われなべにとじぶた
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あんじ【暗示】ーする
相手が信じ込むような雰囲気を作っておいた後、事実ではない事柄をも事実だと思い込ませるように言うこと。
[(自己)ーをかける]
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
鈴の音が聞こえた気がした。
真っ白な空間を染め上げる青い光。「祈れ」私に命じる声がする。「祈れ。その為にここに呼ばれたのだから。祈り導き救うために。運命と救いを齎すために。その為だけにお前は、貴方は、貴方様は作られた」声はがんがんと鳴り響いては私を追い詰める。饐えた匂い。甘ったるい、生臭い、考えるのをやめたくなるような。「皆が貴方の為に祈っている。貴方の齎す祝福の為に」「貴方は祝福されていた。貴方は救いを、幸いを、運命を、約束を、私達に齎した。それでも、貴方は罪深い」その言葉の意味するところなど、分かる訳がないのに。それなのに本能的に理解してしまう。【それ】が私を呼んでいることに。帰らなくては。返さなくては。塵は塵に、灰は灰に。声が、思考が、混ざり合って混乱する。これは誰の、何の記憶なんだっけ。
「あちら側から齎されたものは、あちら側に返すのです」声は言う。「ねえ、だってそうでしょう。だからこそ貴方は【ここ】にいるのに」笑う。笑っている。笑いながら、【それ】が私を責め立てる。「そんなのは酷い裏切りだと、そうお思いにはならないのですか」その声を知っている。いつかずっと昔に聞いていた、誰かの。「呼ばれた筈だ。惹かれた筈だ。貴方には聞こえている筈だ。もう随分と前から知っていた。そうでしょう、■■■■様」ぼやぼやと水の中にいるみたいに、はっきりとは聞き取れない。だけどそれが私の名前なのだと、何故だかすぐに分かってしまう。きっとずっと、呼ばれていたのだろう。いつかずっと昔、……もう思い出せない位にずっと前から。影が蠢く。濃密な気配。凄惨な、陰鬱な、だけどどこか懐かしい。自分の身体の輪郭すらも分からない位の真っ暗闇。呼吸も意識も全てのみ込まれて帰っていく。そう、帰っていく、ただそれだけだ。……だって私は、ここから連れてこられたのだから。
かざした手が、指先から形を崩していく。泥のように壊れては零れて落ちる。意識も、感情も、言葉だって必要ない。それは至極当然のことに思えた。溶け合って一つになることが。名前をなくして、輪郭も自我も意識も失って、形などなくして底へと沈んでいく。そのはずだったのに。
「……、?」
ふと、遠くで声を聞いた気がした。私が振り返るその前に、ぐい、と右手が引っ張られる。骨ばった手の平の感触。ほんの少しだけ私より高い体温。その手に触れられている部分だけがゆらゆらと揺らいで、それから形を取り戻す。呼んでいる。行かないと。帰らないと。子供のような切実さで思うのに、ここから先に進めない。「行くな」耳元で誰かの低い声。「何も聞くな。見るな。思い出すな。全て忘れろ」ぱちん、とどこか遠くで、何かがはじきかえされるような音が響く。私をその場所から引きずり上げる、強い感触だけが鮮明だった。帰らないと、と、もう一度考えかけた思考を塗りつぶすように、誰かが私を縛り上げる。「ーーお前はもう俺のモノだ」
▽
「……名前。おい、真下名前」
一瞬、自分がどこに居るのか分からなかった。「名前」と呼ばれるその名前が自分の物であることに、数秒経って気付く。誰かの手が頬に触れる。その感触で、自分が輪郭を保っていることを思い出した。ひゅ、と息を吸い込んだらひんやりした空気が肺に流れ込んできて、意識が急速に浮上する。「……、あ、?」バクバクと心臓の音がうるさい。じっとりと汗をかいている。悪い夢でも見たせいだろうか。訳が分からないままで、勢い任せに身体を起こす。そしたら次の瞬間、ごちん! と硬い音とともに脳が揺れた。
「ッ、ふざ、けるなよ貴様」心底苛立たしい、って感じの誰かの声。誰かと言うか、そうだ、こんな風に私の事を呼ぶ人は一人しかいない、筈、なんだけど。「まし、……さとる、くん」遅れてやってきた痛みが、私を現実に引っ張り戻す。どうやら強かに頭突きをしてしまったらしい。悟くんはいつも通り舌打ちを零しため息をついた後で、もう一度私をのぞき込む。指先が前髪を払ってから、額に触れる。ほんの少しだけ甘ったるい仕草。だけど、そんなことに照れている場合ではないのかもしれなかった。
「怪我は、……どこか痛むところはあるか」探るような視線。思いのほか深刻な口調で問いかけられて狼狽える。「えっと、どこも痛くはないけど、多分」言いながらうろうろと視線を彷徨わせて、そこで漸く、ここがどこであるかを理解した。無機質な床。蛍光灯の明かりが、ちかちかと揺れていた。窓のない空間にいる。なのにひんやりとしたその空気で、今が真夜中近くなのだと察しがつく。
