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うっかり真下くんに電話なんかしてしまったのは、全部熱のせいなのかもしれなかった。頭が痛くて、喉も痛くて、雇い主である安岡先生には「苗字さん貴方、顔色が悪いわ。今日のお仕事はもういいから帰って休みなさい」と事務所を追い出され、何だか満身創痍だった。木曜日の午後2時。事務所を出るころにぽつぽつと降り出した雨は、帰るころにはざあざあぶりに変わっていた。折り畳み傘では防ぎきれない位の風と雨。何とか帰り着いた部屋は、変な具合にがらんとしていて広い。その癖真下くんの気配だけは残っていて、それが妙に私を心細くさせた。基本的に仕事人間の真下くんに、平日真昼間の電話がつながるとは思えなかった。だから勿論、こんなのはただのおまじないのつもりだったのだ。それなのに予想に反して2コール以内に電話は繋がり、私は携帯電話片手に大慌てすることになる。
「あっ、真下くん元気? いや特に用はないんだけど」と素直に白状した声は嗄れていて、何だかおかしなことになっていた。スピーカー越しのため息。異様に勘のいい彼は、私の声だけで大方の事情を察してしまったらしい。「寝てろ。夕方には帰ってやる」プツン。味もそっけもない回答とともに切れる電話。熱のせいで余計な事を考えずに済むのは、もしかしたら結果オーライだったのかもしれない。真下くんの声を聴いただけで妙に安心してしまって、安心したら眠くなった。かろうじてシャワーだけ浴びた後愛用の部屋着(真下くんの大学時代のジャージだ。胸の所に「警察大学校剣道部 真下悟」と名前が入っていて見るたびになんかなごむ)に着替えて、それから布団にもぐり込んだ。
眠りに落ちる瞬間は、いつもほんの少しだけ怖い。指先から、つま先から。自分の輪郭が緩んでほどけて曖昧になる。自分の境目すらも分からない真っ暗闇。どろどろと意識を溶かすその中は、それなのに、少しだけ懐かしい。息が詰まりそうなほど濃密な気配。目の奥にちらつく青い光。ざわざわと影が蠢く。聞いたことのあるようなないような、誰かの声が私に囁く。お前はきっと思い出す。これは記憶だ。私の中に沈んでいる記憶の断片。真っ黒な影は、何かを私に告発しているようだった。お前はきっと思い出す。その声を聴きながら、深いところへ落ちていく。底へ底へ。光も音も届かない、誰の手も届かないその場所へ。
「……お前にしては上出来だよ、名前」
完全に沈みかけていた意識は、だけど、不意に誰かの声で引きずりだされた。「……、」ましたくん、と、声を発しようとした喉はきちんと機能しなかった。掠れてほつれた、声のなりそこない。真下くんはため息を吐いた後、「お前にしては上出来だ、苗字名前」と繰り返し、次いで「どうやらそのめでたい脳みそでも、俺の言葉を覚えている位の芸当はできたんだな」と大変腹の立つ悪口を放ち、最後に「そういう時は一人で抱え込むなと教えただろう。きちんと俺に電話をかけてきた点は評価してやる。だが次からはもっと早く言え。お前を構う時間くらいは作ってやるよ」、と締めくくる。何だかとんでもない殺し文句を言われたような気がするけど、どうにも脳みそが働いていない。ゆるゆると頭を撫でる手のひらの、ひんやりとした温度が心地よかった。
