長谷部
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「さて」
温度のない声。何の感情も籠らない視線で私を見下ろして、長谷部くんは重い重いため息を吐いた。散らかった部屋。床に散らばる花瓶の破片、と、うつ伏せに横たわる男。さっきまで私の上司だった男だ。何で床が水浸しなのかというと、私が彼を花瓶で殴り倒したからだった。
「何か、申し開きはありますか? これは一体どういう事なんです。きちんと説明してください」
長谷部くんの言葉に、現行犯逮捕、とか、無期懲役、とか、ニュースで聞いたような単語が頭の中をぐるぐると回る。無表情だった瞳が不意に温度を取り戻し、煮えたぎるような憎悪をまっすぐにぶつけてくる。ごめん、と謝ろうとして口を噤む。何を言ってももう遅い。覆水盆に返らず。どう言い訳をしたところで、死人は蘇らない。もちろん、私が殺してしまった彼だって。
「どうして、……何故なんです、主」
「……、」
「……っ、黙っていないで、教えてください。何故なんだ、貴女はどうして」
薄い唇がわなわなと震えて、かすかに何か呟く。ゆるせない。確かにそう言ったように見えた。長谷部くんの手が痛いくらいの力で、私の両肩を掴む。それから、血を吐くような声が叫ぶ。
「どうしてその男を殺すのに、俺ではなくそんな適当な花瓶を用いてしまったんですか!」
「…………、は?」
「は、じゃないでしょう主、説明してください」
「いや、だって」
「言い訳は結構ですよ。無駄な弁解はせず、事実だけを教えてください」
「だって」
「だってじゃない」
「でも」
「でもじゃない」
「いやでも、でもさ一旦聞いて長谷部くん刀置いて。だって話の流れ的にさ、絶対そっちじゃなくない?」
「逆にそっち以外どっちに行けと言うんですか」
「どっちって、例えば」
「はい」
「例えばさあ、こう、どうして殺してしまったんですか、とか」
「理由を聞いて欲しいんですか?」
「え、うん、まあ」
「では聞きますが、どうしてですか?」
「えっと、皆で一生懸命溜めてた小判を、脱税だとかいちゃもんつけて差し押さえしようとしてきたから。前々からパワハラっぽくてうざかったのもあって、ついカッとなって」
「なるほど、それは万死に値しますね! そのような輩は死んで当然かと」
「え、そこはすんなり納得しちゃう感じなんだ」
「……? 、だって、主に刃向かった不届き者など、死んで当然に決まっているでしょう。後ほど晒し首にでもしておきますか? きっと、お庭の良いアクセントになりますよ」
「ごめん話の展開がアグレッシブすぎてついて行けない」
「パワハラを受けていたなんて、お労しい。お可哀想に、辛かったでしょう。今度からはお一人で無理に解決しようとせずに、きちんと俺に話してくださいね。真っ先に」
「ええー……うん、まあ、そうね……?」
「約束ですよ」
「え、ああ、うん……?」
「しかし、ご立派です。普段は虫も殺せないような主なのに、お一人でよく頑張りましたね」
「そこって褒めるとこなんだ」
「当然です。偉かったですね」
「あ、うん、ありがとう……?」
「いいえどういたしまして。ご褒美に今日のおやつは主お好きなものにしましょうね」
「わぁ、じゃあ私イチゴパフェが食べたい」
「かしこまりました。……ですが、話を戻しましょう。一番重要な問題が、まだ解決していません」
「一番重要な問題」
「理由を教えてください。俺がきちんと、納得が行くように。どうして俺じゃないんですか主、どうしてそんな、安物の花瓶などを使ってしまったんですか。国宝の俺を差し置いて、よりによって骨董屋で三千八百円で売られていただけの安物の花瓶を、どうして」
「全然重要じゃないところに戻ってきちゃった」
「戻ってきちゃった、じゃありません。どう考えてもこれが一番重要な所でしょう。許しませんよ、きちんと浮気の申し開きをしてください」
「浮気って」
「だってそうでしょう、俺と言う物がありながら。こいつの何がお気に召したと言うんです。この微妙に冴えないドドメ色の柄ですか? それとも、割れても惜しくない二束三文の値打ちですか?」
