われなべにとじぶた
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うわき【浮気】ーする〔上方の意〕
①一つの物事だけに精神が集中できず、他の物事に興味が変わりやすいこと。
②妻(夫)を愛するだけでは足りなくて、他の異性とも一時的に愛欲関係を持つこと。
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「だから言ったじゃん真下くんはさあ」
居酒屋の喧騒が遠い。「真下くんは顔がいいの。そりゃお口は悪いけど意外と優しいし、面倒見も良いし、そのうえ真面目でちゃんとしてるの。しかも口元が可愛いし目元も可愛いし寝顔も可愛い。間違いないのこれは。全人類に好かれるでしょそんな人。知ってた」私の向かいでバンシー伊藤(これ本名なんだろうか)が「愛じゃのー」と適当な相槌を打つ。華の金曜日、23時。24時間365日年中無休営業というコンセプトの、酔っぱらいにとっては楽園のような居酒屋の端っこの席。何で私はこの人と飲んでるんだっけ。ふと我に返りそうになるけど、さっきしこたま飲まされた芋焼酎のせいで頭も体も重かった。
「恋じゃのー本当に。苗字ちゃんは真下ちゃんにらぶぞっこん、という訳じゃな。うん」
「そうだよその通りだよ私は真下くんの事が大好きだし愛してるし、だから別にこういうのは大丈夫なんだって。泣いてないし怒ってないし悲しくないよ、嘘だよほんとはちょっとだけ悲しいけど大丈夫、だいじょうぶだけど」
大丈夫、の筈だった。それなのにぐるぐると言葉が、こんがらがっては喉元に詰まる。……そもそもこんなのは分かり切っていたことだった。基本的に仕事人間の真下くんは平日だろうが週末だろうがお構いなしに仕事を入れる。連休の全てを仕事に費やす事だって、泊り仕事で連日家を空けることだってざらにある。そんなのはもう慣れ切っていた筈だった。四六時中一緒に居たいだなんて寝ぼけた事は勿論考えていなかった。一人の時間を埋めるための愉しみの手段なんて、幾らでも私は持っていた。そのつもり、だったのに。
「当たり前じゃん大丈夫に決まってる。こんなの全然だいじょうぶ問題ない」
暫く家を空ける。悟くんから、ちがった真下くんからそう告げられたのは、唐突なプロポーズから数か月後、手続きやら引っ越しやらの諸々が落ち着いたのを見計らったみたいなタイミングだった。今からきっかり、34日と16時間前の午前7時。いつも通りの顔で朝ご飯のトーストをかじりながら、いつも通りに淡々とした声で真下くんは私に告げた。「安岡のバアサンから聞いてると思うが、案件が立て込んでいて暫く帰れそうにない。まあ、電話くらいはしてやるから精々イイコで待ってろ」暫くってどのくらい、と、聞かなかったのは今思うと痛恨のミスだった。そんなに深く考えずに、「ふうん、お仕事頑張ってね」なんて呑気に答えてしまったあの日の私は、勿論こんなのは予想していなかった。普段通りの顔で私を仕事先まで送り届けて、普段通りの声で「それじゃ、行ってくる」などと私に告げて車に乗り込んだ彼が、そのまま一か月以上家に戻ってこなくなるなんて。
……勿論、そんなことは大した問題じゃないのだ。仕事人間のあの人が、滅多に家に帰ってこない事など。1LDKのマンションが、一人で過ごすにはいささか広すぎる事など。ときおり彼からかかってくる色気もそっけもない近況報告の電話が、きっかり三分で「時間だ」などという事務的にもほどがある言葉で打ち切られてしまう事など。そんなのは全て些末な事だ。私が一人の時間の過ごし方を忘れかけてしまっている事だって、こういう時に頼れるはずだった【オトモダチ】全員の連絡先が悉く【お掛けになった電話番号は現在使われておりません】状態になっていた事だって、気まぐれに掛かってくるたった三分の電話を待ちわびてしまっている事だって、何もかもが微々たる問題に過ぎない。だけど。
「特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」
「……は? いきなり何?」
「それまでいだいていた優越感・愛情・独占感が突如他にしのがれるようになったことに気付いた時に感じるねたみの気持ち。ジェラシー。以上新明解国語辞典第五版より」
「え、だからいきなり何なの恐い」
「最近は暇つぶしに辞書を読んでおる。ワシは記憶力がいいものでな」
「……確かに凄いかもしれないけど、だからそれが何なのよ」
「つまりはそういう事じゃろ。苗字ちゃんのその状態を、一般的に嫉妬もしくはジェラシー、その道の専門用語では激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームという」
「激おこファスティ……なんて?」
「おん? 何をカマトトぶってしらばっくれておる。要するに苗字ちゃんは、愛しのダーリンが他所の女と歩いている所を目撃して寂しくて嫉妬して激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームを」
「だから違うって言ってるじゃんこのクソジジイ」
思わず口からこぼれ出た暴言も気にせずクソジジイ、もといバンシー伊藤は「かわいげのない女じゃのー」などと適当な事を言い、十八皿めの焼き鳥の皿を平らげた。それから、「まあ飲め。飲んで、ついでに吐いて楽になれ」などとどこかの刑事ドラマのようなセリフを吐き、私のグラスに焼酎を追加してくれた。だけどテーブルの上に並ぶ全ては私のおごりなのだから、何ともしょっぱい状況なのだ。我ながら情けない。それでも背に腹は代えられない。今はもう誰でも良いから一緒に居て欲しい。この際住所不定職業不詳年齢不明自称霊能者の怪しい爺さんでも構わない。こんな気持ちを抱えたまま、あの部屋に帰るのは嫌だった。……というのも。
……と言うのも、つまり、先週目撃してしまったからなのだった。何を? 大好きな大好きな新婚ほやほやの旦那様、元セフレ現夫の真下くんが、私の知らないどこかの美女とともに、連れ立って怪しいホテル街へ消えていく様を。あの時から私の時間は止まっていた。そこから一週間、何をどうやって生活しているんだか、自分でもちょっとよくわからない。
切りっぱなしにした携帯電話は、多分もう電源が入らなくなっている。連日終電ギリギリまで飲んで玄関で酔いつぶれたまま寝て、それでも朝になったらシャワーを浴びて、そんな有様でもなんだかんだ仕事にだけは行っている。幸いなことに、勤務先の安岡とわこ事務所も今は結構な繁忙期だ。やろうと思えば幾らでも仕事ができるので、気がまぎれて助かる。勿論、真下くんの事務所へお使いを頼まれる事だってなくはない。だけどそれだって、顔を合わせないようにしようと思ったら幾らでも方法はあるのだった。こんな風に厄介ごとの種から徹底的に逃げ続けて、とうとう一週間が過ぎた。そんな訳で金曜日だ。よりによって週末の金曜日。風の噂によると、彼の抱えていた案件はひと段落付いたらしい。だから余計に、あの部屋には帰りたくなかった。この感情をどうやって取り繕ったらいいのかも、どういう顔をして真下くんと会話すればいいのかも分からなかった。もう何もかも面倒で、何もかもから逃げている。よく分からないまま始まった結婚生活からも、大好きなはずの夫からも、こんな膨大かつ厄介な感情を抱えてしまう自分自身からも。
たった一週間で、私は逃げ回るのが随分と上手になったらしい。事務所を閉めるギリギリまで仕事をしたあとで安岡先生の目を盗んで退勤し(人が変わったようにワーカホリックと化した私を見て、先生は何か察したらしい。帰り際になるといつもいつも物言いたげな目で見つめてくるのが何とも罪悪感をそそられる)、駅前で遭遇したバンシー伊藤をひっかけてこの穴場の居酒屋にたどり着いた。地下にあるこの店には携帯の電波だって届かない。そのうえ騒がしくていつでも混んでいて、人混みに紛れてしまえばそう簡単には見つからない。しかもお酒の種類が豊富でつまみの味だって悪くない。つまり、長居するにはもってこいの場所だった。夜が明けるくらいまでは、ここで時間をつぶせるだろう。その後どうするかなんてことは考えたくもなかった。だからバンシー伊藤に勧められるままにお酒を飲んで、殆ど独り言みたいに管を巻いている。
