長編と同じ設定の短編
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「お前の望みは何だ……? どうして俺達をここに閉じ込めた……一体何の為に……?」
何の変哲もない週末の夕刻。ぶつぶつと独り言を言う同行者を放置し、真下は空間をぐるりと見渡した。豪華ではあるが特徴のない、某高級ホテルのスイートルームだ。依頼の内容は【部屋に泊まった客の様子がおかしくなる。原因を突き止めてほしい】というものだった。この手のヤマにしては珍しく、今回は死人も怪我人も出ていない。様子がおかしくなるという宿泊客たちは、小一時間後にはけろりとしているという。事象の原因が怪異だとしても、それほど害のあるモノだとも思えなかった。だが先方は手付金に数十万、成功報酬に百五十万を出すという。つまり、大層割のいい仕事ではあった。その分退屈ともいえるかもしれないが、真下悟は仕事を選ばない主義だった。
いつも通り八敷とともに家探しを始めたのが二時間前。自分たちはこの部屋に閉じ込められたらしい。そう気が付いたのが三十分ほど前の事だった。携帯電話の電波は通じない。フロントへの通話も不可能。蹴破ろうとしたドアは、まるで鋼鉄のような頑強さで自分たちを阻む。これも怪奇現象の一種ということなのだろう。それであれば、推理やら考察やらはこいつに任せておくのがいい。そんな真下の思惑通り、八敷が何やら思案を始めてからは十五分ほど経っただろうか。怪異だか幽霊だかの心理なぞに興味はない。【怪異の抱える痛みを取り払いあの世に送ってやる】などという、八敷一男の行動指針も理解しがたい。それでも、この男は妙に鼻が利く。成仏させようが腕ずくで追い払おうが、結果として事象が解決すれば何の問題もない。
つまり真下は真下なりに、八敷の事を信頼しているのだった。……その結果奇行に付き合わされ、手を焼かされる羽目になったとしても。例のごとくかき集めたガラクタが、ずらりと床に並んでいる。それらを前にしゃがみ込む背中を真下は見下ろす。また何か視えたのかもしれない。八敷は数秒黙りこくった後、熱に浮かされたような声で何者かに語り掛ける。「そうか、……そうなのか、それがお前の望みなんだな……」
……どいつもこいつもおかしなモノと関わりやがって。その後ろ姿を眺める内に、余計な事まで思い出しそうになる。ともかく、これは当分かかりそうだ。そう判断して思考を打ち切り、煙草に火をつけた。別に油断しているわけではない。だがこの空間はどうにも緊迫感にかけていた。怪異がらみの現場は大抵、異様な気配に満ちている。霊的な存在に鈍い真下ですらはっきり感知できるほどに。しかしそういった物を、ここでは全く感じないのだ。纏わりつく視線も、刺すような敵意も、この部屋には何一つ存在しない。
「恋愛小説……大量の女性誌の切り抜き……切り抜きの内容はコイバナ特集だ……インターネット掲示板の閲覧記録……それもカップル板の……そして日記……そうだ、これらの共通点は一つしかない……」おまけに部屋から押収した品は、何もかもがガラクタばかりだ。隅々まで清掃された床には血痕一つ存在せず、事件・事故の痕跡は一切見つからなかった。過去の記録も調べ上げたが、この部屋で死傷者は出ていない。事件性は極めて低い、割のいい案件の筈だった。しかし八敷の後姿を眺めながら、真下はふと奇妙な感覚に襲われた。背筋を走る悪寒。恐怖心とも違う。強いて言えば、ムカデに生えたキノコを食わされた時と同じような。
「お前の望みは……お前が俺達をこの部屋に閉じ込めた理由は……」強烈に嫌な予感がする。何かとてつもなく、禄でもない事が起ころうとしている。「そうか分かったぞ真下」その予感を裏付けるかのように、八敷一男は勢いよく振り向いて、こちらを見上げてくる。爛々と輝く瞳。その口元がどこか笑いを含んでいる、ような気がした。おい待て、貴様また禄でもない事を俺にさせようって言うんじゃないだろうな。喉元まで上がってきた言葉が声になる前に、同行者が口を開く。
「この部屋は、この怪異は」そして、よりによって。
「この怪異はコイバナ、つまりいわゆる恋愛関連ののろけ話を聞きたがっている」
「は? ふざけてる場合か貴様」
口をついて出た罵倒など、八敷は全く意に介さない。ああそうだこいつは、どうにも頭のねじが外れていやがるんだ。これまでの記憶が走馬灯のように真下の脳内を回る。禄でもない事ばかりが頭に残っている。この男は、怪異の無念を晴らすためならば案外何にでも手を染めるのだ。不法侵入、窃盗、道路交通法違反。軽犯罪だけでは飽き足らず、時にはこっちまで奇行の片棒を担ぐ羽目になる。正直なところ、ムカデに生えたキノコを食う程度なら割り切っても良い。こっちだって割と手段は択ばない主義だ。だがこいつは今、何と言った。のろけ話がなんだって?
