たりますか」
「わかんないけど、副作用かなあ、薬の」
「薬とは?」
「睡眠薬」
そんなお葬式みたいな顔しなくても。
すいみんやく、と、私の言葉を繰り返して長谷部くんは、「眠れていなかったんですか」と更に死にそうな声を出す。予想外のところに飛んできた質問にどう答えていいかもわからなくて、うん、ええと、まあ、なんて、煮え切らない返事をしてしまう。眠れなかった、ような気がするんだけど、今となってはもう思い出せないのだ。何を思って睡眠薬なんか飲んだのか、それでどうしてこんなことになったのか、そもそもなんであの時、長谷部くんに電話なんか掛けてしまったのかもわからない。ただ、痛みと息苦しさに紛れて、奇妙な安堵感を覚えていたような気もする。
「すみません」
「だから、謝らなくたっていいのに」
「いいえ。だって、貴女が苦しんでいる時に、傍についていて差し上げられなかった」
ぱしゃん。水の中で、長谷部くんの掌が私の手を摑まえる。濡れるよ、と声を出したのには聞こえないふりをされた。うろこに覆われた指先でも、体温は感じるんだから不思議だ。「うろこ、気持ち悪くないの」一応聞いてみたら「バカなことを言わないでください」なんて、泣きそうな顔でなじられる。躊躇なく私の指先にキスを落として、長谷部くんは何度も何度も、私の名前を呼ぶ。そのたびに頷いて見せて、それで何かを思い出しかけたのに結局、心地よさに流されてどうでもよくなってしまう。ゆるゆると手の甲をなぞる体温がなんだか酷く優しくて力が抜けていく。
「今は」
「うん?」
「今は、苦しくはないですか」
「ん、大丈夫」
薄く濡れた瞳が、私をのぞき込む。おでことほっぺたと唇に、キスが落とされるのでされるがまんまになっている。「だきしめてもいいですか」と聞かれたので「濡れちゃうけど」と答えたのはやっぱり聞こえないふりをされてしまう。背中に回された掌も、肩口に押し付けられた長谷部くんの額も、なんだか随分と熱い。私がずっと、水の中にいるからかもしれない。そろそろと長谷部くんの背中に回した手は、指の半ばまでが半透明の鱗に覆われている。まるで魚か何かみたいに。
わたしどうなっちゃうのかなあ、と、つぶやいたのはほとんど声にならない位の音量だったのに、長谷部くんはきちんと私の言葉を拾って、「大丈夫」なんて、根拠もない事を言ってみせる。何が大丈夫だって言うんだろう。だけど、長谷部くんが「大丈夫」と口にした瞬間から、それを信じ込んでしまってるんだから私もたいがい馬鹿だ。どうしてこんなことになってしまったのかも、この先どうなってしまうのかも、何もかもがわからない。それなのにどうしてなんだろう、この場所がひどく心地いい。長谷部くんの硬い前髪が、濡れた肌に張り付く感触。縋りつくみたいにぎゅうぎゅうに抱きしめられながら小さく息を吐いた。小さい子供みたいに安心しきったまま、「ねむい」と声にした瞬間に本当に意識が遠くなる。照明の明かりが水面に反射してきらきらときれいだった。「ええ、安心してお休みください。俺が、ずっとそばにいますから」薄らと目を閉じたら、もういちど瞼に口づけが落とされた。おやすみなさい、とささやく声を聴いた後はもう思い出せない。ただ、眠気に押し流されて、死んだみたいに眠ってしまった。動物みたいに満ち足りた気持ちで、言葉も忘れてしまいそうなくらい、夢も見ないくらいにぐっすりと。
この場所が世界の全てだ。確かにその時、私は考えてしまった。ここに留まりさえすれば、彼をいつまでも引き留めておくことができる。長谷部くんのあの、綺麗な瞳の中に映っているのは私だけ。この人を泣かすことができるのも、安心させることができるのも、きっともう私だけに違いない。そう思ってしまった瞬間の、甘ったるい罪悪感と仄暗い満足感を覚えている。それから数日、これといった変化がないまま時間だけが過ぎ、私の肌を覆う鱗はじわじわと面積を増やしていく。ゆっくりと、でも、着実に。水に浸かっていないと覚束ない呼吸では、外を出歩くのもままならなかった。水の外に出て大丈夫なのはせいぜい五分、持って十分程度。呼吸困難を起こして血の混じった痰を吐く私を見て、長谷部くんは私を病院に連れ出すのを完全に諦めてしまったらしい。彼が何をどう誤魔化したのかはわからないけど、どうやら私は【休職中】という扱いになったようだった。一日のほとんどを水の中でまどろみ、日に数度だけ少量の食事を与えられて過ごす。睡眠薬を飲んでいたあの頃が嘘みたいに、私は眠ってばかりいる。静かで満ち足りた、この空間の中で。