「……喜ばしい事だと思うよほんとに。真下くんの事を好きな人がこの世に一人でも増えることは間違いなく素晴らしい事だよ。だから別に良いんだよ、私の気持ちはともかくとしてもそれは真下くんにとっては間違いなく良い事だからつまり私は、……わたし、は」
……あ、何か泣きそう。感情を言葉にして自覚してしまったら、どうにも歯止めが利かなくなりそうだった。目を閉じる。息を吸って吐く。手元の杯を一息に飲み干せば、おかしな浮遊感で頭がくらりくらりと揺れる。「全く最近の若いモンはこれだから。揃いも揃ってろくでもない」私の目の前数センチの至近距離でクソジジイ、違ったバンシー伊藤、が笑っている。笑いながら、店員に何やら注文をしている。
「プレミアムモルツとロイヤルシグネチャーサルートと大吟醸特選越乃寒梅と特上刺身盛り合わせとフライドポテト盛り合わせとチキン南蛮をあと三人前追加じゃ」……このクソジジイ、人の金だと思って好き勝手やりやがって。頭のどこか奥の方で、まるでどこかの誰かさんのような罵詈雑言が、どこかの誰かさんみたいな低い低い声で再生される。一緒に居る内に口の悪さまで移ってしまったんだろうか。そんな事を考えてしまったらもうどうしようもなくて、こんなに賑やかな居酒屋の店内でいよいよ途方に暮れてしまう。
「カマトトぶりおって。さっさと認めてしまえば宜しい。しかる後に泣き落とすなり、問い詰めるなり、一物を切り取るなり、無理心中するなりしてしまえ。大抵の事はそれで収まる」全く、なんというアドバイスだろう。黙って聞いてれば好き勝手言いやがって。そう思った言葉は声になんてならなかった。かろうじて「ちがう」とだけ絞り出した声は、泣きそうに掠れて頼りなく空間に掻き消える。無駄に明るい居酒屋の照明が、チカチカと瞼の上で反射する。笑い声。グラスのぶつかり合う音。店員があわただしく行きかう声。寂しい、と言ってしまいそうになって慌てて打ち消す。そんな筈はない。一人きりが怖いなんて、あの人の不在を恐がってしまうなんて、そんな筈は。舌の上に残った焼酎の苦みがあとを引いて、私の思考を鈍らせる。
「そうじゃなくて私はただ」私はただ。ただ、……何だって言うんだろう。自分が口走った言葉の続きを考えたくなくて、だからもう眠ってしまうことにした。突っ伏したテーブルの湿った感触。隣のテーブルから聞こえるはしゃいだ声。音が遠い。バンシー伊藤の声も遠い。最後の気力で「ねえ伊藤さん。好きなだけ頼んで食べてていいから、私が起きるまで絶対にそこに居てよね」とだけ告げ目を閉じた。ら、そこでぷつ、と音が途絶えた。
「ふむ。真下ちゃんには女難の相が出とる」
……あれからどれくらい眠っていたんだろう。
ふと、バンシー伊藤の予言めいた声で目が覚めた。相変わらず騒がしい店内の気配。どうやら眠っていたのは、ほんの十分かニ十分程度の事だったらしい。それでも、さっきまで霞掛かっていた思考は大分クリアになっていた。いっそのこと記憶をなくせるくらいに酔えれば良かったのに、中途半端にお酒に強い自分の体質が恨めしい。うんざりしながら顔をあげようとして、そこで唐突に、隣に誰かが座っていることに気付いてしまう。
「黙れよクソジジイ。人の女にちょっかいをかけて飯を集った挙句に言う台詞がそれか。下らない占いなら他所でやれ」聞きなれた低音。不機嫌そうな、いっそうんざりしている、とでも言いたげな声色の。この場所にいる筈のない人の声に、急速に意識が浮上する。
「っかー、揃いも揃ってかわいくないのお、お前ら。高貴な生まれであるこのワシをクソジジイなどと言いおって。そもそも感謝されこそすれ、睨まれる筋合いなどないはずだぞ。ワシは甲斐性なしの旦那の代わりに、涙に暮れる若妻を慰めてやっていただけだというのに。しかし、ほんっに名前ちゃんも可哀想にのお、こんなろくでなしに捕まったばかりに」
「……ほお。貴様、よほど痛い目に遭いたいらしいな。この社会不適合者が」
「お? 何か? いたいけな老人を捕まえて恫喝する気か? 全くおっかないのおー、最近の若いモンは」
テーブルを、苛立たし気に指先が叩く音。舌打ちを零す気配。隣に座る誰かの声はどんどんと冷え込んで、絶対零度の空気を醸し出す。何だか少し面倒くさい事が起きているような気がする。素直に起き上がろうか、それとも寝たふりを続行しようか。私が逡巡している間にも、自体は刻々と進行していく。「嘆かわしいのお本当に。揃いも揃って中途半端な真似をしおってからに」テーブルの上に突っ伏したまま全神経を聴覚に集中させている私をよそに、バンシー伊藤は説教めいた小言を口にして、それから、「……まあいいわ。真下ちゃんの望み通り、あとはお若い二人だけでやらせてやろう」などとお見合いの仲人のような事を言い始め、「それじゃあの、苗字ちゃん。ワシは行くが、後は打ち合わせ通りにしっかり一物を切り取ってやれ」などと、思いっきり誤解を招きそうな発言を残して去って行った。何て事言ってくれるんだこのクソジジイ。口をついて出そうになった悪態は勿論呑み込んだ。隣の誰かが、煙草に火をつける気配。「……それで?」独り言のような口調で吐きだされる声が、私へと向けられていることは明らかだった。
「貴様は何時まで狸寝入りを決めこむつもりだ、真下名前」
一か月と少しぶりに聞くその声は、何だか泣きたくなるほど懐かしい。ゆっくりと顔をあげたら、今度はしっかり目が合ってしまった。煙草の匂い。目の下の隈も雑にセットされた髪の毛も相変わらずだ。その顔を眺めているうちに喉元に、よく分からない感情がこみ上げる。苛立ちのような悲しみのような、愛情のような倦怠感のような。それら全部がこんがらがって絡まって、正体を確かめる事すらも億劫だった。
……なんかもう、面倒くさいな。考えることを放棄した頭には、もうそれしか残っていなかった。どうやらまだ酔いは抜けていないらしい。面倒くさい。何もかもが億劫で手に負えなくて、だからやっぱり、全部投げ出して逃げてしまいたい。投げやりな気持ちはそのまま声になって、気が付いたら口からは思ってもない言葉が飛び出していた。
「……。人違いじゃないですか?」
「……あ? 何をふざけた事を言ってる」
「いや別にふざけてないです。あの、オニイサンどちら様ですか? 私たちどこかでお会いしたことありましたっけ」
「お前な。そんなあからさまな嘘が何で通用すると思った?」
「嘘って何のことですか」
ひくり。私をまっすぐに見据える彼の口元が、ほんの少し引き攣るのを見た。あとの事はどうだって良かった。久しぶりに直に言葉を交わせるのだとしても、こんな場所でこんな気持ちのまま、こんな風に会話なんてしたくなかった。もうどうにでもなれ。好奇心3割苛立ち4割、残りの3割はやっぱりよく分からない。真下くんはほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、いつも通りに舌打ちを放つ。本当にふざけるなよ貴様。呟かれたその言葉は、もういっそ綺麗に無視してしまうことにした。
「ていうかもう良いですか。私、友達と飲んでた筈なんですけど。何か彼ももう帰っちゃったみたいですね」
「だから設定が雑なんだよ馬鹿、言い訳にしたってもう少しマシな事言えよ」
「はあ。ちょっと何言ってるかわからないです。もう帰っていいですか?」
「駄目に決まってんだろ。そもそもお前と俺の帰る場所は一緒の住所だろうがふざけんな」
「だからちょっと何言ってるかよくわからないです」
「何で分かんねえんだよおかしいだろ」
席を立つ。引きずり戻される。席を立つ。引きずり戻される。その繰り返しで、もう数分が経過していた。
