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めちゃくちゃにやらかした悪夢の一夜、の、翌日。九条館に呼び出されたのは、朝ご飯を食べ終わってすぐのタイミングだった。約二日ぶりの豪邸。出迎えてくれたのは八敷さん、と、もう一人。私を真下くんと引き合わせた大人気占い師、安岡とわ子先生が満面の笑みで待っていた。
「ふうん。それで結局、苗字さんは貴方のお宅に転がり込んだってわけ。それは悪くない判断だと思うわ。特に貴方の性質は、彼女のような人に良く嚙みあう」
「ああそうかよ、そりゃどうも。気が済んだらさっさと本題に入ってくれないか。アンタがわざわざ来たってことは、何か手掛かりでもあるんだろ」
「ふふ、貴方少し柔らかくなったわね。いい兆候よ」
こんなに態度の悪い真下くんの一体何をみて、安岡先生は【柔らかくなった】などと言うのだろうか。心の底から疑問だったけど、この会話に口を突っ込む勇気は勿論なかった。八敷さんからもそこはかとなく、生ぬるい視線を感じるような。何か大いなる誤解が生まれている気がする。だけど本題ではないからか、むしろ何もかも面倒臭くなったのか、真下くんはいっそ清々しいくらいにそれらをスルーして開き直っている。お昼前の九条館。窓から見える庭の景色は、のどかとしか言いようがなかった。おまけに、八敷さんの出してくれた甘すぎるコーヒーとお菓子のおかげで、テーブルの上はちょっとしたお茶会みたいな様相を呈している。こうしてコーヒーを飲んでいると、何もかもが夢なのではないかと思えるくらいだ。
「例の鈴、八敷さんから拝見したわ。呪物の一種としてはとても興味深い。でも、アレ自体には大した力はなさそうね。あの鈴はただ目印になるだけ。殆ど玩具と言っても良い。……ところで、呪いの作法を知っているかしら、苗字さん?」
「さあ……、そういうことに作法なんてあるんですか?」
「ふふ、初心者の方はそう思うわよね。一番簡単なお作法はね、相手に【お前を呪った】と伝えることなのよ。それだけで呪いは成立するの。簡単でしょう? あの鈴も同じよ。あれをぶら下げることで、対象に呪いを告知する」
まるでカルチャーセンターの講義か何かみたいだ。安岡先生に微笑まれ、思わず「わあ、それなら簡単ですね。私でもできちゃいそう」などと料理教室の生徒のようなコメントをしてしまう。「あら素直で良いわ、苗字さん。ね、八敷さんも真下さんもこういう感じの方たちでしょ。あたくし依頼のたびにやり辛くて仕方ないのよ」なんて、褒められたら悪い気はしなかった。まあ、八敷さんは微妙な顔をしているし、真下くんは舌打ちを放ったけれど。
「素人が呪いの儀式なんかしてもね、大した事は起きないのよ。普通はね」
「はあ」
「でも稀にこういうことが起きる。その人の性質が、呪いと噛みあってしまうのね。そうして【厄介なモノ】を呼び寄せてしまう。貴方の身の上に起こっていることも同じよ。【アレ】を呼んだ誰かがいるの、確実に」
「アレを、呼んだ、誰かが」
「だって、呼ばないと来ないでしょ。ああいうものは。だから知らない振りをしてはいけないの。根源を絶たないと止まらない。……分かるでしょ、貴方なら」
……分かるでしょ、と、言われても。安岡先生はゆったりと微笑んで、私の目をのぞき込む。少し色素の薄い瞳。その中に影のように、私の顔が映り込む。影のように黒い。でも、いつも通りに凡庸な。いつもどおりに平凡な。日常の。いつもどおりの。いつもどおり、の、
「……、え?」
ふと、あの匂いが鼻を掠めた。甘ったるい。生臭い。考えるのをやめたく、なるような。
ゆるゆると思考が緩慢になる。目の前の自分の影がぐにゃぐにゃとゆがむ。黒い。黒い、影が。自分がほどけて、緩んで、別の物に変わっていくような、感覚。変わっていく? 違う。私はもともと【そう】だったのだ。忘れた振りをしていただけ。知らない振りをしていただけ。場所を変えても、名前を変えても、私は私を追いかける。だけど、あれ? これって何の、はなし、だっけ。
