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「真下さんは、ほら、自分勝手なところがあるじゃない」
「ありますね。物凄く」
「でも寧ろ貴方には、自分勝手な方の方が良かったんじゃないこと? 貴方の理屈は彼には通用しない。一方的にあの人のルールに巻き込まれて、それで貴方は引きずり出されたの。だから生きて帰ってこられたのね」
分かるような分からないような理屈だった。曖昧に笑う私ににっこりと微笑み、安岡とわ子先生は優雅に紅茶のカップを傾ける。お詫びとお見舞いを兼ねて先生の事務所を訪ねたら、「あら丁度良かったわ。今から午後のお茶の時間なの。苗字さんも付き合って頂戴」と誘われて、それでこんなことになったのだった。マンションが燃えた事、九条館を抜け出した事、あんまり覚えていないけど多分死にかけたらしき事など。事の顛末を微に入り細を穿つように根掘り葉掘り聞き出して、先生はすっかり満足したらしかった。
「結局、あれって何だったんでしょうね」
「さあ? 忘れてしまいなさいな。真下さんだってそう言った筈よ。思い出せないなら、無理に思い出すことなんてないの」
「そういう物、なんでしょうか」
「そういう物よ。それに貴方、前よりも良い状態になったわ。色々な事が嚙み合ったのね。すっかり存在が安定して見える」
これも分かるような、分からないような話だった。でも確かに、あの日以来あからさまに何かが変わったのだ。あれ以来、漠然と自分の形が分からなくなるような、あの嫌な感覚は消えてなくなった。単に心配事が解消されたからなのか、それとも霊的なのかはよく分からない。
「ふふ。だから言ったのよ。貴方の様な人には、真下さんの性質が良く噛み合うの」
嚙み合う。先生の言葉を頭の中で反芻する。
噛み合う。つまりそういう事なのかもしれなかった。結局あの日以来、何かが私を訪ねてくる事もない。その代りに奇妙な事に気付いたのだ。たまに見えていたおかしな影のような物ーーそれは真下くんと一緒にいるときは見えないのだけどーーを見る頻度が格段に上がっている。別に幽霊と言う訳でもない。きっと霊感というのとも違うんだろう。影は時々私の中に入り込んで、身体のどこか、ぽっかりと穴の開いた部分に入り込む。
この影は記憶なのだ、と気付いたのがつい昨日の事だった。私はただ、死の記憶に愛されていた。きっと思い出せない程昔から、ずっと。それがいい事なのか、悪い事なのかは分からない。だけどその気になれば、この力は何かの役に立つのだろう。例えば、人を呪ったりなんかする時には。そこらじゅうの影を呼び集めたら、それなりに強い呪いになるだろう。逆に、他人に取りついた呪いの類を、私が奪って飲み込むことだって出来るかもしれない。そうだとしたら最高だ。万が一の時には、私があの人を守ることが出来る。
「……ねえ、苗字さん」
「はい」
「貴方みたいな方をね、過去に何人か見てきたの。そういうモノと噛み合ってしまう方たちを。皆あちらの世界に馴染みすぎて居なくなってしまった。だから言っておくわ。例え誰かの為だとしても、それを使うのはやめておきなさい」
「……、はい。分かってます」
安岡先生には、どこまで見抜かれているのだろうか。じっとこちらを見つめてくる瞳をただ見つめ返す。別に、今すぐ誰かを呪おうなんて考えている訳じゃない。だけど、もしもの時ってあると思うのだ。例えば、私の大事な人が危ない目に遭わされた時とか。
「ところでね、苗字さん。貴方これからどうするの? 会社を首になったのなら、新しいお勤め先を探さないといけないのよね?」
「そうなんですよ。仕事が無くなったら結構暇になっちゃって。真下くんの事務所でも手伝おうかなって言ったら怒られちゃった。だからとりあえずバイトでも探そうと」
