長谷部
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カシャン、と、安っぽい音が部屋の中に響く。午後三時の生ぬるい日差が、部屋の中を明るく照らす。長谷部くんはほんの少しだけ目を丸くして、「これは?」と訪ねただけだった。「首輪。ネットで買った。鍵は私が持ってる。私しか開けられない」答えた声はかすれて、喉に引っかかって、まともな音の形にならなかった。それなのに彼はすべてを正確に聞き取って、ただうなずいてくれる。「そうですか」と、ごくごく穏やかな声のトーンも、臆面なく愛おしげなその視線も、作り物みたいに綺麗に整った顔も、何もかもが私の脳みそをかき乱す。
「そうですか、じゃ、なくてさぁ」そんな呑気な顔なんか、している場合じゃないのに。酷いことをしている自覚はあった。おかしくなっている自覚だって、十分すぎるくらい持っていた。拒否されれば後戻りができたのかもしれない。嫌われるなら、それはそれで悪くなかったのに。それなのに彼はまだ、私を許してくれるつもりでいるらしい。
「では、何と言えば良いでしょうか。……ああ、お礼を言うべきですよね。すみません、俺としたことが。あんまり嬉しかったものですから」細長い指先でゆっくりと合皮の革をなぞってから、長谷部くんがとろりと微笑む。「だって仕方ないじゃないですか。漸く貴方が、俺をご自分の物にして下さるんですから」だから、そうじゃないのに。「ねぇ、遊びじゃないんだよ」と手に握った包丁をちらつかせても、「本気だよ。この部屋から出ようとしたら私、どうするかわからないから」と物騒極まりない脅し文句を口にしても、大した効果はないみたいだった。彼はごくあっさりとうなずいて、「そうなったら、俺を殺して貴方も死んでくださいますか」などと、冗談なのか本気なのかわからないことを口走りだす。
「だからさぁ」
「はい」
「その感じやめてよ。遊びじゃないって言ってるじゃん」
「ええ、先程もそうおっしゃってましたね。俺を本気で、ここに監禁して下さるおつもりなんですよね。家族からも仕事からも、その他ありとあらゆる人間関係からも俺を切り離し世界から隔絶させ、ここに隠してしまいたいと本気でそう思ってくださっているんですよね」
「えっと、……そこまでは言ってないけど、まあ」
「違うんですか?」
「違わない、と、……思う」
「そうですよね、嬉しいです。俺もずっとそうなることを望んでいたので」
「えぇ、……喜んじゃうんだ。抵抗とかするもんじゃないかなあ、普通は」
「? 、抵抗を、したほうがよろしかったということですか? 余計な労力を使わずに適切に目的を達成できたのですから、寧ろ喜ばしいことではないですか?」
「そうかなあ」
「そうですよ。偉かったですね、よく頑張りましたね。……ところで、この首輪はどうやって購入されたんですか?」
「えっと、これはその、アマゾンで、三日前に」
「なるほど。安心しました、いかがわしい店などに足を運ばれたわけではなかったんですね。ですが、次回からはぜひ俺にもご相談くださいね。お一人で悩まれるのはいけません」
「ええー……」
「約束ですよ」
「うん……?」
……あれ、何だこの空気? 長谷部くんの言葉に流されて、うなずきかけている自分に気づいて愕然とする。なんとなく拍子抜けしてしまった瞬間に、張り詰めたものが緩んでいくのが分かった。きつく包丁を握りしめていた指先が、冷えてじんじんと痛い。ごめん、と今更すぎる謝罪を口にすれば、「良いんですよ。これはすべて、俺のせいなんですから」と、甘ったるい声で慰撫される。「貴方を不安にさせてしまった、俺がいけなかったんですから。そうでしょう」返事もしないうちに口付けられれば、何もかもいつもどおりなんじゃないか、なんて、おかしな錯覚を起こしそうになる。だけど何度瞬きしても長谷部くんの首にはちゃちい首輪が引っかかっているし、私の右手には包丁が握られたままだ。「長谷部くんの、せいとかじゃ、なくて」体を離そうともがいて失敗して、かえってきつく抱きしめられる。
「長谷部くんのせいじゃなくて。……私が、おかしくなっちゃったせいなのに」いいえ、と、歌うように囁かれた声は鼓膜を揺らして、思考をグズグズに溶かしていく。「俺のせいですよ。貴方をこんなにしてしまったのは、他でもない俺なんです。だから存分に責めてくださって良いんです。俺を苦しめて傷つけて、試してくださって構わないんです」耳を塞ぎたいのにそれも叶わない。甘やかな声はまるで麻薬だった。どうしていつもこうなんだろう。やることなすことすべてを受け入れられて、許されて。それできっと、私はおかしくなってしまった。長谷部くんに甘やかされる日常は、私には多分毒だったのだ。愛されれば愛されるだけ不安になるし、与えられればもっともっと欲しくなる。自分の厄介な性分を自覚したのは随分前のことだった。好きです、愛してます、貴方しかいらないんです。そんなふうに言葉をもらうたびに、歯車がどんどん狂っていく。長谷部くんの声も思考も感情も視線も体も、何もかもすべてを自分の物にしてしまいたくなる。この人が私の知らない場所で、私の知らない人たちと笑い合う。そのことを考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。だって、彼は私のものなのに。