「起きられるか」と声が言うので、おきる、と口を動かした。ぎし、と、軽くベッドがきしむ音がする。背中に回ってきた腕がすんなりと私を抱えて抱き起す。ひんやりした外の気配。雨の匂い、に、混じって煙草の苦い香り。真下くんの匂いがする、と、これも勿論声の形になんてできなかった。その首筋に頭をこすりつけて肌の感触を確かめる。頭上から小さく舌打ちの音。「熱が高いな」、低い声がそう言うのをまるで他人事のように聞いていた。がさがさと、何やらレジ袋を漁るみたいな音がする。風邪薬とか買ってきてくれたのかな悪いな。思った端から思考はゆるゆると流されておぼつかなくなる。ワイシャツ越しの体温。目を閉じれば真下くんの、心臓の音とか息の感触とか、そういうのが伝わってきてどうしようもなく安心してしまう。そのまま眠りに落ちてしまってもいいくらいに気持ちいい。なのにいきなり無遠慮に指で口をこじ開けられて、冷たい感触の何かを口に突っ込まれた。
それが体温計だ、と、気付いたのと同時くらいに真下くんが馬鹿にしたような笑みをこぼす。無様だな、とか、何とか言いたげな瞳の色。「素直で結構な事だな。そのままイイコで咥えてろよ」などとせせら笑われてほんのり腹立たしい気持ちがわいてくる。これじゃまるで子供扱いだ、と、そう思うのに、されるがままになりたくなってしまうのは熱のせいなんだろうか。生活感のかけらもない顔をしてるくせに、真下くんは妙に手際がいい。おでこにかかった前髪を手がかき分けて、ぺっ、って感じの雑さで冷却シートを貼りつけてくる。そのままの体制で、どのくらいぼうっとしていたんだろうか。唐突に電子音が鳴り響き、口の中の体温計は引っこ抜かれる。真下くんはそれを確認したのち、「38度5分だな」と、平坦な声で私に告げる。
38度5分。そんな高熱を出したのは小学生の時以来だろうか。自覚した瞬間にまた体温が上がったような気がする。だけど、「ましたくんどうしよう、しぬかもしんない」息も絶え絶えでそれだけ言えば、至極冷静に「安心しろよ。この程度で人は死なない」と切り捨てられた。うう、と、うめき声のようなため息のような声が口からこぼれて、真下くんのシャツのあたりでわだかまる。色々と言いたいことはあったはずなのに、うまく言葉が出てこない。散々ぐずついた挙句、結局、「おかえり」などと、間抜けた言葉を口走っていた。数秒の沈黙。その後、一ミリの感傷も含まれていない声が当たり前のように言う。「ああ、ただいま」それを聞いて泣きたいほど安心してしまうのも、全部熱のせいという事にしておく。
「……、とりあえず何か腹に入れろ。適当に作ってやるから」
「やだよここに居てよ。あんまり食欲ないしこのまま寝てたい」
「何か入れないと薬が飲めないだろうが。まあ、無理矢理にでも口に突っ込まれたいなら好きにしろ」
「ていうか真下くんって料理できるの」
「……心配するなよ。腹に入れば皆同じだろ」
心配しかないよねそれは。と、言ってみた言葉は普通に無視された。頭痛がして寒気がして、おまけに関節も痛い。だからどうしても離れがたくて、「真下くんがご飯作ってる間ずっとくっついてていい」などと、脳みそがとけているとしか思えない質問をしてしまう(舌打ちの後に「だめにきまってるだろ」と一蹴された)。力の入らない体で縋りついた手はあえなく引っぺがされて、「寝てろ」との最後通牒とともにお布団の中に後戻りさせられてしまう。ぼやぼやと涙でにじんだ視界の向こう、真下くんがほんのりと視線を緩めた気がした。「お前、ガキかよ本当に。面倒くさいな」と悪態を付くその声は、どうしたって優しくしか聞こえない。性懲りもなく見つめていたら、とうとう掌で瞼を塞がれて、目を閉じるしかなくなってしまった。体の中をぐるぐると熱が回る。時計の音に、遠くから聞こえる雨の音。それと、真下くんの気配。この人がいるところは空気が綺麗だ、なんて、いつも思う事をまたしても考える。さっきまで感じていた心細さは、とっくにとけて消えていた。
▽
「ほら」
「……、これなに?」
「卵酒だよ見りゃ分かるだろ。とりあえずそれだけ飲んでおけよ。見ててやるから」
「たまござけ」