「ああ、それは好都合だわ。それじゃあ貴方、わたくしの所で働いてみない? 実はアシスタントの子が一人辞めてしまうのよ」
「はあ。でも、占いなんてできませんよ私」
「少しずつ覚えて行けばいいのよそんなの。メインはアシスタント業務だもの」
「アシスタント業務」
「ええ。アシスタント業務。受付とか、お客様の対応とか、事務仕事とか、わたくしのお使いとか」
「いいんですか? 履歴書も見ないで決めちゃって」
「良いのよ、だってわたくしの事務所だもの。……今の貴方はね、非常に危ういのよ。まるで拳銃を持った子供と同じ。でもここでなら、きっと色々と教えてあげられる。貴方にとっても、悪い話じゃないと思うけど」
答えがないのは、肯定と捉えられたのかもしれなかった。安岡先生は、私に向かって首をかしげて見せる。それから、妙に楽しそうな声で付け加えたのだった。「実はもうアシスタント名も決めてあるのよ。マリアンヌ・アントワーヌ・アーイダ苗字。ね、素敵でしょう」
▽
「は? マリアンヌ? 何の話だそれは」
「だから、マリアンヌ・アントワーヌ・アーイダ苗字だってさ。私の源氏名」
「これお土産。あと安岡先生から伝言。【あんまり根を詰めないようにお気を付けあそばせ】だって」お土産に持たされた高級チョコの詰め合わせを渡せば、これ以上ないほどの人相の悪さで、それでも真下くんはチョコを受け取った。「あのババアふざけやがって」安岡先生の事ババアって言うのやめなよお得意様なんでしょ。口から出かかった言葉を飲み込んだのは、その様子が余りに疲れ切って見えたからだった。もう三日くらい寝てない、みたいな顔をしている。実際、会うのは三日ぶりなのだ。基本的に仕事人間の真下くんは殆ど部屋に帰ってこない。おかげさまであの部屋での私の生活は、同棲というよりも一人暮らしみたいな状態と化している。……だからこそ、あそこから出る踏ん切りもつかないんだけど。
真下くんの事務所に来るのは、あの日以来だった。ほぼ二週間ぶりくらいに訪れたその場所は、山盛りの書類と缶コーヒーと煙草の吸殻で、酷い有様と化していた。机の上も椅子の上も埋まっているので、仕方なく来客用のソファに腰かける。「ねえ大丈夫?」と聞いてみた言葉に返事はなくて、真下くんはただただ重ったるいため息を吐いて机に崩れ落ちた。
「……本当にふざけやがってあのババア……禄でもない事ばかり考えやがって……」
「ねえ真下くん本当に大丈夫?」
「大丈夫な訳がないだろう、これが大丈夫に見えたら貴様の目は節穴だよ」
「……だよね。顔色やばいよ。とりあえずちょっと寝たら」
「……ああ」
「三十分くらいしたら起こしてあげるし」
「……ああ」
「何なら膝枕でもしてあげようか」
「……ああ、頼む」
「うん。……うん?」
そんなもん誰が要るか。用が済んだらさっさと帰れ。てっきりそんなような事を言われると思った軽口に、斜め上の言葉が返ってきた。真下くんはふらふらと夢遊病のような足取りで立ち上がり、ソファの上に上がり、そのまま私の膝の上に頭を乗っけてくる。マジかこの人。思っている間に状況はどんどん進行していく。膝の上の重みが妙にリアルだった。服越しに感じる体温が妙に気恥しい。
「ま、……真下くん、さあ」
「……何だよ」
「私が言っておいて何だけど寝づらくない? 膝枕って」
「まあ、そうだな」
「やめる?」
「やめない」
膝の上に初めて飼い猫が乗ってきた人って、きっとこんな気持ちになるんだろう。思ったけど口には出さなかった。何となくその髪の毛に触ってみた手は、案外はねのけられず受け入れられた。少し癖のある硬い髪の毛。形の良いおでこに切れ長の瞳。あの日以来、真下くんは私の事を本当に【恋人】として扱うことに決めたらしい。たまにこうして、私を甘やかすようになった。正直大変に心臓に悪い。だけど、それを認めてしまうのも何だか腹立たしい。結局、こういうのって好きになった方が負けなのだ。つまり私は最初から完膚なきまでに負けていて、だから、一から十まで真下くんのペースで物事が進んでいく。