「本当にいい加減しろよ、真下名前。散々人の事を振り回した挙句可笑しな猿芝居まで始めやがって」
「知りません誰ですか真下名前って。そっちこそいい加減に離して下さい」
「今離したら確実に逃げるだろうが、分かったから座れ。もうその設定で良いから座れ話をしろ」
「設定って何のことですか。ていうかなんか馴れ馴れしくないですか。今時ナンパだってもっと感じ良いですよ」
売り言葉に買い言葉。押し問答を繰り返すうちに、何だか話がおかしな方向に走り出していく。席を立つ。腕を掴まれて引きずり戻される。その腕を振りほどく。再度腕を掴まれる。周囲の視線が痛かった。……金曜日のこんな深夜に何がどうして、私たちはこんなこじれた会話をしているんだろう。我に返ろうとしたタイミングで真下くんは、深く深くため息を吐く。「クソが」吐き捨てるような悪態。テーブルの上にあった焼酎のボトルを大きな手がひっつかむ。その中身を一息に空けられるのを、ただ目で追っている。ふは、とかすかに息を吐いてから、彼は自棄になったみたいな目で私を睨む。
「ああそうかよ分ったよ。そっちがその気なら気が済むまで付き合ってやるよ」一体どういうつもりなんだろうこの人は。自分の事を棚に上げて、ついまじまじとその顔を見つめてしまう。気が済むまで付き合ってやるよ。その言葉の意味を把握する前に、私の腕を掴んでいた掌が、するりと動いて手首まで降りてくる。
それから真下くんはいつもなら絶対に見せてくれないような最高にわざとらしい作り笑いでこちらに向き直り、「……、馴れ馴れしくて悪かったな。【オネエサン】」
つまり、そういう事らしかった。私が自棄を起こして始めた猿芝居に、あくまで彼は乗っかるつもりでいるらしい。私の視線の先で悟くんは、違った真下くんは、皮肉気に口をゆがめて見せる。「そう怖がってくれるなよ。何も取って食おうって訳じゃない。俺はただ、あんたに」妙に芝居がかった口調が癇に障る。ぐ、ともう一度手を引かれて、半ば強制的に席に引っ張り戻された。「ほんの少し聞きたいことがあるだけなんだ。教えてくれよ、なあ。あんたと、あの禄でもなさそうな【オトモダチ】が話していた内容について」抵抗したって良いはずなのに、妙な好奇心に負けてされるがままになってしまう。それもこれも全て、酔いが回っているせいなんだろうか。
出会った頃と同じくらいに皮肉っぽくて、あの頃の数倍も威圧的な視線が私を射抜く。何だか妙な事になっている。頭のどこか冷静な部分で考える。だけどもう後戻りなんてできそうもなかった。「……。貴方なんかに教えてあげない」思いついた言葉をそのまんま口にすれば、ぎりぎりと音がするくらいに強く、手首を握りしめられる。
「へえ? つれないな。あの怪しげな爺さんとは、随分と親し気に話し込んでたじゃないか。俺にも詳しく教えてくれよ。ろくでなしで甲斐性無しな、あんたの旦那とやらについてさ」
「くっ……あのクソジジイ余計な事を……」
「ハハ、お気の毒に。口の軽い【オトモダチ】も居たもんだよな。あの爺さんはな、飯を奢ってくれる人間なら誰にでも魂を売るんだよ。旦那に教わらなかったのかよ。人を見たら殺人犯かひき逃げ犯か窃盗犯だと思えって」
「……知らない。そんな昔の話覚えてない」
「不用意に遅くまで出歩くなと言ったよな」
「子供じゃあるまいし」
「手当たり次第に手を付けて餌付けする癖は直せとも言った」
「だから何のことですか。オニイサンがさっきから何の話をしてるんだか、私には見当もつきません」
「可哀そうにな。あんたの旦那とか言う男も、そこまで信用がないとは思ってもなかっただろうさ。何かあったらすぐに連絡しろと、口酸っぱく教えてやってただろうに」
「ねえそれ、どういう感情で言ってるの?」
「知るかよ馬鹿。ごく一般的な常識として考えろ。何で俺じゃなくてあの爺さん捕まえて愚痴を零してるんだ貴様は。人選が可笑しいだろふざけんなまず俺に言え」
「さっきからずっと言ってますが人違いです、私は貴方の妻じゃないので」
「……クソ、まだその設定続いてるのかよ。面倒くさいな」
「だから何の話ですか」
「……はあ。だから、あんたを泣かせてる甲斐性なしの旦那についての話だろ」
「別に泣いてはない」
「嘘つけ」
「……、もう行っていいですか? 次の約束があるんですけど」
「約束? 終電なんてとっくに過ぎてるこの時間から? あんたさっき言ってただろうが。帰りたくないんだろ。だったらここで、話の続きを聞かせてくれよ」
「知らない。私からお話出来ることなんてありません。ねえ離して下さい、約束があるんです。オトモダチと待ち合わせしてるので」
「へえ? オトモダチ、ねえ。それは一体誰の事なんだか」
「誰でもいいでしょ」
「誰でも良いなら俺で良いだろ」
「誰でも良いけど貴方だけは絶対にお断りだよ」
「手厳しいな。いい加減諦めろよ、約束なんて本当はしてない癖に」
「何でそんなこと分かるのよ」
「俺が全員切ったから」
「うん?」
「精々感謝することだな、厄介ごとの種を事前に払っておいてやったんだから。お前の交友関係なんかとっくに割れてんだよ。ああいう連中は面倒事の匂いに敏感だ。少しばかり【お話】したら、素直に言う事を聞いてくれたさ。連中が最後に連絡を寄越したのが、どのくらい昔の事だったか思い出せるか? そっちからの電話だってもう通じなかったろ? つまりあんたに都合のいい【オトモダチ】なんか、最初から存在しないのさ。はは、残念だったな」
「はあ!? ちょっと何余計な事してくれてんの真下くん」
「【真下くん】」
ついうっかり呼んでしまった名前は、愉し気な声でただ復唱される。「何で貴様が俺の名前を知ってる? おかしいよなあ。俺とあんたは初対面の筈だろ」人を馬鹿にしたような笑みが、心底不愉快だった。不快で、腹立たしくて、……それなのに飛び切り愛おしく感じてしまうのだから、自分で自分が嫌になる。視線を逸らしたのは、別に泣きそうになったからとかじゃない。顔を背けて目を閉じて、耳だって塞いでしまいたかったのに、誰かの手で邪魔される。頬をなぞる親指の硬い感触。「それとももう、下らないごっこ遊びは止めにするのか」頬の輪郭をなぞった指先が唇をこじ開けてくるので、返事の代わりに軽く歯を立ててやる。ふうん、と、不服げなため息が、思ったよりもずっと近くで聞こえる。観念して目を開けたら、とうとう視線がかち合ってしまう。
「それで?」柔らかい、ほとんど上機嫌といってもいい位の声色。こういう時の彼は厄介なのだと、経験則で知っている。「言い逃れのネタもそろそろ尽きて来たんじゃないか。いい加減口を割れよ、真下名前。俺からの着信を無視して、こんなところまで逃げ込んで、よりによってあの怪しげな爺さん相手に管を巻いてた理由を教えてもらおうか」話の続きなんてしたくない。自分がここに居る訳も、逃げ回っていた訳も、携帯の電源を落としている理由だって、何一つ説明なんかしたくなかった。だけどここで抗ったところで、結局は逃げられない事だって、もう十二分に知ってしまっているのだ。視線を逸らすことも、はぐらかす事だってもう許してはもらえない。そうして逃げ場を塞がれて、無遠慮に暴き立てられる。いつもの事だ。私には何一つ説明してくれない癖に、この人は私の感情の、何もかもを引きずり出そうとするのだからずるい。
「…………別に理由なんて、大したことじゃないけど」
「それはお前が判断する事じゃない。良いから話せよ、聞いてやるから」
「真下くんっていっつもそう。自分は何も話してくれないくせに、私にばっかり説明させようとする」
「それを不服に思うなら、少しは素行を改めろ」
「……そっちだって人の事言えないくせに……」
「お前が何に臍を曲げたんだか大方予想は付いてるが、だったら俺に直接聞けばいいだろ」
「聞きたいことなんて別にない。臍を曲げてる訳でもないし」
「へえ? その割には随分と拗ねた態度を取るじゃないか。今更俺の事を苗字で呼ぶのは何のつもりだよ。お前だってもう真下だろうがいい加減にしろ」
