われなべにとじぶた
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けっこん【結婚】ーする
(正式の)夫婦関係を結ぶこと。〔法律的には婚姻と言う〕
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「詳細は省くが、俺と結婚しないと貴様は死ぬ」
うららかな平日の、春の夜のことだった。珍しく日付が変わる前に帰ってきた彼氏は、テーブルにつくや否や至極当然のような顔で私に告げた。唐突な話の展開に脳が付いていかない。「何て?」思わず聞き返したら、一言一句たがわずにもう一度、同じフレーズが繰り返される。
「詳細は省くが俺と結婚しないと貴様は死ぬ」
「……、え、何? 脅迫じゃん」
「……まあ、そうだな。脅迫と捉えても構わない。そのあたりは好きなように考えろ。だが事実は変わらない。俺と結婚でもしない限り遅かれ早かれお前は死ぬ」
「いや、待って真下くん。そもそも結婚って何のことか分かってる?」
「は? 分かってるに決まってるだろ。毎度毎度お前は俺のことを何だと思ってる」
「とりあえずちょっと、いや大分、常識に欠けるところがあるとは思ってるよ前々から」
「ああ、気が合うな。俺も貴様の事は前々から常識に欠けるいかれ女だと思ってたよ」
「な、……ま、真下くんさあ……」
唐突にぶつけられるド直球の悪口。絶句している私を一瞥し、真下くんはコートのポケットから取り出した何かを雑に目の前に放り出す。
「なにこれ」
「指輪。見て分かんだろ普通。貴様、いかれてるとは前々から思ってたがとうとう目までいかれたか」
「うん? 指輪? プレゼント? にしても何で? 今日って何かのお祝いだっけ?」
「だから婚約指輪だよ。いや違う結婚指輪か。分かれよ空気で」
「いや、分かる訳なくないこの空気で!?」
「分かるだろ常識的に考えて。察しろよそれくらい。給料三か月分……かどうかは知らんが、とりあえずそれなりの値段の物を買ってやったから精々感謝しろ」
ぐい、と左手を引かれた。真下くんの手によってあれよあれよと、薬指に指輪が装着される。シンプルにもほどがあるシルバーのリングだ。しかもサイズがぴったりだ。いつの間に真下くんは私の指のサイズなんて調べたのか。私が寝てる時にサイズでも測ったんだろうか。何もかも雑なくせにそういうとこだけ意外と卒がない。でも私の方は真下くんの指のサイズなんて知らないのにずるい。しかし、この手の指輪って発注から受け取りまで一週間か二週間くらいかかるんじゃなかったっけ。つまりこれは計画的な犯行なのか。だとしたら一体いつから彼はこの計画に着手していたのか。こんな時なのにずれた感想ばかりが頭に浮かぶ。「ねえ。……念の為の確認なんだけど、もしかして今私プロポーズされてる?」慎重に切り出した私の質問に、真下くんは呆れた顔をする。
「名前。これがプロポーズ以外の何かだと、本気でそう思うのか?」
「いやだから、……真下くん。あのね」
「何だよ」
「プロポーズって言葉の意味分かってる?」
「(結婚を)申し込むこと。求婚」
「じ、じゃあ結婚って言葉の意味は」
「(正式の)夫婦関係を結ぶこと。法律的には婚姻と言う」
「こん、」
「正規の法律上の手続きを経て男女が夫婦関係を結ぶこと」
「……、ふう、」
「結婚している一組の男女。多く家族構成の最小単位と認められる」
「…………、いやあの」
辞書を暗読するかの如くずらずらと並べ立てられる言葉の定義。真下くんはたまに驚くほどの記憶力を発揮する。今だってそうだ。大方、国語辞典でも見て事前に暗記してきたんだろう。意外と真面目で可愛い。だけどその真面目さの発揮のしどころは絶対に他にあったはずだ。ぐるぐると言葉を探す私に彼は思い切り眉根を寄せて、それからいつも通り舌打ちを放った。爆弾をぶっこんできたのはそっちの方なのに、このふてぶてしい態度ときたら何なのか。
「何だよその面は。俺は聞かれたことに答えてやっただけだぞ」
「……いやあの、真下くん、」
「何だよ」
「話の流れが見えないよ。結婚しないと死ぬの私? 何で?」
「詳細は省くと言ったはずだ。同じことを何度も言わせるな」
「いや流石にそこの詳細省くのは無理じゃない? ていうか私が死にそうだからって結婚するって絶対おかしいでしょ。真下くんはそれでいいの」
