長谷部
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これはきっと夢だ。
夢の中でふと、そんな風に自覚するときがある。明晰夢というやつらしい。今がそれだ。私は夢を見ている。それも、多分あんまりよくないタイプのやつだ。昨日見た映画に影響されたんだろうか。それとも、深層心理?の表れとかそういうやつなんだろうか。考えながらあたりを見回す。清潔だけど冷たい印象のスチールの壁。高い高い天井に、ぽっちりとちいさな明り取りの窓。目の前には鉄格子の扉。まるで独房みたいだな、と首をひねって考える。極卒の脱走映画なんて、最近見たりしたっけ?
私が着ているのは、どうやら囚人服のようだった。それも、黒と白のボーダーの、ベッタベタなやつだ。それから、手首と足首にはぶっとい鎖。鎖の先には、大きな大きな鉄球。身動きするたびにジャラジャラと、金属質な音が響いてうるさかった。やたらと明るい照明が、真上から光を投げかける。人の気配はない。話し声も聞こえない。大きく壁に映る自分の影をぼんやり眺めたまま、どのくらいが経ったんだろう。ふと、近づいてくる足音に気が付いた。カツンカツン、と、硬質な足音はだんだんと大きくなって、扉の前で止まる。緊張からか恐怖からか、心臓がどくどくと音を立てている。ガチャガチャと大仰な金属音。誰かの息遣いが、扉越しに聞こえるような気がする。早く覚めろ。早く。頰を叩いてみたけど効果はなかった。私の願いもむなしく、キィ、と、軽い音とともに、あっけなく扉が開いてしまう。
……なんか、何ていうか、やっぱりこの夢、すごいやばい。早く目覚めないと大変なことになる。
扉の向こうからその人がのぞいた瞬間、よくわからない危機感が全身を貫く。「やばい」思った言葉が無意識に口から溢れる。それが愉快だったのか、その人はくつくつと笑い声を立てる。「さて」聞きなれた、柔らかい声。彼はうれし気な笑みとともに独房の中に入ってきて、しゃがみ込んだ。それから私に視線を合わせて、とろりと微笑んでみせた。「俺の事を、常軌を逸してしまうほどに愛してくださるあーるじ?」なんて、あんまりにもあんまりな言葉とともに。やばい。マジで夢なら覚めてほしい。深層心理とか、無意識の願望とか、その手の言葉が脳内で真っ赤に点滅する。認めたくない。認めるわけにはいかない。だって、そこに立ってるのは。
「は、はせ」
へたり込んだ床が冷たい。握りしめた掌に汗がにじむ。途中まで絞り出した声は震えてしぼんで、格好悪い響きのままで空気を震わせる。「は、……せべ、くん」後ずさりをしたいのに、鉄球がじゃまで身動きが取れない。「はい。あなたの大好きな大好きな、俺です」サラサラの前髪が目の前で揺れる。見慣れた笑顔に、なじみ深い藤の花の香り。そこにいるのは長谷部くんだった。私の彼氏の、長谷部くんだった。だけど、それがまずい。安堵するどころか、ほとんど崖っぷちみたいな気持ちになってしまう。いつもの声に、いつもの笑顔。だけど、だけど、だけど。
「……なんで、」
唯一まずいのは、やばいのは、認めてはいけないのは。
「なんで、そんな格好、してるの」
黒い帽子にベルト付きのジャケット。首元までボタンを締めて、きっちりとネクタイまで結んでいる。きっちりとしたその恰好はお巡りさんにも少し似ていた。だけどお巡りさんじゃないことは何となくわかる。だってここは刑務所なので。おまけに私は囚人服を着ている。ということは、長谷部くんのこの格好は、きっと。
「なぜって。お好きでしょう?」
腰のベルトにぶら下げた鞭を、綺麗な指先が弄ぶ。「貴女はお好きでしょう、こういうのが。これは全て、主が望んだことですよ。ここはそういう場所、ですからね」つやつやと光る、真っ黒な革製の鞭。短く切りそろえられた爪が、ゆっくりゆっくりと鞭の持ち手にかかる。「そ、そういう、場所って」心臓が変な音を立てていた。「どういう場所なの」とてつもなく眼福、違った、目に毒、いや、心臓に悪い?どれも正しいようで違うような気がするけど、とにかく。とてつもない格好をした長谷部くんから目をそらしたいのに、それも叶わなかった。いつもよりも少し強引なやり方で、左手の親指が私の顎を引っ掛けて、引き上げる。顎クイ、顎クイだ。いっつも(ちょっとえっちな)漫画で読んでるやつだ。脳内で、色々な思いが錯綜する。目の前には、嗜虐的な色をたたえた薄紫色の瞳。「知れたことを」私にささやく声は、それでも、いつもとおんなじにとびきり甘ったるい。
「ここは刑務所です」
「けいむしょ」
「はい。俺は看守、貴女は囚人というわけですね。もうお分かりでしょうが」
「えっと、それで一体、私は何の罪でここに」
「偽証罪」
「ぎ、ぎしょうざい」
「はい。俺に嘘をつかれては困りますよ、主」
「や、別に嘘なんて」
「ついているでしょう、先ほどからずっと」
あかん!!!!
