長谷部
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もめごとは苦手だ。交渉事なんてもっと苦手だ。
相手の主義主張とこちらの主義主張を勘案して、折衷して、何とか折り合いをつける。双方納得の上の和解。そんなものが本当にあるんだろうか。こちらの事情はあちらの事情と相いれないし、話を聞いていれば大抵、先方には先方の、引くに引けない理由があることが分かってしまう。そうなるともうだめで、議論は平行線。強く出ることが苦手な私は、この段に来ると大抵言葉に詰まってしまう。そんな時は隣の長谷部くんがいつも耳打ちをするのだ。「主、あとは俺が」と。
▽
「終わりましたよ」
長谷部くんが出てきたのは、それから一時間後の事だった。会議室の外の喫茶スペース。私の向かいに腰かけた彼は、いつも通りに店員を呼びつけ、いつも通りに注文を済ませる。イチゴパフェ(これは長谷部くんのぶん)とチョコレートパフェ(これは私のぶん)、それから、温かいアールグレイを二つ。【会議】が終わった時のお決まりの流れだった。「人前でお話をすることが苦手な主が頑張ったのです。多少のご褒美くらいあったって良いではないですか」というのが長谷部くんの言い分だった。それで、事が済んだ後は毎回、ここで甘いものを食べて帰るのがお決まりになっている。真っ赤なソースがべっとりと掛かった濃厚なイチゴパフェは、長谷部くんのお気に入りの様だった。仄かに血の匂いを漂わせる体で、彼はそれを幸せそうに平らげる。ゆっくり、じっくり、たっぷり、貪欲に。
「どうだった?」
「ええ、全ていつも通りに。主の望むようにしてまいりました」
穏やかにほほ笑む口元の三センチ上、頬のあたりにまだ返り血が残っている。私の視線に気づいた長谷部くんは照れくさそうに「失礼いたしました」とほほ笑み、それをナプキンで綺麗に拭った。「ごく平和的に話し合い、いつも通りほぼ全員に【ご納得】いただけました。残念ながら交渉決裂となった方が二名ほどいらっしゃいましたが、そちらにも俺の方からお話を」いつも通りの会議。いつも通りの会話。いつも通りの、仕事終わりのルーティーン。交渉が煮詰まってきた辺りで私は席を立ち、喫茶室で時間をつぶす。一時間もしないうちに長谷部くんは全てを丸く収めて私のところに帰って来る。先方は会議が終わるとほぼ同時くらいに全員お引き取りになっていて、会議室は不自然な位に綺麗に片付いている。私が彼らと言葉を交わす日はもう永遠にこない。
「万事いつも通り順調です。主がお考えになった通り、ごく平和に事は進みました。先方には全面的に、こちらの要求を呑んでいただけましたよ。勿論全てご納得の上です。異を唱える者は誰一人おりません」
「うん、いつもありがとう」
「いいえ、当然の事です。それより、疲れましたよね。今日はゆっくりお風呂に入って、早めにお休みください。明日は一日、お仕事はなしにしましょうね。主の好きな事だけする日にしましょう。今日頑張った分、少しでも羽を伸ばして頂かないと」
子供に言い聞かせるような優し気な口調。「うん、そうする」と素直にうなずけば、彼は満足げな笑みをこぼす。長谷部くんは過保護だ。特に今日みたいな仕事をこなした日には、普段に輪をかけて過保護になる。この仕事を振られたばかりの頃の事を思うと、それはきっと無理もない事だ。あの頃の私は、いきなり押し付けられた厄介ごとを抱えきれずにぼろぼろになっていたのだから。