「はあ? それで良いと思ったからこんな話をしてるんだろうが。結婚をしないと貴様は死ぬ。まあ、他に結婚相手の当てがあると言うなら最悪はそいつと結婚するのでも良い。だが、……」
「……だが、何よ」
「……、……貴様が俺以外の人間と結婚することを選んだ場合はそいつの全身の骨を折る」
「……いやいや、いやいやいや……そんな暴力的な……」
「? 、驚いたな。まさか本当に俺以外に結婚相手の当てがあるのか」
「あるわけなくない?」
「だよな。知ってる。お前の周囲の人間関係などとうに把握済だ。おかしな真似をしたら直ぐにバレるから覚悟しておけよ」
「……。ていうか唐突に何なの、こういうの脅迫って言うんじゃないの」
「……まあ、そうだな。刑法第222条。身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。俺を脅迫罪で警察に突き出したいなら好きにしろ」
シンプルこの上ない脅迫だった。それでもとりあえず、私が今プロポーズをされていることは確かな様だ。いつの間にか左手首はがっちりと真下くんの手に捕まえられて、おまけにぎゅうぎゅうに握りしめられている。逃がさない、と言わんばかりの強さ。私の左手の薬指には、先ほど嵌められたばかりの指輪が光っている。そっけないくらいにシンプルで、恐ろしく高級そうな指輪。ほんのりと後ずさる私を面倒そうな顔で見下ろしたまま、彼はただ答えを待っている。【何か問題でもあるのかよ】とでも言いたげな顔だ。【黙ってないで何とか言えよ】とも言いそうな感じだし、【俺のことが死ぬほど好きなくせに】とも言うかもしれない。
さっきから私たちは一体、何の話をしているのか。余りの急展開に、脳みそが付いていけていない。二十数年生きてきた。それなりに色んな経験をしてきたと思う。だけどまさか、こんな形でプロポーズをされるなどとは夢にも思っていなかった。嘘だ。本当はほんのちょっとだけ想像したことくらいはある。だけどその時は、もっと常識的な流れを想定していたのだ。プロポーズといえば、給料三か月分の指輪に花束なんか添えて、記念日にちょっといいレストランなどで行うのが相場の筈だ。この上なく平日の夜間帯の自宅で、こんな脅迫まがいの物言いでプロポーズをされる未来なんて、誰が考えついただろう。
「いや、あの」
考える。考えながらぐるぐると、言うべき言葉を探している。イエスかノーか半分か。小学生の頃流行った、下らない言葉遊びを思い出す。イエスでもノーでもない曖昧な態度は大抵何の解決にもならない。それなのに私は何時だって曖昧な方を選択して、結果、事態を悪化させてしまうのだ。今だってそうだ。「真下くんって、真下くんって」相変わらずぐるぐると、私は言葉を探していた。目の前の彼は、冷静極まりない無表情を崩さない。だけど次の瞬間。私が吐きだした言葉により、その顔があからさまに険を増したのが分かった。
「真下くんって、死にそうな女と結婚したがる癖でもあるの?」
「……あ?」
どうやら地雷をぶち抜いたらしい。真下くんは氷点下の声で「貴様、ふざけるのも大概にしろよ」と私を罵り、次いで「言っておくが俺はな、見境もなく女に手を付ける程馬鹿じゃない。勿論、誰彼構わず面倒事を引き受けてやる程お人よしでもないんだよ。誰かさんと違ってな」などといつものごとく私を当てこすり、「時間がないんださっさと決めろ。俺と結婚するか、可及的速やかに適当な男を捕まえて結婚するか。まあ後者の選択をした場合は俺が相手の男の全身の骨を折るが、それでも死ぬよりはましだろう」などと脅迫とともに究極の二択を迫ってくる。さっきも言ったように、『可及的速やかに結婚をしてくれる他の男』の当てなどない。という事はこの場合は、真下くんと結婚をしないと私は死ぬという事だろうか。「結婚しないという選択肢は」私の声にはかぶせ気味に「ない」と簡潔な答えが返される。おかしい事を言ってるのは明らかに向こうなのに、何だか私が駄々をこねているみたいな空気になってきているのは気のせいだろうか。
「えっと、とりあえず落ち着きなよ。真下くんね、この流れだとさっきから私と結婚したいって言ってるみたいに聞こえるよ。心臓に悪い」
「あ? だからさっきからそう言ってるだろうが。再三言うがこれはプロポーズだ。俺と結婚しないとお前は死ぬ。俺はお前と結婚するつもりがある。しかもお前、俺の事が死ぬほど好きなんだろ。俺だってお前の事は愛してやってるつもりだよ。じゃあ問題ないだろうが結婚程度」