閉じ込めてしまえば安心だ。そうしたらこの人を誰にも奪われない。そう思ってしまった瞬間に、私は引き返せないやばい領域に足を踏み入れてしまったんだと思う。でもこれは仕方のないことなんだ、と、性懲りもなく頭のどこかで、小さな声が弁解を続けている。
元の自分に戻るために、ありとあらゆる手段を講じた。たくさんの本を買い込んで、静かな部屋を音楽でいっぱいにして、孤独を埋めるために大きなテディベアまで買い込んだ。だけど全部無駄だった。……そんな風に言い訳をしたらきっと、この人は私を慰めてくれるんだろう。そう思うと罪悪感で喉の奥が苦くなる。私の視線の先で、笑みを浮かべた唇が、おかわいそうに、と息を吐く。おかわいそうに。その瞬間に耐えられなくなって、「欲しい物があれば何だってあげる。私にできることがあるなら、何だってするから」なんて、出来もしないことを口走ってしまう。何だってする、なんて言ったところで、私にできることなんて限られているのに。
「そうですね……、それなら」
耳元で、やわらかい声がささやく。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、それでも、この声だけが救いのような気がしていた。彼が私に、何かを望んだことなんて殆どなかった。私にはありとあらゆる贈り物をする一方で、長谷部くんは自分のことには驚くほど無頓着だった。貴方の側にいられるだけで、俺には十分すぎるくらいです。その言葉を聞くたびに本当は少し不安だった。与えられるばかりで何も返せない自分なんか、いつか見捨てられてしまうんじゃないかとすら思った。長谷部くんが私に『おねだり』をしてくれるなんて、もしかして初めてなんじゃないだろうか。だったら絶対に叶えてあげないと。どれだけお金のかかる物でも構わない。いざとなったら、内臓の一つや二つ売ったっていい。
泣きそうなくらいに必死になって長谷部くんの言葉を待った。だけど、次の瞬間ぶつけられた予想外の言葉で、思考は完全に止まってしまった。
「それなら、まずは窓に鉄格子をはめてください」
「まどに、……まどに、なんて?」
……今、なんて?
言われた言葉が理解できない私を愛おし気に見つめながら、彼ははうっとりとほほ笑む。「鉄格子、ですよ」てつごうし、と、ただその言葉を繰り返した。私の事を置き去りにして長谷部くんはすらすらと言葉を紡いでいく。まるで聖書の朗読でもするみたいに淀みなく、遠足の相談でもしているみたいに楽し気な声色で。
「それと、首輪はもう少し頑丈な物のほうが良いかと思います。いえ、違います勿論この首輪でも俺としては大変嬉しいのですが、とはいえこれでは些か強度に不安が残るかと。それから、鎖ももう少し太い物を用意したいですね。この程度の物だと、簡単に壊せてしまいますから」
「……、えっと、」
「首輪の鍵も、これでは少々不安ですね。それと鎖の長さですが、五メートルは少々長すぎます。この部屋から風呂場、洗面所、台所までの距離を計算して必要最低限の長さを確保しましょう。これでは俺が逃走する可能性があります」
「おれがとうそうするかのうせい」
「ああ、ご不安にさせてしまいましたよね、すみません。勿論鎖などでつないでいただかなくても、貴方が命じてくださるなら俺はこの部屋から一歩も動きません。ですが折角ですから、可能性は全て潰しておきたいのです。俺は本当に貴方のものになったのだと、目に見える形で証明しなくては。ここまで貴方を追い詰めてしまったのですから、責任を取るべきです。そうでしょう?」
「……そう、なの、かなあ……?」
「ええ、そうですとも当然のことです。……ですが、困りましたね。数日ならともかく、一週間も無断欠勤を続ければ、勤務先の人間が騒ぎ出す可能性があります。在宅勤務への切り替えは可能ですが、それには二十四時間ほど必要です」
「にじゅうよじかん」
「ある程度アリバイ作りをしてからでないと刑事事件に発展してしまう可能性も否めないので、そのためにも外堀は埋めておきたいところです。……ですが、やはり二十四時間は長すぎますよね」
「いや、えっと、うん。私もいきなり監禁しちゃったとこあるし、そうだよね丸一日くらいなら、……いやむしろたった一日で大丈夫? 会社辞めるの?」
「俺の事を心配してくださるんですね。やはり貴方はお優しいです。……ふふ、大丈夫ですよ、金儲けは得意なんです。本当なら貴方とお付き合いを始めた時点で、あんな会社辞めてしまったって良かったのに。過去の自分の判断を呪いたくなります、本当は一分一秒の隙もなくお側にいたい所なのに。いっそのこと、俺と貴方以外の人間を全員殺してしまえたら良かったのですが」
「ひえ……、発想が物騒すぎない?」
「ハハ、冗談ですよ。皆殺しにする手間が惜しいです。それに残念ながら、世界中の人間を殺して回るのは現実的ではありませんからね。食料や電力水道などの生活インフラのことを考慮すると、第三者の手を借りずに快適な生活レベルを保つ事など不可能と言わざるを得ません。……すみません、俺の力不足で」
……いったい何を謝罪してるんだ、この人は?
