われなべにとじぶた
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しんこん【新婚】
結婚したばかりであること。[ー旅行]
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「俺は今からお前を呪う。お前の名前を奪い、縛り、この場所に固定する」
「何その呪文。おまじない?」
「……。おまじない、なんて可愛いもんじゃない。よく聞け、真下名前。これは呪いだ。お前はもう逃げられない。俺がこの場所に縛るからだ。いいな、お前の居場所はもう【こちら側】にしかない」
呪い。あの時の真下くんは、私にそう言ったのだった。それは婚姻届けを出した帰りの、車の中での会話だった。まるで誓いの言葉のように、まっすぐと私の目を見て紡がれたその声。あの時頷いた瞬間から、確かに私は呪われてしまったのかもしれない。それに気付いたのはもう少し後になってからの事だったけど。
▽
「おい」
「…………うう」
「……名前。おい、起きろ。真下名前」
「……やだ……」
「やだ、じゃない」
「……いやです……」
「駄々を捏ねるな。起きろ。それとも、無理矢理ベッドから蹴落とされたいか」
情け容赦なく布団を引っぺがされて、心地よい眠りから引きずりだされる。瞼の裏がうすぼんやりと明るい。諦め悪く二度寝しようとしたら頬をつねられて、更に「いい加減にしろ。まだ愚図つくつもりなら本当に蹴落とすぞ」と罵られた。「うう」返事の代わりにうめき声を寄越してから漸く瞼をこじ開ければ、思い切り眉間に皺を寄せた真下くんと目が合った。「……はよ……」かすかすの声を何とか喉から絞り出してそれから、いつも思う事をまた今日も考える。
……今日も夫の顔がいい、なんて。
「毎日毎日感心するほど寝汚いな」なんて手厳しい言葉と裏腹に、緩く髪の毛をなぞる指先がひたすらに優しい。きっとダイナミックに寝ぐせがついているんだろう。後頭部付近を撫でつけてくれる手の温度が心地よくて、浮上した意識がまたしても宙を漂い出す。するすると髪の毛をなぞる指先が頬まで落ちてくる。その手に擦り寄って見せれば、微かなため息が前髪を揺らした。このまま二度寝したっていい位に気持ちいい。だけど勿論真下くんは、二度寝をさせてくれるつもりはないみたいだった。「だから寝るなと、何度言ったら分かる?」絶妙な力加減でまたしても頬をつねられたので目を開ける。「起きろ。三十秒以内だ」そうしていよいよ最後通牒が下される。
ここで逆らったら力づくでベッドから引きずり降ろされるという事も、もう十二分に分っていた。なので素直にその声に従って、しぶしぶながら起き上がる。「おはよう」改めて言えば、「おはよう」とたった四文字にたっぷりと皮肉と嘲笑といら立ちを込めて、それでも真下くんは律義にお返事をしてくれる。「さっさと支度しろ、今何時だと思ってる」促されるままに時計を見上げて時刻を確認した。朝の七時ちょうど。未だに回っていない頭を振って、眠気を追い払おうとする。それから立ち上がろうとしたところで何かに毛躓いて、転びそうになる寸前に誰かの腕に抱き留められた。
「……まったく、いい加減にしろよ面倒くさい」……まあ誰かって、ここには一人しかいないんだけど。眼前いっぱいに広がるあきれ顔が愛しい。我慢せずに抱き着いてみたら、舌打ちとともに背中に腕が回されて、雑に髪の毛を撫でまわされた。きっちりとワイシャツを着こんだ胸元に額をこすりつけて呟く。「すきだよ」そしたら当たり前のように「知ってる」と返された。いつも通りのやり取りだ。淡々とした、だけど飛び切り甘ったるくて幸せな。