分かるでしょ。そう、目の前の人が私に問いかける。
「ね、分かるでしょ。貴方はオシルシサマなんだから」
「オシルシ、さま」
「分かるでしょ。分からないの。……それはひどい裏切りだと、そう思わないの」
「あの、何の、話を」
「貴方は祈らないといけないの。救わないといけないの。皆が貴方の為に祈っている。皆が貴方を待っている。皆よ。みんな。ねえわからないの、■■■」
目の前の人の、輪郭がぶれて二重写しになっている。高く低く、声は混じりあって調子を変える。目の裏に浮かぶのは青い光。私を取り囲む黒い影。「そう、分からないの」黒い。自分の輪郭が分からなくなるくらいに。「忘れてしまったの、何もかも」ここはどこだっけ。「貴方は祝福されていた。貴方は救いを、幸いを、運命を、約束を、私達に齎した。それでも、貴方は罪深い」私は誰と話してるんだっけ。「だから私は」にい、と、目の前の誰かの唇がゆがむ。「迎えに来たのよ」
「…………、あ」
それが自分の声であることに最初は気付けなかった。あ、う、あ。意味のない音声を絞り出して、必死に息を吸おうとしている。ふ、と目の前が暗くなった。もう自分がどこを向いているのかも分からない。息を吸い込もうとしたら、おかしな具合にひくひくと肺が震える。呼吸ができない。まるで空気を吸いきってしまったみたいに。空っぽの空間ではくはくと喉を震わせるうちに、今度は強烈な吐き気が襲ってくる。胃の中から上がって来る生臭い匂い。えづいて咳き込んで、それを吐き出してしまおうとする。かは、けふ。空咳の音は、私の喉から出ているようだった。壊れた玩具みたいな音を立てながら繰り返し繰り返し、気管が痙攣する。意識はもう薄れかけていた。死ぬのかもしれない。他人事のように思ったけど、そのことに実感はなかった。ただ繰り返し、息を吐いて、吐いて、吐いて、吐く。
遠くで誰かの声が聞こえたような気がした。次の瞬間、口の中に無理矢理硬いモノが突っ込まれる。それが人の手だと気付いたのはもう少し後の事だった。骨ばった、硬い指先の感触。誰かの指は容赦なく私の中を蹂躙して、ぐい、と抉るように喉の奥を刺激する。
私がそれを吐き出したのと、安岡先生が意識を失ったのは、多分同じくらいのタイミングだった。かちゃん。テーブルの上のコーヒーカップが揺れて華奢な音を立てるのを聞いた。次の瞬間、目の前の世界が色を取り戻す。「……鈴、」ただ呼吸を繰り返しながら、ぼんやりとそれを眺めていた。私が吐き出したらしきもの。目の前にあるのは、失踪した人たちの部屋にあったのとまったく同じ形の、綺麗な鈴の根付だった。
漸く呼吸ができるようになった喉で、ただ息を吸って吐いている。真下くんの怒鳴り声も、それにこたえる八敷さんの声も、何もかもが作り物めいて遠い。そのうちに、遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。つまり【あれ】はもう一度、私を迎えに来たのだ。その事に思い至ったのは、それからもう少し後の話だった。
▽
「真下くん」
「却下だ。同じことを何度も言わせるな」
……そう言うと思った。と、考えた事は顔に出たんだろうか。「余計な事を言うな、そもそも考えるな。馬鹿な真似をしたらたっぷり後悔させてやるから覚悟するんだな」などと、まるでどこかの悪役みたいな台詞で更に罵られる。安岡先生は命に別状はないらしかった。本当は付き添いたかったけど、私の近くにいる方が危険なのかもしれない。そう思って大人しく九条館で待っていた。先ほどの出来事は、多分私のせいなのだろう。そう考えたら罪悪感で息ができなくなりそうだった。安岡先生が、いや違う、安岡先生の口を借りて、【あれ】が私に告げたのだ。これは呪いの一種だと。呼ばれなければ来ないのだと。【あれ】を呼んだのが誰なのかは分からない。それでも、呪いの対象は私の筈だった。だとしたら、私が無自覚に引き込んでしまったのだ。安岡先生も八敷さんも、真下くんも。
