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思えば随分と前から、予兆はあったのかもしれない。占いはいつ見ても最下位だし、外に出れば必ず土砂降りだった。そして連休とともに、何とも事件性の高い非日常までもが幕を開けた。唐突に戻ってきた真下くんに消えた元彼たち。挙句の果てには住んでるマンションの火災。だからこれも、非日常的な出来事の一環、という事になるんだと思う。そんなことをぼんやりと考えながら、ただ目の前の彼を眺めている。
「……ふふ」
思わずこぼれた笑いに、真下くんは心底呆れた顔をした。箸を持つその手の形は意外な位に美しい。迷いのない手つきで骨を除かれて綺麗に身をはがされて、あっけなく消えてなくなる焼き魚。山盛りあったはずの煮っころがしも、おひたしも。不揃いな器に載せられた料理たちはうっとりするほどの速度で、すいすいと彼の口の中に消えていく。その様を眺めながら、落ち着く、なんてずれたことを思う。勿論、真下くんを眺めてほっとしてる場合なんかではなかったし、元セフレのおうちに転がり込んだ挙句に料理なんか作っている場合でもなかった。そんなことしている場合ではないのは百も承知で、私は現実逃避の道を選んだのだ。だって仕方ない。ご飯を食べている時の真下くんは、いつもとは段違いなほどに平和で可愛いのだから。
「おいしい?」
「まあ、うまいと言えないこともない」
「そっか。相変わらずよく食べるね真下くん。実家の犬と超似てる」
「……、お前は俺の事を何だと思ってるんだ、一体」
「ちなみに名前も真下くんと似てたんだよね。サトちゃんって言うんだけどさ。写真見る?」
「相変わらずめでたい脳みそをしてるようで何よりだよ」
「ねぇ真下くんさあ、もうちょい口の利き方考えなよ? 嫌われるよ?」
「他人を犬畜生呼ばわりする女がそれを言うのか。まず貴様が口を慎め」
「ええ……、犬畜生なんて声にして言う人初めて見た……」
ねえとりあえずスーパー行きたい。あの時断固主張した私を、真下くんは宇宙人でも見るような目で見ていた。だけど止めなかったのだから、この件については彼も同罪だった。そもそも、「良いよ適当なホテルにでも泊まるよ」という私を無視してこの部屋に連れ込んだのも真下くんなのだ。だからやっぱり、責任を取ってもらうのがいいと思う。
正直ちょっと限界だった。色々な事が起こりすぎて、自分のキャパシティを超えていた。こういう時にひたすら料理を作りたくなるのは、大昔からの癖だった。とりあえず思考を停止して、自分の身に降りかかった事から距離を取りたかったのだ。部屋に転がり込むなり無言で台所をあさり始めた私を、真下くんは珍しい動物でも見るような目で眺めているだけだった。気を使ってくれたのか、常軌を逸した私の様子に恐れをなしただけなのかはよく分からない。それでも、「とりあえずご飯作っていい」と聞けば「好きにしろ」と彼は答えたので、私は思考を放棄してキッチンを使わせてもらうことにした。野菜を刻むとか、だし汁に味噌を溶いて入れるとか。決まりきった手順を繰り返すのは、自分の正気を確認するための儀式にも近い。自分が、無害で安全な存在だと確認する為の。この場所に馴染んでもいいのだと確認する為の。そうして出来上がった大量の料理を、真下くんはいつもあっさりと平らげてくれる。それが救いに思えたのは、もう思い出せない位昔の話だ。
窓の外はまだほんのり薄明るい。かすかに聞こえる虫の声も、生ぬるい空気も、何だか私たちが出会った頃に似ている、ような気がした。それでほんの少しだけ、昔の事を思い出してしまう。あの頃の真下くんは今よりもう少し素直だったし、かなり扱いやすかった。酔いに任せて無理矢理キスしたら、面白いくらいに顔を赤くしてそれでも舌打ちしたのが可愛かった。今日だけでいいから一緒にいてよ。そう言って部屋に連れ込んだ後、何をどうしたのかは正直余り覚えてない。いい加減にしろこの酔っ払い、と罵倒されてお布団に入れられたところまでは思い出せるんだけど。気が付いたら朝で、真下くんはベランダでたばこなんか吸っていたので、ああつまりなるようになったんだな、と勝手に納得したのを覚えている。