「ふざけるな。大事な事だからもう一度言ってやる。本当にふざけるなよ貴様。俺はさっさと帰りたいんだよ。こんな場所で間抜けた雑談に時間を割いてやる暇はない。それを何だ? 言うに事欠いて。のろけ話だと? いい加減にしろよこの薄鈍が」
「ああそうだよな、週末だもんな。翔から聞いたよ。ワークライフバランスの一環として週末は二十時までに帰ることにしてるらしいじゃないか。ところで苗字さんとは最近どうなんだ、仲良くやってるのか」
「黙れ、貴様は思春期の娘を持つ父親か何かか。おかしな事を言ってる暇があるなら此奴を消滅させる手段を考えろ」
「だから言ってるんじゃないか。残されたすべての手掛かりが指し示しているんだ、この怪異の望みを。見えたんだよ俺には。コイバナに飢えたまま息絶える哀れな女子高生の姿が」
「だからさっきから何を言ってるんだ貴様は」
「良いからこれを見ろ。ほら、日記の最後の一文だ。【普段そんな事言いそうにない堅物がふいにこぼすのろけ話を小一時間聞くまで死ねない】。彼女はどうやら、異様なほどに他人の恋愛話に執着しているらしい。だからあらゆる媒体で情報を漁った。それなのに女子校出身の彼女は、堅物男からののろけ話を聞く機会にだけは恵まれなかった。なあ真下、分かるだろうつまり」
「黙れ、貴様の言うことなど分かってたまるか」
「いいやお前なら分かるはずだ。逃げちゃダメなんだよこういう時は。いいか、普段そんな事言いそうにない堅物がふいにこぼすのろけ話を小一時間聞かせてやれば彼女はきっと」
黙れ。もう一度言いかけたその瞬間、背後から奇妙な音がした。びちゃり。壁に向かって、熟れすぎた果実を叩きつけたような音。振り返り音の正体を確かめて、真下はついに頭を抱えた。その視線の先、真っ白だったはずの壁面一杯に文字が浮かび上がっていた。ぬらぬらと光る、恐らく血液らしき液体。おどろおどろしい字体で【ダ イ セ イ カ イ】とだけ書かれたそれは、怪異からこちらへのメッセージというやつなのだろう。ふざけるな。こんな怪異が居てたまるか。
「いい加減にしろブチ殺すぞ」
「落ち着け真下。余り彼女を刺激しない方がいい」
至極当然、といった顔で宥めてくるこの男の面をぶん殴りたい。何とかその衝動を抑え煙草に火をつける。手が怒りで震えなかったのは最早奇跡だ。深く深く煙を吸い込み、肺の中をニコチンで満たす。それから細く息を吐く。時間稼ぎのように、なるべくゆっくりと。「さっきから吸い過ぎじゃないか」などと言う声は当然無視した。一体全体、どこから俺は道を踏み外した。性懲りもなく考えそうになる脳みそを理性でねじ伏せ、真下は漸く重い口を開く。
「……つまり、貴様はこう言いたい訳か。俺か貴様かどちらかが何らかののろけ話を小一時間喋りまくることで怪異は満足し消滅すると」
「まあ、この場合はお前がのろけ話をするのが最適だろうな。俺にはそういった相手が居ない。残念ながらのろけようがないんだ。でもお前は彼女と付き合いだして三か月目とかだろう。のろけ話の一つや二つくらい軽いはずだ。違うか」
「黙れおっさん。そっちこそ四十年近く生きてりゃ浮いた話の一つや二つあるだろ。聞いてやるからさっさと話せよ。それで怪異が消滅するなら安いもんだろうが」
「いや、それは無理だ。俺はほら、記憶が何て言うかアレだから」
「あ? こういう時だけ都合よく記憶喪失を言い訳にしやがって。もう思い出してんだろ全部。たらたら言い訳してないでさっさと吐けよ」
「真下落ち着け、冷静になって考えてくれ。いまここで俺が思い出話をしたところで、怪異が満足すると思うか?」
知るかよ、と答える前に再度。不快な音とともに壁に文字が浮かび上がる。【マ ン ゾ ク デ キ ナ イ】。それを確かめた瞬間、八敷はなぜか嬉し気な声を上げる。「ほら見ろ、やっぱり」
「……やっぱり、じゃねえんだよ。嬉しそうにすんな八敷一男。こっちを見るな八敷一男。俺は仕事に私生活を持ち込まない主義なんだよ」
「でも、なんだかんだ毎週金曜日だけは絶対に二十時までに家に帰るんだろう? 苗字さんの為に」
「絶対に、じゃない。なるべく帰るようにしてるが案件の状況によっては、……、いや待て。だから何で俺がそんな話をしてやらないといけないんだ。貴様、さっきから面白がってやがるだろ顔がやかましいんだよ」
「いやすまん、面白がってるのは認めるよ。だが考えてもみろ。さっき自分でも言ってたじゃないか。それで怪異が消滅するなら安い物だって」
「……、……、断る。考えろよ。別の方法を」
「考えたさ。だがこいつを満足させるには、選択肢は一つしかないんだよ」
「……………貴様」
「胸に手を当てて考えてくれ真下。お前だってさっさと帰りたいんだろう? 俺とここで、二人きりの週末を迎えたい訳でも無かろうに。なあ、今からのろけ話を開始すれば、きっと二十時までには家に帰れるぞ。俺が保証する。ほら話してみろって。笑わないから。苗字さんのどこが好きなんだ」
畳みかける八敷に同調するかの様に、壁に文字が浮かび上がる。【キ イ テ ア ゲ ル】。こんな怪異が居て溜まるか。もう何度目かもわからない舌打ちとともに真下は思考する。本当に別の手段はないのか。何をしても開かない扉。通じない電波。これでは外部から助けを呼ぶことは不可能だろう。最悪は窓ガラスを割って壁伝いに脱出するという方法もあるがーーここは廃墟ではないのだからそれはまずい。いっそ拳銃でもなんでも使ってドアをぶち壊すか。しかし先ほど散々蹴破ろうとして失敗した。それに、下手に銃など使おうものならこちらが社会的に破滅する。
こいつらの望み通り茶番に付き合ってやったとして、この場所から脱出できるとは限らない。それでも癪な事に、怪異がらみで八敷一男の勘が外れることはめったにない。どうしてこうなった、と性懲りもなく考えそうになる脳みそを、真下はもう一度ねじ伏せる。ここに来て理由など考えても無駄だろう。つまり飲み下すしかないのだ、不快極まりないこの状況を。
ふと鏡に写った自分と目が合う。我ながら確かに人相が悪い。真下くん目つき悪いよ、と、あの女が常々言うセリフが頭に蘇る。最悪だ。脳内に残像がちらつく。さらりと揺れる髪の毛。こちらを振り返って笑う女。それを追い出そうと無駄な努力を仕掛けてやめる。時刻は十八時三十分。こんなのは不本意だ。信条に反する。仕事に私情を持ち込むなど。それでも。
