長編と同じ設定の短編
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扉の向こうで、聞きなれた足音がした。そんな気がして目が覚めたのだ。だから玄関まで確かめに行ってみた、ら、ドアを開けるや否や真下くんがなだれ込んできて、そのままずるずると私にもたれかかる。ガチャン。ドアの閉まる音と、鍵をかける音だけが空間に響いた。倒れ込んでくる身体を何とか支えようと頑張ってみたのは五秒くらい。唐突に限界が来た私は体重をかけられるままに座り込んで、倒れ込んで、それで。
……とりあえず、何だか妙なことになっている。それだけは事実なのだった。
水曜日の深夜、多分午前二時くらい。何でか知らないけれど、今私は久しぶりに帰宅した彼氏により玄関先で押し倒されている。
「真下くん」
「………」
「ねえってば、真下くん?」
「……黙れ……」
自分が押し倒してきた癖にこの言いようである。この人は本当にいつも勝手だ。
背中に触れる床が、硬くて冷たかった。私に覆いかぶさる体からは外の気配がする。ひんやりと冷え切った冬の、真夜中の空気。だけど触ってみた真下くんの首筋はあったかい、と言うよりも寧ろ熱い位で、そのうえ結構酒臭い。彼が強かに酔っている事だけは判明したけど、それ以外は何も分からない。真下くんはこうみえても理性的な人なので、こんなのは珍しい事態だった。
「ちょっと」「何なの」「重いよ」などの私の言葉に返事も寄越さず、彼は数分程無言で私を抱きしめ続けた。それから唐突に「……ああくそ、おちつく」などとこぼすので本当に訳が分からなくなる。仕事大変なんだろうな、くらいは察したけど、それも珍しい事態だった。基本的に仕事人間の真下くんが、仕事でこんなに弱るなんていうのは。
「ねえ本当に何、どうしたの真下くん」
「…………どうもしない」
「あっ、もしかして事務所の経営上手く行ってないの? 最悪は私が養ってあげてもいいけどどうする?」
「やかましいな。仕事は頗る順調だしおかげさまで心霊絡みの下らない依頼が山積みだよ。正直なところウチの事務所はめちゃくちゃ儲かってるし笑いが止まらない。誰が貴様になんか養われるか馬鹿」
「ああそう……じゃあまあ良いけど……」
「……よくない」
「よくないの? ふうん」
「お前な」
「うん?」
「何があったか位聞けよ最低限。質問の仕方がなってないんだよ、もっと根性を持って問い詰めろ。相手が音を上げるまでしつこく聞きまくるんだよこういう時は。ふうん、で済ますな」
「ええ? 真下くんが聞いてほしいなら聞くけどさ。聞いてほしいの?」
「……ふん。生憎守秘義務で答えられないんだよ、残念だったな」
「そっかあ」
何とも納得がいかない話の展開だったけど、酔っぱらいにそんなことを言っても無駄なのかもしれなかった。真下くんが肩口に顔をうずめてくるので、何となく髪の毛を撫でている。無駄に綺麗な後頭部の形。背中に腕を回して力を籠めたら、その体が軽く震える。ほんの少しだけ掠れた声。何か大変な事があったんだろうけど、聞いたところで答えが返って来るとも思わない。守秘義務とか言うやつがあるらしいし。だからただ寝転がったまま、どうでもいいような話をすることにした。近所の野良猫の事とか。コンビニで見かけた新発売のお菓子の事とか。テレビの星占いで三日連続最下位だったこととか。何のレスポンスもない一方的な会話。真下くんは私の腕の中で微動だにしない。一応「寝たの?」と聞いてみたら、「寝るわけないだろこんなところで」と意外としっかりした声が返って来る。
「なら良いけどさ、……ちょっと寒いんだよね正直。あといい加減本当に重い」
言った瞬間に、舌打ちとともに腕に力を込められて、体が持ち上げられる。え、と思う間に視界が反転した。つまり体制が逆転したらしい、と気づいたのは数秒後だった。「背中痛くないの」、聞いてみたら返事の代わりにもう一度舌打ちが返って来る。それから、これで文句ないだろ、と言わんばかりにぎゅうぎゅうに抱きしめられた。押し付けられた胸元の体温が心地いい。かすかな心臓の音に、煙草の香り。まるで何かから、私を守るみたいに。後頭部に回された手が、ゆるゆると私の髪の毛を梳いていく。頭のてっぺんから毛先まで。