「だから、別に拗ねてないってば。ただ、いつだって戻れるようにしておきたいだけだよ。私と真下くんは元々お友達だったんだから」
「はは、お前は本当に俺を怒らせるのが上手いな。誰と誰が【オトモダチ】だって?」
縺れた感情は絡まってこんがらがって、自分でも手が付けられなくなっている。ひとつでも言葉にしたら後戻りできなくなりそうで、だから、延々と遠回りを続けている。真下くんはそんな私に舌打ちを零し、「貴様はいい加減その逃げ癖を直せ」などと、何だか随分と偉そうな事を言うのだから腹立たしい。逃げてないしふざけてもないし怒らせるつもりだってない。だけど反論するのも億劫で、目を逸らしたらいよいよ私が逃げているみたいな空気になってきて困る。これじゃあ本当に全部が、この人の言う通りみたいじゃないか。
「言っておくがあの女は貴様が思ってるような相手じゃな、」
「いや怒ってないから説明しなくていいよ。真下くんの事を好きな人がこの世に一人でも増えたなら私としても嬉しいし」
「クソ、本当に面倒くさいな貴様。せめて問い詰めるなり怒るなりしろよ。厄介な拗ね方しやがって」
「拗ねてない」
「嘘つけよ。電話は出ない、家には帰らない、仕事中まで徹底的に逃げ回った挙句に他人の振りまでしておいて」
「家に帰らないのは真下くんだって同じじゃないの」
「俺とお前じゃ条件が違うだろうが」
「違わないよ、同じじゃん。別に私は構わないってば。真下くんが仕事にかまけて家に帰ってこなくたって、どっかの美女と浮気してたって怒らない」
「へえ。俺があの女と浮気してたとして、お前は何も思わないって?」
「……だって真下くんは顔が良いじゃん」
「はあ?」
「……真下くんは顔がいいし声も良いし意外と優しいし、面倒見も良いし、そのうえ真面目でちゃんとしてるじゃん。皆好きだよそんな人」
「だから何だよ。貴様が俺の事を随分と買いかぶってることだけは伝わるが」
「だから、もう仕方ないって思ってるって話だよ。私の大好きな真下くんを好きな人が、この世に増えるのは良い事だって思ってる。そこに私の気持ちとか関係ある? 別に四六時中一緒に居られるわけじゃないんだし、普通の事じゃん。真下くんが私の居ない時に私の知らない人と会うのだって、私の知らない話をするのだって、私よりも長い時間をその人と過ごすのだって。だから黙っててあげようとしたのに真下くんが余計な事するせいで」
「……お前な。自分で言っておいて泣くなよ」
泣いてない。言おうとした声は喉元で詰まって、まともな言葉になんてできなかった。いつだってこの人は一方的で自分勝手だ。私を一方的に縛り付けて、閉じ込めて、暴き立てて、その癖何一つだって、私の思い通りになんかなってくれない。寂しい、とか悲しいとか愛しい、とか、色んな感情がぐるぐると頭の中をまわる。締め付けられたみたいに呼吸が苦しい。鼻の奥がツンと痛む。あ、と思った時にはもう遅くて、その手に目元をなぞられた瞬間に、自分の中でふつん、と糸が切れてしまうのが分かった。
「あーあ、酷い泣き顔」妙に甘ったるいため息が鼓膜を揺らす。「本当に馬鹿だな、お前。最初から洗いざらい吐いちまえば、そんな風に泣かずに済んだのに」最悪だ。呟いた瞬間に掠めるみたいなキスをされて、とうとう涙が止まらなくなる。
「真下くんの馬鹿。最低。甲斐性なし。人がせっかく許してあげようとしてるのに余計な事ばっかりする」
「ハハ、残念だったな。今後の為に教えといてやるが、俺は自分の女に余計な虫がつくのが許せないタイプなんだよ」
「ねえ、そういうの巷では束縛クソ男って言うんだよ。知ってた?」
「ふん、そんなモン俺の知ったこっちゃないね。第一、お前が禄でもない【オトモダチ】を作らなければ済む話だろ。怪しげな連中ばっかり飽きもせずひっかけやがって。少しは付き合う人間を選べ」
「ねえ真下くんがそれ言う? 少なくとも私のは浮気相手じゃなくてただのお友達じゃん」
「ハハ、だよな。よく知ってるさ。何せ俺だって、誰かさんの言う【オトモダチ】の一人だったんだから」
「……そんな事言って自分だって他所の女と会ってた癖に」
「そう思うならおかしな意地を張るのは止めて、最初から俺を詰るなり殴るなりすれば良かったろ。そうすれば幾らでも説明してやったのに」
「別に意地なんて張ってないし全然気にしてないし説明だって求めてなかったじゃん」
「へえ? よく言うよな、そんな死にそうな顔で泣いておいて」
「うるさいな。別に死にそうな顔なんてしてないけど」
「【けど】、何だよ」
「………………ねえ、結局あの人誰。真下くんとどういう関係」
ついに口に出してしまった言葉に、真下くんは、違った悟くんは、何故か嬉しそうににんまりと笑った。細められた瞳の中に、無様な自分の泣き顔がうつり込む。ましたくんのばか。泣きながら放った渾身の悪口は、勿論何の効果も見られなかった。大嫌い、と吐き捨てようとしてもどうしても無理で、だから言葉の代わりに、思い切りその手の甲をひっかいてやることにする。一度箍が外れてしまったらもうだめで、隠しておきたかった感情の何もかもが溢れて、ボロボロとみっともなく零れていく。最悪だ。もう全部真下くんのせいだ。逆切れして詰る言葉には、愉し気な笑い声だけが返された。
……それで、結局。真下くんと一緒に居た謎の美女の正体が明かされるのは、そこから数分後の事だった。散々泣いて泣きつかれたタイミングで明かされたその名前は、完全に予想外の人の物だった。
「……だから、あれは八敷一男だ。怪異の呪いで一時的に女体化したが三十分後には元通りの四十代無職男性に戻った」
「……へえ……」
何だかそっちの方が、より一層問題な気がするのは気のせいだろうか。基本的に仕事人間の彼が一番長く一緒に居る相手。考えようによっては、私よりもずっと深くかかわりを持つ相手。別に、【仕事と私どっちが大事?】なんていう、面倒くさい質問をする気なんて毛頭ない。毛頭ないけど、仕事人間の真下くんが今後浮気をするとしたら、相手として一番可能性が高いのは仕事で関わる誰かだろう。気付きたくなかった不都合な事実を前に、またしても面倒な感情が湧いてくる。それらを吞み込もうと一瞬だけ努力しかけて、やけになってすぐにやめる。だってどれもこれも、真下くんのせいなのだ。だったら責任を取ってもらうのが良いだろう。逃げ道を塞いで、私を追い詰めて、引き返せないところまで連れて来たのは、全部彼の方なのだから。
「……真下くんが八敷さんと浮気したら、その時は」ずず、と鼻を鳴らしながら呟いた声は、掠れてしわがれて酷い事になっている。気色の悪い事を言うな、なんて声は当然のように無視して、とっておきの一言をぶつけてやることにする。
「その時は私もバンシー伊藤と浮気するから」
私の放った一言で、彼はまたしても口元を引きつらせる。
「……お前は本当に、俺の神経を逆なでするのが上手いな」
「そんなに褒められると照れる」
「褒めてない」
舌打ちの後に噛みつくみたいなキスをされて、そこで漸く思い出す。そう言えばここは居酒屋の中だった。好きな人の事となると周りが見えなくなるのは多分、私の悪い癖なのだろう。だけど、今だけはそれでもいいのかもしれなかった。とりあえず今日の所は週末で、おまけに大好きな大好きな夫の瞳には、私しか映っていないのだ。少なくとも今のところは、まだ。勿論、先の事なんて分からない。その時が来たらやっぱり私は逃げ回って、今日みたいに無様に泣いたりするのかもしれなかった。それでも今だけは諦めて、大人しくここに縛られることに決めておく。厄介で面倒くさい感情やら結婚生活やら、それを私に強いてくる愛しくて憎たらしい夫やらと一緒に。
居酒屋の喧騒が遠い。笑い声も、グラスのぶつかり合う音も、店員があわただしく行きかう声も。時刻は午前1時を、少し回ったところだろうか。終電なんかとっくに過ぎて、家に戻るにも少しばかり厄介な時間。「……ああ、いいさ。付き合ってやるよ、幾らでも。お前が飽きるまで延々と」苛立ちと皮肉と愛情が混ざったみたいな声が、耳元でとける。返事の代わりに自分から口づけたら、苦い煙草の味にくらりと脳みそが揺れた。
