われなべにとじぶた
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しんきょ【新居】
移った(建てた)ばかりの家。〔狭義では、結婚して初めて持つ家を指す〕新宅。
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「……ねえ、さっきから何なの。言いたいことがあるなら言いなよ」
空間に、ページを捲る音が響く。遠慮がちに絡む視線。目を合わせたら逸らされて、そのたびに何とも微妙な気まずさが漂い出す。それは初夏の木曜日、深夜手前の事だった。春と夏の境目の、生ぬるい空気と湿度がまとわりつく夜の十一時。窓の外からは気の早い鈴虫の鳴き声、目の前のテレビからは警察二十四時の緊迫した音声、そして隣には、書類の束に目を落とす(振りをしている)私の夫。その表情は珍しく硬い。だけど、仕事で何かあったの、などと水を向けては何ともあいまいな返事でお茶を濁される。そんなやり取りを三回くらい繰り返した頃合いだっただろうか。
彼は意を決したかのように口を開きーーそして、「ああ、……その、何だ」などとまるで思春期の娘を持つ父親みたいな口調で何かを切り出そうとしている。その態度が物珍しくて、思わず真正面から顔を見つめてしまう。悪い風邪でも引いたのだろうか。一瞬心配になったけど顔色がいつも通りなあたり、別に体調に異変はなさそうだ。一応熱がないか確かめようと伸ばした手は、目的地にたどり着く前に彼の右手に捕まえられた。その指先がほんのりと冷たい。珍しく緊張しているらしきその様子に、つられてこっちまで動揺してしまう。「え、何。ほんとに何なの怖い」だけど、私の問いに答えはなかった。悟くんは舌打ちを放ったのち、思い切り眉間に皺を寄せ、いつものように重ったるいため息を吐き、それから蚊の鳴くような声で何か言いかける。
「……か」
「え? 何て?」
「……だから。引っ越さないか」
「え、急に何? 夜逃げ? 別に良いけどさ」
「良くない。夜逃げな訳あるか馬鹿。何でこの流れで夜逃げだと思うんだよふざけんな」
「いや、だってなんか……さっきの態度だとほら。事務所の経営が上手く行ってないのかと」
「本当にふざけるなよ貴様。ご心配いただかなくても、お前の所の上司のおかげでウチには下らない依頼が山積みだよ。残念な事にあの手の依頼を出してくる連中はうんざりするほど金回りが……いや待て。前にもこんな話をした記憶があるな」
「したよね。前にも言ったけど悟くんが無職になったら私が養ってあげるから安心していいよ」
「毎度のことながら、貴様は俺の事を一体何だと思ってる」
「悟くんだと思ってる」
「……ああそうかよ。つまりお前は夜逃げをするような甲斐性なしと結婚した積りでいたのか。クソ、言っておくが痴情の縺れでヒモ男に刺されて死ぬのは貴様の様なタイプのアホだぞ。精々気を付けろ」
「私、痴情の縺れでヒモ男に刺されて死ぬの?」
「黙れ。単なる例え話に食いついてくるな。話の腰が折れるだろうが」
自分から言い出した癖にこの言い様である。この人はいつもながら随分と勝手だ。それとも、こういう時につい変な方向に話をそらしてしまう私がいけないんだろうか。逃がさない、と言わんばかりに握りしめてくる掌の、力の強さが何とも愛おしかった。かわいい、と思ったままを口にしたら睨みつけられたけど、それだって照れ隠しなのだと、もう知ってしまっている。「それで、結局何の話だっけ。夜逃げ?」重ねてしらばっくれてみたら殺気立った声で「いい加減にしろよ貴様」と凄まれる。
悟くんはデリカシーがない。そのうえ口が悪いし態度も悪いし、他人への配慮とか自意識とか、そういうものが決定的に欠けている。万物に毒づいては優雅にすらすらと皮肉を吐き、場の空気は敢えて読まない。それが悟くんの基本姿勢だ。そんな彼が何でか知らないけど、妙に照れて歯切れの悪い物言いをしている。普段散々私を揶揄ったり罵ったりしているあの悟くんが、である。それはどう考えても異常事態だった。……これはちょっと、いやかなり、面白いような。考えたことはそのまま顔に出て、にやけてしまった頬が容赦なくつねられる。「真面目に聞け馬鹿」更に罵られたけど、面白い物は面白いのだから仕方がない。「ふぉめんって」ほっぺたを抓られてるせいでまともな声が出てこない。それでも「ふぉめんって、ね、ゆるひて」と謝ってから、精一杯の可愛い顔を繕って見せる。それが功を奏したのかどうかは分からない。彼は押し黙ってから、ぐ、と眉間の皺を深くする。数秒の沈黙。そのあとで悟くんはふとため息を吐き、再度私に向き直る。
「……だから」
「うん」
「ーーいいか引っ越すぞ。これは決定事項だ。二か月以内に新居を決める。貴様に拒否権はない覚悟しろ」
「……ええー……。これって決定事項なんだ? さっきは引っ越さないか、って聞いてたのに?」