「真下くんっていっつも私の髪の毛触るよね。もしかして髪の毛フェチなの?」何の気なく聞いてみた言葉には「黙れ馬鹿」と端的な罵倒が返ってきた。ひょっとして図星だったのだろうか。そろそろ顔が見たいな。ぼんやりとそう思ったけど、どうやら彼は私を開放する気はないみたいだ。なのでとりあえず、腕の中で大人しくしておくことにする。
「ねえ、真下くん」
「……、何だよ」
「真下くんって酔っ払うと結構面倒臭いよね」
「酔ってない」
「酔ってるじゃん、お酒臭いよ」
「やかましいな、酔ってないし疲れてもないし落ち込んでもない」
「そうなの?」
「当たり前だろうがそんなの。仕事に私情は持ち込まない主義なんだよ俺は。最悪な現場もクソみたいな人間も見慣れてるしこんなのは慣れっこなんだよ当たり前だ」
血を吐くような、絞り出すような、低い低い声が言う。ああこれは、いよいよ本当に何かあったな。それもかなり大変な事が。確信してから、泣きたいような笑いたいような、よくわからない感情に襲われる。仕事に私情は持ち込まない主義、なんてよく言うよ。思わず口走りそうになった言葉はひそかに呑み込んだ。見慣れてる。その言葉が嘘だなんて思わない。だけどきっと、見慣れてるからって、心が摩耗しないなんて事はないのだ。
「……真下くんてさあ」
「……」
「結構真面目でちゃんとしてるよね」
「……やかましい」
何を見たの、なんて、勿論聞かない。どこに行って何をして何を言って、何を聞いてきたのかなんてことは。それでも分かることはあるのだ。
出会った頃から今までずっとそうだった。真下くんは物腰と態度の割に、随分と潔癖で真面目で優しいのだ。多分本人が思ってるよりもずっと。理不尽なことも残酷なことも、その都度彼はきちんと受け止めて飲み下して消化する。そうやって何もかも一人で呑み込んで、さっさと片付けてしまおうとする。だから私に出来ることなんてたかが知れてるんだろう。そんなに辛いなら逃げちゃえば、なんて無責任な事を言ったところで、真下くんは怒るだけだから。
真下くんのそういう所が私にはまぶしくて愛おしくて、少しだけ憎たらしい。私が代わりに痛みを被ってあげることも、一緒に逃げてあげることもできはしない。だとしても、精々傍に居るくらいはできるだろうか。スーツの胸のあたりに顔を押し付けながら、ぼんやりと考える。それからとりあえず、「……、真下くんのそういうとこ好きだよ、私」といつものように言ってみれば、当たり前みたいに「知ってる」とだけ返されて笑った。いつもそうだ。私の考えることなんて、妙に敏いこの人には全部分かられてしまう。
「ねえ本当にさ。真下くんのそういうとこ大好きだよ、全部」
「……、そうかよ」
「うん、そうだよ」
この人の近くは、空気が綺麗なのだ。それはきっと真下くんの魂が上等なせいなんだろう、といつも思う。強くてしなやかで潔癖で折れない。何もかもが違うのだ。どこか大事なところ、核心の部分が欠落して空っぽで、すかすかの私とは。だけどそんなことは勿論言わないでおく。これ以上真下くんを怒らせるわけにはいかないので。
「顔も声も性格も。態度悪い癖に変に真面目なところも、ちゃんとしてるところも、めちゃくちゃ安全運転なところも、意外と字が綺麗なところも、いっぱいご飯食べてくれるところも、完全にワーカホリックなところも、雪かきうまいところも、免許証の写真の目つきやばいところも、意外と酒癖悪いところも、料理へたくそすぎてやきそばすら上手につくれないところも、雑なところも、納豆のタレの袋ちゃんと破けないところも、【こちら側のどこからでも開けられます】って書いてあるラーメンのかやくの袋を一度たりとも綺麗に開けられたことなさそうなところも、たまにハンガーの事【えもんかけ】って言ってるじじくさいところも、意外と効率厨なところも全部好きだよ」
「おい後半殆ど悪口だろふざけるな。あと【コウリツチュウ】って何だその妙な単語は」
「この間栄太さんに習った。真下くんみたいな人の事をネットの掲示板で効率厨って言うんだって」
「……は? 貴様らいつの間に知り合った?」
「この間安岡先生のお使いで九条館行った時だよ。あの人面白いよね、私好きだなああいう人」
「……貴様、本当に見境がないな。俺だけじゃ飽きたらず中松にまで手を付けるつもりか」
「え、いきなり何。真下くんて嫉妬とかする方だっけ?」
「するわけないだろ馬鹿」