息継ぎもなくまくし立てた後一瞬だけ目を伏せて、彼は細く息を吐く。私の手首を握りしめる左手がほんのり汗ばんでいる。心做しかその指先が冷たい。そんなことに今更気付いて、こんな時なのに笑ってしまう。
「……ねえ。真下くんって、緊張してるといっぱい喋るよね?」
「黙れ」
真下くんと出会って、もう五年くらいは経っただろうか。出会った頃から今までずっと、相変わらずこの人は勝手で唐突だ。何の連絡もなくふっつりと居なくなったのが一年前。唐突に戻ってきて、死にかけた私を助けてくれた挙句にこの部屋に引っ張り込み、なし崩しの同棲生活が始まったのが半年前。真下くんは一体、私の何をそんなに気に入ったのか。それは未だにはっきりと分からない。私が死にそうだから結婚を申し込むという理屈も、正直意味が分からない。それなのに汗ばんだ手の感触をちょっとかわいいとか思ってしまっているあたり、確かに私は、真下くんの言う通り頭がいかれているのかもしれなかった。
「詳しく説明してやれないことについては、悪いとは思ってる。これでも非常識な事を言ってる自覚はある。だが、あらゆる手段を検討した上でこれが最善だと判断した」
「……うわ、結婚のこと手段って言いきった……」
「? 、手段だろうこんなものは。相手を所有し拘束するための法的な手続きに過ぎない。それでもお前をここに縛り付けておく為にはこれが一番効率がいい。紙ぺら一枚出すだけで外堀を埋められるなら安い物だろ」
一瞬だけものすごく熱烈な事を言われたような気がするけど、それは気のせいなのかもしれなかった。まるで証拠品を突き付けるかのような無遠慮さで、真下くんが何らかの書類を目の前に差し出してくる。くっきりはっきり【婚姻届】と印字されたその紙の内容に目を走らせて、彼が本当に本気であることを遅まきながら理解する。何と【婚姻届】の片方の氏名欄には、既にしっかりと名前が記入されていた。
ほんの少し角ばっているけれど、意外なほどに整った楷書体。【真下悟】ときちんと記入されたそれを眺めているうちに、突飛すぎる話の展開がにわかに現実味を帯びてくる。結婚。唐突に降って湧いたその言葉がちかちかと頭の中で点滅する。結婚。ハネムーン。新婚さんいらっしゃい。連想ゲームみたいに言葉が連なっていき、脳内に鐘の音が響き渡る。だけど別世界にトリップしていた脳みそは、真下くんの声により現実に引きずり戻された。「分かったらさっさとどうするか決めろ。四十秒だけ待ってやる」そしてどこぞの悪役かのような宣言とともに、無慈悲な声でカウントダウンが開始される。
「いや待って真下くん、カウントダウンやめて。ねえ聞いて。良いから聞いてこっち向いて」
「はあ、何だよまだ何かあるのか」
だけどやっぱり、流石にこんなのは無理があると思う。たった四十秒でこんな一大事を決めてしまえるほど、人生はシンプルにはできていない。しかもよりによって、相手が真下くんだ。真下くんと結婚。生活感のかけらもない顔をした真下くんと、結婚。別に婚姻届けを出す事自体は構わない。だけど結婚するにあたり二つ三つほど、越えなければならないハードルと言うものがある気がする。例えば。
「何かある、っていうか」
「だから何だよさっさと言え」
「だから……、……、……」
「……度々言っているがお前はその、肝心な時に黙り込む癖を早く直せ。言いたいことがあるならはっきり言えよ面倒臭い」
「……うう、じゃあ言うけど。真下くんって取り調べの時以外で敬語使える? 悪口以外の語彙ある? そもそも世間話とかできる?」
「は? 貴様この期に及んで、一体何の話をしてる」
「いや、……だからさ。黙って結婚なんてしたら、流石にパパに泣かれるなって」
同棲ならともかく、結婚となると俄然話は変わって来る。結婚式やハネムーンなんていう諸々のセレモニーは省くとして、それでも避けようがないイベントというのが存在すると思う。
……それは例えば実家への挨拶、とかなんだけど。
「……別に結婚、自体はいいんだけどさ。私も流石に、実家に黙って婚姻届けを出す勇気はない」
数秒の沈黙。このままうやむやになるかと思っていたのに、真下くんは特に動じた様子もなく、至極あっさりと結論を出した。
「……まあ、それはそうだろうな。婚約者を家族に紹介しないというのは、一般的には考えづらい」