「黙れ。そもそもこの部屋の造りは単身者用なんだよ。常識的に考えて大人二人が暮らせる広さじゃない」
「そうなの? 別に不便ないけどな。悟くんあんま家帰ってこないし。私も荷物あんまりないし」
「だから尚更まずいんだろうが。この地区は元々治安が良くない。しかもこの部屋は単身者用で、防犯面を考慮した造りになってない。俺が家を空けることが多い分余計に懸念が増えるだろ。ああそうだついでに言っておくがな、お前はいい加減旅行鞄一つで生活するのをやめろ。いつまでたっても夜逃げ寸前みたいな態度で暮らしやがって。少しは増やせよ私物を」
「ええ? だってそれはさ、ここは元々悟くんの部屋だったから」
「あ? 今更何を言ってる。現実を見ろ。貴様は結婚して俺と同一世帯と化したんだよ。今となっては俺と貴様は家族で配偶者で事実上ここがお前の居場所だろうが、いい加減認めろ」
「お、おお……あの、ごめん今更だけどなんかこの話恥ずかし」
「ハハ、それこそ今更だよなあ。観念しろよ、真下名前。どこをどうあがいても俺たちは最早新婚さんでしかない。残念だったな」
「ねえ悟くんさあ、何かさっきからテンションの振り幅凄くない?」
「やかましい。言いたいことがあるならはっきり言えと要求したのはお前の方だろうが。良いかよく聞け。このマンションは立地が良くない上にクソ狭い上に防犯面の懸念がある。ウチには玄関先で寝こける馬鹿が居るんでな。せめてオートロック防犯カメラ完備の物件にでもしておかないと話にならん」
悟くんは一周回って冷静になって、今度は開き直ったらしかった。さっきまでの煮え切らない態度が嘘のように早口に、私に言葉をぶつけていく。気おされて後ずさりしたらその分距離を詰められる。そんなやり取りをたった二回繰り返しただけであっという間に追い詰められて、背中が壁にぶつかってしまう。「ほらな、言った通りだ」耳元で、笑みを含んだ声が言う。何だこのよく分からない雰囲気は。困惑する私を追い詰める、悟くんの目が据わっている。
「何するにも狭すぎんだよこの部屋は。いちゃつくにも仕事するにも狭すぎる。まあ女を連れ込むつもりで借りた物件じゃないから当然と言えば当然だが」
「いちゃ……でも私は好きだけどなこの部屋。寧ろいちゃつくのには便利じゃないの。狭いからその分くっつきやすいよ」
「…………クソ、そうやって可愛い事を言っておけば俺が騙されると思うなよ」
「……ねえ、悟くんって照れると一周回ってテンションちょっと変な感じになるよね?」
「照れてない」
「そうなの? ふうん。まあ別に良いけどさ、引っ越し。でも何でいきなりそんな事言いだしたの? 今度は引っ越ししないと死ぬ呪いにでもかかったの?」
「お前な……、別に思い付きで言ってる訳でも可笑しな呪いにかかってる訳でもない。理由はさっき説明してやっただろ。防犯上の懸念と機能面の問題だよ。元々仕事が落ち着いた頃合いで物件を探すつもりではいた。……貴様が馬鹿みたいな真似をしやがるから予定を早めることにしただけだ」
「うう。あれは流石に悪かったと思ってるよ私も。ごめんって。もう二度としないし気を付けるから」
「ふん。ごめんで済んだら警察は、……いや違うな。別にそれだけが理由じゃない」
「他にもなんかあるの?」
「……、だから。お前、……だろ」
「え、何て? 急に声小さくなるじゃん。何、どうしたの今度は?」
背後では相変わらず、警察二十四時のVTRが流れている。揉みあう賽銭泥棒と警察官。緊迫の逮捕現場の映像を背景に、私たちは一体何を話しているんだろう。握りしめられた手の温度がとけて馴染んで同化していく。少しずつ汗ばんでいくその掌に両手を重ねて、悟くんの答えを待っている。お前がやったんだろ。背後から緊迫した怒号が飛ぶ。吐けよ吐いちまえ、さっさと吐いて楽になれ。この手の番組にお決まりの台詞がそらぞらしく響いて、何とも奇妙な空気を作り上げていく。微妙な沈黙が、どのくらい続いただろう。ぐ、と押し黙っていた悟くんは一瞬だけ私から目を逸らして、それから観念したかのようにぽつぽつと自供ーーじゃなかった、告白? 自白? まあ良いか何でもーーを始める。
「半年前に言ってただろ。でかい冷蔵庫が欲しいとかなんとか」
「……えっ」
「この部屋のキッチンが狭くて不便だとも言ってたろうが」
「言ったっけ」
「シングルサイズのベッドは二人で寝るには狭すぎるとも言ったよな」
「い、……言ったような言ってないような」
「何で忘れてんだよふざけんな……、まあいい。とにかくだ。その程度の我儘は叶えてやろうと思っただけだよ。実際ここだとでかい冷蔵庫なんて置けな……おい何だその面は」
「いや、だってさあ何かそれって…………、」
「何だよ。そっちこそ言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなんだ鬱陶しい」
「……だって。今の話をまとめると私の為に物件探すって言ってるみたいに聞こえるから」