沈痛な面持ちの長谷部くんに何をどう言っていいのかわからず、「仕方ないよ。人って字は人と人とが支えあってできてるんだから」などとしょうもないフォローを入れてしまう。それが地雷を踏んでしまったのかもしれない、長谷部くんはほんのり薄暗い瞳で私を見つめてくる。「ですが、支えあうのも助け合うのも俺だけで良いと思って下さったからこそ、このようなプレゼントをくださったんですよね。そうでしょう」うっとりと吐き出されるため息。プレゼントじゃなくって、と、一応言ってみたけど多分無駄だった。この上なく丁寧な手つきで長谷部くんが、私のつないだ鎖をなぞる。「貴方は可能な限り全ての人間関係を排除して、俺を独占したいと思って下さっている」几帳面に整えられた指先。鎖の上を伝っていったその指が、不意に私の首に伸ばされる。
「しかもそれは短期的な物であってはならない。警察や企業、その他ありとあらゆる第三者が貴方と俺の生活を踏み荒らすことを、決して許してはならない。永久的かつ継続的に、俺を貴方の物にしておきたいと考えていらっしゃる。そうですよね」
薄紫色の瞳に覗き込まれて息を飲んだ。言葉で説明されてみると、自分の望んでいることの異様さがいっそう際立って聞こえた。行動に移したのは自分の癖に。それに何となく気おされて頷いてしまった時点で、後戻りなんてできるはずもなかったのだ。「世界に二人だけで暮らすことは、おそらく不可能でしょう。ですが、限りなく外部の人間を排除して、二人きりに近い環境を作り出すことは可能なはずです」うん、とか、ああ、とか、返事のような声を返してしまったのもいけなかったんだろう。ほんの出来心から始まった話が、とんでもなくダイナミックな構想に発展していく。……この話、このまま続けたらまずいんじゃないかな。そう思うのにどうしても続きを聞きたくなってしまうのは、好奇心なんだろうか。それともただ、恍惚としたトーンの長谷部くんの声が、ひどく耳に心地良かったからだろうか。
「最終目標は完全に外部との接触を絶ち、誰にも邪魔されない生活環境を整えることです。ですがまずは、できるところから地道に着手しましょう」
「で、……できること、とは?」
「資金と物件の確保です」
「しきんとぶっけんのかくほ」
「首輪と鎖を用意して俺をここに閉じ込めて下さるという貴方の計画は、費用対効果の観点から見ると大変素晴らしいものです。……しかし、これでは継続的な運用は少々難しいかと。第一俺をここに監禁して、明日からどう生活するおつもりだったんですか?」
「どうって、えっと、まあ、とりあえず朝は普通に会社に」
「それは困ります! 貴方一人に労働を任せて、俺が楽しい監禁生活に勤しむなど許された話ではありません」
「いやでもこれは私のわがままで」
「いいえ違います、すでにこれは俺の望みでもあるのですから。いわば初めての共同作業とでも呼ぶべき事を、貴方一人の重荷にしてしまうなど許される筈がありませんよね」
「でも、でも、あの、だって……、えっと、とりあえずさあ。監禁されるのって、楽しい物なのかなあ?」
「楽しいに決まってます! 二十四時間三百六十五日の全てを愛おしい方の為だけに使えることが、人生の喜びでなかったら何だと言うんですか。それに、俺が逃げ出さないかきちんと見張っていていただく必要もあります。カメラを設置してスマートフォン越しに監視するという手段もありますが、遠隔監視ではやはり有事の際の動きが取りづらいので、やはり有人監視が望ましい」
「……いやー……そこまではしなくていいよ。監視とかじゃなくて私はただ長谷部くんと、ずっと一緒にいたいってだけで」
「俺とずっと一緒にいたいと、そう思ってくださるんですね。嬉しいです素敵です俺も好きです愛してます。ですが、それなら尚の事セキュリティを万全にしておかなくては。ネズミ一匹逃さない位に完璧に」
「えっと、うん、……ごめん。これって何の話だっけ?」
「何って、貴方と俺の新居の話に決まってるじゃないですか」
「新居って、そんな新婚さんみたいな話してたかなあ?」
もはや根本的な何かが、話の腰とも言えるような根源的な何かが、決定的にずれてしまっている。自分で言うのも何だけど、最初はありがちな一時の過ちから始まった、ただの痴情の縺れ的な流れだったはずなのに。それなのに一体どこをどうして、こんなことになっているんだろう。だけど長谷部くんは私の発した言葉の都合の良い部分だけを聞き取って、それはそれは幸せそうに頬を染めた。「しんこんさん」甘やかな言葉の響きを確かめるみたいにつぶやいて、それから勢いよく私に向き直る。爛々と輝く瞳は綺麗だけど、どこか危なっかしい。ぎゅう、と痛いほど握りしめられた指先から、いつもよりも高くなった体温が伝わってくる。
「そうですよね俺としたことが、最初のステップが頭から抜けていました。婚姻関係にある男女が一つ屋根の下に暮らすのは何ら不自然なことではありません。しかもこれで、いくらか外堀が埋められますね。万一にもあり得ないことですが、例えば俺が不貞でも働こうものなら、法的に八つ裂きにして頂くことだってできます。勿論文字通りの八つ裂きにして頂くことだって望むところではありますし、更に言うと俺を殺して後を追ってくださるなら……、ああ話がそれました。とにかく書類の上だけのことではありますが、それでも素敵です。俺と貴方が、ただならぬ関係にあることの証拠を作れるなんて」
