長編と別設定の短編
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……どうしてこんなことになった。さっきからずっと考えているけど、未だに答えが出ないのだ。
蝉の声が、随分と遠くで聞こえていた。「ほら」有無を言わさぬ声が鼓膜を揺らす。じわじわと体温が上がっていくのは気温のせいなのか、それとも緊張のせいなのか。その強い視線に促されて、仕方なくそれを手に取った。いつものように淡々と、真下くんが私に命令する。「早くしろ。時間が惜しい、さっさと済ませるぞ」
心底気が進まなかったけれど、私に拒否権なんてない。いつもの事だ。真下くんは既に腹をくくったのか、妙に落ち着いているのが嫌だった。細長い袋。その先端をちぎれば、鰹とホタテの豊潤な匂いが香り出す。きっと猫なら大喜びして飛びついただろうそれを、しぶしぶと彼の目の前に差し出してみせる。
「じ、じゃあ、えっと、……どうぞ……」
「……ん」
気のない返事、の後で、ぐい、と、右手首が捕まえられた。身をかがめた真下くんが、私の手の中のモノに顔を寄せる。伏せられたまつげが、私の眼前で揺れていた。よく見ると意外と端正な顔。いつも笑ってるみたいな形の唇が開く。ギザギザの犬歯。ちろりと覗いた舌の赤。いけない物でも見てしまったような気分になって思わず視線を逸らした、ら、案の定鼻で笑われた。
「……それ、どんな味するの」訊いてみたら食い気味に返される。「まずい」散々な感想だった。「分かり切った事を聞くな。匂いがきつい癖に味がなくてその上生ぬるい。人間の食い物じゃない」尤もそれは、当然の感想なのかもしれなかった。私が真下くんに差し出したものーー細長い袋の中身は、某有名ペットフードメーカーの売れ筋商品、その名も【ねこちゅーる】なのだから。
……こうして見るとこの人は、ほんのちょっとだけ猫に似ている。逃避がてら別の事を考えだした脳みそは、情け容赦なく引きずり戻される。と言うのも、真下くんが私の右手を掴む力を強めたからだ。ぎりぎりと容赦なく、跡がつくくらいに握りしめられる右手首。「何をぼさっとしてる」と言いたげな目線。「早くしろよ」とも言いたげな。「まだ愚図つくつもりなら禄でもない目に遭わせてやるからな」とも言いたげな。威圧感に負けてしぶしぶ口を開いて、それから声を絞り出す。「お、……おいしいでちゅか~……」その語尾は、情けなくも無様に揺れて震えた。気まずさと羞恥心と、名状しがたい諸々の感情。それらがごっちゃになって、血液と一緒に身体中を駆け巡る。
どうしてこうなった。本当に、何で私たちは、こんなことになっている。考えずにはいられない。ここに来て理由など探しても、意味をなさないにも関わらず。
真っ白な空間。出口は一つだけ。壁にはおどろおどろしい文字で大きく、【猫なで声で恋人にちゅーるをあげないと丸一日くらい出られない部屋】と書かれていた。つまりそういう事なのだ。現代日本における怪奇現象は、多様化の一途をたどっているらしい。各人各様、十人十色、蓼食う虫も好き好き。それらの言葉は、何も人間の為だけに存在する訳じゃない。人にもいろんな好みがあるように、人ならざるモノにもいろんな好みがあるらしい。彼らの望む捧げものの種類は多岐にわたる。生贄、お供え、怪しげな呪文、儀式、お焚き上げ、お札や祝詞、はたまた、踊りや歌や演武や楽器演奏やラブレターや読書感想文や、……それから例えば、【恋人に猫なで声で猫のおやつを与える奇行】など。
……真下くんは探偵だ。それも、怪異がらみ案件専門の探偵なのだ。馬車馬のごとく働く私の彼氏は、びっくりするほど仕事を選ばない。真下くんの相棒の八敷さんも、同じくらいに仕事を選ばない。そんな彼らにとって夏場は絶好のシーズン、かき入れ時の繁忙期のようだっだ。里帰りしてきた地獄の亡者達のおかげで、真下くんの事務所には捌ききれない程の依頼が殺到していた。ともかく人手不足なのだと、常々彼は言っている。つまり全部夏のせいなのだ。夏で、お盆で、人手不足で。そのせいでこの人とお付き合いをしているだけの私もたまに、怪異調査の為の奇行に付き合う栄誉を与えられたりなんかするのだった。