婚約者。さらりと放たれたその言葉に耳を疑う。更に「要するにお前の実家まで挨拶に行けばいいんだろ。別に構わない」などと告げられ、いよいよ思考回路がショート寸前まで追い詰められる。鳩が豆鉄砲を食ったような顔の私が、真下くんの目の中に写り込んでいた。ねえ真下くん、今なんて言った? と私が訊き返す前に、彼はいつもの坦々とした声でこちらに告げる。
「行ってやるよお前の実家まで。頭を下げるなり殴られるなりで解決するなら、それが一番手っ取り早い」
「えっ、なっ、……自分の言ってる事分かってる!? 要するに【娘さんを僕にください】的なアレをしないといけないわけだけど」
「だからさっきから言ってるだろうが。別に構わない。挨拶でも何でもしてやるよ。そもそも、この程度の煩わしさも引き受けられない相手と結婚するつもりなのか貴様は? ハハ、そっちこそ結婚って言葉の意味を調べ直すんだな。言っておくが結婚詐欺に真っ先に引っかかるのは貴様の様なアホだぞ。精々気を付けろ」
「ええ……いや、真下くんがそれ言うの……」
「そもそもが貴様は脇が甘すぎる。全人類疑え。基本的に俺以外の人間は詐欺師か人殺しか窃盗犯かひき逃げ犯だと思え」
「い、今まさに自分が結婚詐欺師みたいなこと言ってる癖によくもいけしゃあしゃあと」
「は? だから、さっきからうんざりするほど言ってやってるだろうが。これは詐欺でも冗談でもない」
これは訓練ではない。脳裏に謎の副音声がよぎる。どうやらこれは、訓練じゃなくて本番の様だった。考えている間に雑に一瞬だけ唇が重なった。指先が頬の輪郭をなぞってからすぐに離れる。「苗字名前」真下くんが、私の名前を呼ぶ。味も素っ気もなくシンプルに、まるで物の名前でも呼ぶみたいに。
「人の話はきちんと聞いておけ。再三言うがこれはプロポーズだ。それとも、貴様は数分前に言われた事も覚えてられないのか?」
「な、ま、真下くんさあ。私の事愛してるとかいう割に悪口が凄いよ」
「それはこっちの台詞だよ。お前こそ随分と減らず口が多い。俺のことが死ぬほど好きなくせに」
「確かに真下くんの事は大好きだけど、流石にそれとこれとは話が別だよね?」
子供の頃思ってたのとあまりに違う。こんな脅迫めいたやり方でプロポーズをされて、しかも絆されている私は随分と常識外れなんじゃないだろうか。それでも、「もう一度確認するけど。真下くんは減らず口が多くて結婚詐欺に引っかかりそうないかれた女と、本気で結婚しようと思ってる訳」と訊いてみれば、「ああそうだよ。いかれてて面倒くさくてああ言えばこう言う最高に手間のかかる女と、俺は結婚をするつもりでいる」と何とも腹の立つ言い方で真下くんは断言したのだった。この人はいつも勝手だ。しかも大抵口が悪いし常識外れなところがあるし、その上自分勝手で目つきも悪い。
それなのに私は私で、そんな真下くんの事が好きで好きで仕方ないのだから始末に負えないのかもしれなかった。こんなのって絶対正しくないと思う。だけど私は、好きな人のしたいことは何でもやらせてあげたくなってしまう質なのだ。だから勿論、真下くんが私と結婚をしたいと言うのなら、それを拒む道理もない。我ながら恋愛体質が過ぎる。
……割れ鍋に綴じ蓋というか、棚からぼたもちというか、天井から目薬というか。いつの間にか無慈悲なカウントダウンの声は再開され、圧の強い視線に促された私は、手渡されるままにボールペンを受け取る羽目になった。そして慌てる余りに三回ほど婚姻届けを書き損じて、真下くんに散々罵られた。それが、4月9日の事だった。
そこからは目まぐるしいスピードで事が進んだ。悲壮な顔をした真下くんを実家の両親に紹介し(「娘が婚約者と称した男を連れてくるのは君で10人目だよ」と父が暴露してしまったので、真下くんはムカデに生えたキノコを食べさせられたような顔をした)、逆に私も真下くんの実家の人に紹介され(真下くんが北国出身の人だというのを、私はこの時初めて知った。道理で雪かきが上手いわけだ)、その後役所の深夜窓口まで車を飛ばし、さっさと婚姻届けを提出した。その合間に真下くんの指のサイズを測り、銀座あたりの宝飾品店まで引っ張っていき、滞りなく結婚指輪とやらを作成した。私だけが指輪をはめているのも理不尽なので、きちんと真下くんにも給料三か月分の指輪を押し付けることにしたのだ。婚姻届けを提出するまでが三日、結婚指輪が完成するまでが二週間、合計たったの二週間と三日。結婚式は省略、ハネムーンも省略。スピード婚にも程がある。まるで嵐の中に放り込まれたようだった。あわただしい中であれよあれよと事が進み、気が付いたら。
