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びちゃり。靴の裏で、何かを踏みつぶしたような不快な音がする。
マンションの一室だったはずのその空間は、無残にも焼けただれて異臭が漂っている。焦げ臭い、饐えた、甘ったるい。先ほど廃墟で感じたのと同じ臭気。その中心にいる何かは、最早人の形など保っては居なかった。どろどろと形を変える、大きな淀みの塊。だが真下は躊躇ない足取りで【それ】に近づいていく。声にならない音階。あの男にはそれが声に聞こえるのだろうか? 八敷は考える。狂っているのはーー取り込まれているのは、俺かあいつか、どちらの方なのか。
「……はあ。手間かけさせてくれたな、苗字名前」
「ーー■■■」
ふと影が揺らいだ気がした。ましたくん。そう聞こえたのは空耳かもしれなかった。影。膨大な死の記憶。それらに飲み込まれた苗字名前は、まだ人間としての意識を保っているのだろうか。ここから彼女を引きずり出して、……それで終わりに出来るなら良いが。仮に苗字名前が助かったとしても。彼女を媒介とした呪いが、本人の意思だけで制御できる物なのかも分からない。おとぎ話じゃあるまいし、まさか真下だけには呪いが効力を発しないなどということもないだろう。彼女が完全に自我を失っているのなら最悪だ。その時は力づくでも根源を壊すしかない。
呪いの媒介はただの人間だ。呪い自体を消滅させられないのなら、彼女を殺してしまえばいい。それは至極単純な結論だった。だがそうなった場合、真下は苗字名前を殺せるだろうか。それが失敗した場合、俺はこいつを見捨てられるのだろうか。……先ほど言われた言葉通りに? そこまで考えてから、笑いがこみ上げてくる。まるで普段とは逆になったような役回りだ。引き際を考えろ。貴様はどうにも、あいつらに同情心を持ちすぎる。そんな風に自分を叱るのは寧ろあの男の役目のはずなのだが。
……それも偶には悪くないよな。妙に落ち着いている脳内で、八敷一男は独り言ちる。精々最後までつきあってやるよ。元々俺は、他人の面倒事に手を貸すのだって嫌いじゃないんだ。それに、面白い物も沢山見られたしな。このふてぶてしい男を揶揄うネタができたのも、実は結構ありがたい。だからまあ、今回の一件は貸しと言うことにしておいてやろう。もし無事に一連のごたごたが終わったら、その時は酒でも奢ってもらえば良い。
▽
「……はあ。手間かけさせてくれたな、苗字名前」
「ましたくん」
「九条館で大人しく待っておけと言った筈だ。勝手な勘違いで無駄な工数を増やしやがって。この分はきっちり倍にして請求してやるから精々楽しみにしておけ」
「はは。ほんと、真下くんて優しいよね意外と。でもさ」
「言ったはずだ。貴様が飲み込まれたところで、その怪異が止まるかどうかは別問題だと」
「どうかな、止まるんじゃないかな。だってさあ、私がずっと呼んでたんだよ、こいつらを。あの時もそう。きっと私が呪って、殺した。あの人たちも元彼も、きっと皆私が」
「何を支離滅裂な事を言ってる? 呪ったのはお前じゃない。教団の連中だ。貴様の元交際相手の件もそうだ。呪いの真似事をした連中は別にいる。あいつらは自分で選んだ。自分で選んだことの道具として、偶然そこにあった物を利用した」
「ーー、でも私は。願ったんだよ、あの時。それだけは覚えてる。もう全部壊れればいいって」
「はは、ばかばかしいな。ガキ一人のお祈りで大量不審死事件が起きるとでも?」
「そうだよ。真下くんだって気付いてたでしょ。いつからなのかは分からない。でも本当は、私はもうずっと人間じゃなかった」
「はあ、何を勘違いしてる?苗字名前」
「ーー」
「何度も同じことを言わせるな。名前。お前はただの人間だ。怪異でも化け物でもない。ガキだった貴様が何をさせられたとしても、それは自分の意思じゃない」
「ーー、ーー」
「だから今選べ。結局お前はどうしたいんだ? このままそいつに吞まれたいなら好きにしろ。その時はお望み通り俺が殺してやってもいい。だが」
「まだこちら側に留まるつもりがあるなら俺の手を掴め。怪異だか呪いだか知らんが、絶対にそこから引きずり上げてやる」
▽