正直ちっとも嬉しくない。それでももうやるしかない。大好きな彼氏と一緒だとしても、こんな訳の分からない部屋に丸一日閉じ込められるなんて御免だ。……で、冒頭に戻る。
「……おいしいでちゅか~……お、おいしいでちゅね~……」
恥ずかしすぎて死ねる。
渾身の猫撫で声に返事はなかった。ぴちゃ、と、粘着質な音がかすかに空間に響く。指先に生暖かい息がかかる。そのたびに引っ込みそうになる私の手は、真下くんによりがちがちに捕まえられている。人でも殺しそうな物騒な気配を放ちながら、真下くんは私の手の中の物体に舌を這わせては液体を舐めとる。「お、おいしい、でちゅか~……」思考回路は既に停止している。こういう時に言うべき言葉など、勿論一個も思い浮かばない。だから馬鹿の一つ覚えみたいに、同じセリフを繰り返している。それを叱るみたいに、不意に右手の甲を引っかかれた。思わず大げさに震えてしまったのは、勿論バレてしまっただろう。今度はもっとしっかりと。明確な意図をもって、人差し指が私の手の甲をなぞる。
「な、……ちょっと」私の抗議の声なんか、勿論無視されるに決まってるのだ。硬い指先の感触が、妙に艶めかしかった。掴まれたままの手が、じわじわと温度を上げていく。後ずさりしようとした体は引き寄せられて、いよいよ逃げようがない空気が出来上がっていく。目の前で、真下くんの前髪が揺れていた。上目遣いにこちらを見上げる視線。灰色の瞳の中に、自分の顔がうつり込む。こんな時なのに私ときたら、一体何を考えてるんだろう。でも、だけど、だって。
……これってなんだか、結構いやらしい、ような。
ふ、と、笑い声ともため息ともつかない吐息が指先に落ちる。私を見上げているその瞳が、にい、と意地悪気な色を宿して歪む。息を飲んだ私に、愉し気な声が命令する。「続けろよ」つつ、と。見せつけるみたいに舌が這う。袋の先端をたどって私の指先まで。暖かい、熱い、柔らかい感触。まるで食べ物か何かのように、指先が舌で嬲られる。浅く早くなっていく呼吸も、心拍数をあげていく体も、何もかも見抜かれているんだろう。悪意と揶揄いをたっぷりと込めた声色が、私をせかしては追い詰める。
「ほら、何を考えている。続けろよ。さっさとここから出たいんだろ」がり、と指先に噛みつかれたら、無様な位に息が乱れる。嗜虐的な視線。意地悪な、あざけるような、……それでいてとびっきり甘ったるい。「……それとも本当に丸一日、ここで貴様を虐めてやろうか?」絶対にごめんだ。大好きな大好きな彼氏と一緒とはいえ、こんな何もない場所で丸一日過ごすなんて願い下げだ。それなのに真下くんの言う事を真に受けて、一瞬嬉しい感じになってしまう自分が嫌だった。「……真下くんの変態」思わずうめき声を漏らす。真下くんは笑う。それから、笑みを含んだ声が言う。「どっちが」最悪だ、やっぱりめちゃくちゃ顔がいい。じわじわと体が汗ばんでいく。頭の芯がゆるりと融けて、思考までもが散漫になる。
……そんなのはもう全部、夏のせいという事にしておきたい。
部屋の扉が開いたのは、そこからきっかり五分後の事だった。指先までしゃぶられて舐められて嬲られて、声が途切れれば噛みつかれる。たった五分されど五分。真下くんにより散々甚振られた私は既に限界を超えていた。そうして部屋を脱出した後、車の中で無理矢理重ねられた唇はマグロとホタテの味がするのだから最悪だ。「まっずい」だけど私の苦情など涼しい顔で無視されて、更に深くまで口づけられる。漏らした声も、息も、何もかもが食らいつくされて、理性はどろどろに溶けていく。
視界の端っこに写り込むのは真っ青な空に、さんさんと輝く真夏の太陽。生い茂る緑が目にまぶしい。そう、ここは真夏の廃墟なのだ。いちゃつくにしてももう少し場所は選びたい。折角の夏休みの真昼間に、私は一体何をしているのか。一瞬だけ我に返りそうになった。だけど常識的に物事を考えるには、今日の気温は熱すぎる。だから全部夏のせいってことにするのだ。……だって仕方ない、お盆だし、繁忙期だし、しかもこんなに真夏日なのだし。