①一つの物事だけに精神が集中できず、他の物事に興味が変わりやすいこと。
②妻(夫)を愛するだけでは足りなくて、他の異性とも一時的に愛欲関係を持つこと。
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「だから言ったじゃん真下くんはさあ」
居酒屋の喧騒が遠い。「真下くんは顔がいいの。そりゃお口は悪いけど意外と優しいし、面倒見も良いし、そのうえ真面目でちゃんとしてるの。しかも口元が可愛いし目元も可愛いし寝顔も可愛い。間違いないのこれは。全人類に好かれるでしょそんな人。知ってた」私の向かいでバンシー伊藤(これ本名なんだろうか)が「愛じゃのー」と適当な相槌を打つ。華の金曜日、23時。24時間365日年中無休営業というコンセプトの、酔っぱらいにとっては楽園のような居酒屋の端っこの席。何で私はこの人と飲んでるんだっけ。ふと我に返りそうになるけど、さっきしこたま飲まされた芋焼酎のせいで頭も体も重かった。
「恋じゃのー本当に。苗字ちゃんは真下ちゃんにらぶぞっこん、という訳じゃな。うん」
「そうだよその通りだよ私は真下くんの事が大好きだし愛してるし、だから別にこういうのは大丈夫なんだって。泣いてないし怒ってないし悲しくないよ、嘘だよほんとはちょっとだけ悲しいけど大丈夫、だいじょうぶだけど」
大丈夫、の筈だった。それなのにぐるぐると言葉が、こんがらがっては喉元に詰まる。……そもそもこんなのは分かり切っていたことだった。基本的に仕事人間の真下くんは平日だろうが週末だろうがお構いなしに仕事を入れる。連休の全てを仕事に費やす事だって、泊り仕事で連日家を空けることだってざらにある。そんなのはもう慣れ切っていた筈だった。四六時中一緒に居たいだなんて寝ぼけた事は勿論考えていなかった。一人の時間を埋めるための愉しみの手段なんて、幾らでも私は持っていた。そのつもり、だったのに。
「当たり前じゃん大丈夫に決まってる。こんなの全然だいじょうぶ問題ない」
暫く家を空ける。悟くんから、ちがった真下くんからそう告げられたのは、唐突なプロポーズから数か月後、手続きやら引っ越しやらの諸々が落ち着いたのを見計らったみたいなタイミングだった。今からきっかり、34日と16時間前の午前7時。いつも通りの顔で朝ご飯のトーストをかじりながら、いつも通りに淡々とした声で真下くんは私に告げた。「安岡のバアサンから聞いてると思うが、案件が立て込んでいて暫く帰れそうにない。まあ、電話くらいはしてやるから精々イイコで待ってろ」暫くってどのくらい、と、聞かなかったのは今思うと痛恨のミスだった。そんなに深く考えずに、「ふうん、お仕事頑張ってね」なんて呑気に答えてしまったあの日の私は、勿論こんなのは予想していなかった。普段通りの顔で私を仕事先まで送り届けて、普段通りの声で「それじゃ、行ってくる」などと私に告げて車に乗り込んだ彼が、そのまま一か月以上家に戻ってこなくなるなんて。
……勿論、そんなことは大した問題じゃないのだ。仕事人間のあの人が、滅多に家に帰ってこない事など。1LDKのマンションが、一人で過ごすにはいささか広すぎる事など。ときおり彼からかかってくる色気もそっけもない近況報告の電話が、きっかり三分で「時間だ」などという事務的にもほどがある言葉で打ち切られてしまう事など。そんなのは全て些末な事だ。私が一人の時間の過ごし方を忘れかけてしまっている事だって、こういう時に頼れるはずだった【オトモダチ】全員の連絡先が悉く【お掛けになった電話番号は現在使われておりません】状態になっていた事だって、気まぐれに掛かってくるたった三分の電話を待ちわびてしまっている事だって、何もかもが微々たる問題に過ぎない。だけど。
「特定の相手に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと」
「……は? いきなり何?」
「それまでいだいていた優越感・愛情・独占感が突如他にしのがれるようになったことに気付いた時に感じるねたみの気持ち。ジェラシー。以上新明解国語辞典第五版より」
「え、だからいきなり何なの恐い」
「最近は暇つぶしに辞書を読んでおる。ワシは記憶力がいいものでな」
「……確かに凄いかもしれないけど、だからそれが何なのよ」
「つまりはそういう事じゃろ。苗字ちゃんのその状態を、一般的に嫉妬もしくはジェラシー、その道の専門用語では激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームという」
「激おこファスティ……なんて?」
「おん? 何をカマトトぶってしらばっくれておる。要するに苗字ちゃんは、愛しのダーリンが他所の女と歩いている所を目撃して寂しくて嫉妬して激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリームを」
「だから違うって言ってるじゃんこのクソジジイ」
思わず口からこぼれ出た暴言も気にせずクソジジイ、もといバンシー伊藤は「かわいげのない女じゃのー」などと適当な事を言い、十八皿めの焼き鳥の皿を平らげた。それから、「まあ飲め。飲んで、ついでに吐いて楽になれ」などとどこかの刑事ドラマのようなセリフを吐き、私のグラスに焼酎を追加してくれた。だけどテーブルの上に並ぶ全ては私のおごりなのだから、何ともしょっぱい状況なのだ。我ながら情けない。それでも背に腹は代えられない。今はもう誰でも良いから一緒に居て欲しい。この際住所不定職業不詳年齢不明自称霊能者の怪しい爺さんでも構わない。こんな気持ちを抱えたまま、あの部屋に帰るのは嫌だった。……というのも。
……と言うのも、つまり、先週目撃してしまったからなのだった。何を? 大好きな大好きな新婚ほやほやの旦那様、元セフレ現夫の真下くんが、私の知らないどこかの美女とともに、連れ立って怪しいホテル街へ消えていく様を。あの時から私の時間は止まっていた。そこから一週間、何をどうやって生活しているんだか、自分でもちょっとよくわからない。
切りっぱなしにした携帯電話は、多分もう電源が入らなくなっている。連日終電ギリギリまで飲んで玄関で酔いつぶれたまま寝て、それでも朝になったらシャワーを浴びて、そんな有様でもなんだかんだ仕事にだけは行っている。幸いなことに、勤務先の安岡とわこ事務所も今は結構な繁忙期だ。やろうと思えば幾らでも仕事ができるので、気がまぎれて助かる。勿論、真下くんの事務所へお使いを頼まれる事だってなくはない。だけどそれだって、顔を合わせないようにしようと思ったら幾らでも方法はあるのだった。こんな風に厄介ごとの種から徹底的に逃げ続けて、とうとう一週間が過ぎた。そんな訳で金曜日だ。よりによって週末の金曜日。風の噂によると、彼の抱えていた案件はひと段落付いたらしい。だから余計に、あの部屋には帰りたくなかった。この感情をどうやって取り繕ったらいいのかも、どういう顔をして真下くんと会話すればいいのかも分からなかった。もう何もかも面倒で、何もかもから逃げている。よく分からないまま始まった結婚生活からも、大好きなはずの夫からも、こんな膨大かつ厄介な感情を抱えてしまう自分自身からも。
たった一週間で、私は逃げ回るのが随分と上手になったらしい。事務所を閉めるギリギリまで仕事をしたあとで安岡先生の目を盗んで退勤し(人が変わったようにワーカホリックと化した私を見て、先生は何か察したらしい。帰り際になるといつもいつも物言いたげな目で見つめてくるのが何とも罪悪感をそそられる)、駅前で遭遇したバンシー伊藤をひっかけてこの穴場の居酒屋にたどり着いた。地下にあるこの店には携帯の電波だって届かない。そのうえ騒がしくていつでも混んでいて、人混みに紛れてしまえばそう簡単には見つからない。しかもお酒の種類が豊富でつまみの味だって悪くない。つまり、長居するにはもってこいの場所だった。夜が明けるくらいまでは、ここで時間をつぶせるだろう。その後どうするかなんてことは考えたくもなかった。だからバンシー伊藤に勧められるままにお酒を飲んで、殆ど独り言みたいに管を巻いている。