言われた言葉をおうむ返しに復唱してから、差し出されたマグカップを両手で受け取る。見ててやるから、というその言葉通り、容赦ない視線が私に降り注いで何とも居心地が悪かった。見る、と言うよりも見張る、という感じの生真面目さで、真下くんは私から視線をそらさない。おずおずとカップに口を付けたら、ふわん、と、甘ったるいにおいが鼻をくすぐった。卵の風味。ほんの少しのアルコールにしょうがの香り。嚥下するたびにほんのりと体が熱くなって、「おいしい」とつぶやけば、何とも投げやりな感じで頭を撫でられた。
促されるままにコップの中身を飲み干して、与えられるがままに薬を飲み下す。まるで雛が餌をもらうみたいに、一から十までされるがままになっている。距離感がおかしい。確かにそう思うのに、熱のせいでストッパーが利かない。嘘だ。本当は熱のせいにして、徹底的に甘えたくなっているだけなのかもしれなかった。だって、二人きりの時の真下くんはちょっとどうかと思うくらいに私に甘いのだ。だからどんどん私はダメになって、どんどんこの場所に慣れて行ってしまう。
「……、真下くん」
「何だよ」
「真下くんて意外と世話焼きだよね」
「貴様、言うに事欠いてそれか。せめて感謝しろよ病人が」
「うう、そうだよねありがとう。……ねえ、風邪移しちゃったらごめん、その時は私が看病したげるね」
「言ってろ。誰かさんとは鍛え方が違うんだよ」
「しばらくくっついてていい」と聞けば「好きにしろよ」と心底面倒そうな声で許可が出た。だからいっそ押し倒すくらいの勢いで抱き着いてみたはずなのに、案外あっさりと抱き留められてしまう。これがつまり、【鍛え方が違う】という事なのかもしれない。眠ってしまうのは何となくもったいなくて、お布団の中でゆるゆると会話を続けている。体温がとけて馴染んで同化していくのが心地よかった。もう片方の手がこちらに伸びてきて、髪の毛を撫でてから耳にかける。すり、と、ほんの少しだけ耳殻をこすられる感触が甘やかだった。その手にすり寄ったら、かすかに真下くんの身体が震える。耳の後ろを伝って首筋まで。触れられたところからじくじくと伝う感触が、気だるい体には心地いい。二人分の呼吸に体温。そういうものを当たり前にして、慣れ切ってしまうのが怖い。少し前までは確かにそう思っていたのに、意思に反して私の身体は、それを余すところなく飲み干そうとしてしまう。与えられたら与えられるだけ、貪欲に。
「……ね、なんでこんなことになっちゃったんだと思う」
「俺が知るかよ。風邪の原因なんて、薄着で寝たとか髪の毛乾かさずに寝たとかそんなんだろ大方」
「そうじゃなくて。何か最近、どんどん駄目になってる気がするんだよね」
「さあな。気のせいじゃないのか」
「気のせいかなあ。前まではこういう時、一人で頑張れてた気がするんだけど」
「へえ、良い兆候じゃないか。少なくとも俺にとってはそっちの方が都合がいい」
「都合がよくは、ないんじゃないの。真下くんって仕事してないとストレスで狂うタイプの人でしょ」
「……、毎度毎度、お前は俺の事を何だと思ってるんだ?」
「とりあえず仕事人間だとは思ってる」
「はあ。その件についてはさっき話してやったはずだ。前回の反省を生かしてワークライフバランスを取ることにしたんだよ。何度も説明させるな」
「前から思ってたけど、ワークライフバランスって言葉の使い方違くない?」
「やかましいな病人が。減らず口を叩く元気があるならさっさと寝ろよ」