目が覚めたら、見覚えのある部屋に寝かされていた。真っ白な天井。殺風景なここは、大門クリニックの病室に違いなかった。自分はいつから、どうしてこんなところに寝かされているのか。思い出そうとしたけれど、記憶がぽっかりと抜け落ちている。最後の記憶はそうーー九条館から抜け出した時点の物だ。確かにあの時、私は死ぬことを覚悟していた。だからこそ彼に電話を掛けたのだし、普段言わないようなこっぱずかしい本音すらも曝け出したのだ。……だけど。
それで結局、どうなったんだっけ? 何か重要な事を思い出したような気がする。何か重要な話をしたような気もする。あの時の私は、何かを思い出したのだ。自分と【あいつ】につながる糸を。だから鈴を使ってあれを呼び出した。自分が飲み込まれることで、【あいつ】を止められると思った。つまり、何かしらの確信があった筈なのだ。だけど理由が思い出せない。私は何で、【あれ】を呼んだんだったっけ。
「……あ」
考え込んでどのくらい経ったんだろう。思考に沈む余り、迫りくる不穏な気配に気づくことができなかった。ふと、頭上に影がかかる。それで、色々とややこしい事が起きかけている事を悟る。嗅ぎなれた煙草の香り。ものすごく怒っているような気がするのは多分気のせいじゃないだろう。
「随分と遅いお目覚めだな、苗字名前」
……真下くんは、怒ってるときほど口元が笑顔になるんだな。そんなことはできれば、知りたくなかったけど。私を見る目が座っている。どなりつけるでもない、抑えた口調がかえって恐怖心を煽る。こんなのなら睨みつけられた方が、まだマシというものだった。だけど、じり、と後ずさりしたら壁にぶつかって、どこにも逃げ場がない事を知ってしまう。
「ま、……ましたくん落ち着いて。話せばきっと分かり合えるから」
「? 、可笑しなことを言うな。ご心配いただかなくても俺は落ち着いてるよ」
「絶対嘘じゃん目が恐いよ、アッ大門先生!ねえ聞こえてるんでしょ助けて下さい、病室にヤクザみたいな人が」
苦し紛れに、窓の外を通りすがった大門先生に助けを求めてみた。だけど、生ぬるい目線で微笑まれごく普通にスルーされる。「ハハ。随分と釣れないじゃないか、苗字名前」ひたり、と。頬に冷たい手が触れる。そのままぐい、と視線を引きずり戻されて、無理矢理目を合わされる。
「【オトモダチ】なんだろ俺たちは。だったらここで、ゆっくりと話をしようじゃないか。分かり合えるまでじっくり、たっぷりとな」
眼前に広がる顔のどアップ。最悪だ、相変わらずめちゃくちゃ顔がいい。ここにきてそんなことを考えてしまうのはやはり現実逃避なのだろうか。瞬きをする。目を逸らす。どうにかその手から逃れようと、ほんのり藻掻いてみたりなんかもした。そんな悪あがきを繰り返している間中、昨日までの諸々のやらかしが頭を駆け巡っていた。どこから間違っていたんだろう。無断で九条館から逃げ出した時点か。マンションが燃えた時点か。いっそ、安岡先生に悩み事を相談した時点から間違っていたのかもしれなかった。この人達を巻き込んでしまい終いには命の危険にまで晒して、その上に更に色々な面倒事を持ち込んでしまった。だけど、「危ない目に合わせちゃってごめん」と謝れば「そういう事じゃない」と一蹴され、ほっぺたを思い切りつねられた。痛い。
「それじゃあ、その……えっと、色々とごめん」今度は漠然とした内容で謝罪してみる。蚊の鳴くような声が我ながら情けなかった。御免で済むなら警察はいらないとは、よく言ったものだと思う。実際こんな謝罪では真下くんは満足せず、「へえ。それは具体的に何に対しての謝罪だ。俺の指示を無視したことか。一人で突っ走って死にかけた事か。それとも、一方的に勝手な事ばかり喋り散らかして電話を切ったことか」と追い打ちをかけられた。文字通りぐうの音も出ない。そんな私の顔を見て、彼は楽しそうに目を細める。こういう時の真下くんは心底性格が悪い。誤魔化しも逃げも通用せず、ただ私は本音を引きずり出されてしまう。
「えっと、……あの時電話でお話したことは、その」
「【自分が死ぬより真下くんがいなくなっちゃうことの方がずっと困る】だったか? はは。舐められたもんだよなあ俺も。誰が居なくなるって?」
「うう。それは、あの時は、だって。あくまで私は友人として真下くんの身の安全の心配を」
「ああ、そうだろうよ。何せお前は俺の事が【ずっとずっと大好きだった】んだもんな? 【オトモダチ】にしては随分と熱烈な言いようだが」
「い、一言一句覚えてるの真下くん!?」
「生憎と記憶力がいい物で」