私が『真下名前』となって、気が付いたら一か月が経過していた。
(正式の)夫婦関係を結ぶこと。〔法律的には婚姻と言う〕
ーー三省堂 新明解国語辞典より抜粋
▽
「詳細は省くが、俺と結婚しないと貴様は死ぬ」
うららかな平日の、春の夜のことだった。珍しく日付が変わる前に帰ってきた彼氏は、テーブルにつくや否や至極当然のような顔で私に告げた。唐突な話の展開に脳が付いていかない。「何て?」思わず聞き返したら、一言一句たがわずにもう一度、同じフレーズが繰り返される。
「詳細は省くが俺と結婚しないと貴様は死ぬ」
「……、え、何? 脅迫じゃん」
「……まあ、そうだな。脅迫と捉えても構わない。そのあたりは好きなように考えろ。だが事実は変わらない。俺と結婚でもしない限り遅かれ早かれお前は死ぬ」
「いや、待って真下くん。そもそも結婚って何のことか分かってる?」
「は? 分かってるに決まってるだろ。毎度毎度お前は俺のことを何だと思ってる」
「とりあえずちょっと、いや大分、常識に欠けるところがあるとは思ってるよ前々から」
「ああ、気が合うな。俺も貴様の事は前々から常識に欠けるいかれ女だと思ってたよ」
「な、……ま、真下くんさあ……」
唐突にぶつけられるド直球の悪口。絶句している私を一瞥し、真下くんはコートのポケットから取り出した何かを雑に目の前に放り出す。
「なにこれ」
「指輪。見て分かんだろ普通。貴様、いかれてるとは前々から思ってたがとうとう目までいかれたか」
「うん? 指輪? プレゼント? にしても何で? 今日って何かのお祝いだっけ?」
「だから婚約指輪だよ。いや違う結婚指輪か。分かれよ空気で」
「いや、分かる訳なくないこの空気で!?」
「分かるだろ常識的に考えて。察しろよそれくらい。給料三か月分……かどうかは知らんが、とりあえずそれなりの値段の物を買ってやったから精々感謝しろ」
ぐい、と左手を引かれた。真下くんの手によってあれよあれよと、薬指に指輪が装着される。シンプルにもほどがあるシルバーのリングだ。しかもサイズがぴったりだ。いつの間に真下くんは私の指のサイズなんて調べたのか。私が寝てる時にサイズでも測ったんだろうか。何もかも雑なくせにそういうとこだけ意外と卒がない。でも私の方は真下くんの指のサイズなんて知らないのにずるい。しかし、この手の指輪って発注から受け取りまで一週間か二週間くらいかかるんじゃなかったっけ。つまりこれは計画的な犯行なのか。だとしたら一体いつから彼はこの計画に着手していたのか。こんな時なのにずれた感想ばかりが頭に浮かぶ。「ねえ。……念の為の確認なんだけど、もしかして今私プロポーズされてる?」慎重に切り出した私の質問に、真下くんは呆れた顔をする。
「名前。これがプロポーズ以外の何かだと、本気でそう思うのか?」
「いやだから、……真下くん。あのね」
「何だよ」
「プロポーズって言葉の意味分かってる?」
「(結婚を)申し込むこと。求婚」
「じ、じゃあ結婚って言葉の意味は」
「(正式の)夫婦関係を結ぶこと。法律的には婚姻と言う」
「こん、」
「正規の法律上の手続きを経て男女が夫婦関係を結ぶこと」
「……、ふう、」
「結婚している一組の男女。多く家族構成の最小単位と認められる」
「…………、いやあの」
辞書を暗読するかの如くずらずらと並べ立てられる言葉の定義。真下くんはたまに驚くほどの記憶力を発揮する。今だってそうだ。大方、国語辞典でも見て事前に暗記してきたんだろう。意外と真面目で可愛い。だけどその真面目さの発揮のしどころは絶対に他にあったはずだ。ぐるぐると言葉を探す私に彼は思い切り眉根を寄せて、それからいつも通り舌打ちを放った。爆弾をぶっこんできたのはそっちの方なのに、このふてぶてしい態度ときたら何なのか。
「何だよその面は。俺は聞かれたことに答えてやっただけだぞ」
「……いやあの、真下くん、」
「何だよ」
「話の流れが見えないよ。結婚しないと死ぬの私? 何で?」
「詳細は省くと言ったはずだ。同じことを何度も言わせるな」
「いや流石にそこの詳細省くのは無理じゃない? ていうか私が死にそうだからって結婚するって絶対おかしいでしょ。真下くんはそれでいいの」
「はあ? それで良いと思ったからこんな話をしてるんだろうが。結婚をしないと貴様は死ぬ。まあ、他に結婚相手の当てがあると言うなら最悪はそいつと結婚するのでも良い。だが、……」