なぜか関西弁になってしまった脳みそを、振り返る余裕すらも失せている。思考回路はショート寸前だった。これは、これは、あかんやつ。さらに距離を詰めてくる長谷部くんから逃れようと、震える足で後ずさりをする。だけど、二、三歩も下がったところで鉄球にぶつかって、それ以上どうしようもなくなってしまう。右を見たり左を見たり上を向いたり、目を泳がせまくってもみたけれどそれも無駄な抵抗だった。両手でがっしりと頭を掴まれて、キスをする寸前みたいな状態で固定されてしまった。「いけませんよ、きちんと俺を見てくださらなくては」やばい、いけない、それいじょう、いけない。まともな言葉は出てこなかった。「いったん、おねがい、いったん、ちょっと、タンマ」支離滅裂にバラバラと口走る私を見て、長谷部くんは嬉しげに笑う。「嫌です」なんてサディスティックな笑顔。うっとりと頭のどこかで声がするのを、否定する。違う。そうじゃない。その扉を開いてはいけない気がするのだ。だから、絶対、これ以上、いけない。
「ねぇ、主。俺の主」
「な、何かな、ねぇちょっとよくないんじゃないかなこの体制」
「? 何か問題が?」
「ふ、風紀が、ほら、あるでしょ刑務所内の風紀とか、公序とか、良俗とか、なんか、そういうのが乱れる気がするんだけど」
「ああ、問題ありません。だってこれは貴女の夢なので」
「ゆ、夢なら、覚めてほしいなあ、早く」
「だめですよ、逃がしません。貴女が認めてくださるまでは」
「み、……認めるって、何を?」
背中にぶつかる鉄球が冷たい。それとは裏腹に、なぜか体は熱くほてる。長谷部くんが、私を見下ろしている。体の自由を奪われた私を。それは、普段とは真逆の、倒錯した業況だった。あるじ、俺のあるじ。甘くて、密やかで、どこか危うげな声。鎖に繋がれた手首を、長谷部くんの指先がつう、となぞる。爪でひっかくようにされて背筋が泡立つ。「貴女が、心の奥底で願っていたことを」歌うように長谷部くんは続ける。冷ややかに私を見下して、まるでご主人様のように。ご主人さま、って、私は何を考えてるんだろう。「貴女は、支配されたかった。そうでしょう?」瞬きを繰り返す。どくどくと心臓が、狂ったような音を立てる。鎖が体に食い込んで痛い。それを、どこか甘い感覚で受け止めている自分がいる。「ち、ちが、」やばい、これ以上いけない。
夢なら覚めろ、と願う私に、嘲笑うような声がする。
「そう、これは夢だ。貴女が望んだことを、叶えて差し上げるためだけに在る」
「…………えっと、あの、えっと」
「全ては、貴女がお望みのままですよ、主」
「や、私は、こんなの全然、……なんのことやら」
「いいえ、貴女が望んだんですよ、俺の主。奪われたかったんでしょう? 責任も、重圧も、思考も。全てを奪われて、俺にただ隷属したかった。そうでしょう?」
真っ黒な制服。ときめいてる場合でも、甘ったるい空気になってる場合でも、全然ないのに。「そんな、そんな、やだ待ってそれ以上いけない」慌てて口走った言い訳の声は相変わらず震えている。長谷部くんは私の制止の言葉なんかはねのけて、更に距離を詰めてくる。「なぜです」薄紫色の、瞳が。私をのぞきこんで、にい、と三日月に歪む。きれいなきれいな、藤色の瞳。「な、ぜ、って」そこに写り込んだ私は、どうしてだろう、とびきり、厭らしい顔をしている、ような。心臓が痛い。これ以上、いけない。この痛みの、動悸の、耳鳴りの、正体を確かめてはいけないのに。それなのに長谷部くんは、ただ繰り返して、私に答えを促す。「なぜです? なぜそれが、いけないこと、なんですか?」
……なぜ。
なぜ、って。
「だって、こんなの、絶対だめで」
「そうですね、貴女には受け入れ難かった。どうしてでしょうね?」
「だってわたし、私は、主だから、審神者だから、ちゃんとしないと、そうしないと」
「不安でしたか? 俺が、そんなことで貴女に失望するとでも思いましたか?」
わざとらしいため息。全てをわかっているような目で、彼は私を見下ろす。
「俺に、かくしごともしていましたね。本棚の二番目の奥に。貴女は『これ』を望んでいたんでしょう、きっと、ずっとずっと、幼い頃から」
「な、んで、それ」
「知っているに、決まってます。時折あの本を開いては、貴女が空想にふけっていたことも」
「ち、ちが、」
「何が違うんです」
「……、」
「おかわいそうな俺の主。ずっと我慢していたんですか? 辛かったですね。本などに頼らず、俺に言ってくださればよかったのに」
焦りと不安と絶望と、ほんの少しの安堵。相反する感情は雪崩を起こして、ぐらぐらと私の脳みそを揺らす。
本棚の、二番目の、奥。
それはささやかな、私の秘密だった。隠していたのはなんてこともない、ただの写真集だった。子供向けの、世界の警察とか刑務所とか、看守さんの制服なんかの写真がずらりと載ってるだけの他愛もない写真絵本。『わるいこは、おまわりさんにつれられて、ここにはいります。どくぼうでは、かんしゅさんがそれぞれにあった罰をほどこします』小さい頃から繰り返し繰り返し読んだ解説の言葉。罰、という言葉は、小さい私にとってなんだか蠱惑的な響きを持っていた。それは『大好き』とも違う、なんだか仄暗い感情だった。誰かに知られてはいけない気がした。それなのにどうしても手放せなくて、結局本丸まで持ってきてしまった。何度も処分しようと思ったのに駄目で、そのページを開くたびにこみ上げてくる感情を、何度も何度も打ち消した。知られてはいけない、絶対バレちゃ駄目だったのに。