心底面倒そうな声。それなのに、私に触れてくる手は酷いくらいに優しい。もう喋るな、とばかりに手のひらで口をふさがれて、ついでみたいに瞼にキスを落とされた。好きだよ。口をふさがれている状態だから、言ってみた声はただの音にしかならない。それでも真下くんはその音をきちんと拾って、「知ってる」と律義に返してくれるので泣きたくなる。口元を塞いでいた手をどかして、指を絡めみる。そしたら当たり前のように握り返されて、諦めて目を閉じればこめかみにも口づけが降ってくる。こういう時の真下くんは徹底的に私に甘い。丁寧に丁寧に退路を塞がれて、少しずつ甘えることを教え込まれて、それで、すっかり私は閉じ込められてしまう。
どんどんおぼつかなくなる意識の中で、ざあざあと雨の音を聞く。遠くで響く雷鳴。ずぶずぶと意識が沈み込んで、闇の中に溶けていく。眠りに落ちる瞬間は、いつもほんの少しだけ怖い。自分の境目すらも分からない真っ暗闇。どろどろと意識を溶かすその中は、少しだけ懐かしくて、怖いのに心地いい。深く深く沈んでいく。誰の手も届かない程遠くまで。だけど私はもう知っているのだ。どこまで行っても逃げられない。どこまで深く沈んでも、その手に引っ張り上げられる。逃がさない、とばかりにきつく握りしめてくる体温が愛おしくて、ほんの少しだけ憎らしかった。その声に定義されて、その手に縛られて、私はどこへも行けなくなる。だとしてもこの人は、私と同じ場所に沈んでくれはしないのだ。
今日はもう夢は見ないだろう。二人分の呼吸の音。体温がとけて馴染んで、とろとろと輪郭を溶かしていく。このまま朝が来なくても良い。子供みたいに、そんなことを思ったのが最後だった。そこでふつんと意識が途切れて、気が付いたらカーテンの向こうは薄明るくなっていた。私の意志とは関係なく世界は回るし、時間は容赦なく過ぎていく。当たり前のことだ。それを嘆いたところで仕方がない。
中途半端に暗い部屋の中、布団にくるまったまま真下くんが身支度をする後姿を眺めている。ネクタイを結んで、ネクタイピンでとめて、ジャケットを着て。いっそほれぼれするくらいスムーズに、淀みなく行われる一連の動作。私をここに閉じ込めた癖に。それなのにこの人はいつもこうやって、自分だけどこかに行ってしまう。いってらっしゃい、ともいかないで、とも言えなかった。多分熱のせいだろう。何となくスーツの裾を掴んだら、振り返った彼が私を見て、呆れたみたいな笑みをこぼす。「昼前には帰ってやるよ。だから精々、イイコで寝てろ」そうして頭を撫でられているうちに、すとんと眠りに落ちていく。どうしたって逆らえない、そう思ってしまうのも全部、熱のせいってことにしておこう。
▽
「風邪だね。暖かくしてビタミンを取りよく眠る。それが一番の薬だよ。一応熱さましくらいは出しておくから、どうしても辛くなったら飲むと良い」
「……ありがとうございます」
「最悪は、真下君に移してやればいいんじゃないかな。風邪は移すと治ると言うから。……ああ失敬冗談だよ」
「……、そうですね」
「それにしても彼は、あれで意外と甲斐甲斐しいじゃないか。僕としても微笑ましいよ、友人が幸せそうにしているのを見るのは気分がいい」
揶揄っているんだか本気なんだか分からない。淡々とした口調で大門先生はそれだけ告げ、「とにかく、週末は二人でゆっくりすることだね。丁度好いんじゃないかな、彼も偶にはワークライフバランスを取った方がいい」などと、どこかで聞いたような結論で締めくくった。ワークライフバランス。全体的にすべての元凶がそこにあるような気がする。ぼんやりとそう思ったけど、熱に浮かされた頭ではうまい事答えが出なかった。大門先生はふと面白げな顔で私を見て、それからなんてことない口調で付け加える。
「それじゃ、お幸せにどうぞ」