「だけど、えっと、そんな軽々しく結婚って」
「俺と結婚をするのはお嫌ですか?」
「い、……いやじゃない、けど。もっとこう、そういうことって時間をかけてゆっくり」
「ですが、これ以上の時間をかけたくないからこそ、貴方は抜本的な手段を取られたわけですよね?」
「それは、確かにそうだけど」
「繋ぐ鎖は、一つでも多いほうが望ましいのではないですか。結婚さえしておけば、俺が脱走した暁には、俺の妻として貴方が警察に捜索願を出すことができますよね。現状のままでは追跡の手段は限られますから、ここはやはり婚姻関係になっておくべきです」
「そうかなぁ」
「そうですそうに決まってます、そうと決まれば可及的速やかに婚姻届けを記入し役所に提出しましょう。病める時も健やかなるときも生ける時も死せる時も、死んだ後も生まれ変わっても来世も来来来世もその次も永遠に、未来永劫地獄までご一緒しましょうね」
……もうだめだ。話は広がる一方だ。私のちょっとした一言は、長谷部くんのバラ色の想像力に火をつけてしまったらしい。どこからともなく取り出されたのは、ファンシーなピンク色の紙だった。ほんのり見覚えがあるようなないような感じのそれの、左側上段には太字で【婚姻届】と印字がされてある。「こことこことここに記入ですよ」とすかさず飛んでくる長谷部くんの指示に従ううちに、あれよあれよと婚姻届けの空欄が埋まっていく。結婚って、こんな感じでするもんなんだっけ? そんな疑問が頭を過るのに、長谷部くんが幸せそうに笑っているのですぐにどうでも良くなってしまう。
「嬉しいです。これでまた一つ、俺と貴方の繋がりを証明するものが増える」なんて、とろんとろんに緩んだ瞳で笑いかけられたらもう駄目だった。長谷部くんが私に甘いように、私だって長谷部くんに甘いのだ。高額な壺だろうが札束だろうが記入済の婚姻届けだろうが、彼が欲しがるなら何だってあげてしまいたい。だけどとろとろの甘ったるい空気が流れたのは、ほんのつかの間の事だった。記入済の書類を大事に大事に書類ケースにしまってから、長谷部くんはもう一度私に向き直る。
「さて、そうと決まればもう少し詳細に、今後の事を詰めていきましょう」お仕事の時にだけ掛けているというパソコン用の眼鏡。シルバーフレームのそれは、整いすぎるほど整いすぎている長谷部くんの顔に、怖いくらいによく似合う。
「二人で暮らすにあたっての、まずはご希望をお聞きしたいのです。この部屋の事は大変気に入っておりますし、俺としては勿論、永久にここで暮らすこともやぶさかではありません。ですが前々から仰っていましたよね。部屋が狭くて本を置くスペースが足りないと。この際です、住環境に関するご希望をすべて洗い出していくのはいかがでしょう」仕事の時のような、すらすらと淀みない説明。おかしなことを言っているような気がするのに、長谷部くんが言ってるってだけで無駄に説得力を感じてしまうんだから多分私はダメなのだ。
気が付いたらのせられるままに「えっと、じゃあ、ピアノを置くスペースが欲しいかな。できれば防音で」などととぼけた事を答えている。ガラス張りのサンルームに、図書室に、家庭菜園ができるくらいの広さのバルコニー。お風呂はジャグジー付きがいいし、出来れば寝室のベッドは天蓋付きが良い。キッチンは広くて大きいオーブン付きで、洗い物は面倒だから食器洗い機も特大サイズをつけてほしい。プールなんかもあると楽しいかもね、それと、おうちの中にメリーゴーランドなんかあったら遊園地みたいでおもしろそう。思いつくままに、つらつらと口にした希望を一つ残らず手帳に書き起こしてから、長谷部くんは真面目この上ない口調で私に告げる。
「住環境は結婚生活を送るうえでも外せない重要なポイントです。ご希望を叶える理想の住まい・立地条件について、全身全霊圧倒的責任感を持ってリサーチして参りますので、ご安心くださいね」
「わあ、楽しみだなあ」
「ふふ、俺も楽しみです。貴方と俺の理想の監禁生活を実現させるために、一緒に頑張りましょうね」
そうだねがんばろうね、等とうなずきながら、頭の中は疑問符でいっぱいだった。理想の監禁生活とは一体? 長谷部くんが身動きするたびに、首輪につながれた鎖がちゃらちゃらと音を立てていた。だけど罪悪感はすっかりマヒして、何が正常で何が異常なのかも、微妙に判断がつかなくなっている。「長期的には陸の孤島、もしくは無人島を買い取ることを視野に入れています。直近の棲家の購入費用は俺の口座から出すとしても、今後の事を踏まえるともう少し効率的に資金を確保する必要がありそうですね。本日のところは婚姻届けを提出し、明日以降の動きについては食事を摂りながら話しましょうか」と真顔で言い放つ長谷部くんの前には、私の用意した首輪なんてちゃちいおもちゃに過ぎなかったような気もしてしまう。気が付いたら、窓の外は真っ暗になっていた。私の額に軽く口づけをして、彼はとろとろの笑みを浮かべる。
「そうだ。届けを出しに行くついでに、首輪と鎖も調達しましょうか」
……こういうの、【とんとん拍子に事が進んだ】って言って、いいのかなあ?