「……、……クソが。勘違いするなよ別にお前の為じゃない。現状だと防犯面と機能面で問題があるというだけで」
「ねえ知ってる? そういうの巷ではツンデレって言うらしいよ」
「黙れ」
……たまに驚く程気障な事をさらっと言ってのける癖に、こういう時に限って恥ずかしがるのは一体どういう訳なんだろう。私には未だに、この人の照れるポイントがよく分からない。それなのに彼の雰囲気に当てられて、何だかこっちまで気恥しくなってしまうのだから本当に始末に負えないのだ。初夏の生ぬるい気温と相まって、何だか部屋の空気が温度を上げている気がする。端的に言うと暑い。それともこれは、私の頭に血が上っているせいなんだろうか。
「……真下く……悟くんって。意外と、結構ほんとに私の事好きだね?」
「は? 当たり前だろ、今更何を言ってる。好きでもない女と結婚する程俺は酔狂な人間じゃない」
「いや、だって。あの時、俺と結婚しないと貴様は死ぬって言ってたからてっきり」
「…………。それを言うなら、お前の方こそどうなんだよ。今更離婚なんぞしてやらんが、あんな脅迫まがいのプロポーズで結婚を承諾するなんてどうかしてるぞ」
「ええ? でも、好きな人がプロポーズしてくれたのに断る理由ってある? 私は悟くんのしたいことは何だって付き合うよ」
「……、だよな。知ってる。貴様は元々そういう奴だよ」
良かったな、好きな男と結婚出来て。
皮肉交じりの言葉に素直に頷いたら、舌打ちの後にキスを貰えた。好きだよ、という代わりに今度は私から口づけて、抱き着いたらあっさりと受け止められて抱きしめられる。つけっぱなしだったテレビはいつの間にか、警察二十四時から新婚さんいらっしゃいに切り替わっていた。それがなんだか妙に、今の状況に似つかわしくて困る。画面の中から流れてくる、犬も食わない様なべたべたに甘いやり取り。元警察官の旦那様と元被疑者の奥様。取調室で相まみえたのがきっかけで……なんて、何だか聞き覚えのあるなれそめ話だ。
『一目見た瞬間にビビッと来たんです。彼女こそが犯人ーーいや違った、僕の運命の人なんだって』テレビから流れてくる、背筋が痒くなりそうなのろけ話の数々。その空気に耐えかねたのか、悟くんの手によりテレビの電源が落とされた。忌々し気な声が呟く。「……どいつもこいつも寝言みたいな事ばかり言いやがって」だけど、私たちだって負けず劣らずの会話を繰り広げてしまってるんだから、人の事は言えないんじゃないだろうか。
「……引っ越したらさ、冷蔵庫。死体が入るくらい大きいやつ買ってね」言ってみたら、呆れたみたいなため息を吐かれた。するすると髪の毛をなぞる指先の感触が、何だかくらくらするくらいに甘ったるい。誰かが笑ってる、と思ったらそれは自分の声だった。気付いてしまったら余計にくすくす笑いが止められなくなってしまう。「それと、二口コンロ付きの大きめのキッチンがあるとこがいい。近くにでっかいスーパーがあって、公園もあって、できれば駅から近くて、日当たりがそこそこいい物件」つらつらと思いつく限りの希望を並べ立てる私に、彼は心底うんざりしたみたいな顔をする。だけどそれは照れ隠しに過ぎないのだと、もう知ってしまった。口では嫌味たらたらのくせに、この人はけっこう私に甘いのだ。
犬も食わないような甘ったるい会話をした、そんな木曜日。だけど、基本的に仕事人間の悟くんに、不動産屋巡りをする時間なんてあるんだろうか。馬車馬の如く働く私の夫は、平日だろうが週末だろうが関係なく仕事を入れる。それであればまあ、私一人で適当に不動産屋をまわって、適当に引っ越し先を決めるのが現実的なところじゃないか。……そんな風に考えていた時期が、私にもありました。
どうやら悟くんは本当に本気だったらしい。そう判明したのはそこから一週間と少し後の、土曜日の事だった。確かに予定だけは入れておいたけど、正直余り本気にしていなかった。どうせ悟くんにはまた急ぎの仕事が入るだろうなんて、私はたかをくくっていた。それがどうだろう。妙に殺気立った目の彼によりたたき起こされ、不動産屋まで連行され、そのまま怒涛の物件探しが幕を開けようとしているではないか。私たちを見つめる営業さん(安岡先生と同じくらいに年齢不詳の中高年女性だ)の目は、新婚さんいらっしゃいの司会の人くらいに生暖かく優しい。おせっかいと冷やかしと慇懃無礼が丁度三等分にミックスされたその口調が、後戻りしようの無い空気を作り上げていく。
「新婚二か月。ええ、一番良い時期でございますね。新居を探すにも素晴らしい頃合いかと存じます。それでですね、旦那様。こちらの物件でございますが」
「…………ハイ」
旦那様。そう呼ばれた悟くんが、能面のような顔のまま片言口調で応答する。それを眺めながら私は、この人他人に敬語使えたんだなあ、等と、今更な部分に感心したりなんかしてしまう。口を開けば皮肉と悪口、万物に毒づく切れたナイフ。巷ではそう呼ばれているに違いない悟くんが他人に対して敬語を使う様は、正直かなり面白い。半笑いの顔になってしまう私を一瞬だけ睨みつけた後、彼は再び能面顔となり営業さんとのやり取りを再開する。