私をここに残したまま外出をするのは、長谷部くんにとって「酷く耐え難いこと」のようだった。仕事に行くのも気が咎めていた様子で、「何かあったら必ず連絡をください。それがどんなに些細なことであっても」と思いつめた瞳で約束をさせられた。私はここにいるし、少なくとも消えたりなんてしない。そんなことを言い聞かせたところで、彼の不安は和らがない。「そりゃちょっと鱗は生えてるけど、まだ人間なわけだし。もしかしたらいつか魚になっちゃうのかもしれないけど」なんて、口を滑らせてしまった瞬間の、長谷部くんの顔ときたら。酷く傷ついた顔をした長谷部くんは、それでも責めるような言葉を一つも吐かないで、ただ私をきつく抱きしめた。その震える体を抱きしめ返しながら、最悪なことに、私は満足感で一杯になっていた。「安心していいよ。本当に魚になっちゃったところで、長谷部くんのことを忘れたりなんかしないから」慰めるふりをして吐いた呪いの言葉に、彼は黙って首を振った。それがたぶん、きっかけだったんだと思う。結局その日から長谷部くんはほぼ一歩も部屋から出ないで、私の傍に居るようになった。
「貴女の為ではないんです。これはきっと、俺の為にしていることなんです」と、長谷部くんは言う。私が消えないように、誰かに奪われないように、こうして「見張っている」のだと。
「正気の沙汰ではないと、自分でも思います。それでももう耐え難いのです。貴女の傍を離れることも、貴女から目を離してしまうことも。俺が出かけている間に貴女が誰かに奪われやしないかと、最近はそんなことばかりを考えていました。目を離した隙に貴女が誰かに攫われて、そうしたらきっと」きっと、あなたは俺を忘れてしまう。泣きそうに掠れた声が耳元に落ちる。ほとんど鱗に覆われた私の手。人間離れしたおぞましい有様のそこに、長谷部くんは口づけを落とす。気持ち悪くないの、なんて、聞くのはもう今更何だろうか。水の音と、ほのかに差し込む光。薄紫色の瞳は、こんな時だってやっぱり綺麗だ。ここに閉じ込めて、誰にも見せないで、自分だけの手元に置いておいてしまいたくなるくらいに。
「……それでもどうか、安心してください。ずっとずっと、俺が傍に居ます。貴女がどのような姿になったとしても、……本当に魚になって、俺の事を忘れたとしても、ずっと」あいしてます、懺悔のような祈りのようなその声を聴きながら、気が狂いそうなくらいの幸福感が体中を満たしていく。言葉を返すこともしないで目を閉じて、ただその声を聴いていた。恋人をこんな風に泣かせておいて、罪悪感を覚えるどころか喜んでしまうなんて最低だ。きっと私は地獄に落ちる。その時は長谷部くんも、一緒に地獄に落ちてくれるだろうか。
時計がないと却って人は規則的に生活をするようになる、というのは本当なのかもしれなかった。まるで時計みたいに規則的に、長谷部くんは私に【食事】を持ってくる。
「口を開けてください」促されるままに口を開いて、その指先にしゃぶりつく。甘ったるく舌の上で溶けるチョコレート。骨ばった指の感触が名残惜しくて、そのまま爪の間に舌を這わす。「、こら、」私を咎めるような声は、だけど、どこか甘ったるい色を含んで響く。「そういう悪戯は、終わってからにして下さい。食事はきちんと取って下さらないと」ふん、と、不服げに鼻を鳴らしてもう一度口を開ける。「貴女は本当に、俺を困らせるのがお上手だ」なんてお説教めいたことを言いながら、物欲しそうな視線が隠しきれていない長谷部くんは可愛い。素直にもう一度口を開けて、舌の上にチョコレートをもう一粒受けとった。滑らかで複雑な甘味は嫌いじゃない。だけど本当は、もっと別のものがほしいのに。