ーーそれでも。確かにこの男の言う通り、あと一時間以内に案件を片付ければ、二十時までに部屋に帰れる。
別に約束をしてる訳じゃない。例え真下が朝帰りをしたところで、苗字名前は何も言いはしないだろう。一週間近く帰らない事だってざらにある。だとしても、あの女は大概なほどに寂しがりなのだ。無論、そんな事はこの状況には一切関係などないのだが。
……迷っている時間が惜しい。クソ、良いだろう話してやるよ。脳内で結論を出し、息を吸ってついでに吐いた。それから一思いに白状する。苦痛も愛せば苦痛ではなくなる、と、常日頃からの信条を念仏のように自分に言い聞かせながら。
「……髪の毛」
しかし真下の言葉を、八敷は間抜けた声で聞き返す。
「うん? いま何と?」
「だから髪の毛だよ。聞いたのはそっちだろうがちゃんと聞き取れ馬鹿。あいつの髪の毛は手触りが無駄にいい。強いて言えばそこが気に入ってる」
「あ、ああ。すまん。それから?」
「顔だって悪くない。飯は、まあ、旨いと言えない事もない」
「そ、そうか、……しかし切り替え早いなお前。もっとごねるかと思ったのに」
「あ? 貴様が話せって言ったんだろうが、何だその言い草は。あいつについて聞きたいんだろ。お望み通り教えてやるからよく聞け。あの女はな、顔はともかく性格が最悪なんだよ。一見安定しているが裏で延々と面倒事を抱え込みやがる。おまけに減らず口がやかましいし大抵は酷い寂しがりだ。酒癖も悪い。本当に手がかかる。ああ最悪だ、何だって俺はあんな女を」
「落ち着け真下。半分くらい悪口になってるぞ。のろけ話をするんだのろけ話を。苗字さんの事が好きなんじゃないのかお前は」
「は? だからのろけ話をしてやってるんだろうが。愛してるに決まってる、当然だろ」
「なあ、さっきから振り幅凄くないかお前?」
「仕方ないだろ、それが事実なんだから。ああそうだよ、貴様の言う通り俺はあいつを愛してるさ。不本意だが認めてやる。最近自覚したことだが、俺はどうも面倒な女が嫌いじゃないらしい。手のかかる女を構い倒すのも嫌いじゃない。最悪だ。あの女は放っておくと野垂れ死にそうな面をするんだよ。それが気にかかって仕方ない。仕事中まであの顔が頭にちらつく始末だ。ああ全く、非効率極まりない。だからいっそのこと週末くらいはあいつを構い倒すことにしたんだよ、ワークライフバランスとかいうやつの一環として」
「真下、お前」
「黙れ」
「お前、開き直ったら意外と臆面もなく惚気るな」
「やかましい。八敷。貴様、後で本当に覚えておけよ。さっきから好き勝手言いやがって。とにかくな、俺はさっさと帰りたいんだよ。週末くらい恋人といちゃついて過ごしたって罰は当たらない筈だろうが。それをのろけ話が何だって? 小一時間聞きたいだと? ふざけやがって。本人に言ってやるならともかく、貴様らにそんな話をしている時点で本末転倒だろうが。これ以上の事は絶対に教えてやらないからな。教えて溜まるか。あの女の何が良いかなんて俺だけが知ってればいいんだよ」
半ば自棄になっていた。それは認めざるを得ない。そんな真下の悪態に答えるかの様に、壁に文字が浮かび上がる。【お兄さん意外と独占欲強いですね】。
「ざけんな。さっきまで片言だったくせにいきなりなんだその口調は。バケモンが馴れ馴れしい口聞きやがって」
【ていうか彼女さんの事めちゃくちゃ好きじゃないですか? ウケる】
「だからさっきから言ってるだろ。愛してるに決まってる」
【マジウケるんですけど。こんな堂々と言い切る人初めて見た。バカップルじゃん】
「バカ……、やかましいな。何でも良いが、満足したんならさっさと開けろ。俺は可及的速やかに帰りたいんだよ」
【いいよ、ごちそうさま。満足したから開けてあげる。末永くお幸せに】
「はあ、そりゃどうも。……クソ、本当になんなんだこの案件は」
びちゃり。ひときわ大きな音が響く。【ば い ば い】。壁一面に浮かび上がった文字は、一瞬の後に溶けるように消えてしまう。怪異の痕跡が跡形もなく消え去った部屋の中。空間から何かが蒸発していく気配がする。八敷にはその正体が見えているのだろうか。「良かったな。満足した様だぞ」などとのたまう声に舌打ちだけを返し、真下は携帯電話を取り出した。先ほどまでが嘘のように電波が入っている。……つまり、怪異は消滅したという事か。それを確かめる前に、八敷が笑いをかみ殺したような顔で視線を寄越す。
「まあ、何だ。お前が幸せそうで何よりだよ、真下」
「………」
「良かったじゃないか、まだ三十分も経ってないぞ。報告は来週で良いらしいし、今日は帰って彼女とのんびりすれば」
「……、いい加減にしないとぶん殴るぞおっさん」
「はは。しかしお前、意外と素直で可愛いな。栄太に習ったんだが、そういうのをツンデレって言うらしい。知ってたか真下」
……八敷一男の事は無論、仕事相手としては信頼している。だがこういう所が耐え難い。
殺意と疲労感が混然一体となって、真下の思考を鈍らせる。ともあれ調査自体はこれで完了した。あとは先方に簡単な一時報告を終え、報告書に顛末をまとめてやればいい。こんな下らない事案をどのように纏めるかなんていうのは、この際考えない事にした。生ぬるい視線を振り切るようにして、この先の段取りを考える。考えながら、のろのろと出口に向かって歩を進める。しかし。
ーーコンコン。
ふいに響き渡るノックの音に、またしても思考は中断される。強烈に嫌な予感がする。真下の確信を裏付けるかのように、軽やかな音とともにドアが開いてそれから。
▽
「……は? 貴様、どこから聞いてやがった……?」
地を這うような低い低い声。ドアを開けた瞬間に目に入ったのは、人でも殺してそうな目つきの真下くんだった。その後ろで八敷さんが面白くってたまらないって感じの顔をしている。なにこれ。釈然としないながらも部屋に足を踏み入れた瞬間に、煙草の匂いに包まれる。あまりにも煙草臭い。煙で空気が部屋が濁って見えるくらいに煙草臭い。幾ら何でも吸い過ぎじゃない? 流石に怒られるんじゃないのこれ? 思ったけど、何となく黙っておくことにした。雰囲気で察してしまったのだ。この部屋で何かとてつもなく、しょうもない事が起きている気配がする。
「どこからって言われてもな。ぶん殴るぞおっさん、って言ってるのは聞こえたけどそれが何なの」
「……、いや、ならいい。忘れろ」
「良くはないよね。人をぶん殴っちゃだめだよ真下くん」