「……だが、何よ」
「……、……貴様が俺以外の人間と結婚することを選んだ場合はそいつの全身の骨を折る」
「……いやいや、いやいやいや……そんな暴力的な……」
「? 、驚いたな。まさか本当に俺以外に結婚相手の当てがあるのか」
「あるわけなくない?」
「だよな。知ってる。お前の周囲の人間関係などとうに把握済だ。おかしな真似をしたら直ぐにバレるから覚悟しておけよ」
「……。ていうか唐突に何なの、こういうの脅迫って言うんじゃないの」
「……まあ、そうだな。刑法第222条。身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。俺を脅迫罪で警察に突き出したいなら好きにしろ」
シンプルこの上ない脅迫だった。それでもとりあえず、私が今プロポーズをされていることは確かな様だ。いつの間にか左手首はがっちりと真下くんの手に捕まえられて、おまけにぎゅうぎゅうに握りしめられている。逃がさない、と言わんばかりの強さ。私の左手の薬指には、先ほど嵌められたばかりの指輪が光っている。そっけないくらいにシンプルで、恐ろしく高級そうな指輪。ほんのりと後ずさる私を面倒そうな顔で見下ろしたまま、彼はただ答えを待っている。【何か問題でもあるのかよ】とでも言いたげな顔だ。【黙ってないで何とか言えよ】とも言いそうな感じだし、【俺のことが死ぬほど好きなくせに】とも言うかもしれない。
さっきから私たちは一体、何の話をしているのか。余りの急展開に、脳みそが付いていけていない。二十数年生きてきた。それなりに色んな経験をしてきたと思う。だけどまさか、こんな形でプロポーズをされるなどとは夢にも思っていなかった。嘘だ。本当はほんのちょっとだけ想像したことくらいはある。だけどその時は、もっと常識的な流れを想定していたのだ。プロポーズといえば、給料三か月分の指輪に花束なんか添えて、記念日にちょっといいレストランなどで行うのが相場の筈だ。この上なく平日の夜間帯の自宅で、こんな脅迫まがいの物言いでプロポーズをされる未来なんて、誰が考えついただろう。
「いや、あの」
考える。考えながらぐるぐると、言うべき言葉を探している。イエスかノーか半分か。小学生の頃流行った、下らない言葉遊びを思い出す。イエスでもノーでもない曖昧な態度は大抵何の解決にもならない。それなのに私は何時だって曖昧な方を選択して、結果、事態を悪化させてしまうのだ。今だってそうだ。「真下くんって、真下くんって」相変わらずぐるぐると、私は言葉を探していた。目の前の彼は、冷静極まりない無表情を崩さない。だけど次の瞬間。私が吐きだした言葉により、その顔があからさまに険を増したのが分かった。
「真下くんって、死にそうな女と結婚したがる癖でもあるの?」
「……あ?」
どうやら地雷をぶち抜いたらしい。真下くんは氷点下の声で「貴様、ふざけるのも大概にしろよ」と私を罵り、次いで「言っておくが俺はな、見境もなく女に手を付ける程馬鹿じゃない。勿論、誰彼構わず面倒事を引き受けてやる程お人よしでもないんだよ。誰かさんと違ってな」などといつものごとく私を当てこすり、「時間がないんださっさと決めろ。俺と結婚するか、可及的速やかに適当な男を捕まえて結婚するか。まあ後者の選択をした場合は俺が相手の男の全身の骨を折るが、それでも死ぬよりはましだろう」などと脅迫とともに究極の二択を迫ってくる。さっきも言ったように、『可及的速やかに結婚をしてくれる他の男』の当てなどない。という事はこの場合は、真下くんと結婚をしないと私は死ぬという事だろうか。「結婚しないという選択肢は」私の声にはかぶせ気味に「ない」と簡潔な答えが返される。おかしい事を言ってるのは明らかに向こうなのに、何だか私が駄々をこねているみたいな空気になってきているのは気のせいだろうか。
「えっと、とりあえず落ち着きなよ。真下くんね、この流れだとさっきから私と結婚したいって言ってるみたいに聞こえるよ。心臓に悪い」
「あ? だからさっきからそう言ってるだろうが。再三言うがこれはプロポーズだ。俺と結婚しないとお前は死ぬ。俺はお前と結婚するつもりがある。しかもお前、俺の事が死ぬほど好きなんだろ。俺だってお前の事は愛してやってるつもりだよ。じゃあ問題ないだろうが結婚程度」
息継ぎもなくまくし立てた後一瞬だけ目を伏せて、彼は細く息を吐く。私の手首を握りしめる左手がほんのり汗ばんでいる。心做しかその指先が冷たい。そんなことに今更気付いて、こんな時なのに笑ってしまう。