引きずり出される暗黒の記憶達。思えば随分と、随分な事を言ったような気がする。確かに私はずっとずっと、真下くんの事が好きだった。だけどそんな事、あえて伝えようなんて思ったこともない。自分の感情を認めてしまえば、それは執着心に変わってしまう。おかしな期待なんて持ちたくなかった。極論、真下悟がこの世に生きているという時点で満足なのだ。そもそもいつ切れてもおかしくない程度の関係だった。たまに一緒にご飯を食べてくれて、名前を呼んでもらえれば十分すぎるくらいの。別にそれ以上なんて求めてない。だけど、死に際くらい素直になってもいいよね。そう思って吐いた本音が、今になって私を苦しめる。
……私達ってそういうのじゃないよね、などと涼しい顔をして嘯いておいて、今更どの口が好きだとかなんだとか言えるだろう。心臓の音がうるさい。じわじわと顔が熱くなっていくのが分かった。「だから、その」妙に耳鳴りがする。真下くんが手を放してくれないせいで、茹蛸みたいになった顔を隠すことも出来ない。「……だから。あの時はもう最後かもしれないなって思ってそれで」そのままうろうろと視線をさまよわせる。だけど向こうは、許してくれる気配はなさそうだ。名前、と名前を呼ばれたら、もう逃げられそうもなかった。いつも不機嫌そうな灰色の瞳。「俺は」その唇がため息を吐く。
「……死なせたくなかったよ、お前の事を」
「それは、うん。そうだよね、ありがとう。心配かけてごめん」
「ああ全くだ、心底うんざりしてるよ。お前にも、こうまでお前に執着してる俺自身にも。冷静さを欠いて判断を誤った。馬鹿が馬鹿な事を考えて馬鹿をやらかすことくらい、簡単に予想がついて然るべきだった筈なのにな」
「ねえ、真下くんって悪口の時だけすごい舌回るよね? 何で?」
「貴様、それは自分の立場を分かって言ってるのか?」
「すみませんでした」
ふん、と、頭上からすねたようなため息が落ちる。すり、と指先が頬を撫でる。その仕草が妙に甘やかで、だから、ほんの少しだけ居心地が悪かった。真下くんとは色々と大っぴらには言えない事をしてきた訳なのだけど、それでもあくまで、私たちはお友達だったはずなのだ。だからこういうのには慣れていない。こういう空気にも慣れていないのだ。こういうのってどういうのかとか、聞かれても困ってしまうのだけど。
「あの、とりあえず離れて貰っても良いですか」
「断る」
「で、でも私たちそういうのじゃ」
「言ってろ。少なくとも俺はもうお前の望む通りにしてやるつもりはない。それに、お前は何か勘違いをしているようだが」
「な、……何この空気、怖いよ」
あれ、本当に何だこの流れ。真下くんは表情一つ動かさない。そのせいで、今彼が何を考えているのかが全く読めなかった。でも次の言葉を聞いた瞬間、時間が停止したような気がした。
「あの時だって俺は、お前とは普通に交際をしてるつもりだった」
……は?
全身の血が逆流しているような気がした。真下くん何言ってるの。聞き返したら一言一句、全く同じ同じトーンで言葉を復唱された。交際って何。彼女とか彼氏とかそういうやつ? 聞いてないよそんなの。それっていつからの話? ソースどこ? 何時何分何秒地球が何回回った時? 震える声でまくし立てていたら心底うるさそうに舌打ちをされる。爆弾を落としてきたのはそっちなのに、このふてぶてしい態度ときたら一体何なのか。
「……お前から言い出したことだが、まあ覚えてないだろうな。あの時お前は強かに酔っていた。酔っぱらいの戯言を真に受けたこっちが馬鹿だったよ」
「えっ、あっ、あのとき、……嘘、えっ?」
「そもそも手酷い方法で連絡を絶ったのは俺の方だ。だから、以前の事を今更とやかく言ってやるつもりもないが」
「ま、待って待って噓でしょ!?」
「まあ、忘れてくれてもいい。今更証明する手段もない」
「いや待ってよだって、……アレをお付き合いって言っちゃうのは真下くんがおかしいでしょ!?私たちやる事やってるだけでとくにイチャイチャしてたわけでは」
「お互い様だろ。お前だって度々言ってただろうが。【あんまり甘やかされると困る】とか何とか」
「それは、うん、……言ったね。言ったと思う。言ったけどだってそれは」