それっきりかと思っていたら、彼は定期的に部屋を訪ねてきた。何も聞かない約束もしない、多分そういうのが良いんだろう、とこれまた勝手に納得した。お互いに納得ずくの、身体(と、たまに餌付け)だけのおいしい関係。清くも正しくもないオトモダチとのお付き合いはそれなりに気楽でそれなりに楽しかった。余計な事を言わないように、聞かないように。それから、お互いの存在に慣れ過ぎないように。私達は慎重に線引きをしていた筈だった。だからこんな風に扱われると、どうしていいか分からなくなってしまう。自分のペースを守ろうとすればするほど混乱して、おかしな空回りばかりを繰り返している。
「ところで、えっと、結局転がりこんじゃってごめん」
「謝りたいのはそれだけか。まず連絡もなしに単独行動をしたところから反省しろ」
「いやまあ、謝りたい事は他にもいろいろあるんだけどさ……。でもとりあえず明日になったら私は適当なホテルに」
「二日前の出来事をもう忘れたのか。一人の時に昨日と同じ事が起きたらどうなるか想像もできないと。は、相当な間抜けだな」
「……、う、それは、そうだけど」
真下くんの言う事は、多分正しいのかもしれなかった。一人でいるときにあんな風に昏倒するのは、確かに危ないような気がする。でも私たちは、そういう関係ではなかったはずなのだ。今の状況でそれを言ってしまうのは、どうにも不都合なような気もするのだけど。ここのところ続いた非日常に次ぐ非日常、挙句の果てにマンションの火災。イレギュラーが続いたせいで、何だか距離感が狂っていた。私と真下くんはそういうのじゃない。そう思うのに、じゃあもともと私たちが【どういうの】だったのかもよく分からないのだ。でも少なくとも、こういう時にこんな風に頼って良い相手ではなかったはずだ。だって、これではあまりに何と言うか、なんというか。
「……影が出ないんだろ。俺と居るときは」
「えっ?」
「八敷に言っていただろう。俺と居るときは妙なモノを見ないと。だから、ここに居た方がまだ安全だと判断した」
「あ、いや、その、うん。あれは」
「事後報告で悪かったな。確かにあの時、俺は冷静さを欠いていた。お前を連れてくる前に説明すべきだったよ」
「え、……真下くんって、他人に謝ったりできるんだね」
本当はもっと別の事を言うべきだったのに。動揺するあまりに大層失礼な事を口走って舌打ちされた。殆ど物のない殺風景な部屋の中。それなのにここは空気が綺麗で、妙に居心地が良いのが最悪だった。緊張の糸が切れたせいで、うっかり安心してしまいそうになる。そしたら、余計な事まで口走りそうだった。恐くはなかったはずなのに。こんなのは全然、大したことなんかではなかったはずなのに。
実際問題。帰る場所がなくなった程度、何の問題もなかったのだ。お金ならあるし、暫くは適当にホテル暮らしをしたってかまわない。家賃だけで契約したあの場所には、大事なモノなんて何一つ置いていない。それなのに何故か不安になる。あの部屋で嗅いだ匂いのせいだろうか。自分の日常が、もしかしたら自分自身が、何かに侵食されている。知らない間に自分は狂ってしまったのではないか。ずっとそれを疑っている。正常な世界とと自分とを繋ぎとめていた場所すらも、ついに燃えてなくなってしまった。そう思ってしまうのは、私が正気を失いかけてるせいなのか。
渦中にいるときには違和感なんてなかったのに、本当に今更だ。突然糸が切れたみたいに、涙腺が緩み始めるのが分かった。あ、やばい、泣く。思った時にはもう遅くて、真下くんの仏頂面がぼやぼやと輪郭をぼかしていく。さっきまで落ち着いていられたはずなのにどういう事なんだろう。「ごめん大丈夫、大丈夫だから」小声で呟いた悪態はがびがびの涙声で、無様な事になっていた。いつもみたいに鼻で笑ってよ。言いたかったのに言えなかったのは、真下くんがらしくもなく、私の涙をぬぐってくれたりなんかするせいだった。心底うんざりしたような顔をする癖に、これ見よがしにため息なんか吐いて見せる癖に、その手だけが飛び切り優しくて恨めしい。