「でも、多分【あれ】は」
腕をさする。固く手を握りしめる。そうして、自分の形を確かめている。カーディガン越しの体温。指先の感覚。少し肌寒い部屋の空気。それらを確かめながら、言われた言葉を思い出していた。オシルシサマ。【あの人】は私をそう呼んだ。それが何のことか、私には分からない。違う、本当は、分からない振りをしたいだけだった。私は何か大切な事を忘れている。大切な、もしかすると、酷く恐ろしい何かを。
「あの人は。多分、昔の私と関係のある物だと思う」
施設に来る前の記憶は、ほとんど思い出せない。何か良くない事が起きたらしい。何かの事件に巻き込まれたらしい。知っているのはそれだけだ。私は幸運なのだろう。施設の先生も、親も、友達も、周りの人たちは皆、その話を避けてくれた。断片的にぽっかりと開いた記憶。自分の中に風穴ができたみたいな。きっとそれは、あの頃の自分と繋がっている。
「覚えてもいない事を、何故断言できる」
「真下くんなら分かってるんじゃないの。調べたでしょ、色々」
幼いころの自分がどこにいたのか、何をしていたのか。そもそも生まれた場所だった分からないのだ。だから今までの私にとって、そんなのは辿りようのない情報だった。それでも、きっと真下くんは調べただろう。調べた上で意図的に隠している。それは確信に近かった。私を迎えに来る誰かと、私を呪った誰かと、過去の自分。多分全てが繋がっている。だって、知らない振りをしてはいけないと、【あいつ】の口から告げられたのだ。根源を絶たないと呪いは止まらないと。
「ねえ真下くん、教えてよ。私が本当はどんなものなのか」
自分の形が分からなくなる瞬間がある。例えば今みたいなときに。自分がどんな顔をしているのか、何を考えているのかが自分でも分からない。たくさんの人の手で形作られてきた自分が、私自身が認識している【苗字名前】という人間の皮が、グロテスクに捲れ上がる。その下からおぞましい何かが顔を出しているような、奇妙な感覚。それが恐くて仕方ないのだと、前に話した事があった。この人は覚えているだろうか。性懲りもなくそんなことを考えるのは、自分の記憶を確かなものだと思いたいからなのかもしれなかった。
「名前」真下くんが私の名前を呼ぶ。何の感情もこもらない声で。まるで物の名前を呼ぶみたいにシンプルに。顔を上げたら案外近くで目が合った。数秒間の沈黙。真下くんは表情を変えないまま、ふと、目の前に手を伸ばしてくる。案外薄い手のひら。短く整えられた爪。それを目で追っていた、ら。
「下らん。貴様の過去など教えてやって、それで何かが変わるとでも?」
何ともご無体な言葉とともに、思いっきり鼻をつままれた。ふぐ、とかなんとか。無様な声を出した私を、真下くんは容赦なくせせら笑う。酷い。
「ハハ、無様だな苗字名前。ついでに教えといてやるが、受けてやった依頼は身辺警護に関する範囲のみだ。お前の過去など俺の知ったことか。仕事の範囲を超えた情報なんか教えてやる義務もない。当然だが、報告書はまとめてやらんからな。そんな物さっさと忘れてしまえ、どうせ覚えていたところで何の足しにもならん」
「……真下くんさあ、私が深刻な相談してる時に何考えてたの」
「貴様にしては良い質問だな。教えてやろうか、心底うんざりしてたよ。お前の下らない感傷のせいで随分と時間を食わされた」
「ねえそういうとこ。真下くんのそういうとこ本当に良くないよ。人のお話はちゃんと聞いて」
「やかましい。雑談に付き合ってやるほど俺は暇じゃない。だがお前の持ち込んだ厄介事の処理はしてやるよ、契約通りにな。俺が仕事をしてる間、貴様はウチの事務所のバイトに見張らせておく。精々ここで間抜け面を晒してぼんやりしておけ。逃げられるなどと考えるなよ」
……この人、本当に元刑事なんだろうか。元ヤクザとかじゃなく?