その言葉は私に、と言うよりも、診察室の扉のすぐ外で待っている真下くんに向けられたものらしかった。真下くんは最早開き直ったのか、ふん、と鼻を鳴らしただけだったけど。三日分の薬とビタミン剤。そして、二人きりの週末。どろどろに甘やかされて寝かされて、そろそろおかしくなるんじゃないのかって不安になったころに漸く熱は下がった。あれだけ一緒にいたのに真下くんに風邪はうつらず、私だけが格好悪いところを見られてる気がして納得いかない。だけどまあ、この際諦めた方が良いのかもしれなかった。考えたって仕方ないことはもう全部、ワークライフバランスのせいという事にしておこう。
「あっ、真下くん元気? いや特に用はないんだけど」と素直に白状した声は嗄れていて、何だかおかしなことになっていた。スピーカー越しのため息。異様に勘のいい彼は、私の声だけで大方の事情を察してしまったらしい。「寝てろ。夕方には帰ってやる」プツン。味もそっけもない回答とともに切れる電話。熱のせいで余計な事を考えずに済むのは、もしかしたら結果オーライだったのかもしれない。真下くんの声を聴いただけで妙に安心してしまって、安心したら眠くなった。かろうじてシャワーだけ浴びた後愛用の部屋着(真下くんの大学時代のジャージだ。胸の所に「警察大学校剣道部 真下悟」と名前が入っていて見るたびになんかなごむ)に着替えて、それから布団にもぐり込んだ。
眠りに落ちる瞬間は、いつもほんの少しだけ怖い。指先から、つま先から。自分の輪郭が緩んでほどけて曖昧になる。自分の境目すらも分からない真っ暗闇。どろどろと意識を溶かすその中は、それなのに、少しだけ懐かしい。息が詰まりそうなほど濃密な気配。目の奥にちらつく青い光。ざわざわと影が蠢く。聞いたことのあるようなないような、誰かの声が私に囁く。お前はきっと思い出す。これは記憶だ。私の中に沈んでいる記憶の断片。真っ黒な影は、何かを私に告発しているようだった。お前はきっと思い出す。その声を聴きながら、深いところへ落ちていく。底へ底へ。光も音も届かない、誰の手も届かないその場所へ。
「……お前にしては上出来だよ、名前」
完全に沈みかけていた意識は、だけど、不意に誰かの声で引きずりだされた。「……、」ましたくん、と、声を発しようとした喉はきちんと機能しなかった。掠れてほつれた、声のなりそこない。真下くんはため息を吐いた後、「お前にしては上出来だ、苗字名前」と繰り返し、次いで「どうやらそのめでたい脳みそでも、俺の言葉を覚えている位の芸当はできたんだな」と大変腹の立つ悪口を放ち、最後に「そういう時は一人で抱え込むなと教えただろう。きちんと俺に電話をかけてきた点は評価してやる。だが次からはもっと早く言え。お前を構う時間くらいは作ってやるよ」、と締めくくる。何だかとんでもない殺し文句を言われたような気がするけど、どうにも脳みそが働いていない。ゆるゆると頭を撫でる手のひらの、ひんやりとした温度が心地よかった。
「起きられるか」と声が言うので、おきる、と口を動かした。ぎし、と、軽くベッドがきしむ音がする。背中に回ってきた腕がすんなりと私を抱えて抱き起す。ひんやりした外の気配。雨の匂い、に、混じって煙草の苦い香り。真下くんの匂いがする、と、これも勿論声の形になんてできなかった。その首筋に頭をこすりつけて肌の感触を確かめる。頭上から小さく舌打ちの音。「熱が高いな」、低い声がそう言うのをまるで他人事のように聞いていた。がさがさと、何やらレジ袋を漁るみたいな音がする。風邪薬とか買ってきてくれたのかな悪いな。思った端から思考はゆるゆると流されておぼつかなくなる。ワイシャツ越しの体温。目を閉じれば真下くんの、心臓の音とか息の感触とか、そういうのが伝わってきてどうしようもなく安心してしまう。そのまま眠りに落ちてしまってもいいくらいに気持ちいい。なのにいきなり無遠慮に指で口をこじ開けられて、冷たい感触の何かを口に突っ込まれた。