一緒に暮らし始めて半年、結婚してからおよそ一か月。晴れて新婚さん、となったわけだけど、だからといって生活が大きく変わる訳じゃない。強いて言えば、真下くんが泊まりで仕事する頻度がほんの少しだけ減って、代わりに家で持ち帰り仕事をするようになったくらいだろうか。一緒にご飯を食べて、一緒に眠って、一緒に目覚めて仕事に出かける。淡々として幸せな日々の繰り返し。基本的に低血圧で寝起きの悪い私とは真反対に、真下くんはびっくりするほど眠りが浅い。そのせいで最近では、目覚まし時計が鳴っても起きない私を真下くんが叩き起こしてくれるのが朝のお決まりと化してしまった。口を開けば皮肉と嫌味。万物に毒づくのが基本方針の癖に、真下くんは大抵とびきり私に甘い。多分そのせいで、こんなことになっているんだと思う。二人きりの時に徹底的に甘やかされて骨抜きにされて、私はどんどん駄目になる。この人なしでは自分の形すらも保てない位に。
……だけど、どこか釈然としない。何だか流れと勢いに任せて真下くんと結婚してしまったわけだけど、この人はそれで本当に良かったんだろうか。かすかな違和感。その正体を確かめる前に、真下くんの声が私の意識を現実に引き戻す。「おい」返事をする前に、その手が私を引っぺがす。「貴様、いつまでやってるつもりだ。俺は暇じゃないんだよ。いい加減にしないと本当に置いていくぞ」それは困る。今度こそ彼氏ーーじゃなかった旦那様ーーの言葉に素直に従って、さっさと洗面台に向かうのだった。
「名前。お前今日も定時帰りで良いんだよな」
「あ、うん。まあ」
朝のニュースを読み上げるキャスターの声がかすかに響く。桜前線の予報に、スポーツ報道に、話題のスイーツ特集。警察の汚職事件から謎の連続不審死事件、の報道に差し掛かった下りで、ぷつん、と、テレビの電源が落とされる。テーブルの上に並ぶコーヒーと、二人分の朝ご飯。無心にトーストにかじりつく真下くんは、男子高校生みたいでちょっとだけ可愛い。眺めていたら視線が合って、何だか見つめ合うみたいな状態になってしまった。目を逸らすタイミングが分からないから、そのまま話を続けている。
「じゃあ終わったら銀座の事務所で待っとけ。19時までには迎えに行ってやる」
「……、真下くんはお仕事大丈夫なの」
「特に緊急の案件はないからな。書類仕事程度なら家でも出来る」
「……いや、あの、それはありがたいけどさぁ」
「何だよその顔は。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「言いたい事って言うか、その」
「だから何だよ鬱陶しい」
「……いやだから。嬉しいっちゃ嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいっていうか照れるって言うか居心地悪いって言うか。真下くんが事務所に迎えに来る度に安岡先生が生ぬるい目で見てくる」
あらあら良いわねえ新婚さんは。ふふ、それにしても真下さんたら意外と過保護じゃないの微笑ましいわ。いいえわたくしの事は良いのよお構いなく。それじゃごきげんよう、そのうちまとまった休暇を差し上げるから、貴方たち二人で新婚旅行でも行ってらっしゃいな。
安岡先生の華やいだ声が脳裏に蘇る。新婚さん、という言葉の響きが妙にこそばゆくて未だに慣れない。口を開けば嫌味と皮肉、全方位傷つける切れたナイフ。そんな真下くんが、結婚して新婚さん。たしかに、生活感のかけらもない顔をした真下くんが新婚さん、というのは、ミスマッチで面白いのだ。私も他人事だったら、ついつい揶揄いたくなってしまうかもしれない。だけど、当事者になってみるとそれはどうにも居心地が悪かった。安岡先生は霊能者だけあって、妙に勘がいい。だからからかわれるたびに何だか色々筒抜けになっているような気がして、母親に彼氏の存在を知られてしまった中学生みたいな気持ちになるのだった。
「はあ? それの何が問題だと? 貴様が新婚なことは事実だろうが。しかも防犯上の観点から言えば、女一人で帰らせるのは望ましくない事も確かだろ。それが過保護かどうかなど知った事か」
「しん、……それはまあ、そうだけど」
「ふん、相変わらずガキ臭い脳みそをしてるようで何よりだよ。この程度で照れるなよ、思春期のガキでもあるまいし。随分と【可愛らし】くて結構な事だ」
「ねえ、真下くんってほんと悪口だけは天下一品だよね? そっちこそ反抗期のガキじゃん、直しなよその癖」
「……【真下くん】」
「……うん? なに?」