「……あれ。なんで私、廊下なんかで寝てたんだろうね?」私の声には舌打ちだけが返ってきた。そこはいつも通りの、(多分深夜の)マンションの廊下だった。荷物は持っていない。いつものジャージを着ているという事は、仕事から帰ってきて着替えたのだろうか。何で部屋の外で、こんな格好で眠っていたのか。少し前の事を思い出そうと記憶を手繰ろうとして諦める。鈍く頭が痛む。睡眠薬を飲んだ時みたいな強烈な眠気が思考を鈍らせる。貧血でも起こしたのだろうか、瞬きをしたら可笑しな具合に世界が揺れた。とにかく起き上がらないと。起き上がって、中に入らないと。だけど足が細かく震えていて、何だか力が入らない。「……何でだろう。頭がぐらぐらする」呟いたらため息とともに、悟くんが私を引っ張り起こす。ごめん、と謝るよりも早く抱えあげられて、そのまま視界が浮き上がった。
「落とされたくなかったら大人しくしてろ」脅すような声が、ごく近くで聞こえた。反射でその首に腕を回してから、お姫様抱っこじゃん! と一瞬だけテンションが上がってすぐに急降下する。頭が痛い。めまいがする。身体の芯が冷えて震えが止まらない。あんな場所で寝ていたから風邪でも引いたんだろうか。それでも悟くんにしがみついて深く息を吸い込んだら、根拠もなく安心してしまう。こんなことで、と我ながら呆れる。だけどこれはもう染みついた習性のようなものだから、仕方ないのかもしれなかった。出会った時から今までずっと変わらない。この人の隣は相変わらず空気が綺麗で、ここに居ると私は、自分の形を保っていられるような気がしてしまうのだった。
部屋のドアが開く音。中に入った瞬間に、ぶわ、と、日常の空気に包まれる。帰ってきた、と無意識に考えてしまってから首をかしげる。私はどこから帰ってきたんだっけ。まあいいか、そんなことは。とりあえず「おかえり」と言ってみたら、一ミリの感傷も含まない声が、当然のように答えてくれる。「ただいま」一グラムの誤差もなくシンプルな、たった四文字の言葉。至極当たり前のようなトーンで、いつだってこの人は私にただいまを言ってくれる。その声を聞くたびに思いだす。婚姻届けを出したあの日に貰った、何とも呪いめいた誓いの言葉を。
……あの時、確かに悟くんは私に告げたのだった。お前の居場所はもう【こちら側】にしかない、と。それはただの手段なのだと、彼は言っていた。手段。相手を所有し拘束するための。私をこの場所に【縛る】ための。
……居場所。私の帰るべきところ。所属する、縛られる、引き込まれて沈んでいくはずの、場所。
「おい」
またしてもぼうっとしていたらしい。悟くんの声で、もう一度現実に引っ張り戻される。薄暗い部屋の中、随分と雑にベッドの上に降ろされる。返事をする前にもう一度抱きしめられたら、ベッドのスプリングがかすかに揺れた。首筋に触れた手がゆるゆると動いては私の体温を確かめる。煙草の香り。体温に肌の感触に、二人分の呼吸の音。その手に触れられるだけで、自分の輪郭が形作られていくような気がする。最早慣れっこになってしまった感覚だった。勿論そんなのは、可笑しな錯覚に違いないのだけど。
「熱はない様だが、……はあ。だがいつにも増して阿呆面だな」耳元にため息が落ちる。心底馬鹿にしたようなトーン。嫌味たらたらの声は、それなのに随分と耳に心地いい。口では罵詈雑言を吐く癖に、私に触れる手は怖い位に優しいから少し困る。こんな風に甘やかされているうちに、私は随分と寂しがりになってしまったような気がする。まあ、それを言ったところで、「知るかよ勝手に困ってろ」といなされてしまうだけなんだけど。「何をぼんやりしてる」不機嫌な目が、じとり、とこちらを睨みつける。
「……それにしても。貴様の事は常々いかれてると思ってはいたが、まさか玄関先で寝る程の能天気だとは思わなかったよ。何か申し開きがあるなら言ってみろ。一応聞くだけ聞いてやる」
「ご、ごめんって」
「ごめんで済んだら警察はいらねえんだよ馬鹿が。謝るくらいなら最初からやるな。二十時以降は外出を控えろとあれほど言ってるだろうが。帰宅後は部屋に厳重に鍵をかけろ誰も入れるな。夜間帯に訪ねてくる奴なんか基本的に詐欺か窃盗犯だとでも思っておけ。そんなモン居留守で良い」
「……まあ、うん、そうだよね。確かに」
「確かに、じゃない。そもそもだ。寝るならせめて部屋の中で寝ろよ、酔っぱらいじゃあるまいし。言っておくが犯罪者に真っ先に狙われるのは貴様のような平和ボケの間抜けだぞ。殺されたくないなら二度とするな。次あんな馬鹿な真似をしたらただではおかないから覚えておけ」
「ううう……ところでさ、悟くん」
「あ? 何だよその目は」
「……ごめんって。あの、なんかまだ寝ぼけてるのかな」
「まあ、貴様が寝惚けてるのは今に限った話でもないが」