「……喜ばしい事だと思うよほんとに。真下くんの事を好きな人がこの世に一人でも増えることは間違いなく素晴らしい事だよ。だから別に良いんだよ、私の気持ちはともかくとしてもそれは真下くんにとっては間違いなく良い事だからつまり私は、……わたし、は」
……あ、何か泣きそう。感情を言葉にして自覚してしまったら、どうにも歯止めが利かなくなりそうだった。目を閉じる。息を吸って吐く。手元の杯を一息に飲み干せば、おかしな浮遊感で頭がくらりくらりと揺れる。「全く最近の若いモンはこれだから。揃いも揃ってろくでもない」私の目の前数センチの至近距離でクソジジイ、違ったバンシー伊藤、が笑っている。笑いながら、店員に何やら注文をしている。
「プレミアムモルツとロイヤルシグネチャーサルートと大吟醸特選越乃寒梅と特上刺身盛り合わせとフライドポテト盛り合わせとチキン南蛮をあと三人前追加じゃ」……このクソジジイ、人の金だと思って好き勝手やりやがって。頭のどこか奥の方で、まるでどこかの誰かさんのような罵詈雑言が、どこかの誰かさんみたいな低い低い声で再生される。一緒に居る内に口の悪さまで移ってしまったんだろうか。そんな事を考えてしまったらもうどうしようもなくて、こんなに賑やかな居酒屋の店内でいよいよ途方に暮れてしまう。
「カマトトぶりおって。さっさと認めてしまえば宜しい。しかる後に泣き落とすなり、問い詰めるなり、一物を切り取るなり、無理心中するなりしてしまえ。大抵の事はそれで収まる」全く、なんというアドバイスだろう。黙って聞いてれば好き勝手言いやがって。そう思った言葉は声になんてならなかった。かろうじて「ちがう」とだけ絞り出した声は、泣きそうに掠れて頼りなく空間に掻き消える。無駄に明るい居酒屋の照明が、チカチカと瞼の上で反射する。笑い声。グラスのぶつかり合う音。店員があわただしく行きかう声。寂しい、と言ってしまいそうになって慌てて打ち消す。そんな筈はない。一人きりが怖いなんて、あの人の不在を恐がってしまうなんて、そんな筈は。舌の上に残った焼酎の苦みがあとを引いて、私の思考を鈍らせる。
「そうじゃなくて私はただ」私はただ。ただ、……何だって言うんだろう。自分が口走った言葉の続きを考えたくなくて、だからもう眠ってしまうことにした。突っ伏したテーブルの湿った感触。隣のテーブルから聞こえるはしゃいだ声。音が遠い。バンシー伊藤の声も遠い。最後の気力で「ねえ伊藤さん。好きなだけ頼んで食べてていいから、私が起きるまで絶対にそこに居てよね」とだけ告げ目を閉じた。ら、そこでぷつ、と音が途絶えた。
「ふむ。真下ちゃんには女難の相が出とる」
……あれからどれくらい眠っていたんだろう。
ふと、バンシー伊藤の予言めいた声で目が覚めた。相変わらず騒がしい店内の気配。どうやら眠っていたのは、ほんの十分かニ十分程度の事だったらしい。それでも、さっきまで霞掛かっていた思考は大分クリアになっていた。いっそのこと記憶をなくせるくらいに酔えれば良かったのに、中途半端にお酒に強い自分の体質が恨めしい。うんざりしながら顔をあげようとして、そこで唐突に、隣に誰かが座っていることに気付いてしまう。
「黙れよクソジジイ。人の女にちょっかいをかけて飯を集った挙句に言う台詞がそれか。下らない占いなら他所でやれ」聞きなれた低音。不機嫌そうな、いっそうんざりしている、とでも言いたげな声色の。この場所にいる筈のない人の声に、急速に意識が浮上する。
「っかー、揃いも揃ってかわいくないのお、お前ら。高貴な生まれであるこのワシをクソジジイなどと言いおって。そもそも感謝されこそすれ、睨まれる筋合いなどないはずだぞ。ワシは甲斐性なしの旦那の代わりに、涙に暮れる若妻を慰めてやっていただけだというのに。しかし、ほんっに名前ちゃんも可哀想にのお、こんなろくでなしに捕まったばかりに」
「……ほお。貴様、よほど痛い目に遭いたいらしいな。この社会不適合者が」
「お? 何か? いたいけな老人を捕まえて恫喝する気か? 全くおっかないのおー、最近の若いモンは」
テーブルを、苛立たし気に指先が叩く音。舌打ちを零す気配。隣に座る誰かの声はどんどんと冷え込んで、絶対零度の空気を醸し出す。何だか少し面倒くさい事が起きているような気がする。素直に起き上がろうか、それとも寝たふりを続行しようか。私が逡巡している間にも、自体は刻々と進行していく。「嘆かわしいのお本当に。揃いも揃って中途半端な真似をしおってからに」テーブルの上に突っ伏したまま全神経を聴覚に集中させている私をよそに、バンシー伊藤は説教めいた小言を口にして、それから、「……まあいいわ。真下ちゃんの望み通り、あとはお若い二人だけでやらせてやろう」などとお見合いの仲人のような事を言い始め、「それじゃあの、苗字ちゃん。ワシは行くが、後は打ち合わせ通りにしっかり一物を切り取ってやれ」などと、思いっきり誤解を招きそうな発言を残して去って行った。何て事言ってくれるんだこのクソジジイ。口をついて出そうになった悪態は勿論呑み込んだ。隣の誰かが、煙草に火をつける気配。「……それで?」独り言のような口調で吐きだされる声が、私へと向けられていることは明らかだった。
「貴様は何時まで狸寝入りを決めこむつもりだ、真下名前」
一か月と少しぶりに聞くその声は、何だか泣きたくなるほど懐かしい。ゆっくりと顔をあげたら、今度はしっかり目が合ってしまった。煙草の匂い。目の下の隈も雑にセットされた髪の毛も相変わらずだ。その顔を眺めているうちに喉元に、よく分からない感情がこみ上げる。苛立ちのような悲しみのような、愛情のような倦怠感のような。それら全部がこんがらがって絡まって、正体を確かめる事すらも億劫だった。
……なんかもう、面倒くさいな。考えることを放棄した頭には、もうそれしか残っていなかった。どうやらまだ酔いは抜けていないらしい。面倒くさい。何もかもが億劫で手に負えなくて、だからやっぱり、全部投げ出して逃げてしまいたい。投げやりな気持ちはそのまま声になって、気が付いたら口からは思ってもない言葉が飛び出していた。
「……。人違いじゃないですか?」
「……あ? 何をふざけた事を言ってる」
「いや別にふざけてないです。あの、オニイサンどちら様ですか? 私たちどこかでお会いしたことありましたっけ」
「お前な。そんなあからさまな嘘が何で通用すると思った?」
「嘘って何のことですか」
ひくり。私をまっすぐに見据える彼の口元が、ほんの少し引き攣るのを見た。あとの事はどうだって良かった。久しぶりに直に言葉を交わせるのだとしても、こんな場所でこんな気持ちのまま、こんな風に会話なんてしたくなかった。もうどうにでもなれ。好奇心3割苛立ち4割、残りの3割はやっぱりよく分からない。真下くんはほんの少しだけ眉間に皺を寄せて、いつも通りに舌打ちを放つ。本当にふざけるなよ貴様。呟かれたその言葉は、もういっそ綺麗に無視してしまうことにした。
「ていうかもう良いですか。私、友達と飲んでた筈なんですけど。何か彼ももう帰っちゃったみたいですね」
「だから設定が雑なんだよ馬鹿、言い訳にしたってもう少しマシな事言えよ」
「はあ。ちょっと何言ってるかわからないです。もう帰っていいですか?」
「駄目に決まってんだろ。そもそもお前と俺の帰る場所は一緒の住所だろうがふざけんな」
「だからちょっと何言ってるかよくわからないです」
「何で分かんねえんだよおかしいだろ」
席を立つ。引きずり戻される。席を立つ。引きずり戻される。その繰り返しで、もう数分が経過していた。
「本当にいい加減しろよ、真下名前。散々人の事を振り回した挙句可笑しな猿芝居まで始めやがって」