「……名前。そもそもお前は何でここに居る。いつもなら帰ってる時間だろ」
「うん。でも、安岡先生からお使い頼まれたから。八敷さんにお土産と領収書渡しておいてって。一応携帯に電話したんだけどな」
「あのクソババア禄でもないタイミングで禄でもない事を」
「ねえ、私の上司の事クソババアって言うのやめて」
八敷さんの視線が妙に生ぬるい。だけど「何かあったんですか」と聞いてみたら食い気味に「いや何もなかったよ」と否定されてしまった。ちらりと真下くんを伺い見れば、彼は相変わらず苦虫を嚙み潰したような顔で私を見つめている。絶対に余計な事は言うなよ。なんとなく、目がそう言ってるような気がする。なので、了解、の意味を込めて頷いてみた。部屋中を支配する、何とも気まずい空気。真下くんの刺すような視線を感じながら、とりあえず八敷さんにお土産の袋を渡す。
「ちなみに中身は、高級はちみつの詰め合わせだそうです」
「ああ、ありがとう苗字さん……安岡さんにくれぐれもよろしく伝えてくれ」
見た目に反して八敷さんは甘党だ。きっとはちみつも好物なのだろう。まあ、上機嫌の理由はそれだけではないんだろうけど。大事そうにお土産の紙袋を抱えた彼は、心なしか顔色も良い。
……楽しそうで何よりだ。八敷さんは大抵いつも具合が悪そうな顔をしている。安岡先生のお使いで九条館を訪ねると彼は大体、ストレスで胃に穴が開く寸前、みたいな悲壮な表情で私を出迎える。そんな八敷さんがいつになく楽しそうにしているのだから、それはきっと良い事に違いはないのだ。……例えその理由が、限りなく禄でもなさそうな感じだったとしても。
「それじゃ私帰るから、仕事頑張ってね真下くん。八敷さんもあんまり無理しないで下さいね」
とにかくこれで、私の任務は完了した。真下くんはまだ仕事をするのだろうし、部外者はさっさと帰るのが良いだろう。花の金曜日なのだし、まだ十九時にもなってないのだし。そういえばさっき、友達から連絡が来ていたような気もする。飲み会で急遽キャンセルが出たから良かったらどう? 多分そんなような内容だった。今からでも連絡して、合流するのもいいかもしれない。折角の週末に、部屋で一人で過ごすというのはあんまりだ。
そんなことで頭をいっぱいにしながら踵を返したところで手首を掴まれ、何か言う間もなく引っ張り戻される。
「いや待て。何で貴様が一人で帰るんだ」
「……え、何でって言われてもな」
どうやら私は、何らかの選択肢を間違えたらしい。
心底不機嫌そうな顔の真下くん、の後ろで、八敷さんはとうとう顔を逸らして笑いをこらえだす。何なんだこの人たち。頭の中を疑問符で一杯にしているうちにふと、安岡先生の言葉を思い出す。【行ってごらんなさいな。きっと少し面白い事があるはずよ】。今日の帰り際。あの時確かに、先生は私にそう言ったのだった。……丁度今、笑いをこらえている八敷さんみたいな表情で。
「だって、真下くんはまだお仕事残ってるじゃん。ここで一泊するんでしょ」
「……は? 誰が」
「誰がって、真下くんが」
「何のために」
「だから調査の為に」
「誰と」
「誰と、って。八敷さんとに決まってるでしょ」
「クソ、さっきから何を言ってるんだ貴様は」
「何って言われても。安岡とわこ事務所から出した依頼書にはそうやって書いてあったと思うけどな」
「あ、……あの、クソババア」
ふいに何かしらの限界が来たのかもしれない。足元をふらつかせた彼は、ずるずるとその場にしゃがみこむ。心底疲れ切ったみたいなため息。「……ああ。煙草吸いたい……」微かに聞こえたうめき声はしおしおに萎れていて、可哀想だけどなんだか可愛い。
「吸っていいんじゃない? 別に禁煙じゃないんだし」
「吸う訳ないだろ馬鹿」
「だってこの部屋、既にかなり煙草臭いよ。今更我慢したところで遅くない?」
「黙れ」
……いつもながら本当に理不尽だけど、まあ好きにすればいい。私は基本的に、真下くんの行動は全肯定する主義なのだ。私が思い直したところで、八敷さんが言う。
「……お前そういえば、彼女の前で煙草吸わないな」
「……そうかな? あ、でもいっつもベランダで吸ってるかもね、そういえば。何で?」
「……やかましい……」
頭を抱えている彼氏。それを見下ろす彼氏のお友達。週末の高級ホテルの一室で、私たちは一体何をしているんだろう。数々の疑問を脇に放り出したまま、とりあえず私もしゃがんでみる。真下くんと視線が合うように。「ねえ真下くん、こっち向いて」だけど、彼は断固としてこっちを見る気はないみたいだった。少しだけ乱れた髪の毛が嘘みたいにかわいい。その髪を撫でようと右手を伸ばしたら、無言で掌を捕まえられた。だから、その手をにぎにぎしながらゆるく会話を続けている。頭上から八敷さんの(笑いを堪える余りに息も絶え絶えって感じの)声がする。
「……はは、本当に。君が居てくれて良かったよ、ありがとう苗字さん」
「うん、お役に立てたなら良かったですけど。で、結局何があったんですか?」
「いや、すまない。大したことじゃないんだ。ただ予定よりも早く調査が完了しただけで」
「あっ、そうなんですか? じゃあ真下くん、今日帰って来る気だったんだ?」
「…………ああクソ。本当に何だこれは。最悪だ」
「なんだ、連絡くれればごはん作っておいてあげたのに。ねえ、夜ご飯に何食べたい? からあげ?」
「……黙ってろよ名前……」
「ええ? さっきから何で怒ってるの真下くん」
「やかましい。もう全部お前のせいだぞふざけんな」
「はあ、別にふざけてはないけど何かごめん」
「黙れよ本当に。ごめんで済んだら警察はいらねえんだよ」
「いや何なの本当に」
「だから何もなかったって言ってんだろ。ただ調査が早く終わっただけだ」
「ふうん」
基本的に仕事人間の真下くんは、たまにしか部屋に帰ってこない。それでも最近は、週末だけは帰って来て私を構ってくれるようになった。本人曰くワークライフバランスを取ることにしたらしい。だとしてもやっぱり、こんなのは珍しい事態だった。仕事人間のこの人がこんな風に、私を引き留めたがるなんて言うのは。
「……それじゃ、たまには一緒に帰る?」