さんさんと陽光の降り注ぐリビングに、広めのキッチン。近くに公園もあるらしい。その流暢な説明をBGMに、部屋の中をぐるりと見まわす。確かにこの間取りは悪くない。広すぎず狭すぎず、家賃も意外とお手ごろだ。しかもキッチンには、ちゃんと魚焼きグリルがついているではないか。この広さなら大きい冷蔵庫だって問題なく置けてしまう。吊戸棚の上段に手が届かないのは気になるけれど、それ以外は完璧だ。ここに引っ越したら色んな料理が作れそうだ。ボルシチとか。ビーフストロガノフとか。いっそ得体の知れないエスニック料理などを作って、顔を引きつらせる悟くんを観察するのも面白そうだ。彼はどんな料理を出しても気合いと根性で完食してくれる。それが妙に、私の嗜虐心とチャレンジ精神をそそるのだ。いつからだろう、一見どんな味がするのか分からない海外の料理のレシピを仕入れては、この人に食べさせるのが趣味になってしまったのは。特に激辛のスンドゥブチゲ鍋を作って出したときのリアクションは最高だった。真っ赤に煮え立つ鍋を前に悲壮な無表情を決め込む悟くんの顔は、これまで見た中で一番と言って良い位に可愛かった。
……だけど、そんなことを考えて呑気にしていられたのはつかの間の時間だけだった。営業さんの朗らかな声が、私を現実に引きずり戻す。
「いかがでしょうか。こちらの物件でしたら、奥様のご希望にも沿うかと」
「…………えっ?」
動揺の余り一瞬だけ応答が遅れる。「ああ、ええ、そうですね、えっと、ハイ」奥様。その耳慣れないワードは、実際に耳にすると意外なほどに恥ずかしかった。うろうろと視線を泳がせた先で旦那様ーーもとい、悟くんとしっかり視線がかち合ってしまう。苦虫を噛みつぶしたような顔。諦めろ。その目がそう言っているような気がした。観念しろよ、どこをどうあがいても俺たちは最早新婚さんでしかない。この間言われた言葉を思い出して、そうしたら余計に謎の羞恥心が湧いてくる。
「ですから。築浅で、近くに交番があり、犯罪件数の少ない地区に建っていて、しかも徒歩五分圏内に大きなスーパーもある。その上三口コンロ付き。わたくし、ここなら奥様のご条件にもぴったりだと思いますのよ」そこにぶつけられる怒涛の営業トーク。奥様奥様と連呼されると、何だかいよいよ本気で照れそうになってしまう。しかも悪い事に、悟くんはそんな私の様を見ているうちに、一周回って開き直ってきたらしい。苦虫を嚙み潰したような表情が、段々と面白い昆虫でも見るみたいな目つきに変わっていく。
「ねえ奥様。間取りも広さも、ご条件にぴったりだとお思いになりません? ね、奥様。こんな物件、そうそう滅多に出回る物でもないんですよ。いっそもうこちらに決められては」
曖昧な返事をする私に、彼が耳うちを寄越す。面白げな、機嫌よさげな、だけど飛び切り、悪意たっぷりの声色で。
「……だとよ。それで、どうするんだ? 【オクサマ】」
……これは一体何のプレイなんだろう。顔がほてりそうになるのを誤魔化して、ありったけの外面の良さをかき集めて、その場は何とか乗り切った。その日は何件か部屋をまわって、結局最初のマンションに決めた。とりあえず無事に引っ越し先の物件は確定したのだから、結果オーライって言うことになるのかもしれない。築浅の1LDK。防犯面も機能面も完璧、おまけに駅から徒歩五分。物件としては当りの部類なんだろう。少なくとも、私が一人の頃に借りていたマンション(事故物件で床に染みがあった)よりは大幅に環境が良い。
……だけど本当に厄介な事になるのは、その後のことだったのだ。身に染みて分かっていたことではあるけれど、私の夫の悟くんは、基本的に意地が悪い。そのうえ口も悪いし、更に言うとかなり性格も悪いのだ。不動産巡りの一件以来、彼は定期的に【奥様】という気恥しいワードを持ち出しては、私を揶揄うようになってしまった。
引っ越しが終わった最初の週末の、午後二十時。マンションの駐車場から部屋までの、ほんの少しの距離。数歩先を歩いていた彼が振り返って、こちらに手を差し出してくれる。「ほら」その手を取ろうとする私にふと彼は唇をゆがめて、それから、ほんのり悪意を含んだ声で言う。
「お手をどうぞ、……【奥様】?」ふぐ、と、妙な声が口から洩れる。その様を、悟くんは容赦なくせせら笑う。「毎度のことながらガキ臭いよな、お前。いい加減慣れろよ、結婚して何か月経ったと思ってる」
相変わらずこの手のワードに照れてしまう私と、それを飽きずに揶揄ってくる悟くんと。ガキ臭いのはどっちなんだろう。本当にいい加減にしてほしい。切実にそう思うけど、それが自分に対してなのか悟くんに対してなのか、最早私自身にすらも分からない。
……こういうのっていわゆる、犬も食わないってやつなんじゃないだろうか。幸せなような苦々しいような気持で考えながら、少し速足で歩いていく。引っ越して間もない新居へ向かって。今日も今日とて、夕飯の跡はダンボールの荷ほどき作業が待っているのだ。