「ねえ、仕事場でこんなんしてていいの。真下くん」
「ふん、随分と冷たいじゃないか。二十四時間働きづめの恋人に対して言う事か? それは」
恋人、という気恥ずかしいワードが脳みそを直撃して、ふぐ、とか、うぐ、とか、喉の奥で変な音が漏れる。そしたら「ガキかよ」などと鼻で笑われた。本当に、真下くんは性格が宜しくない。私たちが正式に【オツキアイ】を始めたあの日以来時折、こうやって私をからかうようになった。【オトモダチ】だった頃に、【あんまり甘やかされると困る】なんて口走った事を根に持っているのかもしれない。あえて気恥ずかしい言葉を出して、私が振り回される様をせせら笑う。
「でも誰か来ちゃうかもよ。バイトの子とか」
「やかましいな一々。少なくともこの時間帯には誰も来ない。残念だったな」
「いや、残念ではない、けど」
大きな手が私の指先を摑まえる。そのまま手のひらに口づけられたら、一気に体温が上がっていくのが分かった。初めて彼氏できた中学生か。我ながら心底そう思う。きっとこれまでの関係に慣れ過ぎていたんだろう。一方的に愛情表現をするのは得意なのに、相手から同じものを返されると途端にうろたえてしまう。ほんの少し指先に力を籠められるだけで、身体が大げさに震えるのが分かった。名前。私の名前を呼ぶ声の、ほんのひとさじ蜜を混ぜたような甘さにめまいがする。不意に伸びてきた手に引き寄せられて、そのまま唇が重なった。少しかさついた唇の感触。一瞬だけ少し息を止めたのだって、きっと彼にはばれている。
「……好きだよ」自分の声がとろとろに蕩け切ったチョコレートみたいに甘ったるい。その事に気付いた瞬間に途方に暮れてしまう。それなのに真下くんは呆れた顔で、「お前、本当に俺の顔が好きだな」などと見当違いの事を言うので笑った。察しが良い様でこの人は、肝心な事が分かっていないのだ、意外と。それとも、これも前に言ったことを根に持っているだけだろうか。確かに真下くんは顔がいい。顔がいい上に声も良い。そんなことを確かに以前口走った事がある。ぼんやりと思い出しながら、されるがままになっている彼の髪の毛を撫でている。「うん、好きだよ」素直に白状すれば案の定「知ってる」と返されて、何だか釈然としない気持ちになる。つまりこういうのって大体、好きになった方が負けなのだ。
「ねえ、真下くん」
「何だよ」
「確かに真下くんは顔と声だけは飛び切り良い男だと思うんだけどさあ」
「それはどうも」
「でも私は、顔どころじゃなく全部好きだよ。本当は」
「……、そうかよ」
「ずっとずっと大好きだった。そんなの真下くんなら、とっくに知ってたと思うけど」
「……、はあ」
心底うんざりしたようなため息。そして沈黙。何となく絡めてみた指の、体温が意外と高い。ごつごつとした指の、関節の感触。手の甲に浮き出る骨の形をなぞったら、その手がかすかに震える。真下くんは意外とくすぐったがりなのだろうか。「顔も、声も、性格悪いところも、優しいところも、全部好きだよ。ずっと」こういうのって好きになった方が負けなのだ。どうせ全てはバレている。だったら、いちいち取り繕うのは無意味だろう。「……今日は随分と素直なんだな」と皮肉られたので、素直に思っている事を白状することにする。
「だって真下くんは、暫く帰ってこないでしょ。だから会えるうちに言っておこうと思って」
そしたら舌打ちの後に再度ため息を吐かれて、更に釈然としない気持ちになる。恋人だのなんだのと、こっぱずかしい言葉を持ち出してきたのは真下くんの方なのに。
「……本当に。こういう時に限ってそういう事を言うよな、お前は」
「えっ、何かごめん」
「……ごめんで済んだら警察はいらない」