「ああそう? まあ良いけど。栄太さん良い人だね、推しの話ですごく盛り上がった」
「だから妙な単語を使うな、【オシ】ってなんだそれは」
「安心していいよ、私の推しは一生真下くんだから」
「くそ、さっきから訳の分からん事ばかり言いやがって。本当にふざけるなよ貴様」
「だからふざけてないって、真下くんの納豆のタレの袋は私が開けてあげるから大丈夫だよ」
「……毎度毎度、貴様は俺の事を何だと思ってる?」
「真下くんだと思ってる」
「……、お前に真っ当な答えを期待した俺が馬鹿だったよ」
「いつもの事だけど真下くんてほんとに失礼だよね」
「黙れよ。貴様にだけは言われたくない」
「……まあいいや。ところで眠いんだけど。いい加減中入らない? 私たちこんなところで何してるのほんとに」
「うるさいな知るかよ」
「知るかよ、じゃないよ真下くんしっかりして。玄関なんかで寝たら風邪引くよ」
「……」
「真下くんてば」
「…………、名前」
「うん、何?」
「……ただいま」
「ええ? うん、お帰り」
唐突にぶつけられた言葉に笑ったらまたしても舌打ちされた。きっと心底憎々し気な顔をしてるんだろう、と予想はできたけど、顔を上げようとしたら全力で封じ込められて、やっぱり抱きしめられたまま動けないのだ。「やめてよプロレスじゃないんだから」と突っ込んだら「お前、本当にもう黙れ。こういう時くらいは大人しく抱きしめられて然るべきだろうか馬鹿」などと、真下くんは心底いらついた声を出す。言われた通りに大人しくしてあげているうちに、なんと彼はすうすうと寝息を立て始めるので本当に困った。この人はいつも勝手だ。
スーツ皺になるよ。ここ玄関だし靴だって履いたままだよ。聞いてみたけど勿論答えなんて帰ってこないのだ。こういう時の真下くんは寝たらてこでも起きないという事は、もう十二分に知っていた。なので仕方なく腕の中で力を抜いて、私も目をつぶってみる。この人の抱える痛みが、明日にはもう少しましになってますように、なんて誰かに願ったりなんかしながら。
▽
「……最悪だ。何だこれは」
「だから言ったんじゃん。玄関なんかで寝ると風邪引くよって」
「だから何で俺が風邪を引いて貴様がぴんぴんしてるんだおかしいだろう」
「あはは何でだろうねえ? やっぱ鍛え方が違うんじゃないの」
「あ? 黙れ」
ストレートにも程がある暴言に笑ってしまう。「そんな顔で睨んでも怖くないよ真下くん」言いながらいつかのお返しのように、真下くんの口の中に体温計を突っ込んで熱を測ってあげることにする。きっかり38度。珍しく弱った様子の真下くんがそれでも「名前、お前何してるんだ仕事行けよ」などと健気な事を言うので、「ワークライフバランスを取ることにした」と答えてあげたら思いっきり舌打ちをされた。そんな状態ですごまれても、本当に驚くほど全然怖くない。恐くないどころか寧ろ可愛い。世界一可愛いと言っても良い位に。
普段はセットされてる前髪を下ろしたら、真下くんは意外と童顔だ。ぐずぐずに潤んだ目はいかにも病人って感じでいたいけだし、いつもよりも掠れた声は少しだけ痛々しい。きっと、元々疲れていたんだろう。私の忠告も聞かず真冬の玄関でガチ寝した彼は、案の定風邪を引いたのだった。
「とりあえず起きる?」と聞いてみたら、案外素直に「……起きる」と声が返って来る。のろのろと体を起こした彼がそのままこちらに寄りかかるので、きっちり受け止めて抱きしめてあげた。昨日から引き続き、体温が高い。「……うう」かすかなうめき声、の後に、両手が私にまとわりついてくる。「本当にさいあくだ、頭ががんがんする」ろれつの回ってない真下くんは、まだほんのりお酒臭い。
「風邪と、多分二日酔いだよね。ねえ、結局昨日ってどのくらい飲んだの?」
「……、教えない」
「ふうん。昨日の感じだと真下くんて意外とお酒弱いんだね。見た目そんなんなのに。かわいい」
「……くそ、人が弱ってると思って好き勝手言いやがって」
「だから褒めてるんじゃん。かわいいよ。弱ってる真下くんも世界一可愛い」
「……貴様本当に覚えてろよ、次飲むときは絶対に潰してやるからな」
「ええ? つぶれるわけないじゃん。私は自分の限界ってものを分かってるからさ。誰かさんとは違って」
「は、よく言うよな。あの時あれだけべろべろに酔いつぶれてた女が」