「悟くんってさあ本当に ……まあいいや。ねえ、今って何月何日の何時何分だっけ」
「はあ? 大概にしろよ。貴様、とうとう時間の感覚までいかれたのか」
「……そうなのかも。何だかちょっと、色んな事がよく分からなくて」
「……お前な」
「思い出せないんだよね、全然。帰って来てからの記憶がない。何で私、あんなとこで寝てたんだろ」
手繰る。途切れそうな記憶を手繰り寄せて、何があったか思い出そうとする。いつも通りの一日、の筈だった。いつも通りに仕事を終えたところで悟くんから連絡が入って、「遅くなりそうだから先に帰れ」って言われたから一人で部屋に帰って。そこで記憶は途絶えている。思い出そうとするたびに頭の奥が痛くなって、微かなめまいで目の前が揺れる。酷く眠かった。部屋の中は奇妙な位に静かで、物音ひとつ聞こえない。気を抜くと意識が沈んで、二度と戻ってこれないような気がしてしまう。そんな中、今にも止まりそうな頭で考えている。ぽっかりと欠落した記憶。何かを忘れている。何かーーもしかしたらとても大事な、恐ろしい事を。
「……そうだ。鈴の音が聞こえて、それで私は」記憶とも言えない位の微かなノイズが、ふと耳の奥に蘇る。鈴の音が聞こえた。誰かに呼ばれた気がした。それで、……それから、何だっけ。こんな事が、何だか前にもあったような気がする。だけど悟くんの手に触れられるたびに思考はぼやけて、辿りかけた糸はふっつりと途絶えてしまう。
「名前」声。悟くんの。私を呼ぶ。鼓膜の中に入り込んで、私の中心を縛り上げる。するり、と耳殻をなぞられて、またしても思考は散漫になる。手のひらで目を塞がれたら、真っ暗な中、その声だけが嫌に鮮明だった。「何かと思えば、下らない」耳元で声が笑う。笑って、それから、私に命令する。「それは現実の話じゃない。ただ夢を見ただけだ。思い出すな。全て忘れろ」その話、さっきもどこかで。頭のどこかでそう思う。だけどもう連続した意識を保つことが難しい。「お前が【そこ】で何を聞いたとしても関係ない。お前はもう【そいつら】の物じゃない」……一体何の話をしているの。聞き返そうとしたけれど、口を開くのも億劫だった。寄りかかった身体の、その体温が心地よかった。まじりあって溶けていく温度。だけどどうしたって一つにはなれない。私は私の輪郭を保ったまま、その声に、その手に縛り付けられる。
ねむい、と、呟いたら雑にお布団を被せられて、まぶたに唇が落ちてくる。頭のてっぺんから毛先まで、指先がゆるゆると髪の毛を梳いてくれる。「可笑しな夢でも見たんだろ。それだけだ。さっさと寝ちまえ。見ててやるから」目線だけ動かして見上げた先で、悟くんが笑っている。いつも通りに少し呆れたような、それでいて甘ったるいあの目で。ん、と、返事のようなため息のような声だけを返したら、おでこにも口づけが降って来る。「安心しろ。悪い夢の記憶なんか、起きたら全部忘れてる」そういう物だろうか。この人が言うなら、きっとそういう物なんだろう。根拠のない安心感。守られているような閉じ込められているような、おかしな感覚。目を閉じてただ息を吸って吐いて、その香りに包まれたら本当に力が抜けていく。おやすみ、と、声が甘く耳元でとける。それが最後で、ふつん、と意識が途切れたら、いよいよ何も分からなくなる。
終始現実感がなくて、何が起きているのかも分からない。それなのに頭の隅のどこかで、奇妙に確信している事があった。私はきっとこうやって、ここに縛られてしまう。彼の言葉で、それとももしかしたら、この人の物になってしまいたかった自分自身の呪いによって。だとしたらもう二度と、あの夢を見ることはないだろう。お前はもう何も思い出さなくていい。その言葉通り、私は全てを忘れてしまう。呪い。悟くんの言う通り、これは確かに呪いなのだろう。私を、……彼を呪って、この場所に縛り付けるための。
▽
……そういえば週末だった、と気づいたのは翌朝、お日様が上り切ってからの事だった。目が覚めた時には本当に、昨日の事なんか殆ど思い出せなくなっていた。結局いつだって、悟くんの言う通りになってしまう。悪い夢を見たような気がする。だけどそれだけだ。我ながら単純で嫌になるけれど、それはきっと良い事なんだろうと思いなおす。誰に何と言われようと、こっちが私にとっての現実であることに間違いはないのだから。
結局昨日はあのまま眠ってしまったらしかった。私の隣には、かろうじてネクタイだけ外した状態の悟くんがすやすやと穏やかな寝息を立てている。離さない、と言わんばかりに絡みついてくる腕の強さが愛おしくて、少しだけ泣きたくなって困った。それでもとりあえず枕もとの時計に手を伸ばそうと、その腕の中で軽く藻掻く。「……うう」耳元で聞こえる、微かなうめき声。おはよう、と言ってみたら、「やかましいな休日くらいゆっくりねかせろ」などとかすれた声で悪態が返ってくる。ほんのりろれつの回ってない不機嫌そうな声。首筋に落ちてくるため息が、少しだけくすぐったかった。思わず笑い声を零してしまったら、いつも通りに舌打ちをされた。休日の悟くんは寝起きが悪い。普段の冷然とした顔からは想像もできないその態度を目の当たりにする度に、ああ今日もいつも通りの週末が始まった、なんて、よく分からない安心感を憶えてしまう。