なるべくいつも通りの声を出そうとしたつもりの声は、言い訳しようがない位に嬉しそうで嫌になる。ふん、と、すねたようなため息。相変わらず顔は上げてくれないまま、真下くんが私の手を握り返す。きっと心底うんざりした顔をしてるんだろう。だけどもう私は知ってしまっているのだった。大抵どんな場合だって、この人は私に甘いという事を。「……、帰ってやるよ仕方ないから」……ほらね。予想通りの答えにほくそえんだら更に舌打ちをかまされた。もう一度大きくため息をついた後、真下くんは漸く顔を上げる。
「お前は先にロビーで待ってろ。……俺は今から、こいつに大事なお話がある」
どす黒い声だった。タールにガソリンをくべてどろどろに煮詰めたような感じの。有無を言わさぬ感じで部屋を追い出され、どのくらい経ったんだろう。ロビーに現れた真下くんは相変わらず疲労困憊の顔をしていたし、八敷さんは相変わらず頬を引きつらせている。笑い転げる十秒前みたいな表情。安岡先生の言うとおり、何か面白い事が(そして真下くんにとっては不快な事が)あったのかもしれなかった。
「それじゃまあ、お幸せに」
「はあ。八敷さんもお幸せに」
別れ際になぜか私たちを祝福し、彼氏のお友達は足取り軽く去っていった。あの部屋で一体何があったのか。しつこく問い詰めて揶揄ってみたいような気がしたけれど、やめておいてあげることにする。折角の週末に、わざわざ藪をつついて蛇を出すみたいな真似はしたくない。「……、帰るぞ」その声に無言でうなずいて、手を繋いでみたら至極当然のように握り返される。幸せ過ぎて吐きそう。思わず頬が緩んでしまう私に、真下くんは呆れた視線を寄越してくる。
……友だちからの連絡は無視しちゃおう。このまままっすぐ家に帰って、のろけてとろけていちゃついて、彼氏と二人きりで過ごすのだ。偶にはいいじゃないか。なんたって今日は、華の金曜日なのだから。そんなことを考えながら、歩調を合わせて表通りを歩いていく。時刻は午後十九時三十分。いつも通りの週末が始まった。
何の変哲もない週末の夕刻。ぶつぶつと独り言を言う同行者を放置し、真下は空間をぐるりと見渡した。豪華ではあるが特徴のない、某高級ホテルのスイートルームだ。依頼の内容は【部屋に泊まった客の様子がおかしくなる。原因を突き止めてほしい】というものだった。この手のヤマにしては珍しく、今回は死人も怪我人も出ていない。様子がおかしくなるという宿泊客たちは、小一時間後にはけろりとしているという。事象の原因が怪異だとしても、それほど害のあるモノだとも思えなかった。だが先方は手付金に数十万、成功報酬に百五十万を出すという。つまり、大層割のいい仕事ではあった。その分退屈ともいえるかもしれないが、真下悟は仕事を選ばない主義だった。
いつも通り八敷とともに家探しを始めたのが二時間前。自分たちはこの部屋に閉じ込められたらしい。そう気が付いたのが三十分ほど前の事だった。携帯電話の電波は通じない。フロントへの通話も不可能。蹴破ろうとしたドアは、まるで鋼鉄のような頑強さで自分たちを阻む。これも怪奇現象の一種ということなのだろう。それであれば、推理やら考察やらはこいつに任せておくのがいい。そんな真下の思惑通り、八敷が何やら思案を始めてからは十五分ほど経っただろうか。怪異だか幽霊だかの心理なぞに興味はない。【怪異の抱える痛みを取り払いあの世に送ってやる】などという、八敷一男の行動指針も理解しがたい。それでも、この男は妙に鼻が利く。成仏させようが腕ずくで追い払おうが、結果として事象が解決すれば何の問題もない。
つまり真下は真下なりに、八敷の事を信頼しているのだった。……その結果奇行に付き合わされ、手を焼かされる羽目になったとしても。例のごとくかき集めたガラクタが、ずらりと床に並んでいる。それらを前にしゃがみ込む背中を真下は見下ろす。また何か視えたのかもしれない。八敷は数秒黙りこくった後、熱に浮かされたような声で何者かに語り掛ける。「そうか、……そうなのか、それがお前の望みなんだな……」
……どいつもこいつもおかしなモノと関わりやがって。その後ろ姿を眺める内に、余計な事まで思い出しそうになる。ともかく、これは当分かかりそうだ。そう判断して思考を打ち切り、煙草に火をつけた。別に油断しているわけではない。だがこの空間はどうにも緊迫感にかけていた。怪異がらみの現場は大抵、異様な気配に満ちている。霊的な存在に鈍い真下ですらはっきり感知できるほどに。しかしそういった物を、ここでは全く感じないのだ。纏わりつく視線も、刺すような敵意も、この部屋には何一つ存在しない。
「恋愛小説……大量の女性誌の切り抜き……切り抜きの内容はコイバナ特集だ……インターネット掲示板の閲覧記録……それもカップル板の……そして日記……そうだ、これらの共通点は一つしかない……」おまけに部屋から押収した品は、何もかもがガラクタばかりだ。隅々まで清掃された床には血痕一つ存在せず、事件・事故の痕跡は一切見つからなかった。過去の記録も調べ上げたが、この部屋で死傷者は出ていない。事件性は極めて低い、割のいい案件の筈だった。しかし八敷の後姿を眺めながら、真下はふと奇妙な感覚に襲われた。背筋を走る悪寒。恐怖心とも違う。強いて言えば、ムカデに生えたキノコを食わされた時と同じような。
「お前の望みは……お前が俺達をこの部屋に閉じ込めた理由は……」強烈に嫌な予感がする。何かとてつもなく、禄でもない事が起ころうとしている。「そうか分かったぞ真下」その予感を裏付けるかのように、八敷一男は勢いよく振り向いて、こちらを見上げてくる。爛々と輝く瞳。その口元がどこか笑いを含んでいる、ような気がした。おい待て、貴様また禄でもない事を俺にさせようって言うんじゃないだろうな。喉元まで上がってきた言葉が声になる前に、同行者が口を開く。
「この部屋は、この怪異は」そして、よりによって。
「この怪異はコイバナ、つまりいわゆる恋愛関連ののろけ話を聞きたがっている」
「は? ふざけてる場合か貴様」
口をついて出た罵倒など、八敷は全く意に介さない。ああそうだこいつは、どうにも頭のねじが外れていやがるんだ。これまでの記憶が走馬灯のように真下の脳内を回る。禄でもない事ばかりが頭に残っている。この男は、怪異の無念を晴らすためならば案外何にでも手を染めるのだ。不法侵入、窃盗、道路交通法違反。軽犯罪だけでは飽き足らず、時にはこっちまで奇行の片棒を担ぐ羽目になる。正直なところ、ムカデに生えたキノコを食う程度なら割り切っても良い。こっちだって割と手段は択ばない主義だ。だがこいつは今、何と言った。のろけ話がなんだって?