「……まあね。でも、今とあの時は違うじゃん」
「ふん、どうだか。俺には大差ないように見えるが」
「放っておくと野垂れ死にそうって? ……でも、今は真下くんの方が野垂れ死にそうに見えるよね」
喋りながらゆるゆると、真下くんの頭を撫でている。硬い髪の毛の感触。首筋に息がかかってこそばゆい。大きな手に指を絡めて握りしめながら考える。確かにこの人の傍に居られなくなったら、私は本当に野垂れ死ぬのかもしれない、なんて。
真下くんの隣は空気が綺麗だ。そう気がついたのは、随分前のことだった。本当は、出会った時にはもう知っていたのだ。自分の中の何かが、この人に奇妙に噛み合ってしまうことも。だからこそ、こんなふうにならないように気をつけていたはずだったのに。細心の注意を払って保ち続けていたはずのバランスはあっさりと崩されて、気がついたら私は彼に随分と依存してしまっている。この人の隣を離れたら、自分の形を保てない。そんな風に思ってしまうくらいには。
返す返すも、真下くんは私のような女と付き合ってて重くないんだろうか。今更な事がまたしても気になりだす。それから、せめていざって時にはあと腐れなく別れてあげよう。などと、いつも考えることをまたしても考える。勿論そんな事は、口には出さないでおくんだけど。改めて決意を固める私をよそに、真下くんは私の肩のあたりに顔をうずめたまま微動だにしない。ふと、うめくような声が肩口を擽る。
「……はあ。お前は本当に減らず口が得意だよな、名前」
「ふふ、そんなに褒められると照れる」
「褒めてない。最高に面倒くさくて最悪だ。何なんだよお前は、本当に」
「何なんだよって言われてもな。真下くんこそいきなり何なの本当に」
「ふん、俺の事が死ぬほど好きなくせに」
「ええ? それいま関係ある?」
「あるに決まってる」
あ、と思った時には、もう視界が傾いていた。後ろに向かって倒れていく。真下くんに道連れにされて、私まで一緒に。ぼすん、という音ともに、ベッドのスプリングが揺れる。頭上からかすかに聞こえるうめき声。
「ねえほんとに何やってるの、大丈夫?」
「……だいじょうぶじゃ、ない」
案の定死にそうな声が言う。だから言わんこっちゃないのに。「とりあえずお水でも飲んだら。持ってきてあげるから」起き上がろうとしてみたけど、真下くんの腕に邪魔された。数秒の沈黙ののちに、彼は心底うんざりしたようなため息を吐く。
「……ねえ、重くない?」
「重くない」
「ねえ」
「あらかじめ言っておくが離してなんかやらないからそのつもりで大人しくしておけ」
「ええ……いや、何の話をしてるの真下くんは」
「何の話でも良いだろ」
「……、良いけどさ。真下くんて酔うと意外と面倒臭いんだね?」
「やかましいな。少なくとも今は酔ってないし、普段のお前の方が今の俺の数倍は面倒くさい」
「ていうか構ってほしいなら素直にそう言えば良いじゃん」
「……それだって、どっちにしろ貴様にだけは言われたくない」
……これじゃあ、どっちが甘やかされてるんだかわからない。
私が撫でまわしたせいでぐしゃぐしゃになった前髪、の下で、ぐずぐずに潤んでる目が可愛かった。おでこと瞼とほっぺたに。いつも真下くんがしてくれてるみたいにキスを落として、手のひらで瞼を塞いであげることにする。「…、とりあえずいいこで寝てなよ、今日はずっと一緒に居るから」私の言葉には、返事の代わりに舌打ちだけが寄越された。心臓の音に二人分の呼吸。おやすみ、の代わりに「好きだよ」とだけ言って、一緒になって目を閉じる。目が覚めたらお粥でも作ってあげよう、と、そう思いながら、まんまと私まで二度寝してしまった。そして夕方。
「……俺は何を口走った……?」
熱が下がってお酒が抜けてきた辺りで、漸く真下くんは我に返ったらしかった。頭を抱えるその様は正直面白かったけれど、あんまり馬鹿にすると後が怖いかもしれない。なので正直に「……まあ、大したこと言ってなかったよ。ただ絡み方がめんどかったくらい」と教えておいてあげた。そしたら言い終わる前に「忘れろ」と迫られたので「無理だよ、絶対に忘れない」と言い返してしまい、親の仇でも見るような目でにらまれてしまった。