基本的に仕事人間の悟くんは、目覚まし時計がなくたって毎朝きっかり七時に目を覚ます。気合いと根性と意思の力だけでそんな偉業を成し遂げるあたり、この人は本当にクソ真面目だなあ、と毎度毎度感心してしまう。だけどそれは、お仕事がある日に限っての話だったのだ。付き合いだしてから漸く分かった事だけど、お休みの日の悟くんはびっくりするほど低血圧だ。いくら藻掻こうが騒ごうが関係なく、人を抱き枕にしたままでお昼過ぎまで寝ようとするのだから、はた迷惑にもほどがある。……そういう所すら最高に可愛いと思ってしまうあたりが、いわゆる惚れた弱みってやつなんだろうけど。
「……げ、もう12時じゃんいい加減起きようよ」私の声にはもちろん返事なんてない。ただ雑にくしゃくしゃと髪の毛を撫でられただけだった。「ねえってば」お返しとばかりに私も、悟くんの髪の毛を雑に撫で繰り回してみる。硬い髪の毛の感触。「いい天気だよどっか行こうよ、折角の週末なんだしさ」ぺしぺしと頭を軽くたたいてみる。うるせえな、とばかりに腕の力を強められた。ぎゅうぎゅうに力を込められて、悟くんの肩口辺りに頭が押し付けられる。プロレスじゃあるまいしやめて欲しい。「やめてよ苦しいんだけど」と漏らせば、「だまれ」と、頭上から端的な罵倒を返される。
「……じゃあせめてシャワーだけでも浴びたら。あと着替えなよいい加減。スーツ皺になるよ」
「やかましい。スーツなんて適当にクリーニングにでも出しときゃどうとでもなるんだよ」
「でもお昼だよ。十二時間くらい寝てるじゃん。おなかすかない?」
「すかない。貴様には馬車馬の如く働いてる旦那を労ろうって気はないのかよ。たまの週末くらい寝かせろ」
「……だん、……ねえ、それとこれとは話が別じゃないの」
「別じゃない」
「普段はあれだけ私の事【寝汚い】って罵る癖に」
「やかましい。週末だけは話が別なんだよ。いいかよく聞け、休日に惰眠を貪る権利は民法と刑法と憲法で保障されてる。邪魔する奴は威力業務妨害に問われるから覚悟しろ」
「うん、……うん?」
「刑法第119条。休日の睡眠を邪魔する行為を威力業務妨害とし、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」
「一体何の話をしてるの悟くん」
「……加えて、休日に他人の二度寝を妨害する行為を行う者を公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例における違反者とみなし六ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金に」
「ねえ、絶対適当言ってるよね。流石にそんなんじゃ騙されな……むぐ、」
言い終わる前にお布団の中に引っ張り込まれて、何か言う前に唇が重なった。文句を言おうとするたびにキスで邪魔されて、そのうちに何だか空気がおかしな方向に転がっていく。服の中に入り込んできた手の温度に思わず変な声がもれる。くつくつと笑う声が肌を擽る。遺憾の意、を示すために身体を捩ってみたら、却って抱き着くみたいな姿勢になってしまって困った。おかしい、こんなはずでは。「二度寝するんじゃなかったの」なんていう私の指摘は、勿論素知らぬ顔で無視された。「ああもう、本当にいい加減にしてよね」本当にそう思ってるはずなのに、その手をはねのけようとした声は、思ったよりも甘ったるく響いて途方に暮れる。
「そっちこそいい加減に、無駄な抵抗は止しておけよ」にい、と弓なりにゆがんだ目に、ほんのり期待した顔の自分の顔がうつり込む。唆すみたいに、耳元に声が吹き込まれる。「どうせ期待してるくせに」……図星なのが正直腹立たしかった。「この色ボケ」苦し紛れについた悪態には「どっちが」とあっさり返される。それで本当に流されてしまうあたり、我ながら色ボケが過ぎて嫌になる。
……結局こういうのって、好きになっちゃった方が負けなんだろう。だから最初から私は負けていて、一から十まで何をしてもこの人には叶わない。のろけてとろけていちゃついて、そこからたっぷり一時間、もしくは二時間くらい経っただろうか。貴重な週末の午前中を布団の中で潰してしまった。その事に気付いた時にはもう、時計は午後二時をたっぷりと回ったところだった。こんなことで良いのだろうか。思わなくもないけど、深くは考えこまないで置くことにした。……だって折角の週末で、大好きな大好きな旦那様と二人きりで、それでもって私たちは新婚さん、という訳なのだし。