「ええ……。そんな深く考えたわけじゃないよ。普通に、ただ」
「普通に、ただ、何ですか?」
「た、ただ、たまたま近くにあったから。何となく手に取っちゃっただけで」
「たまたまなどと、その程度の理由で行きずりのそいつに手を出したということですか」
「やらしい言い方やめて」
「だってそうでしょう。行きずりのそいつに、主はご自身の初めてを捧げてしまったというわけでしょう」
「初めてって、だから言い方」
「……? 、まさかとは思いますが、主は今回が初犯ではないんですか?」
「そうだけど唐突に現実感ある言い方するのやめてほしい。事の大きさに潰れそうになっちゃう」
……何だこの会話。上目遣いに睨みつけられて、思わず「ごめん」と謝る。「謝ればいいという問題ではありません」となじられて、そのうえ「誠意を見せてください。貴女の一番は俺であると、きちんと俺に教えていただかないと」なんてヤクザみたいな無理難題を突きつけられて、いよいよ途方にくれる。長谷部くんは私に、一体どうしろと言うんだろうか。
気まずい沈黙は、一分半くらい続いた。はあ、と、わざとらしいため息をついた長谷部くんが、不意に本体の刀を手渡してくるので何となく受け取る。「握ってください」と促されて、気圧されて両手でそれを握り込んだ。だけど何かが違ったんだろう、血走った目で覗き込まれて息を飲む。
「違うでしょうもっと強く力を込めて、さぁ!」
「ごめん何が何だかわからないんだけど」
「ほら、きちんと俺を握り込んでください……もっと強く、両手でしっかりと。ね、こんな風に」
「昼間から何の話をしてるの」
「何の話って、決まっているでしょう。この男を生き返らせます」
「なん……?なんて?」
「この男を蘇生させたのちもう一度俺の本体で刺し殺します。主の初めてはこんな安物の花瓶ではなく俺であるべきなので」
「ごめん話の展開がアグレッシブすぎてぜんぜんついていけない」
「ええ、今は無理についてきていただかなくても結構ですよ。俺の本体は貴女に預けますから、そこに座って見物していてください。よろしいですね」
「……ええー……」
見た事のない、鬼気迫る表情。私の返事なんか待たずに、長谷部くんは男の心肺蘇生を測ろうとしている。手袋を外した指先が、おっさんのシャツをはだけさせた。俯いた顔の表情はわからない。ただ、規則的な衣擦れの音だけが部屋に響く。
……心臓マッサージなんて、この人一体どこで習ったんだろう。なんか忙しそうだけど、私も手伝った方がよくないかな。おかしな会話の連続に罪悪感とか倫理観とかが麻痺して、明後日の方向に思考が転がっていく。部屋のど真ん中に横たわる、おっさんの死体。それに馬乗りになっている近侍。この上なく奇妙な光景を私は、部屋の隅で体育すわりなんかしながら眺めている。
「ていうかさあ」
「はい」
「長谷部くんさあ」
「何ですか?」
「思ったんだけど、浮気も何も私たち付き合ってすらなくない?」
「唐突に何をおっしゃってるんですか主、付き合うも何も俺たちはすでに結婚しておりますよ。婚姻届は先日提出済みです」
「いやそっちこそ唐突に何を言ってるの長谷部くん」
「ご安心ください、僭越ながら俺の方で書類を作成し提出しておきました」
「ごめん冗談にしても意味がわからない」
「いけませんよ主。いくら元彼とやらとの思い出の品とはいえ、記入して結局提出せずじまいだった婚姻届など、後生大事に机に取っておくものではありません」
「うわぁ、あまりの事態に何をどうしたらいいのかわからなくなってきちゃった」
「本当に気をつけていただかないと。悪い男に悪用されてからでは遅いんですからね、全く」
「長谷部くんがそれを言うんだ」
「ははは、ところで、主」
「なに?」
「俺も愛しておりますよ」
「俺もってどういうことなのねえ無視しないで」
本当なのか冗談なのかわからない。だけど、「ねぇそれ冗談だよね」と口から飛び出た私の声に首を振って、「健やかなる時も病める時もあなたを愛し慈しみお守り致しますね、俺の主」とうっとり微笑む長谷部くんは、妙に本気っぽくて怖かった。