移った(建てた)ばかりの家。〔狭義では、結婚して初めて持つ家を指す〕新宅。
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「……ねえ、さっきから何なの。言いたいことがあるなら言いなよ」
空間に、ページを捲る音が響く。遠慮がちに絡む視線。目を合わせたら逸らされて、そのたびに何とも微妙な気まずさが漂い出す。それは初夏の木曜日、深夜手前の事だった。春と夏の境目の、生ぬるい空気と湿度がまとわりつく夜の十一時。窓の外からは気の早い鈴虫の鳴き声、目の前のテレビからは警察二十四時の緊迫した音声、そして隣には、書類の束に目を落とす(振りをしている)私の夫。その表情は珍しく硬い。だけど、仕事で何かあったの、などと水を向けては何ともあいまいな返事でお茶を濁される。そんなやり取りを三回くらい繰り返した頃合いだっただろうか。
彼は意を決したかのように口を開きーーそして、「ああ、……その、何だ」などとまるで思春期の娘を持つ父親みたいな口調で何かを切り出そうとしている。その態度が物珍しくて、思わず真正面から顔を見つめてしまう。悪い風邪でも引いたのだろうか。一瞬心配になったけど顔色がいつも通りなあたり、別に体調に異変はなさそうだ。一応熱がないか確かめようと伸ばした手は、目的地にたどり着く前に彼の右手に捕まえられた。その指先がほんのりと冷たい。珍しく緊張しているらしきその様子に、つられてこっちまで動揺してしまう。「え、何。ほんとに何なの怖い」だけど、私の問いに答えはなかった。悟くんは舌打ちを放ったのち、思い切り眉間に皺を寄せ、いつものように重ったるいため息を吐き、それから蚊の鳴くような声で何か言いかける。
「……か」
「え? 何て?」
「……だから。引っ越さないか」
「え、急に何? 夜逃げ? 別に良いけどさ」
「良くない。夜逃げな訳あるか馬鹿。何でこの流れで夜逃げだと思うんだよふざけんな」
「いや、だってなんか……さっきの態度だとほら。事務所の経営が上手く行ってないのかと」
「本当にふざけるなよ貴様。ご心配いただかなくても、お前の所の上司のおかげでウチには下らない依頼が山積みだよ。残念な事にあの手の依頼を出してくる連中はうんざりするほど金回りが……いや待て。前にもこんな話をした記憶があるな」
「したよね。前にも言ったけど悟くんが無職になったら私が養ってあげるから安心していいよ」
「毎度のことながら、貴様は俺の事を一体何だと思ってる」
「悟くんだと思ってる」
「……ああそうかよ。つまりお前は夜逃げをするような甲斐性なしと結婚した積りでいたのか。クソ、言っておくが痴情の縺れでヒモ男に刺されて死ぬのは貴様の様なタイプのアホだぞ。精々気を付けろ」
「私、痴情の縺れでヒモ男に刺されて死ぬの?」
「黙れ。単なる例え話に食いついてくるな。話の腰が折れるだろうが」
自分から言い出した癖にこの言い様である。この人はいつもながら随分と勝手だ。それとも、こういう時につい変な方向に話をそらしてしまう私がいけないんだろうか。逃がさない、と言わんばかりに握りしめてくる掌の、力の強さが何とも愛おしかった。かわいい、と思ったままを口にしたら睨みつけられたけど、それだって照れ隠しなのだと、もう知ってしまっている。「それで、結局何の話だっけ。夜逃げ?」重ねてしらばっくれてみたら殺気立った声で「いい加減にしろよ貴様」と凄まれる。
悟くんはデリカシーがない。そのうえ口が悪いし態度も悪いし、他人への配慮とか自意識とか、そういうものが決定的に欠けている。万物に毒づいては優雅にすらすらと皮肉を吐き、場の空気は敢えて読まない。それが悟くんの基本姿勢だ。そんな彼が何でか知らないけど、妙に照れて歯切れの悪い物言いをしている。普段散々私を揶揄ったり罵ったりしているあの悟くんが、である。それはどう考えても異常事態だった。……これはちょっと、いやかなり、面白いような。考えたことはそのまま顔に出て、にやけてしまった頬が容赦なくつねられる。「真面目に聞け馬鹿」更に罵られたけど、面白い物は面白いのだから仕方がない。「ふぉめんって」ほっぺたを抓られてるせいでまともな声が出てこない。それでも「ふぉめんって、ね、ゆるひて」と謝ってから、精一杯の可愛い顔を繕って見せる。それが功を奏したのかどうかは分からない。彼は押し黙ってから、ぐ、と眉間の皺を深くする。数秒の沈黙。そのあとで悟くんはふとため息を吐き、再度私に向き直る。
「……だから」
「うん」
「ーーいいか引っ越すぞ。これは決定事項だ。二か月以内に新居を決める。貴様に拒否権はない覚悟しろ」
「……ええー……。これって決定事項なんだ? さっきは引っ越さないか、って聞いてたのに?」
「黙れ。そもそもこの部屋の造りは単身者用なんだよ。常識的に考えて大人二人が暮らせる広さじゃない」