相手が信じ込むような雰囲気を作っておいた後、事実ではない事柄をも事実だと思い込ませるように言うこと。
[(自己)ーをかける]
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
鈴の音が聞こえた気がした。
真っ白な空間を染め上げる青い光。「祈れ」私に命じる声がする。「祈れ。その為にここに呼ばれたのだから。祈り導き救うために。運命と救いを齎すために。その為だけにお前は、貴方は、貴方様は作られた」声はがんがんと鳴り響いては私を追い詰める。饐えた匂い。甘ったるい、生臭い、考えるのをやめたくなるような。「皆が貴方の為に祈っている。貴方の齎す祝福の為に」「貴方は祝福されていた。貴方は救いを、幸いを、運命を、約束を、私達に齎した。それでも、貴方は罪深い」その言葉の意味するところなど、分かる訳がないのに。それなのに本能的に理解してしまう。【それ】が私を呼んでいることに。帰らなくては。返さなくては。塵は塵に、灰は灰に。声が、思考が、混ざり合って混乱する。これは誰の、何の記憶なんだっけ。
「あちら側から齎されたものは、あちら側に返すのです」声は言う。「ねえ、だってそうでしょう。だからこそ貴方は【ここ】にいるのに」笑う。笑っている。笑いながら、【それ】が私を責め立てる。「そんなのは酷い裏切りだと、そうお思いにはならないのですか」その声を知っている。いつかずっと昔に聞いていた、誰かの。「呼ばれた筈だ。惹かれた筈だ。貴方には聞こえている筈だ。もう随分と前から知っていた。そうでしょう、■■■■様」ぼやぼやと水の中にいるみたいに、はっきりとは聞き取れない。だけどそれが私の名前なのだと、何故だかすぐに分かってしまう。きっとずっと、呼ばれていたのだろう。いつかずっと昔、……もう思い出せない位にずっと前から。影が蠢く。濃密な気配。凄惨な、陰鬱な、だけどどこか懐かしい。自分の身体の輪郭すらも分からない位の真っ暗闇。呼吸も意識も全てのみ込まれて帰っていく。そう、帰っていく、ただそれだけだ。……だって私は、ここから連れてこられたのだから。
かざした手が、指先から形を崩していく。泥のように壊れては零れて落ちる。意識も、感情も、言葉だって必要ない。それは至極当然のことに思えた。溶け合って一つになることが。名前をなくして、輪郭も自我も意識も失って、形などなくして底へと沈んでいく。そのはずだったのに。
「……、?」
ふと、遠くで声を聞いた気がした。私が振り返るその前に、ぐい、と右手が引っ張られる。骨ばった手の平の感触。ほんの少しだけ私より高い体温。その手に触れられている部分だけがゆらゆらと揺らいで、それから形を取り戻す。呼んでいる。行かないと。帰らないと。子供のような切実さで思うのに、ここから先に進めない。「行くな」耳元で誰かの低い声。「何も聞くな。見るな。思い出すな。全て忘れろ」ぱちん、とどこか遠くで、何かがはじきかえされるような音が響く。私をその場所から引きずり上げる、強い感触だけが鮮明だった。帰らないと、と、もう一度考えかけた思考を塗りつぶすように、誰かが私を縛り上げる。「ーーお前はもう俺のモノだ」
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「……名前。おい、真下名前」
一瞬、自分がどこに居るのか分からなかった。「名前」と呼ばれるその名前が自分の物であることに、数秒経って気付く。誰かの手が頬に触れる。その感触で、自分が輪郭を保っていることを思い出した。ひゅ、と息を吸い込んだらひんやりした空気が肺に流れ込んできて、意識が急速に浮上する。「……、あ、?」バクバクと心臓の音がうるさい。じっとりと汗をかいている。悪い夢でも見たせいだろうか。訳が分からないままで、勢い任せに身体を起こす。そしたら次の瞬間、ごちん! と硬い音とともに脳が揺れた。
「ッ、ふざ、けるなよ貴様」心底苛立たしい、って感じの誰かの声。誰かと言うか、そうだ、こんな風に私の事を呼ぶ人は一人しかいない、筈、なんだけど。「まし、……さとる、くん」遅れてやってきた痛みが、私を現実に引っ張り戻す。どうやら強かに頭突きをしてしまったらしい。悟くんはいつも通り舌打ちを零しため息をついた後で、もう一度私をのぞき込む。指先が前髪を払ってから、額に触れる。ほんの少しだけ甘ったるい仕草。だけど、そんなことに照れている場合ではないのかもしれなかった。
「怪我は、……どこか痛むところはあるか」探るような視線。思いのほか深刻な口調で問いかけられて狼狽える。「えっと、どこも痛くはないけど、多分」言いながらうろうろと視線を彷徨わせて、そこで漸く、ここがどこであるかを理解した。無機質な床。蛍光灯の明かりが、ちかちかと揺れていた。窓のない空間にいる。なのにひんやりとしたその空気で、今が真夜中近くなのだと察しがつく。