「それは、何だ? 言ってみろよ」と促され泣きたくなった。自白を強要される犯人ってこんな心境なんじゃないだろうか。今まで必死に取り繕っていた何もかもが、今此処で引きずりだされようとしている。こんなはずじゃなかった。どこで間違えた。考えたって答えは出なかった。圧の強い視線に促されて言葉を探す。勘弁して。そんなお願いは聞いてもらえる訳もない。「それはさ、だって。……、真下くんが居ることに慣れちゃったら困るでしょ。一人の時に寂しくなる」沈黙がいたたまれなかった。なんだこの時間は。そしてなんだこの会話は。もっといろいろ話す事あるでしょ真下くん。涙目で睨みつけてみたけど全く効果は見られない。「へえ。意外とあっさり口を割るじゃないか、苗字名前」心底面白そうな声が何とも癇に障った。性格悪いよ真下くん。だけど、そんな軽口をたたく勇気はもう私にはない。
「いやあの……、この話もうやめよ、終わった事を言ったって碌な事にならないよ」
「珍しく気が合うな。そうだな、非効率な真似はやめて単刀直入に話そう」
「えっ何か近くない? ちょっと待って真下くん」
「はは、それこそ今更だろう。今回の件で俺はつくづく思い知ったよ。中途半端な真似をするからこういう羽目になるんだ。自分の感情に蓋をすると碌なことがない」
「何なに何の話、うわあ待って近い無理顔が良い」
「……、面白い声出すなお前。常識で考えろ。この状況で男が待つと思うのか?」
「なっ、まし、真下くんってそういう感じだったっけ!? 絶対面白がってるでしょ、前々から思ってたけどそういうとこ性格がすごく悪いよ」
「はは、そうだな可哀そうに。しかもよりによって貴様は、その性格の悪い男を【ずっとずっと大好きだった】んだもんなぁ?」
顔が熱い。何なら耳まで熱い。子供をあやすみたいにおでこに口づけられて、口からは珍妙な声が漏れる(そして鼻で笑われた)。
「ま、真下くんは、だって、」
「はあ、やかましいな。まだ何かあるのか」
「真下くんは別に私の事を好きなわけじゃ」
「好きだよ」
「……は?」
「俺はお前を好いていたよ、残念な事に随分と前からな。愛していると言ってやったって良い」
「そ、そんな、……、うそ、何か悪いモノでも食べたの真下くん!?」
「はあ。我ながら女の趣味が悪いとは思ってるよ」
「さ、さっきからちょいちょい失礼なんだよなあ」
「お前がそれを言うのか? ……まあいい、状況を整理しようか。つまりお前は死ぬほど俺が好きで、俺は胸糞悪くなるほどお前の事を愛している。だから貴様の希望する【オトモダチ】としての関係は却下だ。お前の事は交際相手として、今後それなりの扱いをしてやるから精々楽しみにするんだな。それで、他に何の問題がある?」
「問題は、えっと、問題は、わあ待ってほんとに待ッ……むぐ」
最後の悲鳴はキスでかき消された。久々の苦い煙草の味。半年ちょいぶりの口づけはたっぷり三分くらい続いて、その間に言おうと思っていたことが全部頭から抜けてしまった。で、結局、何で私達こんなことになっちゃったんだっけ? 呟いた声には、「さあな」と投げやりな答えが返される。本当はこんな話をしている場合ではないのだ、多分。色々と大変な事があったはずなのだ。私は何か重要な事を思い出したし、何か重要な会話をした気がする。
だけど真下くんは面倒そうな顔で、「忘れたままにしておけよ。どうせ思い出したって何の役にも立たん」と言うばかりで、結局何も教えてはくれなかった。九条館を抜けた後一体何があったのか。もしかしたらもう一生、そのことは思い出せないのかもしれなかった。だけどまあ、それはそれで良いのかもしれない。真下くんの隣は相変わらず空気がきれいだし、彼が名前を呼んでくれれば、私はもう自分の形を忘れないでいられるのかもしれないから。
……その後。お見舞いに来た八敷さんからはたっぷりと生易しい視線を浴び、大門先生からはもっとストレートに「僕としても君の幸せは喜ばしいがね、真下君。いちゃつくなら彼女が退院してからにしたらどうだい」などとくぎを刺された(真下くんはもはや開き直ったのか、ふん、と鼻で笑っただけだったけど)。私はなんと、大門クリニックで二日も眠っていたらしい。退院してみたら連休はすっかり終わっていて、無断欠勤を重ねた職場は首になっていた。しかも住んでたマンションも跡形もなく燃えている。
つまり真下くんのお家に転がり込む形で、なし崩しの同棲生活が始まってしまったのだった。絶対にこんなはずではなかった。なのに、どうしてこんなことになった。何度も考えたことを、今でも繰り返し自問自答している。思えば年明けからずっと、私はついていなかったのだ。