「そうなの? 別に不便ないけどな。悟くんあんま家帰ってこないし。私も荷物あんまりないし」
「だから尚更まずいんだろうが。この地区は元々治安が良くない。しかもこの部屋は単身者用で、防犯面を考慮した造りになってない。俺が家を空けることが多い分余計に懸念が増えるだろ。ああそうだついでに言っておくがな、お前はいい加減旅行鞄一つで生活するのをやめろ。いつまでたっても夜逃げ寸前みたいな態度で暮らしやがって。少しは増やせよ私物を」
「ええ? だってそれはさ、ここは元々悟くんの部屋だったから」
「あ? 今更何を言ってる。現実を見ろ。貴様は結婚して俺と同一世帯と化したんだよ。今となっては俺と貴様は家族で配偶者で事実上ここがお前の居場所だろうが、いい加減認めろ」
「お、おお……あの、ごめん今更だけどなんかこの話恥ずかし」
「ハハ、それこそ今更だよなあ。観念しろよ、真下名前。どこをどうあがいても俺たちは最早新婚さんでしかない。残念だったな」
「ねえ悟くんさあ、何かさっきからテンションの振り幅凄くない?」
「やかましい。言いたいことがあるならはっきり言えと要求したのはお前の方だろうが。良いかよく聞け。このマンションは立地が良くない上にクソ狭い上に防犯面の懸念がある。ウチには玄関先で寝こける馬鹿が居るんでな。せめてオートロック防犯カメラ完備の物件にでもしておかないと話にならん」
悟くんは一周回って冷静になって、今度は開き直ったらしかった。さっきまでの煮え切らない態度が嘘のように早口に、私に言葉をぶつけていく。気おされて後ずさりしたらその分距離を詰められる。そんなやり取りをたった二回繰り返しただけであっという間に追い詰められて、背中が壁にぶつかってしまう。「ほらな、言った通りだ」耳元で、笑みを含んだ声が言う。何だこのよく分からない雰囲気は。困惑する私を追い詰める、悟くんの目が据わっている。
「何するにも狭すぎんだよこの部屋は。いちゃつくにも仕事するにも狭すぎる。まあ女を連れ込むつもりで借りた物件じゃないから当然と言えば当然だが」
「いちゃ……でも私は好きだけどなこの部屋。寧ろいちゃつくのには便利じゃないの。狭いからその分くっつきやすいよ」
「…………クソ、そうやって可愛い事を言っておけば俺が騙されると思うなよ」
「……ねえ、悟くんって照れると一周回ってテンションちょっと変な感じになるよね?」
「照れてない」
「そうなの? ふうん。まあ別に良いけどさ、引っ越し。でも何でいきなりそんな事言いだしたの? 今度は引っ越ししないと死ぬ呪いにでもかかったの?」
「お前な……、別に思い付きで言ってる訳でも可笑しな呪いにかかってる訳でもない。理由はさっき説明してやっただろ。防犯上の懸念と機能面の問題だよ。元々仕事が落ち着いた頃合いで物件を探すつもりではいた。……貴様が馬鹿みたいな真似をしやがるから予定を早めることにしただけだ」
「うう。あれは流石に悪かったと思ってるよ私も。ごめんって。もう二度としないし気を付けるから」
「ふん。ごめんで済んだら警察は、……いや違うな。別にそれだけが理由じゃない」
「他にもなんかあるの?」
「……、だから。お前、……だろ」
「え、何て? 急に声小さくなるじゃん。何、どうしたの今度は?」
背後では相変わらず、警察二十四時のVTRが流れている。揉みあう賽銭泥棒と警察官。緊迫の逮捕現場の映像を背景に、私たちは一体何を話しているんだろう。握りしめられた手の温度がとけて馴染んで同化していく。少しずつ汗ばんでいくその掌に両手を重ねて、悟くんの答えを待っている。お前がやったんだろ。背後から緊迫した怒号が飛ぶ。吐けよ吐いちまえ、さっさと吐いて楽になれ。この手の番組にお決まりの台詞がそらぞらしく響いて、何とも奇妙な空気を作り上げていく。微妙な沈黙が、どのくらい続いただろう。ぐ、と押し黙っていた悟くんは一瞬だけ私から目を逸らして、それから観念したかのようにぽつぽつと自供ーーじゃなかった、告白? 自白? まあ良いか何でもーーを始める。
「半年前に言ってただろ。でかい冷蔵庫が欲しいとかなんとか」
「……えっ」
「この部屋のキッチンが狭くて不便だとも言ってたろうが」
「言ったっけ」
「シングルサイズのベッドは二人で寝るには狭すぎるとも言ったよな」
「い、……言ったような言ってないような」
「何で忘れてんだよふざけんな……、まあいい。とにかくだ。その程度の我儘は叶えてやろうと思っただけだよ。実際ここだとでかい冷蔵庫なんて置けな……おい何だその面は」
「いや、だってさあ何かそれって…………、」
「何だよ。そっちこそ言いたいことがあるならはっきり言ったらどうなんだ鬱陶しい」
「……だって。今の話をまとめると私の為に物件探すって言ってるみたいに聞こえるから」
「……、……クソが。勘違いするなよ別にお前の為じゃない。現状だと防犯面と機能面で問題があるというだけで」
「ねえ知ってる? そういうの巷ではツンデレって言うらしいよ」