頭の片隅で考えた事は、やっぱり顔に出るんだろうか。それともこの人が、異様に敏いだけなのか。フン、と憎々し気に鼻を鳴らして、真下くんは私を見下ろした。いつも通りに冷然とした、いっそ憎たらしいくらいの冷静さで。「下らない勘違いも程々にするんだな、苗字名前。仮にお前が食われたとして、あの怪異が止まる道理もないんだよ」
真下くんはもしかして、私を慰めてくれるんじゃないだろうか。そう思ってお礼を言ってみたら、寧ろ宇宙人を見るような目で見られてしまってへこんだ。気が付いたら、さっきまでの奇妙な感覚は跡形もなく消えている。だけどその理由については、突き詰めて考えたくなんかなかった。これ以上厄介事を増やすわけにはいかない。それにきっと、今夜はそんなことに煩わされている余裕なんかないだろう。ほどなくして姿を現したバイトの男の子(長嶋翔くん19歳)は、おかしな生き物でも見るような目で私を見つめている。で、彼に「この女見張っとけ。おかしな素振りを見せたら縛り上げてその辺に転がしておいて良い」などと言いつける真下くんは、やっぱりヤクザの人にしか見えないのだった。
「ふうん。それで結局、苗字さんは貴方のお宅に転がり込んだってわけ。それは悪くない判断だと思うわ。特に貴方の性質は、彼女のような人に良く嚙みあう」
「ああそうかよ、そりゃどうも。気が済んだらさっさと本題に入ってくれないか。アンタがわざわざ来たってことは、何か手掛かりでもあるんだろ」
「ふふ、貴方少し柔らかくなったわね。いい兆候よ」
こんなに態度の悪い真下くんの一体何をみて、安岡先生は【柔らかくなった】などと言うのだろうか。心の底から疑問だったけど、この会話に口を突っ込む勇気は勿論なかった。八敷さんからもそこはかとなく、生ぬるい視線を感じるような。何か大いなる誤解が生まれている気がする。だけど本題ではないからか、むしろ何もかも面倒臭くなったのか、真下くんはいっそ清々しいくらいにそれらをスルーして開き直っている。お昼前の九条館。窓から見える庭の景色は、のどかとしか言いようがなかった。おまけに、八敷さんの出してくれた甘すぎるコーヒーとお菓子のおかげで、テーブルの上はちょっとしたお茶会みたいな様相を呈している。こうしてコーヒーを飲んでいると、何もかもが夢なのではないかと思えるくらいだ。
「例の鈴、八敷さんから拝見したわ。呪物の一種としてはとても興味深い。でも、アレ自体には大した力はなさそうね。あの鈴はただ目印になるだけ。殆ど玩具と言っても良い。……ところで、呪いの作法を知っているかしら、苗字さん?」
「さあ……、そういうことに作法なんてあるんですか?」
「ふふ、初心者の方はそう思うわよね。一番簡単なお作法はね、相手に【お前を呪った】と伝えることなのよ。それだけで呪いは成立するの。簡単でしょう? あの鈴も同じよ。あれをぶら下げることで、対象に呪いを告知する」
まるでカルチャーセンターの講義か何かみたいだ。安岡先生に微笑まれ、思わず「わあ、それなら簡単ですね。私でもできちゃいそう」などと料理教室の生徒のようなコメントをしてしまう。「あら素直で良いわ、苗字さん。ね、八敷さんも真下さんもこういう感じの方たちでしょ。あたくし依頼のたびにやり辛くて仕方ないのよ」なんて、褒められたら悪い気はしなかった。まあ、八敷さんは微妙な顔をしているし、真下くんは舌打ちを放ったけれど。