真下くんはよりによって「絶対に潰してやるからな」の下りだけ覚えていたらしく、後日本当に私は彼と飲み比べをする羽目になった。真下くんが変にムキになる物だからついつい私も飲みすぎて、翌日は二人して二日酔いでつぶれる始末だ。折角の週末に、本当に何してるんだろう。だけどそれも、ワークライフバランスの一環と言うことにしておきたい。だって、酔った真下くんは面倒臭くて手がかかって、世界一かわいかったので。
……とりあえず、何だか妙なことになっている。それだけは事実なのだった。
水曜日の深夜、多分午前二時くらい。何でか知らないけれど、今私は久しぶりに帰宅した彼氏により玄関先で押し倒されている。
「真下くん」
「………」
「ねえってば、真下くん?」
「……黙れ……」
自分が押し倒してきた癖にこの言いようである。この人は本当にいつも勝手だ。
背中に触れる床が、硬くて冷たかった。私に覆いかぶさる体からは外の気配がする。ひんやりと冷え切った冬の、真夜中の空気。だけど触ってみた真下くんの首筋はあったかい、と言うよりも寧ろ熱い位で、そのうえ結構酒臭い。彼が強かに酔っている事だけは判明したけど、それ以外は何も分からない。真下くんはこうみえても理性的な人なので、こんなのは珍しい事態だった。
「ちょっと」「何なの」「重いよ」などの私の言葉に返事も寄越さず、彼は数分程無言で私を抱きしめ続けた。それから唐突に「……ああくそ、おちつく」などとこぼすので本当に訳が分からなくなる。仕事大変なんだろうな、くらいは察したけど、それも珍しい事態だった。基本的に仕事人間の真下くんが、仕事でこんなに弱るなんていうのは。
「ねえ本当に何、どうしたの真下くん」
「…………どうもしない」
「あっ、もしかして事務所の経営上手く行ってないの? 最悪は私が養ってあげてもいいけどどうする?」
「やかましいな。仕事は頗る順調だしおかげさまで心霊絡みの下らない依頼が山積みだよ。正直なところウチの事務所はめちゃくちゃ儲かってるし笑いが止まらない。誰が貴様になんか養われるか馬鹿」
「ああそう……じゃあまあ良いけど……」
「……よくない」
「よくないの? ふうん」
「お前な」
「うん?」
「何があったか位聞けよ最低限。質問の仕方がなってないんだよ、もっと根性を持って問い詰めろ。相手が音を上げるまでしつこく聞きまくるんだよこういう時は。ふうん、で済ますな」
「ええ? 真下くんが聞いてほしいなら聞くけどさ。聞いてほしいの?」
「……ふん。生憎守秘義務で答えられないんだよ、残念だったな」
「そっかあ」
何とも納得がいかない話の展開だったけど、酔っぱらいにそんなことを言っても無駄なのかもしれなかった。真下くんが肩口に顔をうずめてくるので、何となく髪の毛を撫でている。無駄に綺麗な後頭部の形。背中に腕を回して力を籠めたら、その体が軽く震える。ほんの少しだけ掠れた声。何か大変な事があったんだろうけど、聞いたところで答えが返って来るとも思わない。守秘義務とか言うやつがあるらしいし。だからただ寝転がったまま、どうでもいいような話をすることにした。近所の野良猫の事とか。コンビニで見かけた新発売のお菓子の事とか。テレビの星占いで三日連続最下位だったこととか。何のレスポンスもない一方的な会話。真下くんは私の腕の中で微動だにしない。一応「寝たの?」と聞いてみたら、「寝るわけないだろこんなところで」と意外としっかりした声が返って来る。
「なら良いけどさ、……ちょっと寒いんだよね正直。あといい加減本当に重い」
言った瞬間に、舌打ちとともに腕に力を込められて、体が持ち上げられる。え、と思う間に視界が反転した。つまり体制が逆転したらしい、と気づいたのは数秒後だった。「背中痛くないの」、聞いてみたら返事の代わりにもう一度舌打ちが返って来る。それから、これで文句ないだろ、と言わんばかりにぎゅうぎゅうに抱きしめられた。押し付けられた胸元の体温が心地いい。かすかな心臓の音に、煙草の香り。まるで何かから、私を守るみたいに。後頭部に回された手が、ゆるゆると私の髪の毛を梳いていく。頭のてっぺんから毛先まで。
「真下くんっていっつも私の髪の毛触るよね。もしかして髪の毛フェチなの?」何の気なく聞いてみた言葉には「黙れ馬鹿」と端的な罵倒が返ってきた。ひょっとして図星だったのだろうか。そろそろ顔が見たいな。ぼんやりとそう思ったけど、どうやら彼は私を開放する気はないみたいだ。なのでとりあえず、腕の中で大人しくしておくことにする。