「認めてしまえばいいじゃないですか。俺だけは、貴女を赦しましょう。貴女はずっと、これを望んでいたんです。ね、せめて夢の中でくらい、全て忘れていいんですよ。立場も、責任も、全て忘れて。貴女の罪なんて、全て俺が、呑み込んであげますから」
言葉に詰まる。ただじんじんと頬が熱かった。絞り出そうとした否定の言葉は、ただこんがらがって喉に詰まる。ひ、と、悲鳴じみた声を上げてしゃくりあげる私を、彼はうっとりと見つめる。「泣かないでください。大丈夫、怖いことなんて、何もしません」聖人めいた、柔らかい笑み。違う、と言いかける口はキスで塞がれた。
「いけないこですね」、なんて。子供に言うみたいな口調は優しげで、寛大で、それなのにどこか淫靡な気配がした。「いけないこには、罰が必要です。そうでしょう」恍惚とした視線。つ、と。肌の上を鞭が這う。こんなの、絶対、だめで。だめ、なのに。面白げに、喉を鳴らして笑う声。私の願望も、欲望も、ぜんぶぜんぶ見透かしたみたいな。
「そう、あってはいけないことです。だけど、きもちいいですね? 駄目なのに、いけないのに。きもちよくて、堪らないでしょう? 」否定は、快楽と紙一重だった。ああ、なんて厭らしい、はしたない格好を、私は。自分で自分を責め苛んでそれすらも恍惚の材料にして、自ら思考をぐずぐずに溶かしていく。体をよじるたびにじゃらじゃらと鎖がまとわりついて、四肢の自由が奪われる。指先一つすら、自分の意思では動かせない。それすらも私の脳は、『きもちいいこと』に変換する。そんなんじゃない、私は、縛られて喜ぶような、そんな変態なんかじゃない、はず、なのに。
「抵抗は無駄ですよ、主。俺は今、貴女を罰し、矯正し、隷属させるために、ここにいるんです。うれしいでしょう? うれしいですよね? それなら、ほら、言うことがあるでしょう」隷属、罰を、もらうために、私は、ずっと? 羞恥心と焦燥感、自分への失望と、奇妙な喜び。違うって、言わなきゃ。違う、そうじゃないって、言わなきゃ。それなのに、私を辱める言葉を、声を、私の身体は悦んで受け入れてしまう。身体の中心からぐずぐずに溶けて、だめになっていくのがわかった。だめになってしまう自分を、認めてしまいそうな自分が怖かった。
「貴女はずっと、嘘をついていた。そうですよね? 本当はずっとずっと、こうされたかったんです。だからきちんと、『ごめんなさい』を言わなければ。ほら、早く」矢継ぎ早に急かす声に、焦りが加速する。何か言わないと。だけど、もう一度否定を口にしたら、言い終わる前に、乾いた音に中断された。呆然としていると、もう一度。ぺしん、と乾いた音と、右の掌に走る、衝撃。熱い、と、思った次の瞬間には、ひりひりとそこが痛み出す。「ああ、赤くなってしまいますね、おかわいそうに」鞭で叩かれたんだ、と、その後で漸く気づいた。うっすらと赤みがさした右手に、長谷部くんが柔らかく唇を寄せる。「っ、あ」ぞく、と。恐怖とも不安とも違う感覚が、身体中を開いて、うるませていく。ひりひりと痛んで、その分敏感になったそこを宥めるみたいに、ゆっくりと舌が這う。濡れた感触。情事の時のような、厭らしい音が聴覚も犯していく。
「それで? ほら、ちゃんとお口を開けて。きちんと言わなきゃ、続きをしてあげませんよ」
冷たくて柔らかくて、しなやかな感触。つつつ、と。鞭の先っぽが体を伝う。手首から腕、肩、首を通って、口元まで。促されるままに口を開いて、入ってきたそれを舐めた。まるで別の何かにするみたいに、いやらしく舌を這わせて、唾液を絡めて。「ごめん、なさい」おずおずと口にした瞬間に、全てが瓦解してしまう。張り詰めていた糸が緩んで、解けて、切れていくのがわかった。ちゃんとしないと。審神者として、本丸の主として、恥ずかしくないように。そんなふうに自分を律していた何かが、ぼろぼろと崩壊していくのがわかった。「ごめん、なさい。私はずっと、嘘を」ぺち、と、今度は太ももに鞭が落ちる。むき出しになった肌は薄っすらと赤くなって、すぐに熱を帯びてひりついた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。謝罪の言葉をこぼすたびに与えられる痛みを、まるでご褒美のように受け止める。鞭の音も、その感触も、ただ私を陶然とさせて、頭の芯までしびれさせる。恥ずかしくて、みっともなくて、痛くて、苦しくてーーそのぶんだけ、きもちいい。
ふ、と、笑みをこぼした気配すら毒だった。吐き出された息が肌をくすぐって、それだけで身体はビクビクと震えた。いつの間にかこぼれていた涙を拭い取られて、「よくできました」と頭を撫でられれば、まるで子供のように嬉しい気持ちだけでいっぱいになる。心地いい指先の感触。いい子、いい子。よくできました。甘やかな声に、ただふわふわと微笑む。だけど、優しいだけの掌じゃ、なくて。もっと、もっと、本当は。本当に、私が、ほしいのは。