「素人が呪いの儀式なんかしてもね、大した事は起きないのよ。普通はね」
「はあ」
「でも稀にこういうことが起きる。その人の性質が、呪いと噛みあってしまうのね。そうして【厄介なモノ】を呼び寄せてしまう。貴方の身の上に起こっていることも同じよ。【アレ】を呼んだ誰かがいるの、確実に」
「アレを、呼んだ、誰かが」
「だって、呼ばないと来ないでしょ。ああいうものは。だから知らない振りをしてはいけないの。根源を絶たないと止まらない。……分かるでしょ、貴方なら」
……分かるでしょ、と、言われても。安岡先生はゆったりと微笑んで、私の目をのぞき込む。少し色素の薄い瞳。その中に影のように、私の顔が映り込む。影のように黒い。でも、いつも通りに凡庸な。いつもどおりに平凡な。日常の。いつもどおりの。いつもどおり、の、
「……、え?」
ふと、あの匂いが鼻を掠めた。甘ったるい。生臭い。考えるのをやめたく、なるような。
ゆるゆると思考が緩慢になる。目の前の自分の影がぐにゃぐにゃとゆがむ。黒い。黒い、影が。自分がほどけて、緩んで、別の物に変わっていくような、感覚。変わっていく? 違う。私はもともと【そう】だったのだ。忘れた振りをしていただけ。知らない振りをしていただけ。場所を変えても、名前を変えても、私は私を追いかける。だけど、あれ? これって何の、はなし、だっけ。
分かるでしょ。そう、目の前の人が私に問いかける。
「ね、分かるでしょ。貴方はオシルシサマなんだから」
「オシルシ、さま」
「分かるでしょ。分からないの。……それはひどい裏切りだと、そう思わないの」
「あの、何の、話を」
「貴方は祈らないといけないの。救わないといけないの。皆が貴方の為に祈っている。皆が貴方を待っている。皆よ。みんな。ねえわからないの、■■■」
目の前の人の、輪郭がぶれて二重写しになっている。高く低く、声は混じりあって調子を変える。目の裏に浮かぶのは青い光。私を取り囲む黒い影。「そう、分からないの」黒い。自分の輪郭が分からなくなるくらいに。「忘れてしまったの、何もかも」ここはどこだっけ。「貴方は祝福されていた。貴方は救いを、幸いを、運命を、約束を、私達に齎した。それでも、貴方は罪深い」私は誰と話してるんだっけ。「だから私は」にい、と、目の前の誰かの唇がゆがむ。「迎えに来たのよ」
「…………、あ」
それが自分の声であることに最初は気付けなかった。あ、う、あ。意味のない音声を絞り出して、必死に息を吸おうとしている。ふ、と目の前が暗くなった。もう自分がどこを向いているのかも分からない。息を吸い込もうとしたら、おかしな具合にひくひくと肺が震える。呼吸ができない。まるで空気を吸いきってしまったみたいに。空っぽの空間ではくはくと喉を震わせるうちに、今度は強烈な吐き気が襲ってくる。胃の中から上がって来る生臭い匂い。えづいて咳き込んで、それを吐き出してしまおうとする。かは、けふ。空咳の音は、私の喉から出ているようだった。壊れた玩具みたいな音を立てながら繰り返し繰り返し、気管が痙攣する。意識はもう薄れかけていた。死ぬのかもしれない。他人事のように思ったけど、そのことに実感はなかった。ただ繰り返し、息を吐いて、吐いて、吐いて、吐く。
遠くで誰かの声が聞こえたような気がした。次の瞬間、口の中に無理矢理硬いモノが突っ込まれる。それが人の手だと気付いたのはもう少し後の事だった。骨ばった、硬い指先の感触。誰かの指は容赦なく私の中を蹂躙して、ぐい、と抉るように喉の奥を刺激する。