どうしよう。市役所に確認しに行かないと。でも、こんなにも現行犯逮捕な状態で、呑気に市役所に問い合わせなんかしていて大丈夫だろうか。今回は初犯ということで執行猶予なんかつけてもらちゃったりしないだろうか。むしろ蘇生が完了した段階で、一旦休憩を取らせてもらって市役所に走ったほうが良くないか。
そんな私の全力の心配も、たった数分であえなく中断された。長谷部くんが心臓マッサージをやめて、男の顎を上向かせて顔を近づけ始めたからだ。おいちょっと待て何だこの怪しい空気は。私が割って入るよりも早く、長谷部くんはよりによって、よりに、よって。
「ちょっと待て、ねぇ今何した?」
「何って、気道の確保と人工、」
「人工呼吸ってそれつまりキスじゃん! ねぇつまりキスしたんだよね今!?」
「落ち着いてください主、これはあくまで心肺蘇生のための措置であって」
「酷い! 私に好きとか言った癖に、心肺蘇生するためなら浮気してもいいって言った!」
「言ってません!」
「言ったじゃん、私とそのおっさんどっちが大切なの!?」
「何でそんな話になるんですか!?」
「だってそうじゃん、長谷部くんはそのおっさんを生き返らせるためだったらキスしてもいいんでしょ」
「そ、それは仕方ないじゃないですか。この男を生き返らせないことには、主の初めてを俺でやり直すことなど」
「酷い! 目的を果たすためなら手段を選ばず、例えば行きずりのおっさんにファーストキスを捧げることすらも厭わないって言ってる! この浮気者!」
「言ってませんし俺の初めては主なので問題ありません!」
「口から出まかせに何を言ってるの長谷部くん」
「出まかせでも何でもありません、俺の初めての口付けは半年前に主が酔いつぶれて寝ているタイミングで済ませたので問題ありません」
「それは大問題だよね長谷部くん、どさくさに紛れて何をカミングアウトしてくれてんの」
次々と明らかになる衝撃の事実。もはや眼の前の死体のことなど忘れかけていた。「じゃあ、じゃあ、もしかして」これまでの不審な思い出の数々が、唐突に目の前に立ち上っては頭の中をぐるぐると回る。「もしかして、夜に長谷部くんと一緒に寝てるみたいな夢を見たのとか、何故かお布団から藤の香りがするのとか、起き抜けの部屋の中に人の気配が漂ってたりするのとかって」
あれも、これも、それも、お前の仕業か長谷部くん。問い詰めなくてもなんとなく答えは察した。なぜなら長谷部くんがほんのり頬を染めて、それはそれは嬉しそうに微笑んだりするもんだから。
「ですが嬉しいです、主」
「何がよ」
「主が、俺に焼き餅を焼いてくださるなんて」
「えええ、いま絶対そこじゃなくない?」
「いいえこれが、これこそが今この瞬間において一番重要なことです。申し訳ありませんでした、なんとお詫びして良いのかわかりません。目先の嫉妬心に囚われ、俺はあなたに酷いことをしてしまいましたね」
「ええ、……いや、うん、いや、うーん……?」
「すみませんでした。主の御心も知らずに、こんな。一時の浮気心など赦して差し上げるべきでしたね、主の一番が俺であることなど、わかりきっていたはずなのに」
「えええ」
「主の一番が俺であることなどわかりきっていたはずなのに」
「何で二回言ったの」
「主の一番が、」
「三回も言わなくていいよ」
「だってそうですよね、最初からずっと、主の一番は俺なんでしょう?」
「……それは、まあ、うん、そうだと言えないことも、ないけど」
……あれ、本当に何だこの空気。感極まったみたいに「主!」と叫んで、長谷部くんが抱きついてくる。「好きです嬉しいです愛してます、漸く俺に、本当のことを言ってくださいましたね」甘ったるい声に幸せの絶頂みたいな笑顔。急転直下の事態に脳みそがついていけなくて、曖昧にうなずいたりなんかしている。
嫌いじゃないよ、うん。長谷部くんのことは嫌いじゃなかった。むしろ好きだと言ってもいいっていうか結構好きっていうかまあ、好きだけど。好きだけどいきなり付き合うとか結婚とかそういう話にはならない。「だめですか?」って可愛い顔なんかしてもだめだよ長谷部くん、まずはお友達から始めようよ交換日記とかさ。「……駄目ですか?どうしても?」って、どうしてもだよ長谷部くん何ちょっと顔近くない?いや待ってちょっとタンマ、わーーー!