思えば思うほど欲しいのが止まらなくなって、ほとんど無理矢理にその手を引っ張った。バランスを崩したところで強引に口づけれれば、唾液の味にくらりと視界が揺れる。長谷部くんの、あじ。唇を離そうとしたら今度は向こうから口付けられた。欲情しきった声で名前を呼ばれて、返事の代わりに縋り付く。二人分の呼吸の音。鱗に覆われた場所すらも慈しむように、滑らかな指先がゆっくりと肌の上を滑る。押し殺すような吐息も、皮膚の下の骨の感触も、おかしくなりそうなくらいに愛おしくて気持ちいい。もっと、と、強請れば強請った分だけ与えられて、体温も何もかもがどろどろに溶けて混ざり合っていく。このまま一つになって、同じものになれるような錯覚。それは本当に錯覚、だっただろうか。自我も言葉も放棄して、狭い水槽の中で睦合うだけの魚たち。脳裏に浮かんだそれは、願望にしては妙に鮮明だ。
季節も時間も、昼も夜も関係なくなった空間で、二人きりで過ごしている。広い浴槽は、もう私のためだけのスペースになったみたいだ。シャワー室で体を洗う時と、着替えの時以外のほとんどすべての時間を、長谷部くんはこの場所で過ごしている。浴室の他にシャワー室がついてるなんて、さすが高級マンションだ。ユニットバスじゃなくて助かったね、そんなことを話したのはいつの事だったっけ。「私が眠ってる間何してるの」と聞けば、長谷部くんはひそやかな声でただ答える。「寝顔を見つめています。貴女の呼吸を確かめて、心臓の音を聞いて。それだけでも、存外に忙しいものですよ」
世界から隔絶された空間に二人きり。怠惰に眠っては目覚めて、少量の食事を与えられて、会話をして、体を重ねて、手を繋いでまた眠る。シンプルで満ち足りて、安全な生活。鱗に侵食されるにつれて、私の体は人間とは違う何かに変質していくようだった。口にするのは長谷部くんの手から与えられる、ほんの少しの果物とチョコレートだけ。それだけでも多すぎるくらい。普通なら餓死してもおかしくないような気がするのに、それでも普通に生きていけるんだから不思議だ。暖かいドリアに、雑炊にパン粥。舌で潰せるくらいまで煮込んだ塊肉やら柔らかくすりつぶした果物やら、長谷部くんはそれでも、随分と苦労して色々な食事を作ってくれた。最初の頃には頑張って食べようとしたものだけど、大半は体が受け付けなかった。
本当は食事すら必要なくなったのかもしれない。でも、それを言葉にするのはなんだかいけないことのような気がしていた。少しでも食事を摂って見せれば、長谷部くんはあからさまに安堵する。まるで雛の給餌みたいに、与えられる何もかもを飲み込んで咀嚼して、体の一部にする。それはどこか官能的で儀式めいた時間だった。彼に依存することを、彼のみによって生かされていることを、受け入れて証明するための儀式。そうして見せることが、罪滅ぼしになるような気がした。ここに彼を置き去りにしたまま、こんこんと眠りに落ちてしまうことの贖罪に。
ちらりと脳裏を掠めたのは夜の記憶だった。あの日、最初に鱗が生えてきた日のことすらも、もう随分昔に思えた。眠れない夜の静かさも恐怖も、もう鮮明に思い出すことはできそうもない。床に散らばった大量の本。何を思ってあんなにたくさん買い込んだんだっけ。そう、たしか、一人の時間は、ほとんどずっと本を読んで過ごしていた。物語に没入するのではなく、空白の時間を文字で埋めるために本を読んだ。飲んでも飲んでも効き目のなかった睡眠薬。暗闇の中に一人きりでいると、どうしようもなく恐ろしかった。
……あの時の私は一体、何を恐がっていたんだろう。暗闇が? 静寂が? それとも、帰れないと知ってしまうことが? ……でも帰るって、一体どこに?