「主は、ちゃんと『ごめんなさい』ができる、いい子ですね」
ごくり、と、無意識に喉が鳴った。骨ばった指先の、きれいに切りそろえられた爪。だらりと開いた足の間が、熱を孕んでじくじくとうずく。はせべくん、物欲しげな私の声に、彼は歌うような声を返す。「いい子の主に、ご褒美をさしあげなくては」ご褒美。欲しい物。きゅ、と、服の裾を掴んで顔をうつむかせる。視線をそらしてはいけないのに。咎められることも、なじられることも、本当はわかっているのに。「ほら、言ってください。俺に、何をしてほしいのですか?」期待通りに顎を掴まれて、視線を引き戻される。だらしない、恍惚とした表情の女が、きれいな瞳に写り込んでいる。促されるままに口をひらいた。抵抗感なんて、理性なんて、もう殆ど残っていなかった。
「もっと、私を」
もっともっといじめて、罰して、縛って。そして私を、あなただけのものに。
▽
「っあかん!!!」
自分の声で飛び起きる。なぜ関西弁。思ったけど、理由はよくわからなかった。ばくばくと脈を打つ心臓を抑えて息を吐く。あたりは真っ暗だった。いつもの畳に、いつもの天井。ここはいつもの執務室だ。よかった……と、そう思ったけど、何が『よかった』のかはもうわからない。書類仕事に飽きて眠ってしまっていたらしい。夢を見ていた気がするけど、内容が思い出せなかった。随分長いこと寝てしまっていたようで、頬にくっきりとページの跡がついているのが、なんとなくわかった。枕にしていた腕は冷えてしびれて、もうすっかり感覚がない。今、何時なんだろ。妙に静かな、物音一つしない部屋で、自分の呼吸だけが響く。……長谷部くん、どこかな。考えたタイミングで、聞き慣れた足音が近づいてくるのがわかった。早足だけどどこか丁寧な、長谷部くんの足音。その足音がすたすたと廊下を抜けていき、まっすぐにこの部屋の前でとまる。
変だな、と思ったきっかけは、ふすまに映るシルエットだった。いつもの長谷部くんと違う、制服みたいなシルエット。帽子に、腰のくびれた胴体。まるで軍服みたいなシルエット。ふすまから除く指先を覆うのは、革の手袋だ。いつもの白手袋とは違う、真っ黒な革の手袋。月の光を受けたそれが、どことなく艶めかしい色合いで光る。
……嫌な予感が、する。
無意識に握りしめていた指先に、汗がにじむ。とてつもなく嫌な予感がする。この先を見てはいけない、ような。心臓が、脈を早めていくのがわかった。「はせべ、くん。……長谷部くん?」カラカラの声で呼ぶと、いつもみたいに「なんです?」と声が返ってくる。甘ったるくて優しくてうやうやしい、声。それなのになんでだろう、その声を聞いて安心するどころか、却って焦燥感は増していく。これは、まずいんじゃないか。これ以上、いけないんじゃ、ないかな。
すすす、と、音もなくふすまが開いた。その向こうから覗いた長谷部くんは、ニッコリと優しげな笑みを浮かべる。あ、あ、これ、だめなやつ。緊張とか焦燥とか、もろもろの感情が雪崩を打って押し寄せる。いっぱいいっぱいになりながら、私は今、ようやく、さっき見た夢を思い出したりなんかしている。
「さて」
ごく、と。つばを飲み込む音がうるさい。夢の中とおんなじに、この上なくフェティッシュな看守さんの格好をした長谷部くんが、私に視線を合わせて、笑う。
「俺の事を、常軌を逸してしまうほどに愛してくださるあーるじ?」
(※あかん!!!と叫んで今度こそ目を覚ましたら部屋の中はまだ明るくて、逃げ出そうと駆け出した先で私は、おやつのまんじゅうを二人分手にした長谷部くんと鉢合わせすることになる。「どうしたんですか、そんなに慌てて」と首をかしげる長谷部くんに、言えることなんて何一つなかった。なんであんな夢見たんだろう。欲求不満か?
この話はこれっきりでおしまいになるはずだったのに、よりによって私は毎夜毎夜謎のサディスティック長谷部くんを夢に見て、いつの間にかきっちりしっかり調教されてしまうことになる。神様にとって、夢と現実は大して変わりないんだと気づいたのは、ついさっきのことだった。ついさっき、長谷部くんが嗜虐的に口を歪めて、「『お仕置き』をしてほしいんですか。昨日、夢の中でして差し上げたみたいに」なんて、笑って見せたから、それで。
痛いのなんて好きじゃない、詰られるのもいじめられるのも好きじゃなかった、はずなのに。『お仕置き』の言葉に反応して、勝手に身体のスイッチが入る。「……おしおき、」物欲しげな声と、長谷部くんの、きれいなきれいな、微笑みと。いけないのに、だめなのに、思考回路は止められない。気がついたらとんでもないことを口走っている。「おしおき、して、ください」なんて。)
夢の中でふと、そんな風に自覚するときがある。明晰夢というやつらしい。今がそれだ。私は夢を見ている。それも、多分あんまりよくないタイプのやつだ。昨日見た映画に影響されたんだろうか。それとも、深層心理?の表れとかそういうやつなんだろうか。考えながらあたりを見回す。清潔だけど冷たい印象のスチールの壁。高い高い天井に、ぽっちりとちいさな明り取りの窓。目の前には鉄格子の扉。まるで独房みたいだな、と首をひねって考える。極卒の脱走映画なんて、最近見たりしたっけ?