上げかけた悲鳴は全部キスに飲み込まれた。なんだこれ。どうしてこんなことになった。位置から十まで一切の事態が飲み込めないまま、混乱する私の背後から「けふっ」とかすかな呼吸が聞こえる。
振り返れば、よれよれの顔で、おっさんの死体が体を起こしかけていた。「あー……君たち」よわよわしい声に、つまりこのおっさん本当に蘇生したんだすごいじゃん長谷部くん、と今更に状況を思い出す。大嫌いなパワハラクソ上司とはいえ、せっかく苦労して蘇生したのをもう一度殺すなんて気がひけるな。うんざりしながら長谷部くんの本体を抜いて向き直った私に、おっさんは弱々しくほほえみながら、一言。
「すまないが教えていただけませんか、私は誰で、ここはどこで、あんたらは誰でしたっけねぇ」
▽
そこからはトントン拍子にことが進んだ。おっさんはなんと、私の一撃で記憶の一部を失ってしまっていたのだ。「奴も息を吹き返したことだし、今回は未遂ということで多めに見て差し上げます」ってことで、長谷部君は私の浮気を不問に付すことにしたらしい。
おっさんはと言うと長谷部くんの巧みな話術と洗脳(何で長谷部くんはこんなことばっか得意なの)によりすっかり好々爺と化し、それ以来私にパワハラを仕掛けることもなくなった。かつての険悪さが嘘のように、本丸と政府の関係は冗談みたいな良好さを保っている。
市役所に確認してみた所、本当に婚姻届が提出されていたことが判明してその辺は結構揉めた。だけど結局ほだされて長谷部くんと結婚してしまうことにしたんだから、私は意思が弱くて駄目なのだ。だって、「だめですか」とうなだれて、上目遣いに私を見る長谷部くんが、どうしてもどうしてもどうしても、可愛く見えてしまったものだから。
どうしてこんな事になった。何度も繰り返した疑問が今でもたまに頭をもたげるけど、長谷部くんは幸せそうなのでまあこれで良いってことなんだろう。
というわけで、目下結婚式の準備で忙しい。仲人はもちろん、上司のおっさんに頼むことにしている。
温度のない声。何の感情も籠らない視線で私を見下ろして、長谷部くんは重い重いため息を吐いた。散らかった部屋。床に散らばる花瓶の破片、と、うつ伏せに横たわる男。さっきまで私の上司だった男だ。何で床が水浸しなのかというと、私が彼を花瓶で殴り倒したからだった。
「何か、申し開きはありますか? これは一体どういう事なんです。きちんと説明してください」
長谷部くんの言葉に、現行犯逮捕、とか、無期懲役、とか、ニュースで聞いたような単語が頭の中をぐるぐると回る。無表情だった瞳が不意に温度を取り戻し、煮えたぎるような憎悪をまっすぐにぶつけてくる。ごめん、と謝ろうとして口を噤む。何を言ってももう遅い。覆水盆に返らず。どう言い訳をしたところで、死人は蘇らない。もちろん、私が殺してしまった彼だって。
「どうして、……何故なんです、主」
「……、」
「……っ、黙っていないで、教えてください。何故なんだ、貴女はどうして」
薄い唇がわなわなと震えて、かすかに何か呟く。ゆるせない。確かにそう言ったように見えた。長谷部くんの手が痛いくらいの力で、私の両肩を掴む。それから、血を吐くような声が叫ぶ。
「どうしてその男を殺すのに、俺ではなくそんな適当な花瓶を用いてしまったんですか!」
「…………、は?」
「は、じゃないでしょう主、説明してください」
「いや、だって」
「言い訳は結構ですよ。無駄な弁解はせず、事実だけを教えてください」
「だって」
「だってじゃない」
「でも」
「でもじゃない」
「いやでも、でもさ一旦聞いて長谷部くん刀置いて。だって話の流れ的にさ、絶対そっちじゃなくない?」
「逆にそっち以外どっちに行けと言うんですか」
「どっちって、例えば」
「はい」
「例えばさあ、こう、どうして殺してしまったんですか、とか」
「理由を聞いて欲しいんですか?」
「え、うん、まあ」
「では聞きますが、どうしてですか?」
「えっと、皆で一生懸命溜めてた小判を、脱税だとかいちゃもんつけて差し押さえしようとしてきたから。前々からパワハラっぽくてうざかったのもあって、ついカッとなって」