ただでさえわけのわからなくなった頭でそんなことを考えかけて、すぐにやめた。長谷部くんが幸せそうにしてくれるなら、それに越したことはないのだ。だって最初から終わりまでずっと、私の世界にはこの人しかいらないに違いないんだから。
「そうですか、じゃ、なくてさぁ」そんな呑気な顔なんか、している場合じゃないのに。酷いことをしている自覚はあった。おかしくなっている自覚だって、十分すぎるくらい持っていた。拒否されれば後戻りができたのかもしれない。嫌われるなら、それはそれで悪くなかったのに。それなのに彼はまだ、私を許してくれるつもりでいるらしい。
「では、何と言えば良いでしょうか。……ああ、お礼を言うべきですよね。すみません、俺としたことが。あんまり嬉しかったものですから」細長い指先でゆっくりと合皮の革をなぞってから、長谷部くんがとろりと微笑む。「だって仕方ないじゃないですか。漸く貴方が、俺をご自分の物にして下さるんですから」だから、そうじゃないのに。「ねぇ、遊びじゃないんだよ」と手に握った包丁をちらつかせても、「本気だよ。この部屋から出ようとしたら私、どうするかわからないから」と物騒極まりない脅し文句を口にしても、大した効果はないみたいだった。彼はごくあっさりとうなずいて、「そうなったら、俺を殺して貴方も死んでくださいますか」などと、冗談なのか本気なのかわからないことを口走りだす。
「だからさぁ」
「はい」
「その感じやめてよ。遊びじゃないって言ってるじゃん」
「ええ、先程もそうおっしゃってましたね。俺を本気で、ここに監禁して下さるおつもりなんですよね。家族からも仕事からも、その他ありとあらゆる人間関係からも俺を切り離し世界から隔絶させ、ここに隠してしまいたいと本気でそう思ってくださっているんですよね」
「えっと、……そこまでは言ってないけど、まあ」
「違うんですか?」
「違わない、と、……思う」
「そうですよね、嬉しいです。俺もずっとそうなることを望んでいたので」
「えぇ、……喜んじゃうんだ。抵抗とかするもんじゃないかなあ、普通は」
「? 、抵抗を、したほうがよろしかったということですか? 余計な労力を使わずに適切に目的を達成できたのですから、寧ろ喜ばしいことではないですか?」
「そうかなあ」
「そうですよ。偉かったですね、よく頑張りましたね。……ところで、この首輪はどうやって購入されたんですか?」
「えっと、これはその、アマゾンで、三日前に」
「なるほど。安心しました、いかがわしい店などに足を運ばれたわけではなかったんですね。ですが、次回からはぜひ俺にもご相談くださいね。お一人で悩まれるのはいけません」
「ええー……」
「約束ですよ」
「うん……?」
……あれ、何だこの空気? 長谷部くんの言葉に流されて、うなずきかけている自分に気づいて愕然とする。なんとなく拍子抜けしてしまった瞬間に、張り詰めたものが緩んでいくのが分かった。きつく包丁を握りしめていた指先が、冷えてじんじんと痛い。ごめん、と今更すぎる謝罪を口にすれば、「良いんですよ。これはすべて、俺のせいなんですから」と、甘ったるい声で慰撫される。「貴方を不安にさせてしまった、俺がいけなかったんですから。そうでしょう」返事もしないうちに口付けられれば、何もかもいつもどおりなんじゃないか、なんて、おかしな錯覚を起こしそうになる。だけど何度瞬きしても長谷部くんの首にはちゃちい首輪が引っかかっているし、私の右手には包丁が握られたままだ。「長谷部くんの、せいとかじゃ、なくて」体を離そうともがいて失敗して、かえってきつく抱きしめられる。
「長谷部くんのせいじゃなくて。……私が、おかしくなっちゃったせいなのに」いいえ、と、歌うように囁かれた声は鼓膜を揺らして、思考をグズグズに溶かしていく。「俺のせいですよ。貴方をこんなにしてしまったのは、他でもない俺なんです。だから存分に責めてくださって良いんです。俺を苦しめて傷つけて、試してくださって構わないんです」耳を塞ぎたいのにそれも叶わない。甘やかな声はまるで麻薬だった。どうしていつもこうなんだろう。やることなすことすべてを受け入れられて、許されて。それできっと、私はおかしくなってしまった。長谷部くんに甘やかされる日常は、私には多分毒だったのだ。愛されれば愛されるだけ不安になるし、与えられればもっともっと欲しくなる。自分の厄介な性分を自覚したのは随分前のことだった。好きです、愛してます、貴方しかいらないんです。そんなふうに言葉をもらうたびに、歯車がどんどん狂っていく。長谷部くんの声も思考も感情も視線も体も、何もかもすべてを自分の物にしてしまいたくなる。この人が私の知らない場所で、私の知らない人たちと笑い合う。そのことを考えるだけで、頭がおかしくなりそうだった。だって、彼は私のものなのに。
閉じ込めてしまえば安心だ。そうしたらこの人を誰にも奪われない。そう思ってしまった瞬間に、私は引き返せないやばい領域に足を踏み入れてしまったんだと思う。でもこれは仕方のないことなんだ、と、性懲りもなく頭のどこかで、小さな声が弁解を続けている。