「ねえ、真下くん」
「……、何だよ」
「真下くんって酔っ払うと結構面倒臭いよね」
「酔ってない」
「酔ってるじゃん、お酒臭いよ」
「やかましいな、酔ってないし疲れてもないし落ち込んでもない」
「そうなの?」
「当たり前だろうがそんなの。仕事に私情は持ち込まない主義なんだよ俺は。最悪な現場もクソみたいな人間も見慣れてるしこんなのは慣れっこなんだよ当たり前だ」
血を吐くような、絞り出すような、低い低い声が言う。ああこれは、いよいよ本当に何かあったな。それもかなり大変な事が。確信してから、泣きたいような笑いたいような、よくわからない感情に襲われる。仕事に私情は持ち込まない主義、なんてよく言うよ。思わず口走りそうになった言葉はひそかに呑み込んだ。見慣れてる。その言葉が嘘だなんて思わない。だけどきっと、見慣れてるからって、心が摩耗しないなんて事はないのだ。
「……真下くんてさあ」
「……」
「結構真面目でちゃんとしてるよね」
「……やかましい」
何を見たの、なんて、勿論聞かない。どこに行って何をして何を言って、何を聞いてきたのかなんてことは。それでも分かることはあるのだ。
出会った頃から今までずっとそうだった。真下くんは物腰と態度の割に、随分と潔癖で真面目で優しいのだ。多分本人が思ってるよりもずっと。理不尽なことも残酷なことも、その都度彼はきちんと受け止めて飲み下して消化する。そうやって何もかも一人で呑み込んで、さっさと片付けてしまおうとする。だから私に出来ることなんてたかが知れてるんだろう。そんなに辛いなら逃げちゃえば、なんて無責任な事を言ったところで、真下くんは怒るだけだから。
真下くんのそういう所が私にはまぶしくて愛おしくて、少しだけ憎たらしい。私が代わりに痛みを被ってあげることも、一緒に逃げてあげることもできはしない。だとしても、精々傍に居るくらいはできるだろうか。スーツの胸のあたりに顔を押し付けながら、ぼんやりと考える。それからとりあえず、「……、真下くんのそういうとこ好きだよ、私」といつものように言ってみれば、当たり前みたいに「知ってる」とだけ返されて笑った。いつもそうだ。私の考えることなんて、妙に敏いこの人には全部分かられてしまう。
「ねえ本当にさ。真下くんのそういうとこ大好きだよ、全部」
「……、そうかよ」
「うん、そうだよ」
この人の近くは、空気が綺麗なのだ。それはきっと真下くんの魂が上等なせいなんだろう、といつも思う。強くてしなやかで潔癖で折れない。何もかもが違うのだ。どこか大事なところ、核心の部分が欠落して空っぽで、すかすかの私とは。だけどそんなことは勿論言わないでおく。これ以上真下くんを怒らせるわけにはいかないので。
「顔も声も性格も。態度悪い癖に変に真面目なところも、ちゃんとしてるところも、めちゃくちゃ安全運転なところも、意外と字が綺麗なところも、いっぱいご飯食べてくれるところも、完全にワーカホリックなところも、雪かきうまいところも、免許証の写真の目つきやばいところも、意外と酒癖悪いところも、料理へたくそすぎてやきそばすら上手につくれないところも、雑なところも、納豆のタレの袋ちゃんと破けないところも、【こちら側のどこからでも開けられます】って書いてあるラーメンのかやくの袋を一度たりとも綺麗に開けられたことなさそうなところも、たまにハンガーの事【えもんかけ】って言ってるじじくさいところも、意外と効率厨なところも全部好きだよ」
「おい後半殆ど悪口だろふざけるな。あと【コウリツチュウ】って何だその妙な単語は」
「この間栄太さんに習った。真下くんみたいな人の事をネットの掲示板で効率厨って言うんだって」
「……は? 貴様らいつの間に知り合った?」
「この間安岡先生のお使いで九条館行った時だよ。あの人面白いよね、私好きだなああいう人」
「……貴様、本当に見境がないな。俺だけじゃ飽きたらず中松にまで手を付けるつもりか」
「え、いきなり何。真下くんて嫉妬とかする方だっけ?」
「するわけないだろ馬鹿」
「ああそう? まあ良いけど。栄太さん良い人だね、推しの話ですごく盛り上がった」
「だから妙な単語を使うな、【オシ】ってなんだそれは」
「安心していいよ、私の推しは一生真下くんだから」
「くそ、さっきから訳の分からん事ばかり言いやがって。本当にふざけるなよ貴様」