「ねえ真下くんしっかりしてよ、私たちほんとにこういうのじゃないでしょ」
「かもな。まあ、そう思うならさっさと泣き止んどけ」
「うう、だから絶対おかしいって。真下くんがこんな優しいわけない」
「はあ。お前は本当に、俺を何だと思ってる?」
「言ってるじゃん、実家で飼ってた犬に似てる」
「…………」
「……嘘だよ。本当は口の利き方がなってなくて目つきも態度も悪いけど結構真面目な刑事さんで意外と優しくて、とりあえず顔と声だけは最高に良い男だと思ってるよ」
「俺はもう刑事じゃな、いや待て本当に呆れるほど失礼だな貴様」
「真下くんにだけは絶対に失礼とか言われたくない、ああもう最悪」
口はすらすらと動くのに、涙だけがどうしても止まらない。いつも通りに話そうとしている筈なのに、話がとっ散らかっておかしな方向に転がっていくのが止められない。最悪、もうやだ、見ないで、何でこんな。ばらばらと弱音を吐いては無言で涙をぬぐわれる。お酒も入ってないのに、あの日みたいに頭がぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。
あの日。私が真下くんを部屋に引っ張り込んだ、あの日の事を思い出す。ちょうど今と同じように、あの時も自暴自棄になっていた。そういうのってたぶん、吊り橋効果って言うんだろう。人恋しくなってしまうのも、目の前の人に縋りたくなってしまうのも、全部吊り橋効果のせいなんだろう。それを拒否しないで甘やかしてくるあたり、真下くんも吊り橋効果にやられているのかもしれなかった。
硬い手で雑に頭を撫でられて、しゃくりあげたら背中をさすられた。少し冷たい手のひらに触れられて、自分の形を思い出す。煙草の匂い。呆れたようなため息が、案外近くで聞こえる。距離感がおかしい。そう思うのに、この人から離れるのが恐かった。ここから離れてしまったら、私は私の形を保てない。根拠もない恐怖心が常識だとか理性だとか体面だとか、普段私が大事に守っているはずの何かを取っ払っていく。それで気が付いたら案の定、おかしなことを口走っている。「ねえお願い、今だけでいいから一緒にいてよ」、なんて。そんな言葉は勿論、口に出すべきじゃなかったのに。
そこからどうなったのかはよく覚えてない。というのは嘘で、本当は思い出したくないだけだ。なるにようになれ。糸が切れて自暴自棄になった私は散々泣いた挙句に泣き疲れ、号泣がすすり泣きくらいになった頃合いで適当な着替えと共にお風呂に放り込まれた。学生時代の真下くんの物らしきジャージはどう考えてもぶかぶかで着心地が悪かった。上着には「警察大学校剣道部 真下悟」なんて名前が入っていて無駄に和んだ。雑にドライヤーで髪の毛を乾かされ、あの日みたいに無理矢理お布団をかぶせられる。その時に「絶対無理一人じゃ寝れない」などと更に駄々をこねて、彼をベッドに引っ張り込んだ事なんかもう忘れてしまいたい。真下くんが、苦虫を嚙み潰したような顔で私を見ていたことだって。
できることなら、もう一生このまま目を覚まさないでいたかった。それなのに当然のように朝が来て、目を覚ました瞬間から昨日の記憶に苛まれる。
「ごめんなさい私がどうかしてました。昨日の件は、その。良かったらなかったことに」
恥ずかしくて死ねる。目が覚めた瞬間に綺麗なフォーメーションで三つ指をそろえ、虫の泣くような声で懇願する私を真下くんは容赦なくせせら笑う。愉し気にゆがんだ瞳。何だかいつになく機嫌がいいのが不気味だ。「へえ? 随分としおらしい真似をするじゃないか」あざけるような声が、頭の上から降ってくる。