「知りません誰ですか真下名前って。そっちこそいい加減に離して下さい」
「今離したら確実に逃げるだろうが、分かったから座れ。もうその設定で良いから座れ話をしろ」
「設定って何のことですか。ていうかなんか馴れ馴れしくないですか。今時ナンパだってもっと感じ良いですよ」
売り言葉に買い言葉。押し問答を繰り返すうちに、何だか話がおかしな方向に走り出していく。席を立つ。腕を掴まれて引きずり戻される。その腕を振りほどく。再度腕を掴まれる。周囲の視線が痛かった。……金曜日のこんな深夜に何がどうして、私たちはこんなこじれた会話をしているんだろう。我に返ろうとしたタイミングで真下くんは、深く深くため息を吐く。「クソが」吐き捨てるような悪態。テーブルの上にあった焼酎のボトルを大きな手がひっつかむ。その中身を一息に空けられるのを、ただ目で追っている。ふは、とかすかに息を吐いてから、彼は自棄になったみたいな目で私を睨む。
「ああそうかよ分ったよ。そっちがその気なら気が済むまで付き合ってやるよ」一体どういうつもりなんだろうこの人は。自分の事を棚に上げて、ついまじまじとその顔を見つめてしまう。気が済むまで付き合ってやるよ。その言葉の意味を把握する前に、私の腕を掴んでいた掌が、するりと動いて手首まで降りてくる。
それから真下くんはいつもなら絶対に見せてくれないような最高にわざとらしい作り笑いでこちらに向き直り、「……、馴れ馴れしくて悪かったな。【オネエサン】」
つまり、そういう事らしかった。私が自棄を起こして始めた猿芝居に、あくまで彼は乗っかるつもりでいるらしい。私の視線の先で悟くんは、違った真下くんは、皮肉気に口をゆがめて見せる。「そう怖がってくれるなよ。何も取って食おうって訳じゃない。俺はただ、あんたに」妙に芝居がかった口調が癇に障る。ぐ、ともう一度手を引かれて、半ば強制的に席に引っ張り戻された。「ほんの少し聞きたいことがあるだけなんだ。教えてくれよ、なあ。あんたと、あの禄でもなさそうな【オトモダチ】が話していた内容について」抵抗したって良いはずなのに、妙な好奇心に負けてされるがままになってしまう。それもこれも全て、酔いが回っているせいなんだろうか。
出会った頃と同じくらいに皮肉っぽくて、あの頃の数倍も威圧的な視線が私を射抜く。何だか妙な事になっている。頭のどこか冷静な部分で考える。だけどもう後戻りなんてできそうもなかった。「……。貴方なんかに教えてあげない」思いついた言葉をそのまんま口にすれば、ぎりぎりと音がするくらいに強く、手首を握りしめられる。
「へえ? つれないな。あの怪しげな爺さんとは、随分と親し気に話し込んでたじゃないか。俺にも詳しく教えてくれよ。ろくでなしで甲斐性無しな、あんたの旦那とやらについてさ」
「くっ……あのクソジジイ余計な事を……」
「ハハ、お気の毒に。口の軽い【オトモダチ】も居たもんだよな。あの爺さんはな、飯を奢ってくれる人間なら誰にでも魂を売るんだよ。旦那に教わらなかったのかよ。人を見たら殺人犯かひき逃げ犯か窃盗犯だと思えって」
「……知らない。そんな昔の話覚えてない」
「不用意に遅くまで出歩くなと言ったよな」
「子供じゃあるまいし」
「手当たり次第に手を付けて餌付けする癖は直せとも言った」
「だから何のことですか。オニイサンがさっきから何の話をしてるんだか、私には見当もつきません」
「可哀そうにな。あんたの旦那とか言う男も、そこまで信用がないとは思ってもなかっただろうさ。何かあったらすぐに連絡しろと、口酸っぱく教えてやってただろうに」
「ねえそれ、どういう感情で言ってるの?」
「知るかよ馬鹿。ごく一般的な常識として考えろ。何で俺じゃなくてあの爺さん捕まえて愚痴を零してるんだ貴様は。人選が可笑しいだろふざけんなまず俺に言え」
「さっきからずっと言ってますが人違いです、私は貴方の妻じゃないので」
「……クソ、まだその設定続いてるのかよ。面倒くさいな」
「だから何の話ですか」
「……はあ。だから、あんたを泣かせてる甲斐性なしの旦那についての話だろ」
「別に泣いてはない」
「嘘つけ」
「……、もう行っていいですか? 次の約束があるんですけど」
「約束? 終電なんてとっくに過ぎてるこの時間から? あんたさっき言ってただろうが。帰りたくないんだろ。だったらここで、話の続きを聞かせてくれよ」
「知らない。私からお話出来ることなんてありません。ねえ離して下さい、約束があるんです。オトモダチと待ち合わせしてるので」
「へえ? オトモダチ、ねえ。それは一体誰の事なんだか」
「誰でもいいでしょ」
「誰でも良いなら俺で良いだろ」
「誰でも良いけど貴方だけは絶対にお断りだよ」
「手厳しいな。いい加減諦めろよ、約束なんて本当はしてない癖に」
「何でそんなこと分かるのよ」
「俺が全員切ったから」
「うん?」
「精々感謝することだな、厄介ごとの種を事前に払っておいてやったんだから。お前の交友関係なんかとっくに割れてんだよ。ああいう連中は面倒事の匂いに敏感だ。少しばかり【お話】したら、素直に言う事を聞いてくれたさ。連中が最後に連絡を寄越したのが、どのくらい昔の事だったか思い出せるか? そっちからの電話だってもう通じなかったろ? つまりあんたに都合のいい【オトモダチ】なんか、最初から存在しないのさ。はは、残念だったな」
「はあ!? ちょっと何余計な事してくれてんの真下くん」
「【真下くん】」
ついうっかり呼んでしまった名前は、愉し気な声でただ復唱される。「何で貴様が俺の名前を知ってる? おかしいよなあ。俺とあんたは初対面の筈だろ」人を馬鹿にしたような笑みが、心底不愉快だった。不快で、腹立たしくて、……それなのに飛び切り愛おしく感じてしまうのだから、自分で自分が嫌になる。視線を逸らしたのは、別に泣きそうになったからとかじゃない。顔を背けて目を閉じて、耳だって塞いでしまいたかったのに、誰かの手で邪魔される。頬をなぞる親指の硬い感触。「それとももう、下らないごっこ遊びは止めにするのか」頬の輪郭をなぞった指先が唇をこじ開けてくるので、返事の代わりに軽く歯を立ててやる。ふうん、と、不服げなため息が、思ったよりもずっと近くで聞こえる。観念して目を開けたら、とうとう視線がかち合ってしまう。
「それで?」柔らかい、ほとんど上機嫌といってもいい位の声色。こういう時の彼は厄介なのだと、経験則で知っている。「言い逃れのネタもそろそろ尽きて来たんじゃないか。いい加減口を割れよ、真下名前。俺からの着信を無視して、こんなところまで逃げ込んで、よりによってあの怪しげな爺さん相手に管を巻いてた理由を教えてもらおうか」話の続きなんてしたくない。自分がここに居る訳も、逃げ回っていた訳も、携帯の電源を落としている理由だって、何一つ説明なんかしたくなかった。だけどここで抗ったところで、結局は逃げられない事だって、もう十二分に知ってしまっているのだ。視線を逸らすことも、はぐらかす事だってもう許してはもらえない。そうして逃げ場を塞がれて、無遠慮に暴き立てられる。いつもの事だ。私には何一つ説明してくれない癖に、この人は私の感情の、何もかもを引きずり出そうとするのだからずるい。
「…………別に理由なんて、大したことじゃないけど」
「それはお前が判断する事じゃない。良いから話せよ、聞いてやるから」
「真下くんっていっつもそう。自分は何も話してくれないくせに、私にばっかり説明させようとする」
「それを不服に思うなら、少しは素行を改めろ」
「……そっちだって人の事言えないくせに……」
「お前が何に臍を曲げたんだか大方予想は付いてるが、だったら俺に直接聞けばいいだろ」
「聞きたいことなんて別にない。臍を曲げてる訳でもないし」
「へえ? その割には随分と拗ねた態度を取るじゃないか。今更俺の事を苗字で呼ぶのは何のつもりだよ。お前だってもう真下だろうがいい加減にしろ」
「だから、別に拗ねてないってば。ただ、いつだって戻れるようにしておきたいだけだよ。私と真下くんは元々お友達だったんだから」