マンションの一室だったはずのその空間は、無残にも焼けただれて異臭が漂っている。焦げ臭い、饐えた、甘ったるい。先ほど廃墟で感じたのと同じ臭気。その中心にいる何かは、最早人の形など保っては居なかった。どろどろと形を変える、大きな淀みの塊。だが真下は躊躇ない足取りで【それ】に近づいていく。声にならない音階。あの男にはそれが声に聞こえるのだろうか? 八敷は考える。狂っているのはーー取り込まれているのは、俺かあいつか、どちらの方なのか。
「……はあ。手間かけさせてくれたな、苗字名前」
「ーー■■■」
ふと影が揺らいだ気がした。ましたくん。そう聞こえたのは空耳かもしれなかった。影。膨大な死の記憶。それらに飲み込まれた苗字名前は、まだ人間としての意識を保っているのだろうか。ここから彼女を引きずり出して、……それで終わりに出来るなら良いが。仮に苗字名前が助かったとしても。彼女を媒介とした呪いが、本人の意思だけで制御できる物なのかも分からない。おとぎ話じゃあるまいし、まさか真下だけには呪いが効力を発しないなどということもないだろう。彼女が完全に自我を失っているのなら最悪だ。その時は力づくでも根源を壊すしかない。
呪いの媒介はただの人間だ。呪い自体を消滅させられないのなら、彼女を殺してしまえばいい。それは至極単純な結論だった。だがそうなった場合、真下は苗字名前を殺せるだろうか。それが失敗した場合、俺はこいつを見捨てられるのだろうか。……先ほど言われた言葉通りに? そこまで考えてから、笑いがこみ上げてくる。まるで普段とは逆になったような役回りだ。引き際を考えろ。貴様はどうにも、あいつらに同情心を持ちすぎる。そんな風に自分を叱るのは寧ろあの男の役目のはずなのだが。
……それも偶には悪くないよな。妙に落ち着いている脳内で、八敷一男は独り言ちる。精々最後までつきあってやるよ。元々俺は、他人の面倒事に手を貸すのだって嫌いじゃないんだ。それに、面白い物も沢山見られたしな。このふてぶてしい男を揶揄うネタができたのも、実は結構ありがたい。だからまあ、今回の一件は貸しと言うことにしておいてやろう。もし無事に一連のごたごたが終わったら、その時は酒でも奢ってもらえば良い。
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「……はあ。手間かけさせてくれたな、苗字名前」
「ましたくん」
「九条館で大人しく待っておけと言った筈だ。勝手な勘違いで無駄な工数を増やしやがって。この分はきっちり倍にして請求してやるから精々楽しみにしておけ」
「はは。ほんと、真下くんて優しいよね意外と。でもさ」
「言ったはずだ。貴様が飲み込まれたところで、その怪異が止まるかどうかは別問題だと」
「どうかな、止まるんじゃないかな。だってさあ、私がずっと呼んでたんだよ、こいつらを。あの時もそう。きっと私が呪って、殺した。あの人たちも元彼も、きっと皆私が」
「何を支離滅裂な事を言ってる? 呪ったのはお前じゃない。教団の連中だ。貴様の元交際相手の件もそうだ。呪いの真似事をした連中は別にいる。あいつらは自分で選んだ。自分で選んだことの道具として、偶然そこにあった物を利用した」
「ーー、でも私は。願ったんだよ、あの時。それだけは覚えてる。もう全部壊れればいいって」
「はは、ばかばかしいな。ガキ一人のお祈りで大量不審死事件が起きるとでも?」
「そうだよ。真下くんだって気付いてたでしょ。いつからなのかは分からない。でも本当は、私はもうずっと人間じゃなかった」
「はあ、何を勘違いしてる?苗字名前」
「ーー」
「何度も同じことを言わせるな。名前。お前はただの人間だ。怪異でも化け物でもない。ガキだった貴様が何をさせられたとしても、それは自分の意思じゃない」
「ーー、ーー」
「だから今選べ。結局お前はどうしたいんだ? このままそいつに吞まれたいなら好きにしろ。その時はお望み通り俺が殺してやってもいい。だが」
「まだこちら側に留まるつもりがあるなら俺の手を掴め。怪異だか呪いだか知らんが、絶対にそこから引きずり上げてやる」
▽