「そんなに怒ることなくない?」
「覚えてろよ。意地でも明日には帰ってやるからな」
「え? 気ぃ使ってくれなくて良いよ。別に寂しくないから大丈夫だよ。仕事頑張りなよ」
「……はあ。ふざけるなお前もう黙れ……」
「いやふざけてはないけど何なの。そんな心配しなくても本当に大丈夫だよ、ちゃんと大人しくしてるって」
「……ああクソ、いい加減にしろお前」
真下くん何なの怖いよ。だけどそれを言う前に、もう一度掠めるみたいに口づけられた。つまりこれは照れ隠しか何かなのではないか。そう思ったけど、後が恐いので深追いするのはやめておいてあげることにする。「……最悪だ」うめくような声。最早独り言みたいな声は、もはや私に言ってるんだか自分に言ってるんだか分からない。
「はあ。本当に最悪だムラムラする」
「仕事場で突然何を言うの真下くん」
「やかましいここは俺の事務所なんだよ俺がルールだ、いや違うそうじゃない。それはまずい。中学生のガキか俺は」
「ほんとに何言ってるの真下くん、しっかりして」
「しっかりするのはお前の方だよいい加減にしろ苗字名前。度々言ってるが貴様はもっと危機感を持て」
やばい、真下くんが壊れた。それ程までに疲れていたのか、それとも単に寝不足なのか。何かとんでもない事を口走り出した様子はそれなりに面白かったけれど、本人はいよいよ限界が近いみたいだった。延々と噛み合わない会話を繰り返しよく分からない理由で私を罵りまくった後、真下くんは唐突にぱたりと会話を打ち切った。「……もういい疲れた、寝る」……この人は本当にいつも勝手だ。
再び訪れる沈黙。寝たの? と聞いてみた私の言葉には返事はなかった。今度こそ本当に眠ってしまったらしい。なので、恐る恐る頬に触れてみる。穏やかな寝息に、案外平和で可愛らしい寝顔。つないだままの手を握ってみたらかすかに握り返されて、それでまたしても体温が上がってしまう。真昼間の事務所で、私たちは一体何をしているのか。妙に気恥しい空気の中考えている。……あと三十分後、どういう顔でこの人を起こせばいい。
▽
「少なくともこの時間帯には誰も来ない。残念だったな」
……つまりこれは、いわゆる【察しろよ】というやつなんだろう。
パーティションの向こう側から聞こえたその声は、明らかにこちらへ向けた命令だった。察しろ。出て来るな。邪魔したら分かってんだろうな。大方そんな所だろう。長嶋翔は考える。
……こういうの何て言うんだっけ。ワークファイルバランス? 確かそんなような言葉だったよな。
三日三晩案件にかかり切りだった雇い主の機嫌は、完全に最悪と言ってよかった。いつにも増して濃い隈にほぼヤクザと言っていいくらいの物腰。別にビビってるわけじゃあない。が、自分が休めと言ったところでどうせあの人は休まないのだ。だから長嶋にとっても、これは好都合と言えた。精々、苗字名前とかいうあの女が真下の旦那の機嫌を取ってくれれば良いのだ。その間は自分だって、面倒なファイル整理の仕事から逃れられる。真下の旦那だって、少し眠れば機嫌も直るだろう。結構な事じゃねえの、と内心で独り言ちながら、長嶋はそろりそろりと歩き出す。事務所の非常階段にむかって、なるべく音を立てないように。
実は、ほんの少しだけ心配もしていたのだ。こんなの俺の出る幕じゃない、とは思いつつ。何せ、あの日対面した苗字名前は、酷く思いつめたような顔をしていたのだ。真下の旦那だってどうにも様子がおかしかった。だけどまあ、なんだかんだ丸く収まったってことなんだろう。勿論、優秀な助手である俺としては、雇い主の恋愛沙汰に首を突っ込むなんて野暮な事はしないでおくのだが。
天気は快晴。バイトも良いが、こんな日は少しくらいさぼっても罰は当たらないだろう。軽快な音を立てながら、長嶋はビルの外階段を下っていく。精々あと三十分は自由の身だ。真下の旦那にはワークファイルバランスにいそしんでもらうことにして、俺は近所の野良猫でも撫でに行こう。