まるで本物の肉食獣みたいに。獰猛な目で笑う恋人を前に、私はあっさりと思考を放棄したのだった。
蝉の声が、随分と遠くで聞こえていた。「ほら」有無を言わさぬ声が鼓膜を揺らす。じわじわと体温が上がっていくのは気温のせいなのか、それとも緊張のせいなのか。その強い視線に促されて、仕方なくそれを手に取った。いつものように淡々と、真下くんが私に命令する。「早くしろ。時間が惜しい、さっさと済ませるぞ」
心底気が進まなかったけれど、私に拒否権なんてない。いつもの事だ。真下くんは既に腹をくくったのか、妙に落ち着いているのが嫌だった。細長い袋。その先端をちぎれば、鰹とホタテの豊潤な匂いが香り出す。きっと猫なら大喜びして飛びついただろうそれを、しぶしぶと彼の目の前に差し出してみせる。
「じ、じゃあ、えっと、……どうぞ……」
「……ん」
気のない返事、の後で、ぐい、と、右手首が捕まえられた。身をかがめた真下くんが、私の手の中のモノに顔を寄せる。伏せられたまつげが、私の眼前で揺れていた。よく見ると意外と端正な顔。いつも笑ってるみたいな形の唇が開く。ギザギザの犬歯。ちろりと覗いた舌の赤。いけない物でも見てしまったような気分になって思わず視線を逸らした、ら、案の定鼻で笑われた。
「……それ、どんな味するの」訊いてみたら食い気味に返される。「まずい」散々な感想だった。「分かり切った事を聞くな。匂いがきつい癖に味がなくてその上生ぬるい。人間の食い物じゃない」尤もそれは、当然の感想なのかもしれなかった。私が真下くんに差し出したものーー細長い袋の中身は、某有名ペットフードメーカーの売れ筋商品、その名も【ねこちゅーる】なのだから。
……こうして見るとこの人は、ほんのちょっとだけ猫に似ている。逃避がてら別の事を考えだした脳みそは、情け容赦なく引きずり戻される。と言うのも、真下くんが私の右手を掴む力を強めたからだ。ぎりぎりと容赦なく、跡がつくくらいに握りしめられる右手首。「何をぼさっとしてる」と言いたげな目線。「早くしろよ」とも言いたげな。「まだ愚図つくつもりなら禄でもない目に遭わせてやるからな」とも言いたげな。威圧感に負けてしぶしぶ口を開いて、それから声を絞り出す。「お、……おいしいでちゅか~……」その語尾は、情けなくも無様に揺れて震えた。気まずさと羞恥心と、名状しがたい諸々の感情。それらがごっちゃになって、血液と一緒に身体中を駆け巡る。
どうしてこうなった。本当に、何で私たちは、こんなことになっている。考えずにはいられない。ここに来て理由など探しても、意味をなさないにも関わらず。
真っ白な空間。出口は一つだけ。壁にはおどろおどろしい文字で大きく、【猫なで声で恋人にちゅーるをあげないと丸一日くらい出られない部屋】と書かれていた。つまりそういう事なのだ。現代日本における怪奇現象は、多様化の一途をたどっているらしい。各人各様、十人十色、蓼食う虫も好き好き。それらの言葉は、何も人間の為だけに存在する訳じゃない。人にもいろんな好みがあるように、人ならざるモノにもいろんな好みがあるらしい。彼らの望む捧げものの種類は多岐にわたる。生贄、お供え、怪しげな呪文、儀式、お焚き上げ、お札や祝詞、はたまた、踊りや歌や演武や楽器演奏やラブレターや読書感想文や、……それから例えば、【恋人に猫なで声で猫のおやつを与える奇行】など。
……真下くんは探偵だ。それも、怪異がらみ案件専門の探偵なのだ。馬車馬のごとく働く私の彼氏は、びっくりするほど仕事を選ばない。真下くんの相棒の八敷さんも、同じくらいに仕事を選ばない。そんな彼らにとって夏場は絶好のシーズン、かき入れ時の繁忙期のようだっだ。里帰りしてきた地獄の亡者達のおかげで、真下くんの事務所には捌ききれない程の依頼が殺到していた。ともかく人手不足なのだと、常々彼は言っている。つまり全部夏のせいなのだ。夏で、お盆で、人手不足で。そのせいでこの人とお付き合いをしているだけの私もたまに、怪異調査の為の奇行に付き合う栄誉を与えられたりなんかするのだった。
正直ちっとも嬉しくない。それでももうやるしかない。大好きな彼氏と一緒だとしても、こんな訳の分からない部屋に丸一日閉じ込められるなんて御免だ。……で、冒頭に戻る。