「はは、お前は本当に俺を怒らせるのが上手いな。誰と誰が【オトモダチ】だって?」
縺れた感情は絡まってこんがらがって、自分でも手が付けられなくなっている。ひとつでも言葉にしたら後戻りできなくなりそうで、だから、延々と遠回りを続けている。真下くんはそんな私に舌打ちを零し、「貴様はいい加減その逃げ癖を直せ」などと、何だか随分と偉そうな事を言うのだから腹立たしい。逃げてないしふざけてもないし怒らせるつもりだってない。だけど反論するのも億劫で、目を逸らしたらいよいよ私が逃げているみたいな空気になってきて困る。これじゃあ本当に全部が、この人の言う通りみたいじゃないか。
「言っておくがあの女は貴様が思ってるような相手じゃな、」
「いや怒ってないから説明しなくていいよ。真下くんの事を好きな人がこの世に一人でも増えたなら私としても嬉しいし」
「クソ、本当に面倒くさいな貴様。せめて問い詰めるなり怒るなりしろよ。厄介な拗ね方しやがって」
「拗ねてない」
「嘘つけよ。電話は出ない、家には帰らない、仕事中まで徹底的に逃げ回った挙句に他人の振りまでしておいて」
「家に帰らないのは真下くんだって同じじゃないの」
「俺とお前じゃ条件が違うだろうが」
「違わないよ、同じじゃん。別に私は構わないってば。真下くんが仕事にかまけて家に帰ってこなくたって、どっかの美女と浮気してたって怒らない」
「へえ。俺があの女と浮気してたとして、お前は何も思わないって?」
「……だって真下くんは顔が良いじゃん」
「はあ?」
「……真下くんは顔がいいし声も良いし意外と優しいし、面倒見も良いし、そのうえ真面目でちゃんとしてるじゃん。皆好きだよそんな人」
「だから何だよ。貴様が俺の事を随分と買いかぶってることだけは伝わるが」
「だから、もう仕方ないって思ってるって話だよ。私の大好きな真下くんを好きな人が、この世に増えるのは良い事だって思ってる。そこに私の気持ちとか関係ある? 別に四六時中一緒に居られるわけじゃないんだし、普通の事じゃん。真下くんが私の居ない時に私の知らない人と会うのだって、私の知らない話をするのだって、私よりも長い時間をその人と過ごすのだって。だから黙っててあげようとしたのに真下くんが余計な事するせいで」
「……お前な。自分で言っておいて泣くなよ」
泣いてない。言おうとした声は喉元で詰まって、まともな言葉になんてできなかった。いつだってこの人は一方的で自分勝手だ。私を一方的に縛り付けて、閉じ込めて、暴き立てて、その癖何一つだって、私の思い通りになんかなってくれない。寂しい、とか悲しいとか愛しい、とか、色んな感情がぐるぐると頭の中をまわる。締め付けられたみたいに呼吸が苦しい。鼻の奥がツンと痛む。あ、と思った時にはもう遅くて、その手に目元をなぞられた瞬間に、自分の中でふつん、と糸が切れてしまうのが分かった。
「あーあ、酷い泣き顔」妙に甘ったるいため息が鼓膜を揺らす。「本当に馬鹿だな、お前。最初から洗いざらい吐いちまえば、そんな風に泣かずに済んだのに」最悪だ。呟いた瞬間に掠めるみたいなキスをされて、とうとう涙が止まらなくなる。
「真下くんの馬鹿。最低。甲斐性なし。人がせっかく許してあげようとしてるのに余計な事ばっかりする」
「ハハ、残念だったな。今後の為に教えといてやるが、俺は自分の女に余計な虫がつくのが許せないタイプなんだよ」
「ねえ、そういうの巷では束縛クソ男って言うんだよ。知ってた?」
「ふん、そんなモン俺の知ったこっちゃないね。第一、お前が禄でもない【オトモダチ】を作らなければ済む話だろ。怪しげな連中ばっかり飽きもせずひっかけやがって。少しは付き合う人間を選べ」
「ねえ真下くんがそれ言う? 少なくとも私のは浮気相手じゃなくてただのお友達じゃん」
「ハハ、だよな。よく知ってるさ。何せ俺だって、誰かさんの言う【オトモダチ】の一人だったんだから」
「……そんな事言って自分だって他所の女と会ってた癖に」
「そう思うならおかしな意地を張るのは止めて、最初から俺を詰るなり殴るなりすれば良かったろ。そうすれば幾らでも説明してやったのに」
「別に意地なんて張ってないし全然気にしてないし説明だって求めてなかったじゃん」
「へえ? よく言うよな、そんな死にそうな顔で泣いておいて」
「うるさいな。別に死にそうな顔なんてしてないけど」
「【けど】、何だよ」
「………………ねえ、結局あの人誰。真下くんとどういう関係」
ついに口に出してしまった言葉に、真下くんは、違った悟くんは、何故か嬉しそうににんまりと笑った。細められた瞳の中に、無様な自分の泣き顔がうつり込む。ましたくんのばか。泣きながら放った渾身の悪口は、勿論何の効果も見られなかった。大嫌い、と吐き捨てようとしてもどうしても無理で、だから言葉の代わりに、思い切りその手の甲をひっかいてやることにする。一度箍が外れてしまったらもうだめで、隠しておきたかった感情の何もかもが溢れて、ボロボロとみっともなく零れていく。最悪だ。もう全部真下くんのせいだ。逆切れして詰る言葉には、愉し気な笑い声だけが返された。
……それで、結局。真下くんと一緒に居た謎の美女の正体が明かされるのは、そこから数分後の事だった。散々泣いて泣きつかれたタイミングで明かされたその名前は、完全に予想外の人の物だった。
「……だから、あれは八敷一男だ。怪異の呪いで一時的に女体化したが三十分後には元通りの四十代無職男性に戻った」
「……へえ……」
何だかそっちの方が、より一層問題な気がするのは気のせいだろうか。基本的に仕事人間の彼が一番長く一緒に居る相手。考えようによっては、私よりもずっと深くかかわりを持つ相手。別に、【仕事と私どっちが大事?】なんていう、面倒くさい質問をする気なんて毛頭ない。毛頭ないけど、仕事人間の真下くんが今後浮気をするとしたら、相手として一番可能性が高いのは仕事で関わる誰かだろう。気付きたくなかった不都合な事実を前に、またしても面倒な感情が湧いてくる。それらを吞み込もうと一瞬だけ努力しかけて、やけになってすぐにやめる。だってどれもこれも、真下くんのせいなのだ。だったら責任を取ってもらうのが良いだろう。逃げ道を塞いで、私を追い詰めて、引き返せないところまで連れて来たのは、全部彼の方なのだから。
「……真下くんが八敷さんと浮気したら、その時は」ずず、と鼻を鳴らしながら呟いた声は、掠れてしわがれて酷い事になっている。気色の悪い事を言うな、なんて声は当然のように無視して、とっておきの一言をぶつけてやることにする。
「その時は私もバンシー伊藤と浮気するから」
私の放った一言で、彼はまたしても口元を引きつらせる。
「……お前は本当に、俺の神経を逆なでするのが上手いな」
「そんなに褒められると照れる」
「褒めてない」
舌打ちの後に噛みつくみたいなキスをされて、そこで漸く思い出す。そう言えばここは居酒屋の中だった。好きな人の事となると周りが見えなくなるのは多分、私の悪い癖なのだろう。だけど、今だけはそれでもいいのかもしれなかった。とりあえず今日の所は週末で、おまけに大好きな大好きな夫の瞳には、私しか映っていないのだ。少なくとも今のところは、まだ。勿論、先の事なんて分からない。その時が来たらやっぱり私は逃げ回って、今日みたいに無様に泣いたりするのかもしれなかった。それでも今だけは諦めて、大人しくここに縛られることに決めておく。厄介で面倒くさい感情やら結婚生活やら、それを私に強いてくる愛しくて憎たらしい夫やらと一緒に。
居酒屋の喧騒が遠い。笑い声も、グラスのぶつかり合う音も、店員があわただしく行きかう声も。時刻は午前1時を、少し回ったところだろうか。終電なんかとっくに過ぎて、家に戻るにも少しばかり厄介な時間。「……ああ、いいさ。付き合ってやるよ、幾らでも。お前が飽きるまで延々と」苛立ちと皮肉と愛情が混ざったみたいな声が、耳元でとける。返事の代わりに自分から口づけたら、苦い煙草の味にくらりと脳みそが揺れた。