元の自分に戻るために、ありとあらゆる手段を講じた。たくさんの本を買い込んで、静かな部屋を音楽でいっぱいにして、孤独を埋めるために大きなテディベアまで買い込んだ。だけど全部無駄だった。……そんな風に言い訳をしたらきっと、この人は私を慰めてくれるんだろう。そう思うと罪悪感で喉の奥が苦くなる。私の視線の先で、笑みを浮かべた唇が、おかわいそうに、と息を吐く。おかわいそうに。その瞬間に耐えられなくなって、「欲しい物があれば何だってあげる。私にできることがあるなら、何だってするから」なんて、出来もしないことを口走ってしまう。何だってする、なんて言ったところで、私にできることなんて限られているのに。
「そうですね……、それなら」
耳元で、やわらかい声がささやく。
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、それでも、この声だけが救いのような気がしていた。彼が私に、何かを望んだことなんて殆どなかった。私にはありとあらゆる贈り物をする一方で、長谷部くんは自分のことには驚くほど無頓着だった。貴方の側にいられるだけで、俺には十分すぎるくらいです。その言葉を聞くたびに本当は少し不安だった。与えられるばかりで何も返せない自分なんか、いつか見捨てられてしまうんじゃないかとすら思った。長谷部くんが私に『おねだり』をしてくれるなんて、もしかして初めてなんじゃないだろうか。だったら絶対に叶えてあげないと。どれだけお金のかかる物でも構わない。いざとなったら、内臓の一つや二つ売ったっていい。
泣きそうなくらいに必死になって長谷部くんの言葉を待った。だけど、次の瞬間ぶつけられた予想外の言葉で、思考は完全に止まってしまった。
「それなら、まずは窓に鉄格子をはめてください」
「まどに、……まどに、なんて?」
……今、なんて?
言われた言葉が理解できない私を愛おし気に見つめながら、彼ははうっとりとほほ笑む。「鉄格子、ですよ」てつごうし、と、ただその言葉を繰り返した。私の事を置き去りにして長谷部くんはすらすらと言葉を紡いでいく。まるで聖書の朗読でもするみたいに淀みなく、遠足の相談でもしているみたいに楽し気な声色で。
「それと、首輪はもう少し頑丈な物のほうが良いかと思います。いえ、違います勿論この首輪でも俺としては大変嬉しいのですが、とはいえこれでは些か強度に不安が残るかと。それから、鎖ももう少し太い物を用意したいですね。この程度の物だと、簡単に壊せてしまいますから」
「……、えっと、」
「首輪の鍵も、これでは少々不安ですね。それと鎖の長さですが、五メートルは少々長すぎます。この部屋から風呂場、洗面所、台所までの距離を計算して必要最低限の長さを確保しましょう。これでは俺が逃走する可能性があります」
「おれがとうそうするかのうせい」
「ああ、ご不安にさせてしまいましたよね、すみません。勿論鎖などでつないでいただかなくても、貴方が命じてくださるなら俺はこの部屋から一歩も動きません。ですが折角ですから、可能性は全て潰しておきたいのです。俺は本当に貴方のものになったのだと、目に見える形で証明しなくては。ここまで貴方を追い詰めてしまったのですから、責任を取るべきです。そうでしょう?」
「……そう、なの、かなあ……?」
「ええ、そうですとも当然のことです。……ですが、困りましたね。数日ならともかく、一週間も無断欠勤を続ければ、勤務先の人間が騒ぎ出す可能性があります。在宅勤務への切り替えは可能ですが、それには二十四時間ほど必要です」
「にじゅうよじかん」
「ある程度アリバイ作りをしてからでないと刑事事件に発展してしまう可能性も否めないので、そのためにも外堀は埋めておきたいところです。……ですが、やはり二十四時間は長すぎますよね」
「いや、えっと、うん。私もいきなり監禁しちゃったとこあるし、そうだよね丸一日くらいなら、……いやむしろたった一日で大丈夫? 会社辞めるの?」
「俺の事を心配してくださるんですね。やはり貴方はお優しいです。……ふふ、大丈夫ですよ、金儲けは得意なんです。本当なら貴方とお付き合いを始めた時点で、あんな会社辞めてしまったって良かったのに。過去の自分の判断を呪いたくなります、本当は一分一秒の隙もなくお側にいたい所なのに。いっそのこと、俺と貴方以外の人間を全員殺してしまえたら良かったのですが」
「ひえ……、発想が物騒すぎない?」
「ハハ、冗談ですよ。皆殺しにする手間が惜しいです。それに残念ながら、世界中の人間を殺して回るのは現実的ではありませんからね。食料や電力水道などの生活インフラのことを考慮すると、第三者の手を借りずに快適な生活レベルを保つ事など不可能と言わざるを得ません。……すみません、俺の力不足で」
……いったい何を謝罪してるんだ、この人は?