組織の統制と治安維持強化、と言えば聞こえはいいけれど、要するにこれは、政府内の派閥争いの調整役だ。最近では組織内での対立も多くなってきて、一歩本丸の外に出れば審神者同士ですら誰が敵なのかわからないような状態だった。これ以上の内部分裂を避けるための会議と交渉。生臭い人間関係や利害の対立に、どうしようもない主義主張の不一致。そんなの、ことなかれ主義で過ごしてきた自分には重すぎる仕事だった。悪く思われるようなことは言いたくないし、嫌われるようなことはしたくない。自分が周りにとっていかに取るに足らない存在なのか、突き付けられるのだって勿論厭だ。過剰で卑屈な自意識は裏目にでて、最初の仕事は目も当てられない程に失敗した。そのあとも交渉が決裂するたびに叱責されて、与えられたプレッシャーはそのまんまストレスに変わっていった。眠れない時間は増えて、そのうちに外に出るだけで誰かの視線に怯えるようにすらなった。長谷部くんは、目に見えてやつれていく私を見ていられなかったんだろう。いつからかこの仕事をする時には、必ず彼が同行してくれるようになった。最初はただ付き添うだけだった。そのうちに控えめに助言をくれるようになって、何回か仕事をこなすうちに今度は私の代わりに、交渉事を行ってくれるようにすらなった。場が煮詰まってきてどうにもならなくなると、長谷部くんは私に耳打ちをする。「お疲れでしょう。主は少し休憩をなさってください。あとは俺が」と。
「貴方が思うよりも、もっとずっと単純な事なのですよ」、長谷部くんは私に教えてくれた。その瞳に膨大な、殆ど暴力的と言っていいくらいの愛だけをたっぷりと浮かべて。「煩わしく思うことなどありません。大丈夫、すぐにお判りになるはずです。世界はもう、貴方の為だけに存在するのですから」と。実際その通りだったのだ。私はその事をきちんと学んだ。物事を以前よりもずっとシンプルに、明快にする為の方法を。そのおかげで最近は、拍子抜けするほどスムーズに状況が回りだしている。
血と肉の詰まった塊が切り落とされて、床にたたきつけられる音。扉越しでもかすかに聞こえる断末魔。私を迎えに来る長谷部くんはほんの少しだけ瞳をぎらつかせながら、それでもごく抑えた声で穏やかに、事の成り行きを報告する。万事主のお望みのままに。それがいつもの決まり文句だった。その言葉を聞くたびに何だか拍子抜けしたような、おかしな安堵感が体中に広がる。本当に不思議なくらいだ。何をあんなに気に病んでいたんだっけ。何でこんな簡単なことが分からなかったんだっけ。こらえきれなくなって漏らした笑い声に、向いの長谷部くんが視線を上げる。
「どうしましたか」、と言葉をかたどる唇はいつもより赤くなまめかしい。質問には答えないまま「あ」と口を開いてみたら、大きくてつやつやのイチゴを一粒、舌の上に載せて貰えた。仄かに、だけど隠しようもなく漂い続ける血の匂い。扉の向こうで行われた一部始終を想像しながら、ぷちぷちと口の中の果肉をつぶす。柔らかい肉に、ずぶずぶと歯が沈み込む。それから、血のように夥しくあふれる果汁が、口の中をたっぷりと満たす。きっとこんな風に、あっけなく事は済んだんだろう。柔らかく熟れ切った果物を、舌の上で潰してしまうみたいに。小さな小さなありんこを、靴の裏ですりつぶすみたいに。何のためらいも、罪悪感すらも感じずに、長谷部くんはそれを終わらせただろう。脅しも懇願も、全ての言葉は意味をなさない。きれいな瞳には私への忠誠心だけが浮かんでいる。返り血を浴びてうっとりと目を閉じて、それから、最後にこんな言葉をつぶやくんだろう。
「……言ったでしょう。貴方に仇なす悉くは、俺が血祭りにあげるのです」
まるで私の思考を読んでいたみたいにぶつけられた言葉に、今度こそはっきりと笑ってしまう。少しばかりわざとらしく「何の話をしてるの?」と聞いてみれば、冗談めかした軽い声で「たとえ話ですよ。貴方の意に反するものなど、この世にあってはならないでしょう」と返される。「そんな風に言わないで。ちゃんと話せば、きっと分かってもらえるはずなのに」こんなの、本心からかけ離れた建前だ。そんなことは勿論十二分にばれてしまっているだろう。「ええ、そうですとも」なんて気のない返事とともに差し出された二つ目のイチゴを、素直に口に含んで咀嚼する。真っ白な手袋に包まれた手が、ふと私の頬に伸ばされる。