「ありますね。物凄く」
「でも寧ろ貴方には、自分勝手な方の方が良かったんじゃないこと? 貴方の理屈は彼には通用しない。一方的にあの人のルールに巻き込まれて、それで貴方は引きずり出されたの。だから生きて帰ってこられたのね」
分かるような分からないような理屈だった。曖昧に笑う私ににっこりと微笑み、安岡とわ子先生は優雅に紅茶のカップを傾ける。お詫びとお見舞いを兼ねて先生の事務所を訪ねたら、「あら丁度良かったわ。今から午後のお茶の時間なの。苗字さんも付き合って頂戴」と誘われて、それでこんなことになったのだった。マンションが燃えた事、九条館を抜け出した事、あんまり覚えていないけど多分死にかけたらしき事など。事の顛末を微に入り細を穿つように根掘り葉掘り聞き出して、先生はすっかり満足したらしかった。
「結局、あれって何だったんでしょうね」
「さあ? 忘れてしまいなさいな。真下さんだってそう言った筈よ。思い出せないなら、無理に思い出すことなんてないの」
「そういう物、なんでしょうか」
「そういう物よ。それに貴方、前よりも良い状態になったわ。色々な事が嚙み合ったのね。すっかり存在が安定して見える」
これも分かるような、分からないような話だった。でも確かに、あの日以来あからさまに何かが変わったのだ。あれ以来、漠然と自分の形が分からなくなるような、あの嫌な感覚は消えてなくなった。単に心配事が解消されたからなのか、それとも霊的なのかはよく分からない。
「ふふ。だから言ったのよ。貴方の様な人には、真下さんの性質が良く噛み合うの」
嚙み合う。先生の言葉を頭の中で反芻する。
噛み合う。つまりそういう事なのかもしれなかった。結局あの日以来、何かが私を訪ねてくる事もない。その代りに奇妙な事に気付いたのだ。たまに見えていたおかしな影のような物ーーそれは真下くんと一緒にいるときは見えないのだけどーーを見る頻度が格段に上がっている。別に幽霊と言う訳でもない。きっと霊感というのとも違うんだろう。影は時々私の中に入り込んで、身体のどこか、ぽっかりと穴の開いた部分に入り込む。
この影は記憶なのだ、と気付いたのがつい昨日の事だった。私はただ、死の記憶に愛されていた。きっと思い出せない程昔から、ずっと。それがいい事なのか、悪い事なのかは分からない。だけどその気になれば、この力は何かの役に立つのだろう。例えば、人を呪ったりなんかする時には。そこらじゅうの影を呼び集めたら、それなりに強い呪いになるだろう。逆に、他人に取りついた呪いの類を、私が奪って飲み込むことだって出来るかもしれない。そうだとしたら最高だ。万が一の時には、私があの人を守ることが出来る。
「……ねえ、苗字さん」
「はい」
「貴方みたいな方をね、過去に何人か見てきたの。そういうモノと噛み合ってしまう方たちを。皆あちらの世界に馴染みすぎて居なくなってしまった。だから言っておくわ。例え誰かの為だとしても、それを使うのはやめておきなさい」
「……、はい。分かってます」
安岡先生には、どこまで見抜かれているのだろうか。じっとこちらを見つめてくる瞳をただ見つめ返す。別に、今すぐ誰かを呪おうなんて考えている訳じゃない。だけど、もしもの時ってあると思うのだ。例えば、私の大事な人が危ない目に遭わされた時とか。
「ところでね、苗字さん。貴方これからどうするの? 会社を首になったのなら、新しいお勤め先を探さないといけないのよね?」
「そうなんですよ。仕事が無くなったら結構暇になっちゃって。真下くんの事務所でも手伝おうかなって言ったら怒られちゃった。だからとりあえずバイトでも探そうと」
「ああ、それは好都合だわ。それじゃあ貴方、わたくしの所で働いてみない? 実はアシスタントの子が一人辞めてしまうのよ」