私がそれを吐き出したのと、安岡先生が意識を失ったのは、多分同じくらいのタイミングだった。かちゃん。テーブルの上のコーヒーカップが揺れて華奢な音を立てるのを聞いた。次の瞬間、目の前の世界が色を取り戻す。「……鈴、」ただ呼吸を繰り返しながら、ぼんやりとそれを眺めていた。私が吐き出したらしきもの。目の前にあるのは、失踪した人たちの部屋にあったのとまったく同じ形の、綺麗な鈴の根付だった。
漸く呼吸ができるようになった喉で、ただ息を吸って吐いている。真下くんの怒鳴り声も、それにこたえる八敷さんの声も、何もかもが作り物めいて遠い。そのうちに、遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。つまり【あれ】はもう一度、私を迎えに来たのだ。その事に思い至ったのは、それからもう少し後の話だった。
▽
「真下くん」
「却下だ。同じことを何度も言わせるな」
……そう言うと思った。と、考えた事は顔に出たんだろうか。「余計な事を言うな、そもそも考えるな。馬鹿な真似をしたらたっぷり後悔させてやるから覚悟するんだな」などと、まるでどこかの悪役みたいな台詞で更に罵られる。安岡先生は命に別状はないらしかった。本当は付き添いたかったけど、私の近くにいる方が危険なのかもしれない。そう思って大人しく九条館で待っていた。先ほどの出来事は、多分私のせいなのだろう。そう考えたら罪悪感で息ができなくなりそうだった。安岡先生が、いや違う、安岡先生の口を借りて、【あれ】が私に告げたのだ。これは呪いの一種だと。呼ばれなければ来ないのだと。【あれ】を呼んだのが誰なのかは分からない。それでも、呪いの対象は私の筈だった。だとしたら、私が無自覚に引き込んでしまったのだ。安岡先生も八敷さんも、真下くんも。
「でも、多分【あれ】は」
腕をさする。固く手を握りしめる。そうして、自分の形を確かめている。カーディガン越しの体温。指先の感覚。少し肌寒い部屋の空気。それらを確かめながら、言われた言葉を思い出していた。オシルシサマ。【あの人】は私をそう呼んだ。それが何のことか、私には分からない。違う、本当は、分からない振りをしたいだけだった。私は何か大切な事を忘れている。大切な、もしかすると、酷く恐ろしい何かを。
「あの人は。多分、昔の私と関係のある物だと思う」
施設に来る前の記憶は、ほとんど思い出せない。何か良くない事が起きたらしい。何かの事件に巻き込まれたらしい。知っているのはそれだけだ。私は幸運なのだろう。施設の先生も、親も、友達も、周りの人たちは皆、その話を避けてくれた。断片的にぽっかりと開いた記憶。自分の中に風穴ができたみたいな。きっとそれは、あの頃の自分と繋がっている。
「覚えてもいない事を、何故断言できる」
「真下くんなら分かってるんじゃないの。調べたでしょ、色々」
幼いころの自分がどこにいたのか、何をしていたのか。そもそも生まれた場所だった分からないのだ。だから今までの私にとって、そんなのは辿りようのない情報だった。それでも、きっと真下くんは調べただろう。調べた上で意図的に隠している。それは確信に近かった。私を迎えに来る誰かと、私を呪った誰かと、過去の自分。多分全てが繋がっている。だって、知らない振りをしてはいけないと、【あいつ】の口から告げられたのだ。根源を絶たないと呪いは止まらないと。