「ですから、これは例え話に過ぎませんよ。お優しい俺の主が心を痛めるようなことが、決してあってはいけませんからね」隠しても隠し切れない興奮。低く吐き出された息は、まるで情事の時みたいに甘ったるい。壊れ物みたいに私に触れるこの手が、さっきまで何をしていたのか。その事を想像するだけで、脳みそが痺れたみたいに熱くなる。「もう二度と、貴方のお心が陰らないようにして差し上げなければと思ったんです。簡単な事だ、過ちは正すためにある。俺はただ、その為にあらゆる手を尽くそうとしているのです。勿論全ては、仮定の話に過ぎませんがね。主がご心配するような事はありませんよ。全ては平和に、円満に収まっているのですから」喫茶室に掛かるBGMも、降り注ぐ日差しも、何もかもが柔らかく優しく、私を包み込む。あの頃感じていた恐怖も不安も跡形もなく溶けてしまって、世界はとろとろと色を変えていく。
何もかも変わってしまった。私も、世界も、何もかもが、元の形なんてまるで思い出せない位にすっかり。だけどこれはきっと、正しい事に違いないのだ。だってその証拠に、長谷部くんはこんなにも幸せそうに、私の傍で笑っていてくれるじゃないか。「全ては貴方のお望みのままになるのです。当然でしょう。もうずっと前から、世界は貴方の為だけに存在するのですから」歌うように囁く声に泣きそうになって、どうしようもなくて笑う。きっとそうなんだろう。彼がそう言うのなら、きっとこれこそが、私のあるべき姿だったのだ。満ち足りた気持ちで紅茶を飲む。ほのかな血の匂いが、惨劇の気配が、断末魔の名残が、アールグレイの風味にとけて消えていく。長谷部くんは笑って、三つ目のイチゴを差し出した。不自然な位に真っ赤に光る、毒々しいほどにおいしそうな春の果物。「どうぞ」と促す声は、催眠術のように私をせかす。口の中一杯にそれを頬張れば、かすかなめまいで視界が揺れた。
相手の主義主張とこちらの主義主張を勘案して、折衷して、何とか折り合いをつける。双方納得の上の和解。そんなものが本当にあるんだろうか。こちらの事情はあちらの事情と相いれないし、話を聞いていれば大抵、先方には先方の、引くに引けない理由があることが分かってしまう。そうなるともうだめで、議論は平行線。強く出ることが苦手な私は、この段に来ると大抵言葉に詰まってしまう。そんな時は隣の長谷部くんがいつも耳打ちをするのだ。「主、あとは俺が」と。
▽
「終わりましたよ」
長谷部くんが出てきたのは、それから一時間後の事だった。会議室の外の喫茶スペース。私の向かいに腰かけた彼は、いつも通りに店員を呼びつけ、いつも通りに注文を済ませる。イチゴパフェ(これは長谷部くんのぶん)とチョコレートパフェ(これは私のぶん)、それから、温かいアールグレイを二つ。【会議】が終わった時のお決まりの流れだった。「人前でお話をすることが苦手な主が頑張ったのです。多少のご褒美くらいあったって良いではないですか」というのが長谷部くんの言い分だった。それで、事が済んだ後は毎回、ここで甘いものを食べて帰るのがお決まりになっている。真っ赤なソースがべっとりと掛かった濃厚なイチゴパフェは、長谷部くんのお気に入りの様だった。仄かに血の匂いを漂わせる体で、彼はそれを幸せそうに平らげる。ゆっくり、じっくり、たっぷり、貪欲に。
「どうだった?」
「ええ、全ていつも通りに。主の望むようにしてまいりました」