沈痛な面持ちの長谷部くんに何をどう言っていいのかわからず、「仕方ないよ。人って字は人と人とが支えあってできてるんだから」などとしょうもないフォローを入れてしまう。それが地雷を踏んでしまったのかもしれない、長谷部くんはほんのり薄暗い瞳で私を見つめてくる。「ですが、支えあうのも助け合うのも俺だけで良いと思って下さったからこそ、このようなプレゼントをくださったんですよね。そうでしょう」うっとりと吐き出されるため息。プレゼントじゃなくって、と、一応言ってみたけど多分無駄だった。この上なく丁寧な手つきで長谷部くんが、私のつないだ鎖をなぞる。「貴方は可能な限り全ての人間関係を排除して、俺を独占したいと思って下さっている」几帳面に整えられた指先。鎖の上を伝っていったその指が、不意に私の首に伸ばされる。
「しかもそれは短期的な物であってはならない。警察や企業、その他ありとあらゆる第三者が貴方と俺の生活を踏み荒らすことを、決して許してはならない。永久的かつ継続的に、俺を貴方の物にしておきたいと考えていらっしゃる。そうですよね」
薄紫色の瞳に覗き込まれて息を飲んだ。言葉で説明されてみると、自分の望んでいることの異様さがいっそう際立って聞こえた。行動に移したのは自分の癖に。それに何となく気おされて頷いてしまった時点で、後戻りなんてできるはずもなかったのだ。「世界に二人だけで暮らすことは、おそらく不可能でしょう。ですが、限りなく外部の人間を排除して、二人きりに近い環境を作り出すことは可能なはずです」うん、とか、ああ、とか、返事のような声を返してしまったのもいけなかったんだろう。ほんの出来心から始まった話が、とんでもなくダイナミックな構想に発展していく。……この話、このまま続けたらまずいんじゃないかな。そう思うのにどうしても続きを聞きたくなってしまうのは、好奇心なんだろうか。それともただ、恍惚としたトーンの長谷部くんの声が、ひどく耳に心地良かったからだろうか。
「最終目標は完全に外部との接触を絶ち、誰にも邪魔されない生活環境を整えることです。ですがまずは、できるところから地道に着手しましょう」
「で、……できること、とは?」
「資金と物件の確保です」
「しきんとぶっけんのかくほ」
「首輪と鎖を用意して俺をここに閉じ込めて下さるという貴方の計画は、費用対効果の観点から見ると大変素晴らしいものです。……しかし、これでは継続的な運用は少々難しいかと。第一俺をここに監禁して、明日からどう生活するおつもりだったんですか?」
「どうって、えっと、まあ、とりあえず朝は普通に会社に」
「それは困ります! 貴方一人に労働を任せて、俺が楽しい監禁生活に勤しむなど許された話ではありません」
「いやでもこれは私のわがままで」
「いいえ違います、すでにこれは俺の望みでもあるのですから。いわば初めての共同作業とでも呼ぶべき事を、貴方一人の重荷にしてしまうなど許される筈がありませんよね」
「でも、でも、あの、だって……、えっと、とりあえずさあ。監禁されるのって、楽しい物なのかなあ?」
「楽しいに決まってます! 二十四時間三百六十五日の全てを愛おしい方の為だけに使えることが、人生の喜びでなかったら何だと言うんですか。それに、俺が逃げ出さないかきちんと見張っていていただく必要もあります。カメラを設置してスマートフォン越しに監視するという手段もありますが、遠隔監視ではやはり有事の際の動きが取りづらいので、やはり有人監視が望ましい」
「……いやー……そこまではしなくていいよ。監視とかじゃなくて私はただ長谷部くんと、ずっと一緒にいたいってだけで」
「俺とずっと一緒にいたいと、そう思ってくださるんですね。嬉しいです素敵です俺も好きです愛してます。ですが、それなら尚の事セキュリティを万全にしておかなくては。ネズミ一匹逃さない位に完璧に」
「えっと、うん、……ごめん。これって何の話だっけ?」
「何って、貴方と俺の新居の話に決まってるじゃないですか」
「新居って、そんな新婚さんみたいな話してたかなあ?」
もはや根本的な何かが、話の腰とも言えるような根源的な何かが、決定的にずれてしまっている。自分で言うのも何だけど、最初はありがちな一時の過ちから始まった、ただの痴情の縺れ的な流れだったはずなのに。それなのに一体どこをどうして、こんなことになっているんだろう。だけど長谷部くんは私の発した言葉の都合の良い部分だけを聞き取って、それはそれは幸せそうに頬を染めた。「しんこんさん」甘やかな言葉の響きを確かめるみたいにつぶやいて、それから勢いよく私に向き直る。爛々と輝く瞳は綺麗だけど、どこか危なっかしい。ぎゅう、と痛いほど握りしめられた指先から、いつもよりも高くなった体温が伝わってくる。
「そうですよね俺としたことが、最初のステップが頭から抜けていました。婚姻関係にある男女が一つ屋根の下に暮らすのは何ら不自然なことではありません。しかもこれで、いくらか外堀が埋められますね。万一にもあり得ないことですが、例えば俺が不貞でも働こうものなら、法的に八つ裂きにして頂くことだってできます。勿論文字通りの八つ裂きにして頂くことだって望むところではありますし、更に言うと俺を殺して後を追ってくださるなら……、ああ話がそれました。とにかく書類の上だけのことではありますが、それでも素敵です。俺と貴方が、ただならぬ関係にあることの証拠を作れるなんて」