目が覚めたら、見覚えのある部屋に寝かされていた。真っ白な天井。殺風景なここは、大門クリニックの病室に違いなかった。自分はいつから、どうしてこんなところに寝かされているのか。思い出そうとしたけれど、記憶がぽっかりと抜け落ちている。最後の記憶はそうーー九条館から抜け出した時点の物だ。確かにあの時、私は死ぬことを覚悟していた。だからこそ彼に電話を掛けたのだし、普段言わないようなこっぱずかしい本音すらも曝け出したのだ。……だけど。
それで結局、どうなったんだっけ? 何か重要な事を思い出したような気がする。何か重要な話をしたような気もする。あの時の私は、何かを思い出したのだ。自分と【あいつ】につながる糸を。だから鈴を使ってあれを呼び出した。自分が飲み込まれることで、【あいつ】を止められると思った。つまり、何かしらの確信があった筈なのだ。だけど理由が思い出せない。私は何で、【あれ】を呼んだんだったっけ。
「……あ」
考え込んでどのくらい経ったんだろう。思考に沈む余り、迫りくる不穏な気配に気づくことができなかった。ふと、頭上に影がかかる。それで、色々とややこしい事が起きかけている事を悟る。嗅ぎなれた煙草の香り。ものすごく怒っているような気がするのは多分気のせいじゃないだろう。
「随分と遅いお目覚めだな、苗字名前」
……真下くんは、怒ってるときほど口元が笑顔になるんだな。そんなことはできれば、知りたくなかったけど。私を見る目が座っている。どなりつけるでもない、抑えた口調がかえって恐怖心を煽る。こんなのなら睨みつけられた方が、まだマシというものだった。だけど、じり、と後ずさりしたら壁にぶつかって、どこにも逃げ場がない事を知ってしまう。
「ま、……ましたくん落ち着いて。話せばきっと分かり合えるから」
「? 、可笑しなことを言うな。ご心配いただかなくても俺は落ち着いてるよ」
「絶対嘘じゃん目が恐いよ、アッ大門先生!ねえ聞こえてるんでしょ助けて下さい、病室にヤクザみたいな人が」
苦し紛れに、窓の外を通りすがった大門先生に助けを求めてみた。だけど、生ぬるい目線で微笑まれごく普通にスルーされる。「ハハ。随分と釣れないじゃないか、苗字名前」ひたり、と。頬に冷たい手が触れる。そのままぐい、と視線を引きずり戻されて、無理矢理目を合わされる。
「【オトモダチ】なんだろ俺たちは。だったらここで、ゆっくりと話をしようじゃないか。分かり合えるまでじっくり、たっぷりとな」
眼前に広がる顔のどアップ。最悪だ、相変わらずめちゃくちゃ顔がいい。ここにきてそんなことを考えてしまうのはやはり現実逃避なのだろうか。瞬きをする。目を逸らす。どうにかその手から逃れようと、ほんのり藻掻いてみたりなんかもした。そんな悪あがきを繰り返している間中、昨日までの諸々のやらかしが頭を駆け巡っていた。どこから間違っていたんだろう。無断で九条館から逃げ出した時点か。マンションが燃えた時点か。いっそ、安岡先生に悩み事を相談した時点から間違っていたのかもしれなかった。この人達を巻き込んでしまい終いには命の危険にまで晒して、その上に更に色々な面倒事を持ち込んでしまった。だけど、「危ない目に合わせちゃってごめん」と謝れば「そういう事じゃない」と一蹴され、ほっぺたを思い切りつねられた。痛い。
「それじゃあ、その……えっと、色々とごめん」今度は漠然とした内容で謝罪してみる。蚊の鳴くような声が我ながら情けなかった。御免で済むなら警察はいらないとは、よく言ったものだと思う。実際こんな謝罪では真下くんは満足せず、「へえ。それは具体的に何に対しての謝罪だ。俺の指示を無視したことか。一人で突っ走って死にかけた事か。それとも、一方的に勝手な事ばかり喋り散らかして電話を切ったことか」と追い打ちをかけられた。文字通りぐうの音も出ない。そんな私の顔を見て、彼は楽しそうに目を細める。こういう時の真下くんは心底性格が悪い。誤魔化しも逃げも通用せず、ただ私は本音を引きずり出されてしまう。
「えっと、……あの時電話でお話したことは、その」
「【自分が死ぬより真下くんがいなくなっちゃうことの方がずっと困る】だったか? はは。舐められたもんだよなあ俺も。誰が居なくなるって?」
「うう。それは、あの時は、だって。あくまで私は友人として真下くんの身の安全の心配を」
「ああ、そうだろうよ。何せお前は俺の事が【ずっとずっと大好きだった】んだもんな? 【オトモダチ】にしては随分と熱烈な言いようだが」
「い、一言一句覚えてるの真下くん!?」
「生憎と記憶力がいい物で」