「だからふざけてないって、真下くんの納豆のタレの袋は私が開けてあげるから大丈夫だよ」
「……毎度毎度、貴様は俺の事を何だと思ってる?」
「真下くんだと思ってる」
「……、お前に真っ当な答えを期待した俺が馬鹿だったよ」
「いつもの事だけど真下くんてほんとに失礼だよね」
「黙れよ。貴様にだけは言われたくない」
「……まあいいや。ところで眠いんだけど。いい加減中入らない? 私たちこんなところで何してるのほんとに」
「うるさいな知るかよ」
「知るかよ、じゃないよ真下くんしっかりして。玄関なんかで寝たら風邪引くよ」
「……」
「真下くんてば」
「…………、名前」
「うん、何?」
「……ただいま」
「ええ? うん、お帰り」
唐突にぶつけられた言葉に笑ったらまたしても舌打ちされた。きっと心底憎々し気な顔をしてるんだろう、と予想はできたけど、顔を上げようとしたら全力で封じ込められて、やっぱり抱きしめられたまま動けないのだ。「やめてよプロレスじゃないんだから」と突っ込んだら「お前、本当にもう黙れ。こういう時くらいは大人しく抱きしめられて然るべきだろうか馬鹿」などと、真下くんは心底いらついた声を出す。言われた通りに大人しくしてあげているうちに、なんと彼はすうすうと寝息を立て始めるので本当に困った。この人はいつも勝手だ。
スーツ皺になるよ。ここ玄関だし靴だって履いたままだよ。聞いてみたけど勿論答えなんて帰ってこないのだ。こういう時の真下くんは寝たらてこでも起きないという事は、もう十二分に知っていた。なので仕方なく腕の中で力を抜いて、私も目をつぶってみる。この人の抱える痛みが、明日にはもう少しましになってますように、なんて誰かに願ったりなんかしながら。
▽
「……最悪だ。何だこれは」
「だから言ったんじゃん。玄関なんかで寝ると風邪引くよって」
「だから何で俺が風邪を引いて貴様がぴんぴんしてるんだおかしいだろう」
「あはは何でだろうねえ? やっぱ鍛え方が違うんじゃないの」
「あ? 黙れ」
ストレートにも程がある暴言に笑ってしまう。「そんな顔で睨んでも怖くないよ真下くん」言いながらいつかのお返しのように、真下くんの口の中に体温計を突っ込んで熱を測ってあげることにする。きっかり38度。珍しく弱った様子の真下くんがそれでも「名前、お前何してるんだ仕事行けよ」などと健気な事を言うので、「ワークライフバランスを取ることにした」と答えてあげたら思いっきり舌打ちをされた。そんな状態ですごまれても、本当に驚くほど全然怖くない。恐くないどころか寧ろ可愛い。世界一可愛いと言っても良い位に。
普段はセットされてる前髪を下ろしたら、真下くんは意外と童顔だ。ぐずぐずに潤んだ目はいかにも病人って感じでいたいけだし、いつもよりも掠れた声は少しだけ痛々しい。きっと、元々疲れていたんだろう。私の忠告も聞かず真冬の玄関でガチ寝した彼は、案の定風邪を引いたのだった。
「とりあえず起きる?」と聞いてみたら、案外素直に「……起きる」と声が返って来る。のろのろと体を起こした彼がそのままこちらに寄りかかるので、きっちり受け止めて抱きしめてあげた。昨日から引き続き、体温が高い。「……うう」かすかなうめき声、の後に、両手が私にまとわりついてくる。「本当にさいあくだ、頭ががんがんする」ろれつの回ってない真下くんは、まだほんのりお酒臭い。
「風邪と、多分二日酔いだよね。ねえ、結局昨日ってどのくらい飲んだの?」
「……、教えない」
「ふうん。昨日の感じだと真下くんて意外とお酒弱いんだね。見た目そんなんなのに。かわいい」
「……くそ、人が弱ってると思って好き勝手言いやがって」
「だから褒めてるんじゃん。かわいいよ。弱ってる真下くんも世界一可愛い」
「……貴様本当に覚えてろよ、次飲むときは絶対に潰してやるからな」
「ええ? つぶれるわけないじゃん。私は自分の限界ってものを分かってるからさ。誰かさんとは違って」
「は、よく言うよな。あの時あれだけべろべろに酔いつぶれてた女が」
「……まあね。でも、今とあの時は違うじゃん」
「ふん、どうだか。俺には大差ないように見えるが」
「放っておくと野垂れ死にそうって? ……でも、今は真下くんの方が野垂れ死にそうに見えるよね」