穏やかにほほ笑む口元の三センチ上、頬のあたりにまだ返り血が残っている。私の視線に気づいた長谷部くんは照れくさそうに「失礼いたしました」とほほ笑み、それをナプキンで綺麗に拭った。「ごく平和的に話し合い、いつも通りほぼ全員に【ご納得】いただけました。残念ながら交渉決裂となった方が二名ほどいらっしゃいましたが、そちらにも俺の方からお話を」いつも通りの会議。いつも通りの会話。いつも通りの、仕事終わりのルーティーン。交渉が煮詰まってきた辺りで私は席を立ち、喫茶室で時間をつぶす。一時間もしないうちに長谷部くんは全てを丸く収めて私のところに帰って来る。先方は会議が終わるとほぼ同時くらいに全員お引き取りになっていて、会議室は不自然な位に綺麗に片付いている。私が彼らと言葉を交わす日はもう永遠にこない。
「万事いつも通り順調です。主がお考えになった通り、ごく平和に事は進みました。先方には全面的に、こちらの要求を呑んでいただけましたよ。勿論全てご納得の上です。異を唱える者は誰一人おりません」
「うん、いつもありがとう」
「いいえ、当然の事です。それより、疲れましたよね。今日はゆっくりお風呂に入って、早めにお休みください。明日は一日、お仕事はなしにしましょうね。主の好きな事だけする日にしましょう。今日頑張った分、少しでも羽を伸ばして頂かないと」
子供に言い聞かせるような優し気な口調。「うん、そうする」と素直にうなずけば、彼は満足げな笑みをこぼす。長谷部くんは過保護だ。特に今日みたいな仕事をこなした日には、普段に輪をかけて過保護になる。この仕事を振られたばかりの頃の事を思うと、それはきっと無理もない事だ。あの頃の私は、いきなり押し付けられた厄介ごとを抱えきれずにぼろぼろになっていたのだから。
組織の統制と治安維持強化、と言えば聞こえはいいけれど、要するにこれは、政府内の派閥争いの調整役だ。最近では組織内での対立も多くなってきて、一歩本丸の外に出れば審神者同士ですら誰が敵なのかわからないような状態だった。これ以上の内部分裂を避けるための会議と交渉。生臭い人間関係や利害の対立に、どうしようもない主義主張の不一致。そんなの、ことなかれ主義で過ごしてきた自分には重すぎる仕事だった。悪く思われるようなことは言いたくないし、嫌われるようなことはしたくない。自分が周りにとっていかに取るに足らない存在なのか、突き付けられるのだって勿論厭だ。過剰で卑屈な自意識は裏目にでて、最初の仕事は目も当てられない程に失敗した。そのあとも交渉が決裂するたびに叱責されて、与えられたプレッシャーはそのまんまストレスに変わっていった。眠れない時間は増えて、そのうちに外に出るだけで誰かの視線に怯えるようにすらなった。長谷部くんは、目に見えてやつれていく私を見ていられなかったんだろう。いつからかこの仕事をする時には、必ず彼が同行してくれるようになった。最初はただ付き添うだけだった。そのうちに控えめに助言をくれるようになって、何回か仕事をこなすうちに今度は私の代わりに、交渉事を行ってくれるようにすらなった。場が煮詰まってきてどうにもならなくなると、長谷部くんは私に耳打ちをする。「お疲れでしょう。主は少し休憩をなさってください。あとは俺が」と。
「貴方が思うよりも、もっとずっと単純な事なのですよ」、長谷部くんは私に教えてくれた。その瞳に膨大な、殆ど暴力的と言っていいくらいの愛だけをたっぷりと浮かべて。「煩わしく思うことなどありません。大丈夫、すぐにお判りになるはずです。世界はもう、貴方の為だけに存在するのですから」と。実際その通りだったのだ。私はその事をきちんと学んだ。物事を以前よりもずっとシンプルに、明快にする為の方法を。そのおかげで最近は、拍子抜けするほどスムーズに状況が回りだしている。
血と肉の詰まった塊が切り落とされて、床にたたきつけられる音。扉越しでもかすかに聞こえる断末魔。私を迎えに来る長谷部くんはほんの少しだけ瞳をぎらつかせながら、それでもごく抑えた声で穏やかに、事の成り行きを報告する。万事主のお望みのままに。それがいつもの決まり文句だった。その言葉を聞くたびに何だか拍子抜けしたような、おかしな安堵感が体中に広がる。本当に不思議なくらいだ。何をあんなに気に病んでいたんだっけ。何でこんな簡単なことが分からなかったんだっけ。こらえきれなくなって漏らした笑い声に、向いの長谷部くんが視線を上げる。