「ねえ真下くん、教えてよ。私が本当はどんなものなのか」
自分の形が分からなくなる瞬間がある。例えば今みたいなときに。自分がどんな顔をしているのか、何を考えているのかが自分でも分からない。たくさんの人の手で形作られてきた自分が、私自身が認識している【苗字名前】という人間の皮が、グロテスクに捲れ上がる。その下からおぞましい何かが顔を出しているような、奇妙な感覚。それが恐くて仕方ないのだと、前に話した事があった。この人は覚えているだろうか。性懲りもなくそんなことを考えるのは、自分の記憶を確かなものだと思いたいからなのかもしれなかった。
「名前」真下くんが私の名前を呼ぶ。何の感情もこもらない声で。まるで物の名前を呼ぶみたいにシンプルに。顔を上げたら案外近くで目が合った。数秒間の沈黙。真下くんは表情を変えないまま、ふと、目の前に手を伸ばしてくる。案外薄い手のひら。短く整えられた爪。それを目で追っていた、ら。
「下らん。貴様の過去など教えてやって、それで何かが変わるとでも?」
何ともご無体な言葉とともに、思いっきり鼻をつままれた。ふぐ、とかなんとか。無様な声を出した私を、真下くんは容赦なくせせら笑う。酷い。
「ハハ、無様だな苗字名前。ついでに教えといてやるが、受けてやった依頼は身辺警護に関する範囲のみだ。お前の過去など俺の知ったことか。仕事の範囲を超えた情報なんか教えてやる義務もない。当然だが、報告書はまとめてやらんからな。そんな物さっさと忘れてしまえ、どうせ覚えていたところで何の足しにもならん」
「……真下くんさあ、私が深刻な相談してる時に何考えてたの」
「貴様にしては良い質問だな。教えてやろうか、心底うんざりしてたよ。お前の下らない感傷のせいで随分と時間を食わされた」
「ねえそういうとこ。真下くんのそういうとこ本当に良くないよ。人のお話はちゃんと聞いて」
「やかましい。雑談に付き合ってやるほど俺は暇じゃない。だがお前の持ち込んだ厄介事の処理はしてやるよ、契約通りにな。俺が仕事をしてる間、貴様はウチの事務所のバイトに見張らせておく。精々ここで間抜け面を晒してぼんやりしておけ。逃げられるなどと考えるなよ」
……この人、本当に元刑事なんだろうか。元ヤクザとかじゃなく?
頭の片隅で考えた事は、やっぱり顔に出るんだろうか。それともこの人が、異様に敏いだけなのか。フン、と憎々し気に鼻を鳴らして、真下くんは私を見下ろした。いつも通りに冷然とした、いっそ憎たらしいくらいの冷静さで。「下らない勘違いも程々にするんだな、苗字名前。仮にお前が食われたとして、あの怪異が止まる道理もないんだよ」
真下くんはもしかして、私を慰めてくれるんじゃないだろうか。そう思ってお礼を言ってみたら、寧ろ宇宙人を見るような目で見られてしまってへこんだ。気が付いたら、さっきまでの奇妙な感覚は跡形もなく消えている。だけどその理由については、突き詰めて考えたくなんかなかった。これ以上厄介事を増やすわけにはいかない。それにきっと、今夜はそんなことに煩わされている余裕なんかないだろう。ほどなくして姿を現したバイトの男の子(長嶋翔くん19歳)は、おかしな生き物でも見るような目で私を見つめている。で、彼に「この女見張っとけ。おかしな素振りを見せたら縛り上げてその辺に転がしておいて良い」などと言いつける真下くんは、やっぱりヤクザの人にしか見えないのだった。