それが体温計だ、と、気付いたのと同時くらいに真下くんが馬鹿にしたような笑みをこぼす。無様だな、とか、何とか言いたげな瞳の色。「素直で結構な事だな。そのままイイコで咥えてろよ」などとせせら笑われてほんのり腹立たしい気持ちがわいてくる。これじゃまるで子供扱いだ、と、そう思うのに、されるがままになりたくなってしまうのは熱のせいなんだろうか。生活感のかけらもない顔をしてるくせに、真下くんは妙に手際がいい。おでこにかかった前髪を手がかき分けて、ぺっ、って感じの雑さで冷却シートを貼りつけてくる。そのままの体制で、どのくらいぼうっとしていたんだろうか。唐突に電子音が鳴り響き、口の中の体温計は引っこ抜かれる。真下くんはそれを確認したのち、「38度5分だな」と、平坦な声で私に告げる。
38度5分。そんな高熱を出したのは小学生の時以来だろうか。自覚した瞬間にまた体温が上がったような気がする。だけど、「ましたくんどうしよう、しぬかもしんない」息も絶え絶えでそれだけ言えば、至極冷静に「安心しろよ。この程度で人は死なない」と切り捨てられた。うう、と、うめき声のようなため息のような声が口からこぼれて、真下くんのシャツのあたりでわだかまる。色々と言いたいことはあったはずなのに、うまく言葉が出てこない。散々ぐずついた挙句、結局、「おかえり」などと、間抜けた言葉を口走っていた。数秒の沈黙。その後、一ミリの感傷も含まれていない声が当たり前のように言う。「ああ、ただいま」それを聞いて泣きたいほど安心してしまうのも、全部熱のせいという事にしておく。
「……、とりあえず何か腹に入れろ。適当に作ってやるから」
「やだよここに居てよ。あんまり食欲ないしこのまま寝てたい」
「何か入れないと薬が飲めないだろうが。まあ、無理矢理にでも口に突っ込まれたいなら好きにしろ」
「ていうか真下くんって料理できるの」
「……心配するなよ。腹に入れば皆同じだろ」
心配しかないよねそれは。と、言ってみた言葉は普通に無視された。頭痛がして寒気がして、おまけに関節も痛い。だからどうしても離れがたくて、「真下くんがご飯作ってる間ずっとくっついてていい」などと、脳みそがとけているとしか思えない質問をしてしまう(舌打ちの後に「だめにきまってるだろ」と一蹴された)。力の入らない体で縋りついた手はあえなく引っぺがされて、「寝てろ」との最後通牒とともにお布団の中に後戻りさせられてしまう。ぼやぼやと涙でにじんだ視界の向こう、真下くんがほんのりと視線を緩めた気がした。「お前、ガキかよ本当に。面倒くさいな」と悪態を付くその声は、どうしたって優しくしか聞こえない。性懲りもなく見つめていたら、とうとう掌で瞼を塞がれて、目を閉じるしかなくなってしまった。体の中をぐるぐると熱が回る。時計の音に、遠くから聞こえる雨の音。それと、真下くんの気配。この人がいるところは空気が綺麗だ、なんて、いつも思う事をまたしても考える。さっきまで感じていた心細さは、とっくにとけて消えていた。
▽
「ほら」
「……、これなに?」
「卵酒だよ見りゃ分かるだろ。とりあえずそれだけ飲んでおけよ。見ててやるから」
「たまござけ」
言われた言葉をおうむ返しに復唱してから、差し出されたマグカップを両手で受け取る。見ててやるから、というその言葉通り、容赦ない視線が私に降り注いで何とも居心地が悪かった。見る、と言うよりも見張る、という感じの生真面目さで、真下くんは私から視線をそらさない。おずおずとカップに口を付けたら、ふわん、と、甘ったるいにおいが鼻をくすぐった。卵の風味。ほんの少しのアルコールにしょうがの香り。嚥下するたびにほんのりと体が熱くなって、「おいしい」とつぶやけば、何とも投げやりな感じで頭を撫でられた。