「……ねえ。真下くんって、緊張してるといっぱい喋るよね?」
「黙れ」
真下くんと出会って、もう五年くらいは経っただろうか。出会った頃から今までずっと、相変わらずこの人は勝手で唐突だ。何の連絡もなくふっつりと居なくなったのが一年前。唐突に戻ってきて、死にかけた私を助けてくれた挙句にこの部屋に引っ張り込み、なし崩しの同棲生活が始まったのが半年前。真下くんは一体、私の何をそんなに気に入ったのか。それは未だにはっきりと分からない。私が死にそうだから結婚を申し込むという理屈も、正直意味が分からない。それなのに汗ばんだ手の感触をちょっとかわいいとか思ってしまっているあたり、確かに私は、真下くんの言う通り頭がいかれているのかもしれなかった。
「詳しく説明してやれないことについては、悪いとは思ってる。これでも非常識な事を言ってる自覚はある。だが、あらゆる手段を検討した上でこれが最善だと判断した」
「……うわ、結婚のこと手段って言いきった……」
「? 、手段だろうこんなものは。相手を所有し拘束するための法的な手続きに過ぎない。それでもお前をここに縛り付けておく為にはこれが一番効率がいい。紙ぺら一枚出すだけで外堀を埋められるなら安い物だろ」
一瞬だけものすごく熱烈な事を言われたような気がするけど、それは気のせいなのかもしれなかった。まるで証拠品を突き付けるかのような無遠慮さで、真下くんが何らかの書類を目の前に差し出してくる。くっきりはっきり【婚姻届】と印字されたその紙の内容に目を走らせて、彼が本当に本気であることを遅まきながら理解する。何と【婚姻届】の片方の氏名欄には、既にしっかりと名前が記入されていた。
ほんの少し角ばっているけれど、意外なほどに整った楷書体。【真下悟】ときちんと記入されたそれを眺めているうちに、突飛すぎる話の展開がにわかに現実味を帯びてくる。結婚。唐突に降って湧いたその言葉がちかちかと頭の中で点滅する。結婚。ハネムーン。新婚さんいらっしゃい。連想ゲームみたいに言葉が連なっていき、脳内に鐘の音が響き渡る。だけど別世界にトリップしていた脳みそは、真下くんの声により現実に引きずり戻された。「分かったらさっさとどうするか決めろ。四十秒だけ待ってやる」そしてどこぞの悪役かのような宣言とともに、無慈悲な声でカウントダウンが開始される。
「いや待って真下くん、カウントダウンやめて。ねえ聞いて。良いから聞いてこっち向いて」
「はあ、何だよまだ何かあるのか」
だけどやっぱり、流石にこんなのは無理があると思う。たった四十秒でこんな一大事を決めてしまえるほど、人生はシンプルにはできていない。しかもよりによって、相手が真下くんだ。真下くんと結婚。生活感のかけらもない顔をした真下くんと、結婚。別に婚姻届けを出す事自体は構わない。だけど結婚するにあたり二つ三つほど、越えなければならないハードルと言うものがある気がする。例えば。
「何かある、っていうか」
「だから何だよさっさと言え」
「だから……、……、……」
「……度々言っているがお前はその、肝心な時に黙り込む癖を早く直せ。言いたいことがあるならはっきり言えよ面倒臭い」
「……うう、じゃあ言うけど。真下くんって取り調べの時以外で敬語使える? 悪口以外の語彙ある? そもそも世間話とかできる?」
「は? 貴様この期に及んで、一体何の話をしてる」
「いや、……だからさ。黙って結婚なんてしたら、流石にパパに泣かれるなって」
同棲ならともかく、結婚となると俄然話は変わって来る。結婚式やハネムーンなんていう諸々のセレモニーは省くとして、それでも避けようがないイベントというのが存在すると思う。
……それは例えば実家への挨拶、とかなんだけど。
「……別に結婚、自体はいいんだけどさ。私も流石に、実家に黙って婚姻届けを出す勇気はない」
数秒の沈黙。このままうやむやになるかと思っていたのに、真下くんは特に動じた様子もなく、至極あっさりと結論を出した。
「……まあ、それはそうだろうな。婚約者を家族に紹介しないというのは、一般的には考えづらい」
婚約者。さらりと放たれたその言葉に耳を疑う。更に「要するにお前の実家まで挨拶に行けばいいんだろ。別に構わない」などと告げられ、いよいよ思考回路がショート寸前まで追い詰められる。鳩が豆鉄砲を食ったような顔の私が、真下くんの目の中に写り込んでいた。ねえ真下くん、今なんて言った? と私が訊き返す前に、彼はいつもの坦々とした声でこちらに告げる。