「……あれ。なんで私、廊下なんかで寝てたんだろうね?」私の声には舌打ちだけが返ってきた。そこはいつも通りの、(多分深夜の)マンションの廊下だった。荷物は持っていない。いつものジャージを着ているという事は、仕事から帰ってきて着替えたのだろうか。何で部屋の外で、こんな格好で眠っていたのか。少し前の事を思い出そうと記憶を手繰ろうとして諦める。鈍く頭が痛む。睡眠薬を飲んだ時みたいな強烈な眠気が思考を鈍らせる。貧血でも起こしたのだろうか、瞬きをしたら可笑しな具合に世界が揺れた。とにかく起き上がらないと。起き上がって、中に入らないと。だけど足が細かく震えていて、何だか力が入らない。「……何でだろう。頭がぐらぐらする」呟いたらため息とともに、悟くんが私を引っ張り起こす。ごめん、と謝るよりも早く抱えあげられて、そのまま視界が浮き上がった。
「落とされたくなかったら大人しくしてろ」脅すような声が、ごく近くで聞こえた。反射でその首に腕を回してから、お姫様抱っこじゃん! と一瞬だけテンションが上がってすぐに急降下する。頭が痛い。めまいがする。身体の芯が冷えて震えが止まらない。あんな場所で寝ていたから風邪でも引いたんだろうか。それでも悟くんにしがみついて深く息を吸い込んだら、根拠もなく安心してしまう。こんなことで、と我ながら呆れる。だけどこれはもう染みついた習性のようなものだから、仕方ないのかもしれなかった。出会った時から今までずっと変わらない。この人の隣は相変わらず空気が綺麗で、ここに居ると私は、自分の形を保っていられるような気がしてしまうのだった。
部屋のドアが開く音。中に入った瞬間に、ぶわ、と、日常の空気に包まれる。帰ってきた、と無意識に考えてしまってから首をかしげる。私はどこから帰ってきたんだっけ。まあいいか、そんなことは。とりあえず「おかえり」と言ってみたら、一ミリの感傷も含まない声が、当然のように答えてくれる。「ただいま」一グラムの誤差もなくシンプルな、たった四文字の言葉。至極当たり前のようなトーンで、いつだってこの人は私にただいまを言ってくれる。その声を聞くたびに思いだす。婚姻届けを出したあの日に貰った、何とも呪いめいた誓いの言葉を。
……あの時、確かに悟くんは私に告げたのだった。お前の居場所はもう【こちら側】にしかない、と。それはただの手段なのだと、彼は言っていた。手段。相手を所有し拘束するための。私をこの場所に【縛る】ための。
……居場所。私の帰るべきところ。所属する、縛られる、引き込まれて沈んでいくはずの、場所。
「おい」
またしてもぼうっとしていたらしい。悟くんの声で、もう一度現実に引っ張り戻される。薄暗い部屋の中、随分と雑にベッドの上に降ろされる。返事をする前にもう一度抱きしめられたら、ベッドのスプリングがかすかに揺れた。首筋に触れた手がゆるゆると動いては私の体温を確かめる。煙草の香り。体温に肌の感触に、二人分の呼吸の音。その手に触れられるだけで、自分の輪郭が形作られていくような気がする。最早慣れっこになってしまった感覚だった。勿論そんなのは、可笑しな錯覚に違いないのだけど。
「熱はない様だが、……はあ。だがいつにも増して阿呆面だな」耳元にため息が落ちる。心底馬鹿にしたようなトーン。嫌味たらたらの声は、それなのに随分と耳に心地いい。口では罵詈雑言を吐く癖に、私に触れる手は怖い位に優しいから少し困る。こんな風に甘やかされているうちに、私は随分と寂しがりになってしまったような気がする。まあ、それを言ったところで、「知るかよ勝手に困ってろ」といなされてしまうだけなんだけど。「何をぼんやりしてる」不機嫌な目が、じとり、とこちらを睨みつける。
「……それにしても。貴様の事は常々いかれてると思ってはいたが、まさか玄関先で寝る程の能天気だとは思わなかったよ。何か申し開きがあるなら言ってみろ。一応聞くだけ聞いてやる」
「ご、ごめんって」
「ごめんで済んだら警察はいらねえんだよ馬鹿が。謝るくらいなら最初からやるな。二十時以降は外出を控えろとあれほど言ってるだろうが。帰宅後は部屋に厳重に鍵をかけろ誰も入れるな。夜間帯に訪ねてくる奴なんか基本的に詐欺か窃盗犯だとでも思っておけ。そんなモン居留守で良い」
「……まあ、うん、そうだよね。確かに」
「確かに、じゃない。そもそもだ。寝るならせめて部屋の中で寝ろよ、酔っぱらいじゃあるまいし。言っておくが犯罪者に真っ先に狙われるのは貴様のような平和ボケの間抜けだぞ。殺されたくないなら二度とするな。次あんな馬鹿な真似をしたらただではおかないから覚えておけ」
「ううう……ところでさ、悟くん」
「あ? 何だよその目は」
「……ごめんって。あの、なんかまだ寝ぼけてるのかな」
「まあ、貴様が寝惚けてるのは今に限った話でもないが」