「はあ。でも、占いなんてできませんよ私」
「少しずつ覚えて行けばいいのよそんなの。メインはアシスタント業務だもの」
「アシスタント業務」
「ええ。アシスタント業務。受付とか、お客様の対応とか、事務仕事とか、わたくしのお使いとか」
「いいんですか? 履歴書も見ないで決めちゃって」
「良いのよ、だってわたくしの事務所だもの。……今の貴方はね、非常に危ういのよ。まるで拳銃を持った子供と同じ。でもここでなら、きっと色々と教えてあげられる。貴方にとっても、悪い話じゃないと思うけど」
答えがないのは、肯定と捉えられたのかもしれなかった。安岡先生は、私に向かって首をかしげて見せる。それから、妙に楽しそうな声で付け加えたのだった。「実はもうアシスタント名も決めてあるのよ。マリアンヌ・アントワーヌ・アーイダ苗字。ね、素敵でしょう」
▽
「は? マリアンヌ? 何の話だそれは」
「だから、マリアンヌ・アントワーヌ・アーイダ苗字だってさ。私の源氏名」
「これお土産。あと安岡先生から伝言。【あんまり根を詰めないようにお気を付けあそばせ】だって」お土産に持たされた高級チョコの詰め合わせを渡せば、これ以上ないほどの人相の悪さで、それでも真下くんはチョコを受け取った。「あのババアふざけやがって」安岡先生の事ババアって言うのやめなよお得意様なんでしょ。口から出かかった言葉を飲み込んだのは、その様子が余りに疲れ切って見えたからだった。もう三日くらい寝てない、みたいな顔をしている。実際、会うのは三日ぶりなのだ。基本的に仕事人間の真下くんは殆ど部屋に帰ってこない。おかげさまであの部屋での私の生活は、同棲というよりも一人暮らしみたいな状態と化している。……だからこそ、あそこから出る踏ん切りもつかないんだけど。
真下くんの事務所に来るのは、あの日以来だった。ほぼ二週間ぶりくらいに訪れたその場所は、山盛りの書類と缶コーヒーと煙草の吸殻で、酷い有様と化していた。机の上も椅子の上も埋まっているので、仕方なく来客用のソファに腰かける。「ねえ大丈夫?」と聞いてみた言葉に返事はなくて、真下くんはただただ重ったるいため息を吐いて机に崩れ落ちた。
「……本当にふざけやがってあのババア……禄でもない事ばかり考えやがって……」
「ねえ真下くん本当に大丈夫?」
「大丈夫な訳がないだろう、これが大丈夫に見えたら貴様の目は節穴だよ」
「……だよね。顔色やばいよ。とりあえずちょっと寝たら」
「……ああ」
「三十分くらいしたら起こしてあげるし」
「……ああ」
「何なら膝枕でもしてあげようか」
「……ああ、頼む」
「うん。……うん?」
そんなもん誰が要るか。用が済んだらさっさと帰れ。てっきりそんなような事を言われると思った軽口に、斜め上の言葉が返ってきた。真下くんはふらふらと夢遊病のような足取りで立ち上がり、ソファの上に上がり、そのまま私の膝の上に頭を乗っけてくる。マジかこの人。思っている間に状況はどんどん進行していく。膝の上の重みが妙にリアルだった。服越しに感じる体温が妙に気恥しい。
「ま、……真下くん、さあ」
「……何だよ」
「私が言っておいて何だけど寝づらくない? 膝枕って」
「まあ、そうだな」
「やめる?」
「やめない」
膝の上に初めて飼い猫が乗ってきた人って、きっとこんな気持ちになるんだろう。思ったけど口には出さなかった。何となくその髪の毛に触ってみた手は、案外はねのけられず受け入れられた。少し癖のある硬い髪の毛。形の良いおでこに切れ長の瞳。あの日以来、真下くんは私の事を本当に【恋人】として扱うことに決めたらしい。たまにこうして、私を甘やかすようになった。正直大変に心臓に悪い。だけど、それを認めてしまうのも何だか腹立たしい。結局、こういうのって好きになった方が負けなのだ。つまり私は最初から完膚なきまでに負けていて、だから、一から十まで真下くんのペースで物事が進んでいく。