「ふざけるな。大事な事だからもう一度言ってやる。本当にふざけるなよ貴様。俺はさっさと帰りたいんだよ。こんな場所で間抜けた雑談に時間を割いてやる暇はない。それを何だ? 言うに事欠いて。のろけ話だと? いい加減にしろよこの薄鈍が」
「ああそうだよな、週末だもんな。翔から聞いたよ。ワークライフバランスの一環として週末は二十時までに帰ることにしてるらしいじゃないか。ところで苗字さんとは最近どうなんだ、仲良くやってるのか」
「黙れ、貴様は思春期の娘を持つ父親か何かか。おかしな事を言ってる暇があるなら此奴を消滅させる手段を考えろ」
「だから言ってるんじゃないか。残されたすべての手掛かりが指し示しているんだ、この怪異の望みを。見えたんだよ俺には。コイバナに飢えたまま息絶える哀れな女子高生の姿が」
「だからさっきから何を言ってるんだ貴様は」
「良いからこれを見ろ。ほら、日記の最後の一文だ。【普段そんな事言いそうにない堅物がふいにこぼすのろけ話を小一時間聞くまで死ねない】。彼女はどうやら、異様なほどに他人の恋愛話に執着しているらしい。だからあらゆる媒体で情報を漁った。それなのに女子校出身の彼女は、堅物男からののろけ話を聞く機会にだけは恵まれなかった。なあ真下、分かるだろうつまり」
「黙れ、貴様の言うことなど分かってたまるか」
「いいやお前なら分かるはずだ。逃げちゃダメなんだよこういう時は。いいか、普段そんな事言いそうにない堅物がふいにこぼすのろけ話を小一時間聞かせてやれば彼女はきっと」
黙れ。もう一度言いかけたその瞬間、背後から奇妙な音がした。びちゃり。壁に向かって、熟れすぎた果実を叩きつけたような音。振り返り音の正体を確かめて、真下はついに頭を抱えた。その視線の先、真っ白だったはずの壁面一杯に文字が浮かび上がっていた。ぬらぬらと光る、恐らく血液らしき液体。おどろおどろしい字体で【ダ イ セ イ カ イ】とだけ書かれたそれは、怪異からこちらへのメッセージというやつなのだろう。ふざけるな。こんな怪異が居てたまるか。
「いい加減にしろブチ殺すぞ」
「落ち着け真下。余り彼女を刺激しない方がいい」
至極当然、といった顔で宥めてくるこの男の面をぶん殴りたい。何とかその衝動を抑え煙草に火をつける。手が怒りで震えなかったのは最早奇跡だ。深く深く煙を吸い込み、肺の中をニコチンで満たす。それから細く息を吐く。時間稼ぎのように、なるべくゆっくりと。「さっきから吸い過ぎじゃないか」などと言う声は当然無視した。一体全体、どこから俺は道を踏み外した。性懲りもなく考えそうになる脳みそを理性でねじ伏せ、真下は漸く重い口を開く。
「……つまり、貴様はこう言いたい訳か。俺か貴様かどちらかが何らかののろけ話を小一時間喋りまくることで怪異は満足し消滅すると」
「まあ、この場合はお前がのろけ話をするのが最適だろうな。俺にはそういった相手が居ない。残念ながらのろけようがないんだ。でもお前は彼女と付き合いだして三か月目とかだろう。のろけ話の一つや二つくらい軽いはずだ。違うか」
「黙れおっさん。そっちこそ四十年近く生きてりゃ浮いた話の一つや二つあるだろ。聞いてやるからさっさと話せよ。それで怪異が消滅するなら安いもんだろうが」
「いや、それは無理だ。俺はほら、記憶が何て言うかアレだから」
「あ? こういう時だけ都合よく記憶喪失を言い訳にしやがって。もう思い出してんだろ全部。たらたら言い訳してないでさっさと吐けよ」
「真下落ち着け、冷静になって考えてくれ。いまここで俺が思い出話をしたところで、怪異が満足すると思うか?」
知るかよ、と答える前に再度。不快な音とともに壁に文字が浮かび上がる。【マ ン ゾ ク デ キ ナ イ】。それを確かめた瞬間、八敷はなぜか嬉し気な声を上げる。「ほら見ろ、やっぱり」
「……やっぱり、じゃねえんだよ。嬉しそうにすんな八敷一男。こっちを見るな八敷一男。俺は仕事に私生活を持ち込まない主義なんだよ」
「でも、なんだかんだ毎週金曜日だけは絶対に二十時までに家に帰るんだろう? 苗字さんの為に」
「絶対に、じゃない。なるべく帰るようにしてるが案件の状況によっては、……、いや待て。だから何で俺がそんな話をしてやらないといけないんだ。貴様、さっきから面白がってやがるだろ顔がやかましいんだよ」
「いやすまん、面白がってるのは認めるよ。だが考えてもみろ。さっき自分でも言ってたじゃないか。それで怪異が消滅するなら安い物だって」
「……、……、断る。考えろよ。別の方法を」
「考えたさ。だがこいつを満足させるには、選択肢は一つしかないんだよ」
「……………貴様」
「胸に手を当てて考えてくれ真下。お前だってさっさと帰りたいんだろう? 俺とここで、二人きりの週末を迎えたい訳でも無かろうに。なあ、今からのろけ話を開始すれば、きっと二十時までには家に帰れるぞ。俺が保証する。ほら話してみろって。笑わないから。苗字さんのどこが好きなんだ」
畳みかける八敷に同調するかの様に、壁に文字が浮かび上がる。【キ イ テ ア ゲ ル】。こんな怪異が居て溜まるか。もう何度目かもわからない舌打ちとともに真下は思考する。本当に別の手段はないのか。何をしても開かない扉。通じない電波。これでは外部から助けを呼ぶことは不可能だろう。最悪は窓ガラスを割って壁伝いに脱出するという方法もあるがーーここは廃墟ではないのだからそれはまずい。いっそ拳銃でもなんでも使ってドアをぶち壊すか。しかし先ほど散々蹴破ろうとして失敗した。それに、下手に銃など使おうものならこちらが社会的に破滅する。
こいつらの望み通り茶番に付き合ってやったとして、この場所から脱出できるとは限らない。それでも癪な事に、怪異がらみで八敷一男の勘が外れることはめったにない。どうしてこうなった、と性懲りもなく考えそうになる脳みそを、真下はもう一度ねじ伏せる。ここに来て理由など考えても無駄だろう。つまり飲み下すしかないのだ、不快極まりないこの状況を。
ふと鏡に写った自分と目が合う。我ながら確かに人相が悪い。真下くん目つき悪いよ、と、あの女が常々言うセリフが頭に蘇る。最悪だ。脳内に残像がちらつく。さらりと揺れる髪の毛。こちらを振り返って笑う女。それを追い出そうと無駄な努力を仕掛けてやめる。時刻は十八時三十分。こんなのは不本意だ。信条に反する。仕事に私情を持ち込むなど。それでも。
ーーそれでも。確かにこの男の言う通り、あと一時間以内に案件を片付ければ、二十時までに部屋に帰れる。
別に約束をしてる訳じゃない。例え真下が朝帰りをしたところで、苗字名前は何も言いはしないだろう。一週間近く帰らない事だってざらにある。だとしても、あの女は大概なほどに寂しがりなのだ。無論、そんな事はこの状況には一切関係などないのだが。
……迷っている時間が惜しい。クソ、良いだろう話してやるよ。脳内で結論を出し、息を吸ってついでに吐いた。それから一思いに白状する。苦痛も愛せば苦痛ではなくなる、と、常日頃からの信条を念仏のように自分に言い聞かせながら。