喋りながらゆるゆると、真下くんの頭を撫でている。硬い髪の毛の感触。首筋に息がかかってこそばゆい。大きな手に指を絡めて握りしめながら考える。確かにこの人の傍に居られなくなったら、私は本当に野垂れ死ぬのかもしれない、なんて。
真下くんの隣は空気が綺麗だ。そう気がついたのは、随分前のことだった。本当は、出会った時にはもう知っていたのだ。自分の中の何かが、この人に奇妙に噛み合ってしまうことも。だからこそ、こんなふうにならないように気をつけていたはずだったのに。細心の注意を払って保ち続けていたはずのバランスはあっさりと崩されて、気がついたら私は彼に随分と依存してしまっている。この人の隣を離れたら、自分の形を保てない。そんな風に思ってしまうくらいには。
返す返すも、真下くんは私のような女と付き合ってて重くないんだろうか。今更な事がまたしても気になりだす。それから、せめていざって時にはあと腐れなく別れてあげよう。などと、いつも考えることをまたしても考える。勿論そんな事は、口には出さないでおくんだけど。改めて決意を固める私をよそに、真下くんは私の肩のあたりに顔をうずめたまま微動だにしない。ふと、うめくような声が肩口を擽る。
「……はあ。お前は本当に減らず口が得意だよな、名前」
「ふふ、そんなに褒められると照れる」
「褒めてない。最高に面倒くさくて最悪だ。何なんだよお前は、本当に」
「何なんだよって言われてもな。真下くんこそいきなり何なの本当に」
「ふん、俺の事が死ぬほど好きなくせに」
「ええ? それいま関係ある?」
「あるに決まってる」
あ、と思った時には、もう視界が傾いていた。後ろに向かって倒れていく。真下くんに道連れにされて、私まで一緒に。ぼすん、という音ともに、ベッドのスプリングが揺れる。頭上からかすかに聞こえるうめき声。
「ねえほんとに何やってるの、大丈夫?」
「……だいじょうぶじゃ、ない」
案の定死にそうな声が言う。だから言わんこっちゃないのに。「とりあえずお水でも飲んだら。持ってきてあげるから」起き上がろうとしてみたけど、真下くんの腕に邪魔された。数秒の沈黙ののちに、彼は心底うんざりしたようなため息を吐く。
「……ねえ、重くない?」
「重くない」
「ねえ」
「あらかじめ言っておくが離してなんかやらないからそのつもりで大人しくしておけ」
「ええ……いや、何の話をしてるの真下くんは」
「何の話でも良いだろ」
「……、良いけどさ。真下くんて酔うと意外と面倒臭いんだね?」
「やかましいな。少なくとも今は酔ってないし、普段のお前の方が今の俺の数倍は面倒くさい」
「ていうか構ってほしいなら素直にそう言えば良いじゃん」
「……それだって、どっちにしろ貴様にだけは言われたくない」
……これじゃあ、どっちが甘やかされてるんだかわからない。
私が撫でまわしたせいでぐしゃぐしゃになった前髪、の下で、ぐずぐずに潤んでる目が可愛かった。おでこと瞼とほっぺたに。いつも真下くんがしてくれてるみたいにキスを落として、手のひらで瞼を塞いであげることにする。「…、とりあえずいいこで寝てなよ、今日はずっと一緒に居るから」私の言葉には、返事の代わりに舌打ちだけが寄越された。心臓の音に二人分の呼吸。おやすみ、の代わりに「好きだよ」とだけ言って、一緒になって目を閉じる。目が覚めたらお粥でも作ってあげよう、と、そう思いながら、まんまと私まで二度寝してしまった。そして夕方。
「……俺は何を口走った……?」
熱が下がってお酒が抜けてきた辺りで、漸く真下くんは我に返ったらしかった。頭を抱えるその様は正直面白かったけれど、あんまり馬鹿にすると後が怖いかもしれない。なので正直に「……まあ、大したこと言ってなかったよ。ただ絡み方がめんどかったくらい」と教えておいてあげた。そしたら言い終わる前に「忘れろ」と迫られたので「無理だよ、絶対に忘れない」と言い返してしまい、親の仇でも見るような目でにらまれてしまった。
真下くんはよりによって「絶対に潰してやるからな」の下りだけ覚えていたらしく、後日本当に私は彼と飲み比べをする羽目になった。真下くんが変にムキになる物だからついつい私も飲みすぎて、翌日は二人して二日酔いでつぶれる始末だ。折角の週末に、本当に何してるんだろう。だけどそれも、ワークライフバランスの一環と言うことにしておきたい。だって、酔った真下くんは面倒臭くて手がかかって、世界一かわいかったので。