促されるままにコップの中身を飲み干して、与えられるがままに薬を飲み下す。まるで雛が餌をもらうみたいに、一から十までされるがままになっている。距離感がおかしい。確かにそう思うのに、熱のせいでストッパーが利かない。嘘だ。本当は熱のせいにして、徹底的に甘えたくなっているだけなのかもしれなかった。だって、二人きりの時の真下くんはちょっとどうかと思うくらいに私に甘いのだ。だからどんどん私はダメになって、どんどんこの場所に慣れて行ってしまう。
「……、真下くん」
「何だよ」
「真下くんて意外と世話焼きだよね」
「貴様、言うに事欠いてそれか。せめて感謝しろよ病人が」
「うう、そうだよねありがとう。……ねえ、風邪移しちゃったらごめん、その時は私が看病したげるね」
「言ってろ。誰かさんとは鍛え方が違うんだよ」
「しばらくくっついてていい」と聞けば「好きにしろよ」と心底面倒そうな声で許可が出た。だからいっそ押し倒すくらいの勢いで抱き着いてみたはずなのに、案外あっさりと抱き留められてしまう。これがつまり、【鍛え方が違う】という事なのかもしれない。眠ってしまうのは何となくもったいなくて、お布団の中でゆるゆると会話を続けている。体温がとけて馴染んで同化していくのが心地よかった。もう片方の手がこちらに伸びてきて、髪の毛を撫でてから耳にかける。すり、と、ほんの少しだけ耳殻をこすられる感触が甘やかだった。その手にすり寄ったら、かすかに真下くんの身体が震える。耳の後ろを伝って首筋まで。触れられたところからじくじくと伝う感触が、気だるい体には心地いい。二人分の呼吸に体温。そういうものを当たり前にして、慣れ切ってしまうのが怖い。少し前までは確かにそう思っていたのに、意思に反して私の身体は、それを余すところなく飲み干そうとしてしまう。与えられたら与えられるだけ、貪欲に。
「……ね、なんでこんなことになっちゃったんだと思う」
「俺が知るかよ。風邪の原因なんて、薄着で寝たとか髪の毛乾かさずに寝たとかそんなんだろ大方」
「そうじゃなくて。何か最近、どんどん駄目になってる気がするんだよね」
「さあな。気のせいじゃないのか」
「気のせいかなあ。前まではこういう時、一人で頑張れてた気がするんだけど」
「へえ、良い兆候じゃないか。少なくとも俺にとってはそっちの方が都合がいい」
「都合がよくは、ないんじゃないの。真下くんって仕事してないとストレスで狂うタイプの人でしょ」
「……、毎度毎度、お前は俺の事を何だと思ってるんだ?」
「とりあえず仕事人間だとは思ってる」
「はあ。その件についてはさっき話してやったはずだ。前回の反省を生かしてワークライフバランスを取ることにしたんだよ。何度も説明させるな」
「前から思ってたけど、ワークライフバランスって言葉の使い方違くない?」
「やかましいな病人が。減らず口を叩く元気があるならさっさと寝ろよ」
心底面倒そうな声。それなのに、私に触れてくる手は酷いくらいに優しい。もう喋るな、とばかりに手のひらで口をふさがれて、ついでみたいに瞼にキスを落とされた。好きだよ。口をふさがれている状態だから、言ってみた声はただの音にしかならない。それでも真下くんはその音をきちんと拾って、「知ってる」と律義に返してくれるので泣きたくなる。口元を塞いでいた手をどかして、指を絡めみる。そしたら当たり前のように握り返されて、諦めて目を閉じればこめかみにも口づけが降ってくる。こういう時の真下くんは徹底的に私に甘い。丁寧に丁寧に退路を塞がれて、少しずつ甘えることを教え込まれて、それで、すっかり私は閉じ込められてしまう。