「……髪の毛」
しかし真下の言葉を、八敷は間抜けた声で聞き返す。
「うん? いま何と?」
「だから髪の毛だよ。聞いたのはそっちだろうがちゃんと聞き取れ馬鹿。あいつの髪の毛は手触りが無駄にいい。強いて言えばそこが気に入ってる」
「あ、ああ。すまん。それから?」
「顔だって悪くない。飯は、まあ、旨いと言えない事もない」
「そ、そうか、……しかし切り替え早いなお前。もっとごねるかと思ったのに」
「あ? 貴様が話せって言ったんだろうが、何だその言い草は。あいつについて聞きたいんだろ。お望み通り教えてやるからよく聞け。あの女はな、顔はともかく性格が最悪なんだよ。一見安定しているが裏で延々と面倒事を抱え込みやがる。おまけに減らず口がやかましいし大抵は酷い寂しがりだ。酒癖も悪い。本当に手がかかる。ああ最悪だ、何だって俺はあんな女を」
「落ち着け真下。半分くらい悪口になってるぞ。のろけ話をするんだのろけ話を。苗字さんの事が好きなんじゃないのかお前は」
「は? だからのろけ話をしてやってるんだろうが。愛してるに決まってる、当然だろ」
「なあ、さっきから振り幅凄くないかお前?」
「仕方ないだろ、それが事実なんだから。ああそうだよ、貴様の言う通り俺はあいつを愛してるさ。不本意だが認めてやる。最近自覚したことだが、俺はどうも面倒な女が嫌いじゃないらしい。手のかかる女を構い倒すのも嫌いじゃない。最悪だ。あの女は放っておくと野垂れ死にそうな面をするんだよ。それが気にかかって仕方ない。仕事中まであの顔が頭にちらつく始末だ。ああ全く、非効率極まりない。だからいっそのこと週末くらいはあいつを構い倒すことにしたんだよ、ワークライフバランスとかいうやつの一環として」
「真下、お前」
「黙れ」
「お前、開き直ったら意外と臆面もなく惚気るな」
「やかましい。八敷。貴様、後で本当に覚えておけよ。さっきから好き勝手言いやがって。とにかくな、俺はさっさと帰りたいんだよ。週末くらい恋人といちゃついて過ごしたって罰は当たらない筈だろうが。それをのろけ話が何だって? 小一時間聞きたいだと? ふざけやがって。本人に言ってやるならともかく、貴様らにそんな話をしている時点で本末転倒だろうが。これ以上の事は絶対に教えてやらないからな。教えて溜まるか。あの女の何が良いかなんて俺だけが知ってればいいんだよ」
半ば自棄になっていた。それは認めざるを得ない。そんな真下の悪態に答えるかの様に、壁に文字が浮かび上がる。【お兄さん意外と独占欲強いですね】。
「ざけんな。さっきまで片言だったくせにいきなりなんだその口調は。バケモンが馴れ馴れしい口聞きやがって」
【ていうか彼女さんの事めちゃくちゃ好きじゃないですか? ウケる】
「だからさっきから言ってるだろ。愛してるに決まってる」
【マジウケるんですけど。こんな堂々と言い切る人初めて見た。バカップルじゃん】
「バカ……、やかましいな。何でも良いが、満足したんならさっさと開けろ。俺は可及的速やかに帰りたいんだよ」
【いいよ、ごちそうさま。満足したから開けてあげる。末永くお幸せに】
「はあ、そりゃどうも。……クソ、本当になんなんだこの案件は」
びちゃり。ひときわ大きな音が響く。【ば い ば い】。壁一面に浮かび上がった文字は、一瞬の後に溶けるように消えてしまう。怪異の痕跡が跡形もなく消え去った部屋の中。空間から何かが蒸発していく気配がする。八敷にはその正体が見えているのだろうか。「良かったな。満足した様だぞ」などとのたまう声に舌打ちだけを返し、真下は携帯電話を取り出した。先ほどまでが嘘のように電波が入っている。……つまり、怪異は消滅したという事か。それを確かめる前に、八敷が笑いをかみ殺したような顔で視線を寄越す。
「まあ、何だ。お前が幸せそうで何よりだよ、真下」
「………」
「良かったじゃないか、まだ三十分も経ってないぞ。報告は来週で良いらしいし、今日は帰って彼女とのんびりすれば」
「……、いい加減にしないとぶん殴るぞおっさん」
「はは。しかしお前、意外と素直で可愛いな。栄太に習ったんだが、そういうのをツンデレって言うらしい。知ってたか真下」
……八敷一男の事は無論、仕事相手としては信頼している。だがこういう所が耐え難い。
殺意と疲労感が混然一体となって、真下の思考を鈍らせる。ともあれ調査自体はこれで完了した。あとは先方に簡単な一時報告を終え、報告書に顛末をまとめてやればいい。こんな下らない事案をどのように纏めるかなんていうのは、この際考えない事にした。生ぬるい視線を振り切るようにして、この先の段取りを考える。考えながら、のろのろと出口に向かって歩を進める。しかし。
ーーコンコン。
ふいに響き渡るノックの音に、またしても思考は中断される。強烈に嫌な予感がする。真下の確信を裏付けるかのように、軽やかな音とともにドアが開いてそれから。
▽
「……は? 貴様、どこから聞いてやがった……?」
地を這うような低い低い声。ドアを開けた瞬間に目に入ったのは、人でも殺してそうな目つきの真下くんだった。その後ろで八敷さんが面白くってたまらないって感じの顔をしている。なにこれ。釈然としないながらも部屋に足を踏み入れた瞬間に、煙草の匂いに包まれる。あまりにも煙草臭い。煙で空気が部屋が濁って見えるくらいに煙草臭い。幾ら何でも吸い過ぎじゃない? 流石に怒られるんじゃないのこれ? 思ったけど、何となく黙っておくことにした。雰囲気で察してしまったのだ。この部屋で何かとてつもなく、しょうもない事が起きている気配がする。
「どこからって言われてもな。ぶん殴るぞおっさん、って言ってるのは聞こえたけどそれが何なの」
「……、いや、ならいい。忘れろ」
「良くはないよね。人をぶん殴っちゃだめだよ真下くん」
「……名前。そもそもお前は何でここに居る。いつもなら帰ってる時間だろ」
「うん。でも、安岡先生からお使い頼まれたから。八敷さんにお土産と領収書渡しておいてって。一応携帯に電話したんだけどな」
「あのクソババア禄でもないタイミングで禄でもない事を」
「ねえ、私の上司の事クソババアって言うのやめて」
八敷さんの視線が妙に生ぬるい。だけど「何かあったんですか」と聞いてみたら食い気味に「いや何もなかったよ」と否定されてしまった。ちらりと真下くんを伺い見れば、彼は相変わらず苦虫を嚙み潰したような顔で私を見つめている。絶対に余計な事は言うなよ。なんとなく、目がそう言ってるような気がする。なので、了解、の意味を込めて頷いてみた。部屋中を支配する、何とも気まずい空気。真下くんの刺すような視線を感じながら、とりあえず八敷さんにお土産の袋を渡す。
「ちなみに中身は、高級はちみつの詰め合わせだそうです」
「ああ、ありがとう苗字さん……安岡さんにくれぐれもよろしく伝えてくれ」
見た目に反して八敷さんは甘党だ。きっとはちみつも好物なのだろう。まあ、上機嫌の理由はそれだけではないんだろうけど。大事そうにお土産の紙袋を抱えた彼は、心なしか顔色も良い。