私が着ているのは、どうやら囚人服のようだった。それも、黒と白のボーダーの、ベッタベタなやつだ。それから、手首と足首にはぶっとい鎖。鎖の先には、大きな大きな鉄球。身動きするたびにジャラジャラと、金属質な音が響いてうるさかった。やたらと明るい照明が、真上から光を投げかける。人の気配はない。話し声も聞こえない。大きく壁に映る自分の影をぼんやり眺めたまま、どのくらいが経ったんだろう。ふと、近づいてくる足音に気が付いた。カツンカツン、と、硬質な足音はだんだんと大きくなって、扉の前で止まる。緊張からか恐怖からか、心臓がどくどくと音を立てている。ガチャガチャと大仰な金属音。誰かの息遣いが、扉越しに聞こえるような気がする。早く覚めろ。早く。頰を叩いてみたけど効果はなかった。私の願いもむなしく、キィ、と、軽い音とともに、あっけなく扉が開いてしまう。
……なんか、何ていうか、やっぱりこの夢、すごいやばい。早く目覚めないと大変なことになる。
扉の向こうからその人がのぞいた瞬間、よくわからない危機感が全身を貫く。「やばい」思った言葉が無意識に口から溢れる。それが愉快だったのか、その人はくつくつと笑い声を立てる。「さて」聞きなれた、柔らかい声。彼はうれし気な笑みとともに独房の中に入ってきて、しゃがみ込んだ。それから私に視線を合わせて、とろりと微笑んでみせた。「俺の事を、常軌を逸してしまうほどに愛してくださるあーるじ?」なんて、あんまりにもあんまりな言葉とともに。やばい。マジで夢なら覚めてほしい。深層心理とか、無意識の願望とか、その手の言葉が脳内で真っ赤に点滅する。認めたくない。認めるわけにはいかない。だって、そこに立ってるのは。
「は、はせ」
へたり込んだ床が冷たい。握りしめた掌に汗がにじむ。途中まで絞り出した声は震えてしぼんで、格好悪い響きのままで空気を震わせる。「は、……せべ、くん」後ずさりをしたいのに、鉄球がじゃまで身動きが取れない。「はい。あなたの大好きな大好きな、俺です」サラサラの前髪が目の前で揺れる。見慣れた笑顔に、なじみ深い藤の花の香り。そこにいるのは長谷部くんだった。私の彼氏の、長谷部くんだった。だけど、それがまずい。安堵するどころか、ほとんど崖っぷちみたいな気持ちになってしまう。いつもの声に、いつもの笑顔。だけど、だけど、だけど。
「……なんで、」
唯一まずいのは、やばいのは、認めてはいけないのは。
「なんで、そんな格好、してるの」
黒い帽子にベルト付きのジャケット。首元までボタンを締めて、きっちりとネクタイまで結んでいる。きっちりとしたその恰好はお巡りさんにも少し似ていた。だけどお巡りさんじゃないことは何となくわかる。だってここは刑務所なので。おまけに私は囚人服を着ている。ということは、長谷部くんのこの格好は、きっと。
「なぜって。お好きでしょう?」
腰のベルトにぶら下げた鞭を、綺麗な指先が弄ぶ。「貴女はお好きでしょう、こういうのが。これは全て、主が望んだことですよ。ここはそういう場所、ですからね」つやつやと光る、真っ黒な革製の鞭。短く切りそろえられた爪が、ゆっくりゆっくりと鞭の持ち手にかかる。「そ、そういう、場所って」心臓が変な音を立てていた。「どういう場所なの」とてつもなく眼福、違った、目に毒、いや、心臓に悪い?どれも正しいようで違うような気がするけど、とにかく。とてつもない格好をした長谷部くんから目をそらしたいのに、それも叶わなかった。いつもよりも少し強引なやり方で、左手の親指が私の顎を引っ掛けて、引き上げる。顎クイ、顎クイだ。いっつも(ちょっとえっちな)漫画で読んでるやつだ。脳内で、色々な思いが錯綜する。目の前には、嗜虐的な色をたたえた薄紫色の瞳。「知れたことを」私にささやく声は、それでも、いつもとおんなじにとびきり甘ったるい。
「ここは刑務所です」
「けいむしょ」
「はい。俺は看守、貴女は囚人というわけですね。もうお分かりでしょうが」
「えっと、それで一体、私は何の罪でここに」
「偽証罪」
「ぎ、ぎしょうざい」
「はい。俺に嘘をつかれては困りますよ、主」
「や、別に嘘なんて」
「ついているでしょう、先ほどからずっと」
あかん!!!!