「どうしましたか」、と言葉をかたどる唇はいつもより赤くなまめかしい。質問には答えないまま「あ」と口を開いてみたら、大きくてつやつやのイチゴを一粒、舌の上に載せて貰えた。仄かに、だけど隠しようもなく漂い続ける血の匂い。扉の向こうで行われた一部始終を想像しながら、ぷちぷちと口の中の果肉をつぶす。柔らかい肉に、ずぶずぶと歯が沈み込む。それから、血のように夥しくあふれる果汁が、口の中をたっぷりと満たす。きっとこんな風に、あっけなく事は済んだんだろう。柔らかく熟れ切った果物を、舌の上で潰してしまうみたいに。小さな小さなありんこを、靴の裏ですりつぶすみたいに。何のためらいも、罪悪感すらも感じずに、長谷部くんはそれを終わらせただろう。脅しも懇願も、全ての言葉は意味をなさない。きれいな瞳には私への忠誠心だけが浮かんでいる。返り血を浴びてうっとりと目を閉じて、それから、最後にこんな言葉をつぶやくんだろう。
「……言ったでしょう。貴方に仇なす悉くは、俺が血祭りにあげるのです」
まるで私の思考を読んでいたみたいにぶつけられた言葉に、今度こそはっきりと笑ってしまう。少しばかりわざとらしく「何の話をしてるの?」と聞いてみれば、冗談めかした軽い声で「たとえ話ですよ。貴方の意に反するものなど、この世にあってはならないでしょう」と返される。「そんな風に言わないで。ちゃんと話せば、きっと分かってもらえるはずなのに」こんなの、本心からかけ離れた建前だ。そんなことは勿論十二分にばれてしまっているだろう。「ええ、そうですとも」なんて気のない返事とともに差し出された二つ目のイチゴを、素直に口に含んで咀嚼する。真っ白な手袋に包まれた手が、ふと私の頬に伸ばされる。
「ですから、これは例え話に過ぎませんよ。お優しい俺の主が心を痛めるようなことが、決してあってはいけませんからね」隠しても隠し切れない興奮。低く吐き出された息は、まるで情事の時みたいに甘ったるい。壊れ物みたいに私に触れるこの手が、さっきまで何をしていたのか。その事を想像するだけで、脳みそが痺れたみたいに熱くなる。「もう二度と、貴方のお心が陰らないようにして差し上げなければと思ったんです。簡単な事だ、過ちは正すためにある。俺はただ、その為にあらゆる手を尽くそうとしているのです。勿論全ては、仮定の話に過ぎませんがね。主がご心配するような事はありませんよ。全ては平和に、円満に収まっているのですから」喫茶室に掛かるBGMも、降り注ぐ日差しも、何もかもが柔らかく優しく、私を包み込む。あの頃感じていた恐怖も不安も跡形もなく溶けてしまって、世界はとろとろと色を変えていく。
何もかも変わってしまった。私も、世界も、何もかもが、元の形なんてまるで思い出せない位にすっかり。だけどこれはきっと、正しい事に違いないのだ。だってその証拠に、長谷部くんはこんなにも幸せそうに、私の傍で笑っていてくれるじゃないか。「全ては貴方のお望みのままになるのです。当然でしょう。もうずっと前から、世界は貴方の為だけに存在するのですから」歌うように囁く声に泣きそうになって、どうしようもなくて笑う。きっとそうなんだろう。彼がそう言うのなら、きっとこれこそが、私のあるべき姿だったのだ。満ち足りた気持ちで紅茶を飲む。ほのかな血の匂いが、惨劇の気配が、断末魔の名残が、アールグレイの風味にとけて消えていく。長谷部くんは笑って、三つ目のイチゴを差し出した。不自然な位に真っ赤に光る、毒々しいほどにおいしそうな春の果物。「どうぞ」と促す声は、催眠術のように私をせかす。口の中一杯にそれを頬張れば、かすかなめまいで視界が揺れた。