これってまるで、刑事ドラマみたいな構図じゃなかろうか。追い詰められて自白する犯人と、それを眺めている辣腕刑事。ふとそんな妄想が頭に浮かんでは消える。涙目でひれ伏す私をご満悦の表情で見下ろした真下くんは、わざとらしくしゃがんでこちらに向き直る。呼吸を止めて一秒、いや、三秒くらいたっただろうか。後生ですから一切を無かったことに。蚊の鳴くような声は鼻で笑われた。そうして焦らすだけ焦らしておいてから、至極ばっさりと、彼は私のお願いをはねのけるのだった。「はは、やなこった」
「……ふふ」
思わずこぼれた笑いに、真下くんは心底呆れた顔をした。箸を持つその手の形は意外な位に美しい。迷いのない手つきで骨を除かれて綺麗に身をはがされて、あっけなく消えてなくなる焼き魚。山盛りあったはずの煮っころがしも、おひたしも。不揃いな器に載せられた料理たちはうっとりするほどの速度で、すいすいと彼の口の中に消えていく。その様を眺めながら、落ち着く、なんてずれたことを思う。勿論、真下くんを眺めてほっとしてる場合なんかではなかったし、元セフレのおうちに転がり込んだ挙句に料理なんか作っている場合でもなかった。そんなことしている場合ではないのは百も承知で、私は現実逃避の道を選んだのだ。だって仕方ない。ご飯を食べている時の真下くんは、いつもとは段違いなほどに平和で可愛いのだから。
「おいしい?」
「まあ、うまいと言えないこともない」
「そっか。相変わらずよく食べるね真下くん。実家の犬と超似てる」
「……、お前は俺の事を何だと思ってるんだ、一体」
「ちなみに名前も真下くんと似てたんだよね。サトちゃんって言うんだけどさ。写真見る?」
「相変わらずめでたい脳みそをしてるようで何よりだよ」
「ねぇ真下くんさあ、もうちょい口の利き方考えなよ? 嫌われるよ?」
「他人を犬畜生呼ばわりする女がそれを言うのか。まず貴様が口を慎め」
「ええ……、犬畜生なんて声にして言う人初めて見た……」
ねえとりあえずスーパー行きたい。あの時断固主張した私を、真下くんは宇宙人でも見るような目で見ていた。だけど止めなかったのだから、この件については彼も同罪だった。そもそも、「良いよ適当なホテルにでも泊まるよ」という私を無視してこの部屋に連れ込んだのも真下くんなのだ。だからやっぱり、責任を取ってもらうのがいいと思う。
正直ちょっと限界だった。色々な事が起こりすぎて、自分のキャパシティを超えていた。こういう時にひたすら料理を作りたくなるのは、大昔からの癖だった。とりあえず思考を停止して、自分の身に降りかかった事から距離を取りたかったのだ。部屋に転がり込むなり無言で台所をあさり始めた私を、真下くんは珍しい動物でも見るような目で眺めているだけだった。気を使ってくれたのか、常軌を逸した私の様子に恐れをなしただけなのかはよく分からない。それでも、「とりあえずご飯作っていい」と聞けば「好きにしろ」と彼は答えたので、私は思考を放棄してキッチンを使わせてもらうことにした。野菜を刻むとか、だし汁に味噌を溶いて入れるとか。決まりきった手順を繰り返すのは、自分の正気を確認するための儀式にも近い。自分が、無害で安全な存在だと確認する為の。この場所に馴染んでもいいのだと確認する為の。そうして出来上がった大量の料理を、真下くんはいつもあっさりと平らげてくれる。それが救いに思えたのは、もう思い出せない位昔の話だ。
窓の外はまだほんのり薄明るい。かすかに聞こえる虫の声も、生ぬるい空気も、何だか私たちが出会った頃に似ている、ような気がした。それでほんの少しだけ、昔の事を思い出してしまう。あの頃の真下くんは今よりもう少し素直だったし、かなり扱いやすかった。酔いに任せて無理矢理キスしたら、面白いくらいに顔を赤くしてそれでも舌打ちしたのが可愛かった。今日だけでいいから一緒にいてよ。そう言って部屋に連れ込んだ後、何をどうしたのかは正直余り覚えてない。いい加減にしろこの酔っ払い、と罵倒されてお布団に入れられたところまでは思い出せるんだけど。気が付いたら朝で、真下くんはベランダでたばこなんか吸っていたので、ああつまりなるようになったんだな、と勝手に納得したのを覚えている。