どんどんおぼつかなくなる意識の中で、ざあざあと雨の音を聞く。遠くで響く雷鳴。ずぶずぶと意識が沈み込んで、闇の中に溶けていく。眠りに落ちる瞬間は、いつもほんの少しだけ怖い。自分の境目すらも分からない真っ暗闇。どろどろと意識を溶かすその中は、少しだけ懐かしくて、怖いのに心地いい。深く深く沈んでいく。誰の手も届かない程遠くまで。だけど私はもう知っているのだ。どこまで行っても逃げられない。どこまで深く沈んでも、その手に引っ張り上げられる。逃がさない、とばかりにきつく握りしめてくる体温が愛おしくて、ほんの少しだけ憎らしかった。その声に定義されて、その手に縛られて、私はどこへも行けなくなる。だとしてもこの人は、私と同じ場所に沈んでくれはしないのだ。
今日はもう夢は見ないだろう。二人分の呼吸の音。体温がとけて馴染んで、とろとろと輪郭を溶かしていく。このまま朝が来なくても良い。子供みたいに、そんなことを思ったのが最後だった。そこでふつんと意識が途切れて、気が付いたらカーテンの向こうは薄明るくなっていた。私の意志とは関係なく世界は回るし、時間は容赦なく過ぎていく。当たり前のことだ。それを嘆いたところで仕方がない。
中途半端に暗い部屋の中、布団にくるまったまま真下くんが身支度をする後姿を眺めている。ネクタイを結んで、ネクタイピンでとめて、ジャケットを着て。いっそほれぼれするくらいスムーズに、淀みなく行われる一連の動作。私をここに閉じ込めた癖に。それなのにこの人はいつもこうやって、自分だけどこかに行ってしまう。いってらっしゃい、ともいかないで、とも言えなかった。多分熱のせいだろう。何となくスーツの裾を掴んだら、振り返った彼が私を見て、呆れたみたいな笑みをこぼす。「昼前には帰ってやるよ。だから精々、イイコで寝てろ」そうして頭を撫でられているうちに、すとんと眠りに落ちていく。どうしたって逆らえない、そう思ってしまうのも全部、熱のせいってことにしておこう。
▽
「風邪だね。暖かくしてビタミンを取りよく眠る。それが一番の薬だよ。一応熱さましくらいは出しておくから、どうしても辛くなったら飲むと良い」
「……ありがとうございます」
「最悪は、真下君に移してやればいいんじゃないかな。風邪は移すと治ると言うから。……ああ失敬冗談だよ」
「……、そうですね」
「それにしても彼は、あれで意外と甲斐甲斐しいじゃないか。僕としても微笑ましいよ、友人が幸せそうにしているのを見るのは気分がいい」
揶揄っているんだか本気なんだか分からない。淡々とした口調で大門先生はそれだけ告げ、「とにかく、週末は二人でゆっくりすることだね。丁度好いんじゃないかな、彼も偶にはワークライフバランスを取った方がいい」などと、どこかで聞いたような結論で締めくくった。ワークライフバランス。全体的にすべての元凶がそこにあるような気がする。ぼんやりとそう思ったけど、熱に浮かされた頭ではうまい事答えが出なかった。大門先生はふと面白げな顔で私を見て、それからなんてことない口調で付け加える。
「それじゃ、お幸せにどうぞ」
その言葉は私に、と言うよりも、診察室の扉のすぐ外で待っている真下くんに向けられたものらしかった。真下くんは最早開き直ったのか、ふん、と鼻を鳴らしただけだったけど。三日分の薬とビタミン剤。そして、二人きりの週末。どろどろに甘やかされて寝かされて、そろそろおかしくなるんじゃないのかって不安になったころに漸く熱は下がった。あれだけ一緒にいたのに真下くんに風邪はうつらず、私だけが格好悪いところを見られてる気がして納得いかない。だけどまあ、この際諦めた方が良いのかもしれなかった。考えたって仕方ないことはもう全部、ワークライフバランスのせいという事にしておこう。