「そっちこそ悪癖をさっさと直せよ、真下名前。貴様、結婚した旦那の事をずっと苗字で呼び続ける気か。お前だってもう苗字が真下なんだよ紛らわしい」
「え、な、今更なんでそんなこと」
「は、今更だと? それこそ今更だろ。もう一か月も経つんだから呼び名くらい変えろよ。まあ、無理に矯正させられたいなら好きにしたらいいさ」
「矯正って言わないで何か怖い」
「矯正が嫌なら訓練か、それか、教育とでも言ってやろうか。何でも良いからさっさと慣れろ、ガキじゃないんなら出来るだろ。ほら」
カチカチと時計の音。愉し気にゆがめられた瞳が、無言で私に先を促す。何とも気恥ずかしい沈黙の中、ぶわ、と、顔に熱が集まって来るのが分かった。低血圧が聞いてあきれる。一気に目が覚めた脳内で、目まぐるしく感情が駆け巡る。何だこの空気、とか、今更何でそんなことを、とか、この人相変わらず意地悪いな、とか。……それでも質の悪い事に、私は彼に意地悪をされるのが嫌いじゃないのだ。伸びてきた手が、するりと頬を撫でる。早くしろ、とばかりに親指が唇をこじ開ける。唇をなぞる、親指の硬い感触。仕方なく口を開いて息を吐いた。ほんの少しだけためらってそれから、その名前を声にする。
「…………、さとるくん」蚊の鳴くような声。だけど勿論、真下くんの、違った悟くんの、耳には届いてしまっただろう。ご褒美みたいに一瞬だけ唇が重なってすぐに離れる。至近距離で瞬きをする目が、ほの甘い光をやどして笑う。くらくらと熱に浮かされた頭で考える。
……こんなことで良いのだろうか。分からないけど、まあ多分良いんだろう。何と言っても私たちは、晴れて新婚さん、となったわけなのだし。きっかり八時丁度には家を出て、そこから車で三十分。真下くんが早出しないときはこうやって、二人で家を出て私の職場まで送ってもらうのも、最早お決まりとなってしまった。
車から出る寸前にいつも通り「いってらっしゃい」と声をかければ、「ああ、いってくる」と淡々とした声が返される。いつも通りのやり取りだ。淡々とした、だけど飛び切り甘ったるくて幸せな。時刻は八時三十分。いつも通りに幸せで平凡な、私たちの平日が幕を開けた。
結婚したばかりであること。[ー旅行]
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「俺は今からお前を呪う。お前の名前を奪い、縛り、この場所に固定する」
「何その呪文。おまじない?」
「……。おまじない、なんて可愛いもんじゃない。よく聞け、真下名前。これは呪いだ。お前はもう逃げられない。俺がこの場所に縛るからだ。いいな、お前の居場所はもう【こちら側】にしかない」
呪い。あの時の真下くんは、私にそう言ったのだった。それは婚姻届けを出した帰りの、車の中での会話だった。まるで誓いの言葉のように、まっすぐと私の目を見て紡がれたその声。あの時頷いた瞬間から、確かに私は呪われてしまったのかもしれない。それに気付いたのはもう少し後になってからの事だったけど。
▽
「おい」
「…………うう」
「……名前。おい、起きろ。真下名前」
「……やだ……」
「やだ、じゃない」
「……いやです……」
「駄々を捏ねるな。起きろ。それとも、無理矢理ベッドから蹴落とされたいか」
情け容赦なく布団を引っぺがされて、心地よい眠りから引きずりだされる。瞼の裏がうすぼんやりと明るい。諦め悪く二度寝しようとしたら頬をつねられて、更に「いい加減にしろ。まだ愚図つくつもりなら本当に蹴落とすぞ」と罵られた。「うう」返事の代わりにうめき声を寄越してから漸く瞼をこじ開ければ、思い切り眉間に皺を寄せた真下くんと目が合った。「……はよ……」かすかすの声を何とか喉から絞り出してそれから、いつも思う事をまた今日も考える。
……今日も夫の顔がいい、なんて。