「……おいしいでちゅか~……お、おいしいでちゅね~……」
恥ずかしすぎて死ねる。
渾身の猫撫で声に返事はなかった。ぴちゃ、と、粘着質な音がかすかに空間に響く。指先に生暖かい息がかかる。そのたびに引っ込みそうになる私の手は、真下くんによりがちがちに捕まえられている。人でも殺しそうな物騒な気配を放ちながら、真下くんは私の手の中の物体に舌を這わせては液体を舐めとる。「お、おいしい、でちゅか~……」思考回路は既に停止している。こういう時に言うべき言葉など、勿論一個も思い浮かばない。だから馬鹿の一つ覚えみたいに、同じセリフを繰り返している。それを叱るみたいに、不意に右手の甲を引っかかれた。思わず大げさに震えてしまったのは、勿論バレてしまっただろう。今度はもっとしっかりと。明確な意図をもって、人差し指が私の手の甲をなぞる。
「な、……ちょっと」私の抗議の声なんか、勿論無視されるに決まってるのだ。硬い指先の感触が、妙に艶めかしかった。掴まれたままの手が、じわじわと温度を上げていく。後ずさりしようとした体は引き寄せられて、いよいよ逃げようがない空気が出来上がっていく。目の前で、真下くんの前髪が揺れていた。上目遣いにこちらを見上げる視線。灰色の瞳の中に、自分の顔がうつり込む。こんな時なのに私ときたら、一体何を考えてるんだろう。でも、だけど、だって。
……これってなんだか、結構いやらしい、ような。
ふ、と、笑い声ともため息ともつかない吐息が指先に落ちる。私を見上げているその瞳が、にい、と意地悪気な色を宿して歪む。息を飲んだ私に、愉し気な声が命令する。「続けろよ」つつ、と。見せつけるみたいに舌が這う。袋の先端をたどって私の指先まで。暖かい、熱い、柔らかい感触。まるで食べ物か何かのように、指先が舌で嬲られる。浅く早くなっていく呼吸も、心拍数をあげていく体も、何もかも見抜かれているんだろう。悪意と揶揄いをたっぷりと込めた声色が、私をせかしては追い詰める。
「ほら、何を考えている。続けろよ。さっさとここから出たいんだろ」がり、と指先に噛みつかれたら、無様な位に息が乱れる。嗜虐的な視線。意地悪な、あざけるような、……それでいてとびっきり甘ったるい。「……それとも本当に丸一日、ここで貴様を虐めてやろうか?」絶対にごめんだ。大好きな大好きな彼氏と一緒とはいえ、こんな何もない場所で丸一日過ごすなんて願い下げだ。それなのに真下くんの言う事を真に受けて、一瞬嬉しい感じになってしまう自分が嫌だった。「……真下くんの変態」思わずうめき声を漏らす。真下くんは笑う。それから、笑みを含んだ声が言う。「どっちが」最悪だ、やっぱりめちゃくちゃ顔がいい。じわじわと体が汗ばんでいく。頭の芯がゆるりと融けて、思考までもが散漫になる。
……そんなのはもう全部、夏のせいという事にしておきたい。
部屋の扉が開いたのは、そこからきっかり五分後の事だった。指先までしゃぶられて舐められて嬲られて、声が途切れれば噛みつかれる。たった五分されど五分。真下くんにより散々甚振られた私は既に限界を超えていた。そうして部屋を脱出した後、車の中で無理矢理重ねられた唇はマグロとホタテの味がするのだから最悪だ。「まっずい」だけど私の苦情など涼しい顔で無視されて、更に深くまで口づけられる。漏らした声も、息も、何もかもが食らいつくされて、理性はどろどろに溶けていく。
視界の端っこに写り込むのは真っ青な空に、さんさんと輝く真夏の太陽。生い茂る緑が目にまぶしい。そう、ここは真夏の廃墟なのだ。いちゃつくにしてももう少し場所は選びたい。折角の夏休みの真昼間に、私は一体何をしているのか。一瞬だけ我に返りそうになった。だけど常識的に物事を考えるには、今日の気温は熱すぎる。だから全部夏のせいってことにするのだ。……だって仕方ない、お盆だし、繁忙期だし、しかもこんなに真夏日なのだし。
まるで本物の肉食獣みたいに。獰猛な目で笑う恋人を前に、私はあっさりと思考を放棄したのだった。
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