それっきりかと思っていたら、彼は定期的に部屋を訪ねてきた。何も聞かない約束もしない、多分そういうのが良いんだろう、とこれまた勝手に納得した。お互いに納得ずくの、身体(と、たまに餌付け)だけのおいしい関係。清くも正しくもないオトモダチとのお付き合いはそれなりに気楽でそれなりに楽しかった。余計な事を言わないように、聞かないように。それから、お互いの存在に慣れ過ぎないように。私達は慎重に線引きをしていた筈だった。だからこんな風に扱われると、どうしていいか分からなくなってしまう。自分のペースを守ろうとすればするほど混乱して、おかしな空回りばかりを繰り返している。
「ところで、えっと、結局転がりこんじゃってごめん」
「謝りたいのはそれだけか。まず連絡もなしに単独行動をしたところから反省しろ」
「いやまあ、謝りたい事は他にもいろいろあるんだけどさ……。でもとりあえず明日になったら私は適当なホテルに」
「二日前の出来事をもう忘れたのか。一人の時に昨日と同じ事が起きたらどうなるか想像もできないと。は、相当な間抜けだな」
「……、う、それは、そうだけど」
真下くんの言う事は、多分正しいのかもしれなかった。一人でいるときにあんな風に昏倒するのは、確かに危ないような気がする。でも私たちは、そういう関係ではなかったはずなのだ。今の状況でそれを言ってしまうのは、どうにも不都合なような気もするのだけど。ここのところ続いた非日常に次ぐ非日常、挙句の果てにマンションの火災。イレギュラーが続いたせいで、何だか距離感が狂っていた。私と真下くんはそういうのじゃない。そう思うのに、じゃあもともと私たちが【どういうの】だったのかもよく分からないのだ。でも少なくとも、こういう時にこんな風に頼って良い相手ではなかったはずだ。だって、これではあまりに何と言うか、なんというか。
「……影が出ないんだろ。俺と居るときは」
「えっ?」
「八敷に言っていただろう。俺と居るときは妙なモノを見ないと。だから、ここに居た方がまだ安全だと判断した」
「あ、いや、その、うん。あれは」
「事後報告で悪かったな。確かにあの時、俺は冷静さを欠いていた。お前を連れてくる前に説明すべきだったよ」
「え、……真下くんって、他人に謝ったりできるんだね」
本当はもっと別の事を言うべきだったのに。動揺するあまりに大層失礼な事を口走って舌打ちされた。殆ど物のない殺風景な部屋の中。それなのにここは空気が綺麗で、妙に居心地が良いのが最悪だった。緊張の糸が切れたせいで、うっかり安心してしまいそうになる。そしたら、余計な事まで口走りそうだった。恐くはなかったはずなのに。こんなのは全然、大したことなんかではなかったはずなのに。
実際問題。帰る場所がなくなった程度、何の問題もなかったのだ。お金ならあるし、暫くは適当にホテル暮らしをしたってかまわない。家賃だけで契約したあの場所には、大事なモノなんて何一つ置いていない。それなのに何故か不安になる。あの部屋で嗅いだ匂いのせいだろうか。自分の日常が、もしかしたら自分自身が、何かに侵食されている。知らない間に自分は狂ってしまったのではないか。ずっとそれを疑っている。正常な世界とと自分とを繋ぎとめていた場所すらも、ついに燃えてなくなってしまった。そう思ってしまうのは、私が正気を失いかけてるせいなのか。
渦中にいるときには違和感なんてなかったのに、本当に今更だ。突然糸が切れたみたいに、涙腺が緩み始めるのが分かった。あ、やばい、泣く。思った時にはもう遅くて、真下くんの仏頂面がぼやぼやと輪郭をぼかしていく。さっきまで落ち着いていられたはずなのにどういう事なんだろう。「ごめん大丈夫、大丈夫だから」小声で呟いた悪態はがびがびの涙声で、無様な事になっていた。いつもみたいに鼻で笑ってよ。言いたかったのに言えなかったのは、真下くんがらしくもなく、私の涙をぬぐってくれたりなんかするせいだった。心底うんざりしたような顔をする癖に、これ見よがしにため息なんか吐いて見せる癖に、その手だけが飛び切り優しくて恨めしい。
「ねえ真下くんしっかりしてよ、私たちほんとにこういうのじゃないでしょ」