「なるほど、それは万死に値しますね! そのような輩は死んで当然かと」
「え、そこはすんなり納得しちゃう感じなんだ」
「……? 、だって、主に刃向かった不届き者など、死んで当然に決まっているでしょう。後ほど晒し首にでもしておきますか? きっと、お庭の良いアクセントになりますよ」
「ごめん話の展開がアグレッシブすぎてついて行けない」
「パワハラを受けていたなんて、お労しい。お可哀想に、辛かったでしょう。今度からはお一人で無理に解決しようとせずに、きちんと俺に話してくださいね。真っ先に」
「ええー……うん、まあ、そうね……?」
「約束ですよ」
「え、ああ、うん……?」
「しかし、ご立派です。普段は虫も殺せないような主なのに、お一人でよく頑張りましたね」
「そこって褒めるとこなんだ」
「当然です。偉かったですね」
「あ、うん、ありがとう……?」
「いいえどういたしまして。ご褒美に今日のおやつは主お好きなものにしましょうね」
「わぁ、じゃあ私イチゴパフェが食べたい」
「かしこまりました。……ですが、話を戻しましょう。一番重要な問題が、まだ解決していません」
「一番重要な問題」
「理由を教えてください。俺がきちんと、納得が行くように。どうして俺じゃないんですか主、どうしてそんな、安物の花瓶などを使ってしまったんですか。国宝の俺を差し置いて、よりによって骨董屋で三千八百円で売られていただけの安物の花瓶を、どうして」
「全然重要じゃないところに戻ってきちゃった」
「戻ってきちゃった、じゃありません。どう考えてもこれが一番重要な所でしょう。許しませんよ、きちんと浮気の申し開きをしてください」
「浮気って」
「だってそうでしょう、俺と言う物がありながら。こいつの何がお気に召したと言うんです。この微妙に冴えないドドメ色の柄ですか? それとも、割れても惜しくない二束三文の値打ちですか?」
「ええ……。そんな深く考えたわけじゃないよ。普通に、ただ」
「普通に、ただ、何ですか?」
「た、ただ、たまたま近くにあったから。何となく手に取っちゃっただけで」
「たまたまなどと、その程度の理由で行きずりのそいつに手を出したということですか」
「やらしい言い方やめて」
「だってそうでしょう。行きずりのそいつに、主はご自身の初めてを捧げてしまったというわけでしょう」
「初めてって、だから言い方」
「……? 、まさかとは思いますが、主は今回が初犯ではないんですか?」
「そうだけど唐突に現実感ある言い方するのやめてほしい。事の大きさに潰れそうになっちゃう」
……何だこの会話。上目遣いに睨みつけられて、思わず「ごめん」と謝る。「謝ればいいという問題ではありません」となじられて、そのうえ「誠意を見せてください。貴女の一番は俺であると、きちんと俺に教えていただかないと」なんてヤクザみたいな無理難題を突きつけられて、いよいよ途方にくれる。長谷部くんは私に、一体どうしろと言うんだろうか。
気まずい沈黙は、一分半くらい続いた。はあ、と、わざとらしいため息をついた長谷部くんが、不意に本体の刀を手渡してくるので何となく受け取る。「握ってください」と促されて、気圧されて両手でそれを握り込んだ。だけど何かが違ったんだろう、血走った目で覗き込まれて息を飲む。
「違うでしょうもっと強く力を込めて、さぁ!」
「ごめん何が何だかわからないんだけど」
「ほら、きちんと俺を握り込んでください……もっと強く、両手でしっかりと。ね、こんな風に」
「昼間から何の話をしてるの」
「何の話って、決まっているでしょう。この男を生き返らせます」
「なん……?なんて?」
「この男を蘇生させたのちもう一度俺の本体で刺し殺します。主の初めてはこんな安物の花瓶ではなく俺であるべきなので」
「ごめん話の展開がアグレッシブすぎてぜんぜんついていけない」
「ええ、今は無理についてきていただかなくても結構ですよ。俺の本体は貴女に預けますから、そこに座って見物していてください。よろしいですね」
「……ええー……」