「行ってやるよお前の実家まで。頭を下げるなり殴られるなりで解決するなら、それが一番手っ取り早い」
「えっ、なっ、……自分の言ってる事分かってる!? 要するに【娘さんを僕にください】的なアレをしないといけないわけだけど」
「だからさっきから言ってるだろうが。別に構わない。挨拶でも何でもしてやるよ。そもそも、この程度の煩わしさも引き受けられない相手と結婚するつもりなのか貴様は? ハハ、そっちこそ結婚って言葉の意味を調べ直すんだな。言っておくが結婚詐欺に真っ先に引っかかるのは貴様の様なアホだぞ。精々気を付けろ」
「ええ……いや、真下くんがそれ言うの……」
「そもそもが貴様は脇が甘すぎる。全人類疑え。基本的に俺以外の人間は詐欺師か人殺しか窃盗犯かひき逃げ犯だと思え」
「い、今まさに自分が結婚詐欺師みたいなこと言ってる癖によくもいけしゃあしゃあと」
「は? だから、さっきからうんざりするほど言ってやってるだろうが。これは詐欺でも冗談でもない」
これは訓練ではない。脳裏に謎の副音声がよぎる。どうやらこれは、訓練じゃなくて本番の様だった。考えている間に雑に一瞬だけ唇が重なった。指先が頬の輪郭をなぞってからすぐに離れる。「苗字名前」真下くんが、私の名前を呼ぶ。味も素っ気もなくシンプルに、まるで物の名前でも呼ぶみたいに。
「人の話はきちんと聞いておけ。再三言うがこれはプロポーズだ。それとも、貴様は数分前に言われた事も覚えてられないのか?」
「な、ま、真下くんさあ。私の事愛してるとかいう割に悪口が凄いよ」
「それはこっちの台詞だよ。お前こそ随分と減らず口が多い。俺のことが死ぬほど好きなくせに」
「確かに真下くんの事は大好きだけど、流石にそれとこれとは話が別だよね?」
子供の頃思ってたのとあまりに違う。こんな脅迫めいたやり方でプロポーズをされて、しかも絆されている私は随分と常識外れなんじゃないだろうか。それでも、「もう一度確認するけど。真下くんは減らず口が多くて結婚詐欺に引っかかりそうないかれた女と、本気で結婚しようと思ってる訳」と訊いてみれば、「ああそうだよ。いかれてて面倒くさくてああ言えばこう言う最高に手間のかかる女と、俺は結婚をするつもりでいる」と何とも腹の立つ言い方で真下くんは断言したのだった。この人はいつも勝手だ。しかも大抵口が悪いし常識外れなところがあるし、その上自分勝手で目つきも悪い。
それなのに私は私で、そんな真下くんの事が好きで好きで仕方ないのだから始末に負えないのかもしれなかった。こんなのって絶対正しくないと思う。だけど私は、好きな人のしたいことは何でもやらせてあげたくなってしまう質なのだ。だから勿論、真下くんが私と結婚をしたいと言うのなら、それを拒む道理もない。我ながら恋愛体質が過ぎる。
……割れ鍋に綴じ蓋というか、棚からぼたもちというか、天井から目薬というか。いつの間にか無慈悲なカウントダウンの声は再開され、圧の強い視線に促された私は、手渡されるままにボールペンを受け取る羽目になった。そして慌てる余りに三回ほど婚姻届けを書き損じて、真下くんに散々罵られた。それが、4月9日の事だった。
そこからは目まぐるしいスピードで事が進んだ。悲壮な顔をした真下くんを実家の両親に紹介し(「娘が婚約者と称した男を連れてくるのは君で10人目だよ」と父が暴露してしまったので、真下くんはムカデに生えたキノコを食べさせられたような顔をした)、逆に私も真下くんの実家の人に紹介され(真下くんが北国出身の人だというのを、私はこの時初めて知った。道理で雪かきが上手いわけだ)、その後役所の深夜窓口まで車を飛ばし、さっさと婚姻届けを提出した。その合間に真下くんの指のサイズを測り、銀座あたりの宝飾品店まで引っ張っていき、滞りなく結婚指輪とやらを作成した。私だけが指輪をはめているのも理不尽なので、きちんと真下くんにも給料三か月分の指輪を押し付けることにしたのだ。婚姻届けを提出するまでが三日、結婚指輪が完成するまでが二週間、合計たったの二週間と三日。結婚式は省略、ハネムーンも省略。スピード婚にも程がある。まるで嵐の中に放り込まれたようだった。あわただしい中であれよあれよと事が進み、気が付いたら。
私が『真下名前』となって、気が付いたら一か月が経過していた。