「かもな。まあ、そう思うならさっさと泣き止んどけ」
「うう、だから絶対おかしいって。真下くんがこんな優しいわけない」
「はあ。お前は本当に、俺を何だと思ってる?」
「言ってるじゃん、実家で飼ってた犬に似てる」
「…………」
「……嘘だよ。本当は口の利き方がなってなくて目つきも態度も悪いけど結構真面目な刑事さんで意外と優しくて、とりあえず顔と声だけは最高に良い男だと思ってるよ」
「俺はもう刑事じゃな、いや待て本当に呆れるほど失礼だな貴様」
「真下くんにだけは絶対に失礼とか言われたくない、ああもう最悪」
口はすらすらと動くのに、涙だけがどうしても止まらない。いつも通りに話そうとしている筈なのに、話がとっ散らかっておかしな方向に転がっていくのが止められない。最悪、もうやだ、見ないで、何でこんな。ばらばらと弱音を吐いては無言で涙をぬぐわれる。お酒も入ってないのに、あの日みたいに頭がぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。
あの日。私が真下くんを部屋に引っ張り込んだ、あの日の事を思い出す。ちょうど今と同じように、あの時も自暴自棄になっていた。そういうのってたぶん、吊り橋効果って言うんだろう。人恋しくなってしまうのも、目の前の人に縋りたくなってしまうのも、全部吊り橋効果のせいなんだろう。それを拒否しないで甘やかしてくるあたり、真下くんも吊り橋効果にやられているのかもしれなかった。
硬い手で雑に頭を撫でられて、しゃくりあげたら背中をさすられた。少し冷たい手のひらに触れられて、自分の形を思い出す。煙草の匂い。呆れたようなため息が、案外近くで聞こえる。距離感がおかしい。そう思うのに、この人から離れるのが恐かった。ここから離れてしまったら、私は私の形を保てない。根拠もない恐怖心が常識だとか理性だとか体面だとか、普段私が大事に守っているはずの何かを取っ払っていく。それで気が付いたら案の定、おかしなことを口走っている。「ねえお願い、今だけでいいから一緒にいてよ」、なんて。そんな言葉は勿論、口に出すべきじゃなかったのに。
そこからどうなったのかはよく覚えてない。というのは嘘で、本当は思い出したくないだけだ。なるにようになれ。糸が切れて自暴自棄になった私は散々泣いた挙句に泣き疲れ、号泣がすすり泣きくらいになった頃合いで適当な着替えと共にお風呂に放り込まれた。学生時代の真下くんの物らしきジャージはどう考えてもぶかぶかで着心地が悪かった。上着には「警察大学校剣道部 真下悟」なんて名前が入っていて無駄に和んだ。雑にドライヤーで髪の毛を乾かされ、あの日みたいに無理矢理お布団をかぶせられる。その時に「絶対無理一人じゃ寝れない」などと更に駄々をこねて、彼をベッドに引っ張り込んだ事なんかもう忘れてしまいたい。真下くんが、苦虫を嚙み潰したような顔で私を見ていたことだって。
できることなら、もう一生このまま目を覚まさないでいたかった。それなのに当然のように朝が来て、目を覚ました瞬間から昨日の記憶に苛まれる。
「ごめんなさい私がどうかしてました。昨日の件は、その。良かったらなかったことに」
恥ずかしくて死ねる。目が覚めた瞬間に綺麗なフォーメーションで三つ指をそろえ、虫の泣くような声で懇願する私を真下くんは容赦なくせせら笑う。愉し気にゆがんだ瞳。何だかいつになく機嫌がいいのが不気味だ。「へえ? 随分としおらしい真似をするじゃないか」あざけるような声が、頭の上から降ってくる。
これってまるで、刑事ドラマみたいな構図じゃなかろうか。追い詰められて自白する犯人と、それを眺めている辣腕刑事。ふとそんな妄想が頭に浮かんでは消える。涙目でひれ伏す私をご満悦の表情で見下ろした真下くんは、わざとらしくしゃがんでこちらに向き直る。呼吸を止めて一秒、いや、三秒くらいたっただろうか。後生ですから一切を無かったことに。蚊の鳴くような声は鼻で笑われた。そうして焦らすだけ焦らしておいてから、至極ばっさりと、彼は私のお願いをはねのけるのだった。「はは、やなこった」