引きずり出される暗黒の記憶達。思えば随分と、随分な事を言ったような気がする。確かに私はずっとずっと、真下くんの事が好きだった。だけどそんな事、あえて伝えようなんて思ったこともない。自分の感情を認めてしまえば、それは執着心に変わってしまう。おかしな期待なんて持ちたくなかった。極論、真下悟がこの世に生きているという時点で満足なのだ。そもそもいつ切れてもおかしくない程度の関係だった。たまに一緒にご飯を食べてくれて、名前を呼んでもらえれば十分すぎるくらいの。別にそれ以上なんて求めてない。だけど、死に際くらい素直になってもいいよね。そう思って吐いた本音が、今になって私を苦しめる。
……私達ってそういうのじゃないよね、などと涼しい顔をして嘯いておいて、今更どの口が好きだとかなんだとか言えるだろう。心臓の音がうるさい。じわじわと顔が熱くなっていくのが分かった。「だから、その」妙に耳鳴りがする。真下くんが手を放してくれないせいで、茹蛸みたいになった顔を隠すことも出来ない。「……だから。あの時はもう最後かもしれないなって思ってそれで」そのままうろうろと視線をさまよわせる。だけど向こうは、許してくれる気配はなさそうだ。名前、と名前を呼ばれたら、もう逃げられそうもなかった。いつも不機嫌そうな灰色の瞳。「俺は」その唇がため息を吐く。
「……死なせたくなかったよ、お前の事を」
「それは、うん。そうだよね、ありがとう。心配かけてごめん」
「ああ全くだ、心底うんざりしてるよ。お前にも、こうまでお前に執着してる俺自身にも。冷静さを欠いて判断を誤った。馬鹿が馬鹿な事を考えて馬鹿をやらかすことくらい、簡単に予想がついて然るべきだった筈なのにな」
「ねえ、真下くんって悪口の時だけすごい舌回るよね? 何で?」
「貴様、それは自分の立場を分かって言ってるのか?」
「すみませんでした」
ふん、と、頭上からすねたようなため息が落ちる。すり、と指先が頬を撫でる。その仕草が妙に甘やかで、だから、ほんの少しだけ居心地が悪かった。真下くんとは色々と大っぴらには言えない事をしてきた訳なのだけど、それでもあくまで、私たちはお友達だったはずなのだ。だからこういうのには慣れていない。こういう空気にも慣れていないのだ。こういうのってどういうのかとか、聞かれても困ってしまうのだけど。
「あの、とりあえず離れて貰っても良いですか」
「断る」
「で、でも私たちそういうのじゃ」
「言ってろ。少なくとも俺はもうお前の望む通りにしてやるつもりはない。それに、お前は何か勘違いをしているようだが」
「な、……何この空気、怖いよ」
あれ、本当に何だこの流れ。真下くんは表情一つ動かさない。そのせいで、今彼が何を考えているのかが全く読めなかった。でも次の言葉を聞いた瞬間、時間が停止したような気がした。
「あの時だって俺は、お前とは普通に交際をしてるつもりだった」
……は?
全身の血が逆流しているような気がした。真下くん何言ってるの。聞き返したら一言一句、全く同じ同じトーンで言葉を復唱された。交際って何。彼女とか彼氏とかそういうやつ? 聞いてないよそんなの。それっていつからの話? ソースどこ? 何時何分何秒地球が何回回った時? 震える声でまくし立てていたら心底うるさそうに舌打ちをされる。爆弾を落としてきたのはそっちなのに、このふてぶてしい態度ときたら一体何なのか。
「……お前から言い出したことだが、まあ覚えてないだろうな。あの時お前は強かに酔っていた。酔っぱらいの戯言を真に受けたこっちが馬鹿だったよ」
「えっ、あっ、あのとき、……嘘、えっ?」
「そもそも手酷い方法で連絡を絶ったのは俺の方だ。だから、以前の事を今更とやかく言ってやるつもりもないが」
「ま、待って待って噓でしょ!?」
「まあ、忘れてくれてもいい。今更証明する手段もない」
「いや待ってよだって、……アレをお付き合いって言っちゃうのは真下くんがおかしいでしょ!?私たちやる事やってるだけでとくにイチャイチャしてたわけでは」
「お互い様だろ。お前だって度々言ってただろうが。【あんまり甘やかされると困る】とか何とか」
「それは、うん、……言ったね。言ったと思う。言ったけどだってそれは」