「だけど、えっと、そんな軽々しく結婚って」
「俺と結婚をするのはお嫌ですか?」
「い、……いやじゃない、けど。もっとこう、そういうことって時間をかけてゆっくり」
「ですが、これ以上の時間をかけたくないからこそ、貴方は抜本的な手段を取られたわけですよね?」
「それは、確かにそうだけど」
「繋ぐ鎖は、一つでも多いほうが望ましいのではないですか。結婚さえしておけば、俺が脱走した暁には、俺の妻として貴方が警察に捜索願を出すことができますよね。現状のままでは追跡の手段は限られますから、ここはやはり婚姻関係になっておくべきです」
「そうかなぁ」
「そうですそうに決まってます、そうと決まれば可及的速やかに婚姻届けを記入し役所に提出しましょう。病める時も健やかなるときも生ける時も死せる時も、死んだ後も生まれ変わっても来世も来来来世もその次も永遠に、未来永劫地獄までご一緒しましょうね」
……もうだめだ。話は広がる一方だ。私のちょっとした一言は、長谷部くんのバラ色の想像力に火をつけてしまったらしい。どこからともなく取り出されたのは、ファンシーなピンク色の紙だった。ほんのり見覚えがあるようなないような感じのそれの、左側上段には太字で【婚姻届】と印字がされてある。「こことこことここに記入ですよ」とすかさず飛んでくる長谷部くんの指示に従ううちに、あれよあれよと婚姻届けの空欄が埋まっていく。結婚って、こんな感じでするもんなんだっけ? そんな疑問が頭を過るのに、長谷部くんが幸せそうに笑っているのですぐにどうでも良くなってしまう。
「嬉しいです。これでまた一つ、俺と貴方の繋がりを証明するものが増える」なんて、とろんとろんに緩んだ瞳で笑いかけられたらもう駄目だった。長谷部くんが私に甘いように、私だって長谷部くんに甘いのだ。高額な壺だろうが札束だろうが記入済の婚姻届けだろうが、彼が欲しがるなら何だってあげてしまいたい。だけどとろとろの甘ったるい空気が流れたのは、ほんのつかの間の事だった。記入済の書類を大事に大事に書類ケースにしまってから、長谷部くんはもう一度私に向き直る。
「さて、そうと決まればもう少し詳細に、今後の事を詰めていきましょう」お仕事の時にだけ掛けているというパソコン用の眼鏡。シルバーフレームのそれは、整いすぎるほど整いすぎている長谷部くんの顔に、怖いくらいによく似合う。
「二人で暮らすにあたっての、まずはご希望をお聞きしたいのです。この部屋の事は大変気に入っておりますし、俺としては勿論、永久にここで暮らすこともやぶさかではありません。ですが前々から仰っていましたよね。部屋が狭くて本を置くスペースが足りないと。この際です、住環境に関するご希望をすべて洗い出していくのはいかがでしょう」仕事の時のような、すらすらと淀みない説明。おかしなことを言っているような気がするのに、長谷部くんが言ってるってだけで無駄に説得力を感じてしまうんだから多分私はダメなのだ。
気が付いたらのせられるままに「えっと、じゃあ、ピアノを置くスペースが欲しいかな。できれば防音で」などととぼけた事を答えている。ガラス張りのサンルームに、図書室に、家庭菜園ができるくらいの広さのバルコニー。お風呂はジャグジー付きがいいし、出来れば寝室のベッドは天蓋付きが良い。キッチンは広くて大きいオーブン付きで、洗い物は面倒だから食器洗い機も特大サイズをつけてほしい。プールなんかもあると楽しいかもね、それと、おうちの中にメリーゴーランドなんかあったら遊園地みたいでおもしろそう。思いつくままに、つらつらと口にした希望を一つ残らず手帳に書き起こしてから、長谷部くんは真面目この上ない口調で私に告げる。
「住環境は結婚生活を送るうえでも外せない重要なポイントです。ご希望を叶える理想の住まい・立地条件について、全身全霊圧倒的責任感を持ってリサーチして参りますので、ご安心くださいね」
「わあ、楽しみだなあ」
「ふふ、俺も楽しみです。貴方と俺の理想の監禁生活を実現させるために、一緒に頑張りましょうね」
そうだねがんばろうね、等とうなずきながら、頭の中は疑問符でいっぱいだった。理想の監禁生活とは一体? 長谷部くんが身動きするたびに、首輪につながれた鎖がちゃらちゃらと音を立てていた。だけど罪悪感はすっかりマヒして、何が正常で何が異常なのかも、微妙に判断がつかなくなっている。「長期的には陸の孤島、もしくは無人島を買い取ることを視野に入れています。直近の棲家の購入費用は俺の口座から出すとしても、今後の事を踏まえるともう少し効率的に資金を確保する必要がありそうですね。本日のところは婚姻届けを提出し、明日以降の動きについては食事を摂りながら話しましょうか」と真顔で言い放つ長谷部くんの前には、私の用意した首輪なんてちゃちいおもちゃに過ぎなかったような気もしてしまう。気が付いたら、窓の外は真っ暗になっていた。私の額に軽く口づけをして、彼はとろとろの笑みを浮かべる。
「そうだ。届けを出しに行くついでに、首輪と鎖も調達しましょうか」
……こういうの、【とんとん拍子に事が進んだ】って言って、いいのかなあ?
ただでさえわけのわからなくなった頭でそんなことを考えかけて、すぐにやめた。長谷部くんが幸せそうにしてくれるなら、それに越したことはないのだ。だって最初から終わりまでずっと、私の世界にはこの人しかいらないに違いないんだから。