山鳥毛
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
じゅう、と、脂が溶ける音が蠱惑的に私を誘う。見事な差しの入った、まるで宝石のような色合いの牛肉が目に毒だった。見てはいけない。とっさに固く目を閉じた私の耳元で、山鳥毛さんが囁く。いつもとは全然違う、甘ったるくて、唆すみたいな声色で。
「小鳥は、すき焼きが好物だろう?」じゅうじゅう、じゅわじゅわ、じゅん。真っ暗な視界の向こうで、その声と、肉の焼ける音だけが鮮明だった。
「喜んで頂けるなら、嬉しいのだが。……最高ランクの山形牛だ。その中でも、選り抜きの品質の物を用意させた。この店のすき焼きは割り下が美味くてね。きっと君も気に入る」いっそのこと耳を塞いでしまいたかったのに、それも叶わない。「おいで」と肩を抱き寄せられて、気が付いた時には膝の上に抱っこされてしまっている。反射的に体を固くすれば。「安心しなさい、取って食いはしないさ」と笑われた。
あとちょっとだったのに。焦りと不安が一緒くたになって少し泣きそうになる。死ぬほどの苦労の末にやっとのことで本丸を抜け出して、あと一歩で現世への転送ゲートにたどり着けるはずだったのだ。そこを見咎められて、「近侍殿は大層ご立腹だったぞ。私が君を連れて帰れば、どんな楽しい事が起きるか。小鳥にも想像がつくのではないかな」と脅され、この料亭に連れてこられたのが数分前の事だった。「悪い様にはしないと約束しよう」と山鳥毛さんは請け合ってくれたのに、これは一体どういう事だ。「卑怯だ……」口から出た言葉に、紅い瞳が面白げに笑う。
「誉め言葉と受け取っておこう。さ、小鳥。意地を張るのは、そろそろ終わりにしたらどうだ?」
屈するわけにはいかない。私は絶対、負けるわけにはいかなかった。絶対に今だけは、太るわけにはいかない。なぜなら。
なぜなら今日は、昨年末から待ちに待った推しのサイン会があるのだから。
現世への転送ゲートに、やたらと厳しい体重制限が設けられたのは先月の事だった。審神者が増え転送ゲートのネットワーク負荷が深刻化したため、回路増強の目途が立つまでは止むを得ず、とのことらしい。おかげで、重量オーバーギリギリのラインを彷徨っていた私は、地獄のようなダイエットを行う羽目になった。
目標体重達成までの道のりは困難を極めた。現世で悪い疫病が流行っていることもあり、本丸中が総出になって私を太らせようと画策を始めたのだ。食べすぎに厳しかった燭台切さんでさえも「今日からしばらく、おやつは好きなだけ食べていいからね。食事もお替り自由にしよう。主の食べたいものは何でも作ってあげるから、リクエストがあれば教えてほしいな」などと言い出して、朝から晩まで悪夢のようなごちそうばかりを並べだす。「なんか風邪なのかぁ、あんま食欲なくて」というストレートかつシンプルな嘘を貫き通し、バレないように有酸素運動などでカロリーを消費し、蒟蒻ゼリーで空腹をごまかし、無理やり行ったダイエットは人生で三本の指に入るほどの辛さだった。
本当は分かっている。危険を冒して現世に向かうなんて、みんなの気持ちを裏切る行為だという事くらい。山鳥毛さんが心配してくれる気持ちも、痛いほどわかる。わかるけど、サイン会のチケットの倍率は何と三百倍だ。ここまで来て引きさがるわけにはいかない。私が推しのサインを手にすることが、過去三十日間に涙を呑んで見送った数々のごちそうへの弔いにもなるはずだ。あの日のローストビーフの為にも、とんかつの為にも、いちごタルトの為にも、その他多くのごちそう達の為にも。私は絶対に、こんなところで負けるわけにはいかなかった。それなのに。
それなのに、どうしてだろう。この部屋に充満する音は、香りは、気が狂いそうなほどに魅力的に私を誘う。甘辛い香りが、牛脂が爆ぜる音が、葱の焦げていく香りが、仄暗く私に語り掛ける。
堕ちておいで。ここまで堕ちておいで。そうすれば楽になれる。きっととびきり美味しいよ。ほら、ほらーー
「小鳥」
「……っだめ、だめ……!」
「駄目な事などないさ。ここのところの君のやつれ方は目に余る。たくさん食べ、大きくなるのも雛鳥には大事なことだぞ」
「私、私、雛鳥なんかじゃありません! もう子供じゃないんです! ……だから、」
「ははは。つれないことを言うものではないよ。いくつであろうと、私にとっての君が、愛らしい雛鳥であることに変わりはないのに」
そういうもんだろうか。いや、絶対違う。どう考えても無理やりな屁理屈なのに、山鳥毛さんが言っているというだけで何となく信用しそうになってしまうんだから本当に危ない。倍率三百倍のチケット倍率三百倍のチケット倍率三百倍のチケット、と必死で唱えて理性を繋ぎとめる。だけどもう、それも限界に達しようとしていた。
視界が閉ざされた分、聴覚は敏感に周囲の状況を感じ取る。香ばしく葱が焼き色を付けられていく音。甘くまろやかな割下が、しゅう、とひそやかに鍋を満たしていく音。しらたきに、焼き豆腐に、向こうが透けて見えるくらいにうすくうすく切られた大根。最高級の具材がつぎつぎに投入され、くつくつと煮込まれていく。かつん、と、控えめな音とともに卵の殻が割られる。黄身と白身が適度に混ぜ合わされて、それから。
これ以上、いけない。無理やりにでも腕から抜け出そうとしたのを見透かすみたいに、「交換条件だ」と、山鳥毛さんが柔らかい声で言う。
「どうだろう、目を開けて頂けないだろうか。このまま私の食事に付き合ってもらえるなら、一時間以内に君を開放しよう」
「うう、」
「そうすれば、目的の時間まで十分に余裕を持てる。……悪い条件では、ないだろう?」
「……うううう」
「それとも、このまま私と一緒に、本丸に帰る方がお好みかな?」
「……本当に、……本当に食事に付き合うだけで、いいんですね」
「ああ」
「わ、私は、葱とか白滝とかお豆腐とかだけ食べてても、いいんですよね?」