なぜか関西弁になってしまった脳みそを、振り返る余裕すらも失せている。思考回路はショート寸前だった。これは、これは、あかんやつ。さらに距離を詰めてくる長谷部くんから逃れようと、震える足で後ずさりをする。だけど、二、三歩も下がったところで鉄球にぶつかって、それ以上どうしようもなくなってしまう。右を見たり左を見たり上を向いたり、目を泳がせまくってもみたけれどそれも無駄な抵抗だった。両手でがっしりと頭を掴まれて、キスをする寸前みたいな状態で固定されてしまった。「いけませんよ、きちんと俺を見てくださらなくては」やばい、いけない、それいじょう、いけない。まともな言葉は出てこなかった。「いったん、おねがい、いったん、ちょっと、タンマ」支離滅裂にバラバラと口走る私を見て、長谷部くんは嬉しげに笑う。「嫌です」なんてサディスティックな笑顔。うっとりと頭のどこかで声がするのを、否定する。違う。そうじゃない。その扉を開いてはいけない気がするのだ。だから、絶対、これ以上、いけない。
「ねぇ、主。俺の主」
「な、何かな、ねぇちょっとよくないんじゃないかなこの体制」
「? 何か問題が?」
「ふ、風紀が、ほら、あるでしょ刑務所内の風紀とか、公序とか、良俗とか、なんか、そういうのが乱れる気がするんだけど」
「ああ、問題ありません。だってこれは貴女の夢なので」
「ゆ、夢なら、覚めてほしいなあ、早く」
「だめですよ、逃がしません。貴女が認めてくださるまでは」
「み、……認めるって、何を?」
背中にぶつかる鉄球が冷たい。それとは裏腹に、なぜか体は熱くほてる。長谷部くんが、私を見下ろしている。体の自由を奪われた私を。それは、普段とは真逆の、倒錯した業況だった。あるじ、俺のあるじ。甘くて、密やかで、どこか危うげな声。鎖に繋がれた手首を、長谷部くんの指先がつう、となぞる。爪でひっかくようにされて背筋が泡立つ。「貴女が、心の奥底で願っていたことを」歌うように長谷部くんは続ける。冷ややかに私を見下して、まるでご主人様のように。ご主人さま、って、私は何を考えてるんだろう。「貴女は、支配されたかった。そうでしょう?」瞬きを繰り返す。どくどくと心臓が、狂ったような音を立てる。鎖が体に食い込んで痛い。それを、どこか甘い感覚で受け止めている自分がいる。「ち、ちが、」やばい、これ以上いけない。
夢なら覚めろ、と願う私に、嘲笑うような声がする。
「そう、これは夢だ。貴女が望んだことを、叶えて差し上げるためだけに在る」
「…………えっと、あの、えっと」
「全ては、貴女がお望みのままですよ、主」
「や、私は、こんなの全然、……なんのことやら」
「いいえ、貴女が望んだんですよ、俺の主。奪われたかったんでしょう? 責任も、重圧も、思考も。全てを奪われて、俺にただ隷属したかった。そうでしょう?」
真っ黒な制服。ときめいてる場合でも、甘ったるい空気になってる場合でも、全然ないのに。「そんな、そんな、やだ待ってそれ以上いけない」慌てて口走った言い訳の声は相変わらず震えている。長谷部くんは私の制止の言葉なんかはねのけて、更に距離を詰めてくる。「なぜです」薄紫色の、瞳が。私をのぞきこんで、にい、と三日月に歪む。きれいなきれいな、藤色の瞳。「な、ぜ、って」そこに写り込んだ私は、どうしてだろう、とびきり、厭らしい顔をしている、ような。心臓が痛い。これ以上、いけない。この痛みの、動悸の、耳鳴りの、正体を確かめてはいけないのに。それなのに長谷部くんは、ただ繰り返して、私に答えを促す。「なぜです? なぜそれが、いけないこと、なんですか?」
……なぜ。
なぜ、って。
「だって、こんなの、絶対だめで」
「そうですね、貴女には受け入れ難かった。どうしてでしょうね?」
「だってわたし、私は、主だから、審神者だから、ちゃんとしないと、そうしないと」
「不安でしたか? 俺が、そんなことで貴女に失望するとでも思いましたか?」
わざとらしいため息。全てをわかっているような目で、彼は私を見下ろす。
「俺に、かくしごともしていましたね。本棚の二番目の奥に。貴女は『これ』を望んでいたんでしょう、きっと、ずっとずっと、幼い頃から」
「な、んで、それ」
「知っているに、決まってます。時折あの本を開いては、貴女が空想にふけっていたことも」
「ち、ちが、」
「何が違うんです」
「……、」
「おかわいそうな俺の主。ずっと我慢していたんですか? 辛かったですね。本などに頼らず、俺に言ってくださればよかったのに」
焦りと不安と絶望と、ほんの少しの安堵。相反する感情は雪崩を起こして、ぐらぐらと私の脳みそを揺らす。
本棚の、二番目の、奥。