……楽しそうで何よりだ。八敷さんは大抵いつも具合が悪そうな顔をしている。安岡先生のお使いで九条館を訪ねると彼は大体、ストレスで胃に穴が開く寸前、みたいな悲壮な表情で私を出迎える。そんな八敷さんがいつになく楽しそうにしているのだから、それはきっと良い事に違いはないのだ。……例えその理由が、限りなく禄でもなさそうな感じだったとしても。
「それじゃ私帰るから、仕事頑張ってね真下くん。八敷さんもあんまり無理しないで下さいね」
とにかくこれで、私の任務は完了した。真下くんはまだ仕事をするのだろうし、部外者はさっさと帰るのが良いだろう。花の金曜日なのだし、まだ十九時にもなってないのだし。そういえばさっき、友達から連絡が来ていたような気もする。飲み会で急遽キャンセルが出たから良かったらどう? 多分そんなような内容だった。今からでも連絡して、合流するのもいいかもしれない。折角の週末に、部屋で一人で過ごすというのはあんまりだ。
そんなことで頭をいっぱいにしながら踵を返したところで手首を掴まれ、何か言う間もなく引っ張り戻される。
「いや待て。何で貴様が一人で帰るんだ」
「……え、何でって言われてもな」
どうやら私は、何らかの選択肢を間違えたらしい。
心底不機嫌そうな顔の真下くん、の後ろで、八敷さんはとうとう顔を逸らして笑いをこらえだす。何なんだこの人たち。頭の中を疑問符で一杯にしているうちにふと、安岡先生の言葉を思い出す。【行ってごらんなさいな。きっと少し面白い事があるはずよ】。今日の帰り際。あの時確かに、先生は私にそう言ったのだった。……丁度今、笑いをこらえている八敷さんみたいな表情で。
「だって、真下くんはまだお仕事残ってるじゃん。ここで一泊するんでしょ」
「……は? 誰が」
「誰がって、真下くんが」
「何のために」
「だから調査の為に」
「誰と」
「誰と、って。八敷さんとに決まってるでしょ」
「クソ、さっきから何を言ってるんだ貴様は」
「何って言われても。安岡とわこ事務所から出した依頼書にはそうやって書いてあったと思うけどな」
「あ、……あの、クソババア」
ふいに何かしらの限界が来たのかもしれない。足元をふらつかせた彼は、ずるずるとその場にしゃがみこむ。心底疲れ切ったみたいなため息。「……ああ。煙草吸いたい……」微かに聞こえたうめき声はしおしおに萎れていて、可哀想だけどなんだか可愛い。
「吸っていいんじゃない? 別に禁煙じゃないんだし」
「吸う訳ないだろ馬鹿」
「だってこの部屋、既にかなり煙草臭いよ。今更我慢したところで遅くない?」
「黙れ」
……いつもながら本当に理不尽だけど、まあ好きにすればいい。私は基本的に、真下くんの行動は全肯定する主義なのだ。私が思い直したところで、八敷さんが言う。
「……お前そういえば、彼女の前で煙草吸わないな」
「……そうかな? あ、でもいっつもベランダで吸ってるかもね、そういえば。何で?」
「……やかましい……」
頭を抱えている彼氏。それを見下ろす彼氏のお友達。週末の高級ホテルの一室で、私たちは一体何をしているんだろう。数々の疑問を脇に放り出したまま、とりあえず私もしゃがんでみる。真下くんと視線が合うように。「ねえ真下くん、こっち向いて」だけど、彼は断固としてこっちを見る気はないみたいだった。少しだけ乱れた髪の毛が嘘みたいにかわいい。その髪を撫でようと右手を伸ばしたら、無言で掌を捕まえられた。だから、その手をにぎにぎしながらゆるく会話を続けている。頭上から八敷さんの(笑いを堪える余りに息も絶え絶えって感じの)声がする。
「……はは、本当に。君が居てくれて良かったよ、ありがとう苗字さん」
「うん、お役に立てたなら良かったですけど。で、結局何があったんですか?」
「いや、すまない。大したことじゃないんだ。ただ予定よりも早く調査が完了しただけで」
「あっ、そうなんですか? じゃあ真下くん、今日帰って来る気だったんだ?」
「…………ああクソ。本当に何だこれは。最悪だ」
「なんだ、連絡くれればごはん作っておいてあげたのに。ねえ、夜ご飯に何食べたい? からあげ?」
「……黙ってろよ名前……」
「ええ? さっきから何で怒ってるの真下くん」
「やかましい。もう全部お前のせいだぞふざけんな」
「はあ、別にふざけてはないけど何かごめん」
「黙れよ本当に。ごめんで済んだら警察はいらねえんだよ」
「いや何なの本当に」
「だから何もなかったって言ってんだろ。ただ調査が早く終わっただけだ」
「ふうん」
基本的に仕事人間の真下くんは、たまにしか部屋に帰ってこない。それでも最近は、週末だけは帰って来て私を構ってくれるようになった。本人曰くワークライフバランスを取ることにしたらしい。だとしてもやっぱり、こんなのは珍しい事態だった。仕事人間のこの人がこんな風に、私を引き留めたがるなんて言うのは。
「……それじゃ、たまには一緒に帰る?」
なるべくいつも通りの声を出そうとしたつもりの声は、言い訳しようがない位に嬉しそうで嫌になる。ふん、と、すねたようなため息。相変わらず顔は上げてくれないまま、真下くんが私の手を握り返す。きっと心底うんざりした顔をしてるんだろう。だけどもう私は知ってしまっているのだった。大抵どんな場合だって、この人は私に甘いという事を。「……、帰ってやるよ仕方ないから」……ほらね。予想通りの答えにほくそえんだら更に舌打ちをかまされた。もう一度大きくため息をついた後、真下くんは漸く顔を上げる。
「お前は先にロビーで待ってろ。……俺は今から、こいつに大事なお話がある」
どす黒い声だった。タールにガソリンをくべてどろどろに煮詰めたような感じの。有無を言わさぬ感じで部屋を追い出され、どのくらい経ったんだろう。ロビーに現れた真下くんは相変わらず疲労困憊の顔をしていたし、八敷さんは相変わらず頬を引きつらせている。笑い転げる十秒前みたいな表情。安岡先生の言うとおり、何か面白い事が(そして真下くんにとっては不快な事が)あったのかもしれなかった。
「それじゃまあ、お幸せに」
「はあ。八敷さんもお幸せに」
別れ際になぜか私たちを祝福し、彼氏のお友達は足取り軽く去っていった。あの部屋で一体何があったのか。しつこく問い詰めて揶揄ってみたいような気がしたけれど、やめておいてあげることにする。折角の週末に、わざわざ藪をつついて蛇を出すみたいな真似はしたくない。「……、帰るぞ」その声に無言でうなずいて、手を繋いでみたら至極当然のように握り返される。幸せ過ぎて吐きそう。思わず頬が緩んでしまう私に、真下くんは呆れた視線を寄越してくる。
……友だちからの連絡は無視しちゃおう。このまままっすぐ家に帰って、のろけてとろけていちゃついて、彼氏と二人きりで過ごすのだ。偶にはいいじゃないか。なんたって今日は、華の金曜日なのだから。そんなことを考えながら、歩調を合わせて表通りを歩いていく。時刻は午後十九時三十分。いつも通りの週末が始まった。