「黙れ」
……たまに驚く程気障な事をさらっと言ってのける癖に、こういう時に限って恥ずかしがるのは一体どういう訳なんだろう。私には未だに、この人の照れるポイントがよく分からない。それなのに彼の雰囲気に当てられて、何だかこっちまで気恥しくなってしまうのだから本当に始末に負えないのだ。初夏の生ぬるい気温と相まって、何だか部屋の空気が温度を上げている気がする。端的に言うと暑い。それともこれは、私の頭に血が上っているせいなんだろうか。
「……真下く……悟くんって。意外と、結構ほんとに私の事好きだね?」
「は? 当たり前だろ、今更何を言ってる。好きでもない女と結婚する程俺は酔狂な人間じゃない」
「いや、だって。あの時、俺と結婚しないと貴様は死ぬって言ってたからてっきり」
「…………。それを言うなら、お前の方こそどうなんだよ。今更離婚なんぞしてやらんが、あんな脅迫まがいのプロポーズで結婚を承諾するなんてどうかしてるぞ」
「ええ? でも、好きな人がプロポーズしてくれたのに断る理由ってある? 私は悟くんのしたいことは何だって付き合うよ」
「……、だよな。知ってる。貴様は元々そういう奴だよ」
良かったな、好きな男と結婚出来て。
皮肉交じりの言葉に素直に頷いたら、舌打ちの後にキスを貰えた。好きだよ、という代わりに今度は私から口づけて、抱き着いたらあっさりと受け止められて抱きしめられる。つけっぱなしだったテレビはいつの間にか、警察二十四時から新婚さんいらっしゃいに切り替わっていた。それがなんだか妙に、今の状況に似つかわしくて困る。画面の中から流れてくる、犬も食わない様なべたべたに甘いやり取り。元警察官の旦那様と元被疑者の奥様。取調室で相まみえたのがきっかけで……なんて、何だか聞き覚えのあるなれそめ話だ。
『一目見た瞬間にビビッと来たんです。彼女こそが犯人ーーいや違った、僕の運命の人なんだって』テレビから流れてくる、背筋が痒くなりそうなのろけ話の数々。その空気に耐えかねたのか、悟くんの手によりテレビの電源が落とされた。忌々し気な声が呟く。「……どいつもこいつも寝言みたいな事ばかり言いやがって」だけど、私たちだって負けず劣らずの会話を繰り広げてしまってるんだから、人の事は言えないんじゃないだろうか。
「……引っ越したらさ、冷蔵庫。死体が入るくらい大きいやつ買ってね」言ってみたら、呆れたみたいなため息を吐かれた。するすると髪の毛をなぞる指先の感触が、何だかくらくらするくらいに甘ったるい。誰かが笑ってる、と思ったらそれは自分の声だった。気付いてしまったら余計にくすくす笑いが止められなくなってしまう。「それと、二口コンロ付きの大きめのキッチンがあるとこがいい。近くにでっかいスーパーがあって、公園もあって、できれば駅から近くて、日当たりがそこそこいい物件」つらつらと思いつく限りの希望を並べ立てる私に、彼は心底うんざりしたみたいな顔をする。だけどそれは照れ隠しに過ぎないのだと、もう知ってしまった。口では嫌味たらたらのくせに、この人はけっこう私に甘いのだ。
犬も食わないような甘ったるい会話をした、そんな木曜日。だけど、基本的に仕事人間の悟くんに、不動産屋巡りをする時間なんてあるんだろうか。馬車馬の如く働く私の夫は、平日だろうが週末だろうが関係なく仕事を入れる。それであればまあ、私一人で適当に不動産屋をまわって、適当に引っ越し先を決めるのが現実的なところじゃないか。……そんな風に考えていた時期が、私にもありました。
どうやら悟くんは本当に本気だったらしい。そう判明したのはそこから一週間と少し後の、土曜日の事だった。確かに予定だけは入れておいたけど、正直余り本気にしていなかった。どうせ悟くんにはまた急ぎの仕事が入るだろうなんて、私はたかをくくっていた。それがどうだろう。妙に殺気立った目の彼によりたたき起こされ、不動産屋まで連行され、そのまま怒涛の物件探しが幕を開けようとしているではないか。私たちを見つめる営業さん(安岡先生と同じくらいに年齢不詳の中高年女性だ)の目は、新婚さんいらっしゃいの司会の人くらいに生暖かく優しい。おせっかいと冷やかしと慇懃無礼が丁度三等分にミックスされたその口調が、後戻りしようの無い空気を作り上げていく。
「新婚二か月。ええ、一番良い時期でございますね。新居を探すにも素晴らしい頃合いかと存じます。それでですね、旦那様。こちらの物件でございますが」
「…………ハイ」
旦那様。そう呼ばれた悟くんが、能面のような顔のまま片言口調で応答する。それを眺めながら私は、この人他人に敬語使えたんだなあ、等と、今更な部分に感心したりなんかしてしまう。口を開けば皮肉と悪口、万物に毒づく切れたナイフ。巷ではそう呼ばれているに違いない悟くんが他人に対して敬語を使う様は、正直かなり面白い。半笑いの顔になってしまう私を一瞬だけ睨みつけた後、彼は再び能面顔となり営業さんとのやり取りを再開する。