それはささやかな、私の秘密だった。隠していたのはなんてこともない、ただの写真集だった。子供向けの、世界の警察とか刑務所とか、看守さんの制服なんかの写真がずらりと載ってるだけの他愛もない写真絵本。『わるいこは、おまわりさんにつれられて、ここにはいります。どくぼうでは、かんしゅさんがそれぞれにあった罰をほどこします』小さい頃から繰り返し繰り返し読んだ解説の言葉。罰、という言葉は、小さい私にとってなんだか蠱惑的な響きを持っていた。それは『大好き』とも違う、なんだか仄暗い感情だった。誰かに知られてはいけない気がした。それなのにどうしても手放せなくて、結局本丸まで持ってきてしまった。何度も処分しようと思ったのに駄目で、そのページを開くたびにこみ上げてくる感情を、何度も何度も打ち消した。知られてはいけない、絶対バレちゃ駄目だったのに。
「認めてしまえばいいじゃないですか。俺だけは、貴女を赦しましょう。貴女はずっと、これを望んでいたんです。ね、せめて夢の中でくらい、全て忘れていいんですよ。立場も、責任も、全て忘れて。貴女の罪なんて、全て俺が、呑み込んであげますから」
言葉に詰まる。ただじんじんと頬が熱かった。絞り出そうとした否定の言葉は、ただこんがらがって喉に詰まる。ひ、と、悲鳴じみた声を上げてしゃくりあげる私を、彼はうっとりと見つめる。「泣かないでください。大丈夫、怖いことなんて、何もしません」聖人めいた、柔らかい笑み。違う、と言いかける口はキスで塞がれた。
「いけないこですね」、なんて。子供に言うみたいな口調は優しげで、寛大で、それなのにどこか淫靡な気配がした。「いけないこには、罰が必要です。そうでしょう」恍惚とした視線。つ、と。肌の上を鞭が這う。こんなの、絶対、だめで。だめ、なのに。面白げに、喉を鳴らして笑う声。私の願望も、欲望も、ぜんぶぜんぶ見透かしたみたいな。
「そう、あってはいけないことです。だけど、きもちいいですね? 駄目なのに、いけないのに。きもちよくて、堪らないでしょう? 」否定は、快楽と紙一重だった。ああ、なんて厭らしい、はしたない格好を、私は。自分で自分を責め苛んでそれすらも恍惚の材料にして、自ら思考をぐずぐずに溶かしていく。体をよじるたびにじゃらじゃらと鎖がまとわりついて、四肢の自由が奪われる。指先一つすら、自分の意思では動かせない。それすらも私の脳は、『きもちいいこと』に変換する。そんなんじゃない、私は、縛られて喜ぶような、そんな変態なんかじゃない、はず、なのに。
「抵抗は無駄ですよ、主。俺は今、貴女を罰し、矯正し、隷属させるために、ここにいるんです。うれしいでしょう? うれしいですよね? それなら、ほら、言うことがあるでしょう」隷属、罰を、もらうために、私は、ずっと? 羞恥心と焦燥感、自分への失望と、奇妙な喜び。違うって、言わなきゃ。違う、そうじゃないって、言わなきゃ。それなのに、私を辱める言葉を、声を、私の身体は悦んで受け入れてしまう。身体の中心からぐずぐずに溶けて、だめになっていくのがわかった。だめになってしまう自分を、認めてしまいそうな自分が怖かった。
「貴女はずっと、嘘をついていた。そうですよね? 本当はずっとずっと、こうされたかったんです。だからきちんと、『ごめんなさい』を言わなければ。ほら、早く」矢継ぎ早に急かす声に、焦りが加速する。何か言わないと。だけど、もう一度否定を口にしたら、言い終わる前に、乾いた音に中断された。呆然としていると、もう一度。ぺしん、と乾いた音と、右の掌に走る、衝撃。熱い、と、思った次の瞬間には、ひりひりとそこが痛み出す。「ああ、赤くなってしまいますね、おかわいそうに」鞭で叩かれたんだ、と、その後で漸く気づいた。うっすらと赤みがさした右手に、長谷部くんが柔らかく唇を寄せる。「っ、あ」ぞく、と。恐怖とも不安とも違う感覚が、身体中を開いて、うるませていく。ひりひりと痛んで、その分敏感になったそこを宥めるみたいに、ゆっくりと舌が這う。濡れた感触。情事の時のような、厭らしい音が聴覚も犯していく。
「それで? ほら、ちゃんとお口を開けて。きちんと言わなきゃ、続きをしてあげませんよ」
冷たくて柔らかくて、しなやかな感触。つつつ、と。鞭の先っぽが体を伝う。手首から腕、肩、首を通って、口元まで。促されるままに口を開いて、入ってきたそれを舐めた。まるで別の何かにするみたいに、いやらしく舌を這わせて、唾液を絡めて。「ごめん、なさい」おずおずと口にした瞬間に、全てが瓦解してしまう。張り詰めていた糸が緩んで、解けて、切れていくのがわかった。ちゃんとしないと。審神者として、本丸の主として、恥ずかしくないように。そんなふうに自分を律していた何かが、ぼろぼろと崩壊していくのがわかった。「ごめん、なさい。私はずっと、嘘を」ぺち、と、今度は太ももに鞭が落ちる。むき出しになった肌は薄っすらと赤くなって、すぐに熱を帯びてひりついた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。謝罪の言葉をこぼすたびに与えられる痛みを、まるでご褒美のように受け止める。鞭の音も、その感触も、ただ私を陶然とさせて、頭の芯までしびれさせる。恥ずかしくて、みっともなくて、痛くて、苦しくてーーそのぶんだけ、きもちいい。