「毎日毎日感心するほど寝汚いな」なんて手厳しい言葉と裏腹に、緩く髪の毛をなぞる指先がひたすらに優しい。きっとダイナミックに寝ぐせがついているんだろう。後頭部付近を撫でつけてくれる手の温度が心地よくて、浮上した意識がまたしても宙を漂い出す。するすると髪の毛をなぞる指先が頬まで落ちてくる。その手に擦り寄って見せれば、微かなため息が前髪を揺らした。このまま二度寝したっていい位に気持ちいい。だけど勿論真下くんは、二度寝をさせてくれるつもりはないみたいだった。「だから寝るなと、何度言ったら分かる?」絶妙な力加減でまたしても頬をつねられたので目を開ける。「起きろ。三十秒以内だ」そうしていよいよ最後通牒が下される。
ここで逆らったら力づくでベッドから引きずり降ろされるという事も、もう十二分に分っていた。なので素直にその声に従って、しぶしぶながら起き上がる。「おはよう」改めて言えば、「おはよう」とたった四文字にたっぷりと皮肉と嘲笑といら立ちを込めて、それでも真下くんは律義にお返事をしてくれる。「さっさと支度しろ、今何時だと思ってる」促されるままに時計を見上げて時刻を確認した。朝の七時ちょうど。未だに回っていない頭を振って、眠気を追い払おうとする。それから立ち上がろうとしたところで何かに毛躓いて、転びそうになる寸前に誰かの腕に抱き留められた。
「……まったく、いい加減にしろよ面倒くさい」……まあ誰かって、ここには一人しかいないんだけど。眼前いっぱいに広がるあきれ顔が愛しい。我慢せずに抱き着いてみたら、舌打ちとともに背中に腕が回されて、雑に髪の毛を撫でまわされた。きっちりとワイシャツを着こんだ胸元に額をこすりつけて呟く。「すきだよ」そしたら当たり前のように「知ってる」と返された。いつも通りのやり取りだ。淡々とした、だけど飛び切り甘ったるくて幸せな。
一緒に暮らし始めて半年、結婚してからおよそ一か月。晴れて新婚さん、となったわけだけど、だからといって生活が大きく変わる訳じゃない。強いて言えば、真下くんが泊まりで仕事する頻度がほんの少しだけ減って、代わりに家で持ち帰り仕事をするようになったくらいだろうか。一緒にご飯を食べて、一緒に眠って、一緒に目覚めて仕事に出かける。淡々として幸せな日々の繰り返し。基本的に低血圧で寝起きの悪い私とは真反対に、真下くんはびっくりするほど眠りが浅い。そのせいで最近では、目覚まし時計が鳴っても起きない私を真下くんが叩き起こしてくれるのが朝のお決まりと化してしまった。口を開けば皮肉と嫌味。万物に毒づくのが基本方針の癖に、真下くんは大抵とびきり私に甘い。多分そのせいで、こんなことになっているんだと思う。二人きりの時に徹底的に甘やかされて骨抜きにされて、私はどんどん駄目になる。この人なしでは自分の形すらも保てない位に。
……だけど、どこか釈然としない。何だか流れと勢いに任せて真下くんと結婚してしまったわけだけど、この人はそれで本当に良かったんだろうか。かすかな違和感。その正体を確かめる前に、真下くんの声が私の意識を現実に引き戻す。「おい」返事をする前に、その手が私を引っぺがす。「貴様、いつまでやってるつもりだ。俺は暇じゃないんだよ。いい加減にしないと本当に置いていくぞ」それは困る。今度こそ彼氏ーーじゃなかった旦那様ーーの言葉に素直に従って、さっさと洗面台に向かうのだった。
「名前。お前今日も定時帰りで良いんだよな」
「あ、うん。まあ」
朝のニュースを読み上げるキャスターの声がかすかに響く。桜前線の予報に、スポーツ報道に、話題のスイーツ特集。警察の汚職事件から謎の連続不審死事件、の報道に差し掛かった下りで、ぷつん、と、テレビの電源が落とされる。テーブルの上に並ぶコーヒーと、二人分の朝ご飯。無心にトーストにかじりつく真下くんは、男子高校生みたいでちょっとだけ可愛い。眺めていたら視線が合って、何だか見つめ合うみたいな状態になってしまった。目を逸らすタイミングが分からないから、そのまま話を続けている。
「じゃあ終わったら銀座の事務所で待っとけ。19時までには迎えに行ってやる」
「……、真下くんはお仕事大丈夫なの」
「特に緊急の案件はないからな。書類仕事程度なら家でも出来る」
「……いや、あの、それはありがたいけどさぁ」
「何だよその顔は。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「言いたい事って言うか、その」