ふと、目の前に影が差した。何かを思い出しかけたはずなのに、口づけられたらすぐに思考はあやふやになる。「……何を、お考えに?」質問を装っていたけど、答えを聞く気なんかないことくらい、目を見ればすぐにわかってしまう。むかしのこと、と答える前に唇をふさがれた。「にがさない」息もできないくらいのキスの合間、確かに長谷部くんは、そんな言葉をささやいた。「にがさない。もうどこにも、過去にも未来にも逃がさない。貴女の場所はここだけです。そうでしょう。そうだと、一言そうおっしゃってください。ここが、ここだけが、世界の全てだと」熱に浮かされたみたいな声。ばしゃん、と水が跳ねて二人を濡らしていく。にがさない。それはむしろ私の台詞のような気がするのに。反論の言葉も封じられて、蹂躙され征服されて、恐怖心も記憶も、これまでの自分を構成していたはずの何もかもが錆びついて腐食して、どろどろに溶けていく。
「逃がさない。ここにいてください。ここにいて、俺だけを必要としてください」つま先にも髪の毛にも首筋にも、体中あらゆるところに口づけが落ちる。愛してます愛してます愛してます、と、低い声が祈りのような切実さで囁く。その言葉を擦り込むように、指先は何度も何度も執拗に私を追い詰める。幸福も不幸も恐怖も安堵も、罪悪感も。それが長谷部くんの感情なのか、自分の感情なのかすらも曖昧に、ただすべてが輪郭をぼやかしていく。もう逃げられない。どこにも帰れないし、どこにも行けない。それは確かに不幸な事の筈だった。元の自分の形すらも思い出せず、言葉も記憶も置き去りにして、私は人間ではない何かに変わってしまおうとしている。恐ろしい事の筈だった。なのに今となっては、それこそが唯一、正しい事だと思えてしまう。
半透明の鱗に覆われた私の手を、滑らかな指先がなぞっていく。まるで悪い夢みたいな光景だ。だけど長谷部くんは恭しい仕草で、ただその行為を続ける。大切な宝物に触れるみたいに慎重な手つきと、言葉の何倍も雄弁で、臆面もなく甘ったるい瞳で。
「酷い事を、言っても良いですか」
「……うん?」
「俺はこの鱗に感謝することがあるんです。貴女をここに閉じ込めて、本当はずっと考えていました。これで漸く、貴女を手に入れることができた、と」
「閉じ込められてるのが自分の方だとは、思わなかったの」
「閉じ込められる、だなんて。いままで一言だって、俺を束縛するような言葉はくださらなかった癖に」
「束縛してほしかったの?」
「そうだったのかもしれません。俺は試されたかったんです。貴女に苦しめられて煩わされて、それで証明したかった。俺の何もかもがすべて、貴女のものであることを。貴女を所有したいのと同じくらい、俺は貴女に所有されたかった。……ですから、現状を喜ばしいと思ってしまう。貴女をここに閉じ込めて、俺の思考も、感情も、体も、何もかもを貴女の為だけに使えることが、嬉しくて堪らなくなってしまう」
「……、そんなこと言ってると、感染するかもしれないよ」
「感染する? 鱗が、ですか? 何を根拠にそのようなことを?」
「や、根拠はないけど。……鱗が生えてくる前の私も、似たような事を考えてた気がするから」
「似たようなこと、とは?」
「…………、長谷部くんを、この場所に閉じ込めておけたらって」
「……、はは。そう、ですか」
藤色の瞳。水色と薄い薄い紫がまじりあった、複雑な色の長谷部くんの瞳が、とろりとした光をたたえて笑う。こらえきれないみたいに瞬きをして、次の瞬間には狂気じみた強さで私を射抜く。「それが本当なら、こんなに素敵なことはありません。そうでしょう」素敵なこと。そうだろうか、と思うのに、長谷部くんがそれを口にした瞬間にはもう、それは抗いがたく魅力的な事のように思えてきてしまう。
「俺にも鱗が生えれば良い。貴女だけを必要として、貴女だけによって生かされる存在になれるのなら。……そしていつかは、水の中でどろどろに溶けて同じものになれるのなら。はは、素敵です。そしたらきっと、もう誰にも貴女を奪われない。記憶にも未来にも過去にも、貴女自身にすらも」ほとんど感覚のなくなった指先でも、柔らかい唇の感触だけは鮮明に分かった。まるで忠誠を誓うみたいな仕草で、何度も何度も口づけが落とされる。
「もう少し経ったら、水槽を誂えようと思うんです。俺と貴女の為だけの、美しい水槽を」
恍惚とした声。肌に馴染む水の心地よさに、長谷部くんの体温。怖いくらいに満ち足りてしまったまま考える。ここがきっと、行き止まりだ。ガラスの水槽の中、睦会うだけの魚たち。瞼を閉じれば、いつか見た光景がちらついた。遠くないいつか、必ず来るその日の事を思いながら、今はただ眠りの中に落ちていく。