「悟くんってさあ本当に ……まあいいや。ねえ、今って何月何日の何時何分だっけ」
「はあ? 大概にしろよ。貴様、とうとう時間の感覚までいかれたのか」
「……そうなのかも。何だかちょっと、色んな事がよく分からなくて」
「……お前な」
「思い出せないんだよね、全然。帰って来てからの記憶がない。何で私、あんなとこで寝てたんだろ」
手繰る。途切れそうな記憶を手繰り寄せて、何があったか思い出そうとする。いつも通りの一日、の筈だった。いつも通りに仕事を終えたところで悟くんから連絡が入って、「遅くなりそうだから先に帰れ」って言われたから一人で部屋に帰って。そこで記憶は途絶えている。思い出そうとするたびに頭の奥が痛くなって、微かなめまいで目の前が揺れる。酷く眠かった。部屋の中は奇妙な位に静かで、物音ひとつ聞こえない。気を抜くと意識が沈んで、二度と戻ってこれないような気がしてしまう。そんな中、今にも止まりそうな頭で考えている。ぽっかりと欠落した記憶。何かを忘れている。何かーーもしかしたらとても大事な、恐ろしい事を。
「……そうだ。鈴の音が聞こえて、それで私は」記憶とも言えない位の微かなノイズが、ふと耳の奥に蘇る。鈴の音が聞こえた。誰かに呼ばれた気がした。それで、……それから、何だっけ。こんな事が、何だか前にもあったような気がする。だけど悟くんの手に触れられるたびに思考はぼやけて、辿りかけた糸はふっつりと途絶えてしまう。
「名前」声。悟くんの。私を呼ぶ。鼓膜の中に入り込んで、私の中心を縛り上げる。するり、と耳殻をなぞられて、またしても思考は散漫になる。手のひらで目を塞がれたら、真っ暗な中、その声だけが嫌に鮮明だった。「何かと思えば、下らない」耳元で声が笑う。笑って、それから、私に命令する。「それは現実の話じゃない。ただ夢を見ただけだ。思い出すな。全て忘れろ」その話、さっきもどこかで。頭のどこかでそう思う。だけどもう連続した意識を保つことが難しい。「お前が【そこ】で何を聞いたとしても関係ない。お前はもう【そいつら】の物じゃない」……一体何の話をしているの。聞き返そうとしたけれど、口を開くのも億劫だった。寄りかかった身体の、その体温が心地よかった。まじりあって溶けていく温度。だけどどうしたって一つにはなれない。私は私の輪郭を保ったまま、その声に、その手に縛り付けられる。
ねむい、と、呟いたら雑にお布団を被せられて、まぶたに唇が落ちてくる。頭のてっぺんから毛先まで、指先がゆるゆると髪の毛を梳いてくれる。「可笑しな夢でも見たんだろ。それだけだ。さっさと寝ちまえ。見ててやるから」目線だけ動かして見上げた先で、悟くんが笑っている。いつも通りに少し呆れたような、それでいて甘ったるいあの目で。ん、と、返事のようなため息のような声だけを返したら、おでこにも口づけが降って来る。「安心しろ。悪い夢の記憶なんか、起きたら全部忘れてる」そういう物だろうか。この人が言うなら、きっとそういう物なんだろう。根拠のない安心感。守られているような閉じ込められているような、おかしな感覚。目を閉じてただ息を吸って吐いて、その香りに包まれたら本当に力が抜けていく。おやすみ、と、声が甘く耳元でとける。それが最後で、ふつん、と意識が途切れたら、いよいよ何も分からなくなる。
終始現実感がなくて、何が起きているのかも分からない。それなのに頭の隅のどこかで、奇妙に確信している事があった。私はきっとこうやって、ここに縛られてしまう。彼の言葉で、それとももしかしたら、この人の物になってしまいたかった自分自身の呪いによって。だとしたらもう二度と、あの夢を見ることはないだろう。お前はもう何も思い出さなくていい。その言葉通り、私は全てを忘れてしまう。呪い。悟くんの言う通り、これは確かに呪いなのだろう。私を、……彼を呪って、この場所に縛り付けるための。
▽
……そういえば週末だった、と気づいたのは翌朝、お日様が上り切ってからの事だった。目が覚めた時には本当に、昨日の事なんか殆ど思い出せなくなっていた。結局いつだって、悟くんの言う通りになってしまう。悪い夢を見たような気がする。だけどそれだけだ。我ながら単純で嫌になるけれど、それはきっと良い事なんだろうと思いなおす。誰に何と言われようと、こっちが私にとっての現実であることに間違いはないのだから。
結局昨日はあのまま眠ってしまったらしかった。私の隣には、かろうじてネクタイだけ外した状態の悟くんがすやすやと穏やかな寝息を立てている。離さない、と言わんばかりに絡みついてくる腕の強さが愛おしくて、少しだけ泣きたくなって困った。それでもとりあえず枕もとの時計に手を伸ばそうと、その腕の中で軽く藻掻く。「……うう」耳元で聞こえる、微かなうめき声。おはよう、と言ってみたら、「やかましいな休日くらいゆっくりねかせろ」などとかすれた声で悪態が返ってくる。ほんのりろれつの回ってない不機嫌そうな声。首筋に落ちてくるため息が、少しだけくすぐったかった。思わず笑い声を零してしまったら、いつも通りに舌打ちをされた。休日の悟くんは寝起きが悪い。普段の冷然とした顔からは想像もできないその態度を目の当たりにする度に、ああ今日もいつも通りの週末が始まった、なんて、よく分からない安心感を憶えてしまう。