「だから何だよ鬱陶しい」
「……いやだから。嬉しいっちゃ嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいっていうか照れるって言うか居心地悪いって言うか。真下くんが事務所に迎えに来る度に安岡先生が生ぬるい目で見てくる」
あらあら良いわねえ新婚さんは。ふふ、それにしても真下さんたら意外と過保護じゃないの微笑ましいわ。いいえわたくしの事は良いのよお構いなく。それじゃごきげんよう、そのうちまとまった休暇を差し上げるから、貴方たち二人で新婚旅行でも行ってらっしゃいな。
安岡先生の華やいだ声が脳裏に蘇る。新婚さん、という言葉の響きが妙にこそばゆくて未だに慣れない。口を開けば嫌味と皮肉、全方位傷つける切れたナイフ。そんな真下くんが、結婚して新婚さん。たしかに、生活感のかけらもない顔をした真下くんが新婚さん、というのは、ミスマッチで面白いのだ。私も他人事だったら、ついつい揶揄いたくなってしまうかもしれない。だけど、当事者になってみるとそれはどうにも居心地が悪かった。安岡先生は霊能者だけあって、妙に勘がいい。だからからかわれるたびに何だか色々筒抜けになっているような気がして、母親に彼氏の存在を知られてしまった中学生みたいな気持ちになるのだった。
「はあ? それの何が問題だと? 貴様が新婚なことは事実だろうが。しかも防犯上の観点から言えば、女一人で帰らせるのは望ましくない事も確かだろ。それが過保護かどうかなど知った事か」
「しん、……それはまあ、そうだけど」
「ふん、相変わらずガキ臭い脳みそをしてるようで何よりだよ。この程度で照れるなよ、思春期のガキでもあるまいし。随分と【可愛らし】くて結構な事だ」
「ねえ、真下くんってほんと悪口だけは天下一品だよね? そっちこそ反抗期のガキじゃん、直しなよその癖」
「……【真下くん】」
「……うん? なに?」
「そっちこそ悪癖をさっさと直せよ、真下名前。貴様、結婚した旦那の事をずっと苗字で呼び続ける気か。お前だってもう苗字が真下なんだよ紛らわしい」
「え、な、今更なんでそんなこと」
「は、今更だと? それこそ今更だろ。もう一か月も経つんだから呼び名くらい変えろよ。まあ、無理に矯正させられたいなら好きにしたらいいさ」
「矯正って言わないで何か怖い」
「矯正が嫌なら訓練か、それか、教育とでも言ってやろうか。何でも良いからさっさと慣れろ、ガキじゃないんなら出来るだろ。ほら」
カチカチと時計の音。愉し気にゆがめられた瞳が、無言で私に先を促す。何とも気恥ずかしい沈黙の中、ぶわ、と、顔に熱が集まって来るのが分かった。低血圧が聞いてあきれる。一気に目が覚めた脳内で、目まぐるしく感情が駆け巡る。何だこの空気、とか、今更何でそんなことを、とか、この人相変わらず意地悪いな、とか。……それでも質の悪い事に、私は彼に意地悪をされるのが嫌いじゃないのだ。伸びてきた手が、するりと頬を撫でる。早くしろ、とばかりに親指が唇をこじ開ける。唇をなぞる、親指の硬い感触。仕方なく口を開いて息を吐いた。ほんの少しだけためらってそれから、その名前を声にする。
「…………、さとるくん」蚊の鳴くような声。だけど勿論、真下くんの、違った悟くんの、耳には届いてしまっただろう。ご褒美みたいに一瞬だけ唇が重なってすぐに離れる。至近距離で瞬きをする目が、ほの甘い光をやどして笑う。くらくらと熱に浮かされた頭で考える。
……こんなことで良いのだろうか。分からないけど、まあ多分良いんだろう。何と言っても私たちは、晴れて新婚さん、となったわけなのだし。きっかり八時丁度には家を出て、そこから車で三十分。真下くんが早出しないときはこうやって、二人で家を出て私の職場まで送ってもらうのも、最早お決まりとなってしまった。
車から出る寸前にいつも通り「いってらっしゃい」と声をかければ、「ああ、いってくる」と淡々とした声が返される。いつも通りのやり取りだ。淡々とした、だけど飛び切り甘ったるくて幸せな。時刻は八時三十分。いつも通りに幸せで平凡な、私たちの平日が幕を開けた。