「ねえ、仕事場でこんなんしてていいの。真下くん」
「ふん、随分と冷たいじゃないか。二十四時間働きづめの恋人に対して言う事か? それは」
恋人、という気恥ずかしいワードが脳みそを直撃して、ふぐ、とか、うぐ、とか、喉の奥で変な音が漏れる。そしたら「ガキかよ」などと鼻で笑われた。本当に、真下くんは性格が宜しくない。私たちが正式に【オツキアイ】を始めたあの日以来時折、こうやって私をからかうようになった。【オトモダチ】だった頃に、【あんまり甘やかされると困る】なんて口走った事を根に持っているのかもしれない。あえて気恥ずかしい言葉を出して、私が振り回される様をせせら笑う。
「でも誰か来ちゃうかもよ。バイトの子とか」
「やかましいな一々。少なくともこの時間帯には誰も来ない。残念だったな」
「いや、残念ではない、けど」
大きな手が私の指先を摑まえる。そのまま手のひらに口づけられたら、一気に体温が上がっていくのが分かった。初めて彼氏できた中学生か。我ながら心底そう思う。きっとこれまでの関係に慣れ過ぎていたんだろう。一方的に愛情表現をするのは得意なのに、相手から同じものを返されると途端にうろたえてしまう。ほんの少し指先に力を籠められるだけで、身体が大げさに震えるのが分かった。名前。私の名前を呼ぶ声の、ほんのひとさじ蜜を混ぜたような甘さにめまいがする。不意に伸びてきた手に引き寄せられて、そのまま唇が重なった。少しかさついた唇の感触。一瞬だけ少し息を止めたのだって、きっと彼にはばれている。
「……好きだよ」自分の声がとろとろに蕩け切ったチョコレートみたいに甘ったるい。その事に気付いた瞬間に途方に暮れてしまう。それなのに真下くんは呆れた顔で、「お前、本当に俺の顔が好きだな」などと見当違いの事を言うので笑った。察しが良い様でこの人は、肝心な事が分かっていないのだ、意外と。それとも、これも前に言ったことを根に持っているだけだろうか。確かに真下くんは顔がいい。顔がいい上に声も良い。そんなことを確かに以前口走った事がある。ぼんやりと思い出しながら、されるがままになっている彼の髪の毛を撫でている。「うん、好きだよ」素直に白状すれば案の定「知ってる」と返されて、何だか釈然としない気持ちになる。つまりこういうのって大体、好きになった方が負けなのだ。
「ねえ、真下くん」
「何だよ」
「確かに真下くんは顔と声だけは飛び切り良い男だと思うんだけどさあ」
「それはどうも」
「でも私は、顔どころじゃなく全部好きだよ。本当は」
「……、そうかよ」
「ずっとずっと大好きだった。そんなの真下くんなら、とっくに知ってたと思うけど」
「……、はあ」
心底うんざりしたようなため息。そして沈黙。何となく絡めてみた指の、体温が意外と高い。ごつごつとした指の、関節の感触。手の甲に浮き出る骨の形をなぞったら、その手がかすかに震える。真下くんは意外とくすぐったがりなのだろうか。「顔も、声も、性格悪いところも、優しいところも、全部好きだよ。ずっと」こういうのって好きになった方が負けなのだ。どうせ全てはバレている。だったら、いちいち取り繕うのは無意味だろう。「……今日は随分と素直なんだな」と皮肉られたので、素直に思っている事を白状することにする。
「だって真下くんは、暫く帰ってこないでしょ。だから会えるうちに言っておこうと思って」
そしたら舌打ちの後に再度ため息を吐かれて、更に釈然としない気持ちになる。恋人だのなんだのと、こっぱずかしい言葉を持ち出してきたのは真下くんの方なのに。
「……本当に。こういう時に限ってそういう事を言うよな、お前は」
「えっ、何かごめん」
「……ごめんで済んだら警察はいらない」
「そんなに怒ることなくない?」
「覚えてろよ。意地でも明日には帰ってやるからな」