「それは、何だ? 言ってみろよ」と促され泣きたくなった。自白を強要される犯人ってこんな心境なんじゃないだろうか。今まで必死に取り繕っていた何もかもが、今此処で引きずりだされようとしている。こんなはずじゃなかった。どこで間違えた。考えたって答えは出なかった。圧の強い視線に促されて言葉を探す。勘弁して。そんなお願いは聞いてもらえる訳もない。「それはさ、だって。……、真下くんが居ることに慣れちゃったら困るでしょ。一人の時に寂しくなる」沈黙がいたたまれなかった。なんだこの時間は。そしてなんだこの会話は。もっといろいろ話す事あるでしょ真下くん。涙目で睨みつけてみたけど全く効果は見られない。「へえ。意外とあっさり口を割るじゃないか、苗字名前」心底面白そうな声が何とも癇に障った。性格悪いよ真下くん。だけど、そんな軽口をたたく勇気はもう私にはない。
「いやあの……、この話もうやめよ、終わった事を言ったって碌な事にならないよ」
「珍しく気が合うな。そうだな、非効率な真似はやめて単刀直入に話そう」
「えっ何か近くない? ちょっと待って真下くん」
「はは、それこそ今更だろう。今回の件で俺はつくづく思い知ったよ。中途半端な真似をするからこういう羽目になるんだ。自分の感情に蓋をすると碌なことがない」
「何なに何の話、うわあ待って近い無理顔が良い」
「……、面白い声出すなお前。常識で考えろ。この状況で男が待つと思うのか?」
「なっ、まし、真下くんってそういう感じだったっけ!? 絶対面白がってるでしょ、前々から思ってたけどそういうとこ性格がすごく悪いよ」
「はは、そうだな可哀そうに。しかもよりによって貴様は、その性格の悪い男を【ずっとずっと大好きだった】んだもんなぁ?」
顔が熱い。何なら耳まで熱い。子供をあやすみたいにおでこに口づけられて、口からは珍妙な声が漏れる(そして鼻で笑われた)。
「ま、真下くんは、だって、」
「はあ、やかましいな。まだ何かあるのか」
「真下くんは別に私の事を好きなわけじゃ」
「好きだよ」
「……は?」
「俺はお前を好いていたよ、残念な事に随分と前からな。愛していると言ってやったって良い」
「そ、そんな、……、うそ、何か悪いモノでも食べたの真下くん!?」
「はあ。我ながら女の趣味が悪いとは思ってるよ」
「さ、さっきからちょいちょい失礼なんだよなあ」
「お前がそれを言うのか? ……まあいい、状況を整理しようか。つまりお前は死ぬほど俺が好きで、俺は胸糞悪くなるほどお前の事を愛している。だから貴様の希望する【オトモダチ】としての関係は却下だ。お前の事は交際相手として、今後それなりの扱いをしてやるから精々楽しみにするんだな。それで、他に何の問題がある?」
「問題は、えっと、問題は、わあ待ってほんとに待ッ……むぐ」
最後の悲鳴はキスでかき消された。久々の苦い煙草の味。半年ちょいぶりの口づけはたっぷり三分くらい続いて、その間に言おうと思っていたことが全部頭から抜けてしまった。で、結局、何で私達こんなことになっちゃったんだっけ? 呟いた声には、「さあな」と投げやりな答えが返される。本当はこんな話をしている場合ではないのだ、多分。色々と大変な事があったはずなのだ。私は何か重要な事を思い出したし、何か重要な会話をした気がする。
だけど真下くんは面倒そうな顔で、「忘れたままにしておけよ。どうせ思い出したって何の役にも立たん」と言うばかりで、結局何も教えてはくれなかった。九条館を抜けた後一体何があったのか。もしかしたらもう一生、そのことは思い出せないのかもしれなかった。だけどまあ、それはそれで良いのかもしれない。真下くんの隣は相変わらず空気がきれいだし、彼が名前を呼んでくれれば、私はもう自分の形を忘れないでいられるのかもしれないから。
……その後。お見舞いに来た八敷さんからはたっぷりと生易しい視線を浴び、大門先生からはもっとストレートに「僕としても君の幸せは喜ばしいがね、真下君。いちゃつくなら彼女が退院してからにしたらどうだい」などとくぎを刺された(真下くんはもはや開き直ったのか、ふん、と鼻で笑っただけだったけど)。私はなんと、大門クリニックで二日も眠っていたらしい。退院してみたら連休はすっかり終わっていて、無断欠勤を重ねた職場は首になっていた。しかも住んでたマンションも跡形もなく燃えている。
つまり真下くんのお家に転がり込む形で、なし崩しの同棲生活が始まってしまったのだった。絶対にこんなはずではなかった。なのに、どうしてこんなことになった。何度も考えたことを、今でも繰り返し自問自答している。思えば年明けからずっと、私はついていなかったのだ。