「勿論だとも」
「や、約束ですよ」
「ああ、約束だ」
これは罠だ。そんなことはわかりきっている。だけど、従う以外の道もなかった。観念してうっすらと瞼を開ければ、ぼやぼやと不明瞭な視界の向こうに、綺麗に盛りつけられた鍋が姿を現す。飴色の割下。これ以上ないほどに理想的な焼き色が入った葱。白滝が照明の光を浴びて美しく輝く。焼き豆腐の煽情的なコントラストに、極めつけは。
「小鳥は、何が欲しいのかな? 食べさせてあげよう。教えておくれ」
私が息を呑んだのと、ぴったり同じタイミングで浴びせられた声。勝ち誇ったようなその声のトーンに、あまりにも分が悪い勝負を挑んでしまった事を悟る。
いけない。確かにそう思うのに、私の意思をあっさり裏切って、視線は鍋の中に吸い寄せられていく。柔らかく煮込まれた肉が、とろけそうな光沢で私の網膜を焼いた。圧倒的なそのビジュアルに思考回路が停止して、すべての記憶が飛びそうになる。それは私が知っている牛肉、スーパーで九八十円とかのあの牛肉とはもはや別物の何かだった。しっとりと割り下が染み込んで、ふっくらと煮こまれた最高級の牛肉。その艶その輝き、その香り。
「お、お腹、すいてないんで」
無限にわいてくる唾液でおぼれそうだった。最悪のタイミングで、ぐるるるるるるるぅ、とお腹が鳴る。バレバレの虚勢だ。そんなことは分かってる。だけどもう、ここまで来て後には引けない。
「あんまりお腹すいてないんで、お豆腐が食べたいです」いいとも、と、悪魔みたいに優し気な声が笑う。目を閉じてしまいたいのに、「目を閉じてはいけないよ。いい子の小鳥は、約束を守れるだろう?」と牽制されてしまう。
「そら、お食べ」
長い長い指が箸を取る。往生際が悪く躊躇っていたら、「口を開けなさい」と促される。たっぷりと黄身を絡められたお豆腐を、あきらめて口で受け取った。山鳥毛さんの笑みが深くなるのが、気配でわかった。「ん、……む、ぅ」新鮮な卵の風味が鼻を抜けて、芳醇な鰹の香りが一瞬で口の中を満たす。割り下が浸透した豆腐は、それだけでも十分すぎるくらいのご馳走だった。おいしい。豆腐自体のしっかりとした旨味が、割り下に溶け込んだ牛の脂を引き立てる。
「どうだろう、お気に召したかな?」
一瞬にして『おいしいこと』に満たされた脳みそは、その言葉にたやすく頷いてしまう。おいしい。めちゃくちゃに、最高に、やばいくらい、おいしい。何なら毎日食べたって良いくらいに美味しい。だからこそ、考えずにはいられなかった。豆腐ですらこんなに美味しいのに、主役のお肉はどれだけの美味なんだろう、なんて。口の中の豆腐は、柔らかく崩れて味蕾の一つ一つを満たしてくれる。甘辛い割り下の味は、連日ささみと緑黄色野菜だけで生きてきた身体に、理不尽すぎるほどの刺激だった。
欲しがらずにいられない。駄目だとわかっているのに、理性がねじ伏せられて、この先を想像してしまう。たっぷりと卵を絡めた、山形牛の食感を。何もかもを投げ捨てて、ただ口いっぱいに、美味しいお肉を頬張る、その瞬間の快楽を。
「さあ、次は」
いけない。駄目だ。これ以上は。
それなのに、山鳥毛さんは優しく微笑んで、私を地獄に突き落とす。
「次は何を取ってあげようか。言ってみなさい。君の欲しいものは?」
……喉が、かわいたな。ぼんやりとそんなことを考えた。おかしなくらいに視界が明るくて、その中で山鳥毛さんだけが、私に優しく微笑みかける。「私は」欲しくてほしくてたまらない。目を閉じたくても、それももうかなわない。不意に顎を掬われて、「ほら」と優しく促される。うろうろと彷徨わせていた視線は鍋の方にまっすぐと固定されて、どんどん逃げ道が塞がれていく。「目を逸らすんじゃない。小鳥の、欲しいものを言ってごらん。とびきり欲しいものが今、君の目の前にある。そうだろう?」違う、と否定の言葉をあざ笑うみたいに、ぐにゅう、とおかしな音を立ててお腹が鳴った。
「わ、私、私、は」
「うん? 小鳥は、どうしたいのかな」
「ね、……ねぎ、が」
「違う。そうじゃないだろう。小鳥、嘘はいけない」
「ちがいます、う、嘘なんかじゃなくて私は本当に」
「……本当に?」
「ほ、ほんとう、に」
くつくつと、目の前で鍋が煮える。口の中に残る味の余韻すらも毒だった。奥行きのある甘辛い味。砂糖の甘味でも出汁の旨味でもなかった。私の身体に残るそれを、私をどうしようもなく誘惑するそれの正体を、考えることが恐ろしい。「葱だけで、良いんです。……あんまり、お腹空いてないので」食べたい、食べたい食べたい。痛いほど欲しがってしまう体を無視して、無理矢理に拳を握りしめる。倍率三百倍のチケット。頭の中で唱えた呪文は、だけどどうしてだろう、さっきよりも色褪せて効果が薄い気がした。
……チケットなんて、食べられもしない紙切れに何の価値があるだろう。
頭の中で、乾いた声がささやきかける。サインなんて、所詮インクのシミでしかない。そもそも推しのサインとは、そんなに価値のあるものだろうか。今目の前でこんなにも美味しそうに煮える、すき焼きを超えるほどの価値があれに存在するなんて、どうして言えるんだろう。
ぐらぐらと決意が揺らぎ始めるのがわかった。こんなことではいけない、それなのに。憐れみと慈愛がたっぷり込められた、神様みたいに優しい瞳。その視線に屈してしまいたかった。重ねてきた努力も、苦しみも、何もかもを投げ打って、甘えてしまえたら、どんなにか。
「君は少々素直すぎるな。可哀想に、こんなに必死の顔をして。実に健気だ」
音もなく襖が開く。現れた和服姿の女将が大事そうに抱えている物を見て、「ああ、」と口からはため息がこぼれてしまう。
「魚沼産コシヒカリ、新米でございます」
「うおぬまさん、こしひかり」
「はい。お連れ様にご満足いただけるよう、最高級の品質のお米を用意しました。全て旦那様の、ご指定の通りに」