「え? 気ぃ使ってくれなくて良いよ。別に寂しくないから大丈夫だよ。仕事頑張りなよ」
「……はあ。ふざけるなお前もう黙れ……」
「いやふざけてはないけど何なの。そんな心配しなくても本当に大丈夫だよ、ちゃんと大人しくしてるって」
「……ああクソ、いい加減にしろお前」
真下くん何なの怖いよ。だけどそれを言う前に、もう一度掠めるみたいに口づけられた。つまりこれは照れ隠しか何かなのではないか。そう思ったけど、後が恐いので深追いするのはやめておいてあげることにする。「……最悪だ」うめくような声。最早独り言みたいな声は、もはや私に言ってるんだか自分に言ってるんだか分からない。
「はあ。本当に最悪だムラムラする」
「仕事場で突然何を言うの真下くん」
「やかましいここは俺の事務所なんだよ俺がルールだ、いや違うそうじゃない。それはまずい。中学生のガキか俺は」
「ほんとに何言ってるの真下くん、しっかりして」
「しっかりするのはお前の方だよいい加減にしろ苗字名前。度々言ってるが貴様はもっと危機感を持て」
やばい、真下くんが壊れた。それ程までに疲れていたのか、それとも単に寝不足なのか。何かとんでもない事を口走り出した様子はそれなりに面白かったけれど、本人はいよいよ限界が近いみたいだった。延々と噛み合わない会話を繰り返しよく分からない理由で私を罵りまくった後、真下くんは唐突にぱたりと会話を打ち切った。「……もういい疲れた、寝る」……この人は本当にいつも勝手だ。
再び訪れる沈黙。寝たの? と聞いてみた私の言葉には返事はなかった。今度こそ本当に眠ってしまったらしい。なので、恐る恐る頬に触れてみる。穏やかな寝息に、案外平和で可愛らしい寝顔。つないだままの手を握ってみたらかすかに握り返されて、それでまたしても体温が上がってしまう。真昼間の事務所で、私たちは一体何をしているのか。妙に気恥しい空気の中考えている。……あと三十分後、どういう顔でこの人を起こせばいい。
▽
「少なくともこの時間帯には誰も来ない。残念だったな」
……つまりこれは、いわゆる【察しろよ】というやつなんだろう。
パーティションの向こう側から聞こえたその声は、明らかにこちらへ向けた命令だった。察しろ。出て来るな。邪魔したら分かってんだろうな。大方そんな所だろう。長嶋翔は考える。
……こういうの何て言うんだっけ。ワークファイルバランス? 確かそんなような言葉だったよな。
三日三晩案件にかかり切りだった雇い主の機嫌は、完全に最悪と言ってよかった。いつにも増して濃い隈にほぼヤクザと言っていいくらいの物腰。別にビビってるわけじゃあない。が、自分が休めと言ったところでどうせあの人は休まないのだ。だから長嶋にとっても、これは好都合と言えた。精々、苗字名前とかいうあの女が真下の旦那の機嫌を取ってくれれば良いのだ。その間は自分だって、面倒なファイル整理の仕事から逃れられる。真下の旦那だって、少し眠れば機嫌も直るだろう。結構な事じゃねえの、と内心で独り言ちながら、長嶋はそろりそろりと歩き出す。事務所の非常階段にむかって、なるべく音を立てないように。
実は、ほんの少しだけ心配もしていたのだ。こんなの俺の出る幕じゃない、とは思いつつ。何せ、あの日対面した苗字名前は、酷く思いつめたような顔をしていたのだ。真下の旦那だってどうにも様子がおかしかった。だけどまあ、なんだかんだ丸く収まったってことなんだろう。勿論、優秀な助手である俺としては、雇い主の恋愛沙汰に首を突っ込むなんて野暮な事はしないでおくのだが。
天気は快晴。バイトも良いが、こんな日は少しくらいさぼっても罰は当たらないだろう。軽快な音を立てながら、長嶋はビルの外階段を下っていく。精々あと三十分は自由の身だ。真下の旦那にはワークファイルバランスにいそしんでもらうことにして、俺は近所の野良猫でも撫でに行こう。