基本的に仕事人間の悟くんは、目覚まし時計がなくたって毎朝きっかり七時に目を覚ます。気合いと根性と意思の力だけでそんな偉業を成し遂げるあたり、この人は本当にクソ真面目だなあ、と毎度毎度感心してしまう。だけどそれは、お仕事がある日に限っての話だったのだ。付き合いだしてから漸く分かった事だけど、お休みの日の悟くんはびっくりするほど低血圧だ。いくら藻掻こうが騒ごうが関係なく、人を抱き枕にしたままでお昼過ぎまで寝ようとするのだから、はた迷惑にもほどがある。……そういう所すら最高に可愛いと思ってしまうあたりが、いわゆる惚れた弱みってやつなんだろうけど。
「……げ、もう12時じゃんいい加減起きようよ」私の声にはもちろん返事なんてない。ただ雑にくしゃくしゃと髪の毛を撫でられただけだった。「ねえってば」お返しとばかりに私も、悟くんの髪の毛を雑に撫で繰り回してみる。硬い髪の毛の感触。「いい天気だよどっか行こうよ、折角の週末なんだしさ」ぺしぺしと頭を軽くたたいてみる。うるせえな、とばかりに腕の力を強められた。ぎゅうぎゅうに力を込められて、悟くんの肩口辺りに頭が押し付けられる。プロレスじゃあるまいしやめて欲しい。「やめてよ苦しいんだけど」と漏らせば、「だまれ」と、頭上から端的な罵倒を返される。
「……じゃあせめてシャワーだけでも浴びたら。あと着替えなよいい加減。スーツ皺になるよ」
「やかましい。スーツなんて適当にクリーニングにでも出しときゃどうとでもなるんだよ」
「でもお昼だよ。十二時間くらい寝てるじゃん。おなかすかない?」
「すかない。貴様には馬車馬の如く働いてる旦那を労ろうって気はないのかよ。たまの週末くらい寝かせろ」
「……だん、……ねえ、それとこれとは話が別じゃないの」
「別じゃない」
「普段はあれだけ私の事【寝汚い】って罵る癖に」
「やかましい。週末だけは話が別なんだよ。いいかよく聞け、休日に惰眠を貪る権利は民法と刑法と憲法で保障されてる。邪魔する奴は威力業務妨害に問われるから覚悟しろ」
「うん、……うん?」
「刑法第119条。休日の睡眠を邪魔する行為を威力業務妨害とし、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」
「一体何の話をしてるの悟くん」
「……加えて、休日に他人の二度寝を妨害する行為を行う者を公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例における違反者とみなし六ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金に」
「ねえ、絶対適当言ってるよね。流石にそんなんじゃ騙されな……むぐ、」
言い終わる前にお布団の中に引っ張り込まれて、何か言う前に唇が重なった。文句を言おうとするたびにキスで邪魔されて、そのうちに何だか空気がおかしな方向に転がっていく。服の中に入り込んできた手の温度に思わず変な声がもれる。くつくつと笑う声が肌を擽る。遺憾の意、を示すために身体を捩ってみたら、却って抱き着くみたいな姿勢になってしまって困った。おかしい、こんなはずでは。「二度寝するんじゃなかったの」なんていう私の指摘は、勿論素知らぬ顔で無視された。「ああもう、本当にいい加減にしてよね」本当にそう思ってるはずなのに、その手をはねのけようとした声は、思ったよりも甘ったるく響いて途方に暮れる。
「そっちこそいい加減に、無駄な抵抗は止しておけよ」にい、と弓なりにゆがんだ目に、ほんのり期待した顔の自分の顔がうつり込む。唆すみたいに、耳元に声が吹き込まれる。「どうせ期待してるくせに」……図星なのが正直腹立たしかった。「この色ボケ」苦し紛れについた悪態には「どっちが」とあっさり返される。それで本当に流されてしまうあたり、我ながら色ボケが過ぎて嫌になる。
……結局こういうのって、好きになっちゃった方が負けなんだろう。だから最初から私は負けていて、一から十まで何をしてもこの人には叶わない。のろけてとろけていちゃついて、そこからたっぷり一時間、もしくは二時間くらい経っただろうか。貴重な週末の午前中を布団の中で潰してしまった。その事に気付いた時にはもう、時計は午後二時をたっぷりと回ったところだった。こんなことで良いのだろうか。思わなくもないけど、深くは考えこまないで置くことにした。……だって折角の週末で、大好きな大好きな旦那様と二人きりで、それでもって私たちは新婚さん、という訳なのだし。