さんさんと陽光の降り注ぐリビングに、広めのキッチン。近くに公園もあるらしい。その流暢な説明をBGMに、部屋の中をぐるりと見まわす。確かにこの間取りは悪くない。広すぎず狭すぎず、家賃も意外とお手ごろだ。しかもキッチンには、ちゃんと魚焼きグリルがついているではないか。この広さなら大きい冷蔵庫だって問題なく置けてしまう。吊戸棚の上段に手が届かないのは気になるけれど、それ以外は完璧だ。ここに引っ越したら色んな料理が作れそうだ。ボルシチとか。ビーフストロガノフとか。いっそ得体の知れないエスニック料理などを作って、顔を引きつらせる悟くんを観察するのも面白そうだ。彼はどんな料理を出しても気合いと根性で完食してくれる。それが妙に、私の嗜虐心とチャレンジ精神をそそるのだ。いつからだろう、一見どんな味がするのか分からない海外の料理のレシピを仕入れては、この人に食べさせるのが趣味になってしまったのは。特に激辛のスンドゥブチゲ鍋を作って出したときのリアクションは最高だった。真っ赤に煮え立つ鍋を前に悲壮な無表情を決め込む悟くんの顔は、これまで見た中で一番と言って良い位に可愛かった。
……だけど、そんなことを考えて呑気にしていられたのはつかの間の時間だけだった。営業さんの朗らかな声が、私を現実に引きずり戻す。
「いかがでしょうか。こちらの物件でしたら、奥様のご希望にも沿うかと」
「…………えっ?」
動揺の余り一瞬だけ応答が遅れる。「ああ、ええ、そうですね、えっと、ハイ」奥様。その耳慣れないワードは、実際に耳にすると意外なほどに恥ずかしかった。うろうろと視線を泳がせた先で旦那様ーーもとい、悟くんとしっかり視線がかち合ってしまう。苦虫を噛みつぶしたような顔。諦めろ。その目がそう言っているような気がした。観念しろよ、どこをどうあがいても俺たちは最早新婚さんでしかない。この間言われた言葉を思い出して、そうしたら余計に謎の羞恥心が湧いてくる。
「ですから。築浅で、近くに交番があり、犯罪件数の少ない地区に建っていて、しかも徒歩五分圏内に大きなスーパーもある。その上三口コンロ付き。わたくし、ここなら奥様のご条件にもぴったりだと思いますのよ」そこにぶつけられる怒涛の営業トーク。奥様奥様と連呼されると、何だかいよいよ本気で照れそうになってしまう。しかも悪い事に、悟くんはそんな私の様を見ているうちに、一周回って開き直ってきたらしい。苦虫を嚙み潰したような表情が、段々と面白い昆虫でも見るみたいな目つきに変わっていく。
「ねえ奥様。間取りも広さも、ご条件にぴったりだとお思いになりません? ね、奥様。こんな物件、そうそう滅多に出回る物でもないんですよ。いっそもうこちらに決められては」
曖昧な返事をする私に、彼が耳うちを寄越す。面白げな、機嫌よさげな、だけど飛び切り、悪意たっぷりの声色で。
「……だとよ。それで、どうするんだ? 【オクサマ】」
……これは一体何のプレイなんだろう。顔がほてりそうになるのを誤魔化して、ありったけの外面の良さをかき集めて、その場は何とか乗り切った。その日は何件か部屋をまわって、結局最初のマンションに決めた。とりあえず無事に引っ越し先の物件は確定したのだから、結果オーライって言うことになるのかもしれない。築浅の1LDK。防犯面も機能面も完璧、おまけに駅から徒歩五分。物件としては当りの部類なんだろう。少なくとも、私が一人の頃に借りていたマンション(事故物件で床に染みがあった)よりは大幅に環境が良い。
……だけど本当に厄介な事になるのは、その後のことだったのだ。身に染みて分かっていたことではあるけれど、私の夫の悟くんは、基本的に意地が悪い。そのうえ口も悪いし、更に言うとかなり性格も悪いのだ。不動産巡りの一件以来、彼は定期的に【奥様】という気恥しいワードを持ち出しては、私を揶揄うようになってしまった。
引っ越しが終わった最初の週末の、午後二十時。マンションの駐車場から部屋までの、ほんの少しの距離。数歩先を歩いていた彼が振り返って、こちらに手を差し出してくれる。「ほら」その手を取ろうとする私にふと彼は唇をゆがめて、それから、ほんのり悪意を含んだ声で言う。
「お手をどうぞ、……【奥様】?」ふぐ、と、妙な声が口から洩れる。その様を、悟くんは容赦なくせせら笑う。「毎度のことながらガキ臭いよな、お前。いい加減慣れろよ、結婚して何か月経ったと思ってる」
相変わらずこの手のワードに照れてしまう私と、それを飽きずに揶揄ってくる悟くんと。ガキ臭いのはどっちなんだろう。本当にいい加減にしてほしい。切実にそう思うけど、それが自分に対してなのか悟くんに対してなのか、最早私自身にすらも分からない。
……こういうのっていわゆる、犬も食わないってやつなんじゃないだろうか。幸せなような苦々しいような気持で考えながら、少し速足で歩いていく。引っ越して間もない新居へ向かって。今日も今日とて、夕飯の跡はダンボールの荷ほどき作業が待っているのだ。