見た事のない、鬼気迫る表情。私の返事なんか待たずに、長谷部くんは男の心肺蘇生を測ろうとしている。手袋を外した指先が、おっさんのシャツをはだけさせた。俯いた顔の表情はわからない。ただ、規則的な衣擦れの音だけが部屋に響く。
……心臓マッサージなんて、この人一体どこで習ったんだろう。なんか忙しそうだけど、私も手伝った方がよくないかな。おかしな会話の連続に罪悪感とか倫理観とかが麻痺して、明後日の方向に思考が転がっていく。部屋のど真ん中に横たわる、おっさんの死体。それに馬乗りになっている近侍。この上なく奇妙な光景を私は、部屋の隅で体育すわりなんかしながら眺めている。
「ていうかさあ」
「はい」
「長谷部くんさあ」
「何ですか?」
「思ったんだけど、浮気も何も私たち付き合ってすらなくない?」
「唐突に何をおっしゃってるんですか主、付き合うも何も俺たちはすでに結婚しておりますよ。婚姻届は先日提出済みです」
「いやそっちこそ唐突に何を言ってるの長谷部くん」
「ご安心ください、僭越ながら俺の方で書類を作成し提出しておきました」
「ごめん冗談にしても意味がわからない」
「いけませんよ主。いくら元彼とやらとの思い出の品とはいえ、記入して結局提出せずじまいだった婚姻届など、後生大事に机に取っておくものではありません」
「うわぁ、あまりの事態に何をどうしたらいいのかわからなくなってきちゃった」
「本当に気をつけていただかないと。悪い男に悪用されてからでは遅いんですからね、全く」
「長谷部くんがそれを言うんだ」
「ははは、ところで、主」
「なに?」
「俺も愛しておりますよ」
「俺もってどういうことなのねえ無視しないで」
本当なのか冗談なのかわからない。だけど、「ねぇそれ冗談だよね」と口から飛び出た私の声に首を振って、「健やかなる時も病める時もあなたを愛し慈しみお守り致しますね、俺の主」とうっとり微笑む長谷部くんは、妙に本気っぽくて怖かった。
どうしよう。市役所に確認しに行かないと。でも、こんなにも現行犯逮捕な状態で、呑気に市役所に問い合わせなんかしていて大丈夫だろうか。今回は初犯ということで執行猶予なんかつけてもらちゃったりしないだろうか。むしろ蘇生が完了した段階で、一旦休憩を取らせてもらって市役所に走ったほうが良くないか。
そんな私の全力の心配も、たった数分であえなく中断された。長谷部くんが心臓マッサージをやめて、男の顎を上向かせて顔を近づけ始めたからだ。おいちょっと待て何だこの怪しい空気は。私が割って入るよりも早く、長谷部くんはよりによって、よりに、よって。
「ちょっと待て、ねぇ今何した?」
「何って、気道の確保と人工、」
「人工呼吸ってそれつまりキスじゃん! ねぇつまりキスしたんだよね今!?」
「落ち着いてください主、これはあくまで心肺蘇生のための措置であって」
「酷い! 私に好きとか言った癖に、心肺蘇生するためなら浮気してもいいって言った!」
「言ってません!」
「言ったじゃん、私とそのおっさんどっちが大切なの!?」
「何でそんな話になるんですか!?」
「だってそうじゃん、長谷部くんはそのおっさんを生き返らせるためだったらキスしてもいいんでしょ」
「そ、それは仕方ないじゃないですか。この男を生き返らせないことには、主の初めてを俺でやり直すことなど」
「酷い! 目的を果たすためなら手段を選ばず、例えば行きずりのおっさんにファーストキスを捧げることすらも厭わないって言ってる! この浮気者!」
「言ってませんし俺の初めては主なので問題ありません!」
「口から出まかせに何を言ってるの長谷部くん」
「出まかせでも何でもありません、俺の初めての口付けは半年前に主が酔いつぶれて寝ているタイミングで済ませたので問題ありません」
「それは大問題だよね長谷部くん、どさくさに紛れて何をカミングアウトしてくれてんの」
次々と明らかになる衝撃の事実。もはや眼の前の死体のことなど忘れかけていた。「じゃあ、じゃあ、もしかして」これまでの不審な思い出の数々が、唐突に目の前に立ち上っては頭の中をぐるぐると回る。「もしかして、夜に長谷部くんと一緒に寝てるみたいな夢を見たのとか、何故かお布団から藤の香りがするのとか、起き抜けの部屋の中に人の気配が漂ってたりするのとかって」