ふ、と、笑みをこぼした気配すら毒だった。吐き出された息が肌をくすぐって、それだけで身体はビクビクと震えた。いつの間にかこぼれていた涙を拭い取られて、「よくできました」と頭を撫でられれば、まるで子供のように嬉しい気持ちだけでいっぱいになる。心地いい指先の感触。いい子、いい子。よくできました。甘やかな声に、ただふわふわと微笑む。だけど、優しいだけの掌じゃ、なくて。もっと、もっと、本当は。本当に、私が、ほしいのは。
「主は、ちゃんと『ごめんなさい』ができる、いい子ですね」
ごくり、と、無意識に喉が鳴った。骨ばった指先の、きれいに切りそろえられた爪。だらりと開いた足の間が、熱を孕んでじくじくとうずく。はせべくん、物欲しげな私の声に、彼は歌うような声を返す。「いい子の主に、ご褒美をさしあげなくては」ご褒美。欲しい物。きゅ、と、服の裾を掴んで顔をうつむかせる。視線をそらしてはいけないのに。咎められることも、なじられることも、本当はわかっているのに。「ほら、言ってください。俺に、何をしてほしいのですか?」期待通りに顎を掴まれて、視線を引き戻される。だらしない、恍惚とした表情の女が、きれいな瞳に写り込んでいる。促されるままに口をひらいた。抵抗感なんて、理性なんて、もう殆ど残っていなかった。
「もっと、私を」
もっともっといじめて、罰して、縛って。そして私を、あなただけのものに。
▽
「っあかん!!!」
自分の声で飛び起きる。なぜ関西弁。思ったけど、理由はよくわからなかった。ばくばくと脈を打つ心臓を抑えて息を吐く。あたりは真っ暗だった。いつもの畳に、いつもの天井。ここはいつもの執務室だ。よかった……と、そう思ったけど、何が『よかった』のかはもうわからない。書類仕事に飽きて眠ってしまっていたらしい。夢を見ていた気がするけど、内容が思い出せなかった。随分長いこと寝てしまっていたようで、頬にくっきりとページの跡がついているのが、なんとなくわかった。枕にしていた腕は冷えてしびれて、もうすっかり感覚がない。今、何時なんだろ。妙に静かな、物音一つしない部屋で、自分の呼吸だけが響く。……長谷部くん、どこかな。考えたタイミングで、聞き慣れた足音が近づいてくるのがわかった。早足だけどどこか丁寧な、長谷部くんの足音。その足音がすたすたと廊下を抜けていき、まっすぐにこの部屋の前でとまる。
変だな、と思ったきっかけは、ふすまに映るシルエットだった。いつもの長谷部くんと違う、制服みたいなシルエット。帽子に、腰のくびれた胴体。まるで軍服みたいなシルエット。ふすまから除く指先を覆うのは、革の手袋だ。いつもの白手袋とは違う、真っ黒な革の手袋。月の光を受けたそれが、どことなく艶めかしい色合いで光る。
……嫌な予感が、する。
無意識に握りしめていた指先に、汗がにじむ。とてつもなく嫌な予感がする。この先を見てはいけない、ような。心臓が、脈を早めていくのがわかった。「はせべ、くん。……長谷部くん?」カラカラの声で呼ぶと、いつもみたいに「なんです?」と声が返ってくる。甘ったるくて優しくてうやうやしい、声。それなのになんでだろう、その声を聞いて安心するどころか、却って焦燥感は増していく。これは、まずいんじゃないか。これ以上、いけないんじゃ、ないかな。
すすす、と、音もなくふすまが開いた。その向こうから覗いた長谷部くんは、ニッコリと優しげな笑みを浮かべる。あ、あ、これ、だめなやつ。緊張とか焦燥とか、もろもろの感情が雪崩を打って押し寄せる。いっぱいいっぱいになりながら、私は今、ようやく、さっき見た夢を思い出したりなんかしている。
「さて」
ごく、と。つばを飲み込む音がうるさい。夢の中とおんなじに、この上なくフェティッシュな看守さんの格好をした長谷部くんが、私に視線を合わせて、笑う。
「俺の事を、常軌を逸してしまうほどに愛してくださるあーるじ?」
(※あかん!!!と叫んで今度こそ目を覚ましたら部屋の中はまだ明るくて、逃げ出そうと駆け出した先で私は、おやつのまんじゅうを二人分手にした長谷部くんと鉢合わせすることになる。「どうしたんですか、そんなに慌てて」と首をかしげる長谷部くんに、言えることなんて何一つなかった。なんであんな夢見たんだろう。欲求不満か?
この話はこれっきりでおしまいになるはずだったのに、よりによって私は毎夜毎夜謎のサディスティック長谷部くんを夢に見て、いつの間にかきっちりしっかり調教されてしまうことになる。神様にとって、夢と現実は大して変わりないんだと気づいたのは、ついさっきのことだった。ついさっき、長谷部くんが嗜虐的に口を歪めて、「『お仕置き』をしてほしいんですか。昨日、夢の中でして差し上げたみたいに」なんて、笑って見せたから、それで。
痛いのなんて好きじゃない、詰られるのもいじめられるのも好きじゃなかった、はずなのに。『お仕置き』の言葉に反応して、勝手に身体のスイッチが入る。「……おしおき、」物欲しげな声と、長谷部くんの、きれいなきれいな、微笑みと。いけないのに、だめなのに、思考回路は止められない。気がついたらとんでもないことを口走っている。「おしおき、して、ください」なんて。)