……地獄の釜の蓋が開いてしまう。今時あまり見なくなった、古風な形のおひつ。その蓋が、女将の手で取り払われた。ここってもしかして地獄なんだっけ? それとも天国なんだっけ? 私が自問自答している間にも、ふわん、と炊きたてのお米の香りがあたりを満たす。すき焼きの香りと一体になったそれは、容赦無く私の理性を乱して、蹂躙する。「小鳥は、すき焼きを白飯で食べるのが、一等好きだっただろう?」女将が、炊きたての白飯を上等の茶碗に盛り付けていく。山鳥毛さんの左手が、それを受け取る。これ以上どうしたらいいんだろう、混乱で一つも動けないまま、一連の流れを、なすすべもなく見つめることしかできない。
「さあ」山鳥毛さんの手によって、目の前に突きつけられたもの。つやつやと輝く、切ないほどの香りを放つ、繊細な湯気をあげる、炊きたての白米。有無を言わせぬ声が、私に促す。「食べなさい」こんなのってない。あまりにもひどい。ただの拷問じゃん。うわごとのような私の悲鳴に、彼はただ穏やかに笑いを返す。
「拷問などと、とんでもない。私はただ、君を楽にしてやりたいだけさ」
「ら、楽に、なんて」
「小鳥、小鳥、小鳥。無理はいけない。自分に嘘をつくのはやめるんだ。楽になってしまいなさい。アイドルの……そのような男のサインなど、何の価値がある? 認めてしまえば良い。君の好きな物は、ただの偶像に過ぎないと」
「ぐ、ぐう、……ぞう」
「そう、偶像だ。君が焦がれているそれは、ただの幻にすぎない。どれだけその身を擦り減らし焦がれたところで、小鳥を満たしてくれることなどないのだよ」
「偶像で、満たされることは、ない……?」
「そうだ。小鳥がどれだけ無理をしたところで、その男が君の努力に報いることなどありはしない。わかるね」
「じゃあ、じゃあ。私を、……本当に私を、満たしてくれる、ものは」
「賢い子だ。全て教えずとも、自分で答えが分かったじゃないか。言ってごらん。小鳥は今、どうしたいのかな」
優しげな声が、視線が、私を捉えて閉じ込める。もう駄目だ、逃げられない。きっともう、どこにも行けない。……どこにも行けない? 違う。本当は私は、どこにも行きたくなんてなかったんだ。最初からずっと私は、こうなることを望んでいた。一ヶ月前のあの日から、本当はずっと心待ちにしていた。容易く理性をねじ伏せられて、自分の無力を思い知る、今みたいな瞬間を。
「私、は……、」
「うん? ……すまない、声が少し小さいようだ。大丈夫、安心して言葉にしてごらん。ここには君と、私しかいないのだから」
「私、私、山鳥毛さん、わたし、本当は」
「ああ」
「本当はお肉が、……お肉と、お米が、いっぱい、……食べたいです」
口に出してしまえば、瓦解するのはあっという間だった。挫折感と無力感と、奇妙な安堵感。この一ヶ月の記憶が、奔流のように頭の中を流れる。泣きたい気持ちも確かにあったのに、「よく言えたな、素直な良い子だ」と頰を撫でられて、絶望感は安心に取って代わる。
山鳥毛さんが、私に微笑みかけてくれている。神様みたいに優しくて、私の全てを赦してくれる瞳で。「さあ、口を開けなさい。好きなだけ食べると良い。小鳥が今まで無理をした分を、埋め合わせてあげよう」抵抗の一切をやめてしまって、欺瞞も体裁も何もかもをかなぐり捨てて、目の前のそれを貪り食らう。
柔らかくとろけるお肉を、歯を立てるたびに溢れる肉汁を、お米の滋味が包み込む。美味しい、焼き切れた思考回路はそれだけしか思えない。目尻に溢れてきた涙は拭われて、「辛かったろうに、よくここまで耐えたな。小鳥は偉いな」と慰められる。ん、と、返事のようなそうでないような声で頷いて、次をねだればすぐに与えられて、満たされきった心はまともにものを考えられそうになかった。
おいしい。おいしい。おいしい。美味しくて、嬉しくて、際限なく湧いてくる欲望はもう止まらない。堕とされきった体はまだ足りないと疼く。それなのに、口元まで運ばれたお肉に自分から顔を寄せれば、焦らすような動きで遠ざけられた。どうして。不服げな声を漏らしたところで、小鳥、と、子供に言い聞かせるような声が私を呼ぶ。
「一つだけ、約束をしてくれるね」
「やくそ、く……?」
ほんの数ミリの鼻の先。最高級の山形牛が私を誘う。じれた脳みそは、山鳥毛さんの言葉の意味を上手に解釈できなかった。約束。約束ならいくらでもしよう。目の前のこれを食べられるのなら、いくらでも。口の中の唾液を飲み込む。物欲しげな瞳の私を、山鳥毛さんはただ優しげに見つめ返す。
「もう二度と、一人で遠くに行ってはいけないよ。外の世界は、どうにも君には危険すぎる。小鳥はこんなにも、疑うことを知らないのだから」
「……? 、キ、ケン……?」
「何、余計なことを考える必要はないさ。君はただ、頷くだけで良い。わかるね、小鳥」
「……おにく……」
「いくらでも差し上げよう、小鳥が約束をしてくれるならね。好きなだけ、君が飽きるまで」
サングラスの下、宝石みたいな色の瞳が、真剣な光を宿して私を見つめる。「何も心配はいらない。私はただ、君を危険に晒したくないだけだ」宥めるように肩をすくめて、山鳥毛さんはそう強調する。
「さあ、良い子だから。言ってごらん、『二度と一人で、本丸を出たりしない』と」
「二度と、ひとり、で、私は」
催眠術にかかったみたいに、唇が動く。なんだか変な調子なのだ。この人に言い聞かせられると、従わずにはいられない。今だってそうだ。まるでそうするのが正しいことみたいに錯覚をして、気がついたら言われた通りの言葉を復唱してしまっている。「私は。二度と、一人で本丸を、出たりしません」紅い紅い瞳の奥に、炎の色が見えたような気がした。「素直で可愛い、私の小鳥」その、甘やかな声に頷く。
「これでいい。これで、何があっても君を護ることができる。何者にも傷つけさせず、安全な巣の中で、永遠に。……うん? ああ、こちらの話さ。そら、好きなだけお食べ」
山鳥毛さんの言葉が、どういう意味を持つのか。その時の私にはよく理解できなかった。……あれ、ひょっとして、ちょっとまずいんじゃないかなあ、これ。ほんのり疑問が湧いてくるけど、すき焼きの美味の前にそれは、跡形もなく溶けて消えてしまった。
ご褒美みたいに与えられるお肉を口いっぱいに頬張って、「お気に召していただけたかな」と笑いかける山鳥毛さんに、頷いてみせる。倍率三百倍のチケットにも、一ヶ月の血の滲むようなダイエットにも、もはや何の価値も見出せなかった。すき焼きを三人前平らげた(デザートにフルーツの盛り合わせも食べた)リバウンドはひどくって、帰って体重計に乗ったら、たった一日で五キロも太っていた。
▽
「小鳥」
「…………」
「二階から脱走とは、中々にお転婆をする。怪我が無くて何よりだ」
「……山鳥毛さん」
「うん?」
「今日は南泉くんとお出かけするんじゃなかったんですか」
「ああ、確かにその予定だね。しかし、私の留守中に、どこかの誰かが脱走を試みようとしていた物だから」
「……だから、何でそれを知ってるんですか」
「ははは、……常日頃から教えておいたつもりだったのだが。口約束とはいえ、人ならざるものと契約など交わしてはいけないよ。今回は、相手が私だから良い物の」
「……、ええ……そんな、嘘……」
「嘘だと思うなら、もう一度私から逃げてみるといい。きっと五秒も経たないうちに、連れ戻されることになるがね」
「……ほんとにい?」
「本当だとも。私はいくらでも付き合おう。小鳥が、追いかけっこをご所望なら」
「や、なんか、えっと、やめときます」
「そうしておきなさい。……しかし、君は警戒心が薄くていただけない。食べ物に釣られた程度のことで、このような約束をしてしまうのでは」
あの約束がどんな意味を持つのか。それが判明したのは、すき焼きをした日からきっちり三日後のことだった。
今日は推しのラジオ収録が予定されていた。サインはもらえなくても、せめて一目だけでも推しに会いたい。募る思いを抑えきれずに、私は近侍の山姥切国広君が目を離した隙に、ベランダからの大脱走に成功した……はず、だった。ベランダの柵を伝って降りているところにいきなり下から「小鳥」と声をかけられ、いるはずのない人の声に動転した私は、まんまと山鳥毛さんに捕獲されてしまった。ついさっき、「では行ってくるよ」と万屋に出かけていった山鳥毛さんを、確かに見送ったのはずなのに。万屋まで少なくとも小一時間はかかるはずで、だから、山鳥毛さんが今ここにいるはずもないのに。
数ヶ月前、まだ審神者の職につく前の記憶を、うっすらと思い出す。……そういえば、研修の時の資料に書いてあったような気がしなくもない。『刀剣男士とはつまり人ならざるもの、神の一種であり、口約束にも一定の拘束力が発生します』とか何とか。確かに、山鳥毛さんにもそんなようなことを言われた覚えがある。「君の持ち刀とはいえ、私たちは根本的に人とは異なるものだ。注意しなさい、魂を奪われることだって、ないとは言えない」とか何とか。そうか、こういうことか。自分の不真面目さと短絡さを、うっすらと後悔する。確かに、あの時の山鳥毛さんの話は、真面目に聞いておくべきだったのだ。
「ねぇねぇ、山鳥毛さん」
「うん?」
「その契約って、クーリングオフとかないんですか」
「古臭いものでね。二千二百五年代の法制度に、対応してやる気にはなれないな」
「じゃあ、今回だけ。次からちゃんと気をつけるから」
「そうだな。君がきちんと、疑うことを覚えたなら。……それから、群の先頭に立つものとして、ふさわしい振る舞いが身についたのなら。その時に改めて考えようか。例えば」
「……例えば?」
「小鳥。本日の分の執務は、全て終わらせてきたのかな」
「……えっと、だいたい、八割くらいは終わったと言えないこともない」
「嘘はいけない。一週間分貯めた報告書が、午前中のうちに終わるとは考えづらいな」
「…………うう……」
腕の中に抱えられたまま、執務室までの道のりを戻っていく。「じゃあ、頑張って今日中に全部終わらせるから、お願い」と食い下がれば、「小鳥。効率よりも、正確さを重視しなさい。いつも君はそうやって急いで、不備の書類を作るだろう」と却下される。ふてくされた顔をしてみても山鳥毛さんは笑うだけで、つまり、しばらく『契約』とやらを解く気はないということなんだろう。厄介なことになった、確かにそう思うけど、そんなに怖くもないのだ。だって山鳥毛さんが私を傷つけるわけがないってことを、もう十分に知っているから。
とびきり優しくて少し怖くて、だけど構って欲しくて。出会った時から変わらず、山鳥毛さんのそばにいると、少しだけ子供じみた気持ちに戻ってしまう。だって仕方ない、私が甘えて見せたところで、この人は何だって受け入れて赦してくれるんだから。「じゃあ、とりあえず『契約』のことはおいといて」諦めて腕の中で力を抜いて、その体に寄りかかってみる。「うん?」と、頭上から降ってくる声は、やっぱり、とびきり柔らかくて優しい。
「私、ご褒美がないとお仕事頑張れないタイプなんですけど」
「ははは、今度は『ご褒美』と来るか。かなわないな」
「別に現世にいかなくてもいいから、美味しいものが食べたいなって」
蟹のフルコースに、ローストビーフにすき焼きに、懐石に懐かしの洋食に、仕事の合間に差し入れられる数々のお菓子。すっかり山鳥毛さんに餌付けされた脳みそは、『ご褒美』のことを考えるだけで少しやる気になってしまう。特に最近は、無理をしてダイエットに励んでいたから余計に。
あの蟹、また食べたいなあ。前に連れてってもらったフランス料理も美味しかったけど。未来のご馳走に浮かれる私に、「まずは、やるべきことを終わらせてからだ。やれるな、私の小鳥」と釘をさしてから、それでも山鳥毛さんは、「きちんと全て終わらせることができたのなら、勿論、君の努力に報いることは吝かではないよ」と笑ってくれるので。子供みたいな感情と食欲と、ほんのすこしの邪な気持ちにに突き動かされて、山積みの仕事だって簡単に片付く気がしてしまう。次は中華に連れてってもらおう、と勝手に決めて、その喉元にほんの少しだけ頬ずりをした。
「小鳥は、すき焼きが好物だろう?」じゅうじゅう、じゅわじゅわ、じゅん。真っ暗な視界の向こうで、その声と、肉の焼ける音だけが鮮明だった。
「喜んで頂けるなら、嬉しいのだが。……最高ランクの山形牛だ。その中でも、選り抜きの品質の物を用意させた。この店のすき焼きは割り下が美味くてね。きっと君も気に入る」いっそのこと耳を塞いでしまいたかったのに、それも叶わない。「おいで」と肩を抱き寄せられて、気が付いた時には膝の上に抱っこされてしまっている。反射的に体を固くすれば。「安心しなさい、取って食いはしないさ」と笑われた。
あとちょっとだったのに。焦りと不安が一緒くたになって少し泣きそうになる。死ぬほどの苦労の末にやっとのことで本丸を抜け出して、あと一歩で現世への転送ゲートにたどり着けるはずだったのだ。そこを見咎められて、「近侍殿は大層ご立腹だったぞ。私が君を連れて帰れば、どんな楽しい事が起きるか。小鳥にも想像がつくのではないかな」と脅され、この料亭に連れてこられたのが数分前の事だった。「悪い様にはしないと約束しよう」と山鳥毛さんは請け合ってくれたのに、これは一体どういう事だ。「卑怯だ……」口から出た言葉に、紅い瞳が面白げに笑う。
「誉め言葉と受け取っておこう。さ、小鳥。意地を張るのは、そろそろ終わりにしたらどうだ?」
屈するわけにはいかない。私は絶対、負けるわけにはいかなかった。絶対に今だけは、太るわけにはいかない。なぜなら。
なぜなら今日は、昨年末から待ちに待った推しのサイン会があるのだから。
現世への転送ゲートに、やたらと厳しい体重制限が設けられたのは先月の事だった。審神者が増え転送ゲートのネットワーク負荷が深刻化したため、回路増強の目途が立つまでは止むを得ず、とのことらしい。おかげで、重量オーバーギリギリのラインを彷徨っていた私は、地獄のようなダイエットを行う羽目になった。
目標体重達成までの道のりは困難を極めた。現世で悪い疫病が流行っていることもあり、本丸中が総出になって私を太らせようと画策を始めたのだ。食べすぎに厳しかった燭台切さんでさえも「今日からしばらく、おやつは好きなだけ食べていいからね。食事もお替り自由にしよう。主の食べたいものは何でも作ってあげるから、リクエストがあれば教えてほしいな」などと言い出して、朝から晩まで悪夢のようなごちそうばかりを並べだす。「なんか風邪なのかぁ、あんま食欲なくて」というストレートかつシンプルな嘘を貫き通し、バレないように有酸素運動などでカロリーを消費し、蒟蒻ゼリーで空腹をごまかし、無理やり行ったダイエットは人生で三本の指に入るほどの辛さだった。
本当は分かっている。危険を冒して現世に向かうなんて、みんなの気持ちを裏切る行為だという事くらい。山鳥毛さんが心配してくれる気持ちも、痛いほどわかる。わかるけど、サイン会のチケットの倍率は何と三百倍だ。ここまで来て引きさがるわけにはいかない。私が推しのサインを手にすることが、過去三十日間に涙を呑んで見送った数々のごちそうへの弔いにもなるはずだ。あの日のローストビーフの為にも、とんかつの為にも、いちごタルトの為にも、その他多くのごちそう達の為にも。私は絶対に、こんなところで負けるわけにはいかなかった。それなのに。
それなのに、どうしてだろう。この部屋に充満する音は、香りは、気が狂いそうなほどに魅力的に私を誘う。甘辛い香りが、牛脂が爆ぜる音が、葱の焦げていく香りが、仄暗く私に語り掛ける。
堕ちておいで。ここまで堕ちておいで。そうすれば楽になれる。きっととびきり美味しいよ。ほら、ほらーー
「小鳥」
「……っだめ、だめ……!」
「駄目な事などないさ。ここのところの君のやつれ方は目に余る。たくさん食べ、大きくなるのも雛鳥には大事なことだぞ」
「私、私、雛鳥なんかじゃありません! もう子供じゃないんです! ……だから、」
「ははは。つれないことを言うものではないよ。いくつであろうと、私にとっての君が、愛らしい雛鳥であることに変わりはないのに」
そういうもんだろうか。いや、絶対違う。どう考えても無理やりな屁理屈なのに、山鳥毛さんが言っているというだけで何となく信用しそうになってしまうんだから本当に危ない。倍率三百倍のチケット倍率三百倍のチケット倍率三百倍のチケット、と必死で唱えて理性を繋ぎとめる。だけどもう、それも限界に達しようとしていた。
視界が閉ざされた分、聴覚は敏感に周囲の状況を感じ取る。香ばしく葱が焼き色を付けられていく音。甘くまろやかな割下が、しゅう、とひそやかに鍋を満たしていく音。しらたきに、焼き豆腐に、向こうが透けて見えるくらいにうすくうすく切られた大根。最高級の具材がつぎつぎに投入され、くつくつと煮込まれていく。かつん、と、控えめな音とともに卵の殻が割られる。黄身と白身が適度に混ぜ合わされて、それから。
これ以上、いけない。無理やりにでも腕から抜け出そうとしたのを見透かすみたいに、「交換条件だ」と、山鳥毛さんが柔らかい声で言う。
「どうだろう、目を開けて頂けないだろうか。このまま私の食事に付き合ってもらえるなら、一時間以内に君を開放しよう」
「うう、」
「そうすれば、目的の時間まで十分に余裕を持てる。……悪い条件では、ないだろう?」
「……うううう」
「それとも、このまま私と一緒に、本丸に帰る方がお好みかな?」
「……本当に、……本当に食事に付き合うだけで、いいんですね」
「ああ」
「わ、私は、葱とか白滝とかお豆腐とかだけ食べてても、いいんですよね?」
「勿論だとも」
「や、約束ですよ」
「ああ、約束だ」
これは罠だ。そんなことはわかりきっている。だけど、従う以外の道もなかった。観念してうっすらと瞼を開ければ、ぼやぼやと不明瞭な視界の向こうに、綺麗に盛りつけられた鍋が姿を現す。飴色の割下。これ以上ないほどに理想的な焼き色が入った葱。白滝が照明の光を浴びて美しく輝く。焼き豆腐の煽情的なコントラストに、極めつけは。
「小鳥は、何が欲しいのかな? 食べさせてあげよう。教えておくれ」
私が息を呑んだのと、ぴったり同じタイミングで浴びせられた声。勝ち誇ったようなその声のトーンに、あまりにも分が悪い勝負を挑んでしまった事を悟る。
いけない。確かにそう思うのに、私の意思をあっさり裏切って、視線は鍋の中に吸い寄せられていく。柔らかく煮込まれた肉が、とろけそうな光沢で私の網膜を焼いた。圧倒的なそのビジュアルに思考回路が停止して、すべての記憶が飛びそうになる。それは私が知っている牛肉、スーパーで九八十円とかのあの牛肉とはもはや別物の何かだった。しっとりと割り下が染み込んで、ふっくらと煮こまれた最高級の牛肉。その艶その輝き、その香り。
「お、お腹、すいてないんで」
無限にわいてくる唾液でおぼれそうだった。最悪のタイミングで、ぐるるるるるるるぅ、とお腹が鳴る。バレバレの虚勢だ。そんなことは分かってる。だけどもう、ここまで来て後には引けない。
「あんまりお腹すいてないんで、お豆腐が食べたいです」いいとも、と、悪魔みたいに優し気な声が笑う。目を閉じてしまいたいのに、「目を閉じてはいけないよ。いい子の小鳥は、約束を守れるだろう?」と牽制されてしまう。
「そら、お食べ」
長い長い指が箸を取る。往生際が悪く躊躇っていたら、「口を開けなさい」と促される。たっぷりと黄身を絡められたお豆腐を、あきらめて口で受け取った。山鳥毛さんの笑みが深くなるのが、気配でわかった。「ん、……む、ぅ」新鮮な卵の風味が鼻を抜けて、芳醇な鰹の香りが一瞬で口の中を満たす。割り下が浸透した豆腐は、それだけでも十分すぎるくらいのご馳走だった。おいしい。豆腐自体のしっかりとした旨味が、割り下に溶け込んだ牛の脂を引き立てる。
「どうだろう、お気に召したかな?」
一瞬にして『おいしいこと』に満たされた脳みそは、その言葉にたやすく頷いてしまう。おいしい。めちゃくちゃに、最高に、やばいくらい、おいしい。何なら毎日食べたって良いくらいに美味しい。だからこそ、考えずにはいられなかった。豆腐ですらこんなに美味しいのに、主役のお肉はどれだけの美味なんだろう、なんて。口の中の豆腐は、柔らかく崩れて味蕾の一つ一つを満たしてくれる。甘辛い割り下の味は、連日ささみと緑黄色野菜だけで生きてきた身体に、理不尽すぎるほどの刺激だった。
欲しがらずにいられない。駄目だとわかっているのに、理性がねじ伏せられて、この先を想像してしまう。たっぷりと卵を絡めた、山形牛の食感を。何もかもを投げ捨てて、ただ口いっぱいに、美味しいお肉を頬張る、その瞬間の快楽を。
「さあ、次は」
いけない。駄目だ。これ以上は。
それなのに、山鳥毛さんは優しく微笑んで、私を地獄に突き落とす。
「次は何を取ってあげようか。言ってみなさい。君の欲しいものは?」
……喉が、かわいたな。ぼんやりとそんなことを考えた。おかしなくらいに視界が明るくて、その中で山鳥毛さんだけが、私に優しく微笑みかける。「私は」欲しくてほしくてたまらない。目を閉じたくても、それももうかなわない。不意に顎を掬われて、「ほら」と優しく促される。うろうろと彷徨わせていた視線は鍋の方にまっすぐと固定されて、どんどん逃げ道が塞がれていく。「目を逸らすんじゃない。小鳥の、欲しいものを言ってごらん。とびきり欲しいものが今、君の目の前にある。そうだろう?」違う、と否定の言葉をあざ笑うみたいに、ぐにゅう、とおかしな音を立ててお腹が鳴った。
「わ、私、私、は」
「うん? 小鳥は、どうしたいのかな」
「ね、……ねぎ、が」
「違う。そうじゃないだろう。小鳥、嘘はいけない」
「ちがいます、う、嘘なんかじゃなくて私は本当に」
「……本当に?」
「ほ、ほんとう、に」
くつくつと、目の前で鍋が煮える。口の中に残る味の余韻すらも毒だった。奥行きのある甘辛い味。砂糖の甘味でも出汁の旨味でもなかった。私の身体に残るそれを、私をどうしようもなく誘惑するそれの正体を、考えることが恐ろしい。「葱だけで、良いんです。……あんまり、お腹空いてないので」食べたい、食べたい食べたい。痛いほど欲しがってしまう体を無視して、無理矢理に拳を握りしめる。倍率三百倍のチケット。頭の中で唱えた呪文は、だけどどうしてだろう、さっきよりも色褪せて効果が薄い気がした。
……チケットなんて、食べられもしない紙切れに何の価値があるだろう。
頭の中で、乾いた声がささやきかける。サインなんて、所詮インクのシミでしかない。そもそも推しのサインとは、そんなに価値のあるものだろうか。今目の前でこんなにも美味しそうに煮える、すき焼きを超えるほどの価値があれに存在するなんて、どうして言えるんだろう。
ぐらぐらと決意が揺らぎ始めるのがわかった。こんなことではいけない、それなのに。憐れみと慈愛がたっぷり込められた、神様みたいに優しい瞳。その視線に屈してしまいたかった。重ねてきた努力も、苦しみも、何もかもを投げ打って、甘えてしまえたら、どんなにか。
「君は少々素直すぎるな。可哀想に、こんなに必死の顔をして。実に健気だ」
音もなく襖が開く。現れた和服姿の女将が大事そうに抱えている物を見て、「ああ、」と口からはため息がこぼれてしまう。
「魚沼産コシヒカリ、新米でございます」
「うおぬまさん、こしひかり」
「はい。お連れ様にご満足いただけるよう、最高級の品質のお米を用意しました。全て旦那様の、ご指定の通りに」
……地獄の釜の蓋が開いてしまう。今時あまり見なくなった、古風な形のおひつ。その蓋が、女将の手で取り払われた。ここってもしかして地獄なんだっけ? それとも天国なんだっけ? 私が自問自答している間にも、ふわん、と炊きたてのお米の香りがあたりを満たす。すき焼きの香りと一体になったそれは、容赦無く私の理性を乱して、蹂躙する。「小鳥は、すき焼きを白飯で食べるのが、一等好きだっただろう?」女将が、炊きたての白飯を上等の茶碗に盛り付けていく。山鳥毛さんの左手が、それを受け取る。これ以上どうしたらいいんだろう、混乱で一つも動けないまま、一連の流れを、なすすべもなく見つめることしかできない。
「さあ」山鳥毛さんの手によって、目の前に突きつけられたもの。つやつやと輝く、切ないほどの香りを放つ、繊細な湯気をあげる、炊きたての白米。有無を言わせぬ声が、私に促す。「食べなさい」こんなのってない。あまりにもひどい。ただの拷問じゃん。うわごとのような私の悲鳴に、彼はただ穏やかに笑いを返す。
「拷問などと、とんでもない。私はただ、君を楽にしてやりたいだけさ」
「ら、楽に、なんて」
「小鳥、小鳥、小鳥。無理はいけない。自分に嘘をつくのはやめるんだ。楽になってしまいなさい。アイドルの……そのような男のサインなど、何の価値がある? 認めてしまえば良い。君の好きな物は、ただの偶像に過ぎないと」
「ぐ、ぐう、……ぞう」
「そう、偶像だ。君が焦がれているそれは、ただの幻にすぎない。どれだけその身を擦り減らし焦がれたところで、小鳥を満たしてくれることなどないのだよ」
「偶像で、満たされることは、ない……?」
「そうだ。小鳥がどれだけ無理をしたところで、その男が君の努力に報いることなどありはしない。わかるね」
「じゃあ、じゃあ。私を、……本当に私を、満たしてくれる、ものは」
「賢い子だ。全て教えずとも、自分で答えが分かったじゃないか。言ってごらん。小鳥は今、どうしたいのかな」
優しげな声が、視線が、私を捉えて閉じ込める。もう駄目だ、逃げられない。きっともう、どこにも行けない。……どこにも行けない? 違う。本当は私は、どこにも行きたくなんてなかったんだ。最初からずっと私は、こうなることを望んでいた。一ヶ月前のあの日から、本当はずっと心待ちにしていた。容易く理性をねじ伏せられて、自分の無力を思い知る、今みたいな瞬間を。
「私、は……、」
「うん? ……すまない、声が少し小さいようだ。大丈夫、安心して言葉にしてごらん。ここには君と、私しかいないのだから」
「私、私、山鳥毛さん、わたし、本当は」
「ああ」
「本当はお肉が、……お肉と、お米が、いっぱい、……食べたいです」
口に出してしまえば、瓦解するのはあっという間だった。挫折感と無力感と、奇妙な安堵感。この一ヶ月の記憶が、奔流のように頭の中を流れる。泣きたい気持ちも確かにあったのに、「よく言えたな、素直な良い子だ」と頰を撫でられて、絶望感は安心に取って代わる。
山鳥毛さんが、私に微笑みかけてくれている。神様みたいに優しくて、私の全てを赦してくれる瞳で。「さあ、口を開けなさい。好きなだけ食べると良い。小鳥が今まで無理をした分を、埋め合わせてあげよう」抵抗の一切をやめてしまって、欺瞞も体裁も何もかもをかなぐり捨てて、目の前のそれを貪り食らう。
柔らかくとろけるお肉を、歯を立てるたびに溢れる肉汁を、お米の滋味が包み込む。美味しい、焼き切れた思考回路はそれだけしか思えない。目尻に溢れてきた涙は拭われて、「辛かったろうに、よくここまで耐えたな。小鳥は偉いな」と慰められる。ん、と、返事のようなそうでないような声で頷いて、次をねだればすぐに与えられて、満たされきった心はまともにものを考えられそうになかった。
おいしい。おいしい。おいしい。美味しくて、嬉しくて、際限なく湧いてくる欲望はもう止まらない。堕とされきった体はまだ足りないと疼く。それなのに、口元まで運ばれたお肉に自分から顔を寄せれば、焦らすような動きで遠ざけられた。どうして。不服げな声を漏らしたところで、小鳥、と、子供に言い聞かせるような声が私を呼ぶ。
「一つだけ、約束をしてくれるね」
「やくそ、く……?」
ほんの数ミリの鼻の先。最高級の山形牛が私を誘う。じれた脳みそは、山鳥毛さんの言葉の意味を上手に解釈できなかった。約束。約束ならいくらでもしよう。目の前のこれを食べられるのなら、いくらでも。口の中の唾液を飲み込む。物欲しげな瞳の私を、山鳥毛さんはただ優しげに見つめ返す。
「もう二度と、一人で遠くに行ってはいけないよ。外の世界は、どうにも君には危険すぎる。小鳥はこんなにも、疑うことを知らないのだから」
「……? 、キ、ケン……?」
「何、余計なことを考える必要はないさ。君はただ、頷くだけで良い。わかるね、小鳥」
「……おにく……」
「いくらでも差し上げよう、小鳥が約束をしてくれるならね。好きなだけ、君が飽きるまで」
サングラスの下、宝石みたいな色の瞳が、真剣な光を宿して私を見つめる。「何も心配はいらない。私はただ、君を危険に晒したくないだけだ」宥めるように肩をすくめて、山鳥毛さんはそう強調する。
「さあ、良い子だから。言ってごらん、『二度と一人で、本丸を出たりしない』と」
「二度と、ひとり、で、私は」
催眠術にかかったみたいに、唇が動く。なんだか変な調子なのだ。この人に言い聞かせられると、従わずにはいられない。今だってそうだ。まるでそうするのが正しいことみたいに錯覚をして、気がついたら言われた通りの言葉を復唱してしまっている。「私は。二度と、一人で本丸を、出たりしません」紅い紅い瞳の奥に、炎の色が見えたような気がした。「素直で可愛い、私の小鳥」その、甘やかな声に頷く。
「これでいい。これで、何があっても君を護ることができる。何者にも傷つけさせず、安全な巣の中で、永遠に。……うん? ああ、こちらの話さ。そら、好きなだけお食べ」
山鳥毛さんの言葉が、どういう意味を持つのか。その時の私にはよく理解できなかった。……あれ、ひょっとして、ちょっとまずいんじゃないかなあ、これ。ほんのり疑問が湧いてくるけど、すき焼きの美味の前にそれは、跡形もなく溶けて消えてしまった。
ご褒美みたいに与えられるお肉を口いっぱいに頬張って、「お気に召していただけたかな」と笑いかける山鳥毛さんに、頷いてみせる。倍率三百倍のチケットにも、一ヶ月の血の滲むようなダイエットにも、もはや何の価値も見出せなかった。すき焼きを三人前平らげた(デザートにフルーツの盛り合わせも食べた)リバウンドはひどくって、帰って体重計に乗ったら、たった一日で五キロも太っていた。
▽
「小鳥」
「…………」
「二階から脱走とは、中々にお転婆をする。怪我が無くて何よりだ」
「……山鳥毛さん」
「うん?」
「今日は南泉くんとお出かけするんじゃなかったんですか」
「ああ、確かにその予定だね。しかし、私の留守中に、どこかの誰かが脱走を試みようとしていた物だから」
「……だから、何でそれを知ってるんですか」
「ははは、……常日頃から教えておいたつもりだったのだが。口約束とはいえ、人ならざるものと契約など交わしてはいけないよ。今回は、相手が私だから良い物の」
「……、ええ……そんな、嘘……」
「嘘だと思うなら、もう一度私から逃げてみるといい。きっと五秒も経たないうちに、連れ戻されることになるがね」
「……ほんとにい?」
「本当だとも。私はいくらでも付き合おう。小鳥が、追いかけっこをご所望なら」
「や、なんか、えっと、やめときます」
「そうしておきなさい。……しかし、君は警戒心が薄くていただけない。食べ物に釣られた程度のことで、このような約束をしてしまうのでは」
あの約束がどんな意味を持つのか。それが判明したのは、すき焼きをした日からきっちり三日後のことだった。
今日は推しのラジオ収録が予定されていた。サインはもらえなくても、せめて一目だけでも推しに会いたい。募る思いを抑えきれずに、私は近侍の山姥切国広君が目を離した隙に、ベランダからの大脱走に成功した……はず、だった。ベランダの柵を伝って降りているところにいきなり下から「小鳥」と声をかけられ、いるはずのない人の声に動転した私は、まんまと山鳥毛さんに捕獲されてしまった。ついさっき、「では行ってくるよ」と万屋に出かけていった山鳥毛さんを、確かに見送ったのはずなのに。万屋まで少なくとも小一時間はかかるはずで、だから、山鳥毛さんが今ここにいるはずもないのに。
数ヶ月前、まだ審神者の職につく前の記憶を、うっすらと思い出す。……そういえば、研修の時の資料に書いてあったような気がしなくもない。『刀剣男士とはつまり人ならざるもの、神の一種であり、口約束にも一定の拘束力が発生します』とか何とか。確かに、山鳥毛さんにもそんなようなことを言われた覚えがある。「君の持ち刀とはいえ、私たちは根本的に人とは異なるものだ。注意しなさい、魂を奪われることだって、ないとは言えない」とか何とか。そうか、こういうことか。自分の不真面目さと短絡さを、うっすらと後悔する。確かに、あの時の山鳥毛さんの話は、真面目に聞いておくべきだったのだ。
「ねぇねぇ、山鳥毛さん」
「うん?」
「その契約って、クーリングオフとかないんですか」
「古臭いものでね。二千二百五年代の法制度に、対応してやる気にはなれないな」
「じゃあ、今回だけ。次からちゃんと気をつけるから」
「そうだな。君がきちんと、疑うことを覚えたなら。……それから、群の先頭に立つものとして、ふさわしい振る舞いが身についたのなら。その時に改めて考えようか。例えば」
「……例えば?」
「小鳥。本日の分の執務は、全て終わらせてきたのかな」
「……えっと、だいたい、八割くらいは終わったと言えないこともない」
「嘘はいけない。一週間分貯めた報告書が、午前中のうちに終わるとは考えづらいな」
「…………うう……」
腕の中に抱えられたまま、執務室までの道のりを戻っていく。「じゃあ、頑張って今日中に全部終わらせるから、お願い」と食い下がれば、「小鳥。効率よりも、正確さを重視しなさい。いつも君はそうやって急いで、不備の書類を作るだろう」と却下される。ふてくされた顔をしてみても山鳥毛さんは笑うだけで、つまり、しばらく『契約』とやらを解く気はないということなんだろう。厄介なことになった、確かにそう思うけど、そんなに怖くもないのだ。だって山鳥毛さんが私を傷つけるわけがないってことを、もう十分に知っているから。
とびきり優しくて少し怖くて、だけど構って欲しくて。出会った時から変わらず、山鳥毛さんのそばにいると、少しだけ子供じみた気持ちに戻ってしまう。だって仕方ない、私が甘えて見せたところで、この人は何だって受け入れて赦してくれるんだから。「じゃあ、とりあえず『契約』のことはおいといて」諦めて腕の中で力を抜いて、その体に寄りかかってみる。「うん?」と、頭上から降ってくる声は、やっぱり、とびきり柔らかくて優しい。
「私、ご褒美がないとお仕事頑張れないタイプなんですけど」
「ははは、今度は『ご褒美』と来るか。かなわないな」
「別に現世にいかなくてもいいから、美味しいものが食べたいなって」
蟹のフルコースに、ローストビーフにすき焼きに、懐石に懐かしの洋食に、仕事の合間に差し入れられる数々のお菓子。すっかり山鳥毛さんに餌付けされた脳みそは、『ご褒美』のことを考えるだけで少しやる気になってしまう。特に最近は、無理をしてダイエットに励んでいたから余計に。
あの蟹、また食べたいなあ。前に連れてってもらったフランス料理も美味しかったけど。未来のご馳走に浮かれる私に、「まずは、やるべきことを終わらせてからだ。やれるな、私の小鳥」と釘をさしてから、それでも山鳥毛さんは、「きちんと全て終わらせることができたのなら、勿論、君の努力に報いることは吝かではないよ」と笑ってくれるので。子供みたいな感情と食欲と、ほんのすこしの邪な気持ちにに突き動かされて、山積みの仕事だって簡単に片付く気がしてしまう。次は中華に連れてってもらおう、と勝手に決めて、その喉元にほんの少しだけ頬ずりをした。
1/4ページ