あれも、これも、それも、お前の仕業か長谷部くん。問い詰めなくてもなんとなく答えは察した。なぜなら長谷部くんがほんのり頬を染めて、それはそれは嬉しそうに微笑んだりするもんだから。
「ですが嬉しいです、主」
「何がよ」
「主が、俺に焼き餅を焼いてくださるなんて」
「えええ、いま絶対そこじゃなくない?」
「いいえこれが、これこそが今この瞬間において一番重要なことです。申し訳ありませんでした、なんとお詫びして良いのかわかりません。目先の嫉妬心に囚われ、俺はあなたに酷いことをしてしまいましたね」
「ええ、……いや、うん、いや、うーん……?」
「すみませんでした。主の御心も知らずに、こんな。一時の浮気心など赦して差し上げるべきでしたね、主の一番が俺であることなど、わかりきっていたはずなのに」
「えええ」
「主の一番が俺であることなどわかりきっていたはずなのに」
「何で二回言ったの」
「主の一番が、」
「三回も言わなくていいよ」
「だってそうですよね、最初からずっと、主の一番は俺なんでしょう?」
「……それは、まあ、うん、そうだと言えないことも、ないけど」
……あれ、本当に何だこの空気。感極まったみたいに「主!」と叫んで、長谷部くんが抱きついてくる。「好きです嬉しいです愛してます、漸く俺に、本当のことを言ってくださいましたね」甘ったるい声に幸せの絶頂みたいな笑顔。急転直下の事態に脳みそがついていけなくて、曖昧にうなずいたりなんかしている。
嫌いじゃないよ、うん。長谷部くんのことは嫌いじゃなかった。むしろ好きだと言ってもいいっていうか結構好きっていうかまあ、好きだけど。好きだけどいきなり付き合うとか結婚とかそういう話にはならない。「だめですか?」って可愛い顔なんかしてもだめだよ長谷部くん、まずはお友達から始めようよ交換日記とかさ。「……駄目ですか?どうしても?」って、どうしてもだよ長谷部くん何ちょっと顔近くない?いや待ってちょっとタンマ、わーーー!
上げかけた悲鳴は全部キスに飲み込まれた。なんだこれ。どうしてこんなことになった。位置から十まで一切の事態が飲み込めないまま、混乱する私の背後から「けふっ」とかすかな呼吸が聞こえる。
振り返れば、よれよれの顔で、おっさんの死体が体を起こしかけていた。「あー……君たち」よわよわしい声に、つまりこのおっさん本当に蘇生したんだすごいじゃん長谷部くん、と今更に状況を思い出す。大嫌いなパワハラクソ上司とはいえ、せっかく苦労して蘇生したのをもう一度殺すなんて気がひけるな。うんざりしながら長谷部くんの本体を抜いて向き直った私に、おっさんは弱々しくほほえみながら、一言。
「すまないが教えていただけませんか、私は誰で、ここはどこで、あんたらは誰でしたっけねぇ」
▽
そこからはトントン拍子にことが進んだ。おっさんはなんと、私の一撃で記憶の一部を失ってしまっていたのだ。「奴も息を吹き返したことだし、今回は未遂ということで多めに見て差し上げます」ってことで、長谷部君は私の浮気を不問に付すことにしたらしい。
おっさんはと言うと長谷部くんの巧みな話術と洗脳(何で長谷部くんはこんなことばっか得意なの)によりすっかり好々爺と化し、それ以来私にパワハラを仕掛けることもなくなった。かつての険悪さが嘘のように、本丸と政府の関係は冗談みたいな良好さを保っている。
市役所に確認してみた所、本当に婚姻届が提出されていたことが判明してその辺は結構揉めた。だけど結局ほだされて長谷部くんと結婚してしまうことにしたんだから、私は意思が弱くて駄目なのだ。だって、「だめですか」とうなだれて、上目遣いに私を見る長谷部くんが、どうしてもどうしてもどうしても、可愛く見えてしまったものだから。
どうしてこんな事になった。何度も繰り返した疑問が今でもたまに頭をもたげるけど、長谷部くんは幸せそうなのでまあこれで良いってことなんだろう。
というわけで、目下結婚式の準備で忙しい。仲人はもちろん